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「そこまでじゃ。ゲンガー、"シャドーパンチ"をお見舞いしてやりな」

割と本気で覚悟を決めたあたしの耳に聞こえてきたのは、
呪詛の言葉でも、怨嗟の声でもなく、キクコお婆さんの命令だった。

頭の中がパニックになる。
まさか、キクコお婆さんが、このゲンガーのマスターだったなんて。
たった数時間だけど、お話しして、大切なことを教えてもらって、仲良くなれたと思っていたのに。
キクコお婆さんは、出会った時から、あたしに狙いをつけていたんだ。
そしてゲンガーに命令して、、
誰も助けが来ない深夜のポケモンタワーの最上層に、あたしを呼び寄せて――。

「馬鹿言ってるんじゃないよ。
 ヒナタちゃんはちょっと、物事を良い方向に考える力が欠けているんじゃないのかねぇ」

砂袋を地面に叩き付けたような、乾いた音を聞いた瞬間、
あたしは目の前が真っ暗になった。しかし、意識はちゃんとある。
目を凝らして見直すと、あたしの視界を埋めているのが、
ゲンガーの背中であることが分かった。

「どういう、こと?」

ゲンガーが振り返り、笑う。
びっくりして身を仰け反らせてしまったけれど、
その表情に、憎しみとか怒りとかの感情はなくて、
むしろ、"安心しなさい"と言っているかのような、優しい笑顔だった。

「もしかしてあなた、あのゲンガーとは別のゲンガーなの?」

首肯。
あたしはへたりこんだ体を脇にずらした。
――いた。
もう一匹の、あたしを襲おうとしていたゲンガーが、
墓石の影でぐにゃぐにゃと蠢いている。
なんて凄いシャドーパンチなの……あの影みたいなゲンガーを捉えて、
あんなところまで吹き飛ばすだなんて。

「誤解は解けたようだねえ」

あたしは声のした方向に向かって言った。

「お婆さんはどこに居るんですか?
 あの、あたし、普通に眠っていたら、誰かに操られるみたいに、
 ここに来てしまって、それで――」
「事情は大体把握しておる。今は目先の脅威の排除が先決じゃ。
 ゲンガー、"黒い眼差し"、"舌で舐める"、"催眠術"で無力化しな」

そこからの戦いは、終始一方的だった。
月明かりの外側に飛び出したキクコお婆さんのゲンガーは、
すぐに暗闇と同化して、視えなくなった。
身の危険を感じたのか、あたしを襲おうとしていたゲンガーが退こうとする。
でも、急に身動きがとれなくなって、墓石の影に縛り付けられた。まるで、さっきのあたしみたいに。

――べろり。
嫌な音を立てて、血のように赤い舌が、動きを封じられたゲンガーを舐め上げる。
肉体的にも精神的にも束縛されたゲンガーは、
それでも紅い目をぎょろつかせて、暗闇の一点を睨み付けていた。
あそこに、あたしの目には視えない、キクコお婆さんのゲンガーがいるのだろうか。
前触れなく、ガクリ、とゲンガーの首が倒れる。
同時に眼光も、非常灯の明かり程度にまで衰えてしまって――。
あたしはゲンガーが、催眠術で眠らされてしまったことが分かった。

「終わったみたいだねぇ」

キクコお婆さんの言葉とおり、お婆さんのゲンガーが、暗闇から出てくる。
そして重さをまったく感じさせない足取りであたしの正面にやってきて、
何を思ったのか、突然、指示を仰ぐように跪いた。

「久方ぶりの戦闘じゃ、老躯には堪えたじゃろうて」

背後から声。
あたしが首だけで振り返ると、
杖をついたキクコお婆さんが、ハイパーボールを掲げていた。

「ゆっくり休んでおくれ」

閃光が走り――。
跪いたゲンガーが、ボールに仕舞われる。
あたしは改めて、あの得体の知れないゲンガーをあっという間に倒したゲンガーが、
キクコお婆さんのポケモンであるという事実を飲み込んだ。
昼間、ハイパーボールを見せてもらったときに、
お婆さんがかつて熟練したポケモントレーナーであったことは理解していたつもりだったけど――。
このお歳でここまで圧倒的な戦いが出来るのなら、全盛期はいったい、どれほど強力なゴーストポケモン使いだったのかしら。

