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静止とは何もしないこと。
動態とは思い切り駆けること。
動静の緩急は常に鋭く。

息を吐くように電気を放ち。
躱し身は必ず紙一重。
攻撃が熾烈なら間隙を縫い。
防御に徹するならそれを剥がし。
晒された一分の虚には最高の一撃を。
虚が生まれなければ、作り出すまで。

思考は要らない。時間の空費に過ぎない。
反射を超えたその先で、識域下の何かが命令を下す。

『ピカチュウ、君に決めたッ!』

足が地面を捉える。遠くから声が聞こえた。

『サトシ! ピカチュウ! 頑張ってー』
『サトシー、負けたら今晩のシチュー抜きだからなー』

ああ、酷く懐かしい。
カスミとタケシが僕とサトシを応援してくれている。
ただそれだけのことなのに。
変わり映えのない光景なのに。
――どうしてこんなにも胸臆が疼く?
男は下卑た笑みを浮かべて、

『おいおい、降参した方がいいんじゃねえか?』
『冗談きついね。俺のピカチュウをなめるなよ』
『ひひっ、そうかい。
 これから可愛いねずみポケモンを虐待すると思うと、心が痛むぜ』

サトシは僕の頭を撫でながら、
困ったような、それでいて自信の失われていない力強い口調で、言った。

『めちゃくちゃ不利な状況なのは否めないけどさ。
 俺とピカチュウに不可能なことなんてない。
 ここから逆転して、目に物を見せてやろうぜ!』

同意見だよ。

『ピッカァ!』

ハイタッチ。
じんと、痺れた右手から、緊張が解れていく。
相手のポケモンはスリーパー。
PK能力のキレの良さに関しては、素直に評価できる。
飛行中のリザードンを"金縛り"にかけて堕とす――月並のエスパーポケモンには不可能な芸当だ。

『ピカチュウ、まずはスリーパーのエスパー技を封じようぜ。
 リザードンがやられた時に、ちょっと違和感を感じたんだ。
 あのスリーパー、何か仕掛けてる』
『おっ、なかなか鋭いねぇ。
 スリーパー、いつもの組み合わせで料理してやれ。
 なるべく接近は許すなよ』

振り子が揺れ始める。

『遅れをとるな! "電光石火"だ!』
『チュッ』

了解、マスター。
四肢に力を籠める。
姿勢は低く。ただし視軸は繋いだままで。

一瞬の静止は、爆発的な加速への布石。

景色が揺らぐ。疾風と併走しているような感覚。
男の顔が醜く歪む。

『なんてぇ速さだ……。一旦退いて、
 方向転換の隙に"サイコキネシス"を見舞ってやれ』

その前に仕留めてやる。だが、サトシの声が僕を"電光石火"の陶酔から覚ました。

『ピカチュウ、最大出力で"フラッシュ"だ!』

――あなたがそう言うのなら。
浅く跳躍。"フラッシュ"に必要な充電は僅かだ。命令から1秒未満で発動できる。

――充電。
光子の高まりを感じる。
――調整。
命令は最大出力。
――解放。
瞬間、辺りは昼間のようになった。
スリーパーが目を背け、振り子の振れ幅が乱れる。
すると、僕の脳を侵さんとしていたノイズもすぅっと消えていった。

『よし! 追撃しろっ』
『ピカピカー!』

サトシ、あなたは本当に優しいな。
僕は多少の精神攻撃なら甘んじて受けるつもりだった。
勝利条件は最後に立っている、ということ。
要は、やられる前にやればいい。
だがあなたは、僕が受けるダメージが最小限でなければならない、と考えている。
それは或いは、あの男の言うように、

『甘いな』

と揶揄される考え方かもしれない。
でも僕はあなたの心遣いを嬉しく思う。
さあ、正しいのはどちらか証明しよう。

"フラッシュ"解除。
"電光石火"にて再進。

振り子が一往復するよりも先に――彼我の距離を詰める。
『もう超能力は使わせないぜ。
 俺のピカチュウに接近戦で勝てると思うかい?』
『ひひっ。さあて、どうだかな。
 一つ忠告しておいてやるが……。
 エスパータイプのポケモンが、接近戦に不利だという先入観は捨てた方がいい』

