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『もうお腹いっぱーい。ママ、残してもいいでしょー?』
『ピカピカー』
『なあに、ピカチュウ? もしかして、にんじん食べてくれるの?』
『ピカ、ピカチュ!』
『ありがと! ママには内緒だよっ』

『ひぐっ、えぐっ……ここ……どこ、なの……?
 ううっ……帰れないよぉ……』
『……ピカー……ピカー…………チュッ!』
『……ピカ、チュウ……? えぐっ……探しに来て……ひくっ……くれたの?……』
『ピカピカー』

―――――――――
―――――――
――――

瞼が朝日を受けて、その裏の夢を溶かしていく。
……瞼を開く。
頭の中は真っ白で、それと同じように、視界も靄がかかったように霞んでいた。

「ピカチュウ……」

いつでも傍にいて。
いつでもあたしを見守っていてくれた、掛替えのないポケモン。
目の端を拭うと指が少し濡れた。瞬く。
クリアになった視界で辺りを見渡すと、
隣のベッドには、カエデが浅い寝息を立てて眠っていた。
無理に起こす必要はないだろう。

あたしは支度を整えて、一人静かに部屋を出た。


空の碧と海の蒼。
朝日を反射して聳え立つ高層ビル群。
行き交う人々。行き交うポケモン。
クチバシティの南にある大きな病院に着くまでに、
あたしの目に色々な景色が飛び込んできたけれど、
どれもどこか色褪せていて、何かが欠けていて、心に留めようと思えなかった。

「面会ですか?」
「はい。―――さんに」
「四階の405号室になります」
「ありがとうございます」

事務的な遣り取りを経て、405号室へ。
時間帯の所為か院内に見舞いの人間は少なく、
複層ガラスから取り入れられた外の光が、病室を、廊下を、寂しく白く染めていた。
あたしが部屋に入ると、そいつは――タイチは、ちっとも怪我人らしくない背中を見せて言った。

「……ヒナタか。毎日悪ぃな」
「ううん。なんか習慣みたいになっちゃったから」
「ひでぇ。俺は毎朝楽しみにしてるってのによー」

無条件に、ホッとする。
知り合ったのはたったの一週間前なのに、どうしてこんなに懐かしい感じがするんだろう?

あたしは椅子に腰掛けて、調子はどう、とか、まだ傷は痛むの、とか、
毎回尋ねていることを、同じように尋ねた。
タイチもベッドの上で足を組んだまま、上々だぜ、とか、全然痛くねぇよ、とか、
毎回答えていることを、同じように答えた。

話題が、なくなる。

ふと、あたしはサイドテーブルの上に、橙色の輝きを見つけた。
あたしの視線の動きに気づいたのか、

「っと、すまん。直すの忘れてた―――」

慌ててそれを、引き出しの中に仕舞おうとするタイチ。
わたしは微笑えんだ。継ぎ接ぎだらけなのは分かってる。

「いいのよ、あたしに気遣わなくて。
 それはあんたのバッジじゃない。あんたが眺めていたとしても、誰も咎めたりしないわ」
「違うんだ、別に俺は、バッジをゲットできたから嬉しくて眺めていたんじゃなくて、」
「分かってる。……タイチは、すごいね。
 あたしはまだ、あの時のことを思い出すのが怖いの」
「別にすごくなんかねえよ。
 俺はただ……やるせなくて、どうしようもねえから、
 ただなんとなくコイツを眺めていただけだ」

――ううん、そんなことないよタイチ。
だってあんたは、自分の行動に、ちっとも後悔してないじゃない。

タイチの手の平で光るオレンジバッジと、
タイチの右肩から二の腕にかけて巻かれた包帯を、交互に眺める。

胸が疼く。脳裏に記憶が再生される。
それを止める術を、あたしはまだ見つけていない。

―――――――
―――――
―――
カントー発電所の深部、管理区画を目前にして対峙した紅い少女は、化け物だった。

「三対一よ。怪我をしたくなかったら、そこをどきなさい」
「ポケモンで数えたら六対一ね。
 その可愛いキュウコンを痛めつけられなくなかったら、
 大人しくどいた方がいいんじゃない?」

