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マサキはこう前置きした。

『悪い知らせと最悪な知らせがある。どっちから聞きたい?』

鎮痛剤の副作用で感覚を失った。
命の蝋燭はいつ消えてもおかしくないほどに痩せ細っている。
これ以上の不幸が僕には想像できなかった。

「ピィカ、チュウ?」

それで、最悪な知らせというのは?

「ワイは歯に衣着せた物言いが苦手や」

知ってるよ。

「君の末路は、二つ限りや」

マサキは極めて平坦な声で言った。まるでそれが既定事項であるかのように。

「苦しみながらの死か。薬物による安楽死か。
 どちらを選ぶか、その選択権は君にある。
 でも君の死に目を看取るのは、ワイと、君の知らん人間や」

僕は感覚の希薄な体を流れる血液が、沸騰するのを感じた。

「ピィ……」

諧謔を弄するのはよしてくれ、マサキ。
僕には、ヒナタやその他の僕と親しかった人たち、ポケモンたちに別れを告げることも許されないのか?
「すまんなあ」

君にとっては死に損なったポケモンの世迷い言かもしれないが、
僕にとってはあと一度だけでも彼女に会えるかどうかが、何よりも大切な問題なんだ。

「君の気持ちはよう分かるわ」

僕の気持ちが分かる?ふざけるな
ポケモンの言葉を解せたところで、君は所詮、冷徹な研究者だ。
トレーナーとポケモンが、ヒナタと僕が、どれほどの絆で惹かれあっているのか、分かるわけないんだ!

「どうにもできんのや」

マサキは静かに言った。

「ワイを憎んで気が済むんやったら、いくらでも憎んでくれてええよ」
「……ピ、カ」

……取り乱してすまなかった。
「チュウ」

彼の指示、なんだね。

「………」

この場合、沈黙は肯定と同義だよ。

「ははは……君には敵わんなあ。
 隠しててもしゃあないか。そうや、君の想像の通りや」

冷静になれば、答えはすぐに見えてきた。
あの研究施設にいた時。
僕は虜囚の身分でありながら、次々と強化骨格を装備したポケモンの相手を務めさせられた。
その理由を当時マサキは「上層部の指示」だと教えてくれた。
最終被験体、即ちミュウスリーの相手は、やはり僕だった。
アヤは僕の死を予感していた。だから僕を地下牢に移し、代わりになるポケモンを宛おうとしたが、上層部はその我儘を許さなかった。
上層部の決定には、いつも密かな殺意があった。
そして今、僕はその上層部に誰がいるのか知っている。
「実際に下ってきたんは、君になんも教えんと安楽死させろ、っちゅう命令やったんや。
 君に二つ選択肢があんのは、観察目的に君が自然死するまで待つてゴネたからなんやで。
 このことを知ってる研究者が陰で使ってるワイの渾名、何か教えたろか。
 マッドサイエンティストや。中々のネーミングセンスやろ」

マサキは明らかに作りものと分かる笑みを浮かべたあと、僕に背を向けて言った。

「君がワイのことをどう思てるかは知らん。
 けど、ワイは君の旧い友人として、これだけ言うとくわ。
 ――安楽死を拒む道は、想像を絶する辛さやで。
 電気ポケモンにとって放電は生理現象の一つや。
 いくら君が努力したところで、絶縁体は消耗するし、電流が体の内部を傷つけるのは止められへん。
 痛みは加速度的に増して、終いには鎮痛剤も効かんようになる。
 ワイが言いたいのは、それだけや。
 明後日の朝、また来るわ。それまでにどうするか考えといてや」

ドアが閉まる。足音が遠ざかっていく。
夜の帷に包まれ始めた窓の外を眺めながら、僕は考えた。
マサキは、元々一つだった選択肢を二つに分けて与えてくれた。
眠るような安楽死か。苦痛に塗れた自然死か。
医者として、研究者として、一人の友人として。
彼の言葉に嘘はない。
彼が想像を絶する痛みと言うのなら、それは想像を絶する痛みで間違いなく、
結末の死を免れないと言うのなら、僕が死を回避する方法は万に一つもないのだろう。
でも、彼は僕の行動原理を読み間違えている。
僕が選択する時、基準になるのは痛みの度量でもなければ、死との距離でもない。

