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とても懐かしい音を聞いた。
何かの物音?
誰かの声?
分からない。判然としない。

何かに、或いは誰かに、呼ばれているような感覚。

ここは何処何だろう?
僕はどうしてこんなところにいる?
ただ一つだけ分かるのは、ここは、僕がいるべき場所ではないということ。
ここを出よう、と思う。
でも、そう思ったそばから、思考が蕩けていく。
足場がない。一カ所に留まっていられない。
だから僕はたゆたう。果てしなく。何処までも。


与えられた眠りは優しくて心地よくて、
それと同じように目覚めも、まるで深海で留まっていた気泡が水面に浮上するみたいに穏やかだった。
頭を振って、まだ微睡んでいる思考を揺り起こす。

尻尾を振る。自在に動く。
手足を動かす。異常はない。
右耳と左耳を交互に動かす。支障はない。
電気袋から電流を迸らせる。まったくもってノープロブレム。

僕はうんと伸びをして、深呼吸してから、やっと辺りを見渡した。
真っ白な空間だった。汚れ一つ、瑕一つない白壁に、
これまたまともに見れば目が眩むほどの白い照明が反射していて、
なのに全体として見てみれば、優しい白色と認識できる。
突然、アナウンスが鳴った。

「第一フェーズ、始動します」

同時に、継ぎ目のないように見えた白壁の一面が、左右に割れていく。
地響きが足を伝った。
僕は逃げもせず惑いもせず、佇立してそれを待ち受けた。

4mを悠に超す巨体。
ごつごつとした皮膚は毒々しい深紫で、
尻尾から背中、後頭部にかけての突起物は、それだけで凶器だ。
体に似合わない大きくて丸い耳を持っていて、
額からは一際大きな角が生えている。
成体のニドキング。
レベルは高めに見積もって75。
ただし、ある無視できない条件が、その見積もりを無意味にしている。

強化骨格。

光を受けて銀に輝くそれは、ニドキングの体の至るところに装着されていた。
大概の岩・地面タイプの弱点である関節部、特に目は重点的にカバーされていて、
ニドキングの双眸はそれを通して、鈍い赤色に光っている。
通常、一時的にポケモンの一部能力を向上させるアイテムを除き、
恒常的にポケモンの基礎能力全般を向上させる強化骨格や薬物は、
使用はもちろんのこと、開発も禁止されている。
それを踏まえて見てみれば、このニドキングは極めてイリーガルなポケモンだと言えた。

この強化骨格は何のために装着されているんだろう?
僕を痛めつけるため? それとも、殺すため?

――咆哮。
ニドキングは、僕に余計な思考を許すほど穏健でない性格のようだった。

地響きが連続する。
元々高いステータスを強化骨格が増幅し、
パワータイプのポケモンにあるまじき速度で近づいてくる。

「チュウ……」

正直に言えばこのとき、僕はまだ完全に目が醒めていなかった。
考えなければならないことが山積していたし、
そのためにはまず時間が必要だった。
第一フェーズだかなんだか知らないが、早々に終わらせよう。

ニドキングの豪腕が、僕を抱くようにして空を割く。
扁平な足の裏が、僕を踏み潰そうと振り下ろされる。
それら全てをギリギリのところで躱しながら、
僕はニドキングを、四方の壁の一つに誘導した。

強化骨格のおかげだろう、確かに動きも速いし、
一撃一撃が、ハイレベルのポケモンを一発でダウンさせることのできる攻撃力だ。
でも、それまで。
当たらなければ意味がない。驚くには値しない。
そんなことよりも、これだけの衝撃を一身に受けながらも、罅一つ入らない床に敬意を表したいね。

壁を背に対峙する。
追い詰めたと判断したのか、ニドキングは一気に突進してきた。
彼の図体は大きい。横にも縦にも逃げ場はない。
逃げ場が見つからず途方に暮れるのは愚か者のすることだ。
逃げ場がなければ、作り出せばいいだけのこと。
相手にとって想定外の回避は、そのままこちらの好機となる。

