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アヤと会ってから数日後の夜。
再び地下牢のドアが開けられた。
複数の人間の気配を、僕は背中で感じた。

分厚い手袋で覆われた手が、僕の体に触れる。
気持ち悪かった。
だがここで抵抗することの愚かしさを僕は知っていた。

コンディションチェックが済むと、
白衣を着た人間たちは揃って満足げに頷き、牢を出て行った。
――最終被験体の相手として条件を満たしている。
そう判断したのだろう。

最終テストの過程で死ぬかもしれない。
けれど僕はその未来に満足していた。
綺麗事を言えばこうだ。

コンディションチェックを通過せず、このまま記憶をみんな失い、
あのアヤという少女のポケモンになる道を選べば、
僕は一般的なポケモンよりもずっと長生きできるだろう。
しかしそんな余生に意味はあるだろうか。答えは否だ。
死ぬ可能性があるにしても、その最終被験体と相対し、
マサキの庇護下に戻ることができれば、僕はまだ脱出を夢見ることができる――。

そしてもう一つの本音を言うなら、
僕はその地球上で最強のポケモンとやらと、一戦交えてみたかった。
サトシに捨てられてからの約15年間、僕は出来るだけポケモンバトルを避けるようにして生きてきた。
僕はとっくに闘争心を失っていると、僕自身で自覚していたつもりだった。
それがどうだ。
この地下牢で過ごしているうちに、僕は自然と夢の中で、戦う相手を捜していた。
いくら記憶が曖昧になろうと、
現実での感覚が希薄になろうと、
蓄積された経験は体に刻み込まれている。
これまで戦った強敵の数々は精確に思い出せる。

タケシのイワークを倒して、相性に対する畏怖を消し。
カスミのギャラドスを沈めて、俊敏が威力に勝ることを知り。
マチスのエレブーを感電させて、自分が特殊であることを実感し。
エリカのウツボットを自滅させて、フィールドを利用することを学び。
キョウのドガースを衰弱させて、敵の攻撃を逆手にとる戦法を見出し。
ナツメのフーディンを昏倒させて、躊躇い無き特攻の突破力に気付き。
カツラのブーバーを麻痺させて、無傷で戦闘不能に追い込む術を体得し。
サカキのサイドンを打砕いて、電気属性と地面属性の相性を完全に克服し。
数多のランカーポケモンを撃破して、遍くポケモンの頂点にいるのだと理解した。

「……ピカ」

……だから、僕は勝つ。勝てる。勝てない理由がない。
半ば暗示をかけるようにして、僕は目を閉じた。
目の上の傷跡が引き攣れる痛みを感じるほど、かたく目を瞑った。
海底で留まっていた気泡が水面に浮上するかのような、穏やかな目覚め。
尻尾を振る。自在に動く。
手足を動かす。異常はない。
右耳と左耳を交互に動かす。支障はない。
電気袋から電流を迸らせる。まったくもってノープロブレム。
僕はうんと伸びをして、深呼吸してから、やっと辺りを見渡した。
真っ白な空間だった。汚れ一つ、瑕一つない白壁に、
これまたまともに見れば目が眩むほどの白い照明が反射していて、
なのに全体として見てみれば、優しい白色と認識できる。
初めてこの空間で目覚めたときと、何一つ変わらない。
人工的な静謐の中、僕は退屈凌ぎにと、
どうして昔、眠ることが怖かったのか考えてみた。

暗闇が怖いわけではなかった。
目を閉じることによって現れる形容できない色の群れも怖くなかった。
僕が怖かったのは、眠気だ。眠りそのものだ。
眠ってしまうと、もう二度と目覚められない。そんな錯覚があった。
眠ってはいけない。そんな脅迫観念があった。
しかしいざ眠気を前にすると、僕の決心は音もなく崩れ去る。
目覚めた時、僕は僕がそのままであることに、
空白の数時間に何事も起こらなかったことに、心の底から安堵する。
馬鹿げた話かもしれないが、
当時の僕はおそらく、眠る度に死の覚悟をして、起きる度に生を喜んでいたのだと思う。
でもそんな感覚は、いつしか消えていった。
サトシと出会う頃には、そんな時期があったという記憶さえも薄れていた――。

白い世界に黒の線が引かれる。
やがてそれは横に広がり、黒の長方形になった。
瞬きする。
白の空間は初めからそうであったかのように完全に閉じられていた。
しかし空間の中心には、初めからいなかったポケモンがいる。

漆黒の体表に白銀の鎧。
足は地面に触れずに、僅かに浮いている。
背後には長くて太い尻尾が、何かの感覚器のようにゆったりと揺らいでいた。

「――――、―――」

アナウンスの声が遠くに聞こえる。
それほどまでに僕は目の前のポケモンに見入っていた。
僕はこのポケモンを知っている。
戦ったことがある。
名もない孤島の。名もない研究所で。
僕はこのポケモンに挑み。
手も足もでなかった。
名前は思い出せないが……。
なるほど、確かにこのポケモンは最強にして、


