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元ロケット団の三人組が見舞いに来てから三日後の朝、
花瓶に瑞々しい花を生けながら、看護婦さんはまだ微睡みの中にいる僕に語りかけた。

「あともうしばらくで、サカキ様がお見えになります。
 今のうちに準備をしましょうね」
「ピィカ……」

身体を起こしてもらい、濡れたタオルで身体を拭かれる。
口を開く。舌下に体温計を添えられる。口を閉じる。
やがて電子音が鳴り、看護婦さんが体温計の指数を確認する。
体温計を取り出すときにさりげなく頬をつままれたことは、眠気もあって不問にする。
彼女は点滴の薬液パックを手際よく交換し、調節弁に微妙な加減をする。
僕は余計な身動きをせずに、彼女の動きをじっと眺める。
この三日間の間に、僕は彼女を信頼できるようになっていた。
彼女が非常に優秀なポケモン医療従事者であることは明らかだった。
ただ、患者への献身的姿勢が倒錯的な保護欲に繋がることが間々あり、
その所為で僕は彼女に見守られながら午睡したり、
なんとか一人で食事ができるほどに回復しているのにも関わらず、
ポケモンフードの一粒一粒を彼女の手で食べさせてもらわなければならなかった。
このままでは怠け癖がついてしまう。
そう分かっていても、面と向かって彼女の『医療行為』を拒否できない。

「ピ、ピカチュ」

やれやれ、いつから僕はこんな優遊不断な性格になってしまったんだ?

「もう少し眠っていてもかまいませんよ」

看護婦さんが僕の口元まで毛布を引き上げてくれる。
お言葉に甘えて二度寝しようかと考える。

しかしその試みは中断を余儀なくされた。
皎潔の密室が開け放たれ、臙脂色のスーツを着こなした杖突の男が入ってくる。
サカキだった。
入れ替わりに看護婦さんが退室するのを、僕は薄く開けた目で見送った。
サカキに忠誠を誓い絶対の信頼を置きながらも、
僕のことが心配でたまらないという風な二律背反の瞳が印象的だった。

「起きているな」

とサカキは言った。ここに来て分かったことだが、
多くの支配者がそうであったように彼もまた無駄を嫌い極力省く性格をしている。
何故ノックをしなかったのかと非難の視線を浴びせても、
『事前に看護婦を通して伝えてあったのだ、問題はあるまい』と切り替えされるのがオチだ、
僕は毛布から首を出して答えた。

「ピィ」

起きているとも。

「今日この場に訪れたのは、昨日一昨日のような見舞いめいた容態確認のためではない。
 お前と対話するためだ。来い、ペルシアン」
優雅な足運びで現れた白猫は、サカキの傍らで彼を仰いだ。

「翻訳しろ。一字一句、可能な限りな」
「ニャー」

その従順な様に、僕はこのペルシアンがかつてムサシとコジロウの間に収まっていたニャースの進化した姿であることを忘れそうになる。

「ピーカ?」

君は本当に元ニャースのペルシアンなのか?

「失礼だニャ。ニャーはニャーであってそれ以外の何者でもないニャ!」

サカキは穏やかな笑みで静かに言った。

「"翻訳"しろと言ったはずだが?」
「ニャッ……すみませんニャ。ピカチュウはニャーが、その、
 昔ピカチュウを追いかけ回していたあのニャースと同一のポケモンかどうか尋ねてきたんですニャ」

「なるほど」

サカキは感慨深げに言った。

「ピカチュウが覚醒してからお前と話すのはこれが初めてだ。
 お前が現在私の手許にいることについて違和感を感じるのも無理はない。
 そうだな?」
「そ、その通りですニャ」

ペルシアンは誰の目に見ても明らかなくらいに狼狽えている。
サカキはペルシアンが秘密で僕に会っていたことを知った上で、あんな質問をしているのだ。

「ピカピーカ」

意地の悪い性格をしているな、まったく。

「ニャ、ニャーにそんな翻訳は出来ないニャ!」
「全て翻訳しろ。どんな内容であれ仲介のお前に責任はないのだからな」

よほど主を貶す言葉を口にしたくなかったと見える、ペルシアンは口をモゴモゴさせた後、

「ボスは意地悪だと言っていますニャ」

と苦しそうに言い、拳骨が飛んでくるのを怖がるみたいに頭を抱えた。
サカキは愉快そうに言った。

「いかにも、私は意地悪だ。
 しかしお前にそれを指摘されたところで、だから何だというのだ?」

……ただの感想だよ。
「なら胸に仕舞っておくことだ」

サカキはそう言うと予め用意されていた椅子に腰を下ろし、
これから話すことについて思いを巡らすように細長い息を吐いた。
あるいはただ単に足が楽になったからかもしれないが。
そういえばサカキが杖を突いている理由は聞いていなかったな、と僕はふと思い出した。
しかし今尋ねるべきことではないと思い直し、サカキが口火を切るのを待った。
ペルシアンが手持ち無沙汰そうに髭を撫で始めた頃、サカキは言った。

