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屋上に通じるガラス製のドアを押し開くと、いっぱいの風があたしの髪を凪いでいった。

「涼しい……」

残暑もこの高さまでは熱気を運んで来られないようで、
まばらに設置されたガーデンベンチの許、同じくまばらな数の人間とポケモンが涼んでいた。
改装、改修が繰り返されたタマムシデパートだけど、
屋上だけは建造当時からちっとも変わらずに保存されているの、とカエデがバスの中で言っていたことを思い出す。
あたしは喉の渇きを覚えて、自動販売機で「ミックスオレ」を買って、近くのベンチに腰を下ろした。
レッドベルの店員さんも、ドラッグ・ストアの店員さんも、
とても親切に接してくれるのは嬉しいんだけれど……、
その分、手ぶらでお店を出る時の罪悪感がすごくて、何も買っていないのに疲れてしまった。
「隣、よろしいかしら?」

声がした方に、ちら、と視線を映すと、
秋空をそのまま写し取ったような、綺麗な覗色の着物の裾が見えた。

「どうぞ、お構いなく」
「ありがとう」

それきり、女の人は黙ってしまった。
全然気まずくないけど、どちらかと言えば壊されたがっているような沈黙。
何か話しかけた方がいいのかな?
でも、何を話せばいいんだろう?
そんなことを考えているうちに、

「あなたも、ポケモントレーナーですの?」

女の人の方から話しかけられた。
あたしは、女の人の奥ゆかしい声音と言葉使いを一切気に留めることなく答えた。

「はい。ポケモンリーグを目指して、旅を続けている途中です。
 あの……あなたも、って……」
「わたくしも、かつてはポケモンリーグを目指して旅することを夢見ていたんですの。
 家業の所為で、その夢は絶たれましたが……今では家業を継いだことに、満足しています。
 あなた、ポケモンリーグを目指しているというのなら、
 もうタマムシシティジムに、申請は済ませましたの?」

あたしは頷いた。

「そう。タマムシシティのジムリーダー、エリカは草タイプのポケモンを使うと聞きますが、勝算の程はいかが?」

「お恥ずかしながら、草タイプに有利なタイプのポケモンは、持っていません。
 でも、ポケモンバトルは相性だけが全てじゃないとも思うから、
 当日は自分のポケモンを信じて、頑張りたいと思っています」
「相性だけが全てではない――多くのポケモントレーナーが忘却していることですわ。
 勿論、真意を知らずにその言葉を使う、野蛮な者も数多くいますが」

女の人は一息置いて、

「あなたは違うようですね。名前を伺ってもよろしくて?」
「マサラタウンの、ヒナタです」
「エリカに伝えておきましょう。わたくし、彼女とは知り会いなんですの」

エリカさんの知り会い?
この女の人は、レッドベルか、ジムの関係者なのかしら?
だとすると、この和風な佇まいや、
風に乗って運ばれてくる、香水と思しき甘い草花の香りにも納得がいく。

「ところであなた、このデパートの二階にある、レッドベルのことはご存じ?」
「はい……ついさっき行ってきたところなんですけど……。
 あたし、説明してもらっている間に、逃げだしちゃったんです……」

女の人は、急に低い声になって、

「まあ。店員が何か粗相を働いたんですの?」
「いえ、違うんです。
 香水が値段を知って、途中から買うつもりがなくなったのに、
 店員さんが、凄く親身になって色々な香水を紹介をしてくれるから、
 あたし、耐えきれなくなって……」

「行き過ぎた接客も考え物ですわね……。
 レッドベルの宣伝では、若い世代の女性にも手頃なものが用意されていると謳っていますが、
 あなたは実際に値段を見て、そんなに高く感じられましたの?」
「あたし自身、香水にあまり興味がないこともありますが、
 そうですね、高い買い物だと感じました」

言ってから気づく。
もしこの女の人が、レッドベルの関係者だとしたら、
あたし今、物凄く失礼な発言をしてしまったのでは……。

「忌憚なき意見、ありがとう。
 事業部に伝えておきますわ。
 でもわたくし、一つだけ、許せないことがありますの」

許せない――。
物騒な単語に身を竦める。
そんな心配を払うように、女の人は優しげな声で言った。

「あなたのようなうら若き女性が、香水に興味がないなどと、悲しいことを仰らないでくださいな。
 こちらに、レッドベルが今冬に発売する、新製品が御座います。
 差し上げますわ」

