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帰ってきたエアームドが嘴で指したのは、
ヤマブキシティに本社を有する巨大企業にして、
ポケモン産業の中核を成すシルフカンパニーだった。
それからのあたしたちの行動は早かった。
タイチは既に荷物を小さく纏めていたし、
あたしの準備もあっという間に完了して、
エアームドは帰還早々、空の道を往復することになった。

「体力は大丈夫なの?」
「今なんか言ったか?」

声を張り上げるタイチ。
地上で十分だった声量は、空に上がった途端、小さな囁き声になってしまう。

「エアームドの体力は大丈夫なの?」
「問題ない。こいつは見かけ通りタフだからさ」

タイチの言葉を裏付けるように、エアームドが甲高い鳴き声を上げる。

「それよりヒナタ、お前の方は大丈夫なのか?」
「どういう意味?」
「寒いのが我慢できなくなったり、休憩したいときは無理せず言えってことさ。
 空は地上と全然気温が違うし、夜になると寒さは段違いに酷くなる。
 なあヒナタ、さっきも言ったと思うが、俺は別に一晩どこかで野宿しても、」
「いいの」

アヤの居場所は判明している。
けど、アヤがそこに留まり続けるという保証はどこにもない。
だから――。

「一刻も早くヤマブキシティに辿り着かなくちゃ。そうでしょ?」
「ああ」

エアームドは風に進路を揺さぶられることもなく、一直線に飛び続けた。
時々、野生ポケモンの群れが大移動しているのが見えたり、
鳥ポケモンの群れがあたしたちよりも低い空を横切っていくのが見えたりした。
茫漠とした森を越え、川を越え、丘陵を越えていくうちに、
あたしは距離の感覚が希薄になっていくのを感じていた。
カエデやリュウジと随分離れてしまったんだ、という実感が持てなかった。
やがて、あたしを僅かなりとも暖めてくれていた日差しが弱まっていく。
夕陽が地平線に沈んでいく。
なんだか妙な感じだった。理由はすぐに分かった。
普段と違う高い視点から入り日を"見下ろしている"から、落ち着かないんだ。
眼下の森、くすんだ茶色に染められた葉は赤い光に重ね染めされて、綺麗な黄金色で満ちている。
写真に収めたくなるほどの絶景は、
けれど数分も経たないうちに消えてしまう。
世界は夜の帳に包まれる。
地上も空も関係なく。

「そういえば、肝心なことを聞き忘れていたわ」

あたしがそれに気付いたのは、
丁度タイチが「行程の四分の三を翔破した」と告げた辺りのことだった。

「タイチは退院してから、どこで何をしてたの?」

「ああ……、それは……」

反応は鈍かった。

「まさかつい最近まで病院にいたってわけじゃないんでしょう?」
「病院は割と早く退院できたんだ。
 ヒナタとカエデがクチバを発って、半月くらいした辺りかな」
「その後は?」
「修行」

……………。
三点リーダ五つ分くらいの空白をおいて、

「え、それで終わり?」
「ああ、もうひたすら修行。
 明けても暮れても修行。
 精根尽き果てても修行。
 地獄みてえな毎日だった。
 ま、おかげでマグマラシはバクフーンに進化して、
 エアームドも手に入れることが出来たんだが……」

タイチの背中がぶるっと震う。
それが寒さによるものでないことは、なんとなく解った。
後ろから覗き込んだタイチの横顔は、
悪夢から目覚めた直後のように強張っていた。

「た、大変だったのね?
 どうしてすぐにあたしたちに追いつこうとしなかったの?」
「最初はそうするつもりだったんだ。
 でも、リハビリがてら、マグマラシの調整がてらのつもりで声をかけた相手がただ者じゃなかった。
 そのカレンのババア――」

