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覚醒には色々なパターンがあるが、
大別すれば以下の二つになる。
充分睡眠をとったことを示す、自然な目覚め。
誰かに揺り起こされたり、声をかけられたりして意識が浮上する、予期せぬ目覚め。

しかし、僕が白壁に囲まれた空間で目覚める時、
その目覚め方は決まって、自発的にでも無理矢理にでもない、奇妙なものだった。
例えるなら――、そう、底の深いプールで気持ちよく漂っていたところを、
栓を抜かれて、僕を支えていた浮力の源である水が流れ去り、
固い底に背中が触れて、それまでの快さが失われてしまったような、
もっと簡潔に言うなら、ずっと母親の陽水に浸っていたかった赤子が、
時期がきて外の世界に生まれ落とされたような、
――不可抗力の、穏やかな目覚め。

「ピ……カ……」

慣れないな、まったく。
薬物を用いずとも、君たちが望むのなら僕は進んで目を瞑り、
この白い空間まで自分の足で赴くというのに。
ノイズがかった記憶を読み返す。
七回目の実験の後、マサキは僕に自信ありげな口ぶりで、

『次は君をいつもよりかは退屈させんですみそうや。
 君を倒すにはほど遠い完成度やけど、油断したらアカンで。
 ピカチュウ、君の治癒力が低下しとることは、教えたやろ』

と言っていた。

そして、今回の実験は八回目だ。
僕を退屈させないで済む、とはいったいどういう意味なんだ?
相手が単純にレベルの高いポケモンだということか?
それとも、新型強化骨格を宛がわれたポケモンだということか?
すぅ、と音もなく白壁が二つに割れ、
疑問の答えが、強化骨格を纏ったライチュウが現れる。

「……ピカピカ?」

マサキ……よもや君は、
僕が同族に匙加減するほど甘いポケモンだと思っているのではあるまいね?
もし僕の進化形が相手であることが"退屈しない理由"だとするのなら、僕は君に失望を禁じ得ないよ。

「フェーズ1、始動します」

ライチュウのアイシールドに、鈍い赤の光が灯る。
しかし数秒の時間が流れても、
彼は佇立したまま気絶しているのではないか、と思えるほどに、微動だにしない。
こちらから仕掛けろ、という意思表示か?
僕はシミュレートする。

接近。
ボディにフェイクを二度絡めた打撃。
ガードの甘くなった頭部に放電。
不充分であれば直接触れて再度挑戦。
アイシールドのIC破損、戦闘続行不可により、フェーズ1終了。

別段、従前の実験と変わり映えのない結末になりそうだ。
体を前に傾けて。
駆ける。

しかし僕が懐に飛び込むよりも先に――、
ライチュウは反応を見せた。
回避か? 防御か?
彼は僕の予想をどちらも外し、肉薄してきた。
格闘戦をお望みのようだ。
もっとも、僕とて最初からそのつもりだったが。
電気ポケモン同士の戦いにおいて、電撃は特性を失う。
ダメージ源は打撃か、別のタイプの技に限られる。

加速度的に距離が詰まる。

「ライッ!」

初撃は跳躍からのバックブロー。
僕よりも一回り大きな体が宙を舞い、スピードの乗った拳が頭上を通り過ぎた。
威力はなかなかのものだが、予備動作が大きすぎるのが難点だな。
僕は眼前で踏鞴を踏むライチュウの足を払おうとして――、
しかしその直前に空を切り裂く音を聞き、さらに伏せて横に転がった。

「ピカ!?」

――尻尾だ。
失念していた。
アースの役目も果たすその長い尻尾は、鞭のようにしなっていて、
個体によっては攻撃に用いるライチュウも存在する。
初撃は避けられて上等、本命は時間差の尻尾の鞭か。

なるほど、確かに今回は退屈せずに済みそうだ。

伏せた僕を叩き潰さんと、正拳が突き出される。
体を右に半回転させ、最小限の挙動で回避。
地面が震えた。
"怪力"か。
しかも強化骨格のパワーアシストが加わって、相乗的に攻撃力が増している。
直撃だけは免れなければ。

起き上がり様にライチュウの胴に蹴りを入れて、その反動で距離をとる。
不安定な体勢からの攻撃は、やはり浅かったようだ。
彼は平気な風で頬袋から紫電を走らせる。アイシールドの赤い光が、ぎらぎらと光量を増す。