僕は自らニドキングに肉薄した。

「ピカッ」

幸いなことに彼の体は、非常に上りやすい形になっていた。
そう、分かり易く例えるなら、公園のアスレチックみたいに。
膝に足をかけて跳躍、胴を蹴って方向転換、右腕に捕まる。
その余勢を殺さず、空中で一回転。
ニドキングの頭上に降り立ったとき、
彼は壁にぶつかるまいと、自らが作り出した慣性に抗っているところだった。

時間にして約二秒。完全に無防備な隙が生まれる。
別段、極限状態というほどでもないけれど、
こうやって勝負が決する瞬間は、いつだって世界がスローモーションになる。

再び、咆哮。
敗北を、痛みを、予感しているのか。
機械に頼っていても、第六感は衰えていないらしい。
そこだけは褒めてやれる。

僕はニドキングのアイシールドにそっと頬を寄せて、放電した。
回路が焼き切れる音。白煙の匂いが鼻をつき、
やがて、地震によって傾壊する建造物のように、ニドキングは倒れた。

こんな強化骨格に頼っているから、こうなる。
失明しているだろうか。そんな考えが浮かんだが、罪悪感は感じない。
言い訳じみているが、彼が仕掛けてきた戦いに、僕が相手をしてやっただけの話だ。
僕は彼の頭から下りて、白い空間の一角に目をやった。何の変哲もない白壁。
しかし、そこには拭いきれていない違和感があった。

――気づいていないとでも思っているのか?
舐め回すような監視の視線が、たまらなく不快だった。

僕は白壁の一つに触れて、壊せるかどうか試そうとした。
その時、またもやアナウンスが響き、

「第二フェーズ、始動」

僕の触れていた壁と、対面になる壁が割れる。
僕は電光石火を使って脱出しようとした。
が、それを見越していたのか、白壁は素早く閉鎖され、継ぎ目が消えた。
僕の目の前には、強化骨格で身を覆ったストライクが二匹、残った。

「ピカ?」

君たちが次の相手かい?
ゆらり、と両腕の鎌が脱力したように揺れて、
次の瞬間、二匹の立ち位置が入れ変わる。
――"電光石火"と"高速移動"の組み合わせか。
あそこに"かまいたち"が加わるところを、僕は目を瞑って想像する。
それはきっと、サーカスみたいに面白い連携攻撃に違いない。

――――――――
――――――
――――

第二、第三、第四と、フェーズは滞りなく進行する。
だが、フェーズの数が二桁に突入したあたりで、僕は体力的な限界を感じ始めた。
際限がない。戦闘に継ぐ戦闘。
倒した直後に新たなポケモンが現れ、
その数と強さは、フェーズの数に比例していく。

この作業的な戦闘に、意味はあるのか。
監視され、分析されていることは、直感で分かっていた。
だから僕は極力、技を使わずに戦闘を進めていった。

そして訪れた第十八フェーズ。
僕は彼らに敗北することを決めた。
この強化骨格を纏ったポケモンたちは、みな一様に全力で僕に立ち向かってくるが、
しかしそこに殺意はなく、あくまで僕を戦闘不能にしたい、というニュアンスの攻撃だった。
もし攻撃を受けても、そこからの追撃は行われずに、戦闘は中止されるはず。
そう判断し、布石を打つ。

サワムラーの膝蹴りをいなし、関節部に電流を流して背面へ。
浅く跳躍。
頭上と足許を、不可視のかまいたちが通り過ぎていく。
肉薄。
鋭利な鎌の付け根をつかみ、ガラ空きになった胴に当て身。
勿論体は帯電済みだ。
吹き飛ぶストライクの行方は見送らず――。
姿勢を低くし、横に転がる。
頭上から獲物を突き刺すようにくちばしが突き出され、床にぶつかって、高い音を鳴らす。
罅が入っているかもしれない――まあ、僕の知ったことではないけど。
残るポケモンは二匹。
ルージュラが放射型の冷凍ビームを放つ。
僕は横に飛び跳ねると見せかけて、タイミングを遅らせ、冷気に左足を晒した。
命中率を重視しているわりには、なかなかに即効性がある冷凍ビームだ。
移動が封じられる。
僕は首を捻って、ヤドランを見た。
今まで戦闘に加わらず、端でじっとしていた彼は、
ふと思い出したように両人差し指をこめかみに当てた。
僕は目を閉じ、やがて訪れる苦痛を覚悟して歯を食い縛った。