と言いかけたところで、
タイチは病的なまでに素早い動きで周囲を警戒し、

「じゃなくて"カレンさん"は炎タイプのポケモン遣いでさ。
 それを聞いた時は、マグマラシの腕試し出来るしラッキー、なんて調子こいてたんだ、俺は。
 結果は惨敗だった。一瞬でやられちまった。
 もしかしたら親父とタメはれるんじゃねえかってくらいカレンさんは強かった。
 で、その後、何を思ったのかカレンさんはこう言ったんだ。
 『筋は良いが若すぎる。これも何かの縁だ、私が鍛えてやろう』ってさ。
 まるでそうすることが最初から決まってたみたいによ」
「そのカレンさんはどんな人なの?」
「さあ、カレンさんは自分について、あんまり多くを語ろうとしなかったからな。
 グレン出身で、妹が一人いて、とんでもなくポケモンバトルが強くて、クチバには休暇目的で来ていたってこと以外は、」
「違うわ。あたしが聞いてるのは……そのカレンさんの人となりのこと」
「背は高かったな、俺と同じか、それよりちょっと高いくらい。
 歳は30過ぎてるみたいだったけど、明眸皓歯、眉目秀麗とかの四文字熟語がぴったりの、とんでもない美人だった。
 胸も大きかったっけ、いやでもヒナタほどでは……ごふっ」

延髄に手刀をたたき込む。
なに勢いで口走ってんのよ、バカ。

「あー、まあ、あれだ。とにかくファッション雑誌からそのまま出てきたような人だったんだ。
 でも修行をつけてもらっているうちに、俺はカレンさんに男の影がない理由を、身をもって知ることになった。
 そりゃ誰もよりつかねえよ。あの人は真性のサディストだったんだからな。
 カレンさんは修行期間中、色んな技術を教えてくれたけど、修得までの過程はスパルタ教育なんてもんじゃなかった。
 古代スパルタにいたら表彰モンの教鞭の執り方だったね」

「でも実際に頑張ったのはタイチじゃなくて、バクフーンなんでしょ?」

厳しい指導で精神的に疲れるのは分かるけど、
肉体的に疲れるのは、ポケモンだけなんじゃないかしら。
タイチは力なく首を振って、

「違うんだ、ヒナタ。
 俺が教えられたことを守らなかったり、忘れたりする度に、
 カレンさんは心底嬉しそうに笑って、こう言うんだよ」

――貴様の記憶力にはうんざりさせられる。ギャロップ、物の覚え方を教えてやれ――

「辺りは一瞬で火の粉の雨だ。
 カレンさんは逃げ惑う俺を見ても、恍惚の表情浮かべるだけでさ。
 一回こっそり傘を持っていって広げたら、速攻で真っ二つに折られて、倍の火の粉浴びせられたっけ。
 きっとあの人は俺を虐めたいだけだったんだろうな」
悟りを開いたように、ほう、と息を吐くタイチ。

「そんな感じの毎日が一ヶ月ほど続いて、
 俺はそろそろ仲間のところに追いつきたいから、修行を終わりにして欲しいと申し出た。
 カレンさんはあっさり認めてくれた。
 しかも徒歩は辛かろうということで、今俺たちが乗ってる、このエアームドまで貸してくれた。
 ただし、一つ条件付きでな。
 色んなゴタゴタが終わって、ポケモンリーグ出場に必要なバッジを全部集めたら、
 エアームドの返却ついでに、グレン島の私の許に来い、ってカレンさんは言った。
 それだけじゃないぜ、それまでの態度を一遍して、私は結構お前のことが気に入っていたのだぞ、なんて言いやがったんだよ」
「それで、タイチはなんて返事したの?」

焦りに似た感情が込み上げてくる。
背が高くて、綺麗で、胸が大きくて、ちょっと性格が歪んでいるけど、女性の理想のような人となりをしているカレンさん。
あたしは無意識に自分とカレンさんを比較していた。
タイチは答えた。