あたしは顔を上げて、女の人の、白磁のように白い手の平に乗った、香水の瓶を見た。
"sweet rose"と刻銘されている。素人目にも、一目で高価なものだと分かった。

「こんな物、あたしが戴いてもよろしんですか?
 まだ一般には発売されていない商品なのに……」
「どうか遠慮なさらずに。
 全ての女性に香の嗜みを――それがわたくしたちの夢ですの。
 これが、あなたが香水を好きになる切欠となれば幸いですわ。ただし、どうかこのことは秘密になさっていてね」

受け取る。
女の人に体を近づけると、今度ははっきりと、甘い草花の香りがした。
良い匂い。
季節はもう秋に差し掛かろうとしているのに――この女の人の周りだけ、まるで、春みたい。
あたしはお礼を言おうとして、
女の人の胸元から上にいかずに留まっていた視線を上げた。
予想に違わぬ、妙齢の美しい女性だった。
肩口に切り揃えられた黒髪に、端正な横顔。
あれ?
あたしこの人、どこかで――。

「一服のつもりが、つい、長居してしまいましたわ。
 そろそろ、皆がわたくしの行方を捜し始める頃でしょう」

あたしが既視感の正体を掴むよりもさきに、女の人は腰を上げた。
着物を少しも着崩さない、優雅な身熟しだった。あたしは言った。

「この香水、大切にします。ありがとうございました」
「お礼を言わなければならないのは、わたくしの方ですわ。
 あなたとお喋りできて、少し、肩の荷が下りたような気がしますの。
 最近はずっと仕事続きで、潤いがありませんでしたから」
「あの、お仕事、頑張ってください」

立ち上がって、お辞儀すると、
女の人も丁寧にお辞儀を返し、最後に微笑みを見せてから、屋上から去っていった。
その後ろ姿は、同性から見ても、純粋に綺麗だな、と思えた。

それからあたしは、しばらく夢見心地のまま、
香水の瓶を眺めて、オレンジ色に反射する光で、夕方近くになっていることに気づいた。
腕時計を見れば、ちょうど五時前だった。あたしは急ぎ足で、デパート前に向かった。

そして、その夜。
あたしは目をつり上げて頬をぴくぴくさせたカエデの正面で、正座することになった。
怖かった。今までに見たカエデの表情でベスト3に入るくらい怖かった。
どうしてそんなことになったかというと、
あたしがあの女の人の約束をたった数時間で破ってしまったからで、
原因は結局、あたしにある。

「わかんない」
「何が?」
「どうしてヒナタにだけこんなに幸運が転がりこんでくるのかわかんない」
「あ、あたしだって分からないわよ」
「黙ってて」
「……はい」
「エリカさんが本店視察に訪れて、
 日頃の激務に疲れて、一時、関係者の目を潜り抜けて屋上に出向いたところに、
 ヒナタが偶然居合わせて、半時ほどお喋りの時間を持ち、
 エリカさん自らプロデュースした新作の香水を、販売予定日よりも二ヶ月早い段階で手に入れた。
 間違いないわね?」
「確たる証拠はないけど、まあ、そう考えるのが普通なのかしら……?」
「なに他人事みたいに言ってんの?
 この香水がどれだけ価値のあるものなのか、全然分かってないんだから」

カエデは香水の瓶をつんつんと指差し、
急に静かになって、香水の瓶を掴んだ。

「――これ、ちょうだい」
「ダメ! それだけはダメよ。
 その香水はあたしがエリカさんからもらった、大切な物なの」

奪い返す。

カエデは意外と抵抗せず、すぐに手を離した。
どうしちゃったの?
肩を揺すると、カエデはコテンと横に倒れて、

「ずるい」
「え?」
「……ヒナタばっかり、ずるい」

それきり電池の切れた玩具みたいに、何も言わなくなった。
パウワウとワニノコが、非難がましい視線をあたしに送ってくる。

『あーあ……マスター拗ねちゃった』

あ、あたしだって、何も抜け駆けしようとしていたわけじゃないわよ。
あたしと別行動することに決めたのはカエデだし、
帰りのバスに乗るまでは、屋上で出会った女の人がエリカさんであることに、
全然気づいてなかったんだから。

