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運命を信じるか?と今問われれば、僕は迷いなく頷ける。
階段を駆け登り、先行していた警備員を追い抜かし、
屋上に通じる扉が見えた頃、僕は懐かしい二つの"匂い"を感じ取った。
それは僕にとって最も馴染み深く、似通った匂いで、
片方がサトシ、片方がヒナタのものであることは確かだった。
何故シルフカンパニーにヒナタがいるのか、それは分からない。
でも、それは後で彼女に直接尋ねれば分かることだ。
問題は、ヒナタが彼女のお父さんに――サトシに会ったとき、事態がどのように変化するか、ということだ。
僕はこれまで上ってきた階段を見下ろした。
幽かにだが、足音が聞こえ始めている。
増援が屋上に迫りつつある。
そこにハギノはいないだろう。
彼が繰り出した三匹のイーブイ進化形を、僕は完膚無きまでに打ちのめした。
エーフィの額の結晶を砕き、
サンダースの体が耐えきれないレベルの電流を流し込み、
ブースターの炎が吐かれる瞬間に喉を潰した。
僕がカントー発電所で彼に下ったのは、あくまで人質の存在が大きかったからだ。
失うものがない僕にとって、ハギノはただの通過点でしかなかった。

「ピィ……カァッ……」

とはいえ、体力の消耗は激しかった。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。脳に、動くのをやめてくれと懇願している。
僕はそれを無視して屋上の扉を押し開けた。そしてその瞬間、

――『死んでしまうかもしれないんですよ』――

僕を戒めていた看護婦さんの言葉は、跡形もなく思考から消え去った。
世界が停止したような感覚が僕を包み込む。
階段の傍で動けずにいるタイチとカエデを飛び越え、ヘリポートに着地する。
サカキも、アヤメも、キョウも、サトシも、そしてヒナタも、明るい夜空を仰いでいた。
奇妙な光景だった。リザードンの口端から炎が漏れている。
そしてその照準は、何故かヒナタに向いている。
旧友の行動が理解できなかった。
自分が何をしているのか分かっているのか?
君は、サトシの実の娘を焼き殺そうとしているんだぞ。
跳躍。リザードンの横頬に"体当たり"を食らわせる。
同時に感覚が元に戻る。僕は滞空しながら、反れた火球がヘリポートの一角をドロドロに溶かす様を見下ろした。
間に合ってよかった。
しかし――この状況からどうやって収拾をつけるか、僕には皆目見当もつかない。

「ピカチュウ?」

父娘の声が重なる。
炎で熱せられた風が、ヒナタの漆黒のドレスと亜麻色の髪を靡かせていた。
綺麗になったね、ヒナタ。
本心からそう思う一方で、僕は彼女に駆け寄り、再会の喜びを分かち合うことを躊躇った。
ヒナタの瞳は正しく焦点を結んでいなかった。正しく現実を映していなかった。
ともすればリザードンに殺されていたかもしれない事実を忘れて、僕とサトシに、純真無垢な視線を注いでいた。
溢れんばかりの喜びの表情が、僕にはとても儚いものに見えた。

「ピカチュウ!」

ヒナタが再び駆けだしたところを、

「ヒナちゃんっ」

アヤメが背後から抱き竦める。ヒナタは幼児のように喚いた。

「離してっ! どうして、どうしてこんなことするの?
 やっとお父さんに会えたのに、やっとピカチュウに会えたのにっ!」
「チュ……」

僕はたまらず視線を逸らした。振り返る。
元主との十何年越しの再会は、想像していたほど感動的ではなかった。

「ピカピ」

久しぶりだね、サトシ。
整えた銀髪に黒のスーツ。まるで別人のようだ。

「……来るな」

サトシは喉の奥から絞り出すように言った。

「……俺はお前を捨てた」

確かにそうだね。僕とあなたの主従関係が失われてから、もう何年もの時が流れた。
けど、袂を分かったトレーナーとポケモンが再会して、まともな会話一つないというのも寂しいと思わないか。

「俺がお前に話すことはない」

あなたがそうでも、僕は違う。僕には訊きたいことがたくさんある。
僕を捨てた理由は、どうでもいいんだよ。どんな理由でも、突き詰めれば僕が不要になったということだ。
悲しいけど、納得できる。
でも、カスミを捨てたのは何故だ?
ヒナタを捨てたのは何故だ?
システムはこの二人を犠牲にできるほど価値ある組織だったのか?
サトシが目を逸らす。唇は戦慄いている。