スリーパーが振り子の持ち方を変えようとする。
それよりも先に、懐に潜り込み――。
顎を目掛けて帯電済みの上段蹴りを放つ。
スリーパーは夜空をを仰ぐようにしてそれを躱した。

『ピッ……』

ガラ空きの胸を浅く蹴り、反動で着地。
帯電はしていたものの、流石にこのレベルになると効果は薄い。
生まれたタイムラグを使って、今度こそスリーパーが振り子の持ち方を変える。
糸の先端を左手で握り、中腹に右手を添え、先端の振り子を凶器のように振り回す。

――まるで鎖鎌だな。

不規則に空を切っていた振り子が、
不意に、僕へと伸びる。どうやら糸は伸縮自在らしい。
しかも狙いは、僕の回避位置が分かっているかのように精確だった。
ぎりぎり躱せているが……、
ともすれば手数に圧倒されそうになる。

その時、サトシの声が聞こえた。

『糸や振り子には構うな! 手首を見て躱せ!』
了解、マスター。
目を細め、意図的に視野狭窄の状態を作り出す。
浅く広い情報の波から、深く狭い情報だけを拾い出す。

スリーパーの攻撃起点は手首だ。
その動きが振り子に伝わるまでの僅かな遅れが、
こちらの回避の起点となる。

頭を傾げる。
振り子が頬を掠めていく。
浅くジャンプ。
さっきまで僕の足があった部分を、振り子が横凪ぎに払っていく。
ああ、確かに――読めないこともない。

左手が糸の先端を持ち上げ。
右手が手招きするように糸を手繰る。

軌道は割れている。
僕は左前方に"電光石火"し、
今まさに唸りを上げて伸びてきた糸を掴んで見せた。

『なっ……何がどうなってやがる!?』
『ピカチュウ、"電気ショック"を流し込んでやれっ』

握りしめた手に力を籠める。
僕は唖然としたスリーパーを見据えて、弱い電気ショックを断続的に流した。
糸を伝った電流が、彼の体を弛緩させる。

『"十万ボルト"の準備をしながら接近するんだ。
 反撃の隙を与えるな!』

『チュウ?』

十万ボルト?
趨勢はこちらに傾いている。
後は連撃で削りきれるはず。
大技を繰り出す意味はどこにある?

『あのスリーパーに小手先の攻撃は効かない。
 ピカチュウはさっき、何も感じなかったのか?
 あいつは多分、"未来予知"でこっちの攻撃をある程度まで把握してるんだ』

反芻する。
僕の上段蹴りを軽く躱したことといい、
振り子を鎖鎌のように用いた精確な攻撃といい、
なるほど、確かにスリーパーは、エスパーポケモンにしては反応が良すぎた。

『ピーカ!』

頬袋の電圧を高めながら、駆ける。
スリーパーが電撃に抗って糸を手放す。
"電気ショック"の束縛から解放される――、だが遅い。

接近。
足払い。
傾いだ体に当て身。
体勢を立て直される前に跳躍。
鳩尾に蹴りを叩き込み――。
宙で回転。
防御のつもりだろうか。
交差するようにして差し出された両腕に、尻尾で垂直に斬りつける。

これだけの連撃を与えたところで――。
このスリーパーを倒すには、全く持って不充分。
急所へのダメージは尽く防がれている。
打撃では削りきれない。

では、"未来予知"を超えた攻撃ならどうだろう。
物理的な防御が意味を成さない、不可避の電撃なら?

『ピカチュウ! 準備はいいか?』
『ピッカァ!』

充電は先ほどの連撃の合間に完了していた。
紫電が迸る。
小鳥の囀りのような音が大気に満ちる。
あまりの電圧に僕自身が感電しそうだ。
そうなると笑えない。

さあ、マスター。指示を頼む。

『いけ! 十万ボルトだ!』

その声をトリガーにして、
僕は、溜めに溜めた電圧を解放した。

『ピ~~カ~~ヂュ~~~~!!!!』

一閃。
轟音。

夜風が白煙を晴らしていく。
倒れ伏したスリーパーを見遣った男は、両手を挙げて言った。

『へへっ、やるじゃねえか。俺の負けだ』
『やったな、ピカチュウ!』

サトシが駆け寄ってくる。
僕の体にはまだ微弱ながら電流が走っているはずなのに、頬摺りされる。
僕はたまらない幸福を感じた。
いつまでも勝利の余韻に浸っていたいと思った。

