※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

障子を透かした朝の日の光は、優しい。悪い夢を溶かしてくれる。
隣でぐっすり眠っているカエデをそのままに、寝床から身を起こす。
ぎし、ぎし、ぎし。
朝の空気に、廊下の軋む快い音が響き渡る。
静閑な日本庭園の一角に、あたしは薄紅色の人影を認めた。

「昨夜も、深い眠りは訪れなかったんですの?」

エリカさんは枝垂れ柳を仰いだまま言った。

「いえ、昨夜はよく眠れました」

逆説を続けたい気持ちを抑える。
――でも、夢を見るんです。とても悪い夢を。
そう言うことで、余計な心配をエリカさんにかけたくなかった。

「だいぶ、落ち着いたみたいです」

エリカさんが振り返り、近づいてくる。
下駄と敷石が奏でる音はどこまでも優雅だった。
あたしは無理に微笑んで見せた。
それを見て安心したのかもしれない。
エリカさんはふと立ち止まると、告解する信者のように手を組み合わせて、こう言った。

「わたしくし、あなたに謝らなければならないことがありますのよ。
 仕事が重なり思うように時間がとれませんでしたが、今が丁度よい折ですわ」

また、謝られる。
誰も悪いことなんかしていないのに。
あたしは誰にも謝って欲しくないのに。
「あなたがあの方の娘であることには、初めて会った時から気付いていましたの。
 瞳がそっくりでしたわ。幼く、驕っていたわたくしに挑み、ポケモンバトルの醍醐味を教えて下さったあの方に」
「どうして、その時に教えてくれなかったんですか」
「口止めされていましたのよ。
 シゲルやアヤメ、そしてあなたのお母様と、その事実は伏せておくように、約束を交わしていたんですの」
「そんな……」

それが幾重もの優しさに包まれた約束だったことは頭で理解できても、
三人に嘘を吐かれていたという事実に、あたしは裏切られたような気持ちになった。

「ここ十数年もの間、あの方の行方は杳として知れぬまま。
 わたくしたちは可能性の一つとして、あの方がシステムに属していることをサカキから知らされていただけでした。
 その不確定な情報をヒナタさんに与えることで、ヒナタさんが誤った道に進むことを、わたくしたちはどうしても避けたかったんですの。
 ヒナタさんには、普通のポケモントレーナーとして、父親ではなく、ポケモンマスターを目標にしてほしい。
 それがわたくしを含めた皆の、共通の願いでしたわ」

あたしは、あたしの与り知らないところで、お父さんから遠ざけられていた。

「しかし無情にも――運命はあなたをあの方のところへ導こうとしていました。
 あなたが『組織』という言葉を口にした時に、わたしはそれを強く感じましたの。
 普通に旅をしていれば知るはずのないシステムの存在を、
 普通にポケモンマスターを目指していれば無意識に見過ごすシステムの闇を、
 何故ヒナタさんが追いかけようとしているのか……。
 わたくしは最初、理解できませんでした。
 心当たりが見つかったのは、丁度、あなたを屋敷の外へ見送る時でしたわ」

――『あなたはどうしてそのような組織を探しているんですの?』――

エリカさんの質問に、あたしは確か、

――『ピカチュウが、その組織の所為で、居なくなってしまったからです』――

と答えた。

「皮肉、ですわね。ヒナタさんを護り、正しい方向に導くために同行したピカチュウが、
 結果的にヒナタさんをシステムを追わせる根因となってしまった」

もしオツキミヤマ洞窟でハギノに出会っていなかったら。
もしカントー発電所で、ピカチュウと離ればなれにならなかったら。
あたしは、システムの存在を知っていただろうか。
――知らなかったに違いない。
あたしはきっと、カエデやタイチと一緒に旅をしながら、ポケモンマスターを目指していた。
セキエイのコンピュータでお父さんの居場所を探すという、果てしない夢を追いかけながら。