「チュウッ」

ヒナタを見ろ。あなたが捨てた過去を、その結果を直視しろ。
この子がどれだけ父親の影を追い縋って生きてきたか、あなたは知らない。
だが、これから知り、償い、溝を埋めることは出来るはずだ。

「……もう、遅いんだ」

遅くなんかない。時間はたくさん残されているじゃないか。

「……何も知らないお前が、知った風な口を利くな。
 あの日、あの時から、俺は過去を振り返ることをやめた」

ひたすらに平坦な声音で、サトシは断言した。
その言葉が嘘であると見抜けるポケモンは、きっと、世界中で僕だけだ。
「お父さんっ!」

あなたを呼ぶ声が聞こえるだろう?
この悲痛な叫びでさえ、ヒナタの心を席巻する巨大な氷の、一欠片が溶けたものにすぎないんだよ。
サトシの肩が震える。人は本気で感情を殺そうとするとき、それは表情に顕れず、手に顕れるという。
サトシの右手はきつく握りしめられていた。
それは娘に伸しそうになる手を、必死に留めているようにも見えた。
もしもこの時、この場にヒナタとサトシの二人だけが取り残されて、
他の人間やポケモンが消え去ってしまったなら、親子はその溝を埋める第一歩を踏み出せたかもしれない。
だが、運命はあまりに残酷だった。
赤いドレスを身に纏った少女が、サトシの背後から現れる。
そして、

「――行かないで、お父様」

ああ……。僕は悟った。
この舞台が、最悪の形で幕引きを迎えることになることを。
サトシが目を瞑る。次に目蓋が開いたとき、彼の瞳からは一切の感情が失われていた。
それは僕の知らない瞳だった。

「アヤ」
「は、はいっ」

父親に呼びかけられ、アヤの顔が無邪気に綻ぶ。
乾いた音が響いた。
アヤの白皙の頬に、赤い跡が残っていた。

「ここには来るなと、連絡があったはずだ」
「……ひくっ……えぐっ……」

アヤの目の縁に、大粒の涙が浮かぶ。
カントー発電所やシステムの研究助で僕と対峙したアヤは、頬を打たれた痛みで泣くほど精神的に幼い女の子ではなかった。
だからこの涙は、父親に叱られた悲しみ、憤りの発露だ。

「……だって……、だってお父様は、全然わたしと会ってくださらないじゃないですか。
 それに、今だってわたしが呼びかけなければ、お父様は……」
「………………」
「わたし、知ってたんです。お父様にもう一人子供がいて、それがあの女だってことも、知ってたんです。
 お父様は何も言わなかったから、あたしも何も訊かなかった。お父様の娘はあたしだけだって、自分に言い聞かせて来た」
「少し黙れ」

アヤが萎縮する。しかし、もう一人の娘は黙らなかった。

「アヤ? 何、言ってるの?」

アヤメはヒナタを引き留める力を失っていた。覚束ない足取りで、ヒナタがアヤとサトシに近づいていく。

「あたしのお父さんとアヤのお父さんが、同じなわけないじゃない」

叫びすぎて掠れた声は、しかし、この場で誰の声よりも重かった。

「お父さんも、どうして黙ってるのよ?
 お父さんの娘はあたしだけだって、どうしてアヤに言ってくれないの?
 そんな、これじゃあまるで――」

――本当にアヤがお父さんの娘みたいじゃない。
サトシの様子を窺いながら、アヤが口を開く。
事実、この場でヒナタと対等に話し合えるのは、アヤだけだった。

「だから、先程から何度も言っているじゃないですか。
 わたしはお父様の娘です。あなたもお父様の娘です。
 お父様の過去をわたしは知りません。でも、一つだけ確かなことがあります。
 お父様はわたしのお母様と、わたしを選んだんです」

浮かんだ表情は、勝者の笑顔というには、あまりに精細を欠いていた。
アヤには愛されている自信がないのだろう。だから自分に、そう言い聞かせている。
しかしそれが、今のヒナタには分からない。
ヒナタは真正面からアヤの言葉を受け止める。

