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濡れた髪を梳りながら、名刺の上に小さくプリントされた文字を読む。
Gardevoir――『高級』『上質』が売りの、服飾系有名ブランドだった。
もちろんその知識はカエデから教わったものだ。

「カエデがいないのが残念ね……」

いたら飛び上がって喜んだあと、
あの二人組に掛け合って、格安でGardevoirの服を購入していたに違いなかった。
ポケモンセンターまでの道すがら、
二人組のうち背の高い方は、クチバで分かれてからの経緯を短く話してくれた。

『あのときは言いませんでしたけど、俺、親父に出頭命令食らってたんスよ。
 才能がないお前がポケモントレーナーを続けても無意味だ、いい加減諦めて俺の仕事を手伝え、って。
 親父は服飾プランナーって仕事なんスけど、俺は正直、そんな仕事を手伝うのはゴメンでした。
 友達も一緒に連れてこい、って言われても乗り気じゃなかった。
 もしクチバでヒナタさんやカエデさんに会ってなかったら、
 俺と今もこいつと一緒にバカやってたかもしんないっスね。
 あの時氷漬けにさせられて、マジ目が覚めたっつーか』
名刺から視線を外し、ナイトランプの明かりを残して消灯する。
ダブルベッドに一人で横になる。
タイチが部屋に帰ってくる気配はなかった。

「医務室で一晩過ごすつもりなのかしら」

まあ、もちろんあたしとしてはその方がいいんだけど。
タイチと一緒の部屋で眠れば、"不慮の事故"がいつ起きても不思議じゃない。
年頃の男の子は色々と我慢が利かないものなのよ、とママが言っていたことを思い出す。
それはタイチとて例外じゃない……のよね。
ああもう、どうして今日の夜に限って、部屋が一つしか空いていないんだろう。
あたしにカードキーを手渡した時の、ジョーイさんの生暖かい笑みが忘れられない。
確かにヤマブキシティのポケモンセンターは真新しくて、職員の教育も行き届いていて、設備も最新の物が用意されているかもしれない。
でも、肝心なことを忘れてるわ。
部屋の数が少なすぎることよ。

みしり。

物音が聞こえた気がして身体を起こす。

「タイチ!? 帰ってきたの?」

……………。静寂が耳に痛かった。
タイチ、と口に出してしまったことがだんだん恥ずかしくなってくる。
断熱材か何かの軋みにいちいち反応するなんて、全然あたしらしくない。
ボールを三つまとめて展開する。

「ぴぃっ、ぴぃー」

ピッピが飛び出す。

「…………」

眠気たっぷりといった感じのスターミーが現れる。

「うー?」

最後に展開されたゲンガーが、人差し指を頬に当てて首を傾げる。
こんな時間にどうしたんだい、とでも言うように。
あたしは言った。

「一緒に寝ましょ。
 大きなベッドだから、みんな入っても狭くないわ」
翌朝。
普段よりもずっと早く起きたあたしは、
わざとゆっくり服を着替え、わざとゆっくりシーツを直し、
わざとゆっくりポケモンにポケモンフードを準備して、
フロントに朝食のルームサービスは要らないことを内線で伝えた。
それだけのことをしても、時計の針はほとんど動いてくれなかった。
けど、それ以上するべきこともなかったので、
あたしは仕方なく施錠を済ませて部屋を出た。

医務室の端のベッドで、タイチは案の定爆睡していた。
保険医はタイチのだらしない寝顔を見て微笑み、あたしに視線を移して言った。

「額の傷は綺麗に治ります。
 体質的に血の気が多いようなので、失血による心配もありません。
 また体の至る所に打撲傷がありましたが、どれも浅く、数日で痛みは引くでしょう」

ただ――、と保険医は顎に手を当てて、

「かなり疲労が溜まっていたようですね。
 縫合中に眠る人はなかなかいませんよ。本当に」

「あれから一度も目を覚まさなかったんですか」

ええ、と保険医が頷く。
タイチの寝顔を見つめる。後悔が押し寄せてくる。
アヤを追うことに夢中になって、タイチの疲労を慮ることを忘れていた。
あたしとカエデにセキチクで追いつき、あたしをアヤから助けだし、そのままヤマブキシティに飛ぶ。
熟練の飛行ポケモン遣いでも尻込みしそうなその行程を遂げて、
タイチはその間、ちっとも疲れている素振りを見せなかった。

「……タイチ?」

不意にタイチの瞼が震える。保険医が誰ともなしに頷き、静かにベッドから離れていく。

「タイチ?」
「ふぁ……あぁ……、ん……ヒナタか?
 悪ぃ、ちょっと眠っちまってたみたいだ。
 縫合はもう終わったのか?」
「ばか」
「ばか?」
「もうとっくに縫合は終わってるわ。
 今は朝よ。朝。あれから一晩、タイチは眠りっぱなしだったの」
「マジかよ」

むくりと起き上がり、額のガーゼに触れるタイチ。

「エアームドは? エアームドはどうしてる?」
「昨日の夜、タイチが寝た後で容態を聞いたら、
 やっぱり片側の羽がかなり傷ついていたみたい。
 数日でなんとか飛べるまでには回復するけど、しばらくは長距離飛行は避けて、
 戦闘も避けた方がいいって、ジョーイさんが言ってたわ」
「そうか……」

