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それからのことを、手短に話そう。
葬儀は身内だけで、しめやかに執り行われた。
サヤの死は残された者の人生に暗い影を落とした。
カレンは屋敷を訪れなくなり、カツラ博士は前にも増して研究所にこもるようになった。
ヘルガーはサヤの希望通り、本土にある組織の研究所で、
鎮静剤を投与されながら、辛うじて生を繋いでいる。
アヤは、死の概念を知らぬ幼いアヤは……、
今もまだ、いつか母親が戻ってくると信じている。
そして俺は、カツラ博士と同じように、仕事に没頭することで、
サヤを失った悲しみから、意識を逸らそうとしていた。
邪魔な野生ポケモンを排除し、敵対勢力を撃滅し、要人を護衛する。
場数を踏むごとに、任務は単純作業になっていく。
任務が終われば、その足で新しい任務に就いた。
アヤの世話は乳母に任せきりで、自然と、屋敷に戻る頻度は減っていった。
アヤの成長を見守るのは、喜びであると同時に、苦痛だった。
身近な人間の死は、自分の死を強く意識させる。
人は脆い。ポケモンの攻撃を受ければ簡単に死ぬ。
組織は俺という一級適格者を失わないよう、細心の注意を払っているが、
それでも熾烈を極める任務の中で、死を覚悟したことは一度や二度どころではない。
もしも俺が死んだら……?
思考の虚をついて、そんな恐怖が心の隙間に流れ込んでくるようになった。
金髪の言葉を思い出した。"死"恐怖症、別名、タナトフォビア。
俺が怖れているのは、死そのものじゃない。
俺が死ぬことによって、残されたアヤがどうなるのか、
アヤがどうその事実を受け止めるのか、ということだ。

現状、アヤは俺に危ういほど懐いてくれている。
サヤがいなくなってからは、さらにその傾向が強くなった。
では、アヤに物心がつき、人の死を理解できるようになり、最も多感な時期に、俺が死んだら?
俺がこれまで感じてきた安穏は、平均台を目を瞑ったまま歩くことで得ていた紛い物に過ぎない。
ゆくゆくアヤは組織指定の教導員の指導のもとで、
最高のポケモン使いとなるべく、ポケモンの扱い方、戦わせ方を学習させられる。
構成員に年齢は関係ない。才能が全てだ。
素質が認められ、能力が発現した暁には、すぐにでも組織の即戦力に数えられる。
そうすれば俺とアヤの接点は、ほとんど失われてしまうだろう。
半月に一度、酷ければ一ヶ月に一度の頻度でしか顔を合わせないアヤに、愛情を注ぐのが怖かった。
アヤを連れて組織から逃げ出すことを、本気で考えたこともある。
しかし実行に移せば、オーキド博士は容赦なくマサラタウンの親子を社会的に抹殺するだろう。
それは俺にとって、何よりも耐え難い責め苦のひとつだった。
思考は堂々巡りする。結局俺は、同じ場所に立ち帰る。

そして、風化してはいけないものが風化し、
忘れるべきものが忘れられないまま――サヤの夭逝から数えて十年の歳月が流れた。

火山の麓から少し離れた町の、それなりに賑わいのあるオープンカフェ。
その一角で義姉とコーヒーを飲み交わし、
近況を報告しあうのは、二ヶ月に一度の恒例行事と化していた。

「仕事は順調か?」
「どうしてなかなか、わたしの性に合っているみたいだよ。
 独立も考えているが、それはまだ当分先の話になりそうだ」

カレンはマグカップを両手で包み込み、その温もりに微笑を作る。
素材の良さは何にも勝る。
化粧気がほとんど無いにもかかわらず、カレンの美貌は周囲の女の中でも群を抜いていた。
実年齢が三十代の手前でも、容姿は二十代の手前で通るだろう。
カレンは数年前から、ポケモンスクールの講師をしている。
子供から大人まで、全てのトレーナーを対象に、
ポケモンの扱い方、ポケモンバトルのテクニックを教えている。
アメとムチの加減が絶妙で、今では人気No1の講師だそうだ。

