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マサキが研究室に姿を見せる回数は、一日に二度あれば多い方で、
専らメールチェックと書類審査をしては、ほんの少し僕と雑談して、またどこかに行ってしまう。
となればもう、この部屋は僕専用の軟禁室と行っても差し支えなく、
僕は与えられた莫大な自由時間を、部屋の中にある彼の私物を使って潰していた。

まずは、本。
書架には大量の専門書が並んでいて、僕はそれらの内容から、
彼の現在の研究課題を推測しようとした。
結果から言えば、それは全くの無駄に終わった。
量子力学、情報工学、電気工学、脳生理学、遺伝子工学――。
ポケモン転送装置の開発に携わるまで電気・電子設計エンジニアとして働いていた名残か、
特に電気・電子工学の専門書が多かった。彼はこと学問にかけては多才の一言に尽きる。
ここにある蔵書全てが、彼の"趣味"の範疇だと言ってしまっても過言ではない。

次に目をつけたのは、彼のパソコンだった。
このパソコンで重要な情報管理を行っておらず、
メールの遣り取りをしているだけだとしても、この組織に関する情報を少しでも手に入れたかった。
だがこれも無意味な試みに終わった。
ヒナタがマサラタウンにいた頃、最新型のパソコンを使っていたのを見ていたので、
起動することは容易だったが、そこから先は何から何まで違っていた。
結果、僕は電源を引っこ抜き、パソコンを強制終了した。
あんなOS、見たことも聞いたこともない。でも、気を落としちゃダメだ。
どうせパスワードがかかっていて、マサキ以外は使えないようになっていたに違いない。
だから僕がマサキのパソコンを使えないことは、必然だったのだ。

後日、僕は悪戯をしたとしてマサキからこっぴどく叱られた。

『データ消えたらどないすんねん!』

と言ってキーボードを叩きまくっていたマサキの蒼白な顔は、あと数年、僕の頭に瑞々しく記憶されているだろう。

その日、僕は書架の上のスペースで目覚めた。
僕は頭を振って眠気を払い、つい数十分前、或いは数時間前のことを反芻する。

出来ることは何でもしておきたい。そう思って、書架の本を一つ一つ取り出し、
痛み具合や注釈をつけているか否かを虱潰しに調べようと決心したところまでは良かったものの、
その莫大な作業量と、専門書一冊あたりのあまりの重さに心が折れ、
休憩休憩、と横になったら、うとうとして――そこまで思い出して、僕は隣に広げられた専門書に目を向けた。

遺伝子工学の専門書だった。

ふいに僕の脳裏に、かつて出会った幻のポケモンミュウと、
そのクローンとして創られた、ミュウツーの記憶が色鮮やかに映し出される。
彼らは今、何処で何をしているんだろう。
自由気儘に、この世界を旅し続けているのだろうか。
それとも、どこか安息の地を見つけて、無限とも言える余生を送っているのだろうか。

「ピカチュウ、帰ったでー。
 元気にしとったか? またワイのパソコン強制終了して遊んどらんやろな?
 あれ、ピカチュウ……。どこにおるんや?」
「ピカー」

ここだよ。

「うわっ、そんなとこにおったんか!」

僕はマサキの頭の上に飛び降り、その乱れた髪をクッション代わりにして、床に降り立った。

マサキが「ワイの自慢の髪が」とかなんとかブツブツ言いながらデスクに着き、
僕がガラスケースの中に収まって、マサキをガラス越しに眺めれば、いつもの雑談風景の完成だ。
マサキがこの研究室に戻ってきた時、僕は必ずこうして、マサキとの対話の時間を持つようにしていていた。
この閉鎖空間において、組織の情報は彼の介在なくして入手できないからだ。

「なぁピカチュウ、君は自分の出生について、どう思とる?」

突拍子無い水向けに、僕はわざと気怠げに耳を傾けて、

「ピカ?」

僕がどのようにして生を受けたか、だって?

