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ウツギ博士との面会が叶ったのは、セキチクシティに到着してから実に八日後のことだった。

「一週間近くも待たせてしまって悪かったねえ。
 待ち人がいると知っていたらもう少し早く帰ってこれたのだけど。
 それにしても私の部屋にこんなに見目麗しい女の子が二人もいるなんてなんだか信じられないね。
 ポケモン協会本部というと聞こえはいいが、
 実情は激務の多さを嫌って多くの若い人材が数年で辞めるか地方への転属を願い出てくるかで、
 言うなればここは忙殺されることに耐性がついた中年の溜まり場なんだよ。
 かくいう私も今年で五十五だ」
「は、はあ」
「私にも一応妻子がいるんだが、
 妻との関係は冷めて久しいし、娘も難しい年頃でね。
 まるで思春期に素直さを置き忘れてしまったかのように反抗ばかりしてくる。
 ソーシャルスキルを養う過程において対外人格の形成は避けて通れない道だが、
 私としては純粋なままの娘が良かったよ。パパー、パパーっ無邪気に笑ってた頃が懐かしいな。
 おっと、誤解を避けるために言っておくが、
 私は決して娘のアルバムを見て懐古したりするような人種じゃないよ」
「あの、ウツギ博士?」
「この仕事を続けていて辛いのは、やはり家族との時間を持ちにくいことかな。
 一昔前はそうでもなかったけれど、ここ最近はハードスケジュールでまともに家に帰っていないんだ。
 今度の出張で、ようやく一段落ついたところだよ。
 まあ、余暇が出来たところで急に妻や娘が優しくなったりはしなくて、
 結局ここでポケモンと顔を突きつけ合わせて一日が終わるんだけどね」
「ウツギ博士!」

あたしが大きな声を出すと、
ウツギ博士は「ああ、またやってしまった」という顔をして後退気味の額を叩いて見せた。

「やれやれ。自分のことながら困ったものだ」
「喋るのがお好きなんですね」
「好きというわけではないんだけどねえ。
 初めは皆で意見を出し合っていたのがいつのまにか僕の独壇場になって、
 周りが一様に辟易している――なんてことは日常茶飯事さ。
 ついこの前も保護ポケモンの経過報告に使う資料の微調整で部下が重大な見落としをした際に、」
「あーはいはい。それはまた今度伺いますので」

見かねたのだろう、あたしの一歩後ろで見ていたカエデが割って入ってきて、

「あんたもあんたで、さっさと手紙出しちゃいなさいよ」

とあたしの手から手紙を奪い、ウツギ博士に差し出した。

「うん?」

ウツギ博士は眼鏡のつるを指で押し上げてから手紙を受け取り、
その差出人の名前に視線をなぞらせた。あたしは言った。

「エリカさんからの手紙です。
 とりあえず、読んでもらえませんか」
「ふむ。少し待ってもらうことになるけどいいかな」
「全然いいです」

ウツギ博士に勧められるままに、少し離れたところにあるワーキングチェアを引き寄せて座る。
封が破られる。蛍光灯の冷たい光に透かされて浮かんだ文字は、
それがしたためられた時と同様に饒舌な草書体で読み取れなかった。

手持ち無沙汰にしていると、カエデがあたしの袖を引っ張った。

「あれ、あんたが借りてた本の回収係じゃないの?」
コツン、コツン。
こちらに気付いてもらいたげに、
それでいて憚ることを忘れない控えめな強さでガラス窓に嘴を打ち付けるピジョンの姿があった。
ウツギ博士は熟読している。
あたしはそっと窓際に近づいた。
ピジョンは赤いキャップを被り、斜めに鞄をかけていた。

「可愛い……」

浮かび上がった直方状の輪郭は、既に回収された別の本だろうか。
実際に回収に来てくれたことが嬉しくて、
あたしはしばし必死にパタパタと羽を動かして滞空するピジョンを観察し、
ふと我に返って窓を開けた。
ピジョンは桟に飛びつくと窮屈そうに羽を畳み、あたしのバッグを睨んで短く鳴いた。
どうして本がそこにあると分かったんだろう?
不思議に思いながら、タマムシ大学付属の図書館で借りた本をピジョンの鞄に詰めてあげた。本は数日前に読了していた。