「曖昧にしてある。
 カレンさんは普段から白黒ハッキリ付けたがる人なんだけど、その時は珍しく、その返事で許してくれたよ。
 実際にどうするかは、エアームドを返しに行く時になってから考えようと思ってるんだ。
 あの人性格は真面目にキツイけど、あの人のトコでポケモンリーグに向けて修行するのも悪くはなさそうだしさ」
ヒナタはどうしたらいいと思う、と訊いてきたタイチに、

「あたしに聞かないでよ。タイチが決めることなんだから」

反射的につっけんどんな答え方をしてしまう。
あたしは気付き始めていた。気付くまいとしていたことに。
遭逢は別離への布石である――。
誰かが言っていたその台詞の意味が、今ならよく分かる。
今は一緒に旅をしているカエデやタイチとも、いつかはバラバラになる。
あたしたち三人が大人になる頃には、
今流れている時間は時折思い出されるだけの、ただの記憶になってしまっている。
三人の関係もママとシゲル叔父さまの関係みたいに、
疎遠と親密の中間地点に落ち着いてしまう。
そう思うと無性に切なくなった。

「……タ、おい、ヒナタ」
「えっ、何?」
「ぼーっとすんなよな。どうしたのかと思って心配になるじゃねーか……」
「ご、ごめんなさい」
「進路に雨雲が確認できるんだが、どうする?
 エアームドは悪天候の中でも飛べるが、乗ってる俺たちは無事じゃ済まない。
 どこかで雨宿りするか、それともこのまま突っ切るかは、ヒナタの判断に任せるよ」
「雨雲はどれくらいの大きさなの?」
「暗くて正確な雲量までは測れない」
「雲の上を飛ぶことはできない?」
「エアームド単体ならな。
 でもその高さまで上がると、空気は薄くなるし、
 気温も極寒で生身の俺たちは耐えられない」

あたしは考える。
いつ晴れるともしれない雲をいちいち障害と認めていたら、いつまでたってもヤマブキシティに近づけない。

「……突っ切るわ」
「そう言うと思ったぜ」

エアームドが加速する。

「正面からの雨は俺の体で防げるけど、目は俺がいいって言うまで瞑っとけよ」

タイチがそう言ってから数秒後、
細やかな霧状の雨があたしの頬を撫で、その次の瞬間には、小粒の雨が容赦なくあたしを打ち始めた。
どっちが空で、どっちが地面なのか分からなくなるほどの雨の中、エアームドは確かな方向性を持って進んでいく。
どれくらい雨雲の下にいたのだろう、時間の感覚を失いかけていたあたしは、

「見ろよ」

というタイチの声で、恐る恐る瞼を開き、眼下の光景に息を呑んだ。
立体的な迷路を思わせる高層建築物の群れ。
昼と夜の境界を失わせる人工的な光の戯れ。
黒く濡れたヤマブキシティに、山吹色の華やかさはなかった。
「同じ国の中にある街とは思えねえな」

クチバシティのような張りぼてじゃない。
けど、タマムシシティのように娯楽と道楽の香りが満ちているわけでもない。
ヤマブキシティは本当の意味での"都市"だった。
第三次産業を中心に急成長を遂げ、
近年では第四次、第五次産業の発展が目覚ましい――とカエデが語っていたことを思い出す。