――――――
――――
――

『はいピカチュウ、お代わり。
 今日も大活躍だったな。よく食べてもっと強くなれよ』

エプロン姿のタケシが、
三杯目のシチューをよそってくれる。

『チュ』

彼の作る料理は何でも美味しかった。
特にシチューは絶品で、ポケモンブリーダーからシェフに転向するべきだ、
と何度思ったか知れない。
右からお皿が突き出されて、

『タケシ、俺もお代わり!』
『はいはい』

さらにその右から、呆れた声がする。

『サトシ、あんた食べ過ぎ。
 ピカチュウでも三杯目なのに、あんたのそれ、五杯目でしょ?』
『うっせぇなあ。いくら食べようと俺の勝手だろ』
『食べ過ぎは体に毒だし……それに、みんなの分がなくなっちゃうじゃない』
『カスミの分の、の間違いだろ』
『なんですってぇ~?』

背伸びしてみてみると、
案の定、サトシとカスミが睨み合っていた。

僕はタケシと目配せする。

『やれやれ……また痴話喧嘩の始まりか?』
『痴話喧嘩じゃないわ!』
『痴話喧嘩なんかじゃねえよ!』

萎縮するタケシ。僕は同情の念を送った。
気苦労が絶えないな、君も。

『折角、心配してあげてるのに、なに?
 最近は連戦連勝だからって、ちょっと調子に乗ってんじゃないの?
 いつか痛い目見るわよ』
『へへーん、大丈夫ですよーだ。俺とピカチュウのコンビは最強なの。そうだよな、ピカチュウ?』

い、いきなり振られても……。
僕はドギマギしながらも、一応、短く鳴いておいた。

『……チュ』
『ほら見ろ』
『なーにがほら見ろ、よ。
 ピカチュウもサトシも味方ばっかりしちゃって。
 ご馳走様。あたし、ちょっと散歩してくるから』
『カスミ、夜道は危ないぞ』
『大丈夫よ。ポケモンを連れて行くから』

カスミはそう言うと、サトシには目もくれずに行ってしまった。
しかしタケシが懸念したとおり、そろそろ、夜行性の野生ポケモンが活発になる時間帯だ。
またカスミの衣服は上下ともに露出度が高く、暴漢を誘いやすい。
僕は心配になった。
――このままではまた、野生ポケモンと暴漢の屍の山が築かれてしまう。

『追わなくていいのか?』
『いーんだよ』
『じゃあ、お前もそのシチュー食べ終わったら、ピカチュウと一緒に散歩してきたらどうだ』
『俺の心配はしてくれないのかよ、タケシ』
『ははっ、お前は男だからな』

それからサトシは二回、スプーンを往復させて、言った。

『行ってくる』
『もう行くのか? まだ皿にシチューが残ってるぞ』
『お腹いっぱいになったから、いい。
 行こうぜ、ピカチュウ』
『ピカ!』
『すぐ戻るよ』

普段なら食事を残した途端に厳しくなるタケシだが、
今日は元々細い目をさらに細めて、小さく頷いただけだった。

サトシの足は自然と、カスミが歩き去った方角に向かっていた。
鬱蒼とした森は夜の闇を被り、
生い茂った葉は唯一の光源である月さえも、その裏側に隠そうとしていた。
いつ、どこからでも、
野生のポケモンに遭遇して不思議でない状況。
しかし僕らの前に躍り出る障害はなかった。
本能的に勝てないことを察知しているのだろう、と思う。
サトシは以前にこの場所――トキワの森――を訪れた時に比べて、雲泥の差が見られるまでに成長した。
残るバッジは唯一つ。グリーンバッジだけだ。
そして先ほども、サトシと同じくしてここまでやってきたトレーナーと戦い、辛くも勝利を収めることが出来た。