――再びヒナタに会える可能性が僅かでもあるか、否か。

それだけだ。



カエデが真顔で言った。

「あたし、今なら死んでもいいわ」
「どうしたの?」
「さっき生のシゲルに会って喋っちゃった」

何事かと思えば……。

「信じられる? ねえ、やばくない? これって夢じゃないわよね。
 ああん、やっぱ写真とかTVよりも本物の方が100倍カッコよかったぁ」

あたしははしゃぐカエデを尻目に、いつかエリカさんとレインボーバッジを賭けて戦った広大な庭を見た。
月明かりという心許ない光源に明かりを添えるように、
ぼうっと炎が立ち上がっては、消え、立ち上がっては、消えを繰り返す。

「どっちが勝つと思う?」
「それは、決まってるでしょ」
「いくらタイチくんが強くなってても、お父さんを超えるのは厳しいか。
 ああっ、でも両方応援したいのが辛いところよね」
「幸せな悩みね」

ふとした意識の隙間に、タマムシ大学の敷地を出てからの記憶が滑りこんでくる。
あたしとシゲルおじさまの間には、妙な沈黙が降りていた。
『シゲルおじさまはグレン島で、何をしていたんですか』
『それは皆が揃ってから話すつもりだ』
という短い会話があっただけだった。

「釈放、されたって」
「え?」

現実に帰される。
トーンダウンしたカエデの声は、一瞬別人のもののように聞こえた。

「ママと、タケシさんと、キョウさんと……マチスの四人。
 ヒナタが出かけてる間に、ニュースでやってたの」

あたしは素直に喜べなかった。
客観的な視点から見れば、あの事件の悪者は元ロケット団の首領サカキと、それに協力したアヤメおばさんたちで、
こんなに早く、それも四人同時に解放されたのには、何かそれに見合うだけの理由があるはずだった。

「あの人が、全ての罪を被ったんだって。
 ママたちは自分のエスパーポケモンに操られていただけで、直接的な責任能力はないって、証言したらしいの」

「あの人って……サカキ?」
「そ。あのおじいさんが全ての責任を負って、この事件は終局に向かうんだって。
 これニュースの受け売りね」

サカキと呼び捨てにしたり、おじいさんという代名詞を使ってみたり。
あの夜、シルフカンパニーの屋上にいた杖突の男が、
ここ十数年間行方をくらましていた元ロケット団の首領だったと後から知らされても、改めて畏怖を感じたり、印象が変わったりすることはなかった。
それは実感が伴っていないから、じゃなくて、アヤメおばさんたちがサカキに協力していた、という揺るがない事実があるからだと思う。
何も知らない人たちが、ニュースを鵜呑みにしてサカキを凶悪犯に祭り上げても、
あの場にいたあたしたちは、サカキと、サカキに協力したアヤメおばさんたちが正しいことをしていたのだと信じている。
でも、それは同時に、サカキと対峙していたお父さんが悪だと認めることでもあって――。

「ヒナタ? もう、またぼーっとしてる。折角ママが自由になれたんだから、もっと喜びなさいよ」
「う、うん」
「……何か、気になることでもあるわけ?
 ヒナタは馬鹿なんだから、わかんないことがあればいつでもこの聡明なあたしに聞けばいいのよ」