―――来る。
そう感じた瞬間、ヤドランの思念が、頭蓋骨の中に流れ込み、
そこに初めからあったものを引っ掻き回し、滅茶苦茶にしていった。

くそっ、……予想以上だ。
耐えて失神したフリをしようと思っていたが、これでは意識を保てそうにない。

あのアイシールドには、ポケモンのPK能力を増幅する機能もあるのか?
脳神経にダイレクトに接続可能な強化骨格なんて、聞いたことがない。
いったいこのポケモンたちは、どこでこんな強化骨格を与えられたんだ――。

視界が黒で塗りつぶされていく。
白壁が開いて複数の人間が現れるのを見たが、その顔を判別するより先に、僕は意識を失った。




嫌な夢を視た。
真っ白な四角い空間に閉じ込められて、
強化骨格を装備したポケモンが次々に襲いかかってくる、
思い出しただけで疲れそうな、最悪な夢。
最後はそう、ヤドランにサイコキネシスを食らわされて、あまりの頭痛で失神したんだ。
夢の中で気を失って、現実世界で目が醒めるとは、面白い夢の醒め方だな――。

「ピ、ピカァ……」

頭が痛い……。
僕はこめかみに手をやって、次に全身に酷い疲労を感じて呻いた。
束の間の現実逃避も虚しいだけだった。
僕は辺りを見渡して、自分がとある研究室の、強化ガラスケースの中に囚われていることを知る。
さほど広くない部屋で、明かりは絞られていた。
人気はない。出払っているのだろうか。

僕はケースの一角に腰を下ろして、瞑想することにした。

まず最初に考えたのは、ヒナタのこと。
彼女の傍に寄り添い、彼女の成長を見守るというカスミとの約束を、僕はこんなにも早く破ってしまった。
カスミはもう、僕が何者かに攫われたことをヒナタから聞いただろうか。
聞いたら怒るだろうな。
烈火の如く怒り狂って、電気袋がほっぺからとれるほど抓り回されるかもしれない。
しかし僕が拉致されたのにも、ちゃんとした理由がある。
そう、これは一種の不可抗力で――。

「……ピカピカ」

はぁ。何を言い訳しているんだ、僕は。

溜息を吐いて、カントー発電所での取引に応じた時のことを思い出す。
言ってしまえば、あれは僕の完全な誤算だった。
まさかオツキミヤマで遭遇したあのツイードスーツの男が、
この短期間で僕の正体を見破るとは思っていなかったし、
あんなに効果的な罠を仕掛けてくるとは、甚だ想定外のことだった。

だからこそ、僕は一度、彼らの手に捕まえられる必要があったのだ。

どうやって彼らが僕の正体を知ったのか。
何故リスクを冒してまで僕を捕獲しようとしたのか。
何故カントー発電所を占拠して発電施設を利用する必要があったのか。
世間の目に触れず暗躍する彼らの組織とは、いったい何なのか。

これらの謎を解き明かすには、どうしても彼らに接近しなければならなかった。
もっとも、その所為でヒナタと離ればなれになり、彼女を悲しませることになってしまったのだが――。
この組織を放置しておけば将来的にヒナタの障害として立ち塞がるであろうことは、
あまり想像に難くないので、結果的には好判断だった、と信じたい。
ヒナタのことだから、旅の目的を変えてまで僕を追ってくる可能性も否めないが、
今、僕に出来ることは、ヒナタが変わらずポケモンリーグを目指して旅することを祈り、
可及的速やかに情報を収集し、この得体の知れぬ研究施設を脱出することだけだ。

やはり一人というものは退屈で、
特にこんなガラスケースに入れられていると酷い孤独感に襲われる。
ヒナタは今、どうしているんだろう。
カエデやタイチと一緒に、三人仲良く旅を続けているだろうか。
悲しみに沈み、失意のうちに旅の目的を失っていたりしないだろうか。

ふいに、どうしようもなく切なくなる。――こんなことになるのなら。
もっとあの白く細い指で、たくさん撫でてもらっておけばよかった。
窒息しそうなほど強く、抱きしめてもらっておけばよかった。