「心ない言葉に聞こえることを承知で言いますわね。
 わたくしは、あなたがセキチクシティでシステムの影を見失うことを、切に願っていましたのよ。
 同時に、わたくしは臆病風に吹かれていましたの。
 組織の追跡を諦めるよう説得する責務から逃げ、
 タマムシからセキチクへ誘導するという名目で、それをウツギ博士に押しつけた――。
 本来なら、ヒナタさんはセキチクでピンクバッジを得た後、"ゴールドバッジを得るため"にヤマブキシティに向かうはずでした。
 しかし運命はまたしてもヒナタさんを弄びましたわ。
 ヒナタさんはまたしてもサファリパークでシステムの影を認め、"ピカチュウを追うため"にヤマブキシティに向かってしまった」

完全なわたくしの失態ですわね、とエリカさんは痛切な面持ちで呟いた。

「もしわたくしがここタマムシシティでヒナタさんの未練を断っていれば、
 ウツギ博士の帰りを待つためにセキチクで長期滞在する必要もなく、システムと関わる未来は自然消滅していたはずでしたのに」

自然と唇が動いていた。

「そんなこと、言わないでください」
「……?」
「あたしはピカチュウに再会できて、嬉しかったんですから」

エリカさんの表情は変わらなかった。

「代償が大きすぎましたわ。
 あの方とヒナタさんの再会は、あまりにも時期尚早でした。
 特にあの方の立場に関する憶測が、現実のものとなっていた今となっては……」
「でも、いずれあたしはあの人の立場を知っていたと思います」

あの日、あの夜、あの瞬間から、
あたしはお父さんをお父さんと呼べなくなった。
脳裡で揺れ動くお父さんとアヤの面影が、あたしの喉の震えを止めた。

「仮にヒナタさんがポケモンリーグを制覇して、
 セキエイのコンピュータからあの方の所在を突き止め、
 あの方と再会していたとしても、その後のヒナタさんの心境には大きな違いがあったと思うんですの。
 うら若いヒナタさんにとって、あの夜の記憶は重すぎますわ」
エリカさんは俯いて、

「わたくし、本当ならヒナタさんや他の皆さんから蔑まれても仕方のないことをしたと思っていますのよ。
 あの日、責任という言葉を建前に、わたくしはサカキの依頼を断りました。
 わたくしの身は既にわたくし自身のものではありません。あなたに協力すれば、社会的地位を失う者は、わたくしのみに留まらない、と。
 わたくしは譲歩として、作戦後の予定に狂いが生じた場合、屋敷の一部を潜伏場所として提供すると約束しました。
 サカキはそれで納得してくれました。
 しかし、今となってはわたくしの返事も、譲歩も、サカキの想定通りだったのだと思いますの」

冷えた体を温めるみたいに、自分を抱いた。
あたしは本心から言った。

「エリカさんのことをそんな風に思ったことは、一度もありません」

警察での長い取り調べが終わり、
"偶然その場に居合わせた不幸な子供たち"として解放されたあたしとカエデとタイチは、
エリカさんの使いと名乗る三人組(年配の男女二人、ペルシアン一匹)に連れられて、エリカさんのお屋敷に到着した。
余計な人目もなく、食べ物や寝る場所の心配もなく、静かに心を落ち着かせる時間を持てたのは、全てエリカさんがいたから。
そんな恩人を、蔑むなんてありえない。

「ヒナタさんは優しいんですのね。わたくしは逃げたも同然なんですのよ。
 もしわたくしがシルフカンパニーに赴いていたら、あの夜の悲劇は回避できていたかもしれませんのに……」
「もう、終わったことですから」

気落ちしたエリカさんを元気づけるための一言は、どこか自嘲的だった。

「終わったことを悔やんでも、仕方ないと思うんです。
 それにあたしは、エリカさんには本当に感謝しているんです。
 だから、気にしないで下さい」



『ひくっ……えぐっ……っぁ……ぅ……』

ヒナタの嗚咽が止まる。
彼女の濡れた目が、改めて僕を認める。

『……ピカ……、チュウ……?』

もう、大丈夫みたいだね。
僕は頬袋に集めていた意識を解放した。
ヒナタを護るために展開していた高圧電流の壁が消滅する。
同時に、それまで静かにしていた無遠慮な警邏たちが、ヒナタと僕を取り囲む。