沈黙が流れる。あたしもタイチも、同じ事を考えていた。

「迎えに行けなくなっちゃったね、カエデのこと」
「ああ。エアームドがああなった以上、どうしようもねえな」

エアームドが怪我をする切欠になった、あの飛行ポケモンたちについて議論するつもりはなかった。
情報が不足しすぎているし、得られる結論にしても憶測の延長に過ぎないことは分かっていた。

「エアームドが完全に回復するまでは、俺たちだけでなんとかするしかないな」
「うん……」

カエデなしでアヤの組織に挑むのは、正直に言うと不安だった。
タイチにはアヤのヘルガ―と渡り合うほどのバクフーンがいるし、
あたしにだってピッピやスターミー、そして暴走する心配がなくなったゲンガーがいる。
でも、所詮は多勢に無勢。
相手の数や戦力は未知数で、正面から行って切り崩せる見込みはまずない。

「これからどうする?」
「ヤマブキシティジムに行って、ジムリーダーのナツメさんに話を伺いましょう?」

タマムシシティでエリカさんに助言を求めたように。

「それが一番無難だな。
 まさかシルフカンパニーに乗り込んで、アヤを出せっていうわけにもいかねーし」

そんなことをしたが最後、あたしたちの存在はすぐに組織の人間に知れて、
アヤはピカチュウの端緒と共に、あたしの手の届かないところへ消えてしまうかもしれない。

「よし、それじゃあ早速行こうぜ」
「ちょっと。体は大丈夫なの?
 保険医さんの話では、体のあちこちに打撲傷があるって……」
「それくらいどうってことねえよ。
 一晩ぐっすり眠ったおかげで、元気は有り余ってるからな」

それよりもさっきから気になってたんだが、とタイチは目を細めてあたしの顔を覗き込んだ。

「お前さ、目の下にクマできてるぞ」
「嘘でしょ?」

朝、鏡を見た時には気付かなかったのに。

「マジだよ。どうしたんだ? 寝不足か?」

無言でタイチを睨み付ける。
誰の所為だと思ってるのよ。
昨夜は何か物音がする度に、タイチかと思って目が冴えて、また眠るの繰り返しで、ろくに眠れなかったんだから。
あたしは言った。

「荷物はここにあるわ。
 あたしは外で待ってるから、早く準備して」
隣接する建物と一線を画したビルの正面で、あたしとタイチは立ち止まった。
視線を少し上げると、『YAMABUKI CITY GYM』の文字が、灰色の壁に並んでいるのが見えた。

「すげぇ……、このビル丸ごとジムなのかよ。親父のジムがログハウスに見えるぜ」

タイチがワッチキャップを被り直す。
ガラスの扉に映り込んだあたしたちは、
どうみても目の前のビルに相応しくない人間のように思えた。
後ろのメインストリートを行き交う人々の視線を感じる。

けど振り返ってみればあたしたちを見ている人なんて誰もいなくて、
結局はあたしの考え過ぎなのかもしれなかった。
ジムに出入りする条件は、ポケモントレーナーであること、ただそれだけ。
年齢なんて関係ない。

「入りましょ」
「ああ、行こう」

ガラスの扉を押す。
あたしたちと一緒に入ろうとした冷たい外気が、
中の人工的な暖気に、逆に押し流されていく。
扉を閉めると屋外の喧噪はおどろくほど小さくなって、やがて、完全に聞こえなくなる。
内装は高級ホテルのロビーを連想させた。
目に優しい暖色の照明。
僅かに色褪せたクリーム色の壁。
見る角度によって表情を変えるワイン色のカーペット。

意匠を凝らしたオーク製のチェア。
高い天井を支える四本の黒い支柱から、等間隔の位置に飾られた大輪の花。
色はもちろん山吹色だった。

「誰もいないのかしら」

しん、と静まりかえった空間に、
あたしの呟きは予想外に大きく響き渡った。

「奥に進もうぜ」

とタイチは言って、あたしを追い越して歩き出す。
乱暴な歩き方が奏でる乱暴な足音は、しかし厚いカーペットに吸い込まれて静寂を乱さなかった。
この場所では言葉以外の全ての物音が意味を失うのかもしれない。
本気で無人なのかと心配になったその時、
あたしとタイチはフロアの奥のカウンターに人影を見つけた。
向こうもあたしたちに気がついたのか、静かに立ち上がって一礼する。

「ようこそ、ヤマブキシティジムへ。
 応対が遅れて申し訳ありません」

中指で眼鏡のずれを直し、柔らかい微笑みを浮かべて、

「私としては常に注意を払うよう心懸けているつもりなのですが、
 このジムの扉が叩かれる頻度を思うと、つい他の事務的な処理に没頭してしまいまして」

二枚の申込用紙と二つのボールペンが差し出される。
女性と見間違えるほどに綺麗な指だった。
でも、その人の声と外見が、タイチよりも何歳か年上の男性であることを示していた。

