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研究室前に赴くと、青年は落胆の溜息をついた。
ドアに張られている博士の居場所を表すマグネットが、先端科学技術研究所に位置していたからだ。

「先端科学技術研究所は、ここから遠いの?」
「いいや。歩いて二十分くらいかな」
「それじゃあ、案内してもらえる?」
「もちろん」

大学から先科への道中、青年はちらちらとハナコの様子をうかがっていた。
「大木戸博士に会いたい」と切り出してからというもの、彼女の表情は陰ったままだ。
これではデート気分も台無し――いや、そもそもハナコは最初から俺のことを、観光ガイドとしてしか見ていなかったのかもしれないが。
ハナコは大木戸博士が父親の友達だと言った。
しかしハナコの雰囲気から察するに、歓談が目的というわけでもなさそうだ。
本意を尋ねることができないまま、二人は先科の入口にやってきた。
大木戸研究室の学生として既に何度も先科を訪れている青年は顔パスで、
ハナコも青年の紹介と、大木戸博士の友人の娘という事情を話して、守衛室を通り過ぎる。
大学教授でありながら先科にも籍を置く博士には、私室があてがわれている。
青年はハナコを連れ立って、迷路のように複雑な館内を歩いて行った。

「ここが博士の部屋だ」

やがて一室の前で、青年が歩みを止める。

「ハナコは博士と二人きりで話す……」

ハナコは無言で頷いた。

「……ほうがいいよね」

青年が退くと、ハナコは丁寧にノックし、博士の声が聞こえると、唇を堅く引き結んで部屋に入っていった。
廊下の明かりは、節電のために昼間は光量が絞られている。
薄暗い廊下で、青年は蒸し暑さに堪えながら、話が終わる時を待った。
やがて、ドアが開く音がした。
青年は腕組みをとき、壁に預けていた体を起こして、伏せていた顔を上げた。
ハナコと、彼女を支えるようにして博士が部屋から出てきた。
ハナコは両手で顔を押さえ、声を殺して泣いているようだった。
……これはいったい何の冗談だろう。
それまでささやかな時間をハナコと共有した青年にとって、彼女の涙は想像の埒外にあった。

「この子を、この子が泊まっている宿まで送り届けてあげなさい」
「あの、博士……」
「私はこれから会議がある。任せたよ」

博士は施錠を済ませると、青年が言葉を探しているうちに、そそくさと去って行った。
博士の姿が青年の視界から消え、廊下には遠のいていく足音と、ハナコの嗚咽だけが響いていた。

「……帰ろうか」

声をかけてみたものの、ハナコは動かない。
とにかく、どこか落ち着ける場所に彼女を連れて行こう。
青年が優しくハナコの肩に手をかけると、ゆっくりとハナコは歩き出した。
先端科学技術研究所のエントランスは閑散としていた。
受付嬢は青年とハナコを一瞥すると、すぐに入口へ視線を戻した。
館内の静謐さを乱しさえしなければ、注意されることもないだろう。
エントランスに設置された丸椅子のひとつにハナコを座らせて、青年もその隣に腰掛ける。
泣いている女の子を慰めるにはどうしたらいいんだろう。
こんな状況に居合わせたことのない青年には皆目検討がつかず、
かといって女の子を泣かせ、それを慰める手練手管に長けた彼の親友には、助言を求められそうにもない。
西日が館内を赤に染める頃、ハナコは語り出した。

「わたし、あなたに嘘をついていたの」
「嘘……?」
「最初、わたしがタマムシに来た理由は、観光だと言ったでしょ?
 違うの。本当は最初から、大木戸博士に会って、話すことが目的だったの」
「大木戸博士とは、どんな話を?」

ハナコは一瞬、躊躇うように口をつぐんだ後、

「わたしの、お父さんの話」

ハナコは先日、自分が一人暮らしだと言っていた。
そのときは勝手に色々と想像を巡らせたが、その答えが今明かされる。

「わたしのお父さんはね、探検家なの。
 探検家がどんな職業かは、いちいちあなたに話すことでもないわよね」

探検家とは、この世界の人類未踏地域を探索する者のことを指す。
排他性の強い、かつ獰猛で強力な野生ポケモンが棲まう極地は、
人間がポケモンを従える術を得た今となっても、世界に多数点在している。
世界地図の三割を占める空白地帯に足を踏み入れ、
新種のポケモンを発見し、生態系を解明し、人類進出の礎石を成す。
華のある仕事だが、当然、伴う危険も大きい。
奥地に進めば進むほど生還率は減り、無事に調査結果を報告出来るのは一握りの優秀な探検家のみ。
当然、特定危険地域立入許可証の取得が探検家になるための最低条件である。