やれやれ。
こうも威嚇されては、僕も彼相応の力を持って対抗せざるを得ないじゃないか。
ライチュウは再び「ライッ」と一鳴きし、
僕を中心にした円を描きながら近付いてきた。
直線的な攻撃から、変則的な攻撃へ。
相手を攪乱する常套手段だが、さて、どう仕掛けてくるか。
軽いフットワーク。
僕は早々に彼を目で追うのに疲れてしまった。
フッ、と視界の真ん中にいたライチュウが消える。
気配が拡散する。良い"影分身"だ。
鋭敏な感覚を持たないポケモンの八割が惑うだろう。
しかし君にとっては残念なことに、僕は残りの二割に属するポケモンでね。

首を竦めると、耳と耳の間の空気を、背後からライチュウのパンチが切り裂いていった。
彼にとっては予想外の空白期間が、僕にとっては絶好の反撃のチャンスが訪れる。
腕を掴み、背中を彼の胴に押し当てるようにして――、力の流れを利用し、前方へ投げ飛ばす。
彼は無様に倒れた。床と強化骨格の金属が擦れ合う、嫌な音が響いた。
柔術に体格や体重の差は関係ない。僕は手を添えただけ。
言い換えれば、彼は自滅したのだとさえ言える。

僕はフェーズ1終了のアナウンスを期待した。
けれど、十秒待っても流れなかったので、仕方なく彼のアイシールドを破壊することにした。
歩み寄る。一歩、二歩――三歩めを踏み出したあたりで、ゆらり、と彼が身を起こした。

「ピカ、ピーカ」

まだ戦うつもりなのか?
君は怪我をしているんだぞ。
痛みを堪えながらの格闘に、勝ち目があると思うのかい?
僕の諫言に、しかし彼は答えなかった。

「チュ?」

嫌な予感がして、後退する。
退くことによって傷つくほど、チープなプライドは持ち合わせていない。
間隔は目測で10m強。
予期せぬ攻撃でも、対応に困らないはず。

先ほどまでの激しい戦いが嘘のように、シン、と静まり返った空間で。
ライチュウは自然と四足歩行の姿勢になり、
限界まで身を屈めて――、僕の視界から消失した。
何が起こった?
理解してから命令しようとする思考に頼らず、横飛びに回避する。
しかし油断が祟り、その回避でさえも、一瞬遅れた。

「ピッ……!!」

目の上から温かい液体が流れ出し、今まで白く見えていた空間が赤に染まっていく。
それと同じように、僕の意識も切り替わった。
カチリ、と。まるで、撃轍が落ちるみたいに。

痛いな。
傷口から血が流れ出している。
頬を伝ったそれが口角に触れた。
舐めると鉄の味がした。
ああ、なんて、懐かしい。
ライチュウ。
素晴らしいな、君は。

眼にもとまらぬ高速で接敵し、
硬質化したリーチの長い尻尾で、
回避が極めて困難な攻撃を繰り出す。

"電光石火"と"アイアンテール"
――上等な組み合わせじゃないか。

振り返らなくても解る。
君は今、二撃目の準備に取りかかっているところだ。
鎌のように尻尾を振り上げ。
四肢に力を籠めて。
あと僕が一秒を数え終わらないうちに、
君は"電光石火"を使うだろう。

でも僕に、その瞬間まで待たねばならない義理は、どこにもないんだよ。
どこにも。


「……フェ、フェーズ1、終了します」

焦燥の滲んだアナウンスの声で、我に返る。
気がつけば僕の脚下には、萎びたライチュウの尻尾があって。
振り返れば、白煙をあげて完全に機能しなくなった、アイシールドが転がっていて。
僕は目を背けた。
例え相手が本気でも、こちらは最小限の攻撃で、
出来るだけ速やかに実験を終わらせるのが、僕自身が決めたルールではなかったか。