「私が知りたい情報は非常に限定されたものだ」

僕はここで初めて目を覚ました時のことを思い出す。
記憶にまだ障害が残っていた僕に、サカキは落ち着き払った口調ながらも、
しきりに最終実験の相手ポケモンについて情報を引き出そうとしていた。

「私は恐らくお前の質問にほとんど対して明確な回答ができる。
 しかし、私が未確認かつ、早急に事実確認せねばならない事項が一つある。
 察しの良いお前ならもう分かっているだろう。
 お前が私の部下から脱出される直前に相対していたポケモンについて、子細に説明してもらいたいのだ」
「ピ、ピカチュ?」

いいだろう。
でも、それを語り終えた後は僕が抱えている膨大な質問に答えてくれるね?
ペルシアンを通した僕の願いに、サカキは「約束しよう」と断言してくれた。
僕は勿体ぶらずに言った。

「ピカピーカ、ピカ、チュ」
「ニャ、ニャんですと!?」

ペルシアンが己の役目を忘れて唖然とする。
ゆっくりと言い直す。
ペルシアンはそれでも半信半疑な様子で口をパクパクさせていたが、しかしサカキに睨まれ僕の言葉を翻訳した。

「ピカチュウはあの場所で、ミュウツーと戦ったと言っていますニャ」

「やはり完成していたか」

僕はその反応から、サカキがあの施設、延いてはその背後に潜む何か巨大な陰謀の核に触れていると推測した。
この世には伝説のポケモンが存在する。
火の神、ファイアー。
雷の神、サンダー。
氷の神、フリーザー。
自然を司るとされているこれら三鳥は
その中でも特にポピュラーな伝説ポケモンだが、
幻ポケモン・ミュウの世俗的認知度には劣るだろう。
人々に知られ噂されているのに幻のポケモンとは矛盾しているように聞こえるが、
その二つ名は事実に基づいて名付けられており、目撃例は前述の三鳥よりも遥かに少なく証言も曖昧だ。
だからミュウは永い間、世界を旅するポケモントレーナーが描いた空想の産物だと言われていた。
しかしとある探索チームが持ち帰った資料からミュウの遺伝子が発見されたことにより、
一部の研究者の中で、ミュウは現実に生きるポケモンとして認められた。
ミュウの遺伝子は当時の遺伝子工学の粋を結して研究された。
研究者たちが考えたのは、全てのポケモンの遺伝子を併せ持つミュウのそれから、最強のポケモンを作り出すことだった。

結果的にその試みは成功した。
名も無き孤島の、名も無き研究所で。
莫大な資金援助によって用意された最新の研究設備と優秀な研究者たちは、
世界中のどんなポケモンよりも強いポケモンを創り出した。
その名を「ミュウツー」という。
しかし喜びも束の間、代償として支払われたのは研究者たちの命だった。
ミュウツーは自分を創った人間を怨んだ。根因であるミュウを憎んだ。
自分がクローンであることに劣等感を抱いた。
そうして彼は、人間に復讐することを決めた。
優秀なポケモントレーナーを孤島に集め、
彼らが持つポケモンのクローンを創り、
それとオリジナルを戦わせることで優劣をつけようとした。
そのポケモントレーナーとして選ばれたのが、サトシだった。
クローンとオリジナルが互角の戦いを繰り広げ、消耗し、倒れていく中で、
ミュウツーと、ミュウツーの存在に気付いて現れたミュウだけが不毛の争いを続けていた。
サトシにはそれが我慢ならなかったのだろう、
自分の身体を以てミュウとミュウツーの争いを仲介しようとした。
それは失敗に終わった。彼は死んでしまったかのように思えた。
だが、彼の行動はオリジナルとクローン両方の心を打ち、争いは終わった。
サトシは回復し、改心したミュウツーはミュウやクローンポケモンと共にどこかへ去っていった。
その後の彼らの消息を、僕は知らない。
だから僕はサカキにこう付け加える。