「仕事に一生懸命になるのはいいが、
 入れ込みすぎると、いくらカレンが美人でも男が寄ってこないぞ。
 女は少し隙があるくらいが、丁度いい」

カレンはむっと眉根を寄せて、

「余計なお世話だ。
 わざと弱い女を演じるくらいなら、わたしは一生独身でも構わん」

こんな冗談交じりの会話も、昔では考えられなかったな、と思う。
十年前、サヤの葬儀の後で、カレンは俺に罵詈雑言を吐き散らした後、
俺の肩に寄りかかり、まるで幼気な少女のように、声を上げて泣いた。
思えば、それはカレンが初めて見せた"弱み"だった。
カレンの俺に対する態度が目に見えて軟化したのは、それからだ。

「アヤには、もう会ったのか?」
「グレンには昨日から帰ってきている。
 時々――いや、時間をおいて会う度に――アヤが、サヤの生まれ変わりのような気分になるよ」
「ふふ、お前でそうなのだから、
 子供の頃のサヤを知っているわたしが、どれほど同じことを感じていると思う?」
日増しに母親の面影を帯びていくアヤに、
複雑な感情を抱いていたのは、俺だけではない。
それでも今ではこうして、サヤの名前を笑って口にすることができる。
カレンは談笑の余韻はそのままに、

「初仕事は上々だったようだな」
「アヤに直接聞いたのか?」
「聞かなくても、教えてくれたよ」
「…………」

溜息が出た。機密性が重視される任務ではなく、
また話した相手が身内だったから許される話だ。

「怒ってやるなよ。初任務を上手くこなせて、アヤは大層喜んでいたぞ。
 ここ最近はずっと、お前に会って誉められるのを楽しみにしていた」
「それとこれとは話が別だ」

アヤが初めて与えられた任務で、考え得る限り最高の結果を残したことは、
監督役のハギノと本人から聞かされて知っている。
ミッション・オブジェクティブはニビシティ北西部に位置する寒村を襲い、
八名の死傷者を出した野生のガルーラの殺処分、可能であれば捕獲。
アヤは手持ちのポケモンでガルーラの動きを封じ、
直接手で触れ、"屈服"させた後で捕獲した――らしい。
カレンは雰囲気を変えるようにぽんと手を打って、

「わたしは午後から仕事が休みだ。
 それでだ……アヤとサトシとわたしの三人で、本土に遊びに行かないか?」
「悪い。どうしても外せない用事があるんだ」
「そうなのか?ではアヤを借りるぞ?」

俺は首を横に振った。

「アヤは貸せないよ」
「む……親子水入らずの時間が欲しいのだな?
 なるほど、わたしは邪魔者というわけか」

カレンは拗ねたような目で、俺を弱く睨み付ける。

「違うんだ。実は……」

言えば義姉が深い悲しみに包まれると知りながら、俺は口を開いた。




丁寧に刈り揃えられた青芝の上を、深紅のドレスが翻る。
雪のような白い肌。
燃えるような赤髪。
長い睫に縁取られた大人びた双眸。
幼気の残る唇が動く。

「お父様!どこに行っていたんですか?」
「カレンおばさんに会ってきた」
「わたしも会いたかったです……」
「大人の話をしていた」
「そう、ですか……」

アヤは微かに頬を膨らませ、寂しげな顔をする。
その些細な仕草のひとつひとつが、サヤの生き写しだった。

俺が植え込みの方に向かうと、アヤは子犬のように着いてきた。
歩調を落としてやると、嬉しそうに上目遣いで見上げてくる。
満開のラザレア――アヤの誕生花――が見えてきた辺りで、俺は歩みを止めた。

「能力が発現してから、もうどれくらいになる?」
「三ヶ月とちょっと、です」
「どんなポケモンでも従えられる自信はあるか?」

ここで少しでも迷う素振りをするようなら、先延ばしにするつもりだった。
しかしアヤはぱっと顔を輝かせ、誇らしげに、

「はいっ」
「サヤが……アヤのお母さんがどうして死んだかは、教えたな。
 お母さんを殺したポケモンは、普通のトレーナーには絶対に懐かない。
 他のポケモンよりも強い力を手に入れた代わりに、心が壊れてしまったからだ。
 それでも、アヤ、お前ならきっとそのポケモンを従えられる」
「お母様を殺したポケモンを……わたしが………?」