「わざわざ取りに来てくれてありがとう。大変だろうけど、お仕事、頑張ってね」

最後に鶏冠を撫でてあげる。
ピジョンは心地良さそうに目を細め、次の瞬間には地上四階の窓枠を離れ、市街の方へ飛び去っていった。

「ポケモン返却便か。懐かしいなあ。私も学生時代にはよく利用していたよ」

とっくに読み終えたらしいウツギ博士が、手紙を封筒に戻しながら言った。

「余談だが、ヒナタくんはどんな本を借りていたんだい?」

『新種と旧種ポケモンの棲息圏の交わり』という本です、と応えると、
ウツギ博士は満面の笑顔になって、
「あれは良い本だよ、うん。
 ポケモンの生態系の変遷について、実に分かりやすく述べてある」
「はい。タイトルを見て遠慮しかけたんですけど、
 実際に読んでみると無理なく理解できました」
「学術書ならいざ知らず、ああいった一般向けの本には、
 記述された情報量云々よりも、見やすさ、読みやすさが重視されるんだ。
 あの本はその数少ない成功例だと言えるね。
 例えばわたしの上梓した一般向けの入門書なんかは、
 無駄に専門用語が鏤められているとかなんとか言われて、あまり風評がよろしくない。
 嘆かわしいことだよ。
 ところでヒナタくんは、あの本を読んでどんな感想を抱いた?」

横目でカエデを見る。
話が脱線しかけていることに眉をつり上げているのかと思いきや、
意外と興味深そうにあたしとウツギ博士の遣り取りを聞いていた。
あたしは頭の中で考えをまとめてから言った。

「ポケモンの環境適応能力は凄いな、と改めて感じました。
 普通の動物や人間にも環境の変化に対応する能力があるけど、
 ポケモンのそれは、他の生き物のそれと比べものにならないほど秀でているから……。
 あと、近年発見された新種のポケモンが、
 旧種の棲息地を侵しながらも、その棲息地が安定している事実にも驚かされました。
 自然の環境だけじゃなくて、他のポケモンに対しても、ちゃんと適応できるんだなあと思って……」

ウツギ博士は腕組みして嬉しそうにウンウンと頷くと、

「ポケモンの生態に興味を持つのはとてもいいことだよ。その仕組みについて考察を深めることもね。
 大概のポケモントレーナーはポケモンを自分の言うことをなんでも聞く道具と考えているけど、
 彼らの本質はむしろ人間に対する隷従とは対極の場所に根付いているんだよ。
 それは例えば、彼らの種全体としての縄張り意識からも伺い知ることができる」
長くなりそう……、と思った矢先に、

「――長くなりそうだからこの話はやめにしよう」

とウツギ博士は自ら脱線していた話を方向修正した。
手紙の入った封筒がデスクに置かれる。
ウツギ博士は親しみやすい笑みを消して、口火を切った。

「すべて読ませてもらったよ。
 端的に言うと手紙には、わたしが職業柄得る情報を総動員して、君の質問に答えるよう書いてあった。
 正直、驚いたよ。
 私はあの子が小さい時から知っているが、基本的に他人に無頓着で、
 よほどのことが無い限り自分から干渉しようとしない子供だった。
 それが彼女直々に筆を握るとは、ヒナタ君、君は彼女に相当気に入られたようだね」

隣を見なくても、カエデがむっとしていることが分かった。

「さあ、本題に入ろうか。私に聞きたいこととは何かな?」
「ピカチュウの――」

違う。いきなりピカチュウの話をしても、ウツギ博士には何も伝わらない。

「うん?」
「間違えました、忘れて下さい。
 ここ最近、保護対象にされている希少種を、組織ぐるみで乱獲している組織について、何か情報はありませんか。
 その組織は恐らく、夏にあったカントー発電所の事件にも関わっているんです」
「……穏やかじゃないね。
 カントー発電所の停止騒ぎは整備不良による発電機の故障と聞いていたんだが」

あたしがカエデを見ると、
カエデは険しい顔で言った。

「不法占拠はなかったことになってるみたいね。
 これといった証拠が出なかった分、クチバシティにとっては隠蔽工作しやすかったんじゃないかしら」
「……ッ」

無性に腹が立った。
発電所が解放されたのはピカチュウが犠牲があったからなのに――。
クチバシティのトップは真実を公する義務を忘れて、
ただ街の振興のために当り障りのない原因を嘯き、
結果的にあの組織が闇に帰る手助けをしている。
ウツギ博士は眉間を指でもみながら言った。

「ヒナタくんの言っている組織はロケット団を思い出させるね。
 カントー発電所を不法占拠するなんて、並大抵の組織力では実現できない犯罪だよ。
 しかし、現代にロケット団という組織は存在しないし、
 それに匹敵するような組織が台頭してきているという話も聞かない。
 肥満した組織はその存在がそこかしこから露呈するものだ。自重に耐えきれなくなってね」