絶句するあたしを余所に、
キクコお婆さんは天窓から覗く月を見上げて、

「危ないところじゃった。
 ヒナタちゃんのポケモンが"月の光"を使わなければ、
 あたしはいつまで経ってもヒナタちゃんの危険に察知できずにいただろうからねぇ」

あたしは抱きしめていたピッピを持ち上げた。
ねぇ、聞いた? あなたのおかげで、あたしたち、助かったんですって。

「ぴぃ」
「"月の光"を発動したのは、そのピッピかえ?」
「はい、そうですけど」
「本当かい? ヒナタちゃんには失礼じゃが、
 そのピッピはまだ"月の光"を発動できるレベルに達していないように見えるねぇ」
「あ、えっと、それは多分……その技が、"指を振る"で選ばれたものからだと思います」

ランダムに選ばれる技の中には、
当然、ハイレベルのポケモンしか習得できないような技や、
ピッピのノーマルタイプからかけ離れたタイプの技が存在する……らしくて、
だから、その"月の光"という将来的にピッピが憶える技を、
"指を振る"で使ったとしても、何も不思議なことではないはず。

「いや、そうだとしても、元の疑問とは別に、新たな疑問が生まれるのさ。
 "指を振る"という技も、"月の光"と同様に、成体に近付いたピッピにしか発動できない技なんじゃ。
 加えて、完全に乱数的な選択が行われるはずが、先刻は確率論を無視したとしか思えない、
 最も適当な技が選択されていたじゃろう?」

果たして"月の光"は、さっきの状況で最も適切な技だったのかしら。
どうせなら、ゴーストタイプと相反するタイプの強力な技の方が、
あの得体の知れないゲンガーにダメージを与えることが出来たんじゃないかしら。
あたしはそう思いつつ、

「この子のレベルで"指を振る"が使えるのは、異常なんですか?」
「異常、というとその子が可哀想じゃ。
 ポケモンバトルの最中、偶発的に、一定のレベルに満たないにも関わらず、
 そのレベルの技を習得した、という事例はあるからねぇ。
 しかしヒナタちゃん、その子は見たところ、修羅場というものを潜り抜けた経験がない」

――それはつまり、この子が"指を振る"という技を、先天的に習得していた、ということ。
お婆さんは難しい顔をして、

「想像じゃが、ヒナタちゃんは、これまで、ピッピに"指を振る"ばかりさせてきていたんじゃないのかえ?」
「はい……、その通りです。
 この子の小さな体じゃ"体当たり"をさせてもダメージはたかが知れてるし、
 それなら、ランダムに任せる方がいいと思って、"指を振る"ばかりさせていました」
「結果はどうじゃった?」
「見当違いの技ばっかりで、この子はまだ一度も、ポケモンバトルで勝ったことがないんです」
「それじゃあ、質問を変えようかねぇ。
 ヒナタちゃんが危機に陥ったときも、そのピッピは見当違いの技を発動させていたのかえ?」

脳裏に思い描かれるのは、
このピッピと出会った、オツキミヤマ洞窟深層部での一コマ。
あたしはキクコお婆さんに、エーフィの"念力"から、ピッピの"光の壁"に護ってもらったことを話そうかどうか迷った。
話してしまえば、関係上、どうしてもあの男について言及しなければならない。

「それは、」

あたしが言い淀んでいると、
キクコお婆さんは、フェ、フェ、フェ、と悟ったように笑って、

「突然変異種に、規則性の破壊――。
 あの若造の世迷い言も、なかなかどうして、現実味を帯びてきたじゃないか」
「……お婆さん?」
「ただの独り言さ。
 さて、そろそろそのピッピの話は終わりにして、あのゲンガーについて考えようかねぇ。
 ヒナタちゃん。ここにやってくるまでの経緯を、詳しく話してくれるかえ?
 大体の予測はついとるんじゃが、一応確認しておきたいんじゃ」

―――――――――
――――――
―――

「細かくは思い出せないんですけど、大体、そんな感じだったと思います」

眠っている間に"来い"という声が聞こえたこと。
マリオネットになったみたいに、体を操られる感覚があったこと。
心が麻痺していて、真っ暗なポケモンタワーに対して、全然恐怖を感じなかったこと。
朧気な記憶を辿って、それらを話し終えると、キクコお婆さんはただ一言、

「怨恨の類じゃな」
「怨恨……、ですか」

重りを着けて海に放り込まれたみたいに、気持ちが沈んでいく。

「実は、私が最初にヒナタちゃんの前に姿を現した時から、
 ヒナタちゃんに付きまとう霊の存在には、気づいておったんじゃ。
 私はこのポケモンタワーに眠るポケモンの霊や、その源となる負の思念体について熟知しておる。
 昼間、私は危険な負の思念体の収斂を感じて、この最上層に来た」

