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修行に終止符が打たれたのは、あのアズマオウとの初戦から十日が経った、日曜日のことだった。
休日だというのにその日はアヤメもカエデも早起きで、
僕は今日、何かしらのイベントが予定されていることを予感する。
朝食の場で向かい合ったヒナタとカエデの口数は少なく、雰囲気もとげとげしかった。
素因はシンプル。
ここ数日のあいだ、カエデの嫌味がさらなるグレードアップを見せていたからだ。アヤメが言った。

「ヒナちゃん……話があるんだけど、いいかしら?
 今日はジム自体が休みなんだけど、鍵を管理しているのはわたしだから、秘密でプールを開放することが出来るの。
 だから朝ご飯を食べ終わった後、少し休憩してからでいいからジムに行かない?」

二つ返事で承諾したヒナタにアヤメは微笑み、こう付け加えた。

「あと、今日はカエデも一緒にジムに行くわ。
 ヒナちゃんがどれほど成長したか見たいんですって。構わないかしら?」
「別に構いませんけど……」

ヒナタは黙々とコーンフレークを口に運ぶカエデを見て、

「……あんた、本当にそんなこと言ったの?」
「疑ってるの? 残念ながら本当よ。
 可愛い従妹の"ヒナちゃん"がどれほど強くなったのか、確かめてあげようと思ったの。感謝しなさいよね」
「ちょっと! 確かめるってどういうことよ?」
「馬鹿ね、分かりなさいよ。
 あたしがあんたの相手をしてあげるってことに決まってるじゃない。
 ……ごちそーさまー。それじゃあたし、先に行ってるから」

空になった容器とスプーンを置いて、席を立つ。
そしてヒナタが何か言い返す前に、彼女はジムに行ってしまった。

「なんなのよ、もう……! あたしが何かしたっていうの?」

アヤメが台所から、すまなそうな声で言った。

「嫌な思いをさせてごめんなさいね。
 母親だから庇っているように聞こえるかもしれないけれど、
 余計な気持ちが邪魔をしているだけで、本当はあの子も、あなたと仲良くしたがっていると思うの」

むすっとした顔でヒナタは答えた。

「それにしたって、あんな言い方はないと思います。あたしたち、従妹同士なのに……」


「従妹同士だからこそ、意識してしまうのよ。
 あの子があんな風に育ったのには、わたしにも責任があるわ。
 でも、どうかあの子のことを嫌いにならないであげて」
「あたしはカエデのこと、確かにちょっと苦手だけど、嫌いだと思ったことはありません。
 でも、カエデの方はあたしのこと、きっと、嫌いだと思います。
 最近はずっとあたしに冷たいし、ジムから帰ってきた後も、全然喋ってくれないし」
「ヒナちゃん……」

アヤメが口を濁らせ、居心地の悪い沈黙が下りる。
僕はカエデが、アヤメに抱いている気持ちの正体を知っていた。

もっとも――。

それをヒナタに伝える手段もなければ。
それをヒナタに伝えるつもりもないのだが。

僕はアヤメを一瞥する。
君が悩むことはないんだよ。
どのみち、ヒナタとカエデの不明瞭な摩擦は、彼女ら二人の手によって解消されるのだから。

「今日のポケモンバトルは、基本的にわたしは観ているだけよ。
 試験のようなものと考えてくれればいいかしら。
 わたしとヒナちゃんが初めて戦ったときみたいに、ポケモンへの指示は、ヒナちゃんの自由。
 わたしはどちらか片方を応援することは出来ないけれど、両方を応援することは出来るわ。
 ……頑張ってね」

ヒナタは小さく頷いた。

「ご馳走様でした。行ってきます」



「ピカ!」

僕もポケモン専用椅子から飛び降りて、ヒナタの肩によじ登る。
アヤメは朝食の片付けや家の施錠をしてからジムに来るのだろう。


「カエデとポケモンバトルするの、何年ぶりかしら。
 あの頃はまだママのポケモンを借りていたし、
 内容だってポケモンバトルと呼べたようなものじゃなかったけど、
 それでも勝つのは、いつもカエデの方だったっけ」

