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―――――――
―――――
――

ぼやけた視界に、10:46の数字が映る。

「こんな時間まで寝過ごすなんて」

自覚のないうちに、疲れが溜まっていたのかしら。

「ふぁ~あっ……」

大きな欠伸と伸びを一緒くたにしてから、ソファーセットの上で丸まっているタイチの存在に気付く。
見られてない? 見られてないわよね?
あたしはタイチの長い睫を指先でそっとつついて、
熟睡していることを確かめてから、急いで着替えを済ませて、1Fのロビーに向かった。

「こんにちは」

昨夜の気さくなジョーイさんが話しかけてくる。

「あっ、おはようございます」
「ふふ、あなたには"おはよう"と言った方が良かったわね」

赤面する。ジョーイさんはくすくす笑って、

「お出かけ?」
「はい。ヤマブキシティは初めてなので、軽く見回ってみようと思って」
「急ぎの用じゃないなら、今伝えておきましょうか。
 9時頃、ヒナタさんに電話が入っていてね。フユツグさんっていう男の人から。
 あなたがまだ眠っていることを伝えたら、無理に起こさなくていい、って仰っていたわ」

シルフカンパニーのことで何か分かったのかしら。
でも、たった一日で?

「電話をお借りしてもいいですか?」
「ええ、自由に使ってね。彼の電話番号は分かる?」
「いえ……」

あたしのルームナンバーを教えただけで、フユツグの番号は聞いていなかった。

「それなら、はい、これ」

ジョーイさんが渡してくれたメモには、着信履歴が書かれていた。

「ありがとうございます!」

早速電話を借りる。
スリーコールで繋がった。

「もしもし、どちら様でしょうか?」

事務的な口調とは違う、優しい声。

「フユツグさん、ですか? ヒナタです。
 今朝はお電話してもらったのに、あたし、まだ寝てて……。
 あの、いつもはもっと早起きなんですけど、その、」
「構いませんよ。
 長旅の疲れもあったでしょうし、
 それを考慮せず、早朝から電話を掛けた僕に非がありました」
「あの、それで、何か分かったんですか?」

期待を込めて言うと、

「いえ、何も」

とフユツグはあっさり否定した。
あたしの困惑を電話越しに察したように、フユツグは「すみません」と謝って、

「実は今朝の電話は、私的なお誘いのためでして。
 ヒナタさんは今日一日、何か御予定がありますか?」
「いえ……暇、ですけど……」
「それは良かった。
 ヒナタさんがお暇でなければ、僕も退屈を持て余していたところです。
 最近はジムの仕事ばかりで、休日の過ごし方を忘れてしまいまして。
 ヤマブキシティで、何か興味を惹かれた建物や、文化財がありませんか?
 ご迷惑で無ければ、僕が案内しますよ。
 もっとも、依頼の内容を優先しろと仰るなら、そちらを優先しますが」

私は数秒の間を空けてから、「案内してください」と告げた。
シルフカンパニーの調査は確かに優先すべきだけど、
何故かその時のあたしには、フユツグの素性を深く知ることの方が大切に思えた。
それから待ち合わせ場所を話し合って受話器を置くと、笑顔のジョーイさんがやってきて言った。

「デートの約束?」

もうっ、この人は。

「違います!」

昨日待ち合わせした喫茶店があるビルの前に着くと、フユツグは支柱に凭れて雑踏を眺めていた。
服装は昨日の雰囲気と似た、落ち着いたものだった。
腕時計で時間を確認する。
約束の時間より、まだ15分も早い。

「ごめんなさい、待ちました?」
「僕もつい先程着いたところです。それでは行きましょうか」

と自然に嘘を吐くフユツグ。

「行き先は決めてあるんですか?」
「いえ、ノープランです。とりあえず歩き回ってみませんか。
 時折僕がガイドとして、ヒナタさんの興味がありそうなところにお連れしますよ。
 ところで、ヒナタさん」
「は、はい?」
「僕に対して敬語を使う必要はないと、以前言ったはずですが?」
「あっ……でも、それを言うならフユツグさんだってあたしには敬語を使っているじゃないですか」
「僕のは職業病で治しようがない。けれどヒナタさんの口調は意識一つで変えられる。
 どうしても、と言うなら無理強いはしませんが、できればこんなささやかな年齢差など気にせず、気さくに接して下さい」
「わ、分かりました……じゃなくて、分かったわ、フユツグ。これでいいの?」
「結構です」