「ちゃうちゃう。君という個体ではなく、ポケモンという枠組みで君らを捉えたとき、
 その存在がどっから始まったのか、君は興味があるか、っていう話や」
「……チュウ、チュウ」

僕は両耳を前倒しにして、目を覆った。
さあね。カエデ――僕の親しい知人だ――がそのようなことに興味を抱いていた気もするが、
ポケモン考古学会は未だポケモン創世の核心部に関して有力な発表をしていないんだろう?

「これまた齟齬が発生しとるな。
 ワイが求めとるのは、そういった世俗的認知度の高い一般論やなくて、
 ポケモンの観点から見た、ポケモンという特殊な生物の始まりについての意見なんや」

やれやれ。難しい注文をするな、君も。

自らの種の起源に関心を抱くこと。
それは、高次な知能を持つ生物にのみ許されたことだ。
その点、僕はその条件を満たしているという自負があるが、
悔しくも君たち人間ほど科学的史実的考察が可能なわけでもない。

「ピカ、ピカピカチュ」

よって、君が満足できるような意見をすることはできないし、
仮に正鵠を射た意見を持ち得ていたとしても、
複雑すぎて、言語の壁を越えた情報伝達に限界が生じるだろう。
すまないな、期待に添えなくて。

「君が謝ることはないんや。
 ……ワイも人が悪いなあ。口は災いの元っちゅうけど、この口は進んで災いを呼び寄せようとしよる」

マサキが唇をつまんで尖らせる。懲らしめているつもり、なのだろうか。
その様はなんだか滑稽で、僕は声を殺して笑った。
彼はそれから黙り込み、一服し、パソコンに没頭し、一区切りついたのか、窓際で一本煙草を吸った。

「――分かっとんのや」

彼の言葉が、1時間前の会話の続きであるということを理解するのに、僕は十秒ほど要した。

「ピカ?」

分かってるって、何が?
マサキは僕の質問には答えず、

「なあピカチュウ。もしも遙か昔に、ポケモンが存在せえへん、
 人間が地球上を支配しとった時代があった、って言ったら信じるか?」

まさか。
有り得ない。

否定的な言葉が次々に口から溢れそうになったが、
彼の真剣な眼差しを見た途端、喉の奥に戻っていった。
ただ、僕の"常識"を根幹とした考えは、
彼の言葉を完全に否定していた。
彼の仮定を否定するに足りる要素を、僕はいくらでも持っていたから。

ポケモンと人間の歴史は、常に交わり、重なり合いながら刻まれてきた。
その永きに渡る関係は、共生と言ってしまっても過言ではない。
互いに明確な生活空間を持ち、境界線を引きながらもそれは曖昧なもので、
人はポケモンを、ポケモンは人を強く意識しながら、深い結びつきを持って生きてきたのだ。
相互扶助、と言うと偏った表現かもしれないけどね。

「その反応を見ると、信じられへんようやな」

細く吐き出された煙が、窓から外の宵闇に吸い込まれていく。
マサキは煙草の灰を落とし、もう一度肺を煙りで満たしてから言った。

「ピカチュウは久しぶりにマサラタウンの外出て、思わんかったか。
 限られた資源で限られた開発を重ねて、
 遅々と近代化していく辺境の地や、巨大化していく都市――。
 数百年前までは、ポケモンなしの生活なんか想像できひんかったのに、
 今はポケモンがおらんくても、何一つ不自由のない生活が送れるようになったんや」

「ピカ……」

僕は論点のズレを感じた。
ポケモンの存在理由は、人間にとっての利便性によって決定されるわけではない。
なのにマサキは、それを軸にして話を進めようとしている。

「――そうすると、ポケモンが存在していなかった時代、
 つまり未だ計り知れん資源が眠っていると考えられとるポケモンの棲息地を人間が自由に開拓できた時代には、
 この時代の資源とは比べものにならんほど有用な資源があって、
 それに伴って優れた科学技術が生み出され、
 人間の生活を豊かにしていったと考えられへんか。
 人間のエゴイズムだけで完結していた時代――。
 恩恵と享受の輪は選ばれた人間を真ん中にして閉じられ、
 その外側で他の動植物、或いは選ばれなかった人間が犠牲になる。
 要するに古代の人間はな、文明が栄えるための代償に、外界の破壊を選んだんや」