逃げるようにして自分のベッドに戻る。
ベッドランプを消灯すると、残る明かりはカエデのベッドランプだけになった。
香水をバッグに直した時、何か固いケースに触れたような気がしたけれど、
疲れもあって、あたしは深く考えずに眠ってしまった。

翌朝。目が醒めると、隣のベッドは既に空になっていた。
食事でも取りに行ってるのかな――。
寝惚け眼で身支度していると、ふと、昨日カエデが言っていた、公開講義のことを思い出した。
朝に弱いカエデが、こんなに早起きしてまで行きたがるなんて、
そんなに有名な博士が講義しにやって来るのかしら?

「それにしても、一言くらい声をかけていってくれればいいのに。
 ……ああ、昨日は拗ねたまま寝ちゃったんだっけ」

あたしはかなり悩んでから、
結局、カエデの後を追うことにした。
講義を聴くつもりはないし、聴いても、一割も理解できる自信がない。
あたしがタマムシ大学に赴く理由は、別にある。


ポケモンセンターのパソコンを借りて、
検索をかけると、タマムシ大学の公式サイトはすぐに見つかった。
"アクセス"をクリックして、備え付けのプリンタで、簡易マップを印刷する。
次に、なんとなくカエデが興味を示していた講義について、調べてみると、
トップの予定行事蘭に、それらしきリンクが貼られていた。

「これね」

クリックする。

講義題目――『ポケモンの遺伝子や細胞構造の類似性について』
講演者――先端科学技術研究所副所長・木戸マサキ

「講義の内容はさっぱりだけど、木戸マサキの名前には憶えがあるわ。
 確か、ポケモン転送装置の基礎技術を確立した、有名な科学者よね……カエデが早起きするのも当然か」

パソコンの電源を落として、ジョーイさんに部屋の鍵を渡す。

「出かけてきます」
「あら、どちらへ?」
「タマムシ大学に。ちょっと、調べたいことがあるんです。
 あそこの図書館には、世界中のありとあらゆる知識が詰まっていると聞きますし」

ジョーイさんは大袈裟に感心して訊いてきた。

「タマムシ大学付属図書館にまで行って調べたいことって、なあに?」
「実はあたし、ポケモンの生態調査をしている機関に興味があって――」

――――――
――――
――

あたしの身長を悠に超える書架が延々と続いている様は、
新旧入り交じった紙の匂いも相俟って、深い森を連想させた。
街中に溢れていた喧噪が、今では遠くに感じられる。
この空間に響く肉声は、カウンターの事務的な遣り取りだけだった。
ただし、人はたくさんいた。
誰もが私語を慎み、些細な物音でさえ立てまいと気遣っていた。
あたしも館内に踏み入れて、すぐにそれに倣った。
これが無言の圧力なんだな、と思った。

タッチパネルディスプレイに触れると、
自動蔵書検索システムが立ち上がる。

ジャンル……ポケモン
検索ワード……生態 調査 捕獲

慣れない入力方法に苦戦しながらそう入力し終えて、
検索ボタンを押すと、一瞬にして一覧が表示された。

――検索結果、1200件中、1-10件目。

項垂れる。
検索ワードを三ついれたのは、多すぎたのかも……。
しかし、それ以外に有力そうなワードを入れてみても結果は同じだったので、
あたしは最初の検索結果からスクロールと"次の10件"を繰り返し、
300百件目まで見たあたりで、結局、"検索ジャンルの入力に戻る"を押した。

これじゃあ、埒が明かない。

ポケモンの保護・調査・研究を謳う機関は、
カントー地方だけでも、一つ一つ名前を挙げていったら日が暮れそうなほど存在していて、
ましてやそれぞれの詳細を調べていては、莫大な時間がかかることが分かったのは、
カントー発電所からクチバシティのポケモンセンターに戻った、その日の夜のことだった。
ピカチュウを奪われて自分を見失っていたあたしは、
インターネットを使ってあの男やアヤの所属する組織の情報を集めようとして、躍起になっていた。