満足そうに白い歯を見せるフユツグ。
フユツグが良くても、あたしはなんだかちぐはぐした気分だわ……。

あたしはフユツグに連れられて、ヤマブキシティの各所を回った。
シルフカンパニーの展示ブースに敵情視察ではなく見学としてして訪れたり、
超高層ビルの最上階からの展望を写真に撮ったり、
電車とは比べものにならないスピードで走るリニアモーターカーを眺めたりした。
フユツグは冗談が上手くて、機転が利いて、常にあたしが退屈を感じないようにしてくれた。
でも、その居心地の良さに気持ちが流れそうになる度、
今も爆睡しているタイチのイメージが浮かんできて、それを邪魔した。
昨日の夜に聞いた、あたしが小さい頃にお父さんに会っていたという事実が、あたしを沈ませた。
「ヒナタさん?」
「何?」
「いえ、気分が優れないように見えたので」
「何でもないわ。大丈夫よ」

フユツグはあたしの言葉の真偽を確かめるように目を細め、最後には微笑を浮かべて言った。

「次は、かつてこのヤマブキシティのジムを任されていた、格闘道場に参りましょうか」


格闘道場と呼ばれる建物は、遠目に見ても老朽化しているようだった。

「創設から一度も改修工事が行われていないことと、
 師範代が昔気質の硬派な方で、滅多に入門生を取らないことで有名です」

と説明しながら、フユツグは門を開く。
勝手にお邪魔してよかったのかしら、と不安に駆られたのと、

「道場破りか? 入門希望か? どっちだ?」

海鳴りのような大声が降ってきたのは同時だった。

すっかり萎縮したあたしの隣で、フユツグが静かに、よく通る声で答えた。

「見学希望です」
「勝手にしろ。ただし邪魔と判断すれば放り出す」
「ありがとうございます」

筋骨隆々という言葉がぴったり当てはまる師範代らしい大男は、鼻を鳴らして門下生の監督に戻っていった。
フユツグが振り返り、「見学の許可を戴きました」と嬉しそうに言う。
あたしは軽い放心状態に陥ったまま、道場を見回した。
色褪せた畳の上で、これまた着古した道場着を纏った門下生が、
自分の体ではなく、自分のポケモンに組み手をさせている。
タイプはどれも格闘タイプで、エビワラーやサワムラーがほとんどだった。

「皆さん熱心ですね。
 通常練習でフルコンタクトですから、怪我は当たり前。
 いやはや、気合いの入れ方が違います」

藺草と汗の匂いで満ちた空気を吸い込むと、鼻の奥がつんとする。
時折寄せられる門下生の視線が、居心地の悪さに拍車をかける。

「ほら、ヒナタさん。見て下さい。
 あのサワムラーの蹴りの鋭さ……。
 軟弱なポケモンが食らえば、一撃で伸びてしまいそうです」

なのに、どうしてフユツグはこんなに暢気に解説なんか出来るんだろう。

「ねえ、フユツグ」
「なんですか?」
「あたしたち、ひょっとしたらお邪魔なんじゃないかしら?」

フユツグはあたしを安心させるように微笑んで、
眼鏡のフレームを押し上げ、

「僕たちが遠慮する必要はありませんよ。
 師範代の許可は得ているのですから」
「そうは言っても……」

と、あたしがなんとかお暇する方向へ話を持っていこうとしたその時、

「おい、そこの兄ちゃん」

あたしたちの遣り取りを横目に伺っていたらしい門下生の一人が、組み手の相手に休憩を告げてこちらにやってくる。
年は二十代半ば、髪は角刈りで、師範代ほどではないにしても、
鍛え上げられた肉体は道場着で隠しきれないほどに盛り上がっている。
さっきから気になっていたんだけど、この道場ってポケモンを鍛えることが目的なのよね?
どうしてトレーナーまで筋肉もりもりになってるの?