『お願い、離してぇっ! ピカチュウを返してっ!』

ヒナタの白く細い腕が、僕に伸びる。
その指先にわずかに触れた感触を最後に、僕の視界は夜よりも深い闇に覆われた。


――――――
――――
――


「ええ加減起きや、もうこんな時間やで」

目を開く。白髪混じりの蓬髪、着崩した白衣。
僕の担当医――マサキはあまり強くない調子で僕に起床を促した。

「……チュウ」

僕はベッドから身を起こした。思考はまだ微睡みの中にあるが、記憶ははっきりとしている。
あの夜、能力の酷使で意識を失った僕は、
様々な駆け引きの末に、タマムシ大学付属病院に搬送された、らしい。
目覚めた僕が初めて見たものは、今朝と同様、マサキの顔だった。
あの秘密の研究施設で僕を見捨てたマサキが、どうして再び、こんな形で姿を現したのか、
その問いにマサキは、

『ワイがそうしたいと望んだからや。
 君にはシステムの人間として、旧い友人として、一人の研究者として、伝えんなあかんことがある』

と曖昧な言葉を返してきた。彼の表情から心境を読み取ることは難しかった。
それは僕がこの病院で十三度目の朝を迎えた今となっても、変わらない。

「今朝もきとったみたいやで、あの子」

あの子とはヒナタのことだ。

「愛されてるなぁ。ワイもあんなカワイイ子に毎日見舞いにきてもらいたいわ」

しかしヒナタと僕の面会が叶うことはない。
面会謝絶云々以前に、システムによって僕が在院している事実が抹消されているからだ。

「ピカ、ピカ、チュウ……?」

ヒナタに手出しはしていないんだろうね。

「何遍もいうてるやろ。そこらへんは安心しとき。
 あの子は気付いとらんようやけど、あの子にはエリカさんとこの若い衆が何人もついてる。
 ここではシステムも簡単に手出しできへん」

マサキは点滴の調節弁を弄りながら、何気ない調子で

「そや、精密検査の結果が今朝方やっと出たんや。
 君にも教えといたろ思てな。聞きたいやろ」

このタマムシ大学付属病院には元々、ポケモンの治療設備がない。
あるのは最新鋭の精密検査機器(それも人間用)だけだ。
目覚めてからの数日は、人間ドックならぬポケモンドックのようなことをさせられていた。
僕は水差しで喉を潤してから言った。

「ピ」

聞かせてくれ。マサキはふと表情に影を落として、

「悪い知らせと最悪な知らせがある。どっちから聞きたい?」

と言った。僕は苦笑する。
普通、そこは良い知らせと悪い知らせの二択だろう?
まあいい、悪い知らせから聞きたい。

「ワイは医者やないからな。
 悪い知らせは……、君の余命がもう残り少ないっちゅう話や」
「チュウ」

そうか。

「冷静やな」

薄々感じていたからね。僕の体のことは僕が一番よく理解しているつもりだよ。

「君の体に限界が近づいてることは、あの強化骨格開発施設にいた時に、既に分かってたんや。
 ルージュラに"冷凍ビーム"食ろた足と、ライチュウに"アイアンテール"食ろた目の上の傷の治りが遅いことは、
 そのまま君の治癒・再生能力が低下しとることを如実に物語っとった」

マサキはカルテを捲りながら言った。

「外部からのダメージ修復を遅れさせるだけやったら、君が上手く立ち回ることで、何も問題は無かったんやけどな。
 不幸なことに君は電気ポケモンやった。なんで電気ポケモンが自分の電気で感電せえへんか、知ってるか?」

体の内部に絶縁体があるから、だろう?

