「おもーい、だるーい、歩きたくなーい」
約27回目となるカエデの弱音に、ヒナタと僕は慣れきってしまっていた。
「地図を見た感じだと、あともう少しよ。頑張りましょ」
「ヒナタ、さっきから同じことばっか言ってるじゃないの」
「ピカァ……」
それは君が言えた台詞じゃないだろう……。
それにいつまで経っても目的地が見えてこないのは、
君の歩みが果てしなく遅いからだぞ。
「ね! ここら辺で休憩しない?
お腹もへったし。あたしクチバシティでおやつ買ってきたんだ」
勝手に座り込んで、リュックサックを開けるカエデ。
ヒナタと僕は視線を合わせ、深い深い溜息を吐く。
ここは十番道路の外れ。
イワヤマトンネルの手前あたりの入り江をパウワウの力を借りて渡り、
僕たちはかつての無人発電所に向かっている。
さて――何故僕たちがこんな辺境に赴いているのかといえば、
それには約5日ほど、時間を逆行させなければなるまい。
ハナダシティを出発した僕たちは滞りなく(カエデの我儘を除けば、の話だ)クチバシティに到着した。
時間は小夜。既に辺りは夜の帷に包まれている。
最初に違和感に気づいたのは、カエデだった。
「ねぇ……なんか暗くない?」
「そうかしら。夜も遅いし、普通じゃない?」
「……ううん、やっぱりおかしい。
あたしクチバに遊びにきたこと何度もあるけど、
街灯とかネオンとか、もっと明るかった気がするの」
僕は記憶を手繰り、サトシと訪れた十数年前の街の風景を思い描く。
だが、記憶が不明瞭な上にかなり過去のものであることも手伝って、
クチバシティの暗さが「正常」なのか「異常」なのか、判断できなかった。
ヒナタが言った。
「とりあえず、ポケモンセンターに行きましょ。
街の人に聞けば、何か分かるかもしれないわ」
果たして、カエデの直感は当たっていた。
街の中を歩いていると、等間隔に設置された街灯はその半分が意図的に消灯されていることがわかる。
ポケモンセンター内の照明も、かなり絞られており、
自然と、この街が電力不足に陥っていることが理解できた。
「最近、大規模な停電があったの」
と、ジョーイさんは困憊した表情で語った。
「この街の電力の過半が、十番道路にある発電所で賄われていることは知っているかしら?」
「いいえ、初耳です」
「昔は、その発電所は無人で、それはそれは寂しい場所だったのよ。
クチバシティが海岸側に発展して、その発電所に誰も寄りつかなくなって、何年もの月日が流れたわ。
最深部には伝説のポケモン、サンダーが棲み着いている、という噂もあって、危険区域にも指定されていた時期もあったわね。
でも、クチバシティの都市化に伴って、無人発電所復旧計画が立案されて――
復旧作業は、あっという間に終わったわ。もともと設備は備わっていたから、まあ当然ね。
そして無人発電所は、カントー発電所として生まれ変わったの。
今ではクチバシティにとって、なくてはならない発電施設よ」
既に知っていたらしいカエデは退屈そうに髪を弄っている。
ヒナタが訊いた。
「それで……、その発電所に、何か異常が?」
ジョーイさんは頷いて、
「もう半月ほど前になるかしら。
ある日、街全体が真っ暗になるほどの停電が起きたの。
すぐに電気は復活したんだけど、供給量は元の半分以下に落ち込んでしまったみたいで……。
原因がカントー発電所にあることは、すぐに判明したわ。
でも、どんなに街の方から連絡を取ろうとしても、発電所からは反応がなかったみたい」
「反応がなかったって、まさか発電所で働いていた人の身に、何か起きたってことですか?」
「そこまでは分からないの。
発電所の備蓄には余裕があるみたいだから、
なんらかの事故で身動きがとれなくなって、助けが来るのを待っているのかもしれないし、
ただ単に通信機のトラブルで、電力供給が低下した原因を伝えられなくて困っているのかもしれないし。
でもね……、」
とジョーイさんは急に歯切れの悪い口調になって、言った。
「原因究明のために、停電の二日後に出発した先遣隊からの連絡が途絶えて、
そのさらに三日後に出発した、ジムリーダー、マチスを中心とした調査隊も、まだ帰ってきてないの」
「えっ!? じゃあ今、クチバシティジムは――」
「閉鎖中よ。発電所で何があったんでしょうね……本当に不気味だわ。
話が長くなっちゃったけど、今日はここで泊まる? 部屋はまだいくつか空きがあるけど?」
お願いします、とヒナタは消沈しきった声で答えた。
ベッドテーブルに備え付けられたライトが、
淡く、ヒナタとカエデの横顔を照らしている。
二人の間には、カントーとジョウトの地図があり、険悪な雰囲気が互いに遠慮なく醸されていた。
「発電所に行くわ」
「イヤよ。面倒だもん」
不毛だった。
僕はピッピ、ヒトデマン、パウワウ、ワニノコと一緒に、輪になって座り、頭を抱えていた。
どうして僕たちの主人はあんなに折り合いが悪いんだろうね。
「この街で留まっていたら、いつオレンジバッジを手に入れられるかわかったもんじゃないわ。
発電所に行って、マチスに会って、ついでに発電所の問題も解決しちゃえば、一石二鳥でしょ?」
「どーしてあたしたちがそんな無駄なことしなきゃいけないわけ?
