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事務仕事を終えて、職員室を後にする。
授業だけが先生の仕事じゃない。テストの採点に生徒指導報告書。
スクールの先生がやらなければいけないことはたくさんあって、帰宅時間が遅くなるのはザラだ。
恋なんてしている暇はなく、職場で恋愛対象になりそうな人もいない。
独身の体育教師は毎日熱視線を送ってくるが、まったく好みではないので適当にあしらっている。
もし彼が美形の好青年だったとしても、友達以上の関係にはならないだろう。
学生時代に大恋愛の末の破局を経験して以来、彼女――ハナコの親友――は超が付くほどの男嫌いになっていた。
両親は孫の顔を見たがって見合いを薦めてくるが、彼女は何かと理由を付けてそれを断っていた。
しかし、ある出来事をきっかけに、彼女の脳裏に結婚の二文字がちらつくようになった。

「あのハナコが結婚しちゃうとはねぇ……」

ため息が漏れる。
入籍しただけで式は挙げていないものの、同居を始めてからの二人は本当に幸せそうだ。
ハナコの旦那は、ハナコのためにわざわざマサラタウンでの就職を決めた。
そこまでハナコを想ってくれる男は中々いない。しかも真面目で、たぶんすごく頭も良い。
なのに……。

「なんであの旦那の友達は、あんなにチャランポランなのかしら」

最近、スクールの近くに大木戸博士という大博士の私立研究所が出来て、
その息子であるチャランポラン男は、その研究所の助手を務めているらしい。
つまり、あいつもマサラタウンに住むことになったのだ。

「ま、どうでもいいんだけどね。どうでも」

この前、ハナコとお茶をしたときに、
『彼ね、あなたとタマムシで会ってから、他の女の子に興味がなくなっちゃったみたい』と話していたが、だから何? という感じ。
しかし、せっかく記憶から抹消していたのに、この前ハナコと旦那の家にお呼ばれしたときに、
なぜかあいつがいて、妙にぎこちない態度で接してきたものだから、こちらまで調子が狂ってしまった。

「チャラ男は永遠にチャラ男やってろっつーのよ……」
「独り言多くね?」
「ぎゃっ!」

自然に隣を歩いていた男に、反射的に鞄を叩きつける。
男はひょいとそれを避けて笑う。ハナコの旦那の友達。チャランポラン男。

「なんなのよアンタ! ストーカー!?」
「ここ、研究所の前。俺も今から帰るとこだったんだよ」
「うぐ……」
「ところでさ、マサラタウンで美味い酒が飲めるところ――」
「お断りよ!」
「はは、誰も一緒に行こうなんて言ってねえだろ。
 俺、親父にくっついてマサラタウンに来たばっかりでさ。
 あんた酒好きだから、良い居酒屋知ってるんじゃないかと思って聞いてみた。
 もちろん、一緒に飲んでくれたら最高なんだけど」
「……別に教えてあげてもいいけど。一緒に飲むのはナシよ」
「そっか、ありがとな」

屈託のない笑顔を浮かべるチャランポラン男。

「お店は、ここをまっすぐ行って、角を右に曲がって、三番目の十字路を左に――」
「待った待った。さすがに口頭じゃ覚えられねーよ」
「それもそうね。じゃあ、地図を描いてあげる」
「その店は、ここから遠いのか?」
「歩いて五分ってところかしら」
「近いな! じゃあ、歩いて案内してくれよ」
「どーしてあたしがそんなこと……はぁ……いいわ。着いてきなさい」

早歩きで歩き出すと、チャランポラン男がついてくる。
さっさと案内して家に帰ろう。
そう思っていたのに、気づけばお店のテーブルで、チャランポラン男とお酒を注文していた。
断っておくが、決して、チャランポラン男の一人飲みを哀れんだわけではない。
店主に「おや、帰っちゃうのかい。昨日、良い吟醸を仕入れたのに」と言われたからである。
お酒を飲みつつ当たり障りのない話をして、少し酔いが回ってきたころ、