陶然とした表情。
まるで、夢語りを聞いているかのようだ。
そう思ってしまうほどに、マサキの話は荒唐無稽だった。

「でも、そんな都合の良い時代が未来永劫続くはずがない。
 始まりあるものには終わりがある。今、ワイらがその時代に生きてへんことが証明や。
 慢心が倫理観を蝕み、無関心が世界観を忘れさせて――"大破壊"は起きた。
 やばいと思た時には、もう何もかもが手遅れやった。
 栄華を極めた文明は崩れ去って、地上は楽園から地獄に様変わりした。
 ま、当然の報いやな。今まで我儘通してきた分、
 そのツケが滅茶苦茶デカなって返ってきた、それだけの話なんや」

既に僕は、彼の話を理解することを諦めきっていた。
彼も僕に語って聞かせているというよりは、半ば自己満足のために独りごちている、というような状態だ。
だから、結びの句も適当だった。

「ポケモンが生まれたのは、ちょうどその辺りやな」

マサキはふらり、とデスクに戻ると、再びキーボードを叩き初めた。
カタカタカタカタ――。キータッチの音が、数分続いて、止まる。
その間、僕は彼の要領を得ない話の要約に勤しんでいた。

かつてポケモンが一匹もおらず、人が地球を支配していた時代があった。
人間は環境を犠牲にして、高度な文明を築き上げた。
だがそれは永く続かず、"大破壊"によって無に帰した。
ポケモンが生まれたのは、その辺りである。

「ピカー……」

全く持って不可解だ。
成長期の子供に聞かせるお伽噺の方がまだ信憑性があるし、夢もある。
ポケモンが存在しなかった時代とは、いつのことなのか?
大破壊とは一体なんだ?
ポケモンが生まれるまでの過程についての具体的説明は?
突き詰めたい疑問がいくつもあったが、僕は結局、
研究室の端に備え付けられた簡易パイプベッドからタオルケットを引っ張って、マサキの背中に被せることにした。
よほど眠たかったのだろう。
マサキはキーボードに覆い被さるようにして、眠っていた。

「ピカ、ピカー」

君も若くないんだ。こんな仮初めの睡眠を繰り返していては、いつか過労で倒れるぞ。

と、その時僕の好奇心が、パソコンに目を向けた。
一瞬の躊躇いの後、デスクによじ登り、マサキの頭を揺らさないよう、ディスプレイに身を寄せる。
彼はついさっきまで、メールの返信をしていたようだった。
宛先は僕の知らない名前で、件名は空白。
本文は僕にはさっぱり理解できない専門用語と数字で溢れかえっていて、
目を通していると頭が理解を拒否し、痛くなってくる。
この書きかけのメールから収穫はなさそうだな。
そう思って目を離そうとした、その時、僕はある話題転換から始まる単語に惹かれた。

"ところでM3計画の話やけど、無事に2ndステージ入ってんてな。システム上層も大喜びやろ"

M3計画? システム?
僕を捕えている組織に関する新たな情報に、自然と、心拍が早くなる。
だが、そんな僕を待っていたのは、虚しく点滅するマウスカーソルだった。

「チュウ……」

マサキ。理不尽かもしれないが、中途半端なところで寝てしまった君を僕は恨む。
まさかこれからマサキを揺り起こして続きを書けと強制できるはずもなく、
またここで勝手にマウスを操作してパソコンの情報を漁るほど僕は愚かではない。
ガラスケースに戻り、横になる。
マサキが煙草を吸った所為で、研究室内の空気は淀んでいるように見えた。
灰皿から立ち上る細い細い煙を眺めていると、睡魔が瞼に重りをぶら下げ始める。
重りが一つ、二つ。