まだ眠ったままの縹色の街なみを歩きながら、ヒナタはぼんやり追憶する。
僕はそんな彼女の頬をつねった。

「チュウ」

補正された思い出は、擦れ違いの原因を覆い隠してしまう。
ある一つの要素が二面性を持って、二人の人間にそれぞれ異種のコンプレックスを与えてしまうのだ。
元を正せば、そんなものは、単純な感情でしかないのに。


ジムに着くと、既にカエデは足場の上でボールを弄んでいるところだった。
その姿はまるで、投身台の端で全てを諦め、自棄になったお姫様のよう。

「遅い。あたしがジムリーダーなら減点してるわ」
「あたしは挑戦者じゃないし、カエデはここのジムリーダーじゃないでしょ」

ヒナタが足場の一つに上ると、カエデはボールを弄んでいた手を止めて、

「昔を思い出すわね、ヒナタ。覚えてる?」


「……??」
「あたしとあなたが喧嘩して、
 お母さんたちのポケモンを使ったポケモンバトルで、決着をつけようってことになって。
 あれがあたしにとってもヒナタにとっても、初めてのポケモンバトルだったんじゃないかしら?
 結局、どちらのポケモンも制御を失ってしまったけど……。
 最後に立っていたのはあたしのポケモンだったわ。
 ポケモンのレベルやコンディションはほとんど同じだったにも関わらずね」
「何が言いたいの?」

カエデは薄く笑って、

「あたしたちが成長して、自分のポケモンを持つようになった今も、
 勝つのはあたしで、負けるのはヒナタだってことよ。
 一週間そこらで、ポケモンバトルが巧くなるわけがないのよ。
 ううん、あたしがそんなの許さない。来なさい、ヒナタ。実力の差ってヤツを思い出させてあげるわ」

アヤメとそっくりのモーションで、ボールをプールに落とす。
入水。閃光。
水面が紅く輝き――アシカ型のポケモンが現れる。
体毛はふくよかなパールホワイト。
一角はまだ発展途上だが、口角から生えた双対の牙は長く、鋭く尖っていた。

「パウワウよ。さあ、あんたもポケモンを出して。
 なんならハンデとして、ピカチュウを使ってもいいわよ?」
「冗談きついわ。ピカチュウ、またピッピと一緒に、プールサイドで待っててくれるかしら?」
「ピカ、チュ」

了解、マスター。

「ヒトデマン、出番よ。相手に不足はないわ。思いっきりやりましょ」


ヒトデマンが召還された音を背中で聞きながら、
ピッピを頭に乗せてプールサイドに飛び降りる。

その時、僕は観戦席に通じる通路に、アヤメの影を見た。

カエデが言った。偶然にもそれは、母親と同じ提案だった。

「ピカチュウ、合図をお願いできるかしら」

僕は頷く。
ヒトデマンが入水する。
見たところ、両ポケモンのレベルに大差はない。タイプも同じ水タイプ。
ただし、ヒトデマンが水系統の技に特化しているのに対し、
パウワウは氷系統の技に特化している。
前者は水を攻撃に利用することができ、後者は水を防御に利用することができる。
フィールドの条件は両者に同じだけの手数を与える。
となれば勝敗を決するのはやはり、純粋なトレーナーの"技量の差"だ。


痛いほどの静寂。

これから始まる戦いを覚悟しているかのように、
プールの水面は驚くほど平面に保たれていた。

そして、空気が裂けてしまいそうなほど張り詰めたとき――僕は短く叫んだ。


「ヒトデマン、みずでっぽうで牽制して!」
「パウワウっ、水の中に潜って接近するのよ!」

二人の指示が同時なら。
二匹のポケモンの挙動も同時だった。

水中から発射口を出したヒトデマンが、
少量の水の塊をばらまくようにして水鉄砲を放つ。
が、それらが着水して水飛沫を上げるころには、
パウワウはプールの底に潜り、一直線にヒトデマンに向かって泳いでいた。

ヒナタの指示は読まれていたのだ。

「ヒトデマン、躱して!」
「躱せるかしら? パウワウ、"頭突き"よ!」

距離が詰まる。
対応できないと油断したのだろう、パウワウはフェイントを捨てて直線的に突進する。
しかし、丸みを帯びた角は、虚しく水を切っただけだった。
ヒトデマンはみずでっぽうをブースターにすることで、瞬間的な回避を可能にしていた。

