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「16歳の誕生日を境に、わたしは色々な男の人と会わされたわ。
 約束の日が来るたびに、屋敷のどこかに隠れた。
 使用人に見つかって、席に引きずりだされても、わざと無愛想にしてた。
 わたしのところに来る男は、こぞって自分のトレーナーとしての優秀さを自慢してきたわ。
 わたしにとってはそんなことは、どうでもよかったのに」

タマムシシティで、行き交う同世代の男女を、
物憂げな眼差しで見つめていたサヤ。
その普遍的な人生への憧憬は、推して量れるものではない。

「逃げ続けるわたしを、お父様は咎めたりしなかったわ。
 組織がわたしに対して、強硬手段に出なかったのは、ひとえにお父様の後ろ盾があったからよ」

強硬手段――排卵誘発による採卵か。
組織ならやりかねない。

「お父様はわたしに、選択する自由をくれた。
 けれど、いくらお父様が組織にとっての要人でも、言える我侭には限度があった。
 二年前、サトシに会う少し前に、わたしはお父様に、次に会う人が最後だと言われたの。
 それで、諦めがついた。つけたつもりだった」

そして話は、俺とサヤが初めて出会った日に繋がる。
サヤの失礼極まりない罵倒は、事情を知ってみれば、何も不思議なことじゃない。
これで最後と諦観しつつも、いざ当人が目の前に現れると、
この先待ち受けている未来に、それを受け入れようとしている自分に、我慢ができなくなったのだろう。

「もしも最後の人がサトシじゃなかったら、わたしは破談にしていたはずよ。
 あなただから……あなただったからこそ……決心できた。
 わたしはどんどんあなたを好きになっていったわ。
 好きな気持ちが、尽くしたい気持ちに変わって、尽くしたい気持ちが、
 自然に、本当に自然にね、あなたとの子供が欲しいって気持ちに変わったの」

サヤは目を閉じ、囁くように言った。

「何度でも言うわ。
 あなたと結ばれて、アヤを授かって、わたしは幸せよ。
 サトシが想像しているよりもずっとずっと幸せなの」

瞼の端から、透明な雫が滲み出す。
どうして泣くんだ、と尋ねる俺の声も、不自然に掠れて上手く言葉にならなかった。
前触れなく訪れた睡魔が、視界に闇の帳をおろした。
カスミとヒナタの幻影は、今度は現れなかった。

――――――
――――
――

屋敷の裏庭、ラウンドテーブルの対面に座したカレンが言った。
視線は背の低い芝の上でエーフィと遊ぶアヤと、それを傍で見守るサヤを追っている。

「杞憂、だったか」
「少なくとも俺には、サヤに元気がないようには見えない。
 昨日の夜も話したが、何かに悩んでいるようにも感じなかったよ。
 そんなことより、どうだ、混ざりにいかないか」

カレンは視線を逸らし、

「わたしは別に……」
「アヤと一緒に遊ぶのも、叔母さんの義務だ」
「お前、今わたしのことをおばさんと、」
「ご、誤解だ」
「おとーたま!  おばしゃま! こっち!」

アヤが舌足らずな声で俺達を呼んでいる。
初夏の太陽もかくやの眩しくあどけない笑顔で、
退屈そうに――アヤにはそう見えているに違いない――している二人を、
遊び仲間に加え入れようと企んでいる。

躊躇していたカレンも、アヤの度重なる呼びかけを無視することはできなかった。
それから俺たちは庭の中央に場所を移し、
サヤ、カレン、アヤ、俺、エーフィの四人+一匹で等しく遊べるボール投げをする運びとなった。

「ほうら、アヤ、投げるぞ」

いざ遊び始めてみれば、カレンは喜色満面でアヤに接している。
姪ということもあるだろうが、本質的に子供が好きなのではないか、と思う。
もちろん、結婚して自分の子供を作ればいい、とは間違っても言ったりはしないが……。
ほとんど目を瞑ってボールを待ち構えるアヤの手の中に、
限りなく衝撃が殺されたボールがぴたりと収まる。
不可視の力が働いていることは一目瞭然だった。