他の人たちに任せとけばいいことじゃない。あたしは絶対ヤだから」
「あーもー、分かったわよ!
あたしは一人で行くから。カエデはクチバシティで待ってればいいわ!」
鬼の形相で言い捨て、ベッドに潜りこんでしまうヒナタ。
びくっ、とカエデの肩が震える。
カエデは普段は高圧的だが、一旦ヒナタが怒ると、姉に叱られた妹のように縮んでしまうのだった。
「い、いいもん! あたしはポケモンと一緒に眠るから!」
つかつかと僕たちの方に歩み寄り、
パウワウ、僕、ヒトデマン、ワニノコ、ピッピの順にソファに並べて、その横になるカエデ。
彼女の温もりを肌で感じながら、僕は心の中で、夜伽できないことをヒナタに謝った。
翌日。
発電所探索のために荷物を小分けし、
余った荷物をポケモンセンターの預かり所に預けたヒナタは、
朝からどこかに出かけていたカエデと、ばったりセンター前で出会った。
ヒナタはつん、とそっぽを向いて、
「それじゃあたし、行ってくるから。あんたとの旅は短い間だったけど、楽しかったわ。
ここで待つなり、旅を続けるなり、お好きにどうぞ」
歩き出す。
「ま、まま、待ちなさいよ。やだ、ヒナタ、待って!!」
その裾をカエデが掴んだ。彼女の抱えていた買い物袋が、ばらばらと散らばる。
ヒナタが振り返る。怖面だが、唇は三日月型に笑っていて――。
「あたしがカエデを置いてくわけないでしょー。
あんたの性格なんてお見通しよ。それより何? やっぱ着いてきてくれるの?」
カエデは俯いたまま、
「……うん」
と頷いた。ヒナタは散らばった買い物袋を拾い上げながら、
「正直言うと、もしかして本当に一緒に来てくれないのかな、って不安だったの。
朝からどこに行ってたの?」
「ショップ。あたし、リュックサックに旅に必要なもの、全然入れてなかったから……いろいろ買ってきたの」
「そうだったんだ」
嬉しそうに微笑む。
その後、一旦ポケモンセンターに戻って、
カエデも準備を済ませ、僕たちはいよいよカントー発電所に出発した。
そして、時は現在に至る。
「ピカ、ピ……」
「旅に必要なものって、そのことだったのね……」
むしゃむしゃとお菓子を頬張るカエデに、僕とヒナタは辟易していた。
あの『旅の決意』の正体がこんなものだったなんて、カエデ、君には失望せざるを――。
「ピカチュウも食べる?」
「……ピカ」
得なくもないな。
クチバシティの特産物"マルマイン饅頭"はその名の通り体を表していて、
二層構造になった餅と餡が絶妙なハーモニーを奏でている……おっと、何を普通に賞味しているんだ僕は。
焚火から離れて、ヒナタの膝の上に座る。
カエデの我儘通りに休憩がとられたものの、
案の定、食べたら動きたくなくなる法則が発動し、発電所を手前にして二度目の野宿となった。
ぱち……ぱちぱち。
薪の爆ぜる鋭い音が、しかし眠りに誘うように聞こえてくる。
「眠ってもいいわよ、ピカチュウ。
今夜はあたしとカエデで、交代で番をするから」
ヒナタの細くて柔らかい指に撫でられると、どんなに堅い意志でも蕩けてしまう。
だが、いくら他のポケモンが主人に甘えようとも、僕は深く眠るわけにいかなかった。
不慮の事態はいつ何時起こるか分からない。
――特に君は、そういったものに巻き込まれるよう運命付けられているんだから。
僕は右耳を倒して、ヒナタに告げた。
「チュウ」
ほら、また釣られてきたぞ。
「うぃーっす。ねぇねぇ、俺らも焚火当たらせてくんない?