あたしはキクコお婆さんに出会う直前、
天窓が作る日溜まりに、一瞬、影が差していたことを思い出した。
あれがキクコお婆さんのいう、負の思念体の集合体だったのだろうか。

「そこにいたヒナタちゃんは、とてもポケモンタワーの霊を刺激するとは思えない、
 むしろその対極に位置するような、心優しいトレーナーじゃった。
 瞬間的に高まった霊力も、いつの間にか霧散していた。
 私は安心して、ヒナタちゃんを帰すことにしたのさ。しかしそれは大きな間違いじゃった」

骨張った指が、ぐったりしたゲンガーに突き付けられて、

「一歩間違っていれば、ヒナタちゃんは今頃、
 このゲンガーに苦しめられて、しかし誰にも気づかれないまま、地獄を味わっていたかもしれないねぇ。
 "月の光"を発動させたその子に、命を救われたといっても過言じゃないんじゃよ」
「でも、こんなことを言うと我儘かもしれないけど、
 "月の光"以外の、ゴーストタイプに有効な技が出ていたら、もっと良かったんじゃ……?」

キクコお婆さんは白髪を揺らすようにして首を横に振り、

「他の技では意味がなかったんじゃ。
 このゲンガーは元々閉鎖的な夜のポケモンタワーの一部分、つまりこの最上層を、
 暗闇で包み込むことで、中で何が起っても、外から知覚されない空間にしたのさ。
 月の光がその暗闇を晴らさなければ、私はヒナタちゃんが苦しみの悲鳴を上げていても、助けに来ることが出来なかったじゃろうて。
 また、仮に他の強力な攻撃技が出たとしても、ピッピの基本能力では、一撃であのゲンガーを倒すには至らず、
 結果的にはあのゲンガーを本気にさせて、最悪の事態を招いていたんじゃないかと思うねぇ」

あたしは、なんて浅はかなことを考えていたんだろう。
恥ずかしくなって、とりあえず手近なピッピをぎゅっと抱きしめる。

「ぴぃっ」

もしもこの子が"月の光"を発動してくれていなかったら。
恐ろしいイメージが浮かび上がって、それに連動して、体の震えがぶり返してくる。
あたしは気を紛らわそうと、一つ気になっていたことを訊くことにした。

「どうしてお婆さんのゲンガーは、月明かりの中でも平気だったんですか?
 あのゲンガーは、逃げるように明かりの外側に飛び出していったのに」
「慣れの問題さね。
 ゴーストタイプのポケモンは総じて、明暗のはっきり分かれる場所を厭い、
 存在が曖昧模糊であることを許される、暗闇を好む。
 じゃが、それはあくまでも好き嫌いの問題じゃ。
 私のゲンガーが、どんな光量に晒されようとも怯まないよう訓練しておったのに対し、
 形成されて間もないあのゲンガーには、耐性がなかった。たったそれだけの話なんじゃよ」
「ちょっと待ってください。ゲンガーは、ゴースから始まる進化形の最終形態ですよね。
 なのに、形成されて間もないって、どういうことですか?」

キクコお婆さんは瞼を開けて、その奥の白濁した瞳で、あたしを見た。
今度は驚いたりしなかった。

「教科書の情報を鵜呑みにしているだけでは、ポケモンを知ることはできないんじゃ。
 こういったポケモン霊園では、極稀に、進化の過程を飛ばしたゴーストポケモンが現れる。
 その条件は大別して二つあり、
 私はそれが、ヒナタちゃんとあのゲンガーの因縁を探る手掛かりになると考えおるんじゃよ」

キクコお婆さんはおもむろに杖を動かして、
床に積もった埃を分けるように二重の円を描いた。

「条件を説明する前に、ゴーストポケモンが生まれる過程を話すとしようかねぇ。
 前にも言ったはずじゃが、ゴーストポケモンは、ポケモンの未練を主とする負の思念、即ち霊体の集合体じゃ。
 しかし、低級な霊体が寄り集まったところで、ゴーストポケモンは生まれたりはせん」

小さい方の円が、コツン、と杖で叩かれる。

「霊体が形を成すには、核が必要なのさ」
「核っていうと……強いポケモンの霊体ですか?」
「察しがいいねぇ。ヒナタちゃんの言うとおり、
 生前強力なポケモンであったり、息絶えた際に強い負の感情を抱いていたポケモンの霊が、核となりうるんじゃ」

次に、大きい方の円を杖がなぞり、

「核となる霊体が現れると、今度は今まで"在る"だけであった低級な霊体が引き寄せられていく。
 そこで核となる霊体が、再び世に顕現することを望んだ時、ゴーストタイプのポケモンが生まれるんじゃ。
 望まぬ場合、核となる霊体は集まった低級の霊体ともども、再び現世と幽世の狭間を彷徨うのさ」