一つ目の手掛かりは、オツキミヤマでの、あのスーツ姿の男の自己紹介。

『君に名乗るような名はないが……そうだな、肩書きを教えよう。
 私はポケモンの生態調査をしている』

その後、あたしがピッピを渡すのを拒むと、男は猫なで声で、

『研究のために、どうか協力してほしい』

とも言っていた。

二つ目の手掛かりは、男の仲間と思しき、アヤという名の少女。

あの子が繰り出したキュウコンと、その炎は、
とてもあの子ぐらいの年代の女の子が、自在に扱えるほどのレベルではなかった。
あの子が特別なのか。それとも、キュウコンが特別なのか。
いずれにせよ、もしアヤが公の場に姿を現していたとしたら、少なからずとも目立つに違いない。

といっても、たったそれだけの手掛かりで、
有力な情報が手に入るわけもなく、あたしはパソコンの前で、歯噛みすることしか出来なかった。
カントー発電所占拠事件の捜査状況について色々と教えてくれたジュンサーさんも、
あたしとカエデがクチバシティを発つ二日ほど前に、
『相変わらず捜査は難航しているわ。
 発電所の送電履歴は全て抹消されていて、発電所がどんな目的で利用されていたのか判明していない上に、
 発電所員や、マチスを含めた調査隊の人間も、誰一人として憶えていないのよ。
 恐らく、エスパータイプのポケモンを使った大がかりな催眠術が行われていたんでしょう』
と、絶望的な捜査情況を知らせてくれた。

そうすると、あたしが頼ることが出来るのは、
ポケモンが絡んだ事件や犯罪の情報に詳しい人だけのように思えた。
警察や、確実性や信憑性の曖昧なインターネットよりも、
素早く、精確なポケモンの情報を手に入れる事ができ、
時には自らトラブルの解決に赴く、頼れる存在――ジムリーダー。

セキチク、ヤマブキ、タマムシ。
シオンタウンを発つ際、どの街のジムリーダーに会いに行こうかと逡巡したとき、
あたしが思い出したのは、かつてタマムシの地下に拠点を築いていた言われる、ロケット団のことだった。
あの男や、アヤの組織が拠点を構えているとしたら――それはロケット団と同じように、
人、ポケモン、お金、その他あらゆる物が豊潤な大都会、タマムシシティではないかしら。

浅はかな推理だと指摘されても、反論できないけれど……。
タマムシシティジムリーダーのエリカさんとお話する機会を持ち、
そこでポケモンの生態調査を名目に、乱獲をしている組織や、
異常に強いキュウコンを従える赤いドレスの少女の噂がないかどうか聞くこと、
それが今の時点で、あたしに出来る唯一のことのように思えた。

「………はぁ」

溜息をついて、タッチパネルディスプレイから離れる。
カエデはあたしが運が良いなんて言っていたけど、全然良くなんかない。
もしあたしが、最初から香水に興味があって、
ファッション雑誌に載っているエリカさんの顔を覚えていたら、
昨日屋上で、色々と尋ねることが出来たのに。

「あたしの馬鹿」

つい、そう独りごちると、
図書館員がくいっ、と眼鏡を上げて、咎めるような視線を向けてきた。
愛想笑いを浮かべて、書架の合間に逃げ込む。
インターネットとは違う収穫があるかと思ったタマムシ大学付属図書館だけど、
正直、期待外れね……。
まず蔵書検索システムから、見直す必要があると思うわ。
『誰でも出来る! 野生ポケモンの捕まえ方』とか『水ポケモンの秘められた生態』とか、
あたしが求めている内容の本から、かけ離れたものばかり表示するんだから。

100件目辺りからようやくちらほら上がり始めた、
ポケモンの捕獲を主とした犯罪関連の本だって、槍玉に挙がっているのは、ロケット団ばかりで全然役に立ちそうになかったし。
あたしが生まれるよりも前に解散した組織のことなんか、どうだっていい。
あたしが知りたいのは、現在進行形で活動を続けている組織のことなのに。

でも……考えてみれば、この結果は当然だったのかもしれない。
いくら蔵書が多いからといって、常に最新の情報が蓄えられているわけではない。
情報が早いのは、圧倒的にインターネットの方だ。
そのインターネットの海を躍起になって探し回っても、手掛かりが何一つ掴めなかったのだから、
やはりエリカさんに直に尋ねることしか、あたしに方法は残されていないんだろう、と思う。