僕を"殺しうる"ポケモンだ。


アイシールドの一点が、青白い光を灯す。

その光が――彼の瞳が、僕を捉えて離さない。

殺せ。
殺られる前に殺れ。
本能が訴えている。
僕に殺害嗜好はない。
即ちこれは僕の防衛本能だ。

「――ピッ」

動く。
それが合図となって、
最終テストと称された殺し合いは始まった。

電光石火。
対抗するように彼も前進する。
爆発的な加速力だ。
右手には燐光。
それがどんな意味を持つのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、彼の攻撃はすべて致命傷に繋がっているということ。
交差の一瞬。
こちらの軌道に合わせた一薙ぎが、
しかし僕の背中を掠めて衝撃波を放つ。
轟音。
ニドキングの足踏みにビクともしなかった白の空間が震えている。
異常だ。
予備動作と威力が比例していない。
攻撃の余波に煽られて反転、彼の背中に電磁波を照射する。

受け身。
命中した?
ささやかな期待とともに身を起こす。
彼は無傷だった。
翳された掌のすぐ先に、綺麗な光の粒子が舞っていた。

「……チュ」

……そうこなくては。
三本の指が開かれ、
収束した光子が元の電磁波となって僕に返ってくる。

僕は再び電磁波を照射した。
空気が爆ぜる。
彼の中和に比べると荒っぽい相殺だが、あまり高望みしてはいけない。

彼の姿がかき消える。
その前触れのなさにテレポートを疑い、
数瞬後にそれが通常移動であると理解する。
目前を通り過ぎるバックブロー。
風圧で目が開けられない。
閉じた瞼の裏にライチュウとの一戦が過ぎり――
僕は姿勢を低くする代わりに、彼の頭上に跳躍した。
光を帯びた太い尻尾が、僕のいた場所を床ごと削り取っていく。

束の間の浮遊。
眼下のアイシールドに向けて電気ショックを放つ。
凌げるはずのない不意打ち。
必中の攻撃を、しかし彼はこともなげに相殺する。

身体が震えた。
恐れによってではない。昂ぶりによってだ。

勝つか負けるか。
生きるか死ぬか。
ずっと昔に忘れてしまった感情が蘇ってくる。
それは僕に、身体能力の劣化と、顔の思い出せない科学者の諫言を忘れさせた。

「ピ!」

次はこちらの手番だ。
電光石火を小刻みに発動しながら攻撃を加えていく。
一撃一撃に電気ショックと同等の電流を付加させながら、
彼の攻撃の手がすべて相殺にまわるよう差し向ける。
反撃の隙を与えてはいけない。
彼はじりじりと後退する。
しかしアイシールドから覗く表情に、焦りの色はなかった。
このままでは埒が明かない。
電撃を絡めた打撃には自負があったが、このポケモンの反射速度は尋常ではない。
フェイントも。時折出力を変えた至近距離からの電気ショックも。
すべて相殺される。まるでこちらの攻撃をすべて読み切っていたかのように。
思索する。
得られた結論は単純明快。
浅い攻撃が通じないなら――相殺できないレベルの攻撃を与えてやればいい。

10万ボルトの充電に必要な時間は、全盛期で約3秒。
衰えを考慮し、そこに1秒足したとして約4秒。
彼を前にしてその空白時間はあまりに長すぎる。
しかも充電が完了するまで、電気系の技は使用できないという制約もある。
しかし他に方法はない。
約4秒間、彼の攻撃を躱し続けるしかない。

一瞬脳裏に甘い囁きが響いた。

"使え"
"楽になれる"
"或いはあのポケモンを圧倒できる"

僕は無意識に首を振る。
電光石火。
距離をとった直後、彼はふわりと上昇した。
まるで彼のまわりだけ重力がなくなったようだった。
両腕が前に突き出される。
その漆黒の腕は僕に砲身を連想させた。
そして――連想は現実となった。

空気中からわき出した黒点が球体になり、
彼の掌がそれに爆発的な推力を与える。
一発目が躱せたのは偶然だった。
彼の腕のラインの延長線上にいないように意識していなければ、とても反応できなかった。
僕は弾丸の穿った跡を見ようとした。
しかしそれは叶わなかった。
連射が始まったからだ。

連射速度は毎秒8発程度。
二本の射線が、的確にこちらの回避位置を予測し、追い詰めてくる。
一発ごとの威力はそう高くない。
だが一発でももらって姿勢を崩せば、
あとは全弾のシャワーを浴びて、彼の気が済む頃には、僕は原型を留めていないだろう。
壁を斜めに駆け上がる。
射線が追いかけてくる。
脚下から迫り来る弾丸の雨。
あともう少しで飲み込まれるといったところで、
電光石火で天井を蹴り、
自由落下を超えた速度で床に着地する。

射線は上がりきったままだ。
僕は浮かんだ彼の真下に向かって疾駆した。
充電は完了していた。
電気袋の中でエネルギーが暴れているのを感じる。

遅れて、背後から射線が追いついてきた。
こちらが走らなければならないのに比べ、彼は腕を動かすだけでいい。
理不尽だ、と憤慨したいがそんな余裕はない。
黒い光の弾丸が僕のすぐそばの床を穿ち、
その破片が僕の背中に小さな傷を作る。
尻尾に裂傷が生まれる。
ついに射線が、重なる。