「僕のことですか?」

突然話しかけてきた門下生に、笑みを絶やさず答えるフユツグ。

「そうだ。隣の別嬪さんは疑いようもねえが、お前は男だろ?」
「はあ」
「ポケモンは持ってるか?」
「護身用に一体だけ、携帯していますが」
「なら一丁腕試しといこうや」

フユツグは困ったようにあたしを一瞥してから、門下生に答えた。

「すみませんが、僕たちは見学希望なもので」
「女々しいこと言ってんじゃねえ。
 この道場に一歩でも入ったからにゃあ、一戦交えるのが作法ってもんだ」
「あの、あたしも戦わなくちゃダメ、ですか?」

と恐る恐る尋ねてみると、門下生は急に表情を和らげて言った。

「や、この道場は女の入門生を認めてないんだ。
 姉ちゃんが頑張る必要はねえ。後ろの方で彼氏さんを応援してな」
「か、彼氏とかじゃありません!」

フユツグはあたしの彼氏と間違われてどんな反応をしているんだろう、と思って様子をうかがうと、
あたしと門下生の遣り取りが聞こえないくらい、

「弱りましたね」

本当に弱っていた。
「もし僕があなたに勝てば、解放してもらえるのですね?」
「ああ。だが俺を負かしたとなりゃあ、他の連中が黙ってねえだろうな。
 ここにいる奴らは強えトレーナーが大好きだからな」
「となればこの腕試し、ともすれば他流試合、即ち道場破りに発展するのではありませんか?」
「なあに、そんな小難しいことは考えなくていいんだよ。
 兄ちゃんが俺に勝つなんて、万に一つも有り得ねえんだからよ……。
 出ろッ、カポエラー!」

豪快なかけ声と共に、顔は黄土色、足裏は鮮やかな水色の、
あたしよりも頭一つ分背が低い人型ポケモンが現れる。
逆立ちした状態で、頭の天辺の突起で、巧くバランスを取っている。
それを見て、あたしは昔遊んだ独楽を思い出した。

「さあ、兄ちゃんもポケモンを出しな」
「……ふむ」
「そうビビるな。手加減は心得てるからよ」

もしかしたらこの人は、こうやって見学に来たトレーナーをあしらうことに慣れているのかもしれない。
もういいわフユツグ、帰ろう?――あたしがそうフユツグに声を掛けようとしたその時、

「僕が怖れているのは」

門下生を見据えたフユツグの目から、それまでの物腰柔らかな光は消え失せていた。

「僕が腕試しと称してあなたと戦ってしまえば、
 なし崩し的に、道場破りを果たしてしまうことになるからです。
 何故なら僕は、あなたたちが大嫌いなエスパーポケモンの使い手ですから」

途中まで笑いを堪えていた門下生の目つきが一変する。
真面目に組み手をしていた他の門下生たちも、動きを止めて、あたしたちに注目する。

「今なんつった?」
「僕はあなたたち格闘ポケモン使いの天敵、エスパーポケモンの使い手だ、と」

なにがなんだか分からないあたしを置いてきぼりにして、
一触即発の空気が流れ始める。
なに? 何なの?
どうしてみんなこんなにピリピリしてるの?

「てめえ、まさか……」
「お察しの通りですよ。僕は"現"ヤマブキシティジムの者です」

その一言で、さらに周囲の門下生たちが殺気立つ。
しかも間の悪いことに、

「何の騒ぎだ?」

師範代が奥からこっちにやってくる。
フユツグは涼しい顔で余裕を見せてるけど、本当は心臓バクバクに違いないわ。
ここはあたしが何とかしないと……。
必死に門下生や師範代の注意を反らせそうなものを探して、
自分の真後ろの壁にずらりと並んだ、門下生の名前が刻まれた小さな木板に気付く。

「あの……これっ! この板のことなんですけど!」

あたしが木板を指さして叫んだのと、師範代が近くにやってきたのは同時だった。
フユツグ、門下生、師範代。皆、あっけにとられてあたしに注目している。
何か言わなくちゃ言わなくちゃ……そう思う度に頭の中が真っ白になっていく。
あたしは何度も数十の木板に視線を往復させた。
そして門下生のものでも歴代師範のものでもない、奇妙に統一感のない名前の連続を見つけ出した。