ヘルガーをアヤに託すことが、サヤの遺言であるとは明かさなかった。
上手く制御できなければ、母親と同じ命運を辿ることになる。
そのリスクを冒すか否かは、あくまでアヤが決めることだ。

「お父様」
「なんだ?」
「そのポケモンは、わたしのキュウコンよりも強いのですか?」
「最高レベルのポケモンだ。純粋な強さで評価するならな」

最高、という単語を耳にした瞬間に、アヤの目に浮かんだ暗い興奮を俺は見逃さなかった。
アヤには能力が発現したその翌日に、一匹のポケモンが与えられた。
先天的な能力値と戦闘適正に秀でた選りすぐりの個体で、
薬物によって精神に支障をきたさない程度に調整が施された、九尾の狐ポケモン。
その強さは折り紙付きだ。――が、やはりヘルガーの前では霞む。
今育てているよりも強いポケモンが現れれば、そちらに意識が移るのは当然の心理で、
しかしポケモンのレベルが高ければ高いほど、一から心を通じ合わせるのには途方もない時間を要する。
だがそれはあくまで、一般的なポケモントレーナーにとっての話だ。
幼い第一級適格者は自信に充ち満ちた口調で、

「そのポケモンを、見せてください」
「怖くないのか」
「わたしは、お母様の娘です。
 お母様にできたことが、このわたしにできないはず、ありません」
「分かった。裏庭に行こう」

アヤを伴って、いつかサヤにポケモンバトルを教えたバトルフィールドに移動し、
数人の庭師や、影で見守っていたアヤの付き人に、しばらく離れているように伝える。
野生のポケモンが紛れ込んでいないことを確認してから、
腰のホルダーから二つのハイパーボールを外し、出来る限り遠くに放り投げる。
閃光。
先に落ちたボールから現れたのは、黒い大型犬に似たポケモンだった。

「あれが……?」
「ヘルガーだ」

狂気を孕んだ菱形の目を忙しなく動かしている。得物を探しているのだろう。
吠え声と共に吐き出された紫色の炎は、近くの芝を灰に一瞬で灰に変えた。
やがてその興味は、牙も爪も持たない、ひ弱な生物に向けられる。

「ひっ」

本能的に恐怖を感じたのだろう、
人殺しを覚えたガルーラを前に動じなかったというアヤが、
恐らく無意識に、俺の服のすそを掴む。

「心配するな」

ヘルガーが背中を弓形に反らす。"火炎放射"の体勢だ。
しかし死に至る炎が吐き出された刹那、カメックスは水の刃の鯉口を切った。
高圧水流は炎を消し飛ばし、ヘルガーの鼻先に小さな擦り傷を負わせる。
動揺し動きが鈍ったところを見逃さず、カメックスがヘルガーの首根を押さえつける。
「行こう」

歩き出すと、裾に感じていた抵抗が消えた。
振り返ると、アヤは揺れる瞳で俺を見上げていた。

「気持ちが変わったのか」

ふるふると首を横に振るものの、両膝が微かに笑っている。
手を差し出すと、アヤはおずおずと指先を握りしめてきた。
カメックスとヘルガーに近づいていく。
牙の隙間から漏れる唾液と苦しげな呻き声。
組み合った二匹は微動だにしないが、強大な力同士が拮抗していることは明白だった。
あと数歩進めば触れられる位置で、手を解く。

「お父様……」
「どうした」
「もしもアヤがヘルガーを従えたら……アヤを誉めてくれますか?」

俺が頷くと、それまでの怖じ気が嘘のように滑らかな足取りで、アヤはヘルガーに近づいていった。
ヘルガーの思考は、読めたものではなかった。
人の言葉に翻訳することも憚られるほどの憎悪と殺意が渦巻いていた。
しかしアヤがヘルガーの額に触れた瞬間、
砂漠のような心象風景に吹き荒んでいた黒い颶風が、ぴたりと止んだ。
カメックスがヘルガーの首根を解放する。
アヤは静かに命じた。