それからあたしは、当て所なく書架を見回って、
面白そうなタイトルの本を3冊選び取り、フリースペースで読むことにした。
お腹が空いてきたあたりで、2冊を元あった場所に戻し、1冊を貸し出した。
題名は、『新種と旧種ポケモンの棲息圏の交わり』。
結構最近に出版された本で、かなり分厚く、
とてもタマムシシティ滞在中に読み切れる量ではなかったけど、
カウンターテーブルに書かれた"ポケモン返却便が利用可能です"の文字を見て、安心して貸し出すことが出来た。
仕組みは簡単で、貸し出し期限がくると、
身軽で長距離飛行が可能な鳥ポケモンが、本を受け取りにやってきてくれる、というもの。

「それでは二週間後に、お受け取りに伺います」

と、受付の人は密やかな声で言った。
あたしは会釈して、本を受け取り、バッグに仕舞った。
カツン。
くぐもった、固い音が響く。

この音は何かしら?
あたし、バッグには固い物なんて、なにも――。

今し方した音が周囲の沈黙を乱さずに済んだことに安心しながら、足早に図書館を出る。
そして、あたしは有り得ない想像を胸に、バッグを開いた。



「やっぱりああいう天才学者と呼ばれる人ってー、
 豊富な知識をあたしたちに分かり易く伝えるための話術も心得てるのよねー。
 ヒナタは木戸博士の関西弁、聞いたことある?」
「…………ううん」
「一時、TVとかラジオによく出演してたじゃない。本当に聞いたことないの?」
「…………うん」
「ねぇ、さっきから思ってたんだけど、
 あたしの話、ちゃんと聞いてる?」
「…………うん」
「エリカさんにもらったあの香水、あたしにちょうだい?」
「…………うん……、じゃない!
 だめだめ、あれだけはダメ!」

ふと我に返ると、カエデがあたしのバッグを漁っているところだった。
割と本気で奪い返す。
香水を取られても、後で取り返せばいいだけのことだけれど、
"あれ"を見つけられた時の言い訳を、あたしはまだ考えていなかった。

「冗談だって。そんなにムキになんないでよね――」

カエデは唇を尖らせて、通りがかりの店員を呼び止め、

「あ、ストロベリーパフェ一つ」
「かしこまりました」
「カエデ、まだ食べるの? 太るわよ?」
「今日は特別だから、いいの。
 知識をたっぷり吸収したあとは、たっぷり糖分をとらなくちゃ」
「ねぇ、聞いてもいい?」
「なに?」
「木戸博士の講義は、どんな内容だったの?」

「ポケモンの遺伝子や細胞構造の類似性についての新説や、
 従来の説に対する反証発表が主な内容で……てか、ヒナタもパソコンで見て知ってたんでしょ?」
「カエデの頭とあたしの頭を一緒にしないで。
 遺伝子とか細胞構造とか言われても、あたしには意味が分からないの。
 だから、カエデの言葉で分かり易く、
 講義の内容を要約してもらえない?」
「えー」

何よ。そんなに露骨に嫌そうな顔しなくてもいいじゃない。

「なんか面倒だしー、話してるこっちは退屈だしー。
 ヒナタが、お願いします、教えてください、って言うなら教えてあげてもいいわよ?」

タマムシ大学からポケモンセンターに戻ってからというもの、
カエデはずっとこんな調子だった。ほんと、昨晩拗ねていたのが嘘みたい。
あたしはわざと突き放すように言ってみた。

「もういい」
「……そ、そう」
「……………」

数拍の沈黙。カエデは折れた。

「……し、仕方ないわね。話してあげる」
「ふふ、ありがと」
「優しい従姉に感謝しなさいよね。
 ――木戸博士の講義はね、分かり易く言えば、
 何故、姿形のまったく違うポケモンに、細胞レベル、遺伝子レベルで、
 似通っている部分があるか、ということの研究発表だったの」
「ごめん、もう少し噛み砕いてもらえない?」
「例えば、ハガネールとピチューを想像してみて」