だから、そのような組織は存在しないんだ――暗にそう言われた気がして、
あたしは急に身体の力が抜けていくような感じがした。ウツギ博士の話には続きがあった。

「だがしかし気になるのが、希少種の乱獲という話だ。
 エリカくんから既に聞いているかもしれないが、
 私はポケモンの研究に加えて、保護活動にも注力しているんだ。
 むしろ若さに任せた研究ができなくなってからは、こちらにウェイトを置いている」
「それじゃあ、何か心当たりが……!?」
「まあまあ、そう慌てないで。
 ヒナタくんが言っているその希少種は、どのポケモンのことなんだい?」
「ピッピです」
「希少種の代表例じゃないか。
 ところで尋ねたいんだが、ヒナタくんはどうして、
 ピッピが乱獲されているという事実を知ったんだい?」
「実際に見たからです」
「詳しく聞かせてもらえるかな」

今度はあたしが長話をする番だった。
オツキミヤマ洞窟で、迷子のピッピに出会ったこと。
逃げるその子を追いかけていくと、
満月の夜に騒ぎ疲れたピッピがたくさん眠っている大空洞に出たこと。
突然現れた男に、その迷子のピッピを渡せと言われたこと。
男が自らのことを研究目的のためにポケモンを捕獲している保護団体だと騙っていたこと。
なんとかピッピを守りきったこと。
男が「組織的にピッピを乱獲している」ことを示唆して消えたこと――。

話し終えてからモンスターボールを取り出す。

「そして、これがオツキミヤマで捕まえたピッピです」

閃光。あたし、カエデ、ウツギ博士の椅子が作るトライアングルの真ん中にピッピが現れる。

「ほう、これが……」
「ぴぃ?」

ウツギ博士の鋭い観察眼が怖かったのかもしれない。
ピッピは救いを求めるような視線をあたしに送ってきた。
「ぴぃっ、ぴぃ」
「怖がらなくても大丈夫だから」

落ち着きのないピッピを抱き上げる。
ポケモンのスペシャリストを前にして、躾がなっていないと思われるのが嫌だった。
ウツギ博士は「うーむ」と考える素振りを見せてから、

「調べてみよう」

と言って慣れた感じに床を蹴り、協会員の私物をすべて躱してワーキングチェアをパソコンデスクに導いた。
完璧すぎる慣性の軌道計算だった。

「はて、オツキミヤマはどの支部の管轄だったかな……」

少し肌寒さを覚えたあたしは、じたばたするのをやめないピッピを強く胸に抱き留めた。

「みぃっ、みぃっ」

くぐもった声もまた可愛い。
それから数分後、ウツギ博士はまたしても見事な椅子捌きでこちらに戻ってきた。
一枚の印刷用紙をあたしとカエデが見やすいように回転させて、

「ここの記述を見て欲しい」

その資料はどうやら、限定地域に棲息する希少種の個体数を表しているようだった。
指さされた位置を辿る。

調査対象・絶滅危惧種第二級ポケモン『ピッピ』
調査地域・オツキミヤマ洞窟深部
更新周期・二ヶ月

その下の表には具体的な数字が書かれている。
あたしの目は自然と、ピッピと出会った時期に記録された数字を探しだした。
想像していたよりもピッピの個体数は多かった。
絶滅の心配はまだまだ無さそうね――。
そんな安堵も束の間、右隣の欄に視線を移し、
あたしはやっと、カエデの厳しい表情の意味を知る。

「……増えてる」

ピッピの個体数は二ヶ月の間に、数体、増加していた。
喜ばしいことだと思う一方で、あたしはその事実を飲み込めなかった。
だって――。だって、そんなの理屈に合わない。
ピッピは確かに乱獲されていた。
その数は目に見えるほど、とまではいかないにしても、
不自然なマイナスが記録されていると思っていたのに……。

「ウツギ博士、お訊ねしたいことがあるんですけど」

カエデは落ち着き払った声で言った。

「どんなにポケモン協会支部の調査員が優秀でも、
 目算でこんなに精確なデータが取れるとは思えません。
 絶滅危惧種の個体数をどうやって調べているのか、教えて下さい」
「鋭いなあ、カエデくんは。
 でも、その質問には答えられないんだ。
 出来れば話してあげたいんだが、たとえエリカくんの頼みでもこれについては明かせない。
 君が将来、ポケモン協会本部にくるようなことがあれば、教えてあげられるんだけどね」

ウツギ博士は冗談を交えて微笑んだが、カエデは唇の端をあげただけだった。
知的好奇心が満たされないとき、カエデは作り笑いが極端に下手になる。
子供時代からの癖だ。カエデが不機嫌になったことを悟ったのか、
ウツギ博士はたっぷり五秒呻吟してからこう言った。