「とれたぁ!」

アヤは快哉を叫び、方向も力加減も滅茶苦茶に、ボールをエーフィに放り投げる。
誰もいない場所に落ちるはずだったボールは、
ふわりと揚力に持ち上げられて、エーフィの頭上に引き寄せられたあと、サヤの手元に送り届けられた。
エーフィ、お前は本当によくやってくれているよ。

「行くわよ、サトシ」

おっとりしたフォームで投擲されたボールは見る間に失速し――地面に落ちる前に、なんとかキャッチする。
相変わらず運動音痴だな、サヤは。
そう言ってからかうつもりが、

「すごい。ね、お父さんがボール取るところ、見た?」
「みた!おとーたま、すごぉい!」

俺は少し気恥ずかしくなって、カレンにボールを回した。
カレンはこともなげにキャッチし、超高速で投げ返してきた。
視界いっぱいにボールの赤が広がり、額に衝撃が突き抜ける。

「な、なんで俺に投げ返すんだ?」
「逆回りだ」

勝手に決めないでくれ。
それにアヤと俺へのボールの威力に歴然とした差があるのは気のせいか?

「気のせいだろう」

平然と言い放つカレン。
明らかにおかしいよな、と同意を求めて視線を転じると、
アヤとサヤは顔を見合わせて笑っている。
エーフィさえ主の受難などどうでもいいという風に、二股の尻尾の毛繕いをしていた。
やれやれ。
視線を転じ、ボールを探す。

「探し物はこれかね?」

いつからそこにいたのだろう、草莽の陰からボールを拾い上げたカツラ博士は、
それを俺に投げ返しつつ、

「ワシも仲間に入れてくれんか」
「お父様!どうしてここに?」
「娘二人に娘婿に孫が家に揃っておるんだ。顔を見せないわけにはいかんじゃろ?」
「でも、お仕事は?」

カツラ博士はサングラス越しにでも分かる満面の笑みで言った。

「サボってきた」
「もう……お父様ったら」

サヤが苦笑し、アヤはとてとてと覚束ない歩みでお爺ちゃんの足許を目指す。

「おじいちゃま!」
「おお、アヤ。しっかり歩けるようになってきたじゃないか。すごいぞ」

カツラ博士の手が、アヤを顔の高さまで持ち上げる。
アヤはきゃっきゃっと愉快げに笑い、カツラ博士の禿頭を太鼓のように叩き始めた。

「はっはっは」
「こら、アヤ。やめなさい。おじいちゃんが困ってるでしょ?」
「いや、いいんだよ。アヤはワシの頭がお気に入りなんだ。なあ?」
「アヤ、おじいちゃまのあたま、好き!」