戯けた口調とは裏腹に、カエデの瞳は真剣で、

「サカキがアヤメおばさんたちを操っていたっていうのは、嘘よね?」

あたしは本当に言いたかったこととは、別の言葉を声にした。
カエデは何故だか寂しそうに何度か瞬きして、

「口裏合わせでしょ」

未だ続いているポケモンバトルを眺めながら言った。

「もし失敗して捕まえられたらあの人一人が犠牲になるように、最初から決めてあったのよ」
「それで警察が納得したのかしら」
「あたしたちはママたちが動き出したとき会場にいなかったから知らなかったけど、
 他の参加者の話を聞く限り、ママたちは会場では一言も喋らずに、まるで人形みたいにサカキの命令に従ってたんだって。
 これでサカキがさっき言ったみたいに自白して、ママたちがその通りです、って言ったら、信じるしかないでしょ。
 それにね、多分警察はサカキ一人でお腹いっぱいだと思う。
 昔に数え切れないくらいの悪事を働いて、なのに今まで一度も尻尾を掴ませたことがなくて、
 そんな大物を現行犯で捕まえることができただけでも、警察にすれば御の字なのよ」
でもサカキは悔しいでしょうねー、とカエデは続けた。

「捕まったことが?」

あの人は理由がどうであれ、これまでにたくさんの罪を犯してきた。
あの夜だけでも、何人もの警備員に怪我を負わせて、管理者と呼ばれていた紳士を、ポケモンに"殺させた"。
生きているうちに刑期を終えることができるとは思えない。
あたしがそう言うとカエデはあの光景を思い出したのか、表情を強張らせて、

「違う違う、そういう意味じゃないってば。
 ママたちを助けるために、裏切りものまで一緒に助けなくちゃならない、って話よ。
 マチスは操ってませんでした、なのでマチスだけは自分と一緒に服役させてください、なんて言い分が通るわけないでしょ」

警察はシステムと完全に癒着しているわけではありませんのよ、とエリカさんが言っていたことを思い出す。
カエデおばさんやタケシさん、キョウさんに責任能力がない被害者だと言い張るなら、当然そこにはマチスも含まれていなければならない。
警察はサカキとシステムの関係を知っているわけでもなければ、あの夜、マチスがサカキを裏切った事実を知っているわけでもない。
そもそも、こうして事件を振り返っているあたしにしても、
知らないことが多すぎて、整理ができていない状態だった。
ピカチュウを拐かした組織、すなわちシステムの全容。
管理者の役割。殺された偽の管理者。本物の管理者の居場所。
サカキが余生を賭してシステムに噛み付いた理由。
そして、アヤと一緒に空の彼方に消えた、お父さんの目的。
分からないことが多すぎる。
エリカさんは「いずれ皆さんが揃った時に」と言って、あたしの質問を保留にした。

「アヤメおばさんたちがここに到着するのはいつ?」
「今夜ヤマブキを出発したとしても、着くのは早くても明日の朝ね――あ、終わったみたい!」

屋外灯の仄かな灯りが、二人の輪郭を浮かびあがらせる。
シゲルおじさまがニヤニヤ笑って、消沈したタイチの頭をクシャクシャにしていた。

「お疲れ様ですっ」

寒風吹きすさぶ冬空の下、マフラーを口元まで上げて恥ずかしげに熱いお茶入りの水筒を差し出すカエデは、
普段からは想像できない純情な女の子そのもので、けれど相手は既婚子持ちと最強クラスの鈍感だった。

「俺はシャワー浴びてくるから、二人はコイツを慰めてやっててくれ」

シゲルおじさまは爽やかにそう言って屋内に入り、

「カエデ、これ、お茶か?」
「寒いと思って熱いのにしたんだけど……」
「すまん、遠慮しとく」

この寒い中、汗だくで息を切らしたタイチはカエデの思い遣りを二言で拒絶した。

「つ、冷たいの入れてくるね」

屋内に消えるカエデ。

「タイチの馬鹿」
「あー、マジで暑い。ったく、あの糞親父、息子相手にやりすぎたっつうの……なんか言ったか?」
「最低、って言ったのよ」
「な、なんで俺がヒナタにそんなこと言われなきゃならねえんだよ」

あたしは無言で縁側に腰を下ろした。
タイチがそれに続く。本当に暑いのか、タイチの息は外気に触れた傍から真っ白に染まっていった。
「負けたの?」
「お前、慰める気ねえだろ。
 まあ、慰められたら慰められたで情けねえんだけどさ」

