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あれから三度季節が巡った。
カスミは無事に出産を果たしていた。
ポケモンの院内立ち入りは厳禁されており、
僕はその朗報をサトシの母から聞かされた。
赤ん坊が女の子であると知ったとき、僕も飛び上がらんばかりに喜んだ。
カスミが女の子を望んでいたことが表面的な理由で、
男の子だった場合、成長の過程でカスミがサトシの面影を重ねてしまうかもしれないというのが、内面的な理由だ。

出産するまでも、出産してからも、近所の人間のカスミに対する風当たりは強かった。

"噂によればサトシはまだ旅を続けているという"
"あのカスミという女は哀れにも捨てられたのだ"
"大方、勝手に身籠もって実家に押しかけ、「この子を産んでサトシの帰りを待つ」とでも言い張ったのだろう"

それが暗黙の了解だった。
しかしもちろん、現実は違っていた。
カスミは無責任に身籠もったわけではないし、
カスミがマサラタウンでサトシを待つことは、彼の母親が勧めたことだ。

非難されるべきはサトシなのだ。
白い視線にさらされるカスミの盾になりながら、いつだって僕はそう主張したかった。

実際、誰もが心の深い部分では解っていたはずだ。
しかしそれが表沙汰にされることはなかった。

讃えられた栄誉は数知れず、
マサラタウンが輩出した歴代ポケモンマスターの中で最優秀と謳われ、
当然のように名誉市民にも登録されたサトシの黒い噂は、
信じる者こそいたかもしれないが、進んで流そうとする者は皆無だった。
オーキド博士の予見通り苦境に立たされたカスミだったが、
彼女はあの夜以降、一時たりとも涙を流さなかった。弱音を吐かなかった。
「悲しい」という感情を忘れたかのように、気丈に振る舞ってきた。
サトシのことを思い出すこともあっただろう。
僕の知らないところで世間の辛い視線に耐えていたこともあったかもしれない。

それでも彼女は笑顔を絶やさなかった。

それが赤ん坊の成長に良い形で影響したのだろう。
――いつも日向にいるような子でいて欲しい。
そんな願いとともに名付けられたヒナタは、すくすくと成長した。

僕はそれをずっと見守ってきた。
少し、離れたところから。
いくらカスミの信頼を得ているからとはいえ、
赤ん坊のそばにはポケモンを寄せない、というのが常識だ。
もし仮に僕がヒナタのそばに寄ったところで、
産毛を撫でてみたり、柔らかそうな頬をぷにぷにしてみたい、
といった欲求を鉄の理性で抑えきる自信があるが、
それでも一応、生理的な問題(不定期に微弱電流を放電などなど)を考えた末、自粛した。


僕がヒナタと初めて言葉を交わしたのは、彼女が三歳の誕生日を迎えた次の日の朝のことだ。

「ピカチュウ、こっちに来て」

カスミが手招きする。幼いヒナタはカスミの服のすそをきゅっと摘んでいた。
家の中で時折見かける黄色いねずみポケモンの正体が明かされることに、
楽しみ半分、怖さ半分、といった様子だった。
カスミは優しく話しかけた。

「ヒナタ」
「なあに?」
「ポケモンのことは前に教えたわよね?」
「うんっ。知ってるよぉ」

彼女の視線は時々僕に注がれている。
カスミとの受け答えもどこか上の空だ。

「じゃあこのポケモンの名前はなに?」

とカスミが尋ねる。ヒナタは少し思案した後、

「それも知ってるよぉ。えっと、えっとね……、ピカチュー!」

と誇らしげに答えた。じん、とした喜びが胸に溢れてくる。
彼女の母親が――カスミが僕をそう呼んでいるのを、自然と覚えていたのだ。

「正解。それでね、今まではヒナタのそばに寄らないように、ピカチュウに約束させてたんだけど、
 今日からそれをナシにしようと思うの」
「えっ……ほんとう?」
「ほんとうよ。ママは嘘をついたりしないでしょ?」

ヒナタの顔が、ぱぁっと明るくなる。
カスミもそんな娘の反応を見て、とても嬉しそうだった。
しかし彼女の表情に一筋の影が差していることに、僕は気がついていた。
「ヒナタに黙っていたことがあるの」
「えっ?」

カスミは告げた。
幼いヒナタが理解するには余りにも重すぎる過去の断片を。

「このピカチュウはね、ヒナタのお父さんのポケモンなのよ」

ヒナタに論理的思考が可能だったなら、彼女の頭の中には次々と疑問が浮かんできていたことだろう。

――どうしてヒナタにはお父さんがいないの?
―――お父さんは今どこにいるの?
――――どうしてお父さんのポケモンがお父さんと一緒にいないの?