「それじゃあ、ヒントをあげよう。
 薄々想像はついていると思うが、発信器のようなものをポケモンに取り付けているんだよ。
 私が話せるのはここまで。詳細については本当に明かせない」

カエデは頷く。
それでも腑に落ちないのか、表情筋はあまり回復していなかった。
発信器のようなもの、ね。心の中で復唱した後、

「発信器のようなもの――」

再び口に出して、閃いた。

「あっ」

カエデが訝しげに、ウツギ博士は微笑みのままにあたしを見る。

「発信器――実際には発信器じゃないかもしれないけど、
 位置を特定するような装置がピッピに取り付けられているなら、
 乱獲されたピッピの居場所を見つけ出すことは可能ですよね?」

語尾も不確かなうちに、計画が脳裡に浮かび始める。
発信源を辿り、ピッピが囚われている場所を特定して、
組織の存在を公にして、これまで秘密裏に行われていた犯罪を全て暴き、
違法に捕まえられていたポケモンはみんな解放されて、
最後にピカチュウと再会を果たして、そして――。

「無理よ、ヒナタ」

どうして?
反射的にそう叫びそうになった矢先、

「どうして、なんて聞かないでよね。
 あんたの言ってることは前提から間違ってんの。
 ポケモン協会の調査資料上では、ピッピは初めから乱獲されてないことになってるのよ。
 ……そうなんでしょう、ウツギ博士?」
「カエデくんの言うとおりだよ。
 ヒナタくんの話は筋道も通っていて信憑性がある。
 しかし私たちの調査資料の信頼性が、協会設立からの数十年、常に保たれてきたこともまた事実なんだ。
 オツキミヤマ洞窟内におけるピッピの個体数に異常変動はない。資料はそう言っている。
 重ねて言うが、決してヒナタくんの話を疑っているわけじゃないんだよ。
 ただ、もしかしたらその男と仲間達は、ピッピを複数体捕獲して、
 研究に用いた後、オツキミヤマに帰したという可能性も――」

癇癪を起こした子供を宥めるような声音を、
あたしは玻璃を隔てた意識の向こう側に聞いていた。

嘘よ。そんなの嘘に決まってる。
もしそれが本当なら……、
手がかりを全て失ったあたしは、
どうやってピカチュウを探せばいいの?
ねえ、誰か本当のことを言ってよ。
誰でもいい。誰でもいいから、お願い……。



例えば愛しい仲間と無理矢理に引き離されて捕まえられたポケモンの悲鳴を聞いたとき、
僕は神の差配に辟易する。
例えば明らかな虐待の痕を体に残したポケモンを見かけたとき、
僕は神の骨惜しみに愛想を尽かす。
例えば瀕死の状態で捨てられたポケモンを看取ったとき、
僕は神の無慈悲さに絶望する。
例えば過剰攻撃を受けた跡のある野生ポケモンの惨い死骸から視線を逸らしたとき、
僕は神の存在を否定する。

というわけで無神論者な僕だったが、
いざ天国と呼ばれる場所に来てみると、悔しいかな、信条を改めざるを得ない。

どうして自分が死後の世界にいるのが分かるかというと、身体の感覚がないからだ。
意識だけが中空に漂っているような浮遊感があって、
視界には深紅に橙を溶かし込んだような明るい色が広がっていた。
ただ、それだけ。
蓄積されたものも、現世の身体に遺してきたのだろう。
自分がどんな死に方をしたのか思い出せない。
悔悟すべき事柄がたくさんあるはずなのに、その記憶に手が届かない。
僕は思索をやめて意識を閉じる。
視界に闇の帳が降りる。
しかしそれは長く続かなかった。
刹那、鮮烈な白が眼球を刺し、
――僕は思わず"瞬き"する。
墨を引いたように深い黒を湛えた天井がそこにあった。

「意識はあるのか」
「瞳孔反射は確認できます。
 もっとも意識が回復したところで、酷い混濁状態にあるでしょうが」
「生きているならそれでいい」

――蘇った聴力が、近くで交わされている会話を聞き分ける。
太く深みのある男声と、細い女声。

「薬物の効力が抜けきるのにどれほどかかる?」
「四十八時間以内には」
「随分と待たせてくれるな」
「対処薬物の投与を許可されるなら、二十四時間以内で覚醒させてみせます」
「結構だ。身体への負担は最小限にしろ」
「了解しました」