「チュウ、ピカチュ」

僕があの地下研究施設で相対したポケモンは、ミュウツーであって、ミュウツーじゃない。
強化骨格の合間に見えた体表が漆黒であったという外見的な差違は関係なく、
生きることの意味を見つけようとしていたあの悩み多きミュウツーと目の前の人形のようなポケモンはは決定的に違うと、
鍔迫り合いながら確信していた。

サカキは険しい表情で続きを促した。
僕は戦闘中に感じたある違和感や、記憶の整合性を取り戻してから思い出したマサキの話について語ることにした。

「ピカ、ピカピーカ、チュウ」

僕は本物のミュウツーと戦ったことがある。
そしてその時の記憶は今も鮮明に残っている。
彼は最強の名に恥じぬ、圧倒的な力を持っていた。
それに比べて僕があの地下研究施設で戦ったミュウツーは、今から思えば弱すぎた。

「というと?」

彼は、過去に彼が得意としていたサイコキネシスやテレポートといった技を使わなかったんだよ。
それは意図的に封印しているというよりは、使いたくても使えない、というような印象を受けた。
なんとなくだけどね。
「なんとなくでも構わん。
 あの場にいたお前だけが知っていることが、他にもあるはずだ」
「ピカ、チュウ」

君の部下が僕を助けに来てくれた時――正確には突入する際に地上で混乱を巻き起こした時――実験は突然中止された。
といっても、中断のアナウンスが流れたわけではなく、
ミュウツーの姿形をしたそのポケモンが停止したことによって実験の中止を知ったんだ。
このことから伺えるのは、彼が完全に研究者たちの管理下に置かれていたということだ。
彼に自由意志はなかった。
といっても、強制的に命令に従わせられているわけではなく、
彼には命令を吟味する思考そのものが無いようだった。
いうなればポケモンという名の機械人形だよ。

「制御のために自我を取り上げたか。
 が、しかし――」

言い淀んだ先の言葉がとても気になったが、
それは後で聞かせてもらえばいいだろうと思い直し、

「ピカピカー」

軟禁当初に僕の世話を見ていたのが、先端技術研究所副所長の木戸マサキであることを告げた。

「知っている」

やっぱりね。僕の所在を突き止めた君のことだ、そんな気がしていたよ。

「ピカ、ピカ、チュウ」

僕は既にサカキの想像が及んでいることを知りながら、
マサキが僕に教えてくれた強化骨格と最終被験体の関連性について述べた。
――強化骨格は最終被験体をベースにして量産される。
最終被験体はミュウツー(厳密にはミュウツーに酷似したポケモン)だった。
ミュウツーは生殖機能を持たない。
既に生物として完成し、最強であるが故に、子孫を残す必要がないからだ。
しかし強化骨格が量産される以上、その数と同じだけのミュウツーが用意されなければならない。

推理は自ずと過去に帰結する。
ミュウツーは遺伝子工学の粋を結して創造された。
資料に不足はない。科学技術も当時と比べて数段進歩を遂げている。
ミュウツーのクローンを創るのは、そう難しいことではないはずだ。
サカキは頷き、部屋の左に面した窓に視線を向けた。
しかし僕には彼が、窓外の景色を透かした先に、遠い過去の記憶を見ているように感じられた。

「ミュウスリー」
「チュウ?」

ミュウスリー?

「彼らが便宜的に読んでいる、そのポケモンの名だ。
 ミュウツーがミュウを基にして創られたように、ミュウスリーもミュウツーを基にして創られたのだ」

「ミュウの持つ高次のESP能力を戦闘に特化させた結果、
 その副作用として、ミュウツーはミュウとは異なる身体的特徴を得た。
 しかしミュウスリーの場合は、ミュウツーのクローンと言って差し支えがない。
 ミュウツーの完成度の高さ故に、改変の余地が無かったのだろうな。
 体表が黒く変色していたらしいが、それは恐らく、
 ミュウツーとの区別、或いは強化骨格の損傷程度を視認しやすくするためだろう」