――次に目覚めた時、マサキはこの部屋にいないだろう。

重りが三つ、四つ。

――結局、今日も有益な情報を得られなかったな。

重りが五つ、六つ。

――大破壊、M3計画、システム。新出単語に素直に喜ぶことが出来ないのは、
マサキも、マサキのメールも、それらの具体的な説明をことごとく欠いているからだ。

「ピカ、チュ……」

まったく、これじゃあ皮相的な判断もできやしない。。
僕は悪態を吐こうとした。が、それよりも早く瞼が下りてしまって、言葉にならなかった。

その夜、不思議な夢を視た。

赤茶けた荒涼の大地に、たった独りで佇んでいる。
遠巻きにたくさんの人間が僕を環視していて、驚きと喜びと不安の入り交じった表情を浮かべている。
僕は帰りたかった。

どこに帰るんだ?――帰るべき場所はどこにもない。

僕はヒリヒリする頬に手を当てた。

どうして頬が電気を帯びているんだ?――そんな問題は些末なことだ。

僕は駆け出す。駆けながら、僕はここが夢の中だと自覚していた。
こんなわけのわからない夢を視ている原因は、きっと、マサキの与太話にあると思う。

―――――――――
――――――
――――

「……ん………」

目が醒めた。辺りは瞼を開けていても閉じていても変わらないほどの暗闇で、
蛍光塗料の塗られた時計の針を見ると、まだ夜が明けるまでに、だいぶ時間があることが分かる。
あたしはほんの少しだけ迷って、ベッドから抜け出した。
理由は……何故だろう、自分の行動なのに説明できない。
おかしな話。
頭の片隅で、これから訪れるべき場所が、切れかけた街灯みたいに明滅していて、
無視してしまっても全然いいはずなのに、何故だか意識してしまう。
壁に手をついて部屋を進み、、ドアに手を掛ける。
その頃には、目は暗闇に慣れていた。

振り返ると、すやすやと寝息を立てているカエデと、
あたしがついさっきまで潜り込んでいたベッドの、乱れた毛布の隙間から、ヒトデマンのコアが見えた。
ピッピも一緒に眠っていたはずだけど――まあ、あの毛布の奥に縮こまっているに違いない。

部屋の外に出て、後ろ手でそっとドアを閉める。
足取りは軽く。
ふわふわした雲の上を歩いているみたい。
非常口からポケモンセンターの外に出ると、浮遊感がさらに増した。
どんよりと曇った夜空から、目に見えない幾本もの糸が下りていて、
あたしの体を操っているような、自分が自分の制御を誰かに委ねてしまったような、そんな感覚がした。

馬鹿みたい?寝惚けている?
確かにこの感覚は、錯覚じみているかもしれないわ。
でも、これ以外に、今のあたしを表現する言葉はないの。

シオンタウンの夜は、ただひたすらに静かだった。
街の明かりはあらかた消えていて、路沿いに設置された街灯も、
控えめな白色で、自らの存在を示しているだけだった。

風は生暖かくて、体を動かす度にじっとりとした汗が滲んだ。
気持ち悪い、と思った。
それでもあたしは歩みをやめなかった。
いや、それは違う。やめることが出来なかった。

目的地に近付けば近付くほど、あたしを操る糸の動きは、せっかちになっていくようだった。
不思議と、怖さは感じなかった。
自分の体が、頭の命令を無視して、勝手に動く。
こうやって客観的に考えてみると、凄く怖い。
でも、自分が今まさにそれを経験していると考えてみても、ちっとも怖いと思えない。

どうしてあたしは今の状況を受け入れているのかしら?
本当は今すぐポケモンセンターに駆け戻りたいはずなのにね。
嘘よ。この暗闇はとても居心地がいい。快い。
今向かっている場所には、あたしを必要としている者がいる。
あたしは行かなければならない。
義務はないのに? 誰がそれを強制したの?
何言ってるのよ、眠っている時に声が聞こえたでしょ?

―――"来い"、って。

ふと気がつけば、あたしはポケモンタワーの正面に立っていた。
仰ぐ。霧のような暗闇に覆われて、塔の天辺は見えなかった。
その所為で、シオンタウンの外から眺めた時より、昼間に訪れた時より、ずっとずっと大きく感じた。


戸外は暑いわ。涼しい屋内に入りましょう。
そんな声に誘われて、あたしはポケモンタワーの扉を押し開いた。
鍵は掛かっていなかったし、警備の人もいなかった。
中は本当に涼しかった。この古い建物に空調があるはずもなく、
あたしは再び勝手に歩き出した足に戸惑いながら、さっき聞こえた言葉の矛盾に、首を傾げる。