あたしたちの警告に、その少女はまったくの無反応だった。
ただ、タイチの

「こっちは見ず知らずの小さな女の子とやり合う気はねえんだ。道を開けな」

という言葉にだけ面を上げて、

「女の子ではありません。わたしにはアヤという名前があります」

外見に見合わない上品なソプラノで、そう言った。

「そうかい。じゃあもう一度言うぜ。アヤ、怪我をしたくなかったらそこをどきな」

タイチが再び警告し、それに呼応するかのように、マグマラシが炎のブレスを吐く。
するとアヤはキュウコンの愛撫をやめ、
その首を抱き、耳許に口づけるようにして言った。

「――燃やして、キュウコン」

くぅん、と初めてキュウコンが鳴く。
それを境にして、ホールは"しん"と静まり返った。
多勢に無勢。圧倒的優位なのはあたしたちのはずなのに――。
何故か目の前のアヤとキュウコンに、一息で消し炭にされてしまいそうな錯覚を覚える。

でも、こんなところで立ち止まってはいられない。
あたしはピカチュウを取り戻す。
あの子が昔お父さんの相棒だったこととか、
本当は凄く強かったことなんて関係ない。
あたしたちや発電所に閉じ込められていた人の安全の保証と引き替えに、
その身を差し出したことも関係ない。
あんな別れ方、絶対納得出来ないんだから。

「カエデ、いける?」
「ええ。って、なんであんたがリーダーみたいな口ぶりなわけ?」
「タイチは?」
「ああ。俺は手加減は苦手なんだ。全力で行くぜ」

すぅ、と一呼吸。
見ればアヤは目を閉じて、まるでタクトを振るうかのように右手を高く上げたところだった。
まるであたしたちに、余裕を与えてあげる、とでも言わんばかりに。
上等よ、一瞬で終わらせてやるわ。

「ヒトデマン、"みずでっぽうよ"!」
「ワニノコ、"みずでっぽう"!」
「マグマラシ、"火炎放射"だ!」

自然と連携はとれていた。
ヒトデマンの噴射速度の高い水鉄砲に、ワニノコの水鉄砲が加わり、水量が増す。
そしてその水流に巻き付くように、火炎が放射されて――。

高温の水蒸気の幕が出来上がり、キュウコンとアヤを包み込んだ。
ように見えたのは、その一瞬だけだった。

轟、とはっきり聞こえるほどの風圧が、水蒸気を払う。

熱で蜃気楼のように揺らぐ景色の向こう、
キュウコンが九尾を無造作に揺らして、アヤの前に佇んでいた。

「チッ……。効果ナシかよ。
 行け、マグマラシ。格闘で倒すぞ」

タイチが命令するより先に、マグマラシは動き出していた。

「パウワウっ、マグマラシを援護して!」

わずかに遅れて、パウワウが前に出る。
薄暗いホールの端から端を、炎を発したマグマラシが駆け抜ける。
――速い。
その跡はあたしの眼に、まるで振り回した花火の軌跡のように儚く映った。

「今だ、"火炎車"!」

タイチが叫ぶ。その瞬間、アヤが初めてキュウコンに命令した。

「"電光石火"」

マグマラシが、纏った炎の火力を一気に増して飛びかかる。
だが着地点に、寸前までいたキュウコンの姿はなかった。
……消えた?
あり得ない想像が浮かび、その直後、あたしはマグマラシの背後に光る、キュウコンの紅い瞳を見た。

「マグマラシ、後ろだ!」

鈍い音がして、マグマラシの体が吹き飛ぶ。
即座にパウワウのオーロラビームが、マグマラシとキュウコンの間に照射されるが、
深追いしようとしなかったキュウコンは、悠々とそれを躱した。