攻撃を食らい、好戦的になり、忘我する――理性からかけ離れた行動。
それは僕が、この強化骨格を纏ったポケモンたちと、
精神的な立ち位置が同列であることを意味する。

僕は己を恥じようとした。
だが、強い傾眠作用のあるガスが、僕の意識を奪っていった。

無知ななあんたのために講説してあげるとね、
タマムシシティはあたしたち若者の羨望と憧憬の的なわけ。
流行の最先端にして、確かな文化と歴史を持ち、
由来の玉虫色に違わぬ色彩鮮やかな景観が訪れた者を魅了するの。
地下にはタマムシメトロが網目のように張り巡らされていて
交通の便を求めすぎた結果、逆に不便になってしまったという批判の意見もあるほどよ。
路を歩けば有名人に出会い、
辺りを見渡せば、いつかTVで見た風景が広がっているの。
シティ内に点在するデパートの数は300店舗を悠に超えていて、様々なニーズに応えているわ。
内在するブティックの数は、それこそ数え切れないくらい。
また街の中心には誰もが一度は通うことを夢見る「知識の蒐集所」、タマムシ大学があって、
ポケモンを主とした幅広い分野の研究、研鑽に力を入れているわ。
同大学内にある図書館の蔵書は約十万五千冊で、もちろん一部を除いて全て一般公開されているの。
あたしもヒナタと旅に出なかったら、今頃家でタマムシ大学に入るための勉強に明け暮れていたでしょうねー。
あとタマムシシティを語る上で欠かせないのが、食の豊かさ。
世界各国の食文化を取り込み、昇華させたことで、タマムシは美食の都とも呼ばれているの。
信じられる? 有名パティシエが腕を振るって作ったスイーツが、出来たてで食べられるのよ?
都心のレストランは食材からシェフの技量までなにもかもが一流で、一皿一万円以上なんてザラ。
でもでも、女の子なら人生で一度くらい、
高層ビルの最上階で、極彩色の夜景をバックに恋人と一緒に食事したいわよね。
あ、もちろんその恋人っていうのは、タイチくんのこと。てゆーか、それ以外考えられないし?
それでー、まだまだ語り足りない部分はあるけどー、
とにかくタマムシシティっていうのは、そういうところなの。分かった?

――と、カエデはあたしに語り聞かせてくれた。
これでもかなり削った方なんだから。
あたしがどれほど長い時間カエデの鼻息荒い語りに我慢しなければならなかったは、
それこそ筆舌に尽くしがたいのでやめておくことにするわ。

事の発端は、二時間前。
タマムシシティ郊外に訪れたあたしたちは、
日が半分暮れかかってたこともあって、
今日のところはひとまずポケモンセンターで部屋の予約をとることにしたの。

タマムシシティ郊外は都市部を中心とする、
所謂ドーナツの形をしたベッドタウンで、
ポケモンセンターの構造も、これまで訪れたのとほとんど変わらなかった。
違うと言えば、センターの周りに立ち並んだ真新しい塗装の家々や、綺麗に舗装された道路くらい。
カエデは肩すかしを食らったみたいで文句を垂れていたけど、
あたしはタマムシティの中心部を想像して、ワクワクしていた。

それで、あたしとカエデが順番にシャワーを浴びて、
後は寝るだけだけどまだ眠たくない、特に何をするでもない時間に、
あたしはつい、

「ねぇカエデ、タマムシシティって、どんなところなのかしら?」

と聞いてしまった。
後悔先に立たずとはこのことで、
カエデは惜しげもなく自分が持つ知識を披露してくれて、
一生懸命相槌をうつあたしを余所に、勝手に喋り疲れて眠ってしまった。
横目でカエデを見る。
さっきまでの豪快な大の字から、寝返りをうったのだろう、ベッドの端で赤ちゃんみたいに丸くなっていた。
すやすや眠っちゃって、さ。
あんたの長話のせいで、こっちは眠気が吹っ飛んじゃったじゃない。

静かにベッドを抜け出して、窓際に寄る。
最近は、夜は秋の涼しさが感じられるようになった。

もそもそ、という気配を感じて振り返る。
ヒトデマンがいた。

「ごめんね、起こしちゃった?」

コアがパッと赤く光り、消える。
あたしはなんとなく、

『カエデさんのお話がうるさくて、最初から寝てないです……』

という意図を感じとれた気がした。
何故ヒトデマンがですます口調なのかは、あたし自身、分からない。
ヒトデマンの体を持ち上げて、桟の上に乗せる。
外から差し込む、淡い街灯の光を浴びて、
床に星形の影が出来た。なんだか可笑しくて、あたしは意味もなく笑ってしまった。
でも、すぐに可笑しくなくなった。笑えなくなった。

眠れないのは、カエデの長話に掴まってしまったからじゃない。
あたしは不安だった。
もしもこのタマムシシティで――世界中から情報が集まる大都市で、
ピカチュウを攫ったあの男や、アヤという女の子が所属する組織の手掛かりが見つからなかったら、
あたしはこれから、どうすればいいのかしら?
闇雲に旅を続けても、ピカチュウを見つけられる確率は零に等しい。
それこそ、ピカチュウの方から会いにきてくれない限り、
もう一度一緒に旅が出来る未来なんて、夢のまた夢だ。

思考が泥濘にはまりそうになる。
でも、はまりきる前に、ヒトデマンがあたしを救ってくれた。
ヒトデマンは足の一つでコアをぐしぐし擦りながら、二回コアを点滅させて、
もう一方の足であたしのワンピースを引っ張った。

「そうね……くよくよ考えていても、仕方ないわ」

ベッドに戻ると、隣にヒトデマンも潜り込んできた。
あたしが子供の頃、夜遅くになっても眠れなくなくて困っていたら、ママが教えてくれたっけ。
眠れない時は、楽しかった過去の記憶を、
数珠つなぎのように次々と思い浮かべていけばいい、って。
ただし、一つの記憶に囚われすぎてはダメ、とも言っていた。
そうすると、逆に目が冴えちゃうんだって――。