孫娘と触れあう老翁を、渋面で見つめる女が一人。
カツラ博士はアヤを地面に下ろしながら、

「アヤと遊んでいたら、お前も子供が欲しくなったんじゃないか、カレン?」

さらりと禁句を口にした。
ぴくり、とカレンの形のいい眉が傾ぐ。

「別に。アヤが可愛いのは認めるが、
 いざ育てるとなれば子供など面倒の種でしか――」
「おぉ、すまんすまん」

強がる娘の主張を遮り、カツラ博士はトドメの一言を放った。

「カレンには一緒に子作りする相手がおらんかったな。はっはっは」

カレンの嫋やかな指が腰のハイパーボールに触れる。
形相には鬼気迫るものがあった。

「――殺す」

これは……かなりマズイ。
が、一度殺されかけた身のカツラ博士には殺気が通用しないようで、

「やるか?やるのか?
 まだまだワシも現役じゃ!来るなら来いっ。遠慮はいらんぞ!」

両手を広げ、華麗にサイドステップを刻んでいる。
この人、完全に娘をからかって遊んでいる。

一触即発(主にカレンが)の雰囲気を破ったのはアヤだった。
それまでカレンとカツラ博士を交互に眺めていたアヤが、急に泣き出したのだ。

「あらあら」

サヤがゆったりと歩み寄り、地面にぺたんとお尻をつけて泣きじゃくるアヤを抱き上げる。

「どうしたんだ?転んだのか?」

サヤは首を横に振り、

「分からないわ。でも、たぶん……お姉様、お父様?」
「な、なんだ、サヤ?」
「ワ、ワシは悪くないぞ」

アヤが生まれてから丸くなったとはいえ、サヤの根っこの部分は変わっていない。

「この子の前で喧嘩はやめて。
 お父様はお姉様に謝って。
 お姉様も、それでお父様を許してあげて?」

泣き声を響かせるアヤと、久しぶりに怒気を露わにしたサヤを前に、
しゅんと竦むカツラ博士と、毒気を抜かれた様子のカレン。
カツラ博士は姿勢を正し、わざとらしい咳払いをして、

「ワシが悪かった。お前は母さんに似て……いや、母さん以上にアレだから……
 伴侶探しにはそれはもう……途轍もない苦労が……伴うじゃろう。、
 しかしそのうち……まぁいつになるかは分からんが……きっと良い男が……
 包容力に富み被虐趣味の気がある男が……見つかるじゃろうて。はっはっは」
「言いたいことはそれだけか?」
「まだある。行き遅れても心配するな。
 結婚だけが幸せの形ではないぞ」
「……やはり殺す」

二人の視線が、サヤの腕の中のアヤに一瞬注がれる。
それで『ポケモンはなし』という協約が結ばれたようだ。
カツラ博士が脱兎の如く逃げだし、カレンがその後を獅子の如く追い詰める。

「もう、お父様ったら……あら」

サヤに視線を転じると、アヤはすっかり泣き止んでいて、

「おいかけっこ!」

屋敷のほうへ遠ざかる二つの影を指さし、笑う。


まさか、偶然だとは思うが……。

「嘘泣きだったのか?」

柔らかいほっぺたをくすぐってやると、アヤは身を捩らせて「きゃっきゃっ」と笑った。
自然と俺の頬も緩んだ。
この子に限らず、子供の笑顔には周りの誰かを無条件で笑顔にする力がある。
屋敷へと続く道すがら、サヤが言った。

「みんなが揃うなんて、本当に久しぶり」
「カレンは今日は屋敷に泊まるのか?」
「たぶん、そうすると思うわ。
 さっきの喧嘩で、考えを改めていなければの話だけど」
「はは、確かにな……カツラ博士は?」
「夕食は一緒に食べられるんじゃないかしら?
 その後はたぶん、研究所に戻ると思う。
 お父様、口では適当に「サボってきた」なんて言っているけど、
 本当はかなり無理してることが多いから」
「そうか。夕食の席では、また一悶着ありそうだな」
「大丈夫よ。アヤの前で喧嘩はさせないし、
 それに、二人とも本気で嫌い合っているわけじゃないもの」

サヤはアヤの小さな手を握りながら、慈しみに満ちた微笑みを浮かべる。
二人の過激な"コミュニケーション"を、
もしものときには俺が仲裁役を買ってでなければならないと考えつつも、
どこか安心して見ていられるのは、サヤの言うとおり、
二人が本心から啀み合っているのではないと理解しているからだ。
抜けるような快晴のもと、俺たちの他に誰もいない裏庭で、
アヤを抱くサヤはそのまま一枚の絵になるくらいに、色めいた光景だった。
絵心のない俺はその代わりに、記憶のアルバムの一ページに、目の前の風景を焼き付ける。

「どうしたの?」
「いや、なんでもない」

恥ずかしくて、言えるはずがない。
だからこの幸福感を、充足感を、俺は別の形で伝えることにする。

「サヤ」
「え……」

不意をついて、キスをする。
柔らかい唇を介してサヤの体温が伝わってくる。
顔を離すと、サヤは頬を仄かに赤らめて、

「もう、アヤが見てるじゃない」
「見られたら何か問題があるのか?」
「そんなことはないけど……いきなりだったから、びっくりしたの」
「急に、したくなったんだ」
「おかしなサトシ」