しかし彼女は「ふーん」と首をかしげた後、

「お父さんの――(お父様の)――ポケモンだったんだぁ――(ポケモンだったのですね)」

と反復して、僕に向かって微笑んだ。無垢な笑顔だった。
僕は慇懃にお辞儀を返す。

「ピカピカー」

よろしく、ヒナタ。仲良くしようね。
カスミが言った。

「呼んでみなさい」

ヒナタは頷いた。ぎこちなく両腕が伸ばされ、花が開くようにゆっくりと五指が開かれる。
「おいで――(こちらに来て)――ピカチュウ。抱っこして――(抱きしめて)――あげる(あげます)」

まただ。思考にノイズが走る。
ヒナタの声が二重に聞こえる。
僕はこめかみを押さえながら、誘われるようにヒナタの元へ歩み、その腕に抱かれた。
温かかった。
ノイズが視界を覆っていく。
僕はどうしようもなく眠たくなった。


夢の眠りは現の目覚め。
僕は"確かな"圧迫感を感じて、身じろぎした。

「んっ……、ダメ、暴れたりしてはいけないの」

焦りの混じったソプラノ。聞き覚えがある。
だがそれが誰のものか思い出せない。
僕を抱きしめている相手を確認する。
赤いドレス。燃えるような赤髪。
縁のくっきりとした、小さいながらにも意志の強そうな瞳。
すべてに見覚えがある。だがそれに該当する人間が思い浮かばない。
僕は身じろぎをやめた。
安心したような細い息が、女の子の唇から漏れた。
ここはどこだ? 地下牢だ。
この女の子はどうやってここに入った? 扉を開けて入ったに決まっている。
監守の目をかいくぐって? あり得ない。監視の目は厳しい。
この施設の関係者だろうか? 妥当だが、たとえ関係者であろうと、監守が牢の中での面会を許可するとは考えがたい。

「わたしの名前はアヤ。あなたの新しいマスターです」

彼女の自己紹介は一行で終わった。
しかし僕を困惑させるのに、その二言目は十分すぎた。
新しいマスター? 何を言っている。
僕のマスターはヒナタ、唯一人だ。

「ピッ……」

感情に駆られて身じろぎを再開する。
しかし、

「話を全部聞いてもらうまで、離しません」

途端に強くなった抱擁と、その一言にまたしても屈してしまう。
驚くべきことに、僕はその女の子の腕が不快ではなかった。
まるで幼いヒナタに抱かれているような感じさえした。

どうかしてる。

頭が熱にうかされたように、思考がまとまらない。
アヤは言った。

「通じるかどうか自信はないけど、聞いてください」

僕は文字通り耳を傾けて見せた。
彼女はわずかに目を瞠ってから、静かに深呼吸をした。
緊張しているのかもしれない。

「まず一つ目に断言しておきます。
 ここからの脱出は不可能です。この地下牢から、或いはこの階層から脱出できたポケモンはいません。
 二つ目にピカチュウ。あなたをこの地下牢に閉じ込めるように差し向けたのは、わたしです」
「………」
「驚かないんですね。でもまあ、それは余談です。
 大事なのは、絶対にこの地下牢からは脱出できないという事実を、あなたが理解することです。
 そして脱出計画など諦めて、わたしのポケモンになると誓うことです」

力なく首を振って見せる。彼女は特に落ち込んだ風もなく言った。

「時間の問題です。どうせ過去の記憶は否応なしに忘却されるのですから」

僕は視線でアヤを咎めた。
僕が記憶を喪失することによって自分に従うようになる、とでも考えているのか。
実態は知れないが、仮にもここは組織だろう。そんなアヤ一人の我儘が許されるとは思えない。