君はやけにミュウツーについて詳しいんだな。
僕は何気なく聞いたつもりだった。
が、サカキの返答は僕の予想を軽く上回っていた。

「当然だ。私はオリジナルのミュウツーを従えていたことがあるのだからな」

なんだって?
君のトレーナーとしての力量を軽んじているわけではないが、
ミュウツーは誰かに命令されることを最も嫌っていたはずだ。

「お前とお前の主がミュウツーと出会うよりも前、
 ミュウツーが自分を創りだした研究所を破壊し、その場にいた研究者を皆殺しにしたあの孤島で、
 わたしは葛藤に喘ぐミュウツーに接触を持った。
 ――お前は強大な力を持て余し、それどう使うべきなのか、悩み、定めかねている、
 私が道標を教えてやろう、力とは破壊と略奪のために使うべきなのだ、
 お前は力の抑制と正しい行使のために私を利用し、その代償として私はお前に協力してもらう――。
 私はそう騙った。
 『利害の一致』はミュウツーを納得させ、かくして私は最強のポケモントレーナーとなったのだ」

しかし、とサカキは平坦な口調で続ける。

「お前も知ってのとおり、ミュウツーは悩み多きポケモンだった。
 奴は人間を含めた地球上のどのような生物よりも明晰な頭脳を持っていた。
 私は生まれて間もない奴の思考の虚をついたに過ぎない。
 自我の模索を始めたミュウツーは実に素早く行動を起こした。
 奴は私の屋敷を破壊し、私の元を去っていった。
 あの時すぐに脱出していなければ、私は瓦礫に埋もれて死んでいただろう。
 私はその後、当時屋敷の警備を行っていた部下の死亡者リストに目を通しながら、
 ミュウツーを逃がしてしまったことに深い自責の感情を抱いている私に気がついていた。
 奴は他の生物を殺すことに特別な感情を持たない。
 無感情に、無感動に、己の邪魔となるものを排除する。
 奴はやがて人類の天敵となりうるのではないか。
 結果的にその予感は外れたが、
 もしお前の元主――サトシ――がミュウツーを改心させていなければ、
 ミュウツーはそう遠くない未来、人類に『復讐』を試みていたかもしれない」

僕はいつしか相槌を打つことを忘れてサカキの話に聞き入っていた。
何か言わなければならない、そう思ったが適当な言葉が思い浮かばなかった。
ミュウツーを改心させたサトシの功績を誇る気にも、人類が復讐に遭わずに済んで良かったと安堵する気にもなれなかった。
結局僕は何も言わなかった。
翻訳すべき言葉のないペルシアンも黙っていた。
ささやかな沈黙の後、サカキは「昔話が過ぎたな」と言い、

「さて、私は早速、今の情報を然るべき者達に伝達しなければならない。
 話の続きはまた後日に行うとしよう。
 お前は次までに私に尋ねたいことを纏めておけ。
 多くの物事がそうであるように、質疑応答もスムースに進行することが望ましい」

杖を立て、前のめりになる姿勢で腰を上げた。
サカキが踵を返す。ペルシアンもその後に続きかけ、一瞬振り返って、

「リハビリ頑張るニャ」

と言ってくれた。ドアが閉まる。
入れ替わりに戻ってくるかに思えた看護婦さんは、しかし、まだ僕とサカキの話し合いが終わったと知らないようだった。
僕はリノリウムの床を鳴らすサカキの靴音が消えるまで、
彼とミュウツーが紡いだ会話について思いを巡らせていた。


壁時計の針が11の数字を指しても、処置室の扉は閉ざされたままだった。
秋の夜長、暖房の効いていない廊下は屋外のように冷たい空気で満ちていた。
けれど、あたしは寒さを感じなかった。
切れかけた蛍光灯が振動する、ぶーんという音も耳障りに聞こえなかった。
ただ、斜向かいにある扉が開かれる瞬間に、全神経を集中させていた。

「ねえ」

とカエデはくぐもった声で言った。

「聞いてる?」
「うん、聞いてる」

カエデは寒そうにワンピースコートの前を閉じて、首を竦めていた。
それはあたしが出かけに見たカエデの雰囲気に煮ていた。
無事にポケモンセンターに辿り着いた後、
処置が終わるまで処置室前で待つと言ったあたしに、
カエデは「あたしも一緒に待つわ」と言って聞かなかった。
そのくせ、タイチが「俺も待つよ」と言った時は、「タイチくんは休んでいて」と言ってやんわりと断った。
カエデはあたしと二人きりで話したいことがある――色々と鈍いタイチにも流石にそれが分かったのだろう、
タイチはそれ以上は何も言わずに、ジョーイさんのところへ行ってしまった。
けど、処置室前の長椅子に腰を下ろしてから一時間、
あたしたちの交わした言葉は精々「遅いわね」「そうね」の反復くらいで、
だからあたしは今の今まで、カエデがあたしに何か話があるということをすっかり忘れていた。
カエデは言った。