「くそっ、俺のマグマラシが速さで負けるなんて……」
「――まずは一匹」

余裕の笑みを見せるアヤ。
あたしは歯噛みした。あたしのポケモンの中に接近戦が得意なポケモンはいない。
ヒトデマンは中距離タイプだし、ピッピは初めから戦力と数えられない。
あの子には、まだ数えるほどしか戦闘経験がない。
そしてそのいずれも、"ゆびをふる"で見当違いの技を出し、不戦敗となっている。
途方に暮れかけたその時、タイチが唇を動かさずに言った。

「ヒナタ、カエデ。今からキュウコンの気を引きつけること、できるか?」
「どういうこと?」
「説明してる暇はないんだ。頼む」
「やるわよ、ヒナタ。今まではなめてかかっていたけど、
 本気でかかれば、倒せない相手じゃない。たかがキュウコンじゃない!」

カエデは終盤の方の声を張り上げた。挑発のつもりだったのだろう。
アヤの瞳が、不機嫌そうに眇められる。あたしは言った。

「ヒトデマン、"みずでっぽう"を乱射するのよ!」

カエデがそこに指示を重ねる。

「パウワウ、冷凍ビームで"みずでっぽう"を固めて!」

ばらけた水の塊が氷の礫に状態変化し、
散弾のようにアヤとキュウコンに降りかかる。
キュウコン単体なら、その体熱を放出するだけで、氷の礫を昇華させることができたはず。
しかし、何よりも優先すべきは、己のトレーナーが技に巻き込まれるのを防ぐことだ。
キュウコンは横に飛び跳ね、アヤに降りかかる氷の礫の楯になった。
マグマラシが、キュウコンのセーフティシールドから外れる。

「今だ、マグマラシ! "火炎放射"!」

タイチがそう叫んだ瞬間、マグマラシは横たえていた体を跳ね起こした。
あたしは思わず息を呑んだ。

演技、だったんだ。
考えてみれば、マグマラシは電光石火の一撃で戦闘不能になるほど弱くはなかった。

マグマラシが口を大きく開き、
それに気づいたキュウコンが首を捻り、
その瞬間には、アヤの無防備な背中に激しい炎が放射されていた。
そして――
躱すことも相殺することも諦め、
キュウコンはその全身でアヤを包むようにして、火炎を受け止めた。
ただ、解放されたアヤのドレスの裾は、
一瞬間に合わなかったのか、熱に炙られて黒くなっていた。

「よくも、よくもわたしのドレスを……」

譫言のように呟くアヤ。
そんなに大事なドレスだったの?
あたしはそう尋ねたいのを我慢し、策を練る。
信じられないことに、あれほどの火炎を受けて尚、キュウコンには火傷の跡一つなかった。

アヤの激昂は突然だった。
彼女は髪を逆立たせ、焦げたドレスの裾を握りしめて、年相応の幼い語調で命令した。

「―――あいつらを燃やして!」

くぅん。
遮る物のないホールを、キュウコンが音もなく闊歩する。
あたしはそれを、ただぼうっと見つめていた。否、魅入られていた。
キュウコンの紅い瞳を見ていると、
思考が溶けていく。何もしなくていい。ただそこで立ち竦んでいろ。
聞こえるはずのないキュウコンの意志が、頭の中に響いている気がした。

「ヒナタ!?」
「何やってんだ、逃げろ!」

ふいに、意識が浮上する。
目前にはむせ返るような熱気。
5mほどの間隔を置いて、あたしはキュウコンと対峙していた。

くぅん。

三度目の鳴き声がホールに木霊した瞬間、
キュウコンの体から、炎が渦を巻いて立ち上がった。
――逃げなきゃ。
頭では分かっているのに、膝から下が震えて、
走ることはおろか、歩くことさえできない。

炎の渦はまるで意志を持った生き物のように空中でくねり、
急に確かな指向性を持って、あたしに向かってきた。
視界が炎で埋め尽くされる。あたしはただ目の前の恐怖に、悲鳴を上げることしかできず――