この時間帯、つまり夜に、
空調の効いていない屋内の方が涼しいわけがないわ。
太陽どころか月も出ていない夜空の下、
たとえ温くても、風が吹いている屋外の方が暑くないに決まってる。
なのに、どうしてあたしは今、鳥肌を立てているんだろう。

蔀窓に近付いた時に、
あたしは一瞬、あたしを操る力に抗って、足許に視線を落とした。
影が見えた。
でも、普通、こんなに暗い場所で、自分の影の形が分かるものなのだろうか。
あたしの影よりも周りの暗闇が薄いから?
それとも、周りの暗闇よりも、あたしの影が濃いから……?

やがて、再び影が動き始める。あたしも再び歩み出す。
勿論、そこに後先はない。
あたしが動くから影が動く。影が動くからあたしが動く。
当たり前のこと。そう、当たり前のことよ。

コツ、コツ、と一定のリズムを刻んで、あたしは最上層に辿り着いた。
いくつかお墓が並んでいたはずだけれど、辺りに広がった暗闇は、あたしの夜目でも見通せなかった。
唯一の採光源である、天窓を見上げる。
もしも晴れていたら、月明かりが差し込んでいたかもしれない。

最上層の中心部に足が向かい、止まる。
そこでもう一度天窓を見上げると、昼間、ここにやって来た時のことを思い出した。

ちょうどこの場所に出来ていた日溜まりに、影が差したように見えて。
天窓に影を作るようなものがないか、確かめようとして、どこにもそんなものはなくて。
でも、目の違和感が拭えなくて、日溜まりに視線を降ろすと、車椅子に乗った不思議なお婆さんがいて――。

「えっ?」

ぷつん、と糸が切れたみたいに、追憶が途切れた。
同時に、体を操っていた糸も途切れた。
カチカチカチカチ。
硬いものが小刻みにぶつかりあう音。
あたしは頬に手を当てて、やっとそれが自分の歯が鳴らした音だと気づく。











現実が、押し寄せてくる。
都合良く誤魔化されていない、ありのままの現実が。

暗い。空気が不自然に冷たい。
鳥肌が立っている。体が震えている。
寒い。怖い。
何も見えないのが怖い。
静かなのが怖い。
今すぐここから逃げ出したい。

あたしは足を動かそうとした。ぴくりとも動かなかった。
誰かに操られているわけでもなく、
あたしの足は、恐怖のあまりに強張ってしまっていたのだ。

「動いて……動いてよ……!!」

知らず知らずに出していた声に、反応したのは、あたしの影だった。
今度ははっきりと分かる。
あたしの髪と、ワンピースの形に膨らんでいた影が、
縮んで、伸びてを繰り返し、やがてぷちんと真ん中で切れた。
それは傍目に見ればきっと面白い光景なんだろうけど、
あたしはちっとも笑えずに、ただ呆然とそれを見ていることしか出来なかった。

半分こになった影のうち、あたしの足から伸びている側が、
暗闇に溶けて判別がつかなくなる。
そしてあたしの影からちぎれるようにして離れた影は、
するすると床を這って、少し離れたところで、まるで風に吹かれたみたいに持ち上がった。

あたしは、まだ夢を視ているのかしら。そうあって欲しい、と思う。

小さい頃、あたしが悪戯した時に、ママに聞かされた話がある。

『悪い子のところには、ゴーストポケモンが寄ってきやすいのよ。
 ゴースやゴーストくらいなら、なんとかママがヒナタのことを守ってあげられるわ。
 でもね。ゲンガーがやって来たら、流石のママも、負けちゃうかもしれないわ』

物心ついた今となっては、そんなのただの作り話だと分かるけれど、
当時のあたしは大いに怖がって、

『ママがゲンガーに負けたら、どうなっちゃうの?』
『眠らされて、夢を食べられたり、
 幽霊の世界に連れて行かれちゃったりするかもしれないわねー』
『ひくっ……そんなの、えぐっ……・やだ……あたし、いい子にするから……
 もうママのこと、……うっ……困らせたり……、しない、から……』
『ちょっと、ヒナタ、泣いてるの?
 ごめんごめん、だいじょうぶよ、ヒナタがいい子なのは、ママがよーく知ってるから。
 ね? よしよし、だいじょうぶ』