「あたしさ、昔っからヒナタと喧嘩してばっかだったじゃない?」

あたしは頷く。

「何回、ママや叔母さまに仲直りさせられたのか、もう覚えてないわ」
「今から思い出すと、ほとんど、ってか全部あたしが原因だったのよ。
 でもやっぱ悔しいから、あたしはそれでも悪いのはヒナタに決まってるって、心の中で決めつけてたわけ。
 口には出さないでね」
あたしはカエデが何を言わんとしているのか予想することができなかった。
幼い頃の喧嘩を蒸し返して、何の意味があるんだろうと思った。

「でも、そんな捻くれてた小さなあたしが、唯一ヒナタの言ってることが正しいなあって、
 間違っていたのはあたしだったんだなあって、心から反省した出来事があったの。
 多分、ううん、絶対ヒナタは忘れてると思うわ。
 あたしにとっては忘れがたいことでも、その時のヒナタにすれば、
 口からすっと出た言葉だったんだろうし」
「その出来事って?」
「8才になるかならない頃だと思うけど、
 あたし、夏休みにヒナタの家に泊まりに行ったことがあったのよ。
 お母さんから借りたトサキントと一緒にね。
 ま、簡単に言えばあんたに見栄張りたかったのよ。
 あんたってば、まだ自分のポケモン持ってないの?
 これ、あたしが捕まえたポケモンよ、あたしはもう一人前のトレーナーなんだから――。
 たぶん、あたしはそんな生意気なことをべらべら喋ったんだと思うわ。
 案の定、あんたは怒って黙りこくっちゃってさ。
 そこでやめとけば良かったのに、調子に乗ったあたしは、トサキントをボールの外に出しちゃったのよ。
 触れ合うところを見せつけるつもりでね」

カエデが一息つく。
A4サイズのフォルダを抱えたジョーイさんが、あたしたちの目の前を横切っていく。
靴音が遠ざかった頃を見計らって、カエデは再び口火を切った。

「あたしは失敗したわ」
「失敗って、どういうこと?」
「トサキントはあたしに全然懐いてなかった。
 なのにあたしは無理矢理トサキントの身体に触ろうとして、その結果、角で手に傷を負ったの」

ほらここ見える?とカエデが右手を蛍光灯の明かりに翳し、左人差し指で右親指の付け根あたりを示す。
そこの部分だけうっすらと、肌の色が濃くなっているのが分かった。

「……ここ?」
「そう、そこ。傷自体は大したもんじゃなかったんだけど、叔母さんったら大袈裟に包帯まで巻いてくれてね。
 よく泣かなかったわねって誉めてもらったりもしたわ。
 でもね、ヒナタ。あたしにとったら痛みなんて、大したことじゃなかったのよ。
 あたしは悔しかったの。あんたに見栄張ろうとして、逆にそれが虚構だとバレたことが滅茶苦茶悔しかったわけ。
 あんたはあたしの怪我を心配してくれたけど、
 あたしにはそれが嫌味にしか聞こえなくて……ホント最低だったわねー、あたし」

あはは、と乾いた声で笑うカエデ。

「続けて。最後まで聞きたいの」
「ヒナタを責めることも出来ない。
 かといってイライラは全然消えてくれそうにない。ヒナタはあたしがその後、どうしたと思う?」

あたしは心の奥底に埋もれていた記憶が徐々に引き出されていくのを感じていた。
あれは本当に暑い夏の日のことだった。
カエデは顰めっ面のまま、それでも涙は一粒も零さずに、ママに包帯を巻かれていた。
そして、それから何事もなく夏休みは過ぎて行き――。
いきなり記憶が断線し、すぐに繋がる。幼いあたしは幼いカエデに、拙い言葉で怒鳴っていた。

「あたしはトサキントをボールの中に閉じ込めたのよ。
 ポケモンフードも、水ポケモンにとっては大切な水も、最低限しか与えなかった。
 ヒナタがそれに気付いたのは、丁度夏休みが半分くらい過ぎたあたりかしら」