タイチは後ろに両手を突いて、夜空を見上げながら、

「負けたよ。良い線いけるかと思ったけど、やっぱ親父は強え」

自分に潔いところは格好いいのに……。
あたしの嘆息も知らずに、タイチは顔を綻ばせて、

「でも、手応えはあったよ。
 こんなに持ったのは初めてだ。ガキの頃から模擬戦はいつも瞬殺だった」
「昔から手加減してもらえなかったの?」
「ああ、一度もなかった。でも、それを理不尽に思ったり、不満に思ったりしたことはないんだ。
 全力で潰しに来るってことは、対等に扱ってくれてる、ってことと一緒だからな」
「ふうん……」

あたしは夏ばてした柴犬みたいに舌を出しているタイチを見て言った。

「ところで、タイチはどうしてこんなに汗かいてるの? 戦うのはポケモンなのに」
「ああ、これは……今日のはちょっと特別だったんだ」
「特別って?」
「公式なポケモンバトル以外で、ポケモンを使うとき……つまり、トレーナーも危険な目に合うかもしれない状況を想定して、戦ったんだよ」

軽い調子でそんなことを言うタイチ。

「け、怪我は!?」

シゲルおじさまの持つウィンディが脳裡に浮かんで、
あたしは無意識に、タイチがカントー発電所で火傷を負った方の腕に触れていた。

「な、ないって。流石にフリだけだ。
 でもま、親父もそこらへんはプロだからな、常にギリギリのところ狙ってきて、
 おかげであのだだっ広いフィールドをバクフーンと一緒になって走り回るハメになっちまった。
 俺もちょこちょこ反撃したんだが、親父は全然動いてる感じしねえのに、掠りもしないんだよな」
「……そう……よかった……」

手を引っ込める。
「ヒナタと一緒に旅をして、システムの奴らと戦って、分かったことがあるんだ。
 トレーナーに攻撃しちゃいけない、っていうのは所詮、トレーナー同士のモラルの問題なんだ。
 片方にモラルが欠けていたら、たとえもう片方が善良なトレーナーでも、
 バトルはトレーナーへの攻撃を暗に認めたものになる。やらなきゃやられるからな」

あたしはシルフカンパニーで浴びせかけられた、スキンヘッドの辛辣な言葉の雨を思い出した。
一緒に、エビワラーに殴られて、苦しそうに呻いていたタイチも思い出して身震いする。

「トレーナーを攻撃することを前提にした戦い方と、
 純粋にポケモン同士を戦わせる戦い方では、勝手が全然違う。
 街のゴロツキトレーナーくらいなら普通のトレーナーでも適当にあしらえるかもしれないが、
 相手がシステムくらいのレベルになると、モタモタしてる間にやられてジエンドだ。
 だから、普段からそういう異常なポケモンバトルに対応できるよう、訓練しとかなくちゃいけないわけだ。
 ……以上、親父の受け売りでした」

タイチが乾いた声で笑ったけど、あたしはちっとも笑えなかった。
相手トレーナーがポケモンで防御するのとを見越して攻撃することと、
相手トレーナーの負傷を確信した上で攻撃すること。
相手トレーナーを氷漬けにしたり麻痺させたりして無力化することと、
相手トレーナーの肉体を破壊するような攻撃を加えて再起不能にすること。
それぞれの前者と後者には雲泥の違いがある。

一線を越えるのは簡単で、あたしはただトレーナーを攻撃しろ、と命令するだけでいい。
事実、これまでにもあたしはポケモンバトルに我を忘れる中で、間接的にではあるにせよ、相手トレーナーを攻撃したことがある。
でも、意識的に、意図的に、そうした戦い方をすることには、強い嫌悪感を覚える。
こういう中途半端な覚悟しか持てない自分が嫌だった。

「それでいいんじゃないのか」

まるであたしの心を読んだかのようなタイチの言葉に、驚きを隠せない。

「それでいいって、何が?」
「お前、システムの奴らみたいな戦い方するのが嫌なんだろ。
 割り切れなかったら、別にそれでいいじゃねえか」
「わ、わかったようなこと、」