「ピーカー……」

眼前に弾丸が迫る。
それが僕を失明させる直前に、

「ヂュ~~~~!!」

僕は電圧を解放した。
閉じた瞼を透かして、
電流が弾丸を黒い光の粒に分解し、
砲身もとい彼の掌にぶつかるのを感じる。
確かな手応えがあった。
だが、墜ちてこない。
見れば彼は両の手を翳して、僕の10万ボルトを相殺していた。
やれやれ――、
信じられないキャパシティだ。

徐々に出力が弱まっていく。
彼と僕を繋ぐ光の橋が細くなる。
片手で充分と判断したのだろう。
彼が右手を相殺に当てたまま、
左手を頭上に持ち上げる。
再び黒点が収束していく。
先ほどの弾丸の大きさを超えて膨らみ続ける。
肥大化したエネルギーが禍々しい音を立てて、
彼の掌から解き放たれる時を、僕を殺す時を待っている。
一撃で済ませるつもりなのだろう。
しかしもちろんのこと、それを黙ってみている道理はどこにもない。
僕は緩めていた出力を最大にした。
許容量を超えた電流が、紫電となって彼の身体を駆け巡る。
両腕を相殺にまわすことは出来ない。
左掌には自らが作り出した莫大なエネルギーの塊がある。
僕は10万ボルトを打ち止めた。最早放つ意味がない。彼は自滅するのだから。

制御を失った黒の球体が、ぶよぶよと形を変える。
彼はそれを押しとどめようとする。
が、やはり高圧電流を通した身体は彼の意志に応えられなかったようだ。
一瞬の静寂。
僕は耳をたたんだ。
綺麗な爆発だった。
この空間に満ちている白い光を寄せ集めて凝縮し、
一気に解き放ったような、いつか観た花火を想記させる光景だった。

爆発の余波に煽られながら、僕はしっかりと目を開けていた。
白い閃光の中から異物を吐き出すように
吹き飛ばされた漆黒のポケモンは、
壁の一面に叩きつけられて地面に落下した。

生きてはいまい。

僕は一目見てそう推断した。

左腕は肩口から消し飛び、
身体の主に前面が酷い火傷を負っていた。
白銀の鎧もあの爆発の前には脆い銀細工に過ぎない。
ある部位は無残に砕け、ある部位はどろどろに溶解して、彼の身体を傷つけていた。
アイシールドの一点に湛えられた青白い光は、風前の灯火も同然だった。

歩み寄る。
傾眠ガスで眠らされる前に、
この世界最強と評されたポケモンの顔を見てみたかった。
とある孤島の、とある研究所で、
かつて僕が手も足もでなかった、
そして今となっては乗り越えた相手の正体を思い出したかった。

それが何もかもの間違いだった。
油断していたわけではない。警戒を解いていたわけでもない。
むしろ断末魔の無差別攻撃は想定していた。
しかし――誰があの状態からの、精確な反撃を予想できただろう?

呼吸が止まる。
視界がぐらつく。

横薙ぎに吹き飛ばされたのか。

そう理解してから、僕はやっと彼の尻尾が撓る音を聞いた。
浮いていた身体が地面に触れ、
それでも勢いは止まらずに、壁の端にぶつかってようやく静止する。
神経はそれまで訴えを我慢してくれていたらしい。
痛いという一言では到底言い表わせない、
「森」という漢字のように、少なくとも「痛」という漢字が三つ必要なくらいの激痛が脇腹に広がる。
肋骨が少なくとも三本は折れているな、これは。

「ピィカ……チュッ」

無論、咳には血が混じっていた。
内臓も傷ついているのだ。
だが、いつまでも寝そべっているわけにはいかない。
打撃を受けた半身を庇うようにして身を起こす。

「……ピ?」

初め、幻覚を視ているのかと思った。
しかしジクジクと痛む脇腹が、それ現実なのだと教えてくれた。
彼の傷が癒えていた。
火傷が消えていた。
抉れた部位が埋まっていた。
完全に消し飛んだはずの左腕が、現在進行形で再生されていた。

馬鹿げている。
あれを"自己再生"と呼ぶのなら、
従前僕が目にしてきた再生術は応急処置ですらない。
彼は完全に元通りになった身体を眺め、天井を仰いだ。
すぅ、と白い空間に穴が生まれ、
アームが彼の欠損した強化骨格を取り外し、
真新しい強化骨格を取り付けていく。
僕はそれをただ呆然と見ているしかなかった。
振り出しに戻ったのは彼だけだ。
僕の身体は傷ついたまま、彼の相手しなければならない。

「第二フェーズ、開始します」

朦朧とした意識に、囁きが木霊する。

使え。
次は致命傷になる。
余計なことを考えるな。
今生き延びることだけを考えろ。

僕はその衝動を押さえ込もうとした。
しかし猛然と迫り来る彼を見て生まれた恐れと怒りが理性を殺し、
自棄をも厭わぬ本能が、完全に顔を覗かせる。
目を閉じて――開く。刃と化した彼の右腕が、首を撥ねんと振り上げられる。





そこで世界は停止した。