「その通りや。でも絶縁体もずっと劣化せえへんわけやない。
 電気技使えば絶縁体は消耗する。当然の理屈やな。
 君の絶縁体の修復速度は、あの時既に、君の強力な電撃の自壊速度についていけてへんかった」

マサキの目に感情は無かった。
死期を告知する医者に相応しい目だな、と思った。

「ピカチュウ、君は自分の能力について、疑問に感じたこと、ないか?」

僕が首を縦に振るよりも先に、

「あるやろ。心当たりやったらそれこそ数えきれへんほどあるはずや。
 君と普通のピカチュウの間には、ひとつ、どうしても超えることのできん壁がある」

マサキは今度は研究者の目をして言った。

「技のキレとか動きの素早さやったら経験で培えるけど、
 それだけは先天的な才能に任せるしかあらへん。
 昔、サトシくんと旅をしとる時にロケット団に追いかけられたことがあるやろ。
 あれは君に他のピカチュウとは違う何かがあることを、サカキが見抜いてたからや。
 その何か、を具体的に言えば、さっきも言った通り、絶縁体の驚異的な再生速度と、同じく底の知れん蓄電可能容量やな。
 君の才能は岩ポケモンに電撃通したり、十万ボルト連発したりと、
 ポケモン専門の研究者のワイからしてもワケわからんことを可能にしてた。
 でも、決定的にワイの常識を壊したんが、――ミュウスリーとの一戦や」

追憶するように目を瞑り、

「初めに謝っとくわ。ワイは君があの試演で死ぬと思ってたんや。
 ミュウスリーはミュウツーの能力を87%を超える割合で継承してる。
 いくら君が特別でも、相手できるワケない、ってな。
 それが後から細かいデータ渡されて、もう魂消たわ。
 瀕死の状態からあそこまで動けるポケモンをワイは君以外に知らん。
 あの短時間、君は確かにミュウスリーを圧倒してた」

「ワイは君が消えたあとも、しばらくは本職そっちのけで君の研究に夢中になってた。
 どんなにデータを検証しても、君の反応速度と電撃の瞬間威力は大幅に規定値を上回っとったからや」

マサキは溜息をついて言った。

「結局、ワイは君の仕組みを解き明かすことができんかった。
 こんなこと言うと、研究者の名折れになんのは分かってる。
 でも、それでもワイは答えが知りたいんや。
 試演終盤のアレが何か、教えてくれんか、ピカチュウ?」

今度は僕が目を瞑る番だった。
ミュウスリーに横薙ぎに吹き飛ばされ、
僕の首を刈り取ろうと彼が迫ってきた瞬間に、
僕は禁忌としていた能力――正確には能力の使い方――を解放した。

「ピィカ、ピカピ、チュウ」

有り体に言えば、リミッターを解除するんだよ。
取り違えてもらいたくないのは、そのリミッターが物質的なものじゃないということなんだ。
それは精神的なものなんだ。
僕はサトシと旅をするうちに、自分が他のピカチュウとは違う、特別なポケモンであることに気付いていた。
それと同時期に、電気袋の容量や、電流の出力に、限界がないような幻想に囚われることが多くなった。
その頃の僕は若かったからね、自分がどこまで出来るのか、興味本位で試してみたんだ。

「結果は?」
「チュ」

幻想は現実になった。
電気袋から溢れた電流が僕を中心に強力な電界を形成して――。
細かい学術用語は知らないが、とにかく僕は自分でも信じられないような能力を得たんだ。
電界の中にいる全ての物体の動きが察知できる。
六つめの感覚器が備わった、と言い換えると分かり易いかな。
それに加えて無限にも思える電力供給だ。
僕は自分に酔い痴れたよ。何事にも等価交換の原理があることを忘れてね。
能力の解放をやめた瞬間、全身を激痛が襲った。
リミッター解除の代償は自滅、というわけだ。
構図が分かり易かった分、僕はすぐにそれを禁忌にした。
自惚れに聞こえることを承知で言うけど、僕は普通に戦って充分な戦果を残すことができたからね。