「チュウ……」

ほう、と僕は息を吐く。
どんな技にも準備動作が必要だ。
ヒナタの指示した"みずでっぽう"による牽制は、そのまま回避の準備動作に繋がっていた。

「今度はこっちから行かせてもらうわ!
 ヒトデマン、パウワウが反転する前に、"たいあたり"して。
 今のスピードなら間に合うわ!」

「くっ……仕方ないわね。
 パウワウ、"冷凍ビーム"よ。周囲の水を凍らせて壁にするの!」

回避は諦めたか。
相手の攻撃を防ぐには、大別して二種類の方法がある。
回避か。防御か。
前者のメリットは体力や技を消費せずに済むこと。
後者のメリットは確実にダメージを軽減できること。
両者のデメリットについては、互いのメリットの否定と同義だ。

パウワウは水中でくるりと一回転して、
出鱈目に冷凍ビームを照射した。

パキパキと枯れ葉を何枚も重ねて靴の裏で踏みつぶしたような音が響き、
一瞬にしてパウワウの周りに、薄い氷壁が形成される。

だが――ヒトデマンは勢いを緩めなかった。

「嘘っ!? どうして止まらないの?
 あの子の体もタダじゃ済まないのよ!」
「ヒトデマンは怪我を恐れないわ。
 アヤメおばさまと戦って分かったのよ。逃げるだけが勝負じゃない」

氷壁が鈍い音と共に砕け、
硬く丸められたヒトデマンの体が、パウワウに激突する。
悲痛な鳴き声がプールに響く。

「パウワウっ!」



「ヒトデマン、追撃よ!
 パウワウは可哀想だけど、今だけは躊躇わないで!」
「牽制しながら距離をとって! 今は退くのよっ」

カエデが身を足場からいっぱいに乗り出して、プールを覗き込む。
氷の欠片が浮いた水面は照明の光を乱反射して、水中の様子を窺えなくしていた。

やがて、荒れていた水面が穏やかになる。

ヒトデマンから30mほどの距離を置いて浮上したパウワウの体は、ところどころに傷を負っていた。
カエデが息を飲み、震えているのが、遠目にも分かった。
彼女にとっては、予想外の失態だったのだろう。

相手の不意をつき、そこから防御態勢をとられるよりも早く、追加でダメージを与えていく。
基本だが、これ以上に効果的な連撃の手法はない。

カエデの肩の震えが止まる。
激昂したかに見えた彼女の瞳が、静かな憎しみの火を灯す。

「よくもあたしのパウワウを……絶対に許さないから」

――気をつけるんだ、ヒナタ。驕りから目覚めた彼女は強いぞ。
そう、僕がヒナタに呼びかけるよりも先に、

「パウワウ、冷凍ビームで水面を凍らせて。……全域よ」

カエデは布石を打ち始めていた。
パウワウが空中に身を躍らせて、下方に向かってビームを照射する。
同心円状に、プールの水面が、白に染まっていき――やがてプールの水面は、厚い氷に覆われた。
まるで冬の池のようだ。プールサイドにまで、ふわりとした冷気が漂ってくる。


「ぴぃ!」

様変わりしたプールに興味津々のピッピが氷の上を走りだそうとするのを、
僕は慌てて止めなければならなかった。

氷の上を優雅に滑るパウワウ。

大した冷凍ビームだ、と言いたいところだが、
彼女のレベルは高めに見積もっても30程度、
このフィールドを作り出すのには、かなりの消耗があったはずだ。
冷凍ビームは、精々、あと一度の照射が限界だろう。

「いつまでヒトデマンを隠れさせているつもり?
 水の中は極寒よ。耐えきれるかしら」
「どうしようとあたしの勝手でしょ!
 ヒトデマンっ、みずでっぽうとたいあたりで、
 下からパウワウを攻撃するのよ!」

――パキ。
水鉄砲の水圧と、たいあたりが、氷の地面に罅を入れる。
それは相手に位置を知らせる、致命的なタイムラグ。カエデは冷静に言い放った。

「"オーロラビーム"よ。今ならただの狙い撃ちだわ」
「ヒトデマン、潜って! 氷を楯にすれば――」
「無意味よ」

七色の光が氷壁を貫く。

「オーロラビームは氷を通り抜けるの。
 直撃よりも威力は減衰するけど、何度も当たれば同じことよ」

「そんな――」

水の中にいても零度に近い水温が体力を奪い、
氷の上に出ようとすれば、容赦なくオーロラビームが飛んでくる。
圧倒的不利な状況に、ヒナタは唇を噛む。
カエデは腕を組み、余裕を顔に滲ませて、