『あ……』

サトシの歩調が早くなる。
彼の視線の先を辿ると、清流に足を浸すように座っているカスミの姿が見て取れた。

サトシに気取られないよう、慎重に歩調を落とす。
彼がカスミに声をかけたあたりで、
近くの太い木を駆け上がり、丈夫な枝に腰掛けた。
どうせ僕はお邪魔だろうしね。

せせらぎを縫うようにして、幽かに、二人の会話が聞こえてくる。

『一人にしてよ』
『ここにきたのは偶然なんだって』
『じゃあ場所を移して』
『そう邪険にするなよ』
『反省の態度が見られないんだけど』
『それはお互い様だろ』
『なっ……あんたねー……』
『とにかく、横、座るぜ』

数拍の間。

『強引なんだから』
『昔からだろ』
『ふふっ。確かにそれだけは変わんないね。
 初めて会った時に、あたしの自転車掻っ払っていって、挙げ句の果てにボロボロに壊しちゃったの、憶えてる?』
『うっ……まだ憶えてたのかよ。いい加減忘れてくれよな』
『忘れるわけないじゃない。
 いつか絶対、弁償してもらうんだから』
『いつになるかわかんないぞ』
『いいのよ、いつになっても』

水が跳ねる音が続いている。
カスミが足をブラつかせている様子が目に浮かんだ。

『……ねぇ』
『……なぁ』

声が重なる。

『なに? 先に言って』
『いや、カスミが先に言えよ』
『あんたが先に言いなさいってば』
『じゃあ……。さっきはゴメン。
 俺、カスミの言うとおり調子に乗ってた。
 ここまで順調に来ることが出来て、
 どんなポケモンバトルでも負けなくなって……思い上がってたんだ』
『ふふっ』
『わ、笑うなよ。これでも反省してんだぜ。
 で、カスミは何が言いたかったの?』
『あんたと似たようなこと。
 あたし、最近なにかと苛々しちゃって……つい、あんたにキツくしちゃうのよね』
『苛々することって?』
『それは、その』
『なんでそこで口籠もるんだよ。カスミらしくねーなー』
『分かったわよ、言うわよ。
 ヤマブキシティを出発した辺りからかな。
 サトシが急に、遠くに行っちゃったような気がして。
 つい1年くらい前まではヘナチョコで、なのに後先考えずに無茶ばかりして、みんなを困らせてたのに。
 こんなこと言うと、またあんたを思い上がらせることになりそうだけど……。
 サトシも成長したんだな、って思ったのよ』

『ちょっとタンマ。それ、矛盾してないか?
 どうして俺の成長がカスミの苛々に繋がるんだよ?』
『あんたの夢はポケモンマスターになること。
 それがもう、あと少しで叶うところまで来てるのよ。
 なんとなく、ホントになんとなくここまで着いてきたけど……
 サトシがその夢を叶えたら、この旅も終わりじゃない』
『カスミはこの旅が終わって欲しくないの?』

僕は月を仰いで溜息をつく。
マスター、それ以上の失言は唐変木が過ぎるぞ。
カスミは言葉を選ぶようにして言った。

『そういう意味じゃないわ。
 あたしが言いたいのは……、旅が終わったら、
 あんたと一緒に過ごした時間が、全部、意味のない物になっちゃうんじゃないかってこと。
 あんたにとって今という時間は、ポケモンマスターになるための、ただの通過点なんでしょ』

数秒の沈黙。

『……ばーか』
『なっ、ななな、なんですってぇ?』
『カスミ、本気でそんなこと考えてたの?
 俺がタケシやカスミと冒険してきた時間は、無駄になんかならない。
 ポケモンマスターになってからも、それから何十年経った後も、絶対に忘れない。
 いやむしろ、忘れる方が難しいと思うよ』
『サトシ……』
『それにさ。カスミは俺が成長したっていうけど、
 まだまだ今のままじゃ足りないことは、自分自身、よく分かってんだ。
 それは多分、ポケモンマスターになってからも同じことで、
 俺一人じゃ、やっていけないと思う』

『ポケモンマスターに認定されることと、世界で一番強いポケモントレーナーになることは別物だろ。
 ポケモンマスターになって、そこがまた、新しい出発点なんだ』
『気障な台詞。シゲルくんみたい』

