※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

翌朝。
マサラタウンからタマムシまでの空路上で、青年はハナコと自然に話すことができなかった。
昨夜の別れ際の出来事について、蒸し返すべきか否か。
青年の腰に回された、ハナコの腕をいつも以上に意識してしまう。
あれは酒精が見せた酔夢……そうだ。そうに違いない。
その証拠に、ハナコは普段となんら変わりないじゃないか。
仮に現実だったとして、彼女も酔っ払っていたのだ。
足取りも意識もしっかりしているように見えたが、その実、泥酔状態だったのだ。きっとそうだ。
青年は誰かに同意を求めようとしたが、脚下のリザードンは、それに応えることなく飛翔を続けた。

タマムシに降り立った青年とハナコは、その足でロケットゲームコーナーに向かった。
ゲームマシンが並ぶメインフロアの死角に、一枚の大きなポスターが飾られており、その裏に秘密のスイッチがある。
それを押すと、僅かな擦過音とともに隠し階段が現れる。
ガードの年若いロケット団員にあの名刺を見せて「サカキに会いに来た」と告げると、
「本日、サカキ様は不在だ。出なおせ」と突き返された。
青年はいったんハナコを民宿に送り届けたあと、大学の大木戸博士の私室に赴き、
ゴールドバッジ、クリムゾンバッジを首尾よく取得できたことを伝えた。
大木戸博士は青インクの万年筆を論文に走らせながら、

「残すはグリーンバッジか。快調だな」
「自分でも、まだ実感がありません。
 ここまでは順調でしたが、最後の壁――トキワジムは、じっくり腰を据えて取り組む必要がありそうです」
「果たしてそうかな。その調子でリーグを目指す気は?」
「まさか。俺の目標はパーフェクトホルダーです。
 とにかく今は、トキワジム攻略を目標に頑張ります。リザードンもいい加減、博士の元に帰りたがっているでしょうし」
「ああ、その必要はない。無期延期だよ」
「えっ?」
「初めから、リザードンは君に譲ろうと思っていた。気の早い卒業祝いだ。
 私の手元で燻らせるよりは、君の足として空を飛ぶ方が、あれにとっても幸せだろう」
「でも、リザードンは……」
「すまない。そろそろ先科に行かなければ」

博士は腕時計に目をやると、ドキュメントケースを携えて部屋の外に出た。
青年が残っていては施錠できない。
青年は言葉を飲み込んで、博士の私室を辞去した。

研究棟の外に出ると、小粒の雨が、大学敷地内のあずき色のタイルを黒っぽく染めていた。
傘をさして家路を歩む。
博士の申し出はありがたかった。感謝してもしきれない。
しかしその一方で、長い時間を共にしたポケモンを、あっさりと手放した博士の心情が理解できなかった。
それは今に始まったことではない。
博士のポケモンに向けられる感情は、愛情とは似て非なるものだ。
ポケモントレーナーとしては、純粋な育成対象。
研究者としては、純粋な研究対象。
うまく割り切れない自分は、トレーナーとしても研究者としても、大成できないのかもしれない。
それでも……。

「あらためてよろしく、リザードン」

雨の中、ボールの中のリザードンに語りかける。

「これからも羽を伸ばすついでに、俺を運んでくれると助かる」

手の中に、微かに振動が伝わった。
それが承諾か不服、どちらのサインかは、後々明らかになるだろう。

アパートに帰り、雨に濡れた服をタオルで拭くことしばらく、チャイムの音が静寂を破った。
玄関ドアの覗き穴を見ると、黒い傘に黒いスーツという、
葬式帰りのような出で立ちの男が立っていた。
老いを帯び始めた柔和な顔立ちに、これまた人懐こい笑みを浮かべている。

「どちらさまですか?」
「若頭の使いです。さっきは何も知らねぇ若手が無礼を働いて、誠に申し訳ない。
 若頭がいないのは本当だったんですが、わたしが代わりにお相手をする手筈だったんです」
「そうだったんですか。あの、どうやって俺の家を調べたんですか?」
「わたしらはロケット団です」