「馬鹿野郎! 死ぬ気かよっ!」

体を突き飛ばされて、地面を転がる。
隣を見れば、右腕を押さえ、苦悶の表情を浮かべているタイチがいて。

「ごめんなさい、あたしの、あたしの所為でタイチが……」
「はぁっ……はぁ、痛ッ……今はそんなこと気にしてる場合じゃねえよ。退くぞ!」

あたしとタイチが身を引きずるようにして後退する頭上を、
冷凍ビームと水鉄砲が過ぎて行く。
――カエデが援護してくれているんだ。

「もうっ、何やってんのよ馬鹿ヒナタ!
 キュウコンの眼は特別なのよ。見た者の隙をついて、心を自在に操る能力があるの」
「あたし、知らなかった……」

心の隙、もとい空洞が、何であるかは判りきっていた。
あたしは項垂れて、しかしすぐにキュウコンに向き直る。
水鉄砲と冷凍ビームは、最早全く意味をなしていなかった。
キュウコンのセーフティシールドに入ったそばから気化し、無効化されていく。
あたしたち三人のうち、誰もが絶望的だと知っていた。
接近戦が可能なマグマラシは満足に動けず、
他のポケモンの攻撃は意味がない。さらにはあたしのせいで、タイチが腕に火傷を負ってしまった。

キュウコンがゆっくりと近づいてくる。
殺される、と思った。
あたしは初めてポケモンに対して、死の恐怖を感じた。
今までにも何度か修羅場を経験してきたけど、
こんなに鮮明に、恐れを感じたのは初めてだった。
ピカチュウ――。
足許を見ても、黄色くて丸っこいねずみポケモンは、いない。
あたしはこんな状況なのに、泣きそうになった。
そしてキュウコンの熱気が、あたしの髪を焦がしそうなほどに近づいたとき、

「――殺してはだめ」

落ち着きを取り戻したアヤの声が聞こえた。
閃光が走り、キュウコンがボールの中に仕舞われる。
熱気が消失し、思い出したように、あたしの首を汗が一粒流れていった。

「時間稼ぎは終わりです。さよなら」

アヤは深紅のドレスを翻して、通路の影に消えていった。
あまりにも呆気ない終わり。

「ま、待ちなさい!」

あたしは追いかけようとした。
でも、まるで足が溶けた蝋燭みたいに床から離れない。
力を入れたそばから抜けていく。

情けないことにあたしは――
ピカチュウを取り戻すという意志を保てず、
あのキュウコンと再び戦うことへの懼れに屈してしまったのだ。

―――――――
―――――
―――

後悔に焼かれた意識が、現実世界に戻ってくる。
あたしはポケットから、オレンジバッジを取り出して、手の平に乗せた。
ただ、グレーバッジやブルーバッジを眺めた時のように、
喜びはちっともわき上がって来なかった。
こんなの……あたしのバッジじゃない。

あの戦いの後、あたしたちはかなりの時間、ホールで立ち尽くしていた。
そこに管理区画の通路から現れたのが、
マチスさんを前頭とする、拘束されていたはずの人々だった。
発電所員は口々に感謝の言葉を述べ、
あの男たちがやってきた時のことをこう話してくれた。

『ある日突然、そいつらはやってきたんだ。
 そいつらの要求は、発電施設の大部分を貸してほしい、ということだった。
 勿論、私たちは拒んだよ。だが、その次の瞬間には、
 私たちは何故か彼らの言葉を受け入れ、彼らに従っていたんだ』

マチスもまた、こう語った。

『オレが仲間を引き連れて来たとき、発電所は普通に活動しているようだった。
 それで油断したんだ。いつの間にか俺たちはヤツらに囚われていた。
 ガッデム、今度会ったらタダじゃおかねえ』

あたしたちは終始無言だった。

話し会わなければならないこと、
すぐにでも行動に起こさなければならないことが山ほどあったのに、
何もする気になれなかった。

『本当にありがとう』

そう声をかけられる度に、寒気がした。
労いの言葉なんて要らない。
感謝の言葉なんて、もっと要らない。
あたしたちは何も頑張ってない。
ピカチュウが犠牲になってくれた――、ただそれだけ。

その後、発電所は発電所員の尽力によって復旧し、
囚われていた先遣隊とマチスを中心とした調査隊の人は、
あたしたちと一緒にクチバシティに戻った。
腕に酷い火傷を負っていたタイチは、すぐに病院に運ばれた。