それからあたしは、ずっと昔に忘れたママの子守歌を、記憶を追っている間に自然と思い出した。
ママの声は、優しくて、柔らかくて、温かくて、でも、どこか寂しさと悲しさを感じさせて――。
その矛盾の理由を探ろうとしたけれど、それよりも先に、あたしは眠ってしまった。

翌朝。あたしとカエデは地下鉄に乗って、都心に向かった。
何もかもに圧倒された。
駅構内の大きさからして、マサラタウンのそれとはスケールが違っていたし、
通勤、通学する人たちの押し込められた車内に割り込むのは、ちょっとした勇気が必要だった。
目的の駅についてからも、
今度はどこの出口から地上に出ればいいのか、そもそもどうすれば出口に辿り着けるのか分からず、
あたしはカエデに頼りっぱなしだった。

「やっぱりヒナタはあたしがついていないとダメね。
 はぐれて迷子にならないように、ちゃんとついてくるのよ?」
「わかってるわよ……」

したり顔のカエデに無性に腹が立ったけど、仕方ない。
それにしても、どうしてカエデはこんなにタマムシの地理に明るいんだろう。
訊いてみたら、

「タマムシシティで一人暮らしたいと思ってた時期があって、その時色々調べてたから」

という返事が帰ってきた。
地上に出ると、日光の眩しさに目を覆うことを忘れるくらい、
衝撃的な景観が目に飛び込んできた。

「凄い……こんなに人がたくさん……」
「ヒナタ、ここがどこか分かってる?
 タマムシシティよ。人口、面積ともに最大クラスの大都市なのよ。
 今あたしたちは、その都心部にいるの。人が多いのは当たり前じゃない」

「それはそうだけど、実際に目にしたらなんか……」
「なんか?」
「感動しちゃって」
「はぁ……」

目頭を押さえるカエデ。
べ、別に感動したっていいじゃない。
あんなに高いビルが、あんなに大きな交差点が、
あんなに多くの人が、当たり前のように存在してるのよ?

「御上りさん全開ね、あんた。
 一緒にいるあたしが恥ずかしいから、さっさと行くわよ」
「ま、待って!」

そう言って颯爽と歩き出すカエデの後ろ姿は、
どこからどうみてもハナダシティ出身者には見えなくて、
あたしはカエデと同じような露出度の高い服装の女の子と見間違えないよう、
必死になって追いついた。
でも、やっぱり視線があちらこちらに泳ぐのは、止められない。

地上から少し仰いだだけで、
タマムシシティがどれほど爛熟した都市なのかが理解できる。
クチバシティを訪れた時は、なんて近未来的なデザインの街なのかしら、
と嘆息したものだけれど、今から思えば、あんなのただの見せかけだわ――。

「お嬢さん、見たところポケモントレーナーのようだが、違うかい?」

肩を叩かれて、初めてその声があたしに向けられていたものだと気づく。
反射的に逃げようとしたけど、
その男の人が、とても人懐こい微笑を浮かべていたので、あたしはつい、「はい」と頷いてしまった。

「ついでに言うと君、今日初めてこの街にやってきたんじゃないのかな?」
「はい、そうですけど」
「こんなにデカい都市だと、慣れるまでが大変だよ。実際、ここに来るまでも苦労しただろう?」
「はい」
「ところで、耳寄りなポケモンに関する情報があるんだけど、少し聞いてくれないかな?」
「はい」

言ってから気づく。どうして断るつもりだったのに、「はい」って言っちゃったのかしら?

「……ごめんなさい、やっぱりあたし、これから行くところが、」
「ほんの少しだけさ。時間は取らせないよ。
 ささ、道の真ん中で話もなんだから、こっちに来て」

背中を押されるようにして、路地裏に連れて行かれる。
ここまで来たら、少しだけ聞いていこう、と思った。
耳よりポケモン情報って、ちょっと気になるし。あたしは訊いた。

「あの、どうしてあたしがポケモントレーナーだってことや、
 タマムシシティが初めてだと分かったんですか?」
「そりゃあ分かるよ。この時間帯、君みたいな年代の女の子が
 学校も行かずに街中をうろついてたら、ポケモントレーナーだと思うのが普通だろう?
 あと、君からはこの街の人間が持たない純粋な雰囲気を感じてね。
 ――俺の話も、無視しないで聞いてくれると思ったんだ」

男の人は、ハハハ、と頭を掻いて笑った。
あたしはますます、この男の人に対する警戒心を解いていった。
根拠はないけど、この人は悪い人じゃない気がする。
ふいに、男の人は声を潜めて、

「本題に入ろうか。耳よりなポケモンに関する情報というのは、簡単に言えば、ポケモンを強くする方法のことなんだ」

「ポケモンを強くするって……
 素早くレベルアップさせる方法のことですか?」
「うーん、ちょっと意味合いが違うなあ。
 俺が知ってるその方法は、
 ポケモンバトルの経験による、技能的な強さじゃなくて、
 ポケモンのフィジカルな強さを上げる方法なんだ」

あたしはその言葉を、にわかに信じることが出来なかった。
フィジカルな強さ、つまり基礎能力値を上げるには、
ポケモンの成長や進化に任せるしかなかったはずでしょ?