――朧気な意識で、実感する。
僕は生きている。
奇跡的に生を繋ぎ止めている。

「完全に覚醒したら連絡しろ」
「完全覚醒時には錯乱が予想されますが、いかがしいたしましょう?」
「拘束具は不要だ。そのままでいい」
「しかしそれでは……」
「案ずるな。このポケモンの自律能力は少なくともお前の知る常軌を易々と逸している」

会話はそこで途切れた。
僕は興奮冷めやらぬままに、気絶する直前の記憶を呼び起こそうとした。
でも、どんなに意識を集中させようとしても、
一点に集まった途端に霧散し、眠気を呼び起こすばかりだった。
再び、闇の帳が降りる。

次に目が覚めたとき、天井は柔らかな白に包まれていた。
大きな採光ガラスを透して秋の高く澄んだ空から、いっぱいの陽光が注がれていた。
ちぎれ雲が時折、影絵のように面白い形の影を床に流していった。
僕はそれを何をするでもなく眺めていた。
悠久にも思える時の流れ。

「お目覚めかな」

声のした方向に身体を捻る。だが半回転しようとした中程で、
両手、両足に堪えようのない激痛が走った。

「気分は優れるかね」
「ピィ、カ……」

微妙なところだな。

「そうか」

杖をついているのだろうか。
足音と堅い音の三拍子が間近に響く。
僕は天井を仰いだまま、太く深みのある声の持ち主の正体が明かされるのを待つ。
果たして視界に姿を表した男は、僕の知っている人物だった。
銀髪の混じった黒髪をオールバックに纏め、
臙脂色のスーツを着こなし、
深い皺を眉間に刻んだ、犯罪組織の元巨魁。

「そう睨み付けてくれるな。
 私はお前の命の恩人なのだからな」

……瞠目を禁じ得ない。
老いたサカキがそこにいた。

僕は反射的に身動ぐ。すぐさま激痛が身体を駆け巡る。

「ピ……カァッ……」
「不用意に身体を動かすな。
 お前は今限りなく"瀕死"に近い状態にあるのだ」

気遣う言葉とは裏腹に、
サカキは愉快そうに目を細めていた。

「ククク……。かつてロケット団を壊滅させたお前が、
 今私の眼下で醜態を晒している……」
「……」
「属性の法則から逸脱し、かつて私の手駒を弄したお前が、
 今私の一存で生死が分かたれる状況にある……。
 なかなか御目にかかれない光景ではないか?」
「……ッ」

突発的な殺意が芽生え、それに電気袋が反応する。
確かに僕は手負いで、
何の因果か知らないがお前に保護されている。
だが、だからといって心を許したわけじゃない。
昔も、そして今も、お前は信用ならない。
僕を嘲弄するな。いいか、
丸腰のお前を倒すくらいの電流なら、いつだって流すことができ――。

「元気なのは威勢だけのようだ」

僕の頬から、紫電は迸らなかった。
「精神は肉体に縛られる。
 お前はそれを重々承知しているはずだが。
 やはり、ここに運ばれた経緯も含めて記憶が混濁しているようだな」

サカキの声が遠い。
身体全体の自由が利かないのは、まだ傷が癒えていないからだと納得できる。
でも発電、蓄電、放電のプロセスの一切ができなくなっていることについて、
僕は説明できないし、その事実を現実として受け取れない。

僕は無意識に身を縮こまらせた。
電気系の技が発動できない――。
心の中で言葉にすると、更なる無力感が僕を包んだ。

「そう萎縮するな。
 お前が自己防衛できるくらいに回復するまでは、身の安全は保障すると約束しよう」

サカキは表情を切り替えた。
嬲るような笑みの代わりに傷ついたポケモンを労るポケモントレーナーのそれを浮かべ、

「さて……そろそろ建設的な話がしたいのだが、
 それにはお前の記憶の再生が必要不可欠だ」

僕を見下ろす。

「既にお前の身体から薬物は抜けきっている。
 時間の経過とともに意識はより鮮明になり、喪失されていた記憶も元に戻るだろう。
 しかしお前も知っての通り、私は待つのが嫌いなのだ。
 あの忌まわしい研究施設での始終だけは、早々に思い出してもらわなければならない。
 さあ、思い出せ。
 お前が何故、発電も儘ならない状態にまで陥ったのか考えろ」

頭の中に記憶の断片があるのは分かる。
でも、それを繋ぎ合わせることが出来なかった。
僕の思考はその表面に薄い皮膜が張られたみたいに上手く働いてくれなかった。
サカキは続ける。