「――伏せ」

ヘルガーは平伏する。
まるで、幼子の頃から服従を誓ったトレーナーに対するそれのように。

「ふふっ……あははっ……」

緊張の糸が切れたのと同時に、喜悦が込み上げてきたのだろう。
アヤは両腕で自分の肩を抱き、ぶるっと身を震わせて、

「やっぱり、わたしの言うことを聞かないポケモンなんて、いないんです……。
 ああ……最強のポケモンが……こんなに簡単に、わたしのものに……」
危険な兆候に、気づいていなかったわけではない。
適格者の多くが罹患する病――自惚れ、慢心。
サヤの正統を継ぐアヤが、他の一般的なトレーナーを蔑視し、
ポケモンはただの道具という愚かしい認識を持つことは必然と言えた。
しかし慢心に溺れて失敗するのは、二流、三流の適格者の役目で、
一級適格者のほとんどは、挫折の味を知らずにその能力を進化させていく。
またポケモンに対する正しい認識を持たないことは、
幼き組織の私兵たるアヤにとっては、逆に良いことのように思えた。
任務の過程で、ポケモンは傷つき、死ぬ。あっさりと。
一匹を愛せば、その情の深さだけ、その一匹の死を長く引きずることになる。
アヤの能力の一番のアドバンテージは、
能力を限界まで引き出されたポケモンを、
何の調教も訓練もなしに、すぐさま実戦投入できることだ。
アヤには新しく支給されたポケモンを機械的に服従させ、使役する冷徹さが求められる。
計らずともアヤの思想は、組織が求める私兵像に合致していた。

アヤはボールにヘルガーを格納した後も、
恍惚とした表情でボールを眺めていたが、
俄にこちらに走り寄ってきて、

「お父様っ!わたし、できました!」

腰の辺りに抱きついてくる。

「よくやったな、アヤ」

豊かな赤髪を撫でると、アヤは顔を上げて呟く。

「ん……アヤは、お父様に頭を撫でてもらうのが大好きです……」

いくらでも撫でてやりたい気持ちを抑えて身を離し、
アヤのベルトに装着された、ヘルガーのボールを見つめる。
命拾いしたな、と心の中で言う。
もしもアヤが継承を断れば、継承に失敗すれば、そのときは即座に殺すつもりだった。
ヘルガーに理性が存在せず、サヤの命を奪ったのは致し方ないことだったと、理屈では分かっている。
それでもあの日の感情は、十年以上経ってなお、ヘルガーの死を渇望している。
「……ひとつだけ、約束してほしいことがある」
「なんですか、お父様?」
「もしもヘルガーが、アヤの言うことを聞かなくなるような兆候が見えたら、
 そのときはすぐにボールに戻して、俺にそのことを知らせる。いいな?」
「わかりました、お父様」

アヤは従順に、しかしどこか可笑しそうに頷く。
わたしがポケモンを隷従さえられなくなる未来なんてありえない、か。
あの頃のサヤとそっくりだ。しかし、それは無理もない。
アヤは自分の母親がなぜ能力を失うことになったのか、知らない。知らされていない。
踵を返し、リザードンを召還する。

「お父様……?どこに行くんですか?」
「セキエイ高原だ」
「そんな……グレンには、もう……?」

返事をしないでいると、

「ま、待ってください。
 わたし、お父様とポケモンバトルがしたい。ダメ、ですか?」
「…………」
「わたしがどれだけキュウコンを使いこなせるようになったか、見てください。お願いです」
「アヤの監督は、ハギノの役目だ」
「あの人、キライです。わたし、本当は、お父様に監督されたい」
「我が儘を言うな」