言わないで。そう言うよりも先に、

「ヒナタがそういう戦い方はしたくない、っていうなら、俺が代わりに戦ってやるからさ。
 お前はほら、他に考えることあるだろ」

他に、考えること――お父さんのこと、ピカチュウのこと。

「………」
「おいおい、なに絶句してんだよ?」
「……ううん」
「じゃあなんで突っ込まないんだよ。タイチじゃ頼りにならない、とかさ」
「……違うの……あたし、タイチのことは頼りにしてる」
「そ、そうか」
「……あたしね、最近夢を見るのよ」
「夢?」

そう。とても、とても悪い夢を。
喉から零れかけた言葉を飲み込む。
視線を感じてその方向を見てみれば、ぎゅっと水の入ったコップを握りしめているカエデがいて。

「あたし、行くから」

立ち上がる。通りすがり際、

「頑張ってね、カエデ」

と言って、

「ちょっ、ヒナタ! 待ちなさいよ!」

無視して歩を進めた。曲がり角で振り向くと、あたしが坐っていたところにはカエデが収まっていた。
思い詰めた表情。――告白するのかしら。
従姉の片思いが報われることを祈って、あたしは寝室として宛がわれた客間に向かった。



体に繋がれたチューブを取り外していく。
一本抜くごとに薬液がベッドのシーツに染みを作り、僕の皮膚には血が滲んだ。
鈍麻している神経は痛みを訴えない。
鎮痛剤が血液から抜けるまでは、身体の異常を目で確認しなければならない。
そう思うと気が滅入った。
ベッドから降りる。
着地はスムースだった。身体能力に問題はないようだ。
ただ、自分を三人称視点で動かしているように感覚ふわふわしていた。
地に足が着いていないのだ。精神的に。
モニターの中のバイタルサインは異常数値を示していた。
誰かが異常に気付くよりも早く、脱走しなければならない。
外から施錠されていることを予測しつつ、背伸びしてドアノブを捻る。

「ピィ?」

予測は外れて、

「そんな体でどこ行く気や。まったく、君の行動力には驚かされるわ」

ドアは開かなかった。柔らかい重みが僕の力を相殺している。
マサキが外側から凭れるようにしてドアを塞いでいることに気付くまで、数秒とかからなかった。

「ワイの知る限り、君は先の無い賭けはせえへんポケモンやったはずや。
 ここにはシステムの手練れも配備されとるし、仮に一時的に追っ手を撒けたとしても、そっからどうするつもりや。
 君の行き先は分かってる。お屋敷までの道程が穏便にすまんことは考えんでもわかることやろ」

その通りだ。異論はないよ。

「もし奇跡的な確率で脱走が成功してあの子に会えたとしても、その幸せは長くは続かへん。
 脱走するっちゅうことは、安楽死の選択肢を捨てて、自然死を受け入れるってことや。
 それがどれだけ惨い死に方かは、今朝しっかり教えたはずやで」

ああ、丁寧な説明だったね。
それじゃあそろそろ、そこをどけてもらえないかな。
そのままだと僕は君をドアごと吹き飛ばしてしまうことになる。

「ピカチュウ。何がそこまで君を駆り立てるんや。
 君は十分生きた。君の遺体はきちんと綺麗にしてあの子のところに持っていったる。
 君が最後まであの子のことを思ってたことも伝える。
 君の訃報はあの子を不幸のどん底に突き落とすかもしれん、でも、ありったけの時間をかければ、心の傷は癒える。
 あの子もいつか大人になる。なあ、考えてみ。
 ここで君が短い間あの子と一緒に過ごせたとしても、あの子は君の惨い臨終を看取ることで、余計に傷を負うことになるねんで。
 場合によったらあの子は立ち直れんと、ポケモントレーナーをやめる可能性もある」
「チュウ」