サヤは笑って顔を逸らし、片耳に髪をかけて目を瞑る。
サヤは背伸びし、俺は身を屈め、お互いに少しずつ顔の高さを合わせて、
俺たちは二度目の、長いキスを交わした。

幸せだった。
充足していた。
何一つ欠けていなかった。

俺は盲信していた。
こんな時間がいつまでも続くと信じて疑わなかった。

永遠の幸福など存在しない。
四季が巡るのと同じだ。
春の後には夏が、夏の後には秋が、秋の後には―――冬が来る。

もしもこの日、サヤの言動と表情のささやかな不一致に気づけていたら。
『みんなが揃うなんて、本当に久しぶり』という台詞に隠された本意を慮ることができていたら。
未来は変わっていたかもしれない。
あの日の"悲劇"を回避できていたかもしれない。

それから、平穏な数ヶ月が続いた。
長期の任務を二回、短期の任務を六回こなし、
実質、屋敷に戻れたのは全部合わせても二週間足らずだが、
限られた時間の中で、俺は出来るかぎりサヤとアヤと共に過ごすよう努めた。

それだけの猶予を与えられていながら、俺は結局最後まで、兆候に気づくことができなかった。

とある晩秋の朝。

俺は酷い頭痛で目が覚めた。
この痛み方は、飲み過ぎによるものだ。
そういえば、昨日の晩は屋敷の住人が一同に会したこともあり、
料理長以下すべての部門料理人が腕によりをかけて、
豪勢な夕食と高価なワインを振る舞ってくれたのだった。
酒は人間関係の潤滑油、とはよくいったもので、
酒が入ったカツラ博士とカレンは不気味なほどに仲が良くなり、
あまり酒に耐性のないサヤは早々に乱れ――。

「サヤ?」

隣で寝ているはずのサヤが、いない。
左手でシーツの上を撫でてみれば、俺のものとは違う、体温の名残があった。
もう起きたのかもしれない。
俺があんまりよく眠っていたから、声をかけずにベッドを出て行ったのだろう。
蒼白く染まったカーテンは、曇天を予感させた。
薄ら寒さを覚えて、厚手の上着を羽織る。

ベビーベッドで眠るアヤを起こさないように、そっと部屋を出た。
こやみない小鳥の囀りが聞こえるほどに、廊下はしんと静まり返っていた。
三階の東端に位置する俺とサヤの寝室には、
何か特別な用事でも無い限り、使用人はやってこない。
階段を降りていく。

二階。
喧噪の気配がした。
誰かが急ぎ足で階段を上ってくる音がする。

一階。
踊り場で出会った年若いメイドは、
可哀想なほどに青い顔をしていた。

「あ、ああ……あの……!」

何か高価な調度でも壊してしまったのだろうか。
メイドは口を押さえ、肩をぶるぶると震わせながら、

「サヤ様が……サヤ様が火傷を負われて……それでわたし……お伝えしなければと……!」

その瞬間、脳裏を過ぎった思考は、あまりに楽観的なものだった。
調理場を借りて朝食を作っていて、そのときに油が跳ねでもしたのだろう。
あるいは目覚ましの熱いコーヒーを呑んでいる途中、手元に零してしまったとか……。

「…………」

うまく呼吸ができない。
まるでの喉のどこかに、酸素を食らう寄生虫が巣くっているような錯覚がした。
些細な火傷で、メイドがここまで狼狽えるわけがない。
恐らく火傷の深度は、相当に酷い。

「サヤは今どこにいる?」
「ひっ……えっと……あのっ……」
「どこにいるかと聞いてるんだ!」
「う、裏庭です!」

走った。
靴を履くのももどかしく直走った。

サヤ。サヤ。サヤ――。

朝露に濡れた草を踏み分け、
白く霞みがかった裏庭の中央に、屋敷の人間が蝟集しているのを見つける。
一人が俺を認め、脇に体をどけた。また一人、また一人と、脇にそれて道を作ってくれる。
誰もが暗い顔をしていた。
泣いている者もいた。
何かの間違いであってくれればいい。
一縷の望みは、人だかりの中央に横たわるサヤの姿を見た瞬間に断ち切られた。
体には毛布が掛けられている。顔は色を失っていた。
そんな、まさか。