カエデはまるで昔観た映画の内容を話すように言った。

「お昼ご飯が終わった後に、あんたがあたしの袖を引っ張って言ったのよ。
 トサキントはどこにいったの、どうして一緒にご飯食べないの、って。
 あたしは悪びれもせずに答えたわ。
 言うこときかないポケモンは危ないから閉じ込めてるの、ってね。
 そしたらあんた、目の色変えてあたしに突っかかってきてさ。
 あの時は本当にびっくりしたわよ。
 いつもどこかのお姫様みたいに大人しくて、大抵の悪戯にもじっと我慢してたあんたが、
 いきなり、何の準備もしてない時に不意打ちしてきたんだから」

カエデの語りに合わせて、あたしの脳裡にその時の記憶が鮮明に映し出されていく。

「しばらくは無視してたんだけど、あんたはずっとあたしの後ろをついてきて、
 トサキントをボールから出してあげて、って言って何度も何度もお願いしてくるの。
 終いにあたしは怒って、ヒナタを突き飛ばしたわ。
 予想外に、といってもその頃は加減を知らなかったから当然なんだけど、ヒナタは酷く転んじゃってね、
 あたしは、あーあ、またヒナタ泣かせちゃったなあ、面倒臭いなあって、軽く考えてたわけ。
 でもヒナタはすぐに起き上がって、あたしに掴みかかってきたの。
 そして――」

曖昧になっていた言葉の輪郭が浮彫になる。
あたしはカエデに掴みかかりながら、涙混じりの声で怒鳴ったのだった。

「――ポケモンはモノじゃない、生きてるのよ」

と。

「思い出した?」
「ええ」

「あたしの家もあんたの家も、家族にポケモントレーナーがいて、
 生まれた時から当たり前のようにポケモンと接してきたじゃない?
 でも、ちゃんと物事を考えられるようになって、
 改めてポケモンという生き物を定義しようとしたときに、あたしは間違っちゃったんだと思うわ。
 ポケモンは人間の言うことをよく聞く道具で、もし反抗したら、罰を与えなくちゃならない。そんな風にね。
 その点、ヒナタはあたしと違って、ポケモンがあたしたちと同じように生きていることを、ちゃんと分かってた。
 ヒナタに怒られて、あたしはすぐにトサキントをボールから出して、大きな水槽に入れて、ポケモンフードをたくさん食べさせてあげた。
 もちろん反省したから、って理由もあるけど、一番大きな理由は、
 あたしは多分……ヒナタに許して欲しかったんだと思うな。
 それまで本気でヒナタに怒られたことなかったから、
 喧嘩してもなんだかんだいって仲直りしてたから、怖くなったのね。
 もう……、もう、ヒナタに愛想尽かされたんじゃないか、って……」

声が震え、

「でもヒナタは許してくれたわ」

持ち直す。

「そりゃもう呆気なくね。ヒナタは次の日にはそのことを忘れたように笑ってた。実際、忘れてたんでしょうね。
 けど、あたしにとってその出来事と、ヒナタの台詞は、忘れられない思い出になったの」

カエデが口を閉ざす。
壁時計の秒針の音が束の間の沈黙を満たす。
処置室の扉は依然として開く気配がなかった。

「だから、ヒナタがゲンガーをボールに閉じ込めるって言ったとき、あたしはあんたの言葉が信じられなかった。
 もちろん、トサキントとゲンガーじゃ危険度がまるで違うし、
 現実的に考えればそれが一番の安全策なんだろうけど、あたしの心の中に住んでた小さいヒナタが許してくれなかった。
 気付いたらあたしはあんたを責めてたわ。小さなヒナタの言葉を受け売りにしてね」

――ポケモンはモノじゃない、生きてるのよ。
サイクリングロードでカエデにそう言われたとき、激しい苛立ちを感じた。
それは今から思えば、内から外への怒りではなく、内から内への怒りだったのかもしれない。
あたしの中にあった小さな頃の記憶が、ゲンガーを閉じ込めようとしたあたしを非難していたのだ。
「あたしさ、その後すっごく後悔したのよ。 
 ヒナタはごく自然にそうしているつもりだったのかもしんないけどね、
 あんたに微妙に距離を置かれてることは、結構早くから気付いてたんだから。
 あたしは何度もあんたに謝ろうとしたわ。
 けど、くだらない意地の所為でなかなか謝れなくて、
 結局、そのうち元通りになるんじゃないかしら、とか都合のいい結論出して、考えることをやめたの。
 バカよね。あたしもヒナタも、もう次の日になったら嫌なこと全部忘れてるような小さい子供じゃないのに」