時間だけが変わらないスピードで過ぎていった。

クチバシティから非公式な功労賞として、
謝礼金とオレンジバッジ三つを所与された時だって、あたしの心の喪失感は埋まらなかった。
ピカチュウ、あなたは今どこにいるの?
あたし、三つ目のバッジを手に入れたんだよ――。
そう心の中で呟いても、言葉は返ってこない。

「――タ――ヒナタ」

どこか遠くに済ませていた耳が、タイチの声を拾い上げる。

「……ん、なに?」
「バッジ見つめたまま動かないから、息してないのかと思ったぜ」

冗談交じりに気遣ってくれるタイチに、
あたしは嬉しく思うと同時に、自分を情けなく感じた。
なにやってんだろ、あたし。
怪我人に心配させて……これじゃあ本末転倒じゃない。

「あのね、タイチ。――ごめん」
「なっ、何だよいきなり。俺、お前に謝られるようなことされた憶えねぇぞ」
「違うの。あたし、まだあのとき、あんたに庇ってもらったこと、謝ってない」

そっぽを向くタイチ。
あれからというもの、タイチはあたしが庇ってもらったことを謝ろうとすると、
急に不機嫌になって、取り合ってくれなくなる。

「いいって、もうそのことは」
「よくない。だってその火傷、ずっと跡に残るのよ。
 あたし、どんなにタイチに謝っても、足りないくらいのことをしてもらったのに……。
 どうしてちゃんと聞いてくれないのよ」
「…………から」
「え?」
「……俺が、自分の意志でやったことだから」

タイチは再びベッドに寝転んで、

「お前に謝られるとさ。
 なんか俺のやったことが、間違ったことみたいに聞こえるんだ。
 でも俺は後悔してない。
 お前を庇って、お前が火傷をしなくて済んで、本当に良かったって思ってるし、
 確かに火傷は痛むけど、お前が火傷で苦しむのを見て後悔するのに比べたら、ずっとマシだと思うし」

よくこんな歯の浮くような台詞が言えるものね。
自分で言ってて、恥ずかしくないのかしら――そう思ってタイチの顔を見ると、
案の定、赤くなっていた。
馬鹿、と言ってやりたかったけど。
それよりも適当な言葉が見つかったので、あたしはそれを言うことにする。

「……ありがと」
「おう」

タイチは笑顔で応えてくれた。

「"ごめんなさい"よりも"ありがとう"の方がよっぽどしっくりくるぜ。
 それにさ、なんかお前にありがとうって言われると、
 火傷の痛みが引く気がするんだ。だからもっと言ってくれ」

折角言うのをやめてあげたのに。

「もう、馬鹿じゃないの」

思わずそう言った後、あたしはふと、体が軽くなったような気がした。頬に手を添える。

「ヒナタが笑うの、久しぶりだな」

タイチの言うとおりだった。
カントー発電所から戻ってきてから今まで――
カエデと話している時も、タイチを見舞っている時も、
あたしはありのままの、自然の笑顔というものを忘れていた。

それが、こんな些細な切欠で、再び笑うことができるようになったなんて。

あたしは無意味に嬉しくなって、
それをタイチに悟られたくなくて、俯いた。
そして、今日必ず言うと決めていたことを、口にした。

「あのね、タイチ。あたし、ピカチュウを連れ戻しに行く」

タイチはいつもの調子で言った。

「ああ、さっさと行ってこい」 
「随分あっさりしてるのね」
「まあな。……お前がそう言い出すのは分かってたから。
 俺からしちゃ、いつまでクチバに留まって俺の世話焼くつもりなんだ、ってイライラしてたんだぜ」