「しかもその方法を実践するのに、
 時間は10分とかからないし、リスクもない」
「夢のような話ですけど……いったい、どんな方法なんですか?」
「薬さ。特殊な成分を含有する薬物をポケモンに投与することで、
 驚異的な能力アップを図ることができるんだ」

あたしは"薬"という単語が気になった。

「危なくないですか?
 その、人間が呑む薬でも、副作用とかあったりしますよね?」
「だいじょうぶだよ。その薬の安全性はきちんと科学的に証明されている。
 絶対にポケモンに害が出ることはない。僕が保証するよ」

男の人の目に、嘘の色はなかった。
時間による成長を待たずとも、ポケモンを強くすることが出来る――。
その言葉の響きは、あたしの胸を高鳴らせた。
でも、心の隅で何かが、警鐘を鳴らしていた。
それを静かにするために、あたしは現時点での疑問を、全部潰すことにした。

「どうしてあたしみたいな初めて会った人間に、そんな話を教えてくれるんですか?
 それに、もしそんな薬が本当にあるのなら、
 世界中のポケモントレーナーがこぞってポケモンに使っているはずですよね?」
「ああ、それはね。まず一つ目は、俺の好意さ。
 君みたいな綺麗な女性ポケモントレーナーを見かけると、つい、手を差し伸べたくなってね。
 もちろん、誰にだって声を掛けているわけじゃないよ。
 言うなれば、君は俺の眼鏡に適ったというわけさ」

男の人は、慣れた感じのウインクを見せた。
タイチのキザな仕草と比べると、全然嫌な感じがしない。
そういえば、あいつの火傷、良くなったかな。
まだ治療が必要なのに『もう治ったぜ!』なんて嘯いて、
お医者さんや看護師さんを困らせたりしていないかしら――。
って、どうしてここでタイチが出てくるのよ。

「考え事?」
「な、なんでもありません!」

つい、声を荒げてしまう。
男の人は目を瞬いて、しかし言及せず話を続けた。

「二つ目の答えは、その薬が現在入手困難であることと、非常に高価であることだ。
 だから大半のポケモントレーナーが、その薬の存在を知りながらも、手を出すことができずにいる。
 けど、一部の限られた人間、つまり俺のような"コネクション"と関わりを持つディーラーは別だ」
「コネクション?」
「ただの俗称さ。気にしなくて良い。
 ところで、さっきも言ったと思うが、俺たちディーラーが薬を売るのは、
 本当にポケモンを大切にして、尚かつ強くさせたいと願っているトレーナーに限られる」

男の人は鞄から銀のタブレットケースを取り出して、

「この仕事を続けていると、自然と、人間の本質を見抜く観察眼ってヤツが備わってきてね。
 君が条件を満たすトレーナーであると、一目で分かった。
 そこで、今回は特別価格で、このタウリンとリゾチウムを売ってあげるよ」
「はぁ……ちなみに、それぞれ効果は何なんですか?」
「効果は両方とも攻性で、タウリンがポケモンの物理攻撃力を上げ、
 リゾチウムがポケモンの特殊攻撃力を上げる。
 値段はそれぞれ一万円かっきりだが、」
「い、一万円!?」

あたしの反応は見透かされていたみたいで、男の人は苦笑いしつつ、

「高く感じるかい?
 でもよく考えてみて欲しい。この薬はちょっとした富豪なら、
 一本につき十万出すのも厭わない代物だ。
 それだけ希少価値が高いのさ。これでもかなり妥協した方なんだよ」
「ちょ、ちょっと待っててください」

背を向けて、財布の中身を確認する。
今日はタマムシシティの都心部に繰り出すということで、
普段より多めにお金を入れてきていた。
タウリンと、えーっと、リゾなんとかを二つ買っても、まだ余裕がある。
これも一重に、シゲルおじさまの支援のおかげね。
あたしは心の中でトキワシティにいるおじさまに感謝しつつ、
早くも薬をどのポケモンに投与するか、想像を巡らせた。
ゲンガーは今でも存分に強いし、強化するならピッピかヒトデマンの二択ね。
ヒトデマンを強化して、ゲンガーと併せて二強にするか。
戦力としては心許ないピッピを強化して、弱点を補うか。
ああ、悩みどころだわ――。