「とりあえず降りる場所を探そう」

とタイチは言った。

「地図を見てくれ」

あたしは言われたとおりに、バッグから地図を取り出した。
風に吹き飛ばされそうになるのを指で押さえながら、現在位置を確認――

「できるわけないじゃない」
「だよな」

二人揃って項垂れる。
整然と立錐する高層建築物の群れは、
まるで申し合わせたように灰色で、
大小の違いはあれど、どれも同じような形をしていた。

途方に暮れかけたその時、タイチは「閃いた」という感じに手を打って、勢いよく振り向いた。
エアームドが軽く揺れる。

「シルフカンパニーの社標を探そう」

シルフカンパニーの社標を知らない人間はいない。断言できる。
テレビで、インターネットで、雑誌で――様々なメディアを通して、あたしたちはその社標を認知している。
紫と白に塗り分けられ、上部にMの文字が刻印された、
モンスターボール最上位互換、マスターボール。
捕獲率は驚異の99.9パーセント。
年間十数個しか製造されず、極めて稀少価値が高い。
その理由をシルフカンパニーは技術的な問題だとしているが、真実は定かでない。
ポケモンリーグ優勝者には、スポンサーであるシルフカンパニーから、
マスターボールが授与されるのが通例となっている。
価格は一般公開されていない。
でも、例え公開されていたとしても、とても一般人が手を出せる金額じゃないことは確か。
完全なオーダーメイド方式で、オーダーできるのはVIPに限られている。
ポケモントレーナーなら、誰でも知っていることだった。

「見つかるかしら?」
「シルフカンパニーはヤマブキシティでも五指に入る高層ビルらしいぜ。
 しばらく飛んでりゃ嫌でも目に入ってくるんじゃねえか?」

と楽観的にタイチは言い、続いてエアームドに高度を下げるよう指示した。
甲高い鳴き声が応え、徐々に街の風景が迫ってくる。
サーチライトの光が幾本も夜空を貫いている。
ビルとビルの隙間のずっと下の方から、微かに喧噪の気配がする。

「ヒナタも俺と一緒で、目が良かったよな?
 俺は前方を担当するから、後ろの方を頼む」
「分かったわ」

あたしは前を向いたままのタイチに頷き、すぐに視線を斜め下に降ろした。
通り過ぎる景色は10分経っても変化を見せなかった。
同じようなビルばっかり。
雨に降られた体が、急速に冷え始めてきたのが分かる。
あたしはふと視線を上げた。そして暗闇に紛れて飛翔する四つ――いや、まだいる――五つの点を見た。

「……タイチ、あれを見て」
「どうした、何か見つけたのか?」
あたしは指さした。タイチはその方角に目を凝らし、

「なんだありゃ」
「分からないわ。いつの間にかいたのよ」

さっき見た時よりも、距離は更に詰まっている。
それがただの大きな鳥の群れではなく、飛行ポケモンの編隊であることは明白だった。

「追跡……されてると考えるのが妥当だよな」
「とりあえず着陸するというのは?」
「ダメだ。大体の位置が割れてるんだ、すぐに包囲されちまう」

振り切れ、とタイチがエアームドに命令する。
あたしが反射的にタイチにしがみつくのと同時に、エアームドが安定を犠牲にして加速する。
振り向く。揺れる視界の先に、滑るように接近してくる紫色のポケモンを捉える。
何度数えても5体。それ以上増えもしなければ減りもしない。


距離が狭まるにつれてそのポケモンの特徴が明らかになっていく。
両腕は大きな鋏で、尻尾の先端は蠍のように尖っている。
手と足にかけて鮮やかな青の飛膜がある。
でも、そんなことが分かったところで、あたしには何もできない。
ただタイチを信じて、その体にしがみつくことが精一杯だった。
先頭の飛行ポケモンが数mのところに迫る。

「タイチっ!!」
「今からちょっと派手な飛び方する。
 だから、何があっても俺を離すな。余計なこと考えずに掴まってろ」

背中に向かって頷く。
刹那、エアームドは上昇に転じた。
眼下の空を、鋏をいっぱいに広げた飛行ポケモンが切り裂いていく。
ロールしつつ角度が垂直になったところで失速。
重力と推力が釣り合い、まるで宙に放り出されたような感覚に襲われる。
追撃にかかっていた別の飛行ポケモンが勢いを維持したままあたしたちを通り過ぎる。