それからしばらく、あたしは暗闇を見る度に、
写真でしか見たことのないゲンガーの姿を思い描いては勝手に怖がっていた。
妄想は所詮、ただの妄想で、結局、あたしのところにゴーストポケモンが現れることはなかった。
あたしは時間とともに、ママの話を忘れていった。
暗闇にゲンガーがいるかもしれない恐怖を、感じなくなっていった。
それなのに――今日からまた、過去のトラウマが蘇ってしまうかもしれない。

ぺらぺらだった影が、立体的に厚みを増していく。
まるで、周囲の闇を吸収しているみたいに。
影が形を成していく。縦に広がり、横に広がり、尖り、丸みを帯び、
最終的にそれは幼少のあたしの恐怖の偶像であったポケモンの形に落ち着いた。
シャドーポケモン、ゲンガー。

二つの紅く滲んだ光が、暗闇に浮かぶ。

「ひっ」

張り詰めていた肺が空気を吐き出すと、体の震えが増した。
二つの光が――ゲンガーの眼光が、黒く、光った気がした。
吸い込まれそうな感覚が通り過ぎ、もうその次の瞬間には、体の自由が奪われていた。
これでは逃げ出すどころか、指一本動かせない。
自由がきくのは、首から上だけ。あたしは声を絞り出すようにして訊いた。

「あなたは、一体、何なの……?
 どうしてあたしを、ここに連れてきたの・・…?」

確かな輪郭を持った影の中心が、仰向けにした三日月みたいな形に歪む。
獲物が手に入って、喜んでいる――そんな風には見えない笑い方だった。
嘲笑う、といった表現の方が正しい。でも、それならそれで、余計に意味が分からなかった。
あなたは、あたしのことを憎んでいるの?
ゴーストポケモンがあのお婆さんの言うとおり、
死んだポケモンの負の感情の集合体だとしても、
あたしは今まで、ポケモンに恨まれるようなことはした憶えはないわ。
どうしてこんなところに連れてこられて、
ずっと後になっても夢に出てきそうなほど、怖い思いをしなくちゃならないの?

あたしは震える体とは裏腹に揺れない視線で、
ゲンガーの影の一部――片腕――が、こっちに向けられるのを見た。
眠らされて、それから夢を食べられるのかな。
それとも、魂を抜かれて、幽霊にさせられるのかな。子供の頃よくした幼稚な想像が、頭の中を駆け巡る。

そして、ゲンガーの腕が、完全にあたしに向けられた時、

「ぴぃっ!」

甲高い鳴き声が、場の静寂を破った。
あたしの足許を通り過ぎ、ピンク色のボールが、ゲンガーに向かって、転がるように突進する。
それを見たとき、あたしは途端に、自分のことなどどうでもよくなった。

「ピッピっ!!」

きっとあの子は、あたしがベッドから抜け出したのに気づいて、
おっかなびっくり、後を着けてきたに違いない。
そして今にも襲われそうなあたしを見て、飛び出してきてくれたんだ。
でも――、

「やめてっ、あなたが勝てる相手じゃない!」

ゲンガークラスのポケモンに対して、幼いピッピはあまりに弱すぎる。
ゲンガーは避けようともしなかった。
あの子が全力で繰り出した"たいあたり"は虚しく影を通り過ぎて、墓石にぶつかっただけ。

「ぴぃ……」

弱々しい鳴き声が響く。
ゲンガーがあたしを嘲笑ってから、腕をピッピに向けた。
あの子を助けなきゃ。
そう思って全身に力を籠めても、まるで金縛りにあったかのように、微動だにしない。
ワンピースの裾が、小さく、揺れただけ。

「どうして自分の体なのに、言うことをきいてくれないのよっ! 何かで縛られているわけでもないのに!」

わざと大きな声を出してみても、ゲンガーはピッピに注意を向けたままだ。
となれば、あたしに出来ることは、二つしかない。
ピッピに、逃げろと指示するか、或いは、ゲンガーと戦うように指示するか。