「ピィカ」

けど、君の話を聞く限り、その普通の戦い方にさえ、
僕の絶縁体の再生速度は追いつけていなかったようだから、

「チュウ」

……今し方の余命宣告は、才能に託けた奢りに対する当然の報いと言える。

「君の体は君のもんや。
 ワイが肉体の使い方に口出せる筋合いはあらへん。
 けどな、君は自分が薄命やと思ったらアカン。
 それだけの能力を持って生まれたポケモンにしては、君はかなり長生きできた方なんやで。
 ミュウスリーとの試演を経て生き延びただけでも、奇跡中の奇跡なんや」

別に同情を誘うつもりで言ったわけではないよ。
それよりも、僕の能力の謎がこんな抽象的な答えで、君は満足できたのかな?
マサキは青息吐息で首を横に振った。

「はっきり言うて、全然や」

だろうね。

「ポケモンの言葉が分かるっちゅうても、ワイは所詮、ただの人間やからな。
 君がリミッターを解除する感覚は君にしか分からんし、
 そん時君の体がどんな反応起こしてるか知るには、それこそ色んな機械繋いで数値化せな始まらん」

「ピカ」

期待に添えなくて悪いが、僕にはもう、君の研究に協力する余力は残っていない。

「そんな気は最初からあらへん。
 病ポケに鞭打つような真似はせえへんから安心しとき」

マサキは苦笑した後、

「何遍も言うてるけど、君の体はもう限界や」

僕から目を逸らして言った。

「ミュウスリーとの試演が中断されて、死の淵にいた君は、サカキの手下に救出されて、なんとか一命を取り留めた。
 そうやろ?」

首肯する。

「どんなに医療技術が進歩しても、傷の再生を手助けする、という立ち位置は変わらん。
 君が一旦は普通に動けるまでに回復したんは、結局は、君の再生能力が働いたおかげや」

僕はマサキの発言と自分の体の間に矛盾を見つけた。
僕が初めてあの研究施設に囚われた時、既に再生能力は低下していたというのなら、
どうして僕はサカキの許で、瀕死の状態から回復することができたのだろう?

絶望の暗闇に光明が差す。
マサキは淡々と言った。

「細胞の分裂回数には限りがあるっちゅう話を知ってるか。
 動物にも、人間にも、ポケモンにも、生きとし生けるものには全てこの分裂回数が定められてるんや。
 細胞は分裂する時、DNAの末端部分にあるテロメアに、分裂回数を記録する。
 自分はあと何回分裂できますよ、っちゅうことを、長さで表わしとるんや。
 これが短くなると細胞分裂はとまって、俗に言う老化が起こる。
 人はよう命を蝋燭に喩えたりするけど、あれはあながち間違ってない。
 生き物をポケモンとその他に分けたとき、生まれ持った蝋燭の長さは、比べるまでもなくポケモンの方が長い。
 そしてそのポケモンの中でも、君は際立って長い蝋燭を持って生まれたんやとワイは思ってるねん。
 度重なる能力の酷使に耐えるほど長い長い蝋燭をな」

マサキは僕の顔を眺めて

「君にあの研究施設で再会したとき、ワイは内心びっくりしてたんやで。
 君はまるで最後に会った時から歳をとることを忘れたみたいに若々しい体をしてた」

ああ、と僕は溜息を吐いた。
僕の外見が若いままでいたのには、それなりの理由があったのだ。

「けど、ここで君と二度目の再会したとき……」

僕は自分の頬に触れて、その続きを代弁した。

「ピィカ……」

僕は"きちんと"老化していたわけだ。

「恐らく君の元々低下してた自己治癒能力は、ミュウスリーとの一戦の後、残ってる全ての力使って君の命を繋ぎ止めたんや。
 瀕死からの蘇生は一度きりや。そしてそれから後に受けた傷は、もう二度と治らへん」