「卑怯なやり方だということは自覚しています。でもそれはピカチュウ、あなたのためでもあるのです」

声に後ろめたい響きはなかった。
アヤは見え透いた嘘はつかない性格のようだ。
婉曲に物事を運ぶのは苦手と見える。
僕を独断で牢に移したことといい、
僕が記憶障害を引き起こす可能性を考慮していない投薬といい、
行動力に先見の明が伴っていない。
利発そうな顔をしているが、所詮、まだまだ子供ということか。

「続けます」

彼女は目を逸らすようにして言った。

「三つ目に、あなたが危険なポケモンだという理由でこの地下牢へ移したのは、
 あなたをあの実験から遠ざけたかったがための建前なのです。
 わたしは安心していました。わたしの采配によって、近いうちに行われる最終テストには、
 使い物にならなくなったポケモン数体が宛がわれる予定になっていたからです」

僕は黙っていた。

「ところが前日のミーティングで、詳細なデータを採るために、あなたを起用することが決定されました。
 わたしは最後まで反対したのですが、ダメでした。何故わたしが頑なに反対したか、解りますか」
「…………」
「最終テストの被験体が、地球上の生命体の中でも最も強いと言われているポケモンだからです。
 いくらあなたが強くとも、勝ち目はありません。
 最終テストでは被験体の勝利を前提として、どのレベルまで制御できるかを測定します」

つまり制御に失敗した場合、相手のポケモンは容赦なく殺される可能性がある、というわけか。
――ぞっとしないな。
僕が察したことを察したのだろう、アヤはこれまでの平坦なソプラノに抑揚をつけた、切実な声で言った。

「あなたが被験体の相手を免れるには、
 戦闘が困難であると示すしか方法がありません。だからお願いです。
 どうか実験前日に行われるコンディションチェックでは、戦闘できないことをアピールしてください」
僕はイエスともノーとも答えなかった。
別に考える時間が欲しかったわけではない。
保留するような選択でもない。

「答えて」

安心したいんだろうな。
しかし何故このアヤという少女は僕に拘泥するのだろう。
純粋に強いポケモンを自分の所有物にしたいという欲求が、僕に興味を示したからか?

監守が牢の入り口でアヤに告げた。

「……アヤ様」
「解っています」

尖った声だった。
僕に向けられていたそれに比べるとボールと銃弾の違いがある。
アヤは僕の頬のあたりを見つめて言った。

「わたしは長くこの施設に留まっていられません。
 またすぐに任務に就かなければならないからです」

既視感。
散り散りになった記憶のひとつが、
同じような台詞を他の誰かに言われたことがあると告げている。

「おそらく最終テストが行われる時も、
 わたしはこの施設にいないでしょう。
 だから、約束してください。
 絶対に被験体の相手を免れる、と。
 ピカチュウ、あなたには死んで欲しくないのです」
「アヤ様、これ以上は――」

監守がアヤの肩に手を掛ける。

「触らないで下さい」

アヤは乱暴にその手を振り払うと、
僕を優しく床に下ろした。
彼女の腕の中と比べて、地面はとても冷たかった。
アヤは牢の扉をくぐりながら言った。

「迎えに来ます。待っていてください」
「……チュ」

さよなら。

もしマサキが今の返事を聞いていたなら、
そこに込められた「さよなら」以外の意図も理解していただろう。
深紅のドレスを見送った後、僕はなにをするでもなく、
頭上の小窓から響いてくる潮騒に耳を傾ける。

アヤへの服従と、確実な死。
不思議なことに、それらを天秤にかけてみても、天秤はどちらか一方へ傾こうとしなかった。
水平を保っていた。
等価だからではない。どうでもよかったからだ。

僕の心は摩耗していた。

記憶に蓋がされていくことへの畏れは、いつしか消えていた。
眠っているあいだに見る明晰夢は日に日に色彩を増す。
対して起きているあいだに感じる感覚は日に日に色彩を失っていく。