大切な人と約束したんだ。
あなたの娘を――ヒナタを護る、って。
「たったそれだけのために、脱走するんか」

そうだよ。僕が約束を破ったことがカスミに知れたら、
僕の頬が彼女の手によって、千切れる寸前まで弄られることは想像に難くないからね。

「分かった。よう、分かったわ」

深く溜息のあとに、長い沈黙が紡がれる。
薄い板を隔てた向こう側で、マサキが動く気配があった。
ドアが内側に開かれる。
奔放に伸びた白髪は、上手い具合にマサキの目を覆い、同時に表情も隠していた。

「ピィ?」
「……………」

考えが読めない。
全力で僕の脱走の邪魔をする気なのか。
それともドアの修理費を浮かすために、わざわざ開扉してくれたのか。
マサキが前髪を掻き上げる。
双眸には諦観と、悪戯を企んだ子供のように澄んだ光が同居していた。
彼は目線を僕に合わせて言った。

「ワイの負けや、ピカチュウ。君の脱走に手、貸したるわ」
マサキ……。
僕を試していたのか。

「バレてたんか?
 ワイもちょっと演技が臭すぎる思てんけど、中々真に迫っとったやろ」

いや、分からなかったよ。台詞に諄さは感じたけどね。

「散々君に諦めさすようなこと言うて、それでも諦めんかったら、こうしようて決めてたんや。
 残念やけど、君の容態と余命、上からの指示等々、説明したことは紛れもない真実やねん。
 正直、今でも君とあの子にとって、一番良いのは君の安楽死やと思ってる。
 でも、それで君やあの子が納得できんのやったら、所詮、ワイの気持ちは下衆の勘繰りと一緒やねんな。
 それがよう分かったわ。もうワイは君の選択に口出しせえへん」

君は僕の脱走に手を貸すと言ったけど、具体的にはどんな風に手を貸してくれるんだい?

「なあに、単純明快や。君がボールに入る。
 ワイがそれを持ってエリカさんのお屋敷まで届けにいく」

冗談はよしてくれ、と僕は横に首を振った。
それでは君が僕の脱走に荷担したと大声で吹聴しているようなものじゃないか。
君のシステムでの立場が損なわれてしまう。

「だから、それでええねん」

なんだって?

「ワイはシステムに属してから、本当の意味でのポケモン研究が出来るようなったと思ってた。
 惨い実験強いられても、ポケモンと人間の共生社会のために、って言葉を免罪符に、あるいは好奇心に溺れて、実行に移してきた。
 犠牲になったポケモンが十本の指で数えられんようなってからは、感覚が麻痺した。
 でも、あの研究所で君に再会して、君が死ぬの分かってたのにグレン島に逃げて、またここで君に会って、君の生に対する執着を見て――。
 ワイはこれまで絶対やったシステムに疑問を持つようになった。
 これまでに死なせたポケモン一匹一匹に罪悪感持つようになった。
 昔、田舎のちっさい研究所で、ひっそり研究してた頃のこと思い出した。本当の意味で充実してた頃の記憶や。
 君の脱出に手を貸すことが、すべての罪滅ぼしになるとは思ってない。
 けど、少なくとも今生きてる君への、謝罪と恩返しにはなると思ってる」

君はシステムの情報を知りすぎている。
無事僕をエリカの屋敷に送り届けることができたとしても、
口封じを目的とした刺客が放たれるのは必至だぞ。
「ほとぼりが冷めるまであのお屋敷に匿ってもらうつもりや」

とマサキは楽観的な調子で言った。

「ワイの頭の中にはシステムの情報が詰まってる。
 まさか君だけ受け取ってワイだけ敷地外に放り出すようなことはせえへんやろ」
「ピィ、ピィカチュ」

システムは執念深い。
それは君が一番よく知っているだろう。
忘れた頃に襲われる可能性は十分にある。
君はその時、どうやって身の安全を確保するつもりなんだ。

「命乞いでもしてみるわ」

まったく、マサキ、僕は真剣な話をしているんだぞ。

「すまんすまん。でもなあ、ピカチュウ、君はワイのことなんか心配せんでええんや。
 この時代、個人を特定するんは顔や声みたいな有機的な情報やない。情報や」

肩書きを捨てる、あるいは書き換える――。
つまり別人として一からやり直すと?