前者は、ピッピは多分拒むだろうけど、それがあの子にとって一番の安全策だ。
後者は、上手くいけばあたしもピッピも助かるけど、リスクが大きすぎる。

ゲンガーは、ゴースが進化を重ねた最終形態。
幼いピッピが勝てる確率は、万に一つもない。
いいようにあしらわれ、痛めつけられて、再起不能にさせられるに決まってる。
それはあの子にとって、一番避けなければならないこと。


キクコお婆さんの言葉が、頭の中で蘇る。
勝機のない戦いに挑ませ、傷つけることは、ピッピを、ポケモンを、道具として扱っていることにならないだろうか。
アヤメ叔母さんは、ポケモンにとって傷は勲章だと言っていたけれど、
それはあまりにも人間本意な考え方なのではないだろうか。
ピッピだって、痛い思いはしたくないはずだ。
あたしを守りたいと思ってくれている一方で、目先のゲンガーから、一目散に逃げ出したいと考えているはず。

自問する。

あたしに、勝ち目のないピッピに戦いを強制させる権利があるだろうか?

自答する。

そんな権利なんか、ない。
ポケモンは、人間に及ばずとも、高度な知能を持った生き物。
人間が、あたしが、助かりたいと願ったからといって、ポケモンを犠牲にすることは、許されない。
あたし自身が、それを許さない。

「逃げて! あたしのことは、放っておいてもいいから、今すぐポケモンタワーから出て!」

にじり寄るゲンガー。
動かないピッピ。あたしは初め、ピッピがあたしと同じ技を受けて、身動きがとれないのかと思った。
でも、それはあたしの錯覚だった。
よくよく見てみれば、ピッピの体は遠目に見ても震えていて、
短い足は今にも階段に向ってかけ出しそうなのに、あの子は背を墓石に押しつけるようにいて、ゲンガーと対峙していた。
あの子は、あたしの指示を無視した上で、自らの意志で、ゲンガーに立ち向かおうとしているんだ――。
それが分かった瞬間、あたしは今までになく、あの子に対する愛情を感じた。

「あたし、デキの悪いトレーナーよね。
 あなたに仲間になってもらったのは、あなたの両親を助け出すのが最低条件だったのに、
 ちっとも手掛かりが掴めないまま、あなたに戦闘ばかり強要して、あなたが失敗する度に、責めて」

ゲンガーが体の形を自在に変える。
余興を楽しむかのように笑いながら、ピッピの前に立ちはだかる。
けれど、ピッピはもう、震えていなかった。ボールのように丸めていた体を広げて、横目であたしと視線を交わす。

「でも、こんな状況になっても、あたしはあなたに戦って欲しいの。
 あなたに賭けてるの。失敗してもいいわ。どんな攻撃が出てもいいから――」
「……ぴぃ?」
「お願い、ピッピ。……"指を振る"攻撃!」

「ぴぃ!」

ピッピがゲンガーに腕を突き付けて、指を振る。
あたしは祈るような気持ちでそれを見守った。
あの子の"指を振る"はいつだって役に立たない技を発動させてばかりだった。
ポケモン図鑑の解説を信じるなら、"指を振る"で発動される技は完全なランダム。
だけど、あたしが本当にピンチになったとき、あの子は"光の壁"で護ってくれた。
あれはただの偶然だったのだろうか?
それとも、あの子が"光の壁"が発動されることを望んだから?
答えは出ない。
でも、ピッピに賭けるには、それで十分よ。

そして、ピッピが指を振り始めてから、30秒が経ち……

「……………ぴぃ?」
「ぴぃ?、じゃなくて。ピッピ、ちゃんと指振った?
 やり方、間違えたりしてない?」
「ぴぃ……」

自分の指を見て、首を傾げ、困惑顔であたしとゲンガーを交互に眺めるピッピ。
あたしは膝を抱えて泣きたくなった。
不発? こんな時に? 嘘でしょ?