揺るぎないのは、蓄積してきた戦闘経験だけだ。
体が覚えている、とはよく言ったものだと思う。

最終テストに協力するか否か。
その答えはアヤに話を聞かされるよりも前から決まっていた。



「ウツギ博士は現在、グレン島に出張中です」
「いつセキチクに戻られるか分かりませんか?」
「申し訳ございません、分かりかねます」

カエデが横から口を出す。

「大体でいいんで教えてください」
「出発されたのが五日前ですので、早ければ十日以内にお戻りになられるかと――」
「ありがとーございましたー」

くるりと姿勢を反転して、すたすたと出口に向かうカエデ。
あたしは一瞬そのままカエデに行きそうになって、
慌てて受付の人に会釈してから、カエデを追いかけた。

サイクリングロードを抜けた後、
金髪と茶髪の二人組は、約束通りあたしとカエデをポケモン協会本部に案内してくれた。
やっとピカチュウを攫ったあいつらの手がかりが手に入る。
そう思っていたのに――どうしてここまで来て、待たされなくちゃならないんだろう。
タイミングが悪すぎるわ。
あたしは会ったことのないウツギ博士を恨んだ。

「あれ、あんたたち、まだ居たんだ」

ポケモン協会本部の外に出ると、とっくに家に帰ったと思っていた少女二人組が待ってくれていた。
金髪ロングが唇を尖らせて、

「先輩ひっどぉ~い。折角待っててあげてたのにー、そんな言い方ないんじゃないんですかぁ?」
「ごめんごめん。でも、どうしてまだ家に帰ってないの?」
「先輩、ピンクバッジもらいに行くんですよねー? たぶんセキチクジムへの道も分かんないだろうから、案内してあげようと思って」
「あ、ありがと。でも、そこまで気を遣ってくれなくてもよかったのに」
「いいじゃないの。ヒナタ方向音痴だし、この際セキチクシティ全部案内してもらったら?」

カエデがあたしをからかう。

「もうっ。あたしは方向音痴じゃないってば」

あたしがそれにむくれる。
自然なように見えて、その実、不自然なカエデとの遣り取り。
あたしがゲンガーのことを告白してから、
カエデとあたしの間には目に見えない壁が出来ていた。
喧嘩しているわけでもないし、冷戦状態なわけでもないんだけれど……
なんというか、今まで零に近かったカエデとの距離が、少し離れてしまったような気がする。

こんなことは初めてだった。

距離が零ということは、
言い争いや喧嘩になりやすい分、仲直りもしやすい。
そこに空間が生まれれば、
傷つけあう機会が減る分、一度傷ついた関係は修復されにくい。

それは、集団生活を経験した人間なら誰もが知っていること。

今まであたしとカエデはの距離は零だった。
数え切れないほど喧嘩して、数え切れないほど仲直りもした。
そうやって絆が深まっていくのだと思う一方で、
いつまでもそれを繰り返していてもいいのかな、と思うこともあった。

あたしもカエデも、もう子供じゃない。
そろそろ潤滑油を引いてもいい頃だと思う。
共有する部分は共有して、それ以外のところは干渉しないようにして……。

ゲンガーのことにしても同じよ。
誰がどう言おうと、自分がどうするか最終的に決めるのは自分自身。
いくらカエデがあたしを非難したって、それは筋違いと言うものよ。
だってゲンガーは、カエデじゃなくてあたしのポケモンなんだから。

「せんぱぁ~い、どこまで行くんですかー?」
「ヒナタったら、ジムの前通り過ぎてどうすんのよっ」

手を捕まれる。

「あはは……ごめん、ちょっと考え事してた」

考え事については訊かずに、、
カエデはただ眉根を寄せて「迷子になったら泣くのはヒナタなんだからね」と言った。
「セキチクシティジムは一見、タマムシシティジムと似通ったお屋敷のような外観をしていますけど、
 中身は全然違ってて、絡繰り窓やどんでん返し、隠し梯子といったようなワクワクギミック満載の忍者屋敷なんですよ」

と簡単にジムについて解説してくれた茶髪ショートは、

「アンズちゃん、ヒナタさんにバッジをタダで渡すのが気に入らなくてごねると思いますけど、
 そこは優しくしてあげてくださいね」

と小声で付け加え、今度こそ茶髪ロングと一緒に帰って行った。
カエデは屋根の瓦を一つ一つ数えるように目線を動かしながら、

「さすがは忍者屋敷、ってところかしらねー。
 あたしみたいな大人も思わず童心に返っちゃうような空気を醸してるわ」
「まさか入り口のとこから仕掛けがあったりしないわよね……?」
「んなわけないでしょ。ヒナタ、あんた心配しすぎ」
「だってほら、試練は門をくぐった時から始まっている、みたいなシチュエーションがあるでしょ?」