「すまない、そろそろ決めてくれないかな。俺もあまり時間がないんだ」

「……二つとも買います」
「併せて二万円だよ」

あたしが財布から万札を二枚抜いて差し出すと、
男の人はタブレットケースを開き、そこに入った二本の注射器を見せてくれた。

「間違いがないよう、現物を確認してくれ」

矯めつ眇めつ二つの注射器を観察してみたけれど、
こういった薬物の知識に暗いあたしには、何一つ違いが分からなかった。
でも、これ以上男の人を煩わせるのも嫌だったので、
嘘を吐いた。

「確認しました」
「良かった。それじゃあ、交渉成立だね――」
「待ちなさいっ!」

薄暗い路地裏に、甲高い声が響いた。
聞き覚えのあるその声は、疑いようもなく苛ついていて、怒っていて、
恐る恐る声がした方に目を向けると、カエデが仁王立ちで肩をいからせていた。

「あのねカエデ、落ち着いて聞いて欲しいの。
 あたし今、すっごくお得な買い物をしてたところで……」
「取り消しよ」
「え?」

カエデはあたしを見ていなかった。
背後の男の人と、その手の平の上のタブレットケースを睨み付けていた。

「その薬、見たところ十年以上前に規制された禁止薬物のようだけど?」

「禁止薬物? いったい何のことを言ってるの?」
「ヒナタはちょっと黙ってて。それで――、どうなの、ディーラーさん?」

男の人は柔和な笑みを崩さずに答えた。

「ご名答。ただし、俺は彼女を騙したつもりはない。
 薬物の効力について真実を語り、適正な価格での取引を持ちかけただけだ。
 もっとも勧誘の仕方は、いささか強引だったかもしれないが」

目が醒めたように気になった。
カエデとはぐれたのに、ちっとも不安を感じることなく、
路地裏に連れて行かれて、いつのまにか高価な薬を買うことに同意してしまっていて――。
あたし、今まで何やってたのかしら。

「論点はこの子が騙されていたか、否かではないわ。
 あなたがその薬を持っていること自体が、問題だって言ってんのよ」

あたしの目と男の人の目が合う。男の人はかぶりを振って言った。

「お嬢さんにこんなに強情で賢明な連れがいたとはね。誤算だった」

そして再びカエデを見つめて、

「だが、君は知識を鵜呑みするだけで満足しているように見えるな。
 何故国がこれらの薬物を規制したか、考えたことがあるかい?
 建前の裏に隠された真意を知ろうとしたことは?」
「い、今はそんなこと関係ないでしょ?
 確かなのは、あんたが影で禁止薬物を売り捌いてる、犯罪者ってことだけよ!」
「話すだけ無駄か。そうだな、君の言うとおり、俺は影に戻るとしよう。
 ただし、売買契約は成立している。この金はいただいていくよ」

ピッ、とあたしの手からお札を抜き取り、

「あたし、やっぱり要りません!
 お金を返してください!」
「すまない。ただし、君が後悔する結果にはならないと思う。
 ――出ろ、ドーブル」

至近距離で閃光。
あたしが瞼を開いたとき、丁度横をカエデが駆け抜けていくところだった。
わけも分からず追いかける。
すぐに追いつけた。
カエデが曲がった路地は、行き止まりになっていて、
そこであたしは、寂れた壁一面のアートを見た。
筆記体の巨大な"R"の一文字が、黒いペンキで描かれている。
男の人は、忽然と姿を眩ましていた。

「逃げられたの?」
「ええ。しかもこんな巫山戯た絵を残していくくらいの、余裕綽々っぷりで」

悔しそうに、唇を噛みしめるカエデ。
あたしはもう一度、壁面を眺めた。この"R"の文字には一体どんな意味があるのかしら?
時間が経つ事にペンキは滴って、やがて、絵が判然としなくなる。
ふいに、ぺちんと頭が叩かれた。

「い、いったぁ~い……」
「馬鹿ヒナタ。あんたってば本当にどうしようもない馬鹿だわ。
 都心について早速詐欺にひっかかって、まんまと二万円も取られちゃってさ」
「だって、あの人、全然悪い人に見えなかったから、」
「そんなの仮面に決まってるじゃない。あんたみたいな御上りさんをカモにして、
 儲けようって輩がこの街にはたくさんいるの」