「そういうことや。どっかの片田舎で細々ポケモンの研究する老後も悪くないやろ」

僕の記憶が正しければ、研究施設にいた頃、君は自分を「過去の功績を捨てられん我儘な人間」と評していたはずだが……。
マサキは僕の頬に手を添えて言った。

「心境の変化、っちゅうやつや。
 君もカワイイなりして男なんやから、細かいことグチグチ言わん方がええで」

冗談を言った後に相応しいマサキの愉快げな表情に、陰が差す。
頬に幽かな違和感を感じる。そこでやっとマサキに頬を"抓られている"ことに気がついた。
マサキの表情が沈んだ理由は、僕が正常な反応を返せなかったからだ。
睡眠薬を飲まされた神経は、生理的な放電の痛みと、それ以外の感覚までも忘れて眠っている。

「明日の晩……明日の晩に、君を迎えに来るわ」

マサキは僕を抱えて、ベッドの上に戻しながら、

「脱走のロジックは単純でも、準備には時間がそれなりの時間がいる。
 君が少しでも楽に過ごせるよう、薬もちょろまかしとかんなあかんからな。
 今夜は眠って、体力を温存しとき」

了解だよ。
マサキが手際よくチューブを繋ぎ直し、やがてモニターが正常なバイタルサインを表示する。
その緑色の瞬きを眺めていると、眠気が目蓋を押し下げ始めた。
微睡みのなか、僕はマサキが脱走を留めるために体の良い作り話をした可能性に思い当たって――そのまま何もできずに、深みにはまっていった。



立ち籠めた厚い雲からは、今にも雨粒が落ちてきそうだった。

「驟雨であればよいが……」

エリカさんのお父さんがタマムシの空を見上げて言った。
朝からそわそわと落ち着きのなかったカエデも、不安そうにぎゅっと唇を結んで黙っている。
皆が、カエデおばさんたちが無事に到着することを祈っいるようだった。
なのに、あたしの頭の中は乱れている。

あの夜、シルフカンパニーの屋上にいた人たち。
あたしがお父さんを求めて、挙げ句捨てられた一部始終を見ていた人たち。

何を言われるのかは分かっていた。
そしてその言葉を聞くのが、あたしは堪らなく嫌だった。

「見えたぞ」

シゲルおじさまの目線をたどると、灰色の雲に溶け込んだ黒い点が三つ見えた。
それはぐんぐんこちらに近づいてきて――。

「ママっ!」

普段、誰よりも人目を気にするカエデが空に向かって叫ぶ。
着陸した三羽のピジョットのうち、左端の一羽に駆け寄って、

「きゃっ!」

地面に足を着いたばかりのカエデおばさんに抱きついた。

「もう、この子ったら……恥ずかしいわねえ」
「だって……ママが捕まっちゃって……釈放されなかったらどうしようって……あたし……ずっと心配してたんだから」
「大丈夫よ。ママはここにいるから。ね?」

アヤメおばさんの手が、優しくカエデの髪を撫でる。
エリカさんはその光景に微笑みを浮かべつつ、他のピジョットから降り立ったキョウさんとタケシさんに言った。

「ご無事で何よりですわ」

キョウさんは会釈して、

「暫くの間、世話になるでござる」
「遠慮は無用ですわ。緩りと過ごしてくださいな」
「忝ない」

タケシさんは元々細い眼を更に細めて言った。

「流石にこの面子が揃うと壮観だなあ」
「そうですわね。集った理由が、親睦のため、交歓のためなら尚良かったのですけれど……」

タケシさんにつられるように、エリカさんもうっすらと目を細める。
その静かな時間を、背骨が軋むバキボキという音が乱した。

「っ……あっー、やっぱポケモンの長距離飛行は体に堪えるわ」
「同感。やっぱ俺たちには気球が似合ってるんだよなあ」

同じ姿勢で伸びをしている中年の男女に、

「年寄り臭い臭い会話は慎むニャ。歳がバレるニャ」

それを窘める低い声。
誰の声なのかしら――二人の他に声の出所を探してみても、
気になるのは二人に白い視線を送っている上品なペルシアンばかりで、

「あのペルシアンが気になりますの?」

エリカさんが可笑しそうに言う。

「なんだか、あのペルシアンが喋っているような錯覚がするんです」
「ふふ、それは錯覚ではありませんわ。
 ムサシさん、コジロウさん、そしてニャースさん。
 お勤め、ご苦労様でした」
「労いの気持ちが足んないわね」
「こら、ムサシ」

