※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

本当にこれで良かったのか、と思うことがある。
壇上で脚光を浴びるべき才能の芽を摘み、寂れた土地でひっそりと枯らせる。
一人の女の、我儘によって。

「……あっ」
「どーしたの、ハナコ……って、血が出てるじゃない!?」

ハナコの親友が、ハナコの手を取り上げる。

「ちょっとまってて、バンソーコー取ってくるから!
 あんたは傷口洗ってなさい!」

遅れて指先が痛み、血がシンクに落ちた。
包丁で指を深く切ってしまったことよりも、
そのせいで、夫――青年――への給仕が遅れることの方が、嫌だった。

「料理上手のハナコちゃんが包丁で指を切るなんてな」と青年の親友。
「ま、そんなこともあるわよ。しばらく炊事場から離れる良い口実ができたじゃない?」とハナコの親友。
「ハナコ、しばらくは俺が料理当番をやるからね」と青年。

四人での食事会は、月一の恒例行事になっている。
あれほど青年の親友を毛嫌いしていていたハナコの親友も、今では、
仕事終わりに時間が合えば、二人で飲みに行く仲らしい。
そのことを話題に出すと、ハナコの親友は決まって否定するが、それが本気の否定でないことは、ハナコには分かっていた。
事実、今日の献立のうち、青年の親友の好物は、ハナコの親友の手によって作られている。

食事が終わった後は、晩酌の時間となる。
青年の親友は煙草を吸いに縁側に出て、「お前も付き合え」と青年も連れられて行ってしまった。

「旦那が連れてかれたからって、そんな寂しそうな顔しないの」

ハナコの隣に、一升瓶を抱いたハナコの親友が座る。

「ハナコは本当に旦那様のことが大好きなのねえ」

否定はしなかった。
母が病でこの世を去り、父が旅に出て失踪した頃の、辛く寂しい記憶は、今や遠い。
青年のおかげだ。
子供は中々出来なかったが、青年は「子供は自然に授かるものだよ」と言ってくれていた。
ハナコの親友は、一升瓶からグラスにお酒を注ぎ、

「でも、そこで旦那を縛り付けないところが偉い」
「……ううん。わたし、あの人のことを縛ってるわ」
「え? あんた旦那に、役所の同僚女とも仲良くしちゃダメ、とか言ってんの?」
「……まさか。わたし、そんなに嫉妬深くないもの」

そういう意味じゃない。
あの人がわたしと一緒になって、この町に来て、この町の人間になろうとしていること。
それこそが、束縛。

「ねえ……わたしにも飲ませて?」
「おっ、ハナコさんったら、今日はイケる口じゃーん。よぉし、お姉さんが注いだげる!」

しかし酒精の効能をもってしても、ハナコの心は解けない。
夫に対する罪悪感、後ろめたさを軽減する方法を、彼女は知っていた。
その方法を、優しい夫は拒絶するだろう。
でも、大木戸博士の研究所に出かけたり、マサラタウン近郊の野生ポケモン分布調査に出かけたりするときの表情は、
彼が、新しい刺激を求めていることを仄めかしていた。



「お疲れ様。お先に失礼するよ。あまり根を詰めすぎないように」
「はい、お疲れ様です!」

その元気にあふれた返事から、青年は一年後輩の職員がまだしばらく残業することを悟った。
今年からマサラタウン役所にやってきた彼は、少しでも先輩に近づけるように、と意気込んでいた。
青年が退所しなければいつまでも一緒に残業をしているので、
青年は最近、出来る限り早く仕事を切り上げて、帰るようにしている。
蒸し暑い夜だった。
青年はネクタイを緩めて、児童公園のベンチに腰掛ける。