「ご記入願います。


 概要は熟知しておられると存じますが、もし不明な点が御座いましたら申しつけ下さい」

再度一礼。
その男の人がワーキングチェアに戻る前に、あたしは言った。

「待って下さい。
 あたしたちがここに来たのは、ジムに挑戦することが目的じゃないんです」

「ジムリーダーのナツメさんと会って話がしたいんだ」

こんな時はタイチの率直な言葉遣いの方が有効かもしれない。
そう思って、後の遣り取りを任せることにする。

「あんたの方からナツメさんに掛け合ってくれないかな。頼むよ」

男の人は驚きの表現を瞬き二回で済ませて言った。

「……申し訳御座いませんが、できかねます」
「迷惑なこと言ってるのは分かってる。でも、ほんの少しでいいんだ」
「やはり、できかねます」
「それじゃあナツメさんが良いっていう日、教えてくれよ。出直すからさ」
「やはり、できかねます」

タイチは声に苛立ちを滲ませて言った。

「どうして無理なんだ?」

「彼女が面会を望んでいない。理由はそれに尽きます」
「どうしてあんたにナツメさんが俺たちに会いたくないって分かるんだよ」
「それは別段、あなた方に限ったことではありません。
 彼女は"他人"との接触を極力避けるようにしているのです」

私も含めてね、と男の人が付け足す。
タイチは舌打ちしたげな表情であたしを見て、アイコンタクトを送ってきた。

"埒が明かねえ。どうする?"
"仕方ないわ"

あたしはボールペンを手に取って、男の人に尋ねた。

「挑戦者としてナツメさんの許に行けば、お話することは可能なんですよね?」
「ヒナタ、まさかお前……」
「ジムに挑戦するわ。
 時間はかかるかもしれないけど、これがナツメさんに会える、唯一かつ確実な方法よ」

記入欄を埋めていく。
男の人は視線でさっとあたしの記入を撫でて言った。

「僭越ながらお訊きしてもよろしいでしょうか。
 何故お二人が、ヤマブキシティジムリーダー・ナツメとの面会を望まれているのか」
「聞きたいことがあるんです」
「ナツメならあなたの問いに応えられると?」
「分かりません。
 でも、この街のポケモンや、ポケモン関連の情報に詳しいナツメさんなら、
 きっと、あたしの知りたいことのいくつかについて、知っていると思うんです」

書き終えて、その上にボールペンを乗せる。
男の人は思案するように数秒目を瞑った後、眼鏡を中指で押し上げて言った。

「このビルの向かいに、ヤマブキシティでは比較的小さなビルがあります。
 そこの1階西にある喫茶店で、二時間ほどお待ちしていただけませんでしょうか」

突然の申し出に戸惑いを隠せない。男の人は続ける。

「今し方申し上げましたとおり、ジムリーダー・ナツメとの直接面会は実現できかねます。
 しかしその代わりと言っては何ですが、私個人の力添えは可能です。
 よろしければ、あなた方が直面している問題についてお聞かせ下さい。
 或いは私の持っている情報で解決できるかもしれません」

男の人の手が、そっと申込用紙を脇に除ける。
柔和な微笑み。
断る理由なんてない。

「分かりました」

あたしはタイチの意見を聞かずに、その男の人の申し出を受け入れた。
あたしたちが喫茶店の一角に席をとってから一時間半後。
男の人は約束通りに姿を見せた。
ジムの時とは違って邪魔な受付カウンターがなく、服装をはっきりと描写することができる。
下は黒のチノクロス、上は明るい白のシャツにモスグリーンのネクタイを締めていて、
眼鏡のフレームと同じ銀色の腕時計が、その男の人の唯一のアクセサリーだった。
初めて見た時は黒に見えた髪の色も、改めて見直すと、若干暗い茶色が混じっていた。

「お待たせしました」

と男の人は、記憶にある声よりもずっとくだけた声の調子で言った。
男の人が腰掛けると、すぐにウェイトレスがやってきた。
まるでその瞬間を待ちかまえていたみたいに。

「カフェラテを一つ」
「畏まりました」

注文の淀みのなさと寛ぎ方から、この男の人がこの喫茶店の常連客であることが分かる。
男の人は指を噛み合わせて言った。

「彼女が僕の飲み物を運んでくる前に、互いの自己紹介を済ませておきましょう。
 いつまでも『私』と『あなた』では、円滑かつ誤解のない会話が出来ませんからね。
 僕はフユツグと申します。どうです、古めかしい名前でしょう。
 子供の頃は嫌で嫌で堪りませんでしたが、社会に出てからはこれも一種のアドバンテージだと考えるようになりました。
 平々凡々な名前と僕のような珍しい名前では、与える印象の強さが全然違います。
 つまり、相手に覚えてもらいやすいということです」