憂いの晴れた涼やかな声。

『う、うるせえな。
 それで、よければカスミに、頼みたいことがあるんだけど』
『なによ?』
『タケシはジムのことがあるけど、
 カスミはお姉さんが仕事してくれてるだろ。
 だから俺がポケモンマスターになった後も、一緒にいて欲しい。
 俺、こんなだからさ。いっぱい迷惑かけるだろうし、
 色んなことに巻き込まれるだろうけど、だからこそ、カスミに着いてきて欲しいんだ』
『遠回しすぎるわ。もっと簡潔に言って』
『好きだ。ずっと一緒にいてくれ』

おいおいマスター、それはあまりにも直截的過ぎないか?
カスミは彼女らしからぬ小さな声で答えた。

『……うん。あたしもずっと、あんたと一緒がいい』
『カスミ……』
『でも、タイミングが遅すぎるわ。
 どうしてもっと早くに言ってくれなかったのよ』
『俺、ずっと断られるとばかり思ってたんだ。
 カスミは一応、年上だし。俺なんかハナから眼中にないみたいだったし』

年上だからこそ、素直な振舞いが出来なかったんだ。
と、僕はカスミの心情を代弁する。
カスミはサトシの言葉には触れずに、

『このことはタケシに黙ってましょ』
『なんで?』
『あんた、嫉妬に狂ったタケシ見て楽しい?』
『いや。カスミの言うとおりだ、黙っていよう』
『………』
『………』

温かい沈黙。
幽かな物音。
カスミがサトシに寄り添い。
その珊瑚のように艶やかな赤の唇を。
そっと、彼のそれに近づける――ああ、ここまで想像できる自分の頭が憎い。

『ピカピカー……』

僕は左右に頭を振って、撤退することに決めた。
もともと、男女の馴初めを覗き見する趣味はないのだ。
飛び降りようと、下を見る。すると
見知った二人の人間と一匹のポケモンが、
僕が登っている木の幹に体を隠して、
サトシとカスミのいる方を、食い入るようにして見つめていた。

『男女の逢い引き見かけたら』
『邪魔をしないのが世の情け』
『ムードの破壊を防ぐため』
『甘い空気を守るため』
『愛と真実の善をつらぬく』
『ラブリーチャーミーな枝葉役』
『ムサシ』
『コジロウ』
『三十路をかけるロケット団の二人には……』
『ブラックホール、暗い明日が待ってるぜ……』
『にゃ~んて、にゃ……』

ロケット団だった。
しかしいつもの台詞には、聞いているこちらが暗くなるような改変がなされている。
ニャースが言った。

『なんだかにゃー……、こんなのを見せられると調子が狂うのにゃ』

ムサシが腰まで届く髪をかきむしりながら、

『ジャリボーイの癖に生意気なのよ!
 あいつに恋愛なんて100年早いわ!』
『100年どころか、20年待った結果が今のお前たちにゃ』
『キーッ!』
『ムサシ、声デカい』

と、指を立てて注意したコジロウは、
次の瞬間にはムサシの手によって地面にめり込まされていた。

『……』

他の枝に飛び移る。
サトシやカスミにポケモンを嗾けるようなら容赦なく電撃を浴びせかけてやるつもりだったが、
三人の遣り取りを見ている限り、その可能性は極々低いだろう。
肝心なところで空気が読める。
それがロケット団である。

木々を飛び移り、タケシの元へ。
僕はもともと夜目が利く。
あっという間に焚火の光を見つけて、地面に一度も下りることなく、タケシの肩に飛び乗った。
彼はシチューを保存していた手を止めて、

『うわっ! なんだ、ピカチュウか』
『ピカピカ―』

ただいま。

『あれ、サトシやカスミは一緒じゃなかったのか?』
『チャー……』

両手を肩の高さまで上げ、
首をゆっくり横に振って見せる。
ああ、これから先、君の気苦労が倍加することを伝えられたらどんなにいいか。
カスミはともかく、サトシが惚気を我慢できるとは思えないからね。
せめて君に恋人がいれば、それを笑って見守るくらいの心の余裕が持てたんだろうけど……。