あたしは訊いた。

「そういった霊が、救われることはないんですか?
 トレーナーにお参りしてもらったり、お坊さんにお経をあげてもらったりして、」
「無意味じゃ。
 残酷に聞こえるかもしれんが、所詮それは、こちら側に遺された者たちの自慰的行為に過ぎぬ。
 怨恨や未練の源が消えない限り、霊体が成仏することはないんじゃよ」

「そんな…………」
「ヒナタちゃんの気持ちも分からんでもないが、今は話を戻そうかねぇ。
 ゴーストタイプのポケモンが、進化の過程を飛ばして生まれるのに必要な条件のうち、
 一つは核となる霊体が非常に強力である、というとじゃな。
 通常、ゴーストポケモンが生まれる際に必要な高級霊も、
 生前強力なポケモンであったことが多いが、進化の過程を飛ばすには、
 核となるポケモンの生前のレベル、現世に遺した未練が、相当なものでなければならないんじゃよ」

あたしは伏せていた視線をゲンガーに移した。
あのゲンガーの核となる霊体は、生前、どれほど強い力を持っていたんだろう?
或いは、どれほど強い未練を残して死んでいったのだろう?

「しかし、いかに強力な核があろうとも、
 寄り集まってくるのがしがない低級霊ばかりでは、
 生まれるゴーストポケモンもたかが知れておる。
 そこで必要となる二つ目の条件が、負の思念の一時的な増幅じゃ。
 霊体とは不安定なものでねぇ。ちょっとした切欠で、その持てる霊力を大きく増減させるのさ。
 そして、霊力が減少したときはいざ知らず、増幅したときには、周囲の同等の霊体を寄せ集めるんじゃ。
 元が低級霊なら集まる霊も低級じゃが、元が高級霊、しかも抜きん出て強力な霊だと厄介だ。
 何故だか分かるね?」
「……集まってくる霊体のレベルに、ほとんど上限がないから、ですか」
「その通りじゃ。
 強い霊体は強い霊体を呼び寄せる。自然の理さね。
 さて、ここまで話せばあのゲンガーがどうやって生まれたのか、ヒナタちゃんにも分かるじゃろうて。
 第一に、あのゲンガーの核となる霊体は、
 生前、かなり高いレベルのポケモンで、尚かつ、非常に根深い未練を残して死んだ。
 第二に、とある切欠でその霊力が増幅し、
 ポケモンタワー内に散在していた他の強力な霊体を一度に呼び寄せた。
 そして恐らくその切欠が……」
「……あたし、だったんですね」

「でも……、どうしてあたしなのかしら」

たとえ本当にあたしが切欠なんだとしても、
何故あたしが切欠になったのかが、全然分からない。
胸に手を当てて、今までポケモンと触れあってきた記憶を回想しても、
心当たりとなる記憶は一つも見つからなかった。

「あたし、ゲンガーの核になるほど強いポケモンと会ったことは一度もないし、
 ポケモンと喧嘩しても、最後には絶対仲直りしてきました。
 だから、こんなこと胸を張って言えることじゃないですけど、
 このゲンガーを含めて、ポケモンに恨まれる理由が見あたりません」
「私はよーく知っておるよ。
 ヒナタちゃんが、ポケモンから恨まれるようなトレーナーでないことはねぇ。
 じゃが、恨みの矛先とは、常に直接の対象に向けられるとは限らないんじゃ。
 間接的に、一見無関係な相手に向けられることもあるんじゃよ――」

不意に、キクコお婆さんが、ゲンガーいる方向に歩き出す。
杖に頼った歩みは、歩幅も狭くて、今にも倒れそうだったけど、
あたしは起き上がって、その体を支えることが出来なかった。
――ゲンガーが、目を覚ましていたから。

「お婆さん一人で近付くのは危険です!」
「フェ、フェ、フェ。心配は無用じゃ。私は心得ているからねぇ」

その嗄れ声には、何故かあたしを安心させる力があった。
これから何が始まるのかしら?
萎んだ心配の代わりに、好奇心が膨らんでいく。
お婆さんはゆっくりとゲンガーが縛り付けられた墓石に近付いていった。
そして、手で触れられるほどの距離に近付いた時、ゲンガーの眼が、黒く光った。
危ない! そう叫ぼうとした時には、もう遅かった。