「あんた、さっき話した時と少し印象が違うな………」
「一人称も『私』から『僕』に変わってるし……」
「あれは仕事用のペルソナですよ」

とフユツグは事も無げ言い切った。
意図的に性格をスイッチするなんて、本当に可能なのかしら。
あたしの疑問を余所にフユツグは如才なく微笑み、

「常日頃からあんな堅苦しい言葉遣いをしていたら流石に参ってしまいます。
 周囲も、僕も、両方ね。さて、次はあなたたちの番ですよ」
「俺の名前はタイチ。トキワ出身だ」
「あたしはヒナタ。マサラタウン出身よ」
「ヒナタさんに、タイチさんですね。覚えました」
「あー、フユツグさん?
 俺のことはタイチでいい。あんたの方が俺よりいくつか年上だ」
「僕はそういう考え方があまり好きではありません。
 人に丁寧に接するのは、僕の癖のようなものです。
 ですから、タイチさんやヒナタさんが僕のことを呼び捨てにするのもいっこうに構いません。
 むしろその方が僕としては嬉しいですね。親しみを感じて」
タイチが横目でアイコンタクトを送ってくる。

"俺、こいつ苦手だわ……"
"そう? あたしはそうは思わないけど"

と否定的な意見を返すと、タイチは黙って7杯目のコーヒーを飲み干し、大きな溜息をついた。

「お待たせしました、カフェラテです」
「ありがとう」

ウェイトレスがカフェラテをテーブルに置きながら、フユツグに含みのある視線を送る。
でもフユツグはそれにまったく気がつかない様子で、カフェラテに口を付けた。
フユツグを待つ間、馬鹿みたいにコーヒーをお代わりしていたタイチとは決定的に違う気品がそこにはあった。
軽く辺りを見渡して、

「さて。聞き耳を立てられる心配はなくなったことですし、本題に移りましょうか。
 ヒナタさんはジムリーダー・ナツメに聞きたいことがあるのでしたね。
 その質問の内容を、詳しく聞かせて下さい」

―――――――
―――――
―――

「お二人のお話はかつて史上最悪と謳われたロケット団を想起させますね。
 当時彼らが働いていた悪行ほど、その組織は表だった行動を見せていないようですが」

とフユツグは昔を懐かしむように言った。

「あのう、失礼ですけど、フユツグさんはロケット団のことを覚えているんですか?」

あたしたちよりも少し年上くらいなら、ロケット団が壊滅したその時、フユツグはまだ幼い子供のはず。

「朧気ながら。当時は連日、ロケット団解散についての特集が組まれていましたね。
 それほど彼らの解散は衝撃的でした。彼らを崇拝する者にとっても、彼らを忌避する者にとっても」
「フユツグはどっちだったんだ?」

早速タイチはフユツグのことを呼び捨てにしている。

「といいますと?」
「その頃のフユツグの目に、ロケット団はどんな風に映っていたんだよ?」
「僕は彼らをダークヒーローか何かのように見ていましたね。
 この街がロケット団の占拠をしていた時のことは知りませんし、直接的な被害はありませんでしたから。
 TVに映るRの大文字を見て意味も知らずに喜んでいましたよ」

話が横道に逸れてしまいましたね、とフユツグは微笑んだ。

「結論から申しますと、僕はお二人に力添えできる"かもしれません"」
「どうして"かもしれない"なんて余計なもんがくっつくんだ?」
「僕はあなたたちに協力するべきかどうか、決めかねているんですよ」
「なんだよ、俺たちの話が信用できないっていうのか?」

笑顔で首肯するフユツグ。

「お前――」
「仕方ないわ、タイチ」

さっきの話でフユツグに信用してもらえるとは思っていなかった。
何故なら、あたしたちの話には決定的なものが欠けているから。

「あなたたちの話には動機と、達成すべき目的がない。
 何故その組織についての情報を求めているのか。理由が見えてこないんですよ。
 単純な正義感に駆られて行動を起こしているなら、国家権力、即ち警察に頼ることを勧めます。
 組織に対して個人で出来ることなど、所詮は氷山の一角を削る作業に過ぎません」

タイチが軽く舌打ちしてあたしを見た。
ピカチュウの件は秘密にしよう。
それがフユツグが喫茶店に来るまでに、タイチと話し合って決めたことだった。
あたしたちの目的は、その組織を潰すことじゃない。
勿論実現できたらできたで良いことだけど、何よりも優先すべきは、ピカチュウの救出。
でもそれをフユツグに明らかにすれば、一緒に、他の様々な事情まで説明しなくてはいけなくなる。

「あたしのポケモンが一体、その組織に拉致されたんです」

フユツグは表情を変えずに、

「なるほど。私憤ですか」
「ええ。あたしの……あたしたちの目的は、そのポケモンを取り戻すことなんです」
「拉致された経緯は?」

淀みない質問に言葉が詰まる。

「……それは、言わなくちゃダメですか」

あたしがそう言うと、

「いいえ」

フユツグはあっさり首を横に振った。
口角を上げ、お手本のような笑顔を作って、

「興味がないといえば嘘になりますが、
 ヒナタさんのポケモンが拉致されたというのが事実であることは分かります。
 冗談のように聞こえるかもしれませんが、僕には女性の嘘を見抜く力があるんですよ」