「わたしのお父さんは、そこそこ名の知れた探検家だった。
 わたしが生まれるずっと前から探検を繰り返していて、ほとんど家にいなかったのを覚えているわ」
「それは、寂しかっただろうね」
「わたしは、別に……。でも、可哀想だったのはお母さんよ」

過去形で語る声は、悲しみに暮れていた。

「ハナコのお母さんは……」
「死んだわ。去年の暮れに、心臓の持病で。
 お父さんが探検に出発した直後から体調を崩しはじめて、そのまま……。
 結局、お父さんはお母さんの死に目に間に合わなかったし、今も探検に出かけたまま、どこにいるか分からない。
 わたしは、お父さんに一言文句を言ってやりたいの。
 どうしてもっと、お母さんのことを大切にしなかったんだって。
 探検に夢中になって、家で待っているお母さんのことを蔑ろにしてばっかりで……」
「…………」
「ごめんなさい、話が逸れたわね。
 お母さんが死んでからも、わたしはマサラタウンで、ずっとお父さんの帰りを待っていた。
 お父さんから便りの一つもないまま、三ヶ月が過ぎたわ。
 でも、わたしが子供の頃にも、お父さんが長期の探検でそれくらい家を空けていたことがあったから、気にしすぎないようにしていたの。
 でも……もう半年よ。いくらなんでも、長すぎるじゃない?」
「それで自分で、お父さんの行方を捜そうと思ったんだね」
「ええ。大学に休暇の申請を出して、旅の準備をして……大木戸博士に会いに、単身タマムシにやってきたというわけ」
「ハナコのお父さんと、大木戸博士はどこで知り合ったんだい?」
「学生時代からの友達だったみたい」

大木戸博士はマサラタウン出身だ。同郷、同校のよしみだったのだろう。

「大木戸博士は研究者に、お父さんは探検家になった。
 道は違っても、ずっと親交は続いていて、
 お父さんはよく探検で見つけたものを、大木戸博士のところに持ち込んでいたみたい。
 だから……お父さんが旅に出る前に、大木戸博士のところに立ち寄っていないか、
 旅が終わった後に、探検の成果を大木戸博士に話しに来ていないか、確認したかったの」

そしてその結果は、先ほどの愁嘆場が如実に物語っている。
青年は半ば答えを予想しながら訊いてみた。

「博士は、なんて?」

一時干いていた汐が、ハナコの両目に満ちる。

「お父さんはもう長い間、博士に会いに来ていない、って。
 探検家が半年以上も音信不通になったときは、旅の途中で亡くなっている可能性が高い、って」

やっぱり、そうか。
青年はエントランスホールの天井を仰いだ。
残酷だが、恐らく博士の言った通りだろう。
ハナコも心のどこかではそれに気付いていた。
タマムシに到着して、すぐに大木戸博士のもとに訪れなかったのも、
タマムシを観光していたのも、彼女が無意識にしていた現実逃避と考えられる……。
そのとき、ハナコの傍らに置かれていた鞄が動いた。

「どうしたのかしら」

ハナコが目尻を拭ってから、鞄の中を覗き込んだ。
動いていたのは、モンスターボールだったようだ。

「外に出たがってるみたいだね」

青年が受付嬢のほうを伺うと、受付嬢は微笑んで、きゅっと両目を瞑ってみせてくれた。
館内で無闇にボールを展開することは禁止されているが、今回は見て見ぬフリをしてくれるようだ。
ぽんっ、と音がして、プクリンが現れる。

「どうしたの……?」
「プク~」

プクリンは短い手足でハナコの膝によじのぼると、長い耳で彼女の頭を撫でた。
ハナコが濡れた声で笑う。

「ぐすっ……この子、わたしを慰めているつもりなのね」

ハナコがプクリンを抱きしめる。
強まる西日の中で抱き合うハナコとプクリンの姿を、青年は目を細めて見つめていた。