巨大な鋼の塊が繋がった、蛇のような体を持つハガネールと、
ピカチュウよりもさらに一回り小さい、黄色と黒の愛らしいねずみポケモン、ピチューを、
それぞれ頭の中に思い描く。

「もしヒナタが、ポケモンのことを全く知らない状態でこの二匹を見たら、
 ヒナタはその二匹が、同じ"ポケモン"という種族にカテゴライズされる生き物だって、分かる?」

あたしは首を振った。
イワークとハガネール、ピカチュウとピチューなら、
まだ共通点を見出すことが出来るけど、
ハガネールとピチューでは無理だ。

「外見では分からない。でも、本には同じポケモンだと明記されている。
 これには勿論根拠があるの。
 デオキシリボ核酸――通称DNAくらいは、ヒナタも知ってるわよね?」
「それくらいなら分かるわ。確か、その宿主の設計図を持ってるんでしょ」

もうずっと昔のことだけれど、
ポケモンの遺伝子を利用したクローニングの反道徳性が、
TVで取り沙汰されていた時期があった。
その時、ママがそのニュースを見て、
ポケモンの命はポケモンだけのものよ。人間に、それを弄ぶ権利はないわ』
と、やけに真剣な顔で言っていたっけ。

「設計図、っていうと、アバウト過ぎるかな。
 DNAは遺伝情報を伝える上で、とても重要な役目を果たす物質なの。
 難しい用語は省くとして――、DNAを形成する二重らせんには、
 遠い昔に確かに存在していた、祖先の情報も刻み込まれているのよ」

あたしはなんとなく、最初のカエデの説明の意味が、分かったような気がした。

「つまり、その祖先の情報が類似しているから、
 まったく別の生き物のように見えるピチューとハガネールでも、
 同じポケモンという枠に括られているのね?」

正解、という返事を期待したのに、
カエデはチッチッチ、と指を振って、

「半分だけ正解ねー。
 その話には、一つ決定的な穴があるのよ。
 祖先が同じだから、という理由だけで同じ枠に括っていたら、
 人間と猿だって、一括りにしなくちゃいけないじゃない。
 でも、実際は別の生き物としてカテゴライズされている」
「……言われてみれば、その通りだわ」

ちょうどその時、パフェが運ばれてきた。
カエデはスプーンを受け取り、ざくざくとパフェの上層部分を削り取りながら続けた。

「ポケモンのDNAの類似性には、
 自然発生的なものとは考え難い要素がいくつもあるの。
 そもそも、祖先が同一だったかどうかだって"可能性の高い仮定"に過ぎないのよ。
 ただ、そう考えた方が、DNAが似通っている理由を説明しやすいだけ。
 でも、この考え方にも当然、綻びがあるの。どこだか分かる?」
「人間と猿なら、進化の過程で別々の道を歩んだ結果だと言われても納得できるけど、
 ポケモンの祖先が同じだとするなら、あまりにも進化が分岐しすぎている、というところかしら」

カエデは口いっぱいに頬張った満面の笑顔で、パフェの乗ったスプーンを突きだした。

「大正解。はい、ご褒美」

あむ、とスプーンを唇で挟み込む。
甘ったるい苺味が、口の中に広がった。

「美味しい?」
「うん。でも、あたしにはちょっと甘過ぎるかな」
「文句言わないの」

カエデはそれからリズムよくスプーンを往復させて、
あっという間にパフェを平らげてしまった。

「さて、話を最初に戻すわよ。
 そんなこんなで、未だ解き明かされていない遺伝子、細胞レベルの類似性の謎なんだけど、
 今日木戸博士が話してくれたのは、
 これまで提唱されてきた物とは逆説的な、まったく新しい説なの」
「どんな説なの?」