嘘くせー、とタイチが小声で毒づくのを無視して、

「それじゃあ、信じてもらえるんですね?」
「信じますよ。僕は因果関係さえはっきりすればいいんです。
 ヒナタさんはある組織にポケモンを拉致された。だからそれのポケモンを奪還すべく行動している。こんな風にね。
 ところで、そのポケモンの名前を聞いてもよろしいでしょうか? 愛称ではなく、正式名称で」
「ピカチュウ、です」
「ふむ……こういっては何ですが、さして希少価値もないポピュラーなポケモンですね。
 何故ヒナタさんのピカチュウが狙われたのか、心当たりはありますか?
 例えば、何か他のピカチュウにはない特殊な能力があったとか」
「なかったと思います」

確かにあたしのピカチュウには、特殊能力なんてなかった。
でもあの子の経験値と、それに裏付けされた実力は、
それだけで特殊能力と呼べるくらいに秀でている。
それにあたしが知らないだけで、本当にあの子には、何かの特殊能力があるのかもしれない。

「そのピカチュウの居場所について、大体の見当はついているんですか?」

タイチがぶっきらぼうに答えた。

「シルフカンパニーだ」

フユツグは首を傾げて、

「それは推測ですか。それとも、確信ですか」
「確信だよ。つい最近その組織の一人と接触したんだ。
 その時は逃げられた、っつーか逃がしたんだが、鳥ポケモンに追跡させて行き着いたのがシルフカンパニーってわけだ」
「なるほど。よくわかりました」

フユツグは満足げに頷いて、

「とりあえずはシルフカンパニーを中心に情報を収集、整理してみます。
 連絡先を控えさせていただいてもよろしいでしょうか」

あたしがポケモンセンターのルームナンバーを伝えると、
フユツグは手馴れた手つきでメモをとり、財布からカフェラテの代金を取り出し、綺麗に並べ、

「何か分かり次第、連絡します。
 それと、これはとても重要なことなのですが……。
 どうか僕がお二人に助力していることは、内密にお願いします。
 個人的な依頼を受けているという噂が広まると困りますので。
 それでは午後からも仕事が残っていますので、失礼します」

颯爽と去っていった。
涼しいドアベルの音が鳴り止んだ頃に、タイチがちょっと得意げに言った。

「あいつはアレだな、あいつがもし数学の先生だとしたら、
 絶対に途中式の有無で採点を厳しくするタイプだな」
「それって採点者として当たり前のことなんじゃないの?」
「…………」


あたしが昨夜から抱えていた懸案事項について思い出したのは、
ポケモンセンターに戻り、ジョーイさんの生暖かい出迎えを受けたその時だった。
エレベーターに乗ろうとするタイチを置いて、受付に直行する。

「どこ行くんだよヒナタ?」
「タイチはロビーの椅子に座って待ってて………ジョーイさん?」

受付に現れたのは気さくな感じのジョーイさんだった。

「何かしら?」
「部屋の空きはありますか?」
「ごめんなさい、今朝はいくつか部屋が空いたんだけど、
 すぐに他の人で埋まっちゃったのよ」

絶句する。
どうして朝一番に言わなかったんだろう。自分で自分が許せない。

「何故新しい部屋が必要なのかしら?
 今の部屋が気にいらなかったの?」
「それは……分かるでしょう?」

暢気にロビーに設置された大型TVを眺めているタイチを視線で示す。
ジョーイは朗らかに答えた。

「あら、あなたたちもしかして"ただの友達"だったの?
 でもまあ、それならそれでいいじゃない。若いっていいことよ」
「よくありません!」
「あら、そう?
 それじゃあ、また明日の朝にいらっしゃいな。
 特別に部屋を一つ、ストックしておいてあげるから」
「ありがとうございます」
「でも、」

ジョーイさんは邪な微笑みを見せて言った。

「今夜だけは我慢してね?」



「なあ、ヒナタ。やっぱこれ間違ってるんじゃねえの?」
「おやすみ」
「確かに俺は怪我人だけどよ、
 それでもお前をソファーセットに寝かせるのは納得いかねえんだよな」
「おやすみ」
「もう何度も言ってるけどさ、場所交代しようぜ」
「おやすみって言ってるじゃない!」

ぴっ、と隣で小さな悲鳴が上がる。
起こしちゃってごめんね、ピッピ。
あたしはいつまでもゴネるタイチを黙らせるべく、

「我儘いわないで。静かにして。今すぐ寝て。
 相部屋を認めてあげてるんだから、この部屋ではあたしの言うことが絶対なの」
「いや、それなんか矛盾してないか?
 フツー主権者っていうのは自分が有利なようにルールを作るわけで、
 それに倣うならヒナタはこの柔らかもふもふベッドを占有して然るべきなんだよ」
「難しいこと言われてもわかんないわよ。
 とにかく、タイチはそのベッドで一人でぐっすり眠ればいいの」

暗闇を睨み付ける。
ささやかな静寂の後、タイチは最も口にしてはならない言葉を口にした。

「妙案があるんだが」
「無理」
「このダブルベッドさあ、一人じゃ大きすぎるんだよな」
「却下」
「だからお前もこっちに入って来てもスペースには全然余裕が……」
「絶対嫌」
「はい、分かりました」