「この前、お袋に会ってきた」

出し抜けにチャランポラン男が言った。

「お母さんはどこで、何をしていたの?」
「シオンタウンで、ポケモントレーナーをやってたよ。
 ゴーストポケモン使いで、Sランク常連のリーグトレーナーだった」

ポケモンバトルに疎くても、リーグの制度は知っている。
Sランク常連と言えば、いつ四天王入りしてもおかしくない強さだ。

「つくづく、俺にトレーナーの才能がないのが不思議だぜ」
「どうしてあんたを置いて家を出て行ったか、聞いた?」
「一流のゴーストポケモントレーナーになることを諦めきれなくて、
 最初から俺がある程度育ったら、後のことは親父に任せて、出て行くつもりだったらしい。
 俺を身ごもったのは、いっときの感情の過ちだったって言われちまったよ」
「そんな……」
「俺は、産んでくれただけマシだったって思ってる。
 お袋も親父と一緒で、ポケモンが大好きなんだ。息子以上に」
「あたし、この前は酷いことを言ったわ。ごめんなさい」
「この前って?」
「あんたと初めてタマムシシティで会った日。
 もう二年くらい前になるけど、あんたに『愛情に飢えてる』って言ったでしょ」
「ああ、あれな。実は、俺、あの一言でかなり傷ついたんだよな〜」
「だ、だから謝ってるじゃない」
「ははっ、嘘だよ。……図星突かれて、目が覚めたような気がしたっけ」

チャランポラン男……もといハナコの旦那の友人は、しみじみとお猪口から酒を飲む。

「お袋、思い切りネグレクトかましたクセに、孫の顔は見たいみたいでさ。
 次に会う時は連れて来い、だと。笑わせるよな」

妙な親近感が、胸中に去来する。

「あたしも最近、親が結婚しろ孫の顔を見せろってうるさいのよ。
 ハナコが入籍したのを知ってから、特にうるさくって。
 はぁーあ、ハナコに先を越されちゃうとはなー」
「俺もあいつに先を越されるとは思ってなかったな」

あいつとは、ハナコの旦那のことを指しているんだろう。
親近感を覚えたのをきっかけに、つい、仕事の愚痴をこぼした。
目の前の男は、タマムシやヤマブキで数えきれないほどの女心を手球にとってきただけはあって、
相槌の打ち方や冗談の言い方が洗練されている。
しかも、なぜか初対面のときに感じたチャランポランさが失われていた。
ハナコの声がリフレインする。
『彼ね、あなたとタマムシで会ってから、他の女の子に興味がなくなっちゃったみたい』
まさか、と思う。
でも、話せば話すほど、心の芯がほぐされていくような感覚は事実で、

「また今度、仕事終わりに飲もうぜ」

という彼の控えめな誘い文句に、彼女は無意識に肯いていた。



明かりの消えた街。

人気の絶えた道。

星月のない夜。

風景に見覚えはある。以前、来たことがある。

ここは――ヤマブキシティだ。

なのに、この不気味なまでの静けさはなんだろう。

幽霊の手のように冷たい風が、頬を撫でる。

かつん、と背後で音が鳴った。

かつん、かつん。

それは徐々に近づいてくる。

思わず振り返るが、足音の主はいない。

ああ、幻聴か。

「――おにいちゃん」

服の裾を誰かに掴まれた。懐かしい声。

「ナツメ、ちゃん?」

服をつまむ少女の手から、腕、顔へと視線を転じる。

目は長い前髪に隠され、その下は仮面のような無表情。

ふいに、体が金縛りになる。

バランスを取れずに、後方に倒れる体。

地面はなぜか柔らかく、痛みは感じない。代わりに体が、虚無に沈み込んでいく。

自分は今まで、どうやって立っていたのだろう。

少女が仰向けになった体の上にまたがり、顔を近づけてくる。

やがて、少女の口が開き、

「――ツガキリ大洞穴には近づくな」

「ツガキリ大洞穴には、何がある?」

「知れたこと。そこに眠るは、この世の人手に余るモノ」

赤い月を思わせる彼女の魔眼が露わになる。

頭が割れるように痛み、そして――。



「はあっ……はぁっ…………」
「だいじょうぶ? 随分うなされていたわ」

ベッドランプの明かりが灯り、心配そうなハナコの顔を照らしだす。

「大丈夫だよ。こわい夢を見ただけだ。起こしちゃってごめん」
「プクリンに子守唄を歌ってもらう?」
「……お願いするよ」

プクリンの優しい歌声に導かれ、青年は再び、眠りに落ちた。
青年が意識を手放す寸前まで、頭蓋の内側でナツメの最後の警句が反響していた。

――「案ぜよ。選択の時は近い」――