「エアカッターだ」

タイチの声が聞こえる。エアームドの赤い羽が僅かに震え、
目に見えない空気の刃が放たれる。
その技の威力を知る前に、
エアームドは重力に身を任せ、街の光に向かって落ちていく。
恐怖は感じなかった。タイチを離さない――それだけしか頭になかった。
地上と空の距離なんて、垂直降下すればあっという間に尽きてしまう。
視界に収まっていた風景の範囲が狭まっていく。
まるで航空写真を拡大するみたいに。
あたしは一瞬後ろを振り返る。
三体に減った飛行ポケモンはぴったりと後ろをついてきている。
個々による攻撃は効かないと判断したのだろうか。三体は固まって飛行していた。
前を向いたとき、既にビルは目前に迫っていた。
給水塔や室外機を細かく描写できるぐらいに。
ぶつかる――そう思った次の瞬間、
エアームドは軌道を僅かに反らし、ビルとビルの間に潜り込んだ。
信じられないほどの数の窓から漏れる白い光が、あたしの両脇を駆け抜けていく。
それを綺麗だと思う暇もなく、エアームドは身体を水平に戻す。
一時たりとも静止しない。視界に移る景色は目まぐるしく移り変わる。
幅が4mにも満たないビルとビルの隙間を抜けていく。
ヤマブキシティを初めて見た時に感じたことは正しかった。
立体的な迷路とはまさにこのことだと思った。
ただしその迷路には、きちんとした出口が用意されていない。
左、右、右、左、右――。
いったいいくつの曲がり角を曲がったんだろう。
どれだけのビルを通り過ぎたんだろう。
突然目の前に現れた建設工事中のビルを見て、あたしは絶句した。
それはタイチも同じはずだった。
上昇に転じるにも下降に転じるにも遅すぎる。
残された道は、複雑に絡み合った鉄筋に突っ込んでいくことだけ。
背後の追跡ポケモンがどうしているのかを知る余裕なんてない。

「伏せろ!!」

タイチの怒鳴り声が聞こえる。
エアームドが外側の鉄筋を躱す。
柵状の骨子を飛び越える。
でも、そこまでだった。
金属と金属が激しくぶつかりあう音が聞こえ、あたしの視界は暗転した。


夢の終わりは現の目覚め。
見開く。即時に状況を確認する。
相手の数は?
属性の相性は?
推定レベルは?
総合戦力は?
地形の特徴は?
制限事項は?
趨勢はどちらに傾いている?

「ピィ……ピィ……」

"何を"しているんだ、僕は。
倒すべきポケモンなんてどこにもいないじゃないか。
さあ落ち着け。呼吸を整えろ。
どこかに焦点を合わせるんだ。
自分を落ち着かせるために言葉を並べ立てる。
それでも胸騒ぎが収まらない。
どうやら僕は飛び切り酷い悪夢を視ていたようだった。
タオルケットを除けて身を起こす。
シーツは汗でぐっしょり濡れていた。
僕は夢の内容を思い出そうと努力した。
光と影の対比が眩しい場面が連続する。
視点はまるで空を飛んでいるみたいに縦横無尽に動き回る。
しかしそれにも終わりがやってくる。
僕は耳慣れた誰かの声が、悲痛な叫びに変わるのを耳にした……。

「チュウッ!」

ヒナタ! そうだ、あの声は間違いなくヒナタのものだった。
いてもたってもいられなくなる。
僕はベッドを抜けて、それまで一度も触れたことのなかったドアノブに手を掛ける。
身体の痛みは大分引いている。これも一重に看護婦さんたちの治療のおかげだ。
ヒナタを助けに行かなければ。
彼女はきっと今頃助けを求めている。
彼女はそれを、夢を通して僕に伝えようとしたんだ。

「ピカ、チュ……」

でも僕は結局、理性に従わざるを得なかった。
ノブに数秒ぶら下がったあと、それを内側に開かないまま床に着地した。
身体の痛みは引いている?
笑えない冗句だ。
僕は未だ元の力の半分も取り戻していない。
無理に動かそうとすれば、四肢が、内臓が、引き攣られるように痛む。
それにヒナタが自分の危険を夢で知らせようとしたという推測も、あまりに非現実的かつ非科学的すぎる。
夢と現実を混同してはならない。
境を見失ってはならない。
「チュッ」