撃墜完了。
下心が見え見えなのよ、馬鹿。
と蔑みつつも、あたしの中には、純粋な思い遣りで提案してくれたのかな、と思う気持ちもあったりして、
あたしはとりあえずタイチに背中を向けるように寝返りを打った。
けど、やっぱり昨夜体感したベッドと、今夜のソファの堅さには文字通り雲泥の違いがあった。
とてもじゃないけど明日は気持ちの良い目覚めを迎えられそうにない。
数分後。
寝付けずにいるあたしの耳に、再びタイチの声が聞こえてきた。

「もう寝たか?」

また蒸し返すつもりなのかしら。そう警戒しながらも、狸寝入りするのは可哀想なので、

「なによ」
「お前さ………」

躊躇いを見せつけるような沈黙。あたしは嘘を吐いた。

「眠いから、話があるなら早くして」
「あ、ああ。俺が初めてヒナタに会った時の話なんだが、
 やっぱ、まだ思いだせないか?」

あたしにとってタイチと初めて出会った場所は、三ヶ月ほど前の、カントー発電所近辺だった。
でも、タイチにとってあたしと初めてであった場所は、もう10年も昔マサラタウンだった。
食い違いの理由は単純で、あたしがシゲルおじさまに連れられた幼いタイチと一緒に近くの森に遊びにでかけたことを、完璧に忘れてしまっているから。
タイチと一緒に旅をしているうちに思い出すかもしれない。
そんな望みをかけてみたこともあったけど、これまで、記憶の欠片さえ浮かんでこなかった。

「うん……残念だけど。
 小さい頃のタイチは、影が薄かったんじゃない。
 その所為で、あたしの印象に残らなかったとか」
「かもな」

タイチの声は沈んでいた。
あたしに思い出してもらえないのがそんなにショックだったのかな。

「タイチはその時のこと、覚えてるのよね」
「ああ、あの時のことは克明に記憶してる」
「確かあたしがキャタピーに襲われて、タイチはあたしを放って逃げちゃったって話だったけど。
 もっと詳しく教えて。聞いてるうちに思い出すかもしれないわ」

タイチの思い出話が揺籃歌がわりになるかもしれない。
そんな軽い気持ちでタイチにお願いしたことを、あたしは深く後悔することになった。
あたしが密かに目を瞑るなか、タイチは訥々と話し始めた。