お婆さんはその黒い光をいっぱいに浴びて、
しかし平然とゲンガーの額に触れて言った。

「私の盲いた眼に瞳術は効かぬ」

あたしが固唾を呑んで見守る中、
ゲンガーは諦めたように眼を閉じ、お婆さんも同様に眼を閉じた。
それから一分くらい、沈黙が場を支配していた。
自分の呼吸でさえもうるさく感じるくらいに、何も、誰も、音を発しなかった。
そして、

「なるほどねぇ」

何が分かったのだろう、突然お婆さんがゲンガーの額から手を離して、そう言った。
少し遅れて、ゲンガーが眼を開ける。
でもそこに、初めて襲ってきた時のような暗い感情はなくて、
あたしが見つめていることに気づくと、ふい、と視線を反らした。
――なんなのよ、もう。

「さあ、こっちに来な。初めは抵抗があるだろうが、次第に慣れるじゃろう」

キクコお婆さんが、ゲンガーの背中を押すようにして、月明かりの許に戻ってくる。
お婆さんの言った通り、ゲンガーは明暗を別つ光が苦手らしく、
今すぐにでも墓石の影に戻りたそうにうずうずしていたけど、結局、その体を月光に晒した。暗闇の中で見たときと比べて、目の前のゲンガーはずっとずっと小さかった。
あたしはこのゲンガーに対してもうあまり怖さを感じなくなっていた。それでも、体は反射的に後ずさった。

「こやつは最早無害じゃ。怖がることはない」
「いえ、体が勝手に反応してしまって……」

あたしの言葉に、ゲンガーの体が少し縮んだ――ように見えた。
錯覚よね?

「あの、さっきお婆さんはこのゲンガーに、何をしていたんですか?」

キクコお婆さんはさらりと言った。

「少しこのゲンガーの記憶を覗かせてもらったのさ」

心霊関係のテレビ番組を馬鹿にして、見なくなったのは何歳くらいの時だろう。
幽霊と話したり、幽霊の前世の記憶を読み解いたり。
そんなことは有り得ないと決めつけて、
幽霊を信じている人をどこか冷めた目で見るようになったのは、いつの頃からだろう。
でも、あたしは物心ついた後も、幽霊の存在を心底否定することは出来なかった。
心の上辺ではいるわけがない、と思いながらも、心のどこかでは、いると信じていた。
だから、その証拠を目の当たりにした今、
お婆さんがゲンガーの核となる霊体と交信したという事実を、
あたしは少しの違和感もなく、受け入れることが出来た。

「こやつの核となる霊体の前世は、ギャラドスじゃ。
 それも生半可な強さではない。最低でもレベルが90前後あっただろうねぇ」
「90、前後……」

溜息しか出なかった。
レベルが90前後のギャラドス、かぁ。
きっと、荒れ狂う海のように凶暴で、
繰り出される技は、フィールドを瓦礫の山に変えてしまうほど破壊力抜群だったんだろうな――
なんて、あやふやな想像に浸っていると、

「そのギャラドスの死因は、何だと思うね?」

レベルが90もあるギャラドスが、ポケモンバトルが原因で死ぬわけがないわ。
とすると考えられるのは、事故死、病死、老いによる衰弱死くらいね……。
いくつかの候補を並べてみたけれど、どれも等価で、結局あたしは横に首を振った。

「分かりません」
「最初に挙げたものであっておるよ。
 ギャラドスは苛烈なポケモンバトルの末に、止めを刺されて死んだのさ」

キクコお婆さんは杖を持っていない方の手で、
ゲンガーの耳と耳の間を撫でながら、誰ともなしに呟いた。

「瀕死の状態に"かみなり"とは酷なことをする……。
 あやつめ、どこで道を間違えおったのか……」
「お婆さん?」
「おっと、今のは耄碌した婆の独り言さ。気にしないでおくれ」
「それじゃあ、質問してもいいですか?」
「なんじゃ?」

あたしはゲンガーを横目で見ながら言った。

「ギャラドスを、その、ポケモンバトルの末に――」
「殺した、という表現で構わんよ。
 私たち人間が気を遣って言葉を弄したところで、ゴーストポケモンの慰みにはならないんだからねぇ」
「えーと、それじゃあ、ギャラドスを殺したポケモンは、
 いったいどんなポケモンだったんですか?」
「ピカチュウじゃよ」

あたしの頭の中にあった、怪物じみたポケモン像が、一瞬にして崩れ去っていく。
どんなに頑張ってみても、イメージ出来なかった。
あんなに小さくて、あんなに可愛いピカチュウが、レベル90のギャラドスを殺すなんてことがあり得るの?