「師範代の右隣にあるいくつかの名前は、一体誰のものなんですか?」

師範代はしばしの黙考の後、

『そんな下らんことで騒いでおったのかッ!!』

とあたしを一喝したり、門下生が騒いでいた本当の理由を問い質したりすることなく、

「それはこの格闘道場創設から約半世紀、
 他流試合を申し込み、見事師範代に到るまでを勝ち抜いた者の名だ」

昔を懐かしむように木板に触れた。

「そ、そうだったんですかあ」

内心ホッとして、改めて木板に刻まれた名前を確認する。
そして四つ目の木板に目を通したところで、あたしは雷に打たれたみたいに、身動きが取れなくなった。

「―――?、―――さん?」

異変に気付いたフユツグが声をかけてくれたけど、
その意味が分からないくらい、あたしは周りのことが見えなくなっていた。

「これ……この、名前……」

師範代があたしの指さす木板を見つめて、表情を崩す。

「サトシか。この小僧のことは昨日のことのようによく覚えているぞ。
 良い機会だ。お前ら、組み手は終わりだ!
 近くに寄れ。知っている者もいるかもしれんが、あのサトシがこの道場にやって来た時のことを話してやる」

有無を言わせぬ師範代の言葉に、
フユツグに詰め寄っていた門下生も、その他の門下生も、
大人しく円を描くようにして座り込む。

「あれは十六、いや、十七年も昔のことだ。
 保護者みてえな男と女を連れたサトシは、見るからにガキだった。
 顔つきもやっと幼さが抜けてきたぐらいで、
 ポケモントレーナーとしてもまだまだ未熟そうに見えた。初見ではな。
 サトシは当時師範代を務めていた俺の親父に向かって開口一番、こう言った。
 『バトルしようぜ』
 一気に肝っ玉が冷えた。
 親父は癇性で生意気な口の利き方をする奴はたとえガキでも殴り飛ばす人間だった。
 ところが親父は笑い出した。自分のことをちっとも怖れていないサトシが気に入ったんだ。
 一頻り笑った後で、『この道場に入門したいのか』と親父は尋ねた。
 サトシは首を振って『ただポケモンバトルしたいだけ』と答えた。
 奴はガキで、恐らく道場破りの意味が分かっていなかったんだろう。
 だが親父は真剣な顔つきになって、すぐに試合の準備をするよう、俺や兄弟弟子に言った。
 当時俺たちは親父の気が触れたんじゃないかと心配していたが、
 もしかしたら親父は、サトシの実力をその時既に見抜いていたのかもしれん。
 そして結果は、あの木板が示す通りだ」

師範代の視線が木板に注がれ、門下生たちの視線もそれに続く。

「全てが終わったあと、サトシは『どうもありがとう』と一礼して去っていった。
 自分より十歳以上も歳の離れたガキに負けた俺や兄弟弟子の悔しさは、相当なものだった。
 が、誰よりも悔しい思いをしているはずの親父が、何故か誰よりも満足そうな顔をしていたのを、俺はよく覚えている。
 サトシがポケモンリーグで優勝したのは、それから二年後のことだ。
 それを知って、やっと俺はあの時の敗北を納得できるようになった。
 トレーナーとして早熟なサトシが、俺や親父に勝ち得た理由とは何か。
 それは奴がポケモンとほぼ完全に対話できていたからだ。
 修練に修練を積んだ親父でさえ成し遂げられなかった奇跡を、奴は生まれ持ち、しかも昇華させていた。
 ポケモンの感覚を介して敵を知り、人の智慮によって最大の攻撃を生み出す。
 お前たちにもいずれ理解できる時が来るだろうが、それにはまず……」

おもむろに師範が息を吸い込み、

「修行だ!
 持って生まれた才能が無い人間に出来ることは、努力だけだ!
 組手を再開しろ!」
「押忍!!!」

大合唱が道場を震わせ、門下生が散っていく。

あたしはその波に逆らって、師範代の背中に向かって言った。

「貴重なお話、ありがとうございました」
「話したくなったから話した。それだけだ。
 お前らもいい加減に帰れ。見学はもう十分だろう」
「はい」

会釈して、踵を返す。

「フユツグ、帰りましょ」

師範代がお話をしてくれるまで門下生に塞がれていた入り口は、今では解放されている。
あたしは無言で後ろを着いてくるフユツグの気配を確認しながら、
逃げるように道場の外に出た。
別に門下生とフユツグのいざこざを怖れているわけじゃない。
誰かに、今のあたしの動揺を悟られたくなかった。それだけだった。
けど、フユツグには全部バレていた。