「……ツイてないにも程があるわよ」

ゲンガーの体を形作る影が、一際大きくうねり、変形する。
もしもゲンガーが人間だったら、
あたしとピッピの未熟さに、笑い転げているところかもしれない。

――万事休す、ね。
あたしは項垂れて、目を閉じた。
出来れば耳も塞いでしまいたかったけれど、腕が動かなかったので諦めた。
あの子が痛めつけられている光景を、直視することなんて出来ない。
あの子が上げる悲鳴を聞くことなんて、とてもじゃないけど耐えられない。

「ピッピ、今からでもいいから、逃げるのよ!!
 ゲンガー、その子は関係ないでしょ!?
 あたし、何でもあなたの言うとおりにするから!
 お願いだから、その子を傷つけないで!」

こうやって、喉が痛いほどに喚き散らしたところで、
ピッピは逃げ出したりしないだろうし、ゲンガーはあたしに狙いを変えたりしないだろう。
それでも一縷の望みをかけて、あたしは薄く目を開けた。
目の前には、最悪の想像が実現する、一歩手前の情景が広がっていた。

時間が、ゆっくりと流れていく。
濃度の高い影が。
ゲンガーの腕が。
音もなく持ち上がり。
ピッピの額に翳されて。
あの子は無防備にその黒い手の平を見つめ。

「ピッピ――――!!」

あたしがあの子の名前を呼んで。
あの子はそれに答えるように、
あたしをつぶらな涙目で見つめて。

瞬間、辺りが青白い光で満ちた。

天窓から差し込む光の正体は、果たして、
開ききった瞳孔を痛めるほどに明るい月光だった。
あたしは思わず、ゲンガーとピッピから視線を外して、
天窓を透かして煌々と輝く月を見上げる。

「綺麗な月……。今まで、どこに隠れていたのかしら」

ここに来るまでの記憶はあいまいだけど、
確か、ポケモンタワーは、霧のような暗闇に覆われていたような気がする。
今はまだ夜で、自然にあの嫌な暗闇が晴れたとは考えにくい。
そうすると、思い当たるのは……、

「ピッピ。あなたが月を解放したの?」
「ぴぃっ」

さっきの涙目はどこへやら、
満面の笑顔で、得意げに飛び跳ねるピッピ。ああもう、可愛いなあ。
――って、和んでいる場合じゃない!

「ゲンガーはどこ!?」
「ぴぃ?」
「さっきまであなたの目の前にいたでしょ?」
「ぴぃ……」

どうして姿をく暗ましたのかは分からないけど、
ゲンガーが有利で、あたしたちが不利な状況に変わりはない。
伸びると分かっていても、ワンピースの裾を掴んでしまう。そこであたしは気がついた。

「あれ……金縛りが解けてる」

月明かりが、ゲンガーの力を弱めたのかしら?
ううん、今はそんなこと、どうでもいい。
あたしはピッピの許に駆け寄って、その小さな体を抱き竦めた。
実際には10mにも満たないほどの距離だったけど、
金縛りにあっているあいだは、永遠みたいに感じたんだから。

「こんなところまで着いてきて。
 ゲンガーにやられちゃったら、どうするつもりだったの?」
「ぴぃ」

まるで、あたしのために身を擲ったことを、
ちっとも後悔していないことを示すかのような、無垢な鳴き声。
今までよりも、もっと強くピッピを抱きしめて。
あたしは月明かりの外側に向かって言った。

「ど、どこからでも掛かってきなさい。
 あなたの目的は、最初からあたしなんでしょう?」

紅い点が二つ、視界の端を掠めては消え、掠めては消えを繰り返す。
墓石から墓石へ。
暗い影からより暗い影へ。ゲンガーは滑るようにして、暗闇を移動していた。

もうゲンガーは、油断してくれないだろう。
獲物を前に舌なめずりした結果、格下のピッピに邪魔されたのだ。
反撃の間も与えまいと、一撃で仕留めにくるに違いない。
でも、不思議とあたしの心から恐怖は消えていて、あたしはもう一度天窓から月を見上げるくらいの余裕があった。
――ピッピ、最後にこんなに綺麗な月を、ありがとう。

ふいに、紅い光の動きが、止まる。
直後、月明かりを裂くようにして、黒い影があたしの真正面から飛びかかってきた。

第十章 中 終わり