「あー俺わかっちったー。キミタチもあの発電所目指してんでしょ?
同じポケモントレーナーだしねーあはは、共鳴ってヤツ?」
馬鹿笑いしながら近づく若者二人。僕は冥福を祈った。
ここで引き返せば無事に帰れるというのに。実に哀れだ。
「ヒナタ、あんたが行きなさいよ」
「カエデ、お菓子ばっか食べてないでたまには働いたら?」
「だらしない女みたいな言い方しないでよね」
「あーはいはい。じゃあまた二人で片付けましょう。そっちの方が早いわ」
二閃。ポケモンバトルに呼び出されたと思ったのだろう、
闘志に充ち満ちた構えで現れたパウワウとヒトデマンは、若者二人を認め、げんなりした風に見えた。
「待った待った。俺たちは平和の使者なわけ。
君ら美人姉妹と、友好の繋がりを持とうとはるばるやってきたんだって。ほら、ポケモン仕舞いなって」
「今晩は仲良くやろうぜ。つーわけで、おっ邪魔っしまーす」
ヒナタが投げ遣りに言った。
「"バブル光線"」
ヒトデマンが十数倍にも希釈したバブル光線を、若者の足許に放つ。
つるつるに滑る足場を歩き続けた二人は、派手に転んで大地に接吻する。
これが最後のチャンスだ、今すぐ起き上がって逃げろ――。
そんな僕の心の忠告も虚しく二人はゆらりと起き上がり、
「あー……ちょっと君たち、悪ふざけが過ぎるんじゃない?」
「俺らにも我慢の限界ってヤツが――」
ヒナタとカエデは、顔を見合わせて頷き会った。
「ヒトデマン、"みずでっぽう"をお願い」
「パウワウ、"冷凍ビーム"で固めてあげなさい。あとあたしたち、姉妹じゃないから」
ばしゃ、と水が浴びせかけられ、
冴え渡る冷気が、その水を瞬間的に凍らせて……。
若者二人がいた場所には、めでたく氷の彫像の完成していた。
絶叫の形相のまま氷漬けにされたその姿に、僕はごくり、と生唾を飲み込んだ。
「これで何個めかしら」
「さあ、憶えてないわ」
カエデは何事もなかったかのように欠伸し、
シートの上に横になって、ポケモン考古学の専門書を読み始めた。
いつもながら、普段の彼女を知る僕にとってはあまりにも意外すぎる光景だ。
「ねぇヒナタ」
「何?」
「ポケモンがどうやって誕生したのか、想像したことある?」
「なによいきなり急に……」
と言いつつも、両手をチューリップのような形にしてそこに顎を乗せ、瞑想するヒナタ。やがて彼女は言った。
「あるわ。あたしが赤ちゃんの時から傍にいて、
時には遊んでくれて、時には一緒に戦ってくれるポケモンが、
いったいいつ誕生して、どのように人間と生活圏を重ねていったのか……。
でも、所詮は想像よ。
学校で習ったけど、まだ確かなことは何一つ分かっていないのよね?」
「……うん。その原初の解明が、ポケモン考古学者の夢なの。
天文学者や物理学者にとっての、ビッグバンの真相究明と同じようなものねー」
「ふーん。じゃあカエデも将来は、ポケモン考古学者になって研究に明け暮れるんだ?」
「そうできたらいいなって思ってるけど……」
カエデが遠い目で、焚火の揺らめく炎を透かし見る。
恐らく彼女の頭の中には、ハナダシティジムリーダーを継ぐという選択肢が芽生え初めてきているのだろう。
ヒナタと和解し、アヤメの誤解も晴れた今、
強制されることなきジムリーダーという仕事は、彼女の瞳に魅力的に映り初めているのかもしれない。
「ピカ、ピカチュ」
カエデ、君は気づいていないかもしれないけれど、それはとても幸せなことなんだよ。
ポケモン考古学者とジムリーダーの仕事を天秤にかけられる子が、この世に何人いると思う?
カエデは本を置いて目を閉じる。
それを見て、ヒナタがタオルケットを取り出そうとした――その時だった。
「ははーん。なるほどな。
こんなにキレイな誘蛾灯が二つもありゃあ、アホな男どもが寄っては散っていくわけだ」
暗闇から若い男の声。
直後、閃光が走る。
ぼうっ、と人魂のように揺らめく炎は、ポケモンが発している物と見て間違いない。
「誰ッ!?」
ヒナタが誰何し、カエデが飛び起きてベルトに手をかける。
「おいおい、俺は敵じゃねえっつーの。物騒な奴らだな……」
「いきなり現れてポケモンを出すあんたの方が物騒よ!