僕は未だに調子の戻らない電気袋を両側から叩き、ベッドに戻った。
サカキは最後の面談以来、一度も姿を見せていない。
必要な情報を聞き出したからもうお前と話す必要はない、私は多忙なのだ。
そういって約束を反故にされる可能性も十分にあったが、僕は彼を信じていた。
否、信じていたと言うと誤謬がある。
彼は一度交わした約束を――例えそれが口約束であったとしても、だ――破らないという確信があった。
仰向けになって天井を眺める。
黒というより青藍に近い色合いは僕の気分を落ち着かせてくれる。
浅い眠気が押し寄せてくる。
けれど言わずもがな、僕はその夜のほとんどを眠りの縁で過ごした。


瞬きを数回繰り返す。
あたしは荒削りな床に横たわっているようだった。
ゆっくりと身を起こす。激痛を覚悟する。
傷ついているのはどこ?
浅い傷が広範囲にあるのと、深い傷が狭い範囲にあるのとでは、どっちがマシなのかしら?
けれど、いつまで経っても来るべき痛みがやってこない。
これはもしかして、頭を強打して痛みの感覚が麻痺しているということなのかな。
頭にそっと手を這わしてみる。特に陥没しているところはなかったし、血を流しているところもなかった。
つまるところあたしは、まったくの無傷だった。

「九死に一生とはこのことね……」

カエデに自叙伝を書くことを薦められていたけど、本気で考えてみようかな。
工事途中の高層ビルに突っ込んで無傷でした、なんてそうそう起こりえることじゃない。
平たく言えば奇跡よ。
なんだか奇妙な感覚だった。全然面白くないのに笑ってしまうような、そんな感じだった。
あたしは辺りを見渡した。
柵状の骨子はあらぬ方向にねじ曲がっていた。
組み立て過程の配管は継手からバラバラになって散乱していた。
そしてふと視線を傍らに降ろすと、エアームドに寄り添うようにしてタイチが寝ていた。
最初は寝ているんだとばかり思っていた。だって、全然苦しいとか、そういう表情をしていなかったから。

「タイチ、起きて」
「…………」
「タイチ、あいつらはもうどこかにいっちゃったみたい。
 あたしたちが死んだと思っているのかもしれないわ。だから――」

早くこのビルを出ましょう、と言いかけたところで気付く。
タイチは頭から血を流していた。
「イヤ! 起きて! 起きてよっ!!」

身体を揺さぶる。
怪我に響くかもしれないことなんて頭の中になかった。
ずっと昔に習った応急処置のやり方なんて跡形もなく吹き飛んでいた。
死んじゃったらどうしよう。
焦りがあたしを支配していた。

「…………ん」

小さく声が漏れる。目が薄く開かれる。

「タイチ!?」
「……ああ……どうしたんだ……、ヒナタ………?」

その瞬間、あたしは自分の感情を抑えることが出来なかった。

「……うっ……ひくっ……」
「おい……なんで……、お前が……、泣いてんだよ」
「良かった……タイチが生きてて良かった……」

「ははは……勝手に殺されちゃ、たまらないからな」

タイチの言葉がはっきりしてくる。
起き上がろうとする身体を、あたしはその場に押しとどめた。

「ま、待って!」
「どうしたんだ?」
「タイチ、怪我してるのよ。頭からたくさん血が出てるの」

頭に手を遣り、暗闇の中で血を眺めるタイチ。
もしあたしがタイチならパニックを起こしているに違いないのに、
何故かタイチの表情は冷静で、今にも空気の読めない行動に走り出しそうに見えた。