「降参する?
 あ、そうそう、降参する時はちゃんと参りました、って言ってよね」
「……誰が降参なんかするもんですか。
 ヒトデマンはまだ戦えるわっ!」
「ふぅ~ん。あたしはそれでも別に良いけど?
 パウワウ、オーロラビームで炙り出して。さっきの借りを返してあげましょ」

パウワウは頷き、だいたいの場所を絞ってオーロラビームを照射する。

七色の光が炎のように揺らめき、散り、眩しいほどの氷上に対して、
氷の下はまるで生物が死滅した死海のように、黒々としている。

水中で何が起っているのかは、たとえ僕の目を以てしても、窺い知ることができなかった。

いかに"自己再生"といえど、極寒の水によって奪われた体力を取り戻すことは適わない。
このまま狙いの甘いオーロラビームに晒され続ければ、
流石のヒトデマンも耐えきれないだろう。

ヒナタはヒトデマンが力尽きるまでに、気づくことが出来るだろうか。
時間だけが無為に過ぎていく。

――――――――
―――――
――

そしてヒナタは、大きく息を吸い込んだ。

「ヒトデマン! まだ戦える!?」

それは厚い氷を透かして、ヒトデマンに声を届けるため。
紅い光が二度だけ明滅し。
それを追うようにして、七色の光が照射される。

「もう諦めなさいよ。どう足掻いても、無傷で氷上に上がってくることなんて出来っこないのよ?」

ヒナタは目を瞑る。
彼女はもう、カエデの言葉に惑わされないだろう。
それは即ち、この絶望的な状況の中から、彼女が勝機を見出したということ。

「最初に罅を入れた場所に"高速スピン"しながらたいあたりして!」
「パウワウっ、あっちよ!」

バキン、バキン、と痛々しい音が何度も響き、
パウワウのすぐ近く、厚い氷壁の罅がみるみるうちに広がっていく。
オーロラビームが、氷の下のヒトデマンの体を炙るが、
しかし、彼女の"たいあたり"は止まらない。
そして――

「ヒトデマン、パウワウの上をとって!
 これで最後よ! 最大出力で"みずでっぽう"を撃つの!」

満身創痍のヒトデマンが、氷壁の亀裂から飛び出す。
彼女は充分に高度をとってから――。
発射口を開いた。
カエデが咄嗟に叫ぶ。

――冷凍ビームで相殺するのよ―――

躱す時間的余裕はないに等しい。
オーロラビームでは水系統の技、つまりみずでっぽうを相殺することが出来ない。

その判断は妥当に見えて――その実、最悪の判断だった。

カエデは忘れていた。
ヒトデマンとパウワウの位置関係を。
膨大な質量の水が"上空"から押し寄せる。
パウワウは反射的に主人の命令に従い――
限界を超えた冷凍ビームで、みずでっぽうを巨大な氷塊に状態変化させた。
このままではパウワウの圧死は免れない。

ヒナタが瞠目し、
カエデが声にならない悲鳴を上げる。

だが、僕は露程にも心配していなかった。
何故かって?
この試合を監督している彼女が、そんな決着を見過ごすはずがないからだよ。

「あなたに止めさせるわけにはいかないものね」

僕は耳許で、アヤメがボールを投げる音を聞いた。

直後、巨大な水柱が上がる。
天井付近まで舞った水飛沫は霧状に広がり、
咄嗟にピッピを抱いて足場に上がった僕の体を濡らした。

見下ろす。

巨大な氷塊がプールに鎮座している。
元々入っていた水量に、それを持ち上げるだけの浮力はなく、
僕とピッピがさっきまで立っていた場所は、溢れだした水で水浸しになっていた。