「俺が炎タイプのポケモン使いになろうって決心したのはさ、
 初めてお前に会った、あの日からのことなんだ―――」

あの頃の俺は良い言葉で言えば活発で、悪い言葉で言えばやんちゃでさ。
親父に「マサラタウンの友達に会いに行く、その人にはお前と同じくらいの女の子がいるが、失礼のないようにしろよ」って言われたときも、
上っ面だけは素直にうんうん頷きながら内心は悪戯する気まんまんだった。
でもいざお前と会ってみると、そういった気持ちが一気に凋んじまったんだよ。
大袈裟かもしれねーけど、こいつを泣かせたら罪悪感でしねると思ったよ、あの時は。
ヒナタは一言で言っちまうと世間知らずだった。
友達もいねーみたいだったし、話し相手はお母さんとポケモンだけだったんじゃないかな。
そして単純馬鹿な俺は、ヒナタの友達第一号になってやろうと決心したわけだ。
早速俺は不安げなヒナタの手を引いて、こっそり家を抜け出した。
親父とカスミおばさんの二人はピカチュウも交えて談笑してて、特に注意を向けられなかった。
さて、大人の目から逃れることができた俺たちだったが、
マサラタウンの地理にあかるくない俺と引きこもりがちなヒナタには、これといった行く当てがなかった。
しかもヒナタは抜け出した頃になって「どうしよう、ママに怒られちゃう」とか言って不安がってるしさ。
ここはびしっと俺がリードしてやらないとなー、なんて勝手に責任を感じた俺はヒナタに尋ねた。
「ヒナタはポケモン持ってるのか?」
「う、うん。持ってるよぉ……えっと、ピカチュウと、ヒトデマンと、バリヤードと、ギャラドスと……」
「それはヒナタのお母さんのだろ。ヒナタだけのポケモンはいないのか?」
すると、ヒナタはちょっと哀しそうに頷いた。実は俺もなんだ、と告白すると、その表情が少し和らいだ。
俺はそこで提案した。「今から俺たちだけのポケモンを捕まえに行こうぜ!」
ヒナタはそれからしばらく、家の方を見て悩んでたよ。バレたらカスミおばさんと俺の親父にダブルで叱られると思ったんだろうな。
俺はそれを察して、ヒナタの手を掴んで言った。「行くぞ」
それでヒナタの決心は固まったみたいだった。早速俺たちはショップに向かった。
店員は俺の年齢やトレーナー免許の有無を尋ねたりと訝しがってたが、そこは俺の演技力で切り抜けて、なけなしの小遣いで二つのモンスターボールを買った。
当時……つっても今もだろうが、ヤマブキやタマムシみたいな都会と違って、マサラはポケモンと人間の居住地域の線引きが曖昧だった。
舗装された道路を脇に逸れて、小径を適当に歩けば木の壁に行き当たって、そこを潜り抜ければもう野生ポケモンの住処だった。
森に入るとき、一瞬だけヒナタは引き返そうとした。
「ママに、森には入っちゃダメって言われてるの……」
そして俺の手をふりほどこうとした。けど、手には力が全然入ってなくて、掴み直すのは簡単だった。
邪推するようだが、ヒナタは幼いながらに大義名分が欲しかったんじゃないかと思う。
タイチくんに無理矢理行こうって言われたの――そんな言い訳の種が欲しかったんだ。
俺は「ここまで来たんだから入るだけ入ってみようぜ。危ないと思ったら引き返せばいいし」と言って、軽くヒナタの手を引っ張った。
ヒナタは今度はほとんど抵抗せずに、茂みに片足を突っ込んだ。
そっからは、俺がヒナタについて行くのに精一杯だったよ。
俺も野生ポケモンとの邂逅を予感して興奮してたが、ヒナタのそれは俺の比じゃなかった。
あの頃、どうしてカスミおばさんがヒナタをあまり外に出さないようにしてたのか、俺は知らねえけどさ、
きっとヒナタはそれに素直に従いながらも、好奇心や冒険心を殺してたんだと思うよ。
服が汚れるのも、蚊に噛まれるのもおかまいなしに、ヒナタはどんどん奥に進んでいった。
マサラタウンを囲う森は、なんていうか、綺麗でさ。
月並みな文句だけど、空気が澄んでて、ところどころに日溜まりが出来てて、
虫の鳴き声や風に葉っぱがそよぐ音以外は何も聞こえなくて、野生ポケモンの気配は微塵もなかった。
危険な香りはちっとも漂ってなかった。
「見てぇ、タイチくん! これ、キャタピーの吐いた糸かなあ」
ヒナタは野生ポケモンの痕跡を見つけては無邪気にはしゃいでいた。
本当ならどちらか一人は冷静に周囲に気を配っていなくちゃならなかったんだが、俺も子供だ、ヒナタと一緒になって、
キャタピーの吐いた糸が、太陽の光を反射して光るのを興味津々に眺めていた。
指で触って、その粘着性や弾力性、伸縮性にびっくりした。
「うわっ、指にくっついてとれねえっ!」俺がヒナタに糸をくっつけたまんまの指を近づけると、「もうっ、タイチくん、やめてよぉ」ヒナタは笑いながら逃げていったっけ。
楽しかった。その日初めて出会った女の子と、未知の森に入り込んで、あわよくばポケモンを捕まえようと探検、いや、冒険している……。
そう思うとさらに楽しさが増した。どんどん周りが見えなくなっていった。
俺はすっかり失念していたのさ。
野生ポケモンにはきちんとした縄張りがある。
それを侵した人間は子供だろうが大人だろうが老人だろうが無関係に排除される。攻撃されたって文句を言えない。
気付けばキャタピーの群れに包囲されてた。木と木の隙間にはまんべんなく糸が張り巡らされていて、逃げ道は完全に塞がれていた。
流石にあの時は終わった、と思った。
十匹近くいるキャタピーに対して、俺とヒナタにあるのは空のモンスターボールが一つずつだけだ。
ノーダメージのキャタピーを捕獲できる可能性はゼロに近いし、仮に奇跡が二回起こって二匹捕まえられても、
残りの八匹を相手に出来るとは到底考えられなかった。
「タイチくん、どうしよう……」
でも、ぶるぶる震えるヒナタの手前、弱気な態度は見せられない。
「大丈夫だ」
俺は足許に転がっていた木の枝を掴んで、糸の包囲網の一端に思いっきり叩きつけた。
でも、糸の頑丈さはさっきの観察で証明済みだ。
何度木の枝を叩きつけてみたところで、所詮は子供の腕力、糸の束を切り裂けるわけがない。
それでも俺は諦めなかった。頭では無理だって分かってたんだが、諦めることができなかった。