「ヒナタさん」
「な、なに?」

普段通りの声を出そうと頑張ってみても、こんな時に限って、いつもの声の調子を思い出せない。
フユツグは自然と早歩きになるあたしの腕を、すぐに捕まえて言った。

「あなたはサトシの娘ですね」
「ちがっ……」

否定できない。
言い逃れすることを一瞬で諦めてしまうくらい、フユツグの声が自信に満ちていたから。

「昨日、ジムに戻ってから、失礼を承知で調べさせていただきました。
 ヒナタさんの話に真実味はありましたが、あなたという個人が確かに存在していることを確かめたかったからです。
 実際、他人の替え玉でジムに訪れる方が偶におられまして。職業病とも言えますね。
 調査の結果、僕は副次的にあなたが元ハナダシティジムリーダー・カスミの娘であること、戸籍上、私生子として登録されていることを知りました。
 失踪したあなたの父が誰なのか……。
 憶測に必要なファクターは、当時の記録に全て揃っていました」
「…………」
「ですが、憶測はどこまでいっても憶測です。
 僕は積極的にこの話題を出そうとは考えていなかった。
 しかし先程のヒナタさんの反応を見て、僕は直截確かめずにはいられませんでした」

――無闇に自分のお父さんがあのサトシだと言わないこと、いいわね、ヒナタ。
小さな頃にお母さんと結んだ古い約束も、ここまで感付かれれば、守ろうが破ろうが一緒だ。

「そうよ。フユツグの言ってることは、ほとんど合ってるわ。でも――」

フユツグの細い目を、眼鏡越しに睨み付ける。

「あたしのお父さんがどうしていなくなったのかは、勝手に想像しないで」
「僕はただ、」
「お父さんが失踪したのには、理由があるの。
 お母さんは何も教えてくれなかったけど、
 お父さんがあたしをおいて失踪したのには、絶対、ちゃんとした理由があるんだから」

目頭が熱くなる。
お父さんが失踪した事実を誰かに修辞なく突きつけられるのは、これが初めてだった。

「すみません。僕は少々――いえ、大いに思慮の欠けた好奇心を膨らませていたようだ。
 ヒナタさんを傷つけてしまったことに謝罪します。
 決して興味半分、面白半分で尋ねたわけではないんです。
 僕はただ純粋に、子供の頃から尊敬しているサトシの娘に出会えたことが、嬉しかったんですよ」
「あたしのお父さんを……尊敬してる……?」
「ええ。別段珍しいことでもないでしょう?
 僕がトレーナー免許をとった当時は、
 尊敬、あるいは目指しているトレーナーは?と聞かれれば、
 百人が百人、老若男女問わずに彼の名を挙げるような時代でした。
 彼は生ける伝説でした。
 ですから彼が永世チャンピオンとなってメディアの前から姿を消した時は悔しかったですね。
 幼い僕は勝手に彼をライバル視していて、勝ち逃げされたような気でいたんですよ」

どうです、可笑しいでしょう?と自嘲するフユツグはの顔は清々しかった。
自然と頬が緩むのを我慢できない。
誰よりもたくさんのトレーナーから尊敬されているお父さんが誇らしかった。

「お父さんは、どんな風に凄かったの?」
「そうですね。ヒナタさん自身も当時の彼について調べておられるでしょうし、
 評論家の受け売りのような、形式的なものになってしまいますが……。
 彼の戦い方は洗練されていました。
 彼が初めてポケモンリーグに挑んだ時の、予選中継を御覧になったことは?」
「ある、けど……試合が始まってからは遠くからの視点ばっかりで、あんまりよく分からなかったわ」
「俯瞰、距離を置いた撮影方法は、
 大衆向けのメディアが試合中にままある過激な場面を暈かすためです。
 ポケモンリーグなどのハイレベルな試合では、ポケモンの死傷が珍しくありませんから。
 しかし試合後の審議や論判を目的とした撮影では、
 様々な距離やアングルで、試合の経過を悉に記録します。
 この資料が一般に公開されることはありません」
「フユツグはその資料をジムのパソコンを使って手に入れたのね」
「よくわかりましたね」
「…………」

