ホッと息をつくヒナタ。
後で母親――カスミ――にたっぷり叱られるであろうこの子に、
俺が今、ポケモンを持たずに森に入る危険性を諭す必要はないだろう。
それに俺はこの子にとって、偶然通りかかったトレーナーであり、他人なのだ。
父親のように振舞って、自分を慰めて、何になる……。
「おじさん?」
気がつけば、ヒナタは微かに怯えた目で俺を見上げていた。
「どうして怖いかおしてるの?もしかして、まだやせいのポケモンが近くにいるの?」
「なんでもないんだ。この近くには、野生のポケモンは一匹もいないよ」
「どうして分かるの?」
五歳といえば好奇心の塊だ。
「おじさんはね、近くにいるポケモンの気持ちが分かるんだ。
今のところ、気持ちが分かるポケモンはこのリザードンだけだ。
だから、心配しなくていいんだよ」
「すごぉい……じゃあね、じゃあね、リザードンはいまなにを考えてるの?」
俺は相棒を見た。相棒も俺を見た。
ポケモンの思考を完全に言語化するのは不可能だ。
複雑なイメージを抽象化し大意を理解する、いわゆる『意訳』に近い。
そのときリザードンは、グレン島に残したサヤとアヤと、目の前のヒナタを比