そして、落ちてくる氷の真下にいたパウワウは――
パルシェンの堅牢な殻に守られて、ふるふると震えていた。
足許を濡らしたアヤメが告げる。

「パウワウ、戦闘不能。よってこの試合は、ヒナちゃんの勝ちよ」

応える者はない。

「良かった……パウワウが無事で、ほんとに良かった……」

譫言のようにそう繰り返すカエデ。
ヒナタはそんな彼女に近寄って、素直に頭を下げた。

「ごめんね。本当にごめん。あたし、もう少しであんたのパウワウを――」
「……やめてよ」
「えっ……」
「そんな風に謝られたら、あたしの立つ瀬がないじゃない。
 いい加減にしてよ。
 どうしていつもあんたはそうなのよっ……どうしてあたしの持ってないものばかり見せびらかして……
 あたししか持ってないものを、簡単に奪っていくの……」

カエデの双眸は濡れていた。
動揺するヒナタに、彼女は独白を続ける。

「……あんたは気楽でいいわよね。
 好きなポケモンと好き勝手に旅が出来てさぁ。
 でもね、あたしの将来は生まれたときから決まってるのよ。
 どんなにあたしがポケモンと一緒に旅に出たくても、
 どんなにポケモン考古学を専攻したくても、あたしはこの街で、このジムを継ぐしかないの」
「カエデ……」
「いきなり現れて、お母さんと一緒に修行し始めたあんたを見て、あたしがどんな気持ちだったか分かる?
 最初はこんな付け焼刃には何の意味もないって、馬鹿にしてたわ。
 でもあんたは、どんどん強くなっていった」

自虐的な嘲笑。カエデは無理矢理に笑顔を作って訊いた。

「ねぇ、どうして小さい頃、あたしがあんたにポケモンバトルで負けなしだったか知ってる?」
「あたしよりもカエデの方に、ポケモンバトルのセンスがあったから?」
「違うわ。その頃からあたしが、ポケモンバトルの練習をしてたからよ。
 あたしは勝って当然だった。それを黙って、あたしは作り物の優越感に浸ってたの。
 それで数年ぶりに、一週間かそこら修行したあんたと戦ってみれば、このざまよ。笑っちゃうわ」
「ううん。あたしはカエデを笑ったりしないし、カエデも笑ってないじゃない」

その言葉でカエデは両手で顔を覆う。
そして自分が泣いていることと、作り笑いが全然出来ていないことを知る。
ヒナタはカエデに手を差し伸べようとしたが、彼女はそれを払いのけた。

「その優しさがうざいっていってんのよ!
 もうやだ。……旅にでも何でも行きなさいよ。それでもう戻ってこないで、」

――パン。乾いた音が響く。

僕は一瞬、ヒナタが手を上げたのかと思った。
しかしカエデの頬を打ったのは、今まで黙って会話を聞いていた、彼女の母、その人だった。

「アヤメおばさまっ………」
「いい加減にしなさい。
 今のカエデの言葉は、ただの負け惜しみだわ」

カエデはキッとアヤメを睨み付けて、

「……お母さんもヒナタの味方するんだ」

しかし溢れ出る感情に耐えきれなくなったのか、大粒の涙を零す。
そんな娘の手をとって、アヤメは優しく言った。

「馬鹿ね。わたしはいつだってカエデの味方よ。
 でもヒナちゃんに言ったことは、あなたの母親として見過ごせないの。
 だから、ヒナちゃんに謝りなさい。
 ヒナちゃんが許してくれるか、許してくれないかは、カエデが一番よく知ってるはずよ」

カエデの涙目がヒナタを見る。
ヒナタは苦笑して、もう一度カエデに手を差し出した。
束の間のデジャヴ。
幼い頃の喧嘩も、最後まで折れないカエデを、ヒナタが許してあげていたんだっけ。




そしてカエデの唇は、たっぷり10秒、沈黙を紡いでから、

「…………………………………ごめん、なさい」
「ふふっ。カエデに謝られるの、何年ぶりかしら。
 いいわよ、許してあげる。
 それにあんたの気持ち聞けて……あたし、少し嬉しかったし」

カエデは洟をすすりあげ、涙声で訊いた。

「嬉しかった?」
「うん。あんたがあたしのことを羨ましがってたみたいに、
 あたしもあんたのこと、すっごく羨ましかったから、同じだったんだなあ、って」
「あたしのどこが羨ましかったのよ」
「だって……カエデはいつも流行りの服を着てて可愛かったし、
 ポケモンバトルも強くて、男の子相手でも全然物怖じしたりしなくて……」
「ばっ、馬鹿じゃないの。そんなの、どうでもいいことばっかりじゃない」