「嘘よ。それじゃあ、ずっとお父さんが帰ってくるのを待っていたお母さんや、あたしはどうなるの?
 あたしはアヤの言うことなんか、絶対に信じない」

サトシを見つめて、

「アヤの言ってることは嘘よね?
 あたし、お父さんの言うことなら信じるわ。ねえ、本当のことを言って」

サトシの返答次第では、ヒナタの心は壊れてしまうかもしれないな、と僕は思った。
ヒナタはありのままの現実を受け止めていない。
サトシがシステムに与していることを、
ヒナタの叔母さんであるアヤメを含めた陣営に対立していることを、
アヤとサトシの父と娘としての遣り取りに真実味が溢れていることを、都合良く忘れ、解釈している。
再会の喜びがもたらした束の間の夢が覚めたとき、果たしてヒナタはそれらの現実を認めることができるのだろうか?
サトシが唇を開く。

「……俺の娘は一人だけだ」

ヒナタの顔に大輪の花が咲く。
アヤがぎゅっとサトシの袖に縋り付く。
サトシは言った。

「だから、馴れ馴れしく話しかけるな。お前とお前の母親など、私にとっては過去の遺物だ」

言葉の矛先は、紛れもなくヒナタに向けられていた。
それは到底、父から娘に投げかけられるべき言葉ではなかった。
大輪の花が萎れ、枯れ果てる。
惨い。あまりに惨すぎる。

「サトシッ!」
「お主、堕ちるところまで堕ちたでござるか!」

アヤメとキョウが叫ぶ。意外にもそれを諫めたのは、サカキだった。

「無駄だ。最早奴には何を言っても届かん」

サトシはアヤに告げた。

「離脱する。乗れ」
「……はい、お父様」

娘として認められたアヤの表情に、驚喜の色はない。

「待ちなさい!」
「待つでござる!」

二人を乗せたリザードンが、紅蓮の炎を地面に吐きかける。鉄筋は易々と溶解した。
威嚇はそれで充分だった。否、アヤメとキョウのポケモンは、リザードンが現れた時から、竦んでいた。
レベルが違いすぎるのだ。数十人のシルフカンパニーの警備員がジムリーダー数人と対峙するが如く。
ここでリザードンと対等に戦えるのはサカキのサイドンか、僕くらいのものだろう。
しかし、僕は行動を起こさなかった。起こすことができなかった。

「キョウ、アヤメ。ポケモンを収めろ。
 タイムオーバーだ。我々は失敗したのだ」

階段から複数の足音が聞こえてくる。

皮肉なことに、父と娘の再会はサカキたちを屋上に留め、治安当局が駆けつけるまでの時間稼ぎになっていた。
リザードンが屋上を飛び立つ。月を背に影は見る間に小さくなり、見えなくなった。
カイリューは透明な鎖で足を繋がれたかのように、羽をパタパタと動かしては、止めるを繰り返していた。
大きな目からは、怯えが見て取れる。このカイリューは優しすぎるのだ。
飛翔速度には目を瞠るものがあるかもしれないが、戦いには絶望的に向いていない。
僕は再び遠くに行ってしまった彼に呼びかけた。

「ピカピ」

サトシ。あなたは、本当にそれで良かったのか。
僕は見ていた。あなたがリザードンに乗るときに開いた手の平に滲んだ血の跡を。
へたり込んだヒナタの膝に登る。
ヒナタの視線は、彼女の父親と、もう一人の娘が消えた夜空に向けられていた。

「ピィ、チュ」

大丈夫かい。
ヒナタは視線はそのままに、僕の頭を撫でながら言葉を紡いだ。

「ピカチュウ……、あたし……、お父さんに捨てられちゃった。
 おかしいよね、あたしはお父さんに会いたくて会いたくて仕方なかったのに、
 お父さんはあたしのことなんか……、ずっと昔に忘れてたんだって……。
 うっ……あ……あたし、馬鹿みたい………お、お父さんにはアヤっていう……、ひぐっ……、新しい子供がいたのに……。
 ほんとに……、馬鹿みたい……ひくっ、……っ、……あたしには、最初から、……」

―――お父さんなんて、いなかったのにね。
その言葉を最後に、絶叫が屋上に響き渡った。
ヒナタの両手が、痛いほどに僕を抱きしめる。
駆けつけた警備員や警察は、ここに来た理由を忘れて、泣きじゃくるヒナタを呆然と環視していた。
僕は出来るだけ優しく、ヒナタに語りかけた。

「ピィ、カァ」

泣きたいだけ泣くといい。
十数年前のあの夜、カスミの嗚咽が止まるまで、彼女に寄り添っていたように。
君の慟哭が収まるまで、誰も君に近づかせない。