「このまま、家まで着いてくるつもり?」
「ありゃりゃ、気づかれてましたか」

公衆便所付近の木立から、数日前に青年にスカウトを仕掛けた若い男が現れる。
彼は断りもなしに、青年の隣に腰掛けた。

「こんばんは」
「…………」
「そう邪険にしないでくださいよ。まだ二回目じゃないですか」
「俺にこだわる理由は?」
「単刀直入ですねえ」
「君の組織の階層は知らないけど、スカウトの君にも上司がいて、君は結果を求められてるはず。
 いつまでも俺一人にかかずらうのは、非効率で、不可解だよ」
「理由を説明したら、この前のお願いについて、首を縦に振ってくれますか?」
「いいや」
「釣れないなあ。僕は情報をただで教える性質じゃないんですけどね。
 あなたのことは個人的に気に入ってるから、あなたにこだわる理由を教えてあげようかな。
 といっても、仮説は立ててるんでしょう?」
「答え合わせがしたい」

スカウトの若い男は、逡巡なく言った。

「あなたが適格者だからですよ」
「……適格者?」
「能力者とか、使役者とか、ちょっと古い言い方だと調教者って呼び名もありますが、
 最近は適格者で統一されてますね。要は、ポケモンを操る術に長けた人間のことです。
 そして、僕の見立てが確かなら、あなたの能力は一等素晴らしい」
「…………」
「どうやって気づいた?って顔をしてますね。
 トキワシティジムでの対戦記録を拝借して見たんですよ。
 リーダーはあなたとの対戦後に、映像をアーカイブから抹消していましたが、
 なあに、うちの組織の技術力をもってすれば、ちょちょいと復元は可能です。
 その映像――特にあなたのオコリザルがリーダーのサイドンを倒す場面を見て、僕はあなたの能力に見当をつけた。
 いや、それですら片鱗にすぎないかもしれない」
「…………」
「先日、あなたのライチュウは僕のウツボット三体を迅速に無力化しましたね。
 あのときは触れませんでしたが、僕は不思議でたまらなかった。
 あなたのライチュウは、どうやってカモフラージュを施した僕のウツボットの位置を正確に把握できたのか。
 後方観測員の主張は僕の疑念をより一層深くしました。
 位置的に考えて、あなたのライチュウに、僕のウツボット三体の位置を瞬時に断定できる可能性はなかった。
 では、あなたのライチュウが特別なのか。答えは否、ですね?」
「…………」

黙ったままの青年に、若い男は微笑む。

「ズルいなあ。黙秘こそ最善だとわかっている。
 僕はあなたが適格者だと裏付けてあげたのに、あなたは自分の能力を詳らかにしないなんて」
「君が勝手に喋って、俺は答え合わせができた。ありがとう」
「それで?」
「……?」
「ご自身の能力を客観視して、改めて、その能力を有効活用しようとは思いませんか?」
「いや、まったく」
「どうしてそうなるかなあ」

若い男は膝を叩く。青年はスカウトの男のことが好きになりはじめていた。

「うちの組織が求めてるのは適格者です。
 単純に強いポケモントレーナーじゃあダメなんですよ。
 あなたが同行してくれるだけで、調査隊の生還率は大いに向上するでしょう」
「そろそろ帰るよ。ハナコが夕食を用意してくれてるんだ」
「ああ、引き止めてしまってすみません――じゃなくて! 僕の勧誘は今回も華麗にスルーですか?」
「うん。申し訳ないけど」

青年は公園を出て、夜闇に消えていく。
スカウトの男は悄然と肩を落とした。
そんな彼の傍らに、音もなく人影が現れる。

「主任、交渉は失敗ですか?」
「僕の顔を見りゃ分かるだろう」
「彼の育ての親と、彼と親交が深かった者の特定は済んでいます。次回は彼らを交渉材料にして、」
「そういうやり方は、今回はなし。八割の確率で彼は本物だよ。火傷はしたくないね」
「ではどのように?」
「彼の心変わりを待つしかない、かな。ほら、散った」
「…………」

やや間があって、人影が消える。
スカウトの男はため息をついて、公園で一人、煙草に火をつけた。