シルフカンパニーで、僕は奇跡的に外傷を負わなかった。
だが……、

「電流は使った分だけ、君の内側を壊してる。
 君が今こうして痛みを感じずにいれんのは、定時的に投与されてる強い鎮痛剤のおかげなんやで」
僕は自分の腕から伸びた細い管を、その先にある薬液パックを見上げた。
僕は不意に、サカキの保養所で僕の面倒を見てくれた看護婦さんのことを思い出した。
なぜ彼女が僕に強力な鎮痛剤を投与しなかったのか、今なら分かる。
頬を押さえる手に力を込めても、頬の神経は圧力を訴えなかった。

「ピィ……」

弱ったな……これじゃあヒナタに抱きしめられても、彼女の温もりを感じることができないじゃないか。





ピカチュウがいるのはあの部屋、と決めつけて、その部屋の窓からピカチュウが顔を覗かせるのを待つ。
タマムシ大学付属病院の庭園にあるこのベンチに座って、そんなことを何度も繰り返した。

「……遅いよ、ピカチュウ」

三つの影があたしの目の前を通り過ぎていく。
見上げると、三羽の大きな鳥ポケモンが東の方へ飛んでいくところだった。
その光景に、あたしはヤマブキを発った時のことを思い出した。

警察の取り調べがどんなものだったのか、あたしはほとんど覚えていない。
ただ、乱暴されたり、酷い言葉を投げつけられなかったことは確かだった。
あたしとタイチとカエデは事件との関係が曖昧なままに解放された。
その理由をだいぶ後でカエデは、フユツグがあたしたちと事件の関係性を真っ向から否定したから、と教えてくれた。
フユツグはヤマブキシティジムリーダー代理として、システムの人間として、あたしたちを庇ってくれたのだ、と。
警察の外で、およそ一週間ぶりに再会したカエデは、ぼろぼろ涙を流してあたしに謝ってきた。

『ごめんなさいっ……あたし、あの人がスピアーに刺されたあと、
 気を失っちゃって……もうちょっとでヒナタが死んじゃうところだったのに……ごめん、ごめんねっ』

タイチも萎れた様子で、

『俺もヒナタが危ないと分かってたのに、動けなかった。
 怖かったんだ……あのリザードンを見た瞬間、足が固まっちまってさ……。
 お前を守れなかったあの日から、死ぬ気で努力して、強くなった気でいたけどさ……全然、足りなかった。
 ごめん。ごめんな。もし俺がヒナタの盾になれるくらい強かったら、ヒナタを悲しませずにすんだかもしれねえのに……』

と謝ってきた。
返事に窮するあたしを助けてくれたのは、どこからともなく現れた三羽の鳥ポケモンと、
それぞれに乗った二人の男女と、一匹の猫型ポケモンだった。

『あたしたちはエリカの使いだよ』

ピカチュウの心配をして乗るのを躊躇ったあたしに、

「大丈夫だから。今は俺たちを信じてくれ」

男の人はそう言ってくれた。

『四の五の言わずにさっさと乗るニャ』

出所不明の声に後押しされて、あたしたちはそれぞれ鳥ポケモンに跨った。
エリカさんのお屋敷について落ち着いた頃、ピカチュウがタマムシ大学付属病院に搬送されたことを知らされて……。

「よう」
「タイチ?」

振り返る。
我に返ったあたしの目の前にいたのは、

「おいおい、俺とあの馬鹿を間違えるなよ。
 ま、若く見えるってのは嬉しいことだが」
「シゲルおじさま……?」

トキワシティにいるはずのシゲルおじさまが、どうしてここに?
シゲルおじさまはサングラスを外してアウターの内ポケットに仕舞いながら、

「ついさっき帰ってきたところなんだ」

あたしの隣に腰掛けた。

「帰ってきた?」
「ああ、ヒナタは俺がどこに出張してたかも知らないんだったな。
 俺はサカキのおっさんから別命を受けて、グレン島に行ってたのさ」
「そう、だったんですか……」