アヤはぴくりと肩を震わせ、俯く。
「……ないと……じゃないですか」
「……?」
「我が儘を言わないと……お父様はわたしを見てくれないじゃないですか……!」

裾を掴まれる。

「いい加減にしろ」
「イヤですっ」

アヤは面を上げる。
鳶色の瞳は潤み、今にも大粒の涙を零しそうになっていた。
俺は溜息を吐き、アヤの真っ白な頬に手を添えて言った。

「今度だ」
「ぇ………」
「次に帰ってきたときに、アヤがどれだけ成長したか見てやる」

アヤはぱっと笑顔を咲かせ、小指を差し出した。

「じゃあ……指切りしてください」

仕方ない。指を絡め、上下に振る。
恐ろしい罰の内容を、あどけないソプラノが歌い上げた。

「お父様?」
「なんだ」
「できるだけ早く……アヤのところに帰ってきてくださいね」

本土の上空を飛んでいると、時々、
自然の原色に紛れ込んだ灰色の基地局が目につく。
その大半が未完成で、建設も遅々として捗っていないのが現状だが、
数年後にも本稼働し、通信の中継が可能になれば、
誰もが自分の携帯通信端末を持ち、気軽に遠く離れた誰かと連絡を取り合えるようになるだろう。
ポケモンの住処に基地局のような人工物を建造しようとすれば、野生ポケモンの抵抗は必至だ。
その問題をどう解決すべきか――誰もが『駆逐』という答えを知っている。
しかし誰もが公の場では、中庸的かつ平和的で、おおよそ実現不可能な方法を口にする。
その矛盾を一手に引き受けるのが、組織の役割だ。
公式には『たまたま基地局の建造予定地の野生ポケモンが減少した』という結果が残り、
都合の良い不自然は幸運の産物として歓迎される。

俺がシステムに入って以来、渡されている通信端末について、一度博士に尋ねたことがあった。
一般的な通信中継を必要としないこの端末の仕組みについて、博士は
『サトシよ。地球の周りを回っておるのは、月だけではないのじゃ』
と言い、俺が意味がわからないでいると、笑ってこう付け加えた。
『お前は、ただそれを壊さないよう注意しておればよい』
黄昏時。
銀白色の壁は、淡い宵闇に包まれてなお、神秘的な輝きを放っている。
春に大会が終わったばかりのポケモンリーグに活気はなく、
場内を野生ポケモンに荒らされないよう、組織肝いりのランカークラストレーナーが数人、巡回しているのみ。
ここを頻繁に、非公式に出入りしている俺にとっては皆顔見知りで、着陸を咎められることはない。
四天王の間に通じる正面ゲートの西、白亜の壁に取り付けられた小さなコンソールを操作すると、
壁が奥にスライドし、セキエイ最奥に通ずる隠し階段が出現する。
暗い階段を降り、長い一本道を歩きながら、
俺はつい最近偶然知った、組織の人事部の"不審な動き"について思惑を巡らせていた。

最奥の間、聖跡に足を踏み入れる。
白衣を纏った痩身の老人は、巨大なコンピュータと向き合い、入力コンソールを叩いていた。
その光景は喩えるなら、教会の神父が、巨大なパイプオルガンを演奏している様に似ている。

「博士」
「なんじゃ」
「お体の具合はどうですか」

博士はふんっと鼻を鳴らし、

「すこぶる不調じゃ」
「たまには休まれてはいかがです」
「休めじゃと?とんでもない。今は一分一秒が惜しい。
 安心してシステムを任せられる、有能な後継者がいるなら話は別じゃがな」

今日はあまり機嫌がよろしくない様子だ。
が、わざわざここまで足を運び、直談判しに来たのにはそれなりの訳がある。

「前置きはいい。サトシよ、言いたいことがあるなら、手短に済ませるのじゃ」
「最近、興味深い噂を耳にしました。
 人事部の一部の人間が、未発現の一級適格者の誘引計画を立てているという噂です。
 俺なりに調べてみましたが、その適格者の卵がマサラタウンに住む、
 普通に生活し、普通にポケモンと慣れ親しむ少女であるということ"しか"知ることができませんでした。
 博士はこの件に関して、何かご存じですか?」
「………寝耳に水じゃ」
博士は嘆息し、こちらに向き直って言った。