今すぐ立ち去らないと、容赦しないからね。お願い、ヒトデマン!」
「やれやれ、こっちは話がしたいだけだってのに。
そうやってあの男どもを氷漬けにしてきたのか?
追い返されても仕方ない奴らだとは思うが、あいつらマジ泣きしてたぞ」
「知らないわよそんなのっ。行って、パウワウ!」
時間差で二閃。
呼び出されたパウワウとヒトデマンは、
従前とは違う緊張した空気に、いつ命令されても素早く反応できるように身構えた。
そして――
「俺は氷の彫像になるなんてまっぴらご免だぜ。マグマラシ、しっかり守ってくれよ」
「ヒトデマンっ、"みずでっぽう"よ!」
「パウワウっ、"冷凍ビーム"!」
繰り出された技に手加減の跡はなかった。
高速で噴出された水が、軌道上の水蒸気を凝固させるほどの冷却光線が、
一直線に男のポケモンに浴びせかけられて――
僕は視た。
瞬間的な状態変化が連続で発生し、空気が一気に膨張するのを。
「ピカッ――」
伏せろ!
僕の意図が伝わるよりも先に、凄まじい暴風が吹き荒ぶ。
「きゃっ――!!」
「いやっ――!!」
風が収まったとき、辺りは惨状と化していた。
焚火は消え、お菓子の袋はあらかた飛んでしまって、
一生懸命建てたテントも傾いでしまっている。
ヒナタとカエデは、目を覆ってその場にしゃがみ込んでいた。
水鉄砲を気化させ、
冷凍ビームを無効化するほどの火炎、か。
久々に僕の出番かもしれないな。
頬から電流を走らせる。
闇夜にその青紫はよく映えた。
男がポケモンとともに近寄ってくる。顔は未だ窺い知れない。
「おいおい、大丈夫かよ。
お前らを攻撃するつもりはなかったんだ。正当防衛ってやつさ」
僕はフラッシュを使った。光が一帯を照らす。僕は驚愕に目を見開いた。
何故ここに君が? 嘘だろう? ヒナタが再び誰何する。
「やだ、来ないでよっ……。あんたいったい誰なの?
どうしてあたしたちに関わろうとするのよ!?」
「だからそんな警戒すんなって。俺の名はタイチ。
ポケモンマスターを目指して旅をしてるポケモントレーナーさ。
バッジを集めてクチバまで来たら、
停電騒ぎでマチスの野郎が発電所に向かってるって聞いて、ここまでやってきたんだが、」
「……タイチ。どっかでその名前……あっ」
僕の心に、理解の波が押し寄せてくる。
この風貌といい、パワーに任せた防御の仕方といい――
若い頃のシゲルにそっくりのこの少年は、
「あんたもしかして、シゲルおじさまの息子なの?」
「ああ……って、どうしてお前がその名前を?……あっ、お前……もしかして……ヒナタか!?」
「どっ、どうしてあんたがあたしの名前を知ってるのよ!?」
「マジかよ、信じられねぇ。こんなところでヒナタに会えるなんて! 俺、俺――」
情報が錯綜し、軽い混乱状態に陥る少年とヒナタ。
しかし何を思ったのか、そのタイチなる少年はがばっとヒナタを抱擁しようとし、
「うごっ」
不可視の障壁にしこたま頭をぶつけて昏倒した。
――リフレクター?