言葉が続かない。
久しぶりに再会して、シゲルおじさまに打ち明けたいこと、相談したいことがいくつもあるはずなのに。
西日の赤色が暗くなるにつれて、
中庭を散歩していた人たちが、病院の中に戻っていく。
シゲルおじさまは病院を見上げて言った。

「ここにピカチュウがいるのか」
「はい」
「サトシに会ったんだってな」
「はい」
「システムのことは知ってるのか」
「はい」
「あいつがシステム側の人間だったことも知ってるのか」
「はい」
「あいつがお前とカスミを捨てて、別の家族を持っていたこともか」
「……はい」
「酷い神様もいたもんだな」

数秒の沈黙のあとに、

「トキワシティで俺に助言を求めてきたお前に、俺がなんて言ったか、覚えてるか」

あたしは頷いた。
お父さんを探していると告白したあたしに、シゲルおじさまは二つの道標を与えてくれた。
ひとつ。
お父さんはジョウト地方のどこかで旅を続けているかもしれない、
だからジョウト地方に行けば、お父さんの手がかりが見つかるかもしれない。
ひとつ。
お父さんがどこにいるにせよ、セキエイの深奥にあるコンピュータにはお父さんの居場所が記録されている、
だからバッジを集めてポケモンリーグを目指せば、時間はかかっても確実にお父さんに会うことができる。

「今なら分かるだろうが、俺の助言は、お前をミスリードするためのものだったんだ」
「エリカさんから、聞きました」

もしジョウト地方に進めばシステムの影から遠ざかり、
もしカントー地方で何事もなくポケモンリーグを目指していれば、
真実を知るころには、あたしは大人になっていた。

「システムみたいなポケモン社会の暗部を教えたり、
 そこに自分の親父が属してる可能性を教えることが、
 ヒナタを正しい方向に導くとは、俺にはどうしても思えなかった。
 だからお前がポケモンリーグを目指す決心をしてくれた時は嬉しかったよ。
 それがこんなことになるとはな。ったく、なにやってんだよ、ピカチュウ」
「ピカチュウは、やっぱり、あたしを守るためについてきてくれていたんですか」
「そうだ。サトシがカスミ――お前のお母さん――をおいて失踪して以来、
 ピカチュウはずっとお前のお母さんの傍にいた。
 でもお前が旅に出ることになって、お前のお母さんが、ピカチュウに付き添いを頼んだんだ」
「あの人は……どうしてピカチュウを捨てたんですか」

シゲルおじさまはあたしがお父さんのことをあの人と呼んでいることには触れず、

「それは分からない。本当だ。
 俺の爺さんの話じゃあ、突然ピカチュウを入れたボールを置いて、何も言わずに消えちまったそうだ」

お父さんがピカチュウを捨てたのには、何か理由があったのかしら。
お母さんと自分が捨てられた理由よりも、ピカチュウが捨てられた理由の方が気になる自分が可笑しい。
カア、カア――。
鴉の不気味な鳴き声は、今では馴染み深いものになっている。

「ヒナタ」

右肩に、大きなシゲルおじさまの手を感じる。
あたしが顔を上げると、シゲルおじさまは一瞬何かを言いかけて、それを飲み込み、

「もうじき夜になる。屋敷に戻ろう」
「……でも……」

無数に並ぶ病院の窓を眺める。
あたしは今日も完全に日が暮れるまで、ここにいるつもりだった。

「薄情に聞こえるかもしれないが、ヒナタがここに残ったところで、ピカチュウの治りが早まるわけじゃない。
 あいつの今の主はヒナタなんだ。退院したら真っ先にお前のところに帰ってくるさ」

でも、それでもやっぱり残ります――そう言おうとした時には、あたしはベンチから離れていた。
硬く繋がれた右手は、ちょっとやそっとの力じゃ振り解けそうにない。

「悪いな、強引で」
「いえ……」

おじさまはとても辛そうな目をしていた。

「ヒナタ」
「はい」
「あまり、無理するな」