意外にもカエデは勿体ぶらずに答えてくれた。

「ポケモンが元はただの動物で、
 急激な環境変化によって進化を強いられ、その結果、
 遺伝子に類似部分を持つようになった――というものよ」

「ポケモンの元が動物かもしれない、ということは、
 あたしも小さい頃に考えたことがあるわ。
 例えばピカチュウなんかは、まんま"ねずみ"ポケモンって言われてるし……。
 でも、それはあくまで体の特徴が少し似ているから付けられた俗称でしょ?
 本物の鼠はほっぺたに電気袋を持ってないし、
 電流から自分の身を守るための、絶縁体も持ってない」
「そうね……。でも、もしその能力が、
 激変した環境に適応するために備わったものだとしたら、どう?
 従来のままでは、絶滅の道しか残されていない――。
 そんなとき、生物は進化することによって危機を乗り越えてきた。
 もちろん、それが出来ずに絶滅してしまった生物もいたし、
 進化せずとも、ほそぼそと生き延びた生物もいた。。
 でも、一握りの選ばれた種は高い環境適応能力を開花させて、
 人間を超える個体数を持つまでに繁殖を遂げた。
 この選ばれた種というのが、ポケモンである――以上が、木戸博士の見解よ」

カエデは頬杖をついて、ニコニコとした顔をこっちに向けてくる。
あたしは返事も出来ずに、空になったパフェグラスに反射した、歪んだ自分の顔を見つめた。
ポケモンは、元はただの動物だった――本当にそんなことがあり得るのかしら。
カエデが言った。

「すぐには信じられない?」
「……うん」
「ま、それがパンピーの模範的反応ね。あたしは画期的な発想だと思ったけどなー」
「二つ、質問していい?」
「いいわよ」
「その急激な環境変化というのは、何なの?
 それに、全てのポケモンの起源が動物だとするなら、
 似た動物が存在しないポケモンのことは、どう説明するの?」

「そ、それは……まだ研究途上、よ。
 学会にはヒナタと同じ指摘をする否定的な学者もたくさんいるみたいで、木戸博士が嘆いていたわ。
 でもね、大切なのは、そういった細々とした矛盾点じゃないのよっ」

急に声のトーンを上げた。

「これまでの、遺伝子の作為的な改変を軸とした推論と対照的な、
 遺伝子の類似部を自然発生的なものとして考える推論の基盤を構築したとして――」
「カエデ、」
「何よ、話してる途中に茶々入れないで!」

つかつかつか。店員が歩み寄り、冴え凍った笑顔でカエデに告げた。

「お客様。他のお客様の御迷惑となりますので、お静かにお願い致します」
「は、はい」


退店して、ふと空を見上げると、月が出ていた。
都会は空気が汚いというイメージがあったのに、
いざこうして見てみると、景色は済んでいて淀みない。

「綺麗な上弦……ピッピ、あなたにも見える?」

ぴぃ、という元気いっぱいの声が聞こえた気がした。
外に出してあげたい気持ちは山々なんだけど、
持ち前の活発さで自由に動き回られて迷子になったら、
あたしは自力で探し出せる自信がなかった。
「おっまたせー。混んでて時間かかっちゃった」

カエデの歩みに合わせて、あたしも歩き出す。

「そういえば、いよいよ明日じゃない。ジム戦の日」
「申請の日から、もう二日経ったんだ……」
「なんかヒナタにしては冷静ね。なんかつまんない」
「エリカさんと二人きりでお話する――。
 その過程としてのジム戦だけど、申請し、参加した以上は、全力で勝ちにいくつもりよ」
「と思ったら、やっぱりヒナタは無駄に力の入っているいつものヒナタでした。
 ヒトデマンは草タイプに苦手だから、厳しい戦いになると思うんだけど……、
 対策は考えてあるわけ?」

こういうカエデの言葉が、すごく嬉しかった。
ぶっきらぼうな口調の裏で、しっかりあたしのジム戦を気にかけてくれている。

「相性の問題は、どうしようもないわ。
 でも、ヒトデマンは相手が草ポケモンだからって戦えないわけじゃないし、
 他のポケモンもいるから、そんなに心配はしてないの」
「ふーん。……まあ、適当に頑張れば?
 勝てたらさっきのパフェくらい奢ってあげるわ」
「ほんと? 約束だからね」

体というのは、自分で考えているよりも疲れが溜まっているもので、
ベッドタウンに戻る電車の中で、あたしとカエデはいつの間にか、肩を貸しあって眠ってしまった。
起きたとき、向かいの車窓に映ったあたしと、まだ眠っているカエデの二人は、従姉妹というよりは、姉妹に見えた。
自然と笑みが零れた。
今から思えば、描写する必要のない、どうでもいいことだったかしら。