突っぱねるような言い方が、実はタイチの気遣いであることをあたしは知っていた。

現実を見据えて言えば、ピカチュウの行方を捜すことは、
広大な広葉樹の森の中に一本だけ生えた針葉樹を探し出すことに等しい。

あの男と、アヤという少女、そして発電所を占拠していたその他の仲間の行方は杳として知れず、
発電所から手掛かりとなりそうな痕跡も一切見つからず、有力な目撃情報も得られなかった。
カントー発電所占拠事件を、クチバシティは明るみに出すまいとしているようだった。
各種メディアはカントー発電所復旧を、地方のお祭り程度に報道したのみで、
警察に設置された捜査本部も、事件の不透明性と被害が極小であったことも相俟って、
本腰が入っていないようだ、ということをジュンサ―さんが教えてくれた。

こうやって事件は風化していくんだろう、と思う。
あの日、あの場所で、あたしがピカチュウと離ればなれになったこと、
あたしたちが垣間見た組織の影のことは、世間の目に止まることなく、忘れ去られていくんだ。

でも、あたしは忘れない。忘れることなんてできない。

「まずは何処にいくつもりなんだ?」
「とりあえず、クチバシティの次に行こうと思ってた、シオンタウンに行くつもり」
「お前の従姉――カエデも一緒にか?」
「……う、ん」

うまく舌が回らないのは、まだそれが決まったことではないから。

「あんたの怪我が治るのを待ってようかとも思ったけど……
 まだかかるみたいだから、置いてくわ」
「置き去りにされるのか、俺。薄情なヤツだな、ヒナタって」
「あら、あんたがどうしても、っていうなら、クチバに留まって、
 毎朝リンゴを剥いて一口サイズに切って、口に運んであげるけど?」
「じょ、冗談だって。俺の怪我はまだ少しかかりそうだ。
 遠慮なく置いてけ。……治ったら、そのときは、すぐにでも追いつくからよ」

あたしはゆっくり首を振った。
まるで、一緒に旅をすることを前提としたようなタイチの言葉に。

「いいの」
「何がだ?」
「別にあたしのことは放っておいてくれても、いいの。
 タイチにもポケモンマスターになりたい、っていう夢があるんでしょ。
 あたしはピカチュウを探しながら、強くなって、その試金石代わりにジムに挑戦するつもりなの。
 それはきっと、普通にバッジを集めてポケモンリーグに行くより、ずっと遅い道程だと思うから――、痛ッ」

なにすんのよ、と大声を出しそうになって、
ここが病室の一角であることを思い出す。
あたしはでこぴんされた額をさすりながら、思いっきりタイチを睨み付けた。
タイチはふふん、と鼻で笑って、

「水くせぇこと言ってんじゃねーよ。
 まだ会ってまもない……まあ俺はずっと昔からお前のことは知ってたんだけど……
 あの発電所で一緒に戦って、お前とピカチュウの事情聞いたらさ、
 もう忘れることなんてできねーわけ。
 だから怪我が治ったら、俺もお前等の旅に合流する。約束する」

まるで明日の予定を決めるような調子で、そう約束してくれた。

「タイチ……」
「そんときまでに俺も強くなってるからさ、楽しみにしててくれよ。
 今度あのちっこいアヤお嬢様に会うまでに、
 炎ポケモンのなんたるかを教育してやれるようになってなきゃな」

「うん……、楽しみにしてる」

タイチならきっと、凄く強いポケモントレーナーになれるよ。
だってあんたのお父さんは、シゲルおじさまは、トキワシティのジムリーダーなんだから。

それからあたしたちは、他愛もない話をして、午前中の温い時間を過ごした。
帰り際、

「怪我、早く治ると良いね」

と言ったあたしに、タイチは火傷を負ってない方の手を挙げて、

「おう」

とだけ言って、背中を向けた。
あっさりしすぎているかもしれないけれど、
ポケモンマスターになってセキエイを目指す旅から、
ピカチュウを探す旅へと目的を変更した以上、
あんまり長く留まっていると、タイチにまた怒られそうだったから、あたしは振り返らないまま病院を出た。