「ヒナタ、お前に一つ質問がある」
「なっ、何?」

涙は収まったものの、声がまだ少し裏返ってしまう。

「お前ってさ、生まれてきて頭に怪我したこと、ねえだろ」
「え……う、うん。ないよ」

タイチはあたしの手を押し返して起き上がり、あぐらをかいて言った。

「あのな、頭部からの出血っつーのは、大抵大袈裟なモンなんだよ。
 マジでヤバイ時は血が出ないんだ。どうだ、知ってたか?」

あたしは横に首を振る。
「じゃあ、タイチの怪我は大したことないの? 平気なの?」
「怪我の程度は分からないが、命に関わるほどじゃねえと思う。
 ちょっとクラクラするくらいだ。
 あと、身体の色んなトコが痛む。
 骨は折れてないみたいだけどな」

ヒナタはどうなんだ、とタイチは質問を返してきた。
あたしは声が裏返らないよう努力しながら答えた。

「元気よ。どこにも怪我はないわ」
「良かった。俺なんか怪我しまくっても全然かまわねーけど、ヒナタはそうもいかないからな」
「タイチは怪我してよくてあたしは怪我しちゃだめなの?」

タイチは真顔で言った。

「……だってほら、ヒナタは女だろ」
「…………」

束の間、言葉を失う。
そこでエアームドが苦しげな鳴き声を上げなかったら、
あたしは一時的な失語症になっていたかもしれない。

「降りよう」

とタイチは言い、エアームドをボールに仕舞った。

「エアームドの羽は片側が完全に折れてた。
 多分俺たちを庇って、自分を犠牲にする姿勢でビルに突っ込んだんだろうな。
 応急処置でどうにかなるような怪我じゃない。ポケモンセンターを探そう」
――――――
――――
――

「ねえタイチ、あたし、ヤマブキシティとタマムシシティの共通点を見つけたわ」
「……なんだ?」
「路地裏の汚さよ」
「はは……言えてる」

あたしたちが突撃したビルの高さはそう高いものではなかった。
作業用に設置されていた外周の足場を使って、なんとか地上に降りることはできた。
けど、そこからが問題だった。
ビルの正面はちょっとした騒ぎになっていた。
脇の影から野次馬の姿をのぞき見ると、会社帰りと思しき人たちが群れを成し、互いに何かを囁きあっていた。

『何があったんだ?』
『さあな。俺も今来たところだ』
『物凄い音がした後に、あの部分から煙が上がったらしい』
『爆発か?』
『火は上がってないみたいだし、化粧板の繊維物質でも散ったのが煙に見えたんじゃないか』
『その繊維物質が飛び散った理由は?』
『それが分かれば苦労しないさ。けど、何にせよ非日常な事件には違いない』

あたしとタイチはしばらくそのまま身を潜めていた。
けど、野次馬はいっこうに立ち去ろうとせず、
仕舞いにはサイレンの音まで聞こえ始めたので、
あたしたちはそのまま裏道に逃げ込んだ。
うかつに出て行ったが最後、事情聴取されるのは目に見えていた。

野良猫が異物を見るような目であたしたちを一瞥し、どこかに去っていく。
ゴミ溜めから発散される饐えた匂いは、吸った分だけ身体に害を与えているような気がする。
見上げる。長方形に切り取られた夜空だけが、この路地裏で唯一清浄な光景だった。
あたしは言った。

「メインストリートに出るわ」
「おいおい、今の俺たちはびしょ濡れでしかも埃塗れなんだぜ。
 この街でこの格好は浮きすぎる。
 メインストリートに出るのは、もう少し人通りが減ってからに……」

数度目の遣り取り。でも、今度ばかりは違っていた。

「そんなの待ってられない。
 これ以上、タイチの怪我をほっとくことなんてできない!」
「ちょ、ちょっと待てって!」

もうタイチの言うことなんか聞かない。
強引に腕を引っ張って、それまで避けて歩いていた、目映い光の筋に近づいていく。
そして――。

「………………」

言葉が出ない。そこにはあたしの知らない世界が広がっていた。
首を背中にくっつけなければ果てが見えないほどのビルが乱立し、
その足許でヤマブキシティに相応しい身なりの人々が、
ヤマブキシティに相応しい歩き方で、どこかへ向かっている。