揉め始めた二人に愛想を尽かしたのか、ペルシアンが優雅な歩みでこちらに近づいてくる。
そしてあたしの目の前で止まり、

「ヒナタちゃん、だったかニャ」

反射的に頷く。

「あれから、少しは落ち着いたかニャ?」

ペルシアンは"完璧な人の言葉"で、そう言った。

「う、うそ……?」
「わたくしも初めてこの声を聞いたときは我を疑いましたわ。
 でも、このニャースは本当に、人の言葉を理解できているんですのよ」
「ミャーはニャースじゃなくてペルシアンだニャ。いい加減覚えて欲しいのニャ」
「うふふ、努力しますわね」

ペルシアンが憤慨している。エリカさんと話している――。

「何を驚いているんだい、ジャリガール」
「じゃ、じゃりがーる?」

いつの間にか近づいてきていた二人のうち、エリカさんにムサシと呼ばれた女の人が言った。

「ニャースが喋れることは、前にあんた達を乗せてやったときに気付いてたんじゃなかったのかい?」

エリカさんにコジロウと呼ばれた男の人が言った。

「あの時は色々と立て込んでて、そんなことに気付く余裕がなかったんだよ。分かるだろ?
 あはは……ごめんね、ヒナタちゃん。ガサツな人で」
「誰がガサツですってぇ?」
「だーまーるーニャ」

ペルシアンが爪で二人の足を服越しに引っ掻く。

「これじゃあいつまで経っても改めて自己紹介できないニャ。
 おっほん……、ミャーたちのことを簡単に説明すると、元ロケット団大幹部にして、解散後もボスの腹心で有り続けたエリートコンビだニャ」

艶やかな口髭を撫でつける仕草からは気品が溢れていて、あたしはさして抵抗もなくその言葉を信じてしまった。

「そうだったんですか。あの、この前はあたしたちをここに運んでくださって、ありがとうございました」
「なあに、礼はいらないニャ。
 ミャーたちはボスの命令に従ったまでニャ」
「君のお父さんとも面識があるんだぜ」

コジロウさんが言ってから、しまった、という風に表情を暗くする。
あたしはそれを取り繕うと言葉を探して、ふと視界の隅で呆れた風に苦笑しているタケシさんに気がついた。

「あの、もしかして……ロケット団の下っ端三人組って、あなたたちのことですか?」
「まっ! このジャリガール、礼儀というものを知らないみたいね!」
「下っ端? な、なんのことだか分からないニャ! ミャーたちはエリートだニャ!」
「なあヒナタちゃん。誰から俺たちが下っ端三人組だなんて根も葉もない噂を聞いたんだい?」

あたしは心の中でタケシさんに謝りながら言った。

「前に、タケシさんが昔話として話してくれたんです」
「聞き捨てならないわね」
「聞き捨てならないな」
「聞き捨てならないニャ」

ずいっ、とタケシさんに詰め寄る二人+一匹。
その構図を白紙に戻したのは、石畳に落ちた大粒の雨の音だった。

「大降りじゃな」

軒下に駆け込む。雨脚は遠くの景色が霞むほどに、どんどん強さを増していった。
一瞬、視界が淡い白に染まって、網膜に焼き付いた稲妻の軌跡が見える。
冬の豪雨に心を奪われて、雨が石畳や瓦を叩く以外の音が、世界から消えてしまったような幻覚に包まれる。
でも――。

「ヒナちゃん。あとで話があるの」

雷鳴に紛れたアヤメおばさんの囁きは、何故かくっきりとあたしの耳に届いていた。