カエデは自信満々に

「あたしもヒナタも挑戦者じゃないから、大丈夫」

と言い、受付のある離れに颯爽と歩き出して派手にコケた。

「いったぁ~い……なにこれ、縄? はあ? なんでこんなとこに縄が張ってあるわけ?」

あたしは縄をそっと跨いで言った。

「人柱になってくれてありがと、カエデ」
「うるさい。ヒナタが先に行ってよ。あたしは後ろからついてくから」
結論から言えば、あたしたちは苦もなく離れにたどり着いた。
罠が仕掛けられているといっても、精々最初にカエデが引っかかった縄くらいで、
逆に拍子抜けしてしまったほどだ。
受付のお姉さん曰く、

「屋外の引っかけ罠は、雰囲気作りみたいなものですよ。
 まず引っかかる人はいませんしね。
 本格的な仕掛けは屋敷の中に集約されているんです」

とのことで、カエデは必死になってお尻についた土を払っていた。
また、ピンクバッジがなんの審査もなく入手できたことにも拍子抜けした。

あたしはレインボーバッジを見せるだけで良かった。
受付のお姉さんがぱちぱちとパソコンにあたしのパーソナルデータを入力し終えると、

「どうぞ」

と笑顔でバッジを渡してくれた。

「あのぅ、こんなに簡単にもらっちゃってもいいんですか。
 それに、こういうバッジの受け渡しって、ジムリーダーがする決まりなんじゃ、」
「あなたにはピンクバッジを受け取る資格があります。
 レインボーバッジの現物確認に加え、データベースにもあなたの功績が記録されていますから手違いはありえません。
 それと、確かにバッジの譲渡は原則的にジムリーダーが行うことになっていますが、
 アンズは現在ジム戦の最中ですので、例外です。安心してお受け取りください」

受け取りながら、あたしはちょっぴり残念だった。
アンズちゃんに会いたかったなあ。
茶髪ショートが絶賛していたから可愛いのは当たり前として、
やっぱりジム戦には、忍者の格好で臨んでいるのかしら。
「おめでと、ヒナタ。なんもしてないけど祝ってあげる」
「ん……、ありがと」
「今バッジ、何個だっけ?」
「五つよ。グレー、ブルー、オレンジ、レインボー、ピンク……」

口に出してみて、改めて自分が、
ほとんど自力でバッジを集めていないことに気づく。
純粋に実力勝負で手に入れたのは、レインボーバッジくらいかしら。
ううん、それにしたって、ゲンガーの暴走なくしては手に入れられなかった。

カエデは首を捻りつつ、

「半年でバッジ五つって、今考えたら凄いペースじゃん。
 案外、ピカチュウを捜しながらでも今期のポケモンリーグに間に合うんじゃないの?」
「それは無理だと思うわ」
「なんで?」
「だって、次に行く街がヤマブキシティとは限らないでしょ」
「………」

あたしにはカエデの沈黙の理由が分かっていた。
カエデははっきりと口に出しはしないものの、
心の中では、早くあたしがゴールドバッジを手に入れて、
ゲンガーを外に出してあげるべきだと考えている。
でもあたしの考えている優先順位は、ゲンガーよりもピカチュウの方が数字が小さい。
というか、1だ。
もしウツギ博士の示してくれる手がかりがヤマブキシティでないのなら、
例えヤマブキシティを通過することになっても、滞在しない。
当然、ヤマブキシティジムにも挑戦しない。
「あのね、ヒナタ――」

と、カエデが口を開いたその時だった。
ガララ、とけたたましい音とともに離れの戸が引かれ、
あの罠に引っかかって前のめりに地面に倒れ込んだのだろう、全身土埃まみれの男の子が入ってきた。

「しっ、失礼します!」

声が上擦っている。初めてのジム戦なのかな。
一生懸命登録用紙に必要事項を記入する男の子の微笑ましい姿に、あたしは少し和んだ。
カエデといえばあの罠に引っかかったのが自分だけでないことを知って胸を撫で下ろしていた。
カエデが言った。