ポケモンセンターの宿泊施設に戻ると、カエデが出迎えてくれた。

「お見舞い、行ってたの?」
「うん。カエデ、まだ寝てたから、起こしたら悪いと思って」

カエデはシゲルのファンで、タイチはシゲルの子供。
この子の性格を鑑みれば、あたしの行為は嫌味を言うに十分な材料だったはずなのに、
カエデは何も言わず、コーヒーを煎れてくれた。
あの日以来、カエデはあたしに、必要以上に気を遣ってくれている。
でも、それも今日で終わり。

「あたし、明日の朝にクチバシティを発つことにしたから。
 手掛かりも何もないけど、やっぱりあたし、ピカチュウを探しに行く」
「えっ……?」

かちゃん、と陶器がぶつかりあう音がした。
落ちて割れていないだけ、あたしの言葉は予測されていたのかもしれない。
あたしはカエデが二の句を継ぐ前に、全部言ってしまおうと思った。

「それで、ハナダからクチバまで、短い間旅をしてきたけれど、
 ここからはカエデには、自由に旅の選択肢を選んでもらいたいの。
 あたしの旅の目的と、カエデの旅の目的は違うわ。
 だからね――」
「まったく、何を言い出すかと思ったら。
 これだから馬鹿ヒナタは困るわ」

つかつかとあたしの方に歩み寄ってきたカエデは、
あたしの右胸にトン、と右人差し指を置いて、思い直したように胸の真ん中に置き直し、

「あたしはね、あんたがいないと旅が出来ない都会ッ子なわけ。
 一人じゃテントも張れないし、旅に必要な買い物の管理もできないし、
 ポケモンセンターで部屋を取る方法も知らないし、とにかく何も出来ないの。
 一人で旅なんか到底無理なの。不可能なの」
「う、うん」
「あたしは、ヒナタと一緒じゃなきゃダメなの。
 それにね、ヒナタは何か勘違いしてるわ。
 ヒナタはピカチュウが連れ去られたことが、自分一人の問題だと思ってるみたいだけど、
 あたしにとってもピカチュウは大切な存在だったんだから。
 あたしも、あいつらが許せない。
 あいつらからピカチュウを取り返さなきゃ、気が済まない。
 だからあたしは、ヒナタに着いていくわ」

「カエデ、本当にそれでいいの?」
「いいに決まってるじゃないの。
 それにあたしはヒナタの従姉なのよ?
 従姉が従妹の世話を見なくてどうするわけ?」

さっきまであたしがいないと何もできない、と言っていたのはどこの誰なのよ――。
あたしはその矛盾を問いただしたくなって、
でも結局、喉に込み上げてきた熱い塊に邪魔されて、その言葉を飲み込んだ。

「………ありがと、カエデ」
「なにお礼なんか言っちゃってるの? 気持ちわる。
 あー、そういえばクチバシティを出発するってことは、
 タイチくんと離ればなれになるってことよねー。
 どうしよー、あたしやっぱクチバでタイチくんのお世話しとこっかなー」

下手な照れ隠しに、くす、と思わず笑みが漏れる。
それからあたしたちは荷造りした。
夕方までには、いつでも出発できるように準備が整って、
あたしはジョーイさんに、明日の朝出発する旨を伝えて、外の空気を吸いに出た。
夕陽に染め上げられた薄暮の街並み。
夜を駆逐するための街灯とネオンが瞬き、
見る間にクチバシティの未来的な景観に彩りを加えていく。

かつて、ただの港町だったクチバシティを知っているピカチュウは、
カントー発電所の復活によって、完全な輝きを取り戻したクチバシティを見て、どう思うんだろう。
なんとなく足許を見る。吸殻が落ちているだけだった。
なんとなしに右肩を見る。夏の湿気を含んだ風が通りすぎていった。

会いたい。会って、抱きしめたい。
ねぇ、ピカチュウ。あなたは今、何処にいるの?

「応えてくれないんなら、こっちから探し出してやるから」
『ピカ』

ふいに、耳慣れた鳴き声が聞こえた気がして。
声の聞こえた方向に眼を向けたけど、そこには当然、何もなかった。
たちの悪い幻聴ね――。
あたしはクチバシティの夜景を目に焼き付けてから、ポケモンセンターに戻った。



第八章 終わり