タイチが昨日の夜に似たようなことを言っていたことは黙っておく。

「僕はその資料を見て、あることに気付きました。
 彼は試合中、ほとんどポケモンに命令していないんです。
 時たま観戦者には理解できないような指示があって、
 それまで自由に判断・行動していたポケモンは、瞬時に彼の命に従う。
 それが重要な布石であったことに対戦者を含む第三者が気付くのは、決まって試合が終わってからです。
 また試合中の彼や彼のポケモンには、緊張や焦りが無い。
 チャンピオンの座を奪われるかもしれない状況で冷静に挑戦者を下す様は、
 さながら試合が始まる前から、勝利を確信しているように見えました」
「ポケモンに命令しないで、ポケモンに行動を任せるなんて……」

フユツグは人差し指と中指で眼鏡を押し上げながら言った。

「一般的なトレーナーが実践するなら、無謀の愚策でしょうね。
 しかし彼が実践すれば、それはたちまち無敵の権謀に変わります。
 先程、師範代が仰っていたことを思い出してください。
 ポケモンバトルで実際に戦うのはトレーナーではなく、ポケモンです。
 相手の攻撃がどれほどの威力を持っているのか、
 現在の位置関係から考えて、どの場所へ回避するのが最適か、
 それが成功した後は、どのような反撃に転じればいいのか。
 経験の浅いポケモンならまだしも、十分に経験を積んだポケモンは、
 多くの場合、トレーナーの判断よりも素早い判断を下すことができます。
 しかし、それらの判断は本能的な反応から生まれたもの故に、往々にして読まれやすく、
 結局は客観的な視点を持つトレーナーの判断に頼ることになります。
 例外的に知能の高く、かつハイレベルなポケモンは経験則を生かして、
 トレーナーの指示なしに変則的な行動ができるという話がありますが、これはあくまで例外です。
 では、サトシは何故、ポケモンに自律戦闘を任せることができたのか。
 これは今でこそ言えることですが、
 彼は先天的に、或いは後天的に、ポケモンの思考を読む能力を得ていたのだと思います。
 ポケモンにあえて自由を与えることで、命令というワンクッションを置かずに、流れるような攻めを実現し、
 彼の慧眼が彼のポケモンの目を通して相手ポケモンの弱点、あるいは彼のポケモンが突かれるであろう隙を見出し、最適の指示を出す。
 これが、彼が最高のポケモントレーナーたる所以です」
「お父さんって、そんなに凄いポケモントレーナーだったんだ」

あたしは今まで、ポケモンバトルの強さは、
ポケモンのレベルの高さと、トレーナーの指示の巧さによって決まるものだと思っていた。
でも、それは間違いだった。
高みには単純な言葉では語れない、特殊な能力を持ったポケモンやトレーナーがいる。
そしてあたしのお父さんは、そんな強豪がひしめき合うポケモンリーグで、何年も頂点の座を守り続けていた。

「……追いつけるのかな」

口について出た言葉を、

「追いつけますよ」

フユツグが拾ってくれる。

「僕はポケモントレーナーとしてのヒナタさんの技量を知りませんが、
 あなたが彼の娘であり、彼の血を受け継いでいることは、紛れもない真実じゃないですか。
 ポケモンと思考を共有する特別な力。
 それがこの先、ヒナタさんに顕れる蓋然性は十二分にあります」
「ほ、本当にそう思う?」

もしかしたらあたしは、自覚しないまま、ずっと気にしていたのかもしれない。
永世チャンピオンサトシの娘でありながら、
少しずつ成長している実感はあるにせよ、凡庸なポケモントレーナーという枠に縛られているということを。
だからフユツグの言葉は、あたしの心を揺り動かした。

「あなたには眠れる逸才があります。
 それが開花し、ヒナタさんの自由な意思の許に働かせられるようになれば、
 ヒナタさんは彼と同等、いえ、彼を超えるポケモントレーナーになるかもしれませんね」

今のうちからサインをもらっておきましょうか、と冗談も忘れない。
あたしは照れ隠しのつもりで早口に言った。

「フユツグだって凄いわ。ポケモンリーグの対戦資料を見ただけでお父さんの能力を見抜いて、
 それをあたしにも分かる言葉で説明できるんだもの」
「僕が彼の能力を推測できたのは、僕がエスパーポケモンの使い手だからです。
 驚かないでくださいね。 実は僕にも、彼の能力の真似事ができるんですよ」
「えっ」

フユツグにもポケモンの思考が読めるの?