お婆さんは追い打ちを掛けるように言った。

「驚かないで聞いておくれ。
 しかもそのピカチュウは、ヒナタちゃんと縁の深いピカチュウなんじゃ」
「そんな……、そんなこと、」

有り得ません、とは答えられなかった。
お婆さんが最初にピカチュウの名前を出した時から、
あたしは頭の片隅に、あたしが赤ちゃんの頃から一緒に居てくれたピカチュウのことを、思い出していた。
つい一ヶ月前なら、あのピカチュウが凶悪ポケモンのギャラドスを倒したと聞かされても、一笑に付して信じなかったと思う。
でも、今のあたしは知っている。
あの子がかつてお父さんの相棒を務めていた、最強格のポケモンであることを。

「心当たりがあるじゃろう?」

無言で頷く。

「ヒナタちゃんはそのピカチュウと、かなり長い時間を共に過ごしていたんじゃないのかえ?」
「はい。あたしが生まれた時から、ずっと……」
「道理でこの霊体が過剰反応したわけだ。
 自分を殺したピカチュウの痕跡を感じ取るには、ヒナタちゃんは十分過ぎたんじゃろうて」

お婆さんの率直な物言いが、あたしの心に容赦なく突き刺さる。

本当に――『殺した』の?
あの子が。
あんなに優しかったピカチュウが。
あたしの知らない過去に。
ポケモンの命を。
ギャラドスの命を、絶っていたの?

握りしめた拳に、力が籠もる。
感情的になりつつあるあたしとは対照的に、

「受け入れ難いかもしれんが、それが現実さ」

お婆さんは淡々と、そう言った。

「でも……、あたしのピカチュウがそのギャラドスを殺したのには、
 何か事情があったんじゃないんですか。
 あのピカチュウが――あの子が、理由もなしに相手ポケモンの命を奪うとは思えません!」
「私が読みった記憶は、あくまで断片的なものに過ぎぬ。
 解ったことは、そのギャラドスを殺したポケモンがピカチュウである事実と、
 そのピカチュウがヒナタちゃんと接点を持っていたのではないか、という推測のみじゃ」

白く濁った瞳が、あたしから逸らされて、

「残念じゃが、どういった経緯でピカチュウがギャラドスを殺したかまでは、解らないのさ。
 それを知るには、そのピカチュウか、もしくは、当時のピカチュウのトレーナーに話を聞くしか方法はないだろうねぇ」

あたしの脳裏に、バトルフィールドに並び立つ、お父さんとピカチュウの姿が描かれる。
お父さんに会えば……、ピカチュウがギャラドスを殺した理由が解るのかしら。
この得体の知れない不安が、杞憂であると証明されるのかしら。

「ところで、先ほど心当たりがあると言ったそのピカチュウじゃが、
 今はヒナタちゃんと共に旅をしていないのかえ?」
「少し前までは、一緒にいたんですが……」

あたしが言葉に詰まると、お婆さんはフェ、フェ、フェ、といつものように笑って、

「言いたくなければ言わずとも良い。
 袂を分った理由を知りたくないと言えば嘘になるが、
 無理に口を割らせるほど、私も野暮じゃないからねぇ。
 じゃが、これだけは聞かせておくれ」

不意に、お婆さんの盲目が眇められる。

「――この先、ヒナタちゃんがそのピカチュウと再会する機会はあるのかえ?」

あたしは即答した。

「あります」

なるべく、それが当たり前のことであると聞こえるように。
再会できるに決まっていると、自分に言い聞かせるみたいに。
するとお婆さんは満足げにうんうんと頷いて、

「なら、このゲンガーを連れて行くといい」
「え!?」
「うー?」

あたしはお婆さんの提案にびっくりした後、間延びしたチェロの音のような鳴き声に、もっとびっくりした。
ゲンガーが目をぱちくりさせて、キクコお婆さんを見上げていた。
かわ……いくない。さっきのは錯覚。そう、ただの錯覚。

「こやつが再びこの世に顕現した以上、
 成仏し、幽世に還るには、怨恨の源を絶つしか方法はない。
 直にピカチュウと会って意志を通じ合わせ、己が死を肯定することが、こやつにとっての唯一つの救いなんじゃよ」

お婆さんは懐からハイパーボールを取り出しながら、

「ヒナタちゃんが迷惑なら、ピカチュウに会うまでずっとこのボールに閉じ込めておけば良い。
 しかし、こやつの霊力は相当なものじゃ。
 ポケモンバトルでは頼れる戦力となるじゃろう」
「ちょっと待ってください。このゲンガーをピカチュウに会わせるために連れて行くのは全然構わないんですけど、
 ポケモンバトルに出しても、戦ってくれるとは思えません。
 間接的に、かもしれないけど……あたしのこと、恨んでいるんでしょう?」