「破れそう……?」
今にも泣きそうな声で聞いてきたヒナタに、俺は何の根拠もなく
「ああ、あともう少しだ」
と答えた。でも、ヒナタはそれを馬鹿正直に信じたんだ。
「あともう少し時間稼ぎできればいいんだよね」
実はその時、キャタピーの群れはじりじりと近づいてきていて、あと数メートルで俺とヒナタを繭にすることができる距離にまで迫ってきていた。
俺の言った"もう少し"が、キャタピーの接近に間に合わないと踏んだヒナタはとんでもない行動に出た。
自分からキャタピーの前に飛び出して、ヒナタの分の空のモンスターボールを、思いっきりキャタピーの群れの一体にぶつけたんだ。
思わず木の枝を取り落としたよ。キャタピーはその投擲を攻撃と見なして、標的をヒナタに絞った。
確かにこれで俺が作業を邪魔されることはなくなったが、その間、ヒナタの安全はどうなる?
しかもヒナタが望みをかけた俺の作業が、報われる見込みはないんだぜ?
俺は焦った。俺がついたくだらない嘘の所為でヒナタの身に何かあったら、俺はカスミおばさんにどう謝ればいいんだろうと思った。
でも同時に、俺はどうしようもなくビビッてた。
体を盾にしてヒナタを庇ったり、今度は俺がキャタピーの注意を引きつけることも考えたが、行動に移せなかった。
今思い出しても、あの時の俺は最低だったな……。
そうこうしてるうちに、キャタピーは完全にヒナタを追い詰めた。
ヒナタは大きな大木を背にしてしゃがみこんで、それでも泣かずに、潤んだ目で俺の方を見てた。
「逃げ道が出来たぜ!」って俺が言うのを期待してたんだろうな。
馬鹿だよな。今更逃げ道が出来たところで、ヒナタはどうやってそこからこっちまで戻ってくるっていうんだ。
いよいよキャタピーが頭をもたげて、糸を吐く準備をする。
俺は恥も外聞もかなぐり捨てて叫んだ。「助けて下さい! 誰でもいいから、ヒナタを助けてください!」
冷静に考えれば、こんな町外れの森の奥を、都合良く探検中のトレーナーなんているわけがなかったんだ。
当然返事はなかった。でも、その代わりに、空から炎が降ってきた。
最初はヒナタが炎に包まれたのかと思った。
でもよく見ると、その炎はヒナタの盾になって、キャタピーの糸を一瞬で蒸発させてるようだった。
炎が止むと、今度はその辺りの草木に燃え移りかけてた残り火を簡単に吹き消すくらいの風が吹き始めた。
物凄い風圧に目を瞑って、次に開けると、炎の壁の跡に、尋常じゃないでかさのリザードンが着地していた。
一目で分かったよ。
こいつは親父のポケモンや、ジムの観戦席から見たトキワジム挑戦者のポケモンとは格が違う。
その気になれば、数時間でここら一帯の緑地を焦土に変えられる。
それくらいリザードンの外見は凄まじかった。
羽はところどころ破れていて、体の表面は古傷だらけで、色も図鑑で見たのよりずっと褪せてる感じで、
でも、尻尾の炎は、どんなに水をぶっかけても消えないって断言できるくらい激しく燃え盛っていた。
キャタピーの群れはリザードン着地の風圧で吹き飛ばされたのか、怖れをなして逃げ出したのか、いつの間にかいなくなっていた。
俺は勇気を出してリザードンに近づいていった。死ぬほど怖かったけど、それ以上にヒナタが無事かどうか確かめたかった。
リザードンを避けるようにして横から回り込むと、どうやらヒナタは木の幹にもたれるようにして、眠っているみたいだった。
その前にはリザードンのトレーナーと思しき白髪混じりの男が、片膝をついてヒナタの手を握ってた。
「君はヒナタの友達かな」一瞬、誰がその言葉を発したのか分からなかった。
俺はガキで、目の前の男は白髪まじりのおっさんで、
若い男の声を出せる人間なんているはずがなかったからだ。
まさかこのリザードンが?と思って見上げてみても、虫けら見るような目で見下ろされるだけで、すぐに有り得ないと思い直した。
「すぐに大人を呼んでくるといい」また声がして、今度はその若い男の声が、目の前のおっさんが発したことが分かった。
その人の横顔をよく見ると、その人は実はおっさんじゃなくて、髪が灰色ががって見えるほど若白髪の多い青年であると分かった。
「私がその間、この女の子を見ているから」俺は混乱していた。
「ヒナタは大丈夫なんですか!?」「気絶しているだけだ。余程怖い思いをしていたんだろうね」
俺はその人が妙に優しい目をしている理由や、リザードンを従えてヒナタを助けに来てくれた理由も聞かずに走りだした。
昼の盛りで森の中でも明るかったのと、森の構造が複雑じゃなかったことから、俺はすぐに森を抜け出して、ヒナタの家に駆け込んだ。
親父たちはまだ談笑の途中で、俺とヒナタが居なくなったことにも気付いていない様子だった。
だから俺がなんとか事情を説明し終えた時には、二人とも血相変えて、怒るよりも先にまずその場に案内するように言った。
親父のウィンディに乗って元の場所に戻ったとき、ヒナタは俺が最後に見た時から変わらない姿で眠っていた。
でも、俺が不在の間ヒナタを見守ってくれているはずの男は、どこにもいなくなっていた。
無責任な野郎だ、と俺はそいつを心の中で罵った。もし無防備なヒナタが野生ポケモンに襲われたらどうするんだ、って。
けど、そんな憤りを露わにする暇もなく、俺は親父の鉄拳食らってぶっ飛んでた。
家に運び込まれたヒナタは、次の朝まで目を覚まさなかったらしい。
そして奇妙なことに前日、つまり俺と親父が訪問して冒険の末に気絶した日のことを、完璧に忘れていたんだそうだ。
俺はその話を、だいぶ後になって親父から聞かされた。
一日限りの記憶喪失……精確には心因性部分健忘っていうらしいな。
原因となる出来事は疑うまでもなくあの恐怖だろう。
こんなこと言うと言い訳じみてるけど、俺はそれからしばらく罪悪感に苦しめられたよ。
一日分の記憶が消えたってことは、ヒナタと友達になったことも無かったことになったってことだ。
でも、それも仕方ないと思った。
そしていつかあの時ヒナタを守ったトレーナーみたいに強いポケモントレーナーになるまで、お前には会わないでおこうと思ったんだ。