「帰ろ? ウツギ博士が出張から戻ってくるまでの間、セキチクで何をして過ごすか計画立てなきゃ」
「そうね。最低でも一週間は待たなきゃいけないわけだから――」

とあたしが答えている途中、カランカラン、とペンが転がる音がした。

「その声……まさか……」

さっきの男の子が、ペンを拾うことも忘れてあたしを凝視していた。
あたしは自然と自分を指さしていた。え、あたし?
確信したのか、「なんて偶然なんだろう」と男の子は呟く。

「なになに? ヒナタ、この男の子と知り合いなの?」
「えっ……あの……それは……」

本当に知り合いだった時のことを考えて返答に窮していると、男の子は土埃にまみれた顔をぐしぐし拭って言った。

「忘れちゃったんですか? 僕ですよ! ニビシティのリュウジです!」
「リュウジ……あ!」

次々に記憶が蘇ってくる。
あたしとのポケモンバトルでイワークを暴走させた、ジムリーダー代理の少年。
あの騒動の後は、代理の座を降ろされて、
ジムのサポートに回っていると聞いていたけど……

「なんでリュウジがセキチクシティにいるの?」
「僕もヒナタさんと同じように、旅の途中なんですよ」
「へえ……じゃあ、ジムの仕事から離れて、ポケモンマスターを目指すことにしたんだ?」

リュウジは細い目を瞬かせて首を振った。

「いや、僕はただ父さんの後をついてきただけです。
 セキチクジムに挑むのは、丁度セキチクを通りかかったからで――」
「おいおい、いつまでかかってるんだ?」

振り返る。
離れの戸に姿を現したその人は、
ものすごく重そうな登山用のリュックを軽々背負って、
リュウジそっくりの細い目で、あたしたちを見つめていた。
リュウジのお父さんって、確か――。

「タケシさん、ですよね?」

あたしが気づくよりも早く、カエデはタケシさんの前に瞬間移動していた。

「ああ、うん。いかにも俺はタケシだが……」
「サインお願いします!」
リュウジ親子との出会いから一時間後。

君がヒナタだったのか。
俺のバカ息子が迷惑をかけて本当にすまなかった。
ところでお昼ご飯はもうすませたのかな?
まだならご馳走するよ――。

お腹がぺこぺこだったあたしとカエデは、進んでそのお誘いを受け、
ポケモンセンターの一室で、タケシさんお手製のシチューをご馳走になっていた。

「ウマっ! 超おいしいんですけど!」
「本当に美味しい……」

ワイルドな男料理が出てくるかと思いきや、
タケシさんのシチューの見栄えは一流レストランのそれみたいに綺麗に整えられていて、
味に至っては具材とホワイトソースの絡み具合が絶妙で――とにかく絶品だった。

「リュウジが羨ましいわ。
 毎日こんなに美味しい手料理が食べられるんでしょ?」
「父さんはなんでも作れるんですよ」

タケシさんは髪をかきながら、
子供みたいに顔をほころばせた。
シチューの残りが少なくなってきたところで、あたしはリュウジに訊いた。

「そういえば、リュウジはどうしてジムの仕事を離れたの?」
「僕、ヒナタさんが二ビシティを旅立った後、いろいろ考えてみたんです。
 ジムリーダーになる、ならない以前に、まず色んなポケモンやトレーナーに会って、経験を積まなくちゃならないんじゃないかって。
 それで次に父さんが帰ってきたら、父さんについて行こうと決めたんです。
 実際、父さんが二ビシティに帰ってきたのは、それからすぐのことだったんですけど」
「リュウジの変わりようにはびっくりしたよ。
 昔は早くジムリーダーになりたい、早くジムリーダーになりたい、って駄々こねてばっかりだったのにな」
「ちょ、恥ずかしいからやめてくれよ、父さん」

さっきから異様に静かなカエデを見てみると、
丁度シチューの皿を傾けて、ずぞぞ、と啜っているところだった。ずっと食べてたのね……。

「お代わりはどうする?」
「ください!」

タケシさんが皿を受け取り、鍋に向かう。
カエデは口の周りについたシチューを上品に拭いつつ(初めから上品に食べていれば拭わずに済むのに)
タケシさんの後ろ姿に尋ねた。

「タケシさんて、確か全国のポケモントレーナー・ブリーダーの育成に力を入れておられるんですよねー?」
「その通りだよ」
「今はどこに向かってるんですか?」
「それは……」