「言ったでしょう。所詮は真似事です。
 人並の知能を持つエスパーポケモンと、一定以上のESP能力を持つトレーナーとの間に回線を開き、」
「ちょ、ちょっと待って。そのESP能力っていうのは?」
「超感覚的知覚能力、俗に言う超能力のことです。
 ESP能力に属するのはクレアボヤンス、サイコメトリー、プレコグニション等の静的な能力で、
 動的な能力、即ちサイコキネシス、パイロキネシス、ソートグラフィー等はPK能力に属します」

とフユツグはゆっくり丁寧に説明してくれた。
その優しさは伝わってくるものの、台詞に鏤められたカタカナ語の八割が意味不明で、
それでもこれ以上質問を重ねたら話が脱線してしまいそうで、

「超能力にも色々あるのね……」

あたしは無難な言葉を口にする。

「そういうことです。
 そして幸運にもESP能力に恵まれた僕は、
 精神的遠隔感応能力――テレパシーを使うことで、ポケモンと思考の遣り取りをすることができるんです」
「テレパシーは知ってるわ。
 でも人とポケモンがテレパシーで会話することなんて、本当に出来るの?」

お父さんがポケモンと心を通じ合わせられることは信じても、
エスパーポケモンと超能力者がテレパシーで会話できることは俄に信じられないあたしだった。

「様々な問題点は抱えているものの、現実には可能です」

フユツグは衒いのない言葉で語った。

「ヒナタさんが仰るとおり、人と人の意思疎通に比べ、人とポケモンの意思疎通には困難を極めます。
 それは会話というよりは、ポケモンの意識を勝手に読み取る、と言った方が正しいですね。
 ポケモンの澱んだ思考の海から、情動と、それから繋がる行動を汲み取り、濾過する。
 この作業には慣れが必要ですし、慣れてからも、ポケモンの思考を読み間違うことはあります。
 こちら側の脳の負荷も、時間の経過とともに増大します。無理矢理回線をこじ開けているんですから。
 意思疎通における齟齬が皆無、かつ、脳に負担のないサトシの能力とは比べるまでもない、欠陥だらけの能力ですよ」
「ヤマブキシティの雇いのトレーナーは、
 みんなフユツグみたいなESP能力を持ってるの?」
「さあ、どうでしょうね。
 ヤマブキシティジム所属のトレーナーは、性質上、他のトレーナーと関わることを嫌っていますし、
 仮に打ち解けたとしても、自分の能力を明かすようなことは滅多にしませんから。
 ただ……」
「ただ?」
「ヤマブキシティジムリーダー・ナツメのESP能力は、
 一つのESP能力に特化した超能力者を数人束ねてやっと匹敵するぐらいだと言われています。
 先程説明したポケモンとのテレパシーや、ポケモンに暗示をかけるヒュプノシス、果てはマインドコントロールまで……」

まだ一度も会ったことのないナツメさんを想像して、身震いする。
ナツメさんのESP能力が無敵の能力に思えてくるのは、あたしだけかしら?

「それほどのESP能力に恵まれていながら、ナツメがジムリーダーに留まった理由は単純です」

不意に、フユツグを取り巻く空気が凍り付く。

「彼女は調子に乗って能力を酷使しすぎた結果、精神を病んでしまったんですよ。
 以来、彼女は現実と夢幻の区別がつかない状態になってしまった。
 彼女が正気に戻るのは、挑戦者がヤマブキシティジムの最上階、彼女の自室に現れた、その時だけです」
あたしは愕然とした。そして同時に理解した。
最初、ナツメさんとの面会を拒まれた理由はこれだったんだ。
挑戦者としてナツメさんの目の前に立たない限り、ナツメさんが正気に立ち返ることはない。

「彼女の能力が最も冴え渡っていたと言われる全盛期……。
 もし精神に異常をきたしさえしなければ、四天王にまで上り詰めていたに違いないのに……」

フユツグの語勢が荒くなる。あたしは不安になった。

「フユツグ?」
「すみません。ヒナタさんに不如意を吐露しても仕方ありませんでしたね。
 ただ、これは分かっていただけるでしょうが、僕は残念なんですよ。
 彼女はあんなところで立ち止まるべきではなかった。
 例えそれが超能力者の宿命であったとしても、その時期を遅らせるよう、努力すべきだったんです――」