そう言って、顔を背けるカエデ。
まったく。いつまで経っても素直になれない子だな。
僕は苦笑し――ヒナタの精神的な成長に、改めて溜息を吐く。

本当はヒナタは、最後にこう言いたかったはずなんだ。

――いつも傍に、優しいお父さんがいて――

それを言わなかったのは、恐らくは無用な同情を誘いたくなかったからだけでなく――
父親の不在を、不幸なことであると認めたくなかったから。

その時、アヤメが口を挟んだ。


「この子を許してあげてくれて、ありがとう。
 ヒナちゃんがカエデの従妹で本当に良かったわ。
 それで……ヒナちゃんに一つ、厚かましいお願いがあるんだけど、いいかしら?」

ヒナタは小首を左に傾げて、

「なんですか?」
「この子を――カエデを、一緒に旅に連れて行ってあげて欲しいの」
「「えっ!?」」

カエデとヒナタ、二人の反応がシンクロする。
カエデは口を酸欠のコイキングみたいにパクパクさせて、

「お、お母さんってば、何言ってるのよ?
 あたしが旅に出るの、あんなに止めたくせに。
 高校はどうするの? あたしをこの街に縛るために通わせてたんじゃなかったの?」
「あーらあらあら。わたしは今まで一言もそんなことを言った憶えはないんだけどね。
 さっきカエデの告白を聞いて、一番驚いたのはわたしよ?
 カエデったらちっともポケモン考古学者になりたい、とか、ポケモントレーナーになりたい、
 とか、夢を話してくれなかったじゃない?
 だからわたし、あなたがただポケモンとポケモンバトルが好きな女の子だと思ってたの。
 ジムを継がせる気は、なかったと言えば嘘になるけど、
 強制する気は全然なかったわ。他のジムでは、雇いのトレーナーさんに引き継ぐ場合もあるみたいだし」
「そんな……じゃあ、あたしの葛藤はいったい……」



額に手をやり、フッ、と卒倒しそうになるカエデ。
その体を支えて、

「あたしとしては、カエデに一緒に旅をしてもらうと心強いんだけど。
 あんたはどうする? あたしと旅するの、イヤ?」

ヒナタはカエデを見つめる。カエデの薄茶色の瞳が、あちこちに泳ぎ、

「……ううん、そんなことない。
 あたしも一人で旅をするより……ヒナタと一緒の方が、いい、かも。
 ほらっ、食事とか寝る場所とか、色々準備してくれそうだし、他にも――」
「はいはい」

やれやれ。これじゃあまるで出来た姉と素直になれない妹の図じゃないか。
実際にはカエデの方が、ヒナタよりも一つ年上だというのに。
アヤメが胸元で手を合わせ、顔を綻ばせて言った。

「それじゃあ早速、家に戻って旅支度しましょうか」



「カエデ、そんなに詰めたら歩けないわよ?」
「うっさいわねー。全部旅に必要なモンばかりじゃない」
「100歩譲って、そのポケモン考古学の専門書10冊はいいとして、
 替えの服10着と大量のアクセとメイクセットはどうなのよ?」
「ぜーんぶ必需品よ」
「はぁ……いいわ。後で後悔しても知らないからね」

仲良く荷造りするヒナタとカエデを目の端で眺めながら、
ポケモンセンターで回復しているパウワウとヒトデマンを想う。
ダメージ源が"たいあたり"だけのパウワウと比べて、
ヒトデマンの、オーロラビームと氷壁に体をぶつけた時の衝撃で出来た傷は深かった。

ただ、命に別状はないようで、

『このヒトデマンの治癒能力なら、一晩で治ると思うわ』

とのジョーイさんの言葉通り、明日には元気になっていることだろう。

「ピカチュウ、紅茶はいかが?」

アヤメがテーブルに紅茶を並べて、向かい側のソファに腰を下ろす。
彼女もまた僕と同じように、荷造りする二人を眺めて微笑んだ。

「チュウ」

ありがとう、アヤメ。
同時にカップを持ち上げて、口をつける。
穏やかな一時。


「……ヒナタはやっぱりサトシくんの子ね。
 カエデとの戦いを見て再認したわ。
 氷の壁を突き破る際に高速スピンを使ってオーロラビームの被照射面積を拡散することなんて、
 いったい何人の上級トレーナーが思いつくのかしら」
「ピッカ」

何を今更驚いているんだい?
彼女の才能の片鱗には、これまでの修行中にも気づいていたんだろう?