「しかし推理するなら、十中八九、その少女とはお前のもう一人の娘のことじゃろう。
 お前の血統を継ぐ者がいるという情報が、諜報部から人事部の人間に漏れ伝わった結果じゃろうて」
「つまりこれは、組織上層の決定によるものではなく、人事部単独の仕業だと……?」

博士は鷹揚に頷いてみせる。
こういう出方をされれば、追求できなくなることは分かっていた。
だから俺はせめてもと、老獪な管理者に釘を刺しておく。

「ひとつだけ言っておきます。
 カスミやヒナタを守るためなら、ピカチュウを創ったような機関を撲滅するためなら、俺は喜んで組織の犬になる。
 でも、もしもあの子を守るべき組織が、あの子から平穏な生活を奪うようなら、そのときは全力で組織を潰す。
 博士、俺はあなたと違って、組織の内情に疎い。
 もしも組織の中で、博士の"目の届かない"部分があるなら、"目を届かせて"下さい。
 こんな噂は、もう二度と聞かなくてすむように」


セキエイを発つと、俺はしばし、行く当てを失った。
タマムシシティ近郊での任務は明日からで、もう一度グレン島と本土を往復する気にもなれない。
相棒は何も言わずに、ゆったりと進路を南南東に変えた。
俺はときどき、俺がポケモンの思考を読めるように、
ポケモンも人の思考を読めるのではないかという気になる。
西の空が菫色に、地上が藍色の帳に包まれた頃、リザードンはマサラタウンの上空に差し掛かった。
家々の窓から漏れるオレンジ色の灯りが、人の温もりを感じさせる。
上空で待機していたピジョットが高度を落とし、広汎に渡る視野を活かす。
見つかる日もあれば、当然、見つからない日もあった。
しかし約二ヶ月ぶりの機会に、幸運の女神は慈悲をかけてくれたようだ。
瞼を閉じた右目の眼窩に、三人の少女が並んで歩いているのが映し出された。
純白のブラウスに赤いリボン、オリーブ色をした膝丈のスカート。
スクールからの帰りと思しきその三人の右端、
指定鞄を両手で前に持ち、長い亜麻色の髪の合間に、眩しい笑顔を覗かせる少女の名は……。

「……ヒナタ」

今年で恐らく、十四歳になる。
トレーナー免許は十一歳のときに取得しているが、旅に出る様子はなく、
カスミやピカチュウと一緒に暮らしている。
祖母にあたる俺の母親は、二年前に他界した。

その死に目に会えなかったことや、葬儀の喪主を務められなかった後悔は、また別の話だ。
岐路。友達と別れ、夕闇の中一人きりになったヒナタに、直接会うのは簡単なことのように思えた。
別に正体を明かす必要はない。他人を装ってすれ違うだけでもいい。
そんな、甘い誘惑から目を逸らす。
家まであと少しといったところで、小さい何かが、ヒナタに近づいていった。
ヒナタは破顔し、黄色いポケモンを抱き上げる。
声は聞こえない。それでも、何を言っているのか容易に推測できた。

『ただいま、ピカチュウ』

玄関ではエプロン姿のカスミが待っていた。
ピカチュウを肩に乗せた娘の姿を認めると、
少し帰りが遅いことを気にしていたのだろう、ほっとしたように頬を緩める。
この家にとっては当たり前の、しかし俺には決して立ち入ることのできない温かな光景。
右目を開けて、俺は言った。

「タマムシに飛べ」

リザードンは北東に進路を変え、大きく羽ばたいた。
やがてピジョットが追いつき、遙か高みを先行する。

永遠に交錯することのない人生だと、理解していた。
日陰に生きる俺に、ヒナタの父親を名乗る資格は無い。あるのは見守る責務だけ。
ヒナタはその名のとおり、「日向」で生きるべき女の子なのだ。

『ヒナタは、ポケモンがすきだから、ポケモントレーナーになりたいわけじゃないもん。
 ヒナタは……ヒナタはパパをさがすために、たびにでるんだもん……!』

幼いヒナタが語った夢が、二年後、現実のものになると、誰に想像できただろう。


運命の歯車は動き出していた。
――静かに、俺の与り知らぬところで。




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