「お前はあるポケモンと戦わされた」

僕の中で何か、反応するものがあった。
僕が電気系の技を発動できなくなったのは、
与えられたダメージによるものではない。

「そして激しい攻防の末、」

これは身体内側からの、

「潜在能力の解放を余儀なくされたのだ」

自傷行為の結果だ。

白銀の鎧を纏った漆黒のポケモンがフラッシュバックする。
堅い結び目を解いたような感覚と共に、記憶が蘇ってくる。
僕は目を閉じた。
すると、まるで古い映写機のようなぎこちなさで、
白い空間での記憶が眼窩に投影され始めた。

躱す。
左脚部を切断する。
反撃。
起点となる身体の部位を弛緩させる。
右腕部を切断する。
放電。
相殺を超えて。
小規模な爆発。
標的が壁面に衝突する。
間断なく彼我の距離を詰め。
カウンターを躱し。
差し出された右腕ごと喉笛を裂く。
浅い。
刎頚までには到らない。
左方からの攻撃を察知する。
後退する。
再生した左腕部が振るわれる。
衝撃波が空間を薙ぐ。
それを凌いだ頃には、
彼の傷は跡形もなく消えている――。

何度同じことを繰り返したのだろう。
僕は諦観の境地に入りかけていた。
初めてこの空間で戦ったときのように、
わざと攻撃を食らってみようかと考えてみるものの、
その一撃が致命傷になる可能性がとても高いことと、
僕が戦闘不能になったところで彼の攻撃がすぐにやむ可能性がとても低いことから、
思考は再び振り出しに戻り、
僕は思い出しように彼を倒す。
規範法則を無視した彼の"自己再生"に、終わりの見えない攻撃を繰り返す。
フェーズを数えるアナウンスが聞こえなくなって既に久しい。
実験の終わりとは何だろう。
この硬く厚い壁の向こう側にいる人間が、殺し合いの結果に満足することだろうか。
もしそうだとすれば、僕か彼のどちらかが息絶えるまで、実験は終わらない。
純粋な戦闘力を比べれば僕は彼を圧倒している。
しかし無限と言ってもいい再生力と持続力を前にして、その事実はあまり意味を成さない。
いずれ僕は消耗する。
動きの甘くなった標的を、彼は機械的に殺しにかかるだろう。

それが最終実験の終わりだ――。
そう理解した瞬間、僕を支えていた力が抜けていった。

関節に鉄棒を差し込まれたみたいに身動きが取れなくなり、
電気袋に蓄えられていた電気が、僕の意志とは無関係に、大気中へ放電されていく。
彼が迫ってくる。
ただ純粋に、僕を殺すために。

「チュウ……」

これでいい。
僕は彼が予備動作に入るのを見て目を閉じた。
何故だろう。
走馬燈は流れなかった。
代わりに、サトシとカスミとヒナタの三人が、仲良く笑っている光景が瞼の裏に浮かんだ。
ただそれだけのことで、僕は幸せな気持ちになれた。

その時だった。

「ピカ!?」

地面を突き動かすような揺れが起こり、
僕は否応なしに目を開けさせられた。
彼は停止していた。アイシールドの光が消えていた。
少し緩くなったものの、揺れは依然継続している。
強固な白壁に幾筋もの罅ができていた。

防音壁の向こうで鳴り響くサイレンの音や、
たくさんの人間の怒号や悲鳴を、僕の耳が捉える。
彼は彫像のように動かない。
その時僕は、彼が本当の意味で人間の傀儡であることを理解した。
動けと命令されれば動き、
止まれと命令されれば止まり、
殺せと命令されれば殺し、
死ねと命令されれば自殺する。
ボールに捕まえられた普通のポケモンだって、
言ってしまえば、所詮は人間の命令に従う人形だ。
でも僕を含めたそれらのポケモンは、反抗することができる。
あまりに理不尽な命令に対して、無視という選択肢を選ぶことができる。

でも、目の前のポケモンにはそれが出来ない。

僕は急に、彼が可哀想になった。
やがて揺れが完全に収まった頃、白壁の亀裂を広げるようにして、
防護服に身を包んだ人間が押し寄せてきた。
無数の手が僕に伸び――。
考えるよりも先に、身体が動いていた。

足の隙間をくぐり抜け、彼らが入ってきた亀裂に飛び込む。
動かす度に身体が軋みと悲鳴をあげたが、構わなかった。
亀裂を抜けると、暗い通路に出た。
障害物は皆無だった。
激震が施設を襲ったことを示すのは、
天井に埋め込まれる形で設置された照明が、全て死んでいることぐらいだった。
自分がどこに進んでいるのかも分からずに走り続ける。
何度か白衣を着た人間に出くわしたが、
誰かもかれも慌てふためいていて、僕の存在に気付く者はなかった。
僕は本能に従うまま、道を選び、進み続ける。
八度目に角を曲がったとき、僕は通路の果てに、しなやかな猫の影を見た。
何も考えずに追う。角を曲がる。また通路の果てに猫の影が見える。
それを繰り返した末に、僕はその影に追いついた。が、声を掛けるようとした矢先、