「サ……トシ……?そこに、……いるの……?」
「サヤ!」

跪き、毛布の端から出た左手を握りしめる。

「すぐに病院に行こう。俺が連れて行く」

サヤはほとんど囁くように言った。

「いいの……」
「何を言ってるんだ。すぐに治療すれば、火傷なんて、」
「だめなの……だってこの火傷は……」

サヤの視線が力なく泳ぎ、傍らに転がったハイパーボールに止まる。
「ヘルガーが?ヘルガーがやったのか?」

なぜだ?
『ポケモンが危ない? あなた、頭大丈夫?
 私がポケモンに危害を加えられることなんて、天地がひっくり返ってもありえないわ』
出会い立ての頃、サヤは自信満々にそう言って見せたじゃないか。
腹の底から、どす黒い感情が沸き上がってくる。

「やめて。ヘルガーは悪くないわ……悪いのはぜんぶ、わたし……」

手に、微かな握力が込められる。
もしもサヤに止められなければ、
俺は激情に身を任せ、ハイパーボールを叩きつぶしていただろう。
そうだ、サヤがヘルガーに襲われた理由なんて、今はどうでもいい。

「離れろ」

取り巻きが一歩下がったのを確認し、リザードンを召還する。
サヤの体を毛布にくるんだまま抱えあげる。

「病院に行くぞ」
「……無駄よ」

リザードンに跨がると、行く先を告げるまでもなく、リザードンは空に舞い上がり、街の方角に飛び始めた。
身を切るような寒風に晒されながらも、
サヤの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
吐息は熱く、ともすれば途切れてしまいそうなほどに弱々しい。
サヤのかさかさに乾いた唇が動く。

「サトシ……わたしね……」
「喋るな。消耗する」
「ダメ……今、言っておかなくちゃ……。
 わたしね、実はサトシに……みんなに黙っていたことが、あるの……。
 アヤが生まれたときから、わたしの能力は……だんだん……弱くなってきて……
 このままじゃヘルガーを制御できなくなるって……本当は、分かってた……」

なぜ、気づいてやれなかった。
後天性の適格者は、先天性の適格者と比較して格段に発展性が高い一方で、
何かを切欠に能力を消失してしまう可能性も孕んでいる。
サヤは初潮を境に能力を発現した。
そして出産を契機に、能力を消失した。

「どうして黙っていたんだ」
「ごめなさい……言ったら、きっとヘルガーは処分されていたでしょ……。
 それにね……おかしな話だけど……わたしは、怖くなったの……。
 能力を失うことで……それを告白することで……。
 わたしの価値も一緒に……無くなってしまう気がして……」

「サヤはサヤだ。
 能力が無くなっても、ただの人になっても、サヤはサヤじゃないか……」
「サトシなら……そう言ってくれると思った……」

サヤは微笑む。
ああ、こんなに儚い笑顔を、俺は今までに見たことがない。

「ねえ、聞いて……昔……わたしはサトシにこう言ったわよね……。
 どんなにわたしがヘルガーに尽くしたところで、本当の信頼関係が築けるはずない、って……。
 そんなこと、なかった……。だってね……。
 わたしの能力が弱くなってきてから……一年以上も、ずっと……。
 ヘルガーはわたしの能力なんて関係なしに……"わたしのポケモン"でいてくれたんだから……」

自責の念で気が触れそうになる。
生理現象として小さな危険を周囲に及ぼすポケモンは赤子の近くに置かないのが常識だ。
定期的に電気袋から放電するピカチュウ然り、たまに吐息に炎が混じるヘルガー然り。
俺はサヤがアヤのことを思って、ヘルガーを極力ボールの中に置いているのだと思っていた。
しかし実際は違った。
サヤは自分の能力が衰えてきていることが、
ヘルガーの凶暴性が抑えられないことが露悪するのを怖れていたのだ。
そして能力に因らないヘルガーとサヤの主従関係の糸は、
時を経るにつれて、ゆっくりと、しかし確実にほつれていった。