リュウジが横やりを入れる。

「父さん、旅の行き先だけは絶対に教えてくれないんだ。
 一応どこかには向かってるみたいなんだけど、
 特に急いでる風でもないから、予想もできないし」
「まあまあそう拗ねるな、リュウジ。
 とりあえず、しばらくはセキチクシティに滞在するから。
 お前はピンクバッジに集中していればいいさ」
「またそうやってはぐらかすだろ。
 そんなだから母さんに呆れられるんだよ」
「なっ、ななな、何を言うんだリュウジ!
 俺と母さんの夫婦仲は円満で……」
「嘘だ。この前母さん、電話で言ってたよ。
 父さんから毎日メールとか電話来て鬱陶しいって」
「嘘だぁあぁぁぁ」

おたまを持ったままガクリと崩れ落ちるタケシさん。
ガーン、という効果音が聞こえてきそうだった。
あたしとカエデは、反応に困って顔を見合わせる。
カエデが訊いた。

「あのさ、リュウジくん?」
「何ですか?」
「リュウジくんのお母さんて、誰なの?」
「ポケモンの研究者ですよ。
 オレンジ諸島にある研究所の所長をやっていて――」

リュウジは母親の姓名を教えてくれた。

「知らないわ。カエデは知ってる?」
「ううん、知らない」
「そうですか。わたしは結構有名な学者なんだって、母さんは言ってたんだけどなぁ。
 論文もいくつか発表していたみたいだし……。
 あっ、そうだ。母さんが有名なのは、旧姓の方だから――」

ウチキド。

その言葉を聞いた瞬間、カエデの目の色が変わった。
「ウチキド博士なら知ってるわ!
 てか、オレンジ諸島のポケモン研究の第一人者じゃない。
 へえー、そっかー、リュウジくんのお母さん、ウチキド博士だったんだ」
「そんなに凄い人なの?」
「ええー、ヒナタ知らないの? あんたが会いたがってるウツギ博士に並ぶほど有名なポケモン研究者よ?」
「……うーん、だめ。授業で習ったはずだけど、思い出せないわ」

名前には聞き覚えがあるけど、どんな研究をしているのかまでは知らなかったし、
おそらくウチキド博士の名前を知った当時は、知ろうともしなかったに違いない。
リュウジは言った。

「やっぱりウチキドの方が、世間には馴染み深いんですね」
「そうね。ポケモン考古学の文献にも、時たまウチキド博士の名前が出てくるけど、
 結婚していたなんて全然知らなかったわ」
「それは仕方ないですよ。
 学会には未だにウチキドで通ってるみたいですし」
「うっ……うう……」

ふとタケシさんの方を見ると、備え付けのキッチンの片隅で、
膝を抱えてエプロンに顔を埋めて泣いていた。
カエデの「結婚していたなんて全然知らなかったわ」という一言が、胸に刺さったのかもしれない。

「……タケシさんって、見かけによらず繊細な人なのね」
雑談が一段落ついたところで、あたしとカエデはお暇することにした。
リュウジは別れ際に、あたしに言った。

「次にヒナタさんに会ったときは、
 僕の本当の実力と勝負してもらおうと思っていたんですけど、
 その勝負は、もう少し待っていてもらってもいいですか。
 今戦っても、僕が負けるのは一目瞭然です。
 だから、僕がもう少し強くなったそのときに……」
「うん、待ってるわ。今度のジム戦、頑張ってね」

あ、ありがとう、とリュウジが尻すぼみの声で答える。
タケシさんが呟いた。

「……血は争えんな」

タケシさんとリュウジの部屋を出たところで、
あたしたちが泊まる場所も同じポケモンセンターだ。
あたしとカエデの部屋は、リュウジ親子の部屋から少し離れた斜向かいに決まった。

カエデがベッドに倒れ込む。
一瞬それに倣いそうになって、思いとどまり、
あたしはボールをベルトから外して、ベッドテーブルに並べた。
モンスターボールが二つ。
そして、ハイパーボールが一つ。

あたしは服を脱ぎ散らかすカエデを尻目に、自分を詰った。
ゲンガーが危険だとか、リスクは最小限に抑えるべきだ、とか言い訳して――。
結局は、暴走したゲンガーを思い出す度に、ボールを開ける手が止まってしまう、ただそれだけのことだった。