横目でゲンガーを見遣る。
あたしのことを見つめていたらしいゲンガーは、ふい、と視線を反らした。ほら、やっぱり。

「フェ、フェ、フェ。
 このゲンガーは核たる霊体の性格をそっくりそのまま引き継いでいてねぇ、感情表現が特に苦手なのさ。
 ヒナタちゃんの、ピッピを愛しみ守ろうとする姿を見て、
 とっくに怨むべき対象でないと理解しておる癖に、素直になれないんじゃよ」
「そうなの、ゲンガー?」
「う、うー」

うーうー言ってもわかんないわよ。

「うー……」
「まあまあ、すぐには打ち解けられんじゃろうが、時間と共に寄り添える仲間となるじゃろうて」

本当にそうなれるのかしら、と訝しむあたしを余所に、キクコお婆さんはボールをゲンガーの額に当てて、

「この子が今日からお前のマスターじゃ。
 お前が従順にしておれば、過去の未練を絶つ機会を与えてもらえるじゃろう。
 ただ、もし怨恨に駆られて主を傷つけるようであれば、私が直々にお前を始末しようぞ。
 その場合、お前の行く末は現世と幽世の狭間が快く思えるほどの"煉獄"じゃ」

お婆さんの嗄れ声は凄味十分で、
あたしはゲンガーと一緒に震え上がった。ゲンガーはおずおずと首肯して、

「……うー」
「良い子だ」

閃光。厚みのある影がみるみるうちに吸い込まれ、
やがて埃塗れの床の上に、月光を浴びて白光りするハイパーボールだけが残る。
それを眺めていると、
あたしはぼんやりと、意識が薄らいでいくのを感じた。

「さて、そろそろ仕舞いにしようかねぇ。
 暁光が差すまでに全てを"在る"がままに戻さねばならん」

キクコ、お婆さん?

「これで最後になる。……どうか、ポケモンを愛しむ心を忘れないでおくれ。
 あの坊やを戒心させられる存在があるとすれば、それはヒナタちゃん、唯一人なんだからねぇ」

あたしたちを中心に、月明かりが拡がっていく。
暗闇を払い。
墓石を白く染めて。
眩しいほどの月光が、しかし抗えないほど心地よい眠気を誘う。
やがてあたしは、最後にピッピを強く抱きしめて目を閉じた。

「ヒッ、ヒヒ、ヒヒヒヒ、ヒナタ、そ、そそそ、それ――」

耳障りな声。
明らかに眠り足りていない体を起こして、辺りを見渡すと、
部屋の片隅でヒトデマンと手を取り合ってガタガタ震えるカエデがいて、
あたしは思わずクスリ、と笑ってしまった。

「朝っぱらからどうしたのよ。二人一緒に怖い夢でも視たの?」
「悪夢! そう、まさに悪夢だわ!
 やっぱりこの街は呪われていたのよ。
 まさか二日三日滞在するだけで、ヒナタが憑かれるだなんてっ!」

尋常ならざるカエデの言動に、あたしは溜息を吐きながら、

「憑かれる? あたしが何に憑かれてるっていうの?」
「あんたもしかして気づいてないの!?
 後ろにいるじゃない、ほら、シャドーポケモンのゲンガーが――」
「うー」

二ヤァ、と薄気味悪い笑みを浮かべながら、
それに全然似合わない間抜けな鳴き声を響かせる、手足と耳を持った影の塊を見て。
あたしは全てを思い出した。

「お婆さんはどこ!?
 どうやってあたし、ここまで帰ってこれたの?」

カエデは重篤の精神病患者を見たような哀れみの表情を浮かべて、
パニックを起こしたみたいにコアを点滅させているヒトデマンにそっと手を添えた。

「非常に残念だけど……、あなたのマスター、完全に憑依されたみたい」

「憑依されてなんかないわよ。失礼ね」
「じゃあそのゲンガーは何なの? どっからこの部屋に入ってきたの?
 ねぇ、説明しなさいよヒナタ!」

荒い語調とは裏腹に、カエデは顔面蒼白だった。
朝起きて、ゲンガーを見つけた時の恐怖が、よっぽどのものであったことを伺わせる。
――この子、ほんとに幽霊がダメなのね。