カエデもあたしと同じ御上りさんなんじゃ……と一瞬思ったけれど、
口にしたらまた頭を叩かれそうだったので、

「……これからは騙されないようにするわ」

目を伏せて、素直に謝った。
カエデはまだ何か言いたそうに膨らませていた頬から、
言葉の代わりにぷしゅーと息を吐き出して、

「これからは絶対にあたしを見失わないこと。
 他人に声を掛けられても、絶対に相手しないこと。分かった?」

頷く。
それからあたしたちは薄暗い路地裏を抜け、
夥しい数の人が行き交う通りに戻った。
相変わらず、目が回りそうになる。
でも、あたしがはぐれる前とは違って、カエデは歩調を緩めてくれていたし、
時折振り返って、あたしが着いてきているか確認してくれていた。
カエデがこんなに頼もしく見えるのは、いつ以来かしら。
あたしは小走りになってカエデに追いつき、左手を取った。

「な、なによ?」

上擦った声。

「手を繋いだら、絶対にはぐれないでしょ?」
「やめなさいよ。子供じゃあるまいし――」
「ねえ、さっきのカエデ、格好良かったよ。
 あたしが騙されそうになってたところを助けに来てくれて……ありがとね。嬉しかった」
「あーもー、どうしてあんたはそんな恥ずかしい台詞ばんばん言えるわけ?」


ぷい、とあたしと反対方向に顔を背けるカエデ。
でも、手をふりほどかないってことは、
このまま繋いでいてもいいってことよね?

「街に慣れるまでは、このままでお願い」
「あ、あんたの好きにしたら」
「うん、そうする」

あたしは上機嫌で手を握り直した。
――肩に提げた鞄が、若干重みを増していることに少しも気づかぬまま。

カエデの先導もあって、あたしたちはお昼時までに、
目的地――タマムシシティジムに訪れることが出来た。
といっても、最初はどこから入ればいいのか分からず、外周を半周ほど余分に回ることになった。
ジムは、平たく言うなら御屋敷だった。
それも並大抵の大きさではなく、
日本屈指の美しさを誇る和風庭園を高い塀で囲い、
中心に古来の建築様式を凝らした母屋、上屋、庵などが密集している――とは、またしてもカエデの弁。

実際にあたしたちが立ち入ることができたのは、、
巨大な門の手前までで、そこであたしは受付の人にジム戦の申請をして、
ジム戦予定日を書き記された紙を渡されて、愕然とした。

「二日もかかるなんて……。
 やっぱりこんなに大きな街だと、たくさんの人がジム戦しにやって来るのかな」

あたしのぼやきに、間髪いれずカエデが言った。

「もちろんそれもあるけど、ジムリーダーのエリカさんが超多忙であることも理由の一つよ。
 レッドベルの社長を務めながら、ジムリーダー業を続けるって、すっごく大変なのに、よく体が持つわよね」

"レッドベル"というのはあたしたちの年代の女の子なら誰もが知っている、
香水・フレグランスの大手企業の名称のことで、その社長であるエリカさんは、よくファッション雑誌に取り上げられていた。
あたしも何度か目にしたことがある。
エリカさんはいつも着物を着ていて、髪も肩口で綺麗に揃えた黒髪で、大和撫子という言葉がぴったりだった。
あたしは言った。

「エリカさんが苦労していないとは全然思わないけど、
 社長なら仕事のことはある程度、部下に任せられるんじゃない?」
「ヒナタ、あんたもしかしてエリカさんが現役ばりばりのパフューマーだってこと、知らないの?
 絶対に不可能と言われていた、クサイハナの臭液の原液から香水を作った逸話くらいは、いくらあんたでも知ってるわよね?」

「う、うん……」
「顔に嘘って書いてあるわよ?」

どうしてカエデはあたしが嘘を吐いたときだけ、こんなに鋭いの?

「だってあたし、香水とかあんまり興味なかったし。
 エリカさんのことも、雑誌で写真を見たことがあるくらいしか知らないのよ」
「あんたねー」

と、カエデは溜息を着いて、

「どうしようかな……なんか原石磨くことになっちゃいそうでヤダな……
 まあいっか……現時点で圧倒的優位なのは勿論このあたしだし……
 せめて従姉に身嗜みをレクチャーするくらいは……」

とかなんとか口をモゴモゴさせた後、

「ヒナタ、タマムシデパートに行きましょ」

と言って、立ち上がった。面食らったあたしは、缶ジュースを取り落としそうになった。

「タマムシデパート?」
「そ」
「なんで? どうせ明後日まですることがないから、
 それまでは自由に出来るけど、カエデ、タマムシ大学に寄りたいって言ってなかったっけ?」
「後回し後回し。昨日ポケモンセンターのパソコンで調べたんだけど、
 明日に有名な博士の公開講義があるらしいから、明日行くことにしたの」
「どんな講義なの?」
「ヒナタに言ってもわかんないわよ。
 ほら、さっさと行こ。確かこの近くに、バス停があったはずだから」