「やれやれ。
 またひとつ、ヒナタについて覚えることが増えたよ。
 一旦決心したらテコでもそれを曲げない頑固者」

時折、脇道から出てきたあたしたちの存在に気付いた人が、
「気付かなければ良かった」という顔をして足を早めていく。

「これからどっちに向かう?
 とりあえず雑踏に紛れてみるのもいいかもな。
 頭から血を流した人間に近づく奴は警官以外にいないだろうし、すいすい進めると思うぜ」

皮肉を言ってくるタイチを睨みながら、
あたしはどうやってポケモンセンターを探すか思案する。
けど、妙案が思い浮かぶよりも先に、嫌な視線を首筋に感じた。
雑踏の中、二人組の男がじっとあたしたちを凝視していた。
片方が何か囁き、片方が頷く。
「逃げないと」
「今度はどうしたんだ?」
「見つかったかもしれない」
「誰に?」
「追っ手に」
「そりゃ一大事だ」

タイチの手を引いて路地裏に引き返す。結果は既に見えていた。
タイチは身体の各部を痛めていて走る事ができないし、あたしはそのタイチを支えるので精一杯だった。

「ちょっと待て!」

路地裏に男二人の声が響き渡る。
あたしが観念しようとしたその時、

「ちょっと待ってくれってば!
 あんたたちが誰か確認したいんだ。俺たちの知り合いかもしれないんだよ」
「え……?」

反射的に振り返る。片方の男が邪気のない笑顔を見せて、片方の男の肩をどついた。

「ほら、言った通りじゃねーかよ」

間髪入れずにどつき返しながら、

「お前の直感はたまにしか当たらねーから信頼性に欠けるんだよ」
「あの、あなたたちは一体……?」
「うわ、ちょっとショック。でもま、俺らもここ来て変わったし仕方ないか。
 お久しぶりっす、ヒナタさん。確かクチバ以来っすよね?」
タイチは深々と溜息を吐いて言った。

「いい加減気付いてやれよ。
 十番道路の発電所近くで、ヒナタとカエデが氷漬けにした、あいつらだ」

"その二人組"のことならよく覚えている。
クチバシティからシオンタウンの間にあるイワヤマトンネルを抜けるために、
フラッシュが使えるマルマインを貸して貰ったことも、
別れ際、二人が『これからヤマブキシティに向かう予定なんです』と言っていたことも。
でも、その二人組の外見と、目の前の二人組の外見は余りにもかけ離れすぎていた。
髪は黒に染め直されていて、ピアスは着けていなくて、服はそれなりに高そうなグレイのスーツで、靴は黒の革靴で。
頭の中で小さな混乱が起こる。
そんなあたしを余所に、二人組はテキパキと行動を始めていた。
片方がタイチの腕を取って自分の首に回し、
もう片方があたしとタイチの荷物を抱える。

「お久しぶりです、タイチさん。
 何があったかは聞きませんけど、ひでぇ怪我っすね」
「こんな予定じゃなかったんだけどな。
 あといい加減タメ語使えよ。クチバにいた時何度も言っただろ。
 お前、俺より一つ年上なんだぜ」
「恩人相手だと自然と敬語になっちまうんですよ。いや、マジな話」
荷物を抱えた方の男は小さな声で尋ねてきた。

「カ、カエデさんは一緒じゃないんですね?」

頷き返す。男はホッと息を吐いた。
あたしはその仕草でやっと、目の前の二人組とクチバで出会った二人組が同一人物であると信じることが出来た。
タイチに肩を貸した男は言った。

「ここから数ブロック離れたところにポケモンセンターがあります。案内しますよ」