「まあ、そうだけどね。――あの子、これからどんどん強くなるわよ。
 あの子のポケモンバトルを見ていると、若かった頃のサトシくんを思い出すの」
「ピカピカ、チュ」

サトシの才を継承するのは、ヒナタの傍で彼女の成長を見守る僕たちにとって、
喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、いったい、どちらなんだろうね。
僕は未だにその問いに、判然とした答えを出せないよ。

「わたしもよ。
 でもね、一つ言えるのは、あの子が強くなった時にも、傍には変わらず、あなたがいるってこと。
 だからヒナタを――ヒナちゃんの成長をしっかり見守ってあげてね、ピカチュウ」
「ピカ」

言われるまでもないさ。
それがカスミと交わした、絶対の約束なんだから。
僕は最後の一口を飲み干して、小窓から覗く夜空を眺める。
梅雨の訪れを知らせるような雲霞が、
銀色の輝きを放つ月を覆い隠していた。

光陰矢の如し、か。
古人もよく言ったものだ。

翌日は生憎の雨だった。
巨大なリュックサックを背負ったカエデの背は明らかに積載限界量を超えていたが、
彼女は頑なに荷物を削ろうとしなかった。
先が思いやられるな、という僕の心情を、ヒナタが代弁してくれた。

「先が思いやられるわね。
 予め言っておくけど、途中で重い重いって駄々こねても、手伝ってあげないから」
「誰も駄々なんてこねないわよ。
 それよりあんたこそ、あたしのメイクとか服とか貸してやんないから」

玄関先で、むむむむむ、と睨み合う二人。
しかしその数秒後には、ぷっと噴き出して、笑顔になった。
やれやれ――と僕が呆れていると、エプロン姿のアヤメが言った。

「雨脚が弱まるまで、家の中で待っていたらどう?」

カエデは自慢の巻き髪を指でクルクルと弄びながら、

「んー、確かに雨で髪が湿気吸うのはヤだけどー……
 ここで家に戻ったら、旅の最初から躓いてる感じがするから、行く」
「そう」
「なんか素っ気なーい。
 一人娘の旅立ちなのよ? もっと泣くとか、引き留めるとかしてもいいんじゃない?」

僕とアヤメは、そっと目配せしてから、苦笑する。

「可愛い子には旅をさせろ、って言うでしょ。
 あたしも今まで、あなたのことを自由にさせているようで、束縛していたのかもしれないわ。
 だから――その足と目で、色んな世界を見てきなさい。
 いつまでに帰って来い、とは言わないわ。カエデが満足するまで、旅を楽しんでらっしゃいな」

「……必ずいつか、戻ってくるから」
「分かってるわよ」

俯いた娘の頭を、アヤメが撫でる。カエデは抵抗しなかった。
そんなしんみりした空気を、ヒナタが破る。

「そろそろ行きましょ。雨脚がちょっと弱くなったみたい」
「うんっ」

二人同時に、足を踏み出す。
確かにヒナタの言うとおり、傘を叩く雨音のリズムは穏やかになっていた。

「行ってきます」
「お世話になりました」

二者二様の挨拶に、

「いってらっしゃい」

と返すアヤメ。そして僕たちは、歩き出した。
時折振り返りそうになるカエデの横顔を、ヒナタが優しい眼差しで見つめている。
自分がマサラタウンを出発した日のことを、思い出しているんだろう。

昨日の夜にアヤメから貰ったブルーバッジは、今はヒナタのリュックに大切に仕舞われている。
次に向かうのは、朽葉色の街、クチバシティ。
ここからそう遠くない場所にある港町だ。
そこでヒナタは、クチバシティジムに挑む。

ハナダシティの最果てで、僕はヒナタの傘から出た。

「どうしたの、ピカチュウ……あら、雨が止んでる?」

振り返る。ヒナタとカエデが僕に倣う。
そして二人は、同時に目を輝かせた。

「わぁっ……」

雨に濡れた縹色の街。
その上に、まるで仲間が増えたことを祝福するかのような、虹のアーチが架かっていた。

第六章 下 終わり