カエデが謝ることはないの。
悪いのはゲンガーを深く考えずに閉じ込めて、
自分を責めるカエデを遠ざけたあたしなの。
そう言おうとして口を開いても、矢継ぎ早に、まるで堰を切ったように話すカエデの間に入ることができない。

「あの子たちがあたしのところにやってきて、ヒナタが一人でサファリパークに行ったことを教えてくれたとき、
 あたしは、その、なんていうか、本気であんたに見捨てられたんじゃないかって、怖くなったの。
 もうヒナタは、あたしのことを仲間だと思っていないんじゃないかな、って思ったら、泣きそうなくらい悲しくなったの」

泣きそうなくらい、と言いながらカエデは泣いていた。
黙ってハンカチを取り出し、涙を拭ってあげる。

「ねえ、もしあたしがヒナタと喧嘩してなかったら、
 ヒナタはサファリパークに行く前にあたしに声を掛けてくれて、
 二人で一緒にアヤと戦えたんじゃないかしら。
 そしたらヒナタがゲンガーを出さなくちゃならなくなったり、ヒナタのポケモンが重態になることもなかったんじゃないかしら――」
「もういいの。そんなこと言わないで」
あたしはカエデの手を握った。
その手は夜気の所為か、驚くほど冷たかった。
あたしは言った。

「あたしが一人でサファリパークに行ったのは、カエデが嫌いになったからじゃない。
 あたしは焦ってたの。アヤの気配を感じて、それが消えてしまわないうちに、アヤに追いつきたかっただけなの。
 だからカエデが責任を感じることなんて何一つないのよ。
 カエデがサイクリングロードで言った言葉の意味だって、結局はあたしの受け取り方次第でどうとでも変っていたわ。
 あの時、あたしはカエデが何も考えずにあたしを責めているんだって、勝手に思いこんで、怒っていた。
 それからウツギ博士のお話を聞いて、ピカチュウを探す手がかりが失われたと知った時も、
 カエデの冷静な意見に耳を傾けることが出来なかった。聞き分けのない子供みたいに。
 ねえカエデ、あたしは本当は、今日でピカチュウを探すことを、きっぱり諦めるつもりだったの。
 でも、無理だったわ。アヤの存在を、ピカチュウに繋がる手がかりを感じ取った瞬間に、
 決意はあっさり消えて、いつの間にかあたしは駆けだしてた。
 その時にカエデに声をかけていたら、カエデの言うとおり、結果は変わっていたかもしれない。
 でも、そうしなかった責任はあたしにあるの。カエデは全然悪くない」
「ヒナタ……」

カエデはおもむろにあたしの手を押しやると、

「謝るつもりが逆に慰められるなんて、情けないわね、あたし」

両手で乱暴に目を擦った。そして恐る恐る聞いてきた。

「ヒナタはもう怒ってないの?」
「怒ってないわ。ねえカエデ、あたし思うんだけど、
 この喧嘩は多分、どっちが悪いとか正しいとか、そういうのがなかったのよ」
「大人ね?」
「少なくとも子供じゃないわ」
「いつからそんな生意気なこと言うようになったのよ」

カエデがぎこちなく笑う。あたしも笑い返そうとしたけど、なかなか上手く表情が作れなくて苦労した。
それでもこの薄暗い廊下の雰囲気がずっと温かく親密なものになったことは、肌で感じ取ることができた。
カエデも同じように感じているという確信があった。
処置室の扉が開け放たれたのは、ちょうどそんな折だった。