僕は呆然とするヒナタの背後に回り込む。
するとそこには予想どおり、ぎゅっと目を瞑って、指を振り続けるピッピがいた。
ほう。やれるじゃないか、ピッピ。
30分後。
そこには奇妙な図が出来ていた。
まず中心に、額に大きなたんこぶを作って眠る哀れな少年、タイチ。
その横でタイチの額に濡れタオルを当て、目を覚ますのを今か今かと待ち構えているヒナタ。
そしてその周りを、蕩けた笑顔で「きゃあきゃあ」言いながら小躍りしているカエデ。
事情を知らない第三者がこの場を訪れたら、
あまりの奇妙さに後ずさって逃げていくレベルの図だ。
タイチが昏倒した後、彼のポケモンであるマグマラシは大人しくボールに戻った。
突然の事態に戸惑いつつも、とりあえずヒナタは倒れたタイチを介抱することにしたのだが、
その時、僕はとてつもなく嫌な予感がして振り返った。予感は寸分の狂いもなく的中していた。
暴風によって瞑っていた目を開けたカエデは、
財布の中から一枚の写真を取り出し、タイチの顔と見比べ、喜色満面になってこう言ったのだ。
『奇跡よ! 若い頃のシゲルが時空を超えてあたしの前に現れるなんて!』
――――――
――――
―――
僕は今一度タイチを観察する。
裾のすり切れたベイカーパンツにラグランTシャツ、胸元にはフレアネックレスと、
軽さ全開の格好だが、顔の造形は年齢に見合わず大人びていて、
そこに長い前髪と睫が、細い影を落としていた。
まったく……見れば見るほどシゲルにそっくりだ。
「う……んん……」
瞼が僅かに動く。ヒナタは濡れタオルから手を離して、
「目が覚めた?」
「あ、ああ……そうだ、ヒナタ、俺――」
「ターイーチーくんっ。おはようっ。
ヒナタから話を聞いた時ははらわたが煮えくりかえって
もう卒倒しちゃう寸前だったんだけど、あの子とシゲルの関係については綺麗さっぱり忘れることにしたの。
どんなにあたしがファンでも、シゲルは既婚なのに変わりはないしー、
あたしはまだ十代だしー、やっぱり現実を見なくちゃね☆
聞いた話だとタイチくん、シゲルの息子さんなんですってね。
あの、わたし、ヒナタの従妹のカエデって言います。
それで良ければこの出会いを機会にお付き合いを――」
「カエデはちょっと黙ってて」
ヒナタに頬をつねられて、ふがふが言うカエデ。
タイチは困惑した様子で言った。
「お前、本当にヒナタなのか?」
「ええ、そうだけど?」
「なんつーか、その……変わったな。俺が知ってるお前は、もっとお淑やかで、可憐な百合の華みたいで……」
ぺし、とデコピンが炸裂する。
「どういう意味よ、それ」
「いや、全然悪い意味じゃねーんだ。本当だぜ!」
「まあいいわ。ところで、とても大事な質問があるんだけど、聞いてもいいかしら。
どうしてあんた、あたしの名前知ってるの? あたしたち、初見よね?」
「…………………は?」
三点リーダ七個分の間に、
タイチの顔は血色の良い肌色から蒼白色になり、土気色になって、やがて完全に生気を失った。
「……嘘、だろ? なあっ、嘘って言ってくれよ!」
「嘘なんか言ってないわ。あたしがあんたと会うのはこれが初めてよ」
我慢できなくなったのか、タイチはがばりと身を起こし、
「違う! 本当に忘れちまったのか?
あれはもう10年も前のことだけどさ、
俺が親父に連れられてマサラタウンに寄って……、
そんとき初めて俺はお前と出会ったんだ。
親父たちに外で遊んでこいって言われて、
俺と一緒に出かけたお前はすっごく緊張してて、
でも、恐る恐る繋いでくれた手はすっごく柔らかくて……。
森の中でキャタピーに襲われた時のお前の顔は今でも忘れられねえよ。
あのときポケモンを持ってなかった俺は、無様に大人を呼びにいくことしかできなかった……。
その時俺は誓ったんだ。
誰にも負けない一流トレーナーになって、お前を守れる存在になるまで、
お前の前に姿を見せないってな……ふっ、我ながらキザな少年時代だったぜ」
「うわ……」
ヒナタは完全に引いていた。
僕も引いていた。カエデだけが嫉妬の炎をメラメラ燃やしてヒナタを睨み付けていた。
この自意識過剰っぷり……重傷だ。それもかなり。
ヒナタは目を閉じて、溜息を吐くようにして言った。
「ごめん、あたし、やっぱり思い出せない」
意外にもタイチの反応はあっさりしていた。
「今すぐ思い出してくれなくてもいいぜ。ゆっくりでいい。俺は待つから」
「べ、別に待ってもらっても困るんだけど……」
「待つって。ま、そのうちヒナタが思い出さなくてもいいようになるかもしれないけどな」
爽やかな笑顔。漲る自信。
この出所不明のポジティブシンキングは――やはり親父譲りなのか。
思わず自分の体を抱きしめたくなるほどに、冷たい沈黙が影を落とす。
ヒナタは相変わらず笑顔のタイチと、いよいよ爆発しそうなカエデを交互に見て言った。
「あの、紅茶あるんだけど……呑む?」
第七章 上 終わり
最終更新:2009年01月19日 00:49