「ピカァ……」

僕は鬱病患者のように重い溜息を吐いて、手足を動かしてみる。
反応は鈍かった。
意識を失っている間に、筋弛緩剤、或いはそれに準ずる麻酔が投与されたのかもしれない。
僕は再び溜息を吐くために息を吸い込もうとした。その時だった。

「いやぁお疲れさん。
 君も大変やったなぁ、拉致られて早々ポケモンバトルさせられて」

部屋のドアが開け放たれ、
二人の白衣の男が入ってくる。
一人は気難しい顔をした若い男、もう一人はだらしなく白衣を着崩した壮年の男だった。
前者には全く見覚えがなかったが、後者には、どこか見覚えがあった。
記憶を洗い出す。該当する記憶は、二十年近くも前の引き出しに仕舞われていた。

「ワイも本当は止めたんやで。このピカチュウは危険なポケモンやない。
 滅多なことがない限り、人を傷つけたりするポケモンちゃうて。
 でも上は聞き入れてくれんかった。
 君の無力化と実機テストも兼ねて、あんなアホみたいなプログラムが組まれたんや。
 まあ、ワイも君の能力値を計りたくなかったと言ったら嘘になんねんけどな」
「説明しても無駄ですよ、博士。
 複雑な人語を解するポケモンは極一部です。ピカチュウには無理だ」
「いや、このピカチュウは人の喋ってること分かるで」

マサキは真顔で言って、同意を求めるように僕を見た。
乱れた髪、知的な顔立ち、子供のようにイノセントな瞳。
初めて会ったとき、転送装置の誤作動でコラッタと合体していた、関西弁の研究者。

「ピカ、チュ」

マサキ博士か。出世したんだな、君も。

「な?」
「な? じゃないですよ。今の反応はただの偶然です。
 ピカチュウのウェルニッケ中枢に高度な発達が見られていないことは、
 博士もよくご存じでしょう?」

冷めた感じの若き研究者を、マサキはふんと鼻で笑って、

「君もまだまだ青いなぁ」
「どっ、どういうことですか?」
「ま、そのうちわかるわ。
 論文や文献を丸呑みしてるだけやったら、意味がないんや。
 実際、君が手を加えたあの強化骨格も、
 実地で測定されたパワーアシストの数値に理論値と大きな差が出たやろ」
「………はい」
「もっとポケモンを知ることや」

項垂れる研究員の横を通り過ぎ、
マサキはデスクの引き出しから印を取り出して、小脇に抱えていた書類に押印し始めた。

「君、第何フェーズまでこのピカチュウが持ち堪えると思てた?」

研究員は僕を横目で見て、

「第10フェーズが、限度だと……」
「ワイは第23フェーズまでは余裕やと思ってたけどな」
「何故ですか?
 事実、被検体――このピカチュウは、第18フェーズで力尽きました」
「ああ、君もやっぱりそう思てるんか。ちょっと残念やわ」

マサキは立ち上がり、
疑問符を頭上に浮かべる研究員に押印済みの書類を渡し、

「そんなら、集積データから適正値出して、もっかいアジャストしといてくれるか」
「ちょ、待ってください博士――」

半ば強引に研究室から押し出してしまった。

「コーヒー、呑む?」
「……チュウ」

僕は力なく首を振った。
言い表しようのない倦怠感が全身を蝕んでいた。

「嫌い、って言わんところが大人やな。
 君、昔は苦いもん大嫌いやったやろ」

それからしばらく、コーヒーメーカーが動作する音が響いた。
マサキがコーヒーを煎れ終えてデスクに着くまでの一連の動作はとてもスムースで、
彼がこの場所に籍を置いてから、かなりの年月が経っていることを実感させた。
マサキはキーボードを叩きながら独白を始めた。

「ハギノが君をここに連れて来たときは、ほんまにビックリしてんで。
 彼はオツキミヤマの調査以来、ずっと君に固執してた。
 自分のエーフィを一撃で戦闘不能にしたのは、状況的に見てあのピカチュウに違いないって、
 そらもう煩くて煩くてしゃあなかったって話や。
 勿論、最初は誰も取り合わんかった。ハギノが作戦失敗の言い訳のために作った絵空事やと思ってた。
 でも、それがある日突然、上層部から捕獲指示が出た。
 ワイはそん時初めて、ハギノの話に出てくるピカチュウが、君であると直感したんや。
 ま、当然他の人間は大層不思議がってたけどな」