「逃げ場はない。大人しくするんだな」

通路の両側に、防護服を着た人間が詰めかける。誘導されていたのか……?
疑心に駆られ、薄闇に浮かんだ猫の目を見据える。
そうしている間にも、じりじりと防護服が近寄ってくる。
――ここまで、か。
僕が観念しかけたその時、彼は出し抜けに鳴いた。
否、喋った。

「逃げ場は作り出すものニャ。
 これくらいで追い詰めたと思ってもらっては困るのニャ~」

包囲網に戦慄が広がる。

「ポ、ポケモンが、喋った……」

先頭の防護服が後ずさる。
小柄なペルシアンは実に人間的な動きで前足を耳に当て、

「今ニャ」

と言った。
一閃。斜向かいの壁が爆破され、煤煙が通路に充満する。
すぐに施設の排煙設備が作動するが、
防護服越しの視界は最悪の状態とみて間違いない。
僕は咳込みながら、破砕口に目を向けた。人間二人猫一匹のシルエットが煤煙の向こうにあった。

「ピ……カ……」

ああ……。溜息が漏れる。
視界を取り戻した防護服が叫ぶ。

「なんなんだ、お前らは!?」

その誰何が彼らを調子づかせることも知らずに。

「なんだかんだと聞かれたら」
「答えてあげるが世の情け」
「世界の破壊を防ぐため」
「世界の平和を守るため」
「愛と真実の悪を貫く」
「ラブリーチャーミーな敵役」
「ムサシ!」
「コジロウ!」
「銀河を駆けるロケット団の二人には」
「ホワイト・ホール 白い明日が待ってるぜ!」
「ニャーんてニャ!」

音頭は十数年前に聞いたそれと、寸分も狂っていなかった。
僕は苦笑する。
久々の調子合わせに練習を重ねた彼らを想像して。

「ロケット団だと……」
「やつらは壊滅したはずでは……」
「動じるな!」

隊長と思しき人物が、響めく集団を黙らせる。

「仮にお前らがロケット団だとして、どうしてここにいる?」

左端のシルエットが――コジロウが薔薇を擲ちながら答える。

「俺たちはもう二十年も昔からそのピカチュウを追ってきたんだ」

次に右端のシルエットが――ムサシが髪を掻き上げながら続き、

「テメーらみたいな新参者に横取りされたら、ロケット団の名が泣くんだよ」

最後に中央のシルエットが――ニャースから進化を遂げたペルシアンが締めた。

「というわけで、このピカチュウはニャー達のものニャ。邪魔者はさっさと舞台袖に引っ込むニャ」
「ふ、ふざけるな!」

隊長格が防護服のホルダーを開ける。これまでは閉鎖空間を考慮してポケモンを出さなかったのだろう。
しかし彼とロケット団とでは、踏んだ場数に懸隔があった。

「ピカチュウ、伏せろ!」

言われるがままに伏せる。
直後、マタドガスが吐き出した"ヘドロ爆弾"が、通路にいるすべての防護服に炸裂した。

「なんだこれは!」
「くそっ、拭っても取れない!」

ムサシは腰に手をあてて高らかに笑う。

「ふふーんだ。年季が違うのよ、年季が」

間髪入れずニャースが突っ込む。

「ついでに年紀もニャ」
「それは言わない約束でしょうが(だろうが)!」

ムサシとコジロウの悲痛な叫びがハモる。

「現実を見るニャ」
「うるさい! まだまだあたしは現役よ!」
「身体がついて来てないニャ。
 その証拠に時間がかなり押してるニャ。
 おミャーらとコントしている場合じゃないのニャ」
「コントって、お前が言い出したんだろ!?」
「コジロウ、黙って」
「ぐむむ……」

ムサシが眼光鋭く辺りを見渡す。

「システムの連中が来る前にズラかるわよ」

システム?
僕はペルシアンもといニャースを介して、その単語の意味を問おうとした。
そこが僕のあらゆる意味での限界点だった。
今度こそ身体から力が抜けていく。
粉塵に倒れ込む。
視界一面が灰色に染まる。

「ピ……カァッ……」

僕は激しく咳込んだ。口の中に血の味が広がっていく。

「「ピカチュウ!?」」
「急がないと手遅れになるニャ! さっさとするニャ!」

奇妙な光景だった。幾度にも渡って僕を拐かしてきた彼らが、
僕の容態を気遣い、割れ物を扱うように抱き上げ、
なるべく振動が伝わらないようにして、どこへ繋がるとも知れない出来損ないの横穴を駆けていく。