組織の研究部署で薬漬けにされ、
挙げ句凶暴性の高さから『廃棄』の烙印を押されたポケモンが、
能力の行使も鎮静剤の投与もなしに、一年以上暴走せずに大人しくしていた。
それだけで奇跡と呼ぶべきなんだろう。

「今朝も、わたしはいつものように……、食事をさせてあげるつもりだった……。
 でも、もう限界だったみたい……急にあの子の様子がおかしくなって……。
 サトシ……、最後のお願いを聞いてくれる……?」
「最後なんて言うな」
「だって、もう、痛みを感じないの……。
 ヘルガーの火が……どれほどの毒性を持つか……。
 わたしは……、よく知ってるわ……」

毛布の端から出た左手の、手首の辺りに視線を落とす。
サヤの白磁のような肌は、今まさに、赤黒い火傷に浸食されていた。
ポケモンに比べて絶望的に生命力が劣る人間にとって、この種の火傷への対処法はあまりに少ない。
デブリードマン処置及び外用抗菌剤の塗布、あるいは負傷箇所の切除。
前者は優れた設備と医師に不足しない大病院に行く必要があり、
後者は負傷箇所が狭い範囲の場合に限られる。
そしてサヤの場合は、ヘルガーの炎を浴びてから、あまりに時間が経ちすぎていた。
それが分かっていたからこそ、
屋敷の人間も、応急処置を施しただけで、病院に運ぼうとしなかったのだ。
手遅れだと、分かっていたから……。
サヤは掠れた声で言った。

「ヘルガーのことを、守ってあげて……」
「それはできない。
 ヘルガーは、罪を償うべきだ」

サヤをこんな風にしたヘルガーを、許せるものか。

「お願いよ……。
 ヘルガーはね……可哀想なポケモンなの……。
 悪いのは、ヘルガーを凶暴にした人間よ……。
 いつか、アヤが……アヤがわたしと同じ能力に目覚めたら……。
 そのときは、アヤにヘルガーを託して……。
 それでね……もしもアヤに好きな人ができて……。
 その人との間に子供が生まれて……アヤが能力を失った、そのときは……。
 もしもそのとき、まだヘルガーが生きていたら……。
 きっとアヤは嫌がるだろうけど……サトシの手で、ヘルガーを楽にしてあげて欲しいの」

サヤは確信している。
自分がそうしたように、アヤがヘルガーに情を移し、
能力を失った後もヘルガーのトレーナーでいようとすることを。

「…………」
「返事をして……?」
「……分かった。約束する」
サヤを安心させるために、口先だけで交わした約束が、
後々、俺を縛ることを、このときの俺は知る由もなかった。

「よかった……これで……安心ね……。
 サトシ、サヤのことをお願い……。
 きっと……あの子にはまだ……、
 わたしが死んだことが理解できないでしょうけど……それで、いいのかもしれない。
 ああ、あの子が成長して……元気な女の子になるところが、見たかった」
「サヤは死なない。弱気になるな。
 アヤにも、俺にも、サヤが必要なんだ」
「お父様やお姉様に伝えて……お別れの言葉が言えなくて、ごめんなさいって……。
 今まで、ありがとうって……」
「やめろ、サヤ」
「愛してるわ、サトシ。
 わたしが死んでも……、この体が消えても……、この思いは消えない。
 わたしはずっと……サトシを愛し続ける……。
 重荷とは思わないでね……わたしの望みは……サトシが幸せでいることだから……。
 アヤが物心ついたら、そのときは……」

ほう、とサヤは小さな息を吐く。
痛みが無いというのは本当のようで、サヤは安らかな表情で、目を瞑った。
やがて、山を挟んで屋敷の裏側に位置する、グレン島で一番大きな病院が見えてくる。

「もうすぐ着くぞ。あと少しの辛抱だ」
「…………」
「サヤ?」
「…………」

朱金色の朝日が、火山を、大地を、海原を、遍く紅に染め上げる。
遙か高くの綿雲を泳ぐチルタリスが、透き通った歌声を響かせる。
それを弔歌と捉えるのは、都合が良すぎるだろうか。

とある晩秋の朝。

サヤはまるで眠るように、静かに息を引き取った。