ディスプレイの光が、マサキの顔を青白く照らしている。
僕は彼の言葉に反応せず、黙って耳を傾けた。

「それにしても、君が捕まえられるとはなあ。
 いくらハギノが実力者とはいえ、君ほどのポケモンがそう簡単に捕まるわけないやん。
 彼には悪いけど、ワイは絶対無理やと思ってたんや。
 ま、それも今のワイの姿を君に見られたくないっていう、
 深層意識からきた願望みたいなもんやったんかもしれんけどな。
 ……ワイのこと失望したか、ピカチュウ?」
「ピカ……ピ……」

いいや。第一線の科学的探求心を満たすためには、最新鋭の研究環境が必要だ。
それを提供される場に誘われ、定着するのが、研究者の哀しい性。そうだろう?

「ははっ、いつからそんな達観した物言いするようになったんや?
 君は変わったな、ピカチュウ。それやのに、ワイはちっとも変わってへん。
 君と初めて出会った時――自分の才能に陶酔して、コラッタと融合してもうたあの時から、全然変わってへんのや」

そう言って、マサキはディスプレイに顔を近づける。
文章に目を通しているようだ。やがて彼は立ち上がり、何らかの記憶媒体をPCから抜き取って、

「ここはな、ワイにとって最高の場所なんや。
 ポケモンを研究し、研鑽するもんにとって、最高の設備がそろってる。
 ワイはここに来てから、本当の意味での研究が出来るようになったと思てるんや」

部屋の小窓を開け放つ。光は差し込まない。
夜、だったのか。
時間の感覚が狂っていた。

「君にはこれから、何度かテストに協力してもらうかもしれへん。
 でも一つだけ忠告しとくで。
 次から手加減して怪我したら、ピカチュウ、君は絶対後悔する。
 ルージュラの冷凍ビーム食らった足、よう見てみ。
 それでも一応、最新鋭の再生治療施した方なんや。
 これ以上はいちいち説明せんでも、分かるやろ」

僕は左足を見た。
ルージュラの冷凍ビームを受けた部分が、凍傷のように赤くなっている。
治らない、というわけではなさそうだが――完治には時間がかかりそうだ。
僕は努めて冷静に省察する。
薬物投与によって治癒が遅れているのか?
それとも僕自身の治癒能力が低下しているのだろうか?
彼はガラスケースに近づき、電子ロックを解除しながら言った。

「上からは厳重管理するように言われてるけど、
 こんな窮屈なとこ詰め込まれてるのもストレスたまりそうやしな。
 自由にしたるわ。ただし、この部屋のドアはロックしてるし、
 この部屋を一歩出たら最後、至るところに監視機器が張り巡らされてるから、
 脱走は考えんほうが身のためやで。そんじゃ、ワイは仕事いってくるわ」

マサキは白衣を翻して、行ってしまった。
ドアが閉じられたと同時に、幽かな金属音が連続し、
強固なロックが施されたことを理解する。

僕は精神と肉体が分離したみたいに融通の利かない体を動かして、
ガラスケースの上面を押しあげた。意外と軽いそれは、簡単に外側に開いた。

外に身を乗り出す。

一つ、矛盾が気になっていた。
何故ドアをロックして脱出することの無意味さを説いたというのに、
脱出路となりそうな窓を開けていったのか。
僕は体を引き摺るようにして、窓の下まで歩み寄った。
そして、彼の意図を理解した。

「チュウ……」

ああ、こういうことだったのか、マサキ。
君は僕に脱出路を示したのではなく、
脱出不可能という現実を突き付けるために、窓を開放したんだね。

潮騒が聞こえた。――寄せては返す波の音。
黒洞々たる大海が見えた。――水面の光は夜空の星だ。

ここは孤島なんだ。
僕の認識が甘かった。
ふふっ、まさかここまで素晴らしい待遇をしてもらえるとはね。
僕は窓枠に立ち、ヒナタに心の内で呼びかけた。

すまないが、君と再開する予定日は、大幅な変更を余儀なくされてしまったようだ――、と。


第九章 終わり