「おい、死ぬんじゃねえぞ」
「あんたが死んだらボスに怒られるのはあたしたちなんだからね」
「久々の再会を今生の別れにしたら許さないのニャ」

今生の別れ、か。
僕とこの三人が来世で出会うことは既定事項らしい。
恐ろしいな、腐れ縁というものは。
――そう溜息を吐きながらも、何故か泣きそうな自分がいて。

通路側の破砕口から、複数の足音と怒号が迫ってくる。
閃光。

「アーボック、"溶解液"で足止めしな!」

横穴を塞いでしまうほどに大きな蛇が現れ、背後に強酸を撒き散らす。
追っ手の足が止まる。

「潮時だ、下がれ!」

足音が引いていく。
ムサシは快哉を叫ぼうとした。
その時だった。横穴が水を打ったような静寂に包まれる。
朦朧とした意識の端で、僕は嵐の前の静けさという言葉を思い出していた。

「ニャッ……痛いニャ!」

石礫がニャースの頭を叩く。幽かな揺れがコジロウの腕を伝わってくる。

「ムサシ、これって……」
「なんだかとっても……」

「「やなかん――」」
「やな感じ、は言っちゃダメニャ!
 忘れたのかニャ? ミャーたちだけならまだしも、今はピカチュウも一緒なのニャ!」
「そ、そうだったわね」
「あ、ああ。こんなところで生き埋めになってたまるか」

アーボックをボールに戻して再進する。
地響きが加速度的に激しさを増す。
ただでさえ暗い横穴に砂塵が立ちこめ、視界を悪化させる。
僕は申し訳なくなった。
僕がいなければ。
僕という荷物がなければ、ロケット団は全力疾走できるのに――。

「あんた、今余計なこと考えてたんじゃないでしょうね?」
「俺たちの任務はピカチュウ、お前を連れて帰ることなんだぜ」

考えたそばから叱られた。
ここは素直に反省しよう。
上から落ちてくる石礫が、目に見えて大きくなっていく。
崩落の時は近い。
一際大きな揺れが僕たちを襲う。
先刻の戦闘とは趣向の違う恐怖に目を瞑る。
その時、瞼の裏に光明が差した。
「もうすぐニャ!」

先頭を駆けていたペルシアンが手招きする。
すぐ近くの岩盤が崩れ落ちる。

「早く!!」

殿を務めていたムサシが悲鳴を上げる。

「わぁーってるよぉ!!」

コジロウは半狂乱のまま神懸かり的回避を連発する。
這々の体で終点に辿り着く。

「………」

そこで僕は絶句した。
海の匂いを含んだ強風が、砂埃に塗れた僕の頬を凪ぐ。
横穴は確かに、外界と通じていた。
だが、どうすればこの断崖絶壁から無事に脱出できるというのだろう?
僕はロケット団の面々を眺めた。
彼らは一様にして安堵の表情を浮かべていた。
その答えは、絶壁の下にあった。
背後から迫る地鳴りを掻き消すほどの轟音が近づいてくる。
音源であるヘリコプターは、僕らの前で上昇をやめホバリングを開始した。
パイロットはかなりの腕前と見える。
この風の中でも、機体は微動だにしていない。
初めにペルシアンが飛び乗り、

「揺れるけど我慢してくれよ」

そう一声かけてから、僕を抱えたコジロウが飛び移る。
最後にムサシが助走をつけて飛び移った瞬間、
見計らったかのように横穴は完全に崩落した。

「逃げるわよ! 全速力で!」
「了解」

声からしてパイロットは若い男のようだ。
ぐんぐん高度を上げるヘリコプターの中から、
僕は、今まで僕が閉じ込められていた研究所の外観を垣間見た。
主要施設のほとんどは地下に建造されているのだろう。
地上に露出した建物はカントー発電所の半分くらいの大きさだった。
そして僕は今にして、実験が中止された背景を知ることになる。
研究所の敷地の上に、まるでフリーハンドで線引きしたような乱暴さで破壊の爪痕が残されていた。

――破壊光線だ。

それも街一つを容易く壊滅させるくらいに強力な。
ロケット団の二人がそれほどのポケモンを持っているとは思えない。
では、いったい誰があの騒ぎを……?
考えが続かない。視界が暗転する。

「ピカチュウ!」
「おい、しっかりしろ!」

ムサシとコジロウが僕を揺さぶる。それが、失神する直前に見た最後の光景だった。