「ヒナタ!」
「うん!」

出てきたジョーイさんに詰め寄り、

「あたしのポケモンは助かったんですか?」

「はい」

とジョーイさんは、困憊の表情に微笑みを浮かべて言った。

「今は四匹とも安定していますよ。予断を許さない状況に違いはありませんが」
「ありがとう、ございます」

肩の力が抜ける。張り詰めていた緊張の糸が緩む。
隣で喜ぶカエデの姿を見て、あたしはようやく、
今の今まで想像していた最悪のイメージを払拭することができた。

「良かった……助かって、本当に良かった」

それからジョーイさんは、長時間の治療で疲れているのにも関わらず、
ポケモンのそれぞれの容態を細かく教えてくれた。
「ピッピの火傷は広範囲に渡っていましたが、
 深度はそれほどのものではありませんでした。
 数日中には元気な姿に戻っていると思います。
 スターミーはコアに損傷が見られましたが、
 医師は"自己再生"と生まれ持っての高い自然治癒力で、十分に治ると判断しました。
 ヒトデマンやスターミーのコアは他の多くのポケモンと違い露出していて弱点と見受けられがちですが、
 余程強い衝撃を受けて完全に砕けない限り、回復は可能です。
 しかし、ラッキーとゲンガーについては、肉体面、精神面の両方で、快復後の障害を想定しておくべきかもしれませんね。
 ラッキーはピッピよりも広範囲かつ深い火傷を負っていました。
 癒えるには時間がかかりますし、深達性Ⅱ度からは傷痕が残りやすくなり、その部位の感覚麻痺も有り得ます。
 また、これはラッキーがダメージを受けた状況を聞いていないので断定はできませんが、
 他のポケモンから威嚇されたり、攻撃を受けたりすることを極度に怖れるようになる可能性があります。
 特に炎タイプのポケモンに対しては、異常な警戒心と恐怖心が芽生えるかもしれません」

そして最後にゲンガーですが、とジョーイさんは歯切れ悪く続けた。

「検査の結果、ゲンガーの核は鋭利な刃物のようなもので、綺麗に貫かれていることが分かりました。
 その時点で医師を含めた医療班は治療を諦めかけました。
 ゴーストポケモンには核が存在し、それが修復不可能なまでに損傷すると、実体が保てなくなるのです」

太陽の光で溶けていく雪だるまを想像してみてください、とジョーイさんは分かり易い比喩を使った。
それは傷ついたゲンガーが周囲の闇に同化していく時に感じた、
氷がグラスの中の水に溶けて見分けがつかなくなる感じとよく似ているように思えた。

「しかし驚くべきことに、ゲンガーは分解寸前の身体を維持していました。
 精密検査の結果に判明したことですが、ゲンガーは核を二つ持っており、破壊されたのは片方だけでした。
 これは通常では絶対にありえないことです。
 核とはつまり、ゴーストタイプのポケモンにおける人格や情思を司っている、人間で言えば脳のようなものです。
 これまでゲンガーがどのようにしてそれら二つの核を統括し、制御してきたのかはもう知ることができませんが、
 とにかく、ゲンガーは核を一つ失ったことで、一般的なゲンガーに近づいたと言えます」
不思議そうに語るジョーイさんを余所に、あたしは全てを理解していた。
多分、片方の核にはゲンガーの前世の記憶が内包されていた。
もしかしたら、その核が前世の記憶そのものだったのかもしれない。
でもいずれにせよ、ゲンガーは自分が死ぬかもしれないというリスクを冒して、前世との因縁を"断ち切った"。
本当は殺したくない『自分』のために。
瀕死で横たわる『キュウコン』のために。
傍らでただ泣いていただけの『あたし』のために。

「核の損傷を除いて、ゲンガーの受けた傷はどれくらいのものだったんですか」

訊きながらあたしは、ゲンガーの胸から噴き出したどす黒い血潮のことを思い出していた。

「創傷は既に塞がっていますよ」

とジョーイさんは答えた。

「ゴーストタイプのポケモンは元々、物理的な攻撃を透過し、無力化します。
 また彼らが視覚的に受けたダメージの程度と、実質的なダメージの程度は必ずしも等しいとは言えません。
 ゲンガーは意図的に物理攻撃を通すようにし、なんらかの理由で自傷したのち、迅速にその傷を治癒しました。
 いえ、治癒というよりは"なかったこと"にしたと言った方が適切かもしれませんね」
懸念すべきは精神的な後遺症です、とジョーイさんは深刻な顔で続けた。
俄に、不吉な予感が去来する。
ラッキーの『他のポケモンを怖れるようになる』くらいの後遺症ならいいんだけど。

「ゲンガーは覚醒してからというもの、ずっと奇妙な声で鳴いているんです。
 私はこれまでにも何体かのゴーストポケモンを看てきましたが、あんな声で鳴くゲンガーは初めてでした。
 ポケモン医療に長く携わっている院長も、こんな症例は初見だと困惑していて――」

あたしはカエデに目配せする。

"ねえカエデ、その鳴き声って……"

カエデは笑いを堪えるように顔を伏せながら目配せを返してきた。

"十中八九、アレよね"

あたしは言った。

「ジョーイさん、ゲンガーの奇妙な鳴き声って、どんな感じの声だったんですか?」

ジョーイさんは「えーっとね……」と躊躇する素振りをみせ、
辺りを見渡して他に誰も聞いていないことを確認してから、僅かに頬を赤らめて鳴き真似をしてくれた。

「うー、うー」