理由としては十分だ。
納得した青年はドアを開け、男を招じ入れた。

「どうぞ、お入り下さい」
「ああ、いえいえ、お構いなく。
 実はわたし、若頭の命令で調べ物をしてた者でね、単刀直入に結果をお伝えします。
 残念ながら、兄ちゃんが考えていたような秘密組織は、存在が確認できませんでした」
「そうですか」
「団員にも当たれるだけ当たってみたんですがね、いや、申し訳ない」
「構いませんよ。
 ところで、俺はサカキさんから"直接"お話を伺う約束なんですが、彼はいつアジトに戻られますか?」

中年の男の雰囲気が変わった。

「なぁ、童……若頭は忙しい。我儘言っちゃいけねえ」
「俺は二十二です。童顔でよく間違えられるんですが、未成年じゃない」
「面白い。が、長生きできるタイプじゃない」
「脅しですか?」
「他にどう受け取れる?」
「若頭は、あなたの行動を容認してるんですか?」
「……当然だ」

一瞬の遅延を、青年は見逃さなかった。

「彼は仁義を重んじる。
 その性質から考えて、結果は直接俺たちに伝えようとするはずだ。
 これはあなたの独断専行なのでは?」
「……続けてみろ」
「あなたは俺と若頭のやりとりを知っている。若頭から調査を任されたという話に信憑性はある。
 ここで、あなたが首尾よく件の組織の正体を突き止めた、あるいは初めから知っていたと仮定しましょう。
 その情報が俺に伝わることで、何らかの不利益を被るのが俺だけなら、あなたは若頭に情報を挙げていた。
 しかしそうしなかった。
 なぜなら俺のような第三者に情報が漏れることで、あなた方ロケット団にも不利益が及ぶ可能性があったから。
 調べたが何も分からなかった、と若頭に嘘を吐くのは危険だ。
 若頭は俺たちに負い目を感じている。今度は若頭自ら、その組織について調べかねない。
 そこで、あなたは俺の依頼をもみ消す道を選んだ。アジト入り口の若手構成員にはあなたの息がかかっていた。
 アジトには若頭がいるのでは?」
「……大した妄想だ」
「妄想ついでに言います。
 その組織の調査隊が公式記録に残らない以前に、その組織の存在自体が隠蔽されている。
 情報漏洩が認められれば、漏洩した者にペナルティが与えられる。ロケット団すらその法に縛られる」
「つまり?」
「食物連鎖の頂点は、あなた方ではない」

中年の男は無表情で言った。

「……別の形で出会いたかった。幹部に推していただろうに」
「遠慮しておきます。光栄だとも思いませんね」
「そうか。まぁ所詮……喩え話だ」

男はベルトのボールの開閉スイッチを袖口の仕掛けで押した。
ほぼ同時に青年がボールを展開できたのは、僥倖という他ない――とその時の青年は信じていた。
一刹那の後、男の繰り出したニョロボンの拳打を、青年の繰り出したオコリザルが受け止める、という構図が部屋の玄関に生まれた。

「なるほど。若頭と五分でやりあったってのは嘘じゃなさそうだ」

男の目がゆっくりと細められる。格別の獲物を前にした猛禽類のように。
それは、路地裏で対峙した時のサカキのそれによく似ていたが、込められた殺意は比較にならないほどの鋭さだった。
長く裏の世界を生き延びてきた人間の目。それも、捕食者として。
これは敵いそうにない――と青年が嘆息しかけたそのとき、男はニカッと屈託のない笑顔を見せた。

「いやぁ、失礼。ちょいっと兄ちゃんを試させてもらいました。これまでの無礼はお詫びします」

青年は瞬きして、

「……俺は何を試されていたんでしょうか?」

ニョロボンをボールに戻し、男は人の良さそうな笑みを深める。

「一つは意志。生半可な興味で首を突っ込まれても困るんでね。他の首まで一緒に落ちかねない。
 もう一つは力。せっかく情報を与えても、志半ばで倒れられちゃ艶消しです」

男が口をつぐんだタイミングで、部屋に備え付けられていた黒電話が鳴った。

「どうぞ、お出になってください」
「出てもいいんですか?」
「あんたの電話です」
「誰に繋がっているんですか?」
「出りゃ分かる」

青年は電話の前に立ち、受話器を取り上げた。

「もしもし……」