『ふーむ。何を言いたいのかはよく分からないが』

と、タケシは首を傾げて、

『あいつらは仲直りできたんだな』

朗らかな笑顔になった。

『ピ……』

だめだ、無垢すぎる。
直視に堪えない。

『ピカ、ピカチュ』

僕は依然
『いつまで経っても素直になれないやつらだよなあ』
『喧嘩するほど仲が良いとは言うが、いつになったらあの二人は折り合いをつけられるのかねえ』
などと呟くタケシに見切りを付けて、
サトシの寝袋に潜り込んだ。
彼がサトシとカスミの恋仲に気づくのは、果たしていつになることやら。

目を閉じて耳を折りたたむと、
つい先ほどの情景が頭に浮かんでくる。
後先考えずに突っ走るサトシと、
それを諫める保護者的立場にいたカスミは、
ポケモンの僕の目からみても、お似合いのカップルだと思えた。
まあ……、蜜月が終わってからは、
痴話喧嘩がこれまで以上に頻発することになるだろうけど……、
とにかく今は、彼らを祝福するとしよう。

ところで話は変わるが、僕にはいつになったら伴侶が見つかるんだろうね。
タケシみたく大人の女性のお尻を追っかけ回すほど異性の温もりに飢えているわけではないが、
サトシの相棒として、鍛錬に明け暮れるだけの人生、というのも寂しすぎる。

そうだ。サトシのポケモンリーグ優勝の暁には、
"伴侶探しの旅に出る"と書き置きを残して一人旅に出かけよう。
そして行きずりのピカチュウと恋を育み、
子供を設けたところで、サトシとカスミのところに家族を連れて帰るのだ。
うん、それがいい。

想像に浸っていると、とろりとした眠気が思考に流れ込んできた。

遠くで薪の爆ぜる音がした。
冷ややかな夜気。
更けていく夜。

薄く目を開ける。
霞んだ月はまるで、舞い上がった埃に光を遮られた舞台照明のよう。
サトシやカスミの二人には丁度よい光量だろうな――と、僕は薄れ行く意識の中で思った。

―――――――
―――――
―――

起きたとき、月は跡形もなく消え去っていた。

朝が来たから?
違う。辺りは真っ暗だ。
時間が来て傾いだから?
それも違う。どこを仰ぎ見ても月の光は見つからない。
雲に隠れたから?
またしても違う。空にはちぎれ雲一つ浮かんでいない。

僕は不安に駆られて身を起こした。結果的に、それが夢と現実の間で揺れていた意識を揺り起こす切欠になった。

僕が夜空と勘違いしていたそれは、ただの天井だった。
小窓から明かりが差していないところを見ると、今は深夜なのだろう。

食事をして寝るだけの単調な生活は、僕の中の何かを狂わせているようだった。

一つ目に、記憶の整合性がとれにくくなっている。
最後にマサキと面会したのはいつだったか、思い出せない。
三日前? 一週間前?  一ヶ月前? 分からない。

二つ目に、忘れてはならない記憶が薄れつつある。
新しい記憶を筆頭に、既にマサキと交わした言葉の数々や、
強化骨格を纏ったポケモンたちの記憶が失われ、
最近ではこの研究所に連れてこられるまでの経緯が、思い出しにくくなっている。
それは何にも勝る恐怖だった。
このまま順に記憶が失われていけば、僕はやがて、ヒナタの存在さえ忘れてしまうかもしれない。

三つ目に、起きている間に感じるあらゆる物事から現実味が失われつつある。
ただ、その代わりに、僕は鮮明な過去の記憶を、明晰夢として視るようになった。
仲間に支えられながら、サトシが純粋に夢を追いかけ、
僕はただ、彼の相棒を務めるために鍛錬に集中するだけでよかった、あの頃。

「チュウ……」

昔は良かった……。
そう呟いて、初めて気づく。
僕は知らず知らずのうちに望んでいたのだ。
この退屈な現実に目覚めず、瑞々しい夢の世界にずっと浸り続けることを。


「ピィカ……」

女々しいな。
そう自分を詰った後、
不意に、鉄格子の向こう側から視線を感じた。
見遣る。
赤い裾が翻り、僕の視界の及ばぬところに消えていくところだった。