「話せば長くなるし、信じてもらえるかもわかんないけど、それでもいい?」
「論理的でも現実的でもなくていいから、早くしてよ!」

あたしは全然怖くないけど、ヒトデマンがこんなに怖がってるでしょ、と叫ぶカエデに苦笑しつつ。

「実はね、昨日、初めてポケモンタワーに行った時――」

あたしは自分でも夢としか思えない、現実味の乏しい体験談を語った。


―――――――
―――――
―――

「……妄想甚だしいわ」

予想通りの反応だった。
初めにあたしの話を一蹴したカエデは、

「いい? あたしの浅学をちょびっと披露させていただくとね、」

とご丁寧に前置きを置いて、

「あんたが出会ったそのキクコお婆さんとやらは、
 強力なゴーストポケモンの使い手であるということと、かなりの高齢だという特徴から見ても、
 かつての四天王の一角、キクコと酷似しているの。
 でも、実際に彼女がここにいるということは有り得ないのよ。
 彼女は今現在、行方不明だったはずよ。
 一時は死亡説も流れていたけれど……
 とにかく、毎日のようにお参りの人が訪れる、人目の多いポケモンタワーにいるとは思えないわ」
「……それだけ?」
「まあ他にも色々疑わしい部分があるけど、それだけでも十分でしょ。
 はい、この事件はヒナタの妄想ということで一件落着ね。
 そのゲンガーもどっかから紛れこんで来たということで――」

あたしはシーツを剥いで、カエデを現実逃避から醒めさせる一匹のポケモンと一つのアイテムを取り出した。

「じゃあ、これを見てもカエデは、あたしの話が妄想だって言うの?」

目をぐしぐしと擦っていたピッピが、
ゲンガーを見つけた瞬間、キャッキャッと騒ぎながらゲンガーに飛びかかっていく。

「嘘……怖がりのピッピが……」
「慣れちゃったんだと思うわ。
 言ったでしょ、昨夜はピッピが大活躍してくれたって。
 あと、これも証拠になるでしょ?」
「こ、ここ、これ、もしかしてハイパーボール?」
「ええ。このゲンガーのために、キクコお婆さんがくれたの」

あたしの手からボールを奪い取って、まじまじと見つめるカエデ。
蒼白だった顔色が血色を取り戻し、緊張が消える。カエデははふぅ、と息を吐いて、

「それじゃあ、本当の本当に、本当だったんだ……」

何遍「本当」って言えば気が済むのよ。

「いいなぁ……そのゲンガー、少なめに見積もってもレベル60はカタイでしょ?
 しかもボールは超高級のハイパーボール……元四天王のキクコとも会えて……
 どうしてヒナタにばっか強いポケモンが寄ってくるの? どうしてヒナタってそんなに運がいいの?
 あー、なんか腹立ってきたわ」

あたしは呻き始めたカエデから、
背後のピッピとゲンガーに視線を移した。

「う……、うー、うー」

キクコお婆さんの言うとおり、このゲンガーは、あたしやピッピに対する敵対心を失ったようだった。
ゲンガーは体の実体化と幽体化を切り替えることができるらしく、
飛びつくピッピがすり抜けて怪我をしないように、
その太めのお腹で受け止めてあげていた。
昨晩、散々な目に遭わされた記憶は、多分しばらく消えないだろうけど――。
ちょっぴり、このゲンガーのことが好きになれた気がする。
と、その時、カエデが急に険しい顔になって、

「ちょっとヒナタ。あたしさっきから、そのゲンガーの視線が気になってたのよね」

あたしの元に詰め寄り、
ズレていたワンピースの肩紐の位置を、丁寧に修正してくれた。
そしてゲンガーを頭の天辺から短い足のつま先まで眺め回し、

「このゲンガー、雄だわ。
 服の乱れたヒナタを見る目が、いやらしくて仕方がなかったもの」
「うっ……、うー!」

ぶんぶんと手を振るゲンガー。
弁解の鳴き声とは裏腹に、表情は二ヤァ、と厭らしい笑みを浮かべたままで、
あたしはヒトデマンに判定を委ねることにする。

赤い光が五回点滅。レッドアラート、ね。

「うー! うー、うー、うー!」
「うーうーうるさい。戻って、ゲンガー」

閃光。同じ雄でも、ピカチュウとは天地の差があるわね。
あたしはゲンガーに軽い幻滅を憶えつつ、ハイパーボールをガラステーブルの上に置いた。

舐め回すようないやらしい目つきと、
常に仰向けの三日月みたいな薄気味悪い笑みが、一般的なゲンガーの特徴で、
「うーうー」という鳴き声が、このゲンガー特有のものであると知るのは、まだ当分、先の話。



第十章 終わり