バスに揺られること20分。
『タマムシデパート前』というそのままの名前のバス停に着くと、
あたしとカエデを含めた大半の人間が降車して、
あたしはやっと新鮮な空気を吸うことが出来た。
電車やバスが、こんなに息苦しい交通機関だったなんて……都会、怖い。

「なにぼーっと突っ立ってんの? 入るわよ」

カエデはあたしを置いて、ずんずんデパートに入っていく。
あたしはカエデの背中を追いかける前に、正面からデパートを見上げた。
全五階と屋上からなる、白亜の建物。
この街に立ち並ぶビルに比べたら小さく見えるけど、
だからこそ、テナントはいずれも厳選された一級のお店ばかりで、
その中にエリカさんのお店、レッドベル本店があるのだとか。

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四階と五階を繋ぐ階段で、あたしはカエデに掴まった。

「逃げだしてどうすんの!?」
「だって、あんなに丁寧な紹介聞いたり、
 お試しとかさせてもらったら、買わないと失礼じゃない……」
「あんた馬鹿? 買うためにこのタマムシデパートに来てるのよ?」

凄い剣幕のカエデに、あたしは項垂れて、

「カエデの気持ちは嬉しいけど、あたし、やっぱりあんなに高い香水、要らないわ」

「あんた、二万円もだまし取られといて、よくそんな台詞言えるわね?」
「そ、それとこれとは関係ないでしょ」

カエデは眉をつり上げて、しかし諦めたように言った。

「もういい。5時くらいにデパート前で集合。
 あたしは勝手に買い物するから、ヒナタも適当に時間潰してきたら?」

踵を返して、行ってしまう。
あたしは独りぼっちになった。
これからどうしよう――。
佇むあたしの脇をたくさんの人間が通りすぎて行く。
あたしは少し迷ってから、5階のお店を見て、屋上で時間を潰すことにした。
元々、あたしはカエデほどブランド物に拘らない方だから、
タマムシデパートに構えているお店には、さほど魅力を感じなかった。

五階はドラッグ・ストアだった。
案内板を見ると、角に、ポケモントレーナー向けの区画があることが分かった。
あたしはそこに向かうことにした。
カエデは都会慣れしないあたしを馬鹿にするけど、
地図さえあれば、あたしでも大丈夫なんだから。
お店に着くと、早速営業スマイルを浮かべた女性の店員が声を掛けてきた。

「何かお探しですか?」
「あ……特に何を買うとかは考えていないんですけど……」

暗にウィンドーショッピングをしたいと言ったつもりなのに、
店員さんは愛想よく微笑み、

「失礼ですが、お客様のポケモンの名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

あたしはゲンガーの名を出そうか数秒悩んでから、

「ピッピと、ヒトデマンです」

と答えた。あたしみたいな半人前のトレーナーが、
何故ゲンガークラスのポケモンを持っているのか、と余計な疑いをかけられるのが嫌だったからだ。
店員さんは「それなら――」と頷き、
お店の一角にまで案内してくれた。そして、記憶に新しい銀のタブレットケースを二つ、商品棚から抜きだして、

「こちらのプラスパワーや、スペシャルアップなどはいかがでしょう?
 一時的にポケモンの物理攻撃力、特殊攻撃力を上昇させる効果があって、
 攻撃力が不安なピッピや、ゆくゆくは特殊系の技を習得するヒトデマンに、ぴったりですよ」
「一時的にですか?
 恒久的にではなくて?」

あたしの質問は予想外だったみたいで、
店員さんは目を二、三度瞬かせた。

「はい、効果が持続するのは、ポケモンの種類にもよりますが、大抵20分から30分です」

あたしはわざと答えの分かっていることを訊いた。

「ずっと効果が持続するような薬は、売っていないんですか?」
「申し訳ございませんが、そのような薬は、当店では取り扱っておりません。
 また、他のドラッグ・ストアでも、お探しになれないかと思います」
「何故ですか?」
「法改正によって、ポケモンの能力を永続強化する薬物は、開発・生産ともに中止になったからです、お客様」

カエデの言っていたことは、正しかった。
とすると、やっぱり自らをディーラーと称していたあの男の人は、違法な薬物の売買を稼業にしている、悪人だったのかしら。

「それで、こちらの商品はいかがいたしましょう?」
「折角色々説明してもらった後で、すみませんけど、
 今は持ち合わせがないので、遠慮しておきます……」

逃げるように出口に向かう。
欲しくないと言えば嘘になるけど、浪費は出来るだけ抑えないと。
店員さんは嫌な顔一つせずにお辞儀し、

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「あ、ありがとうございました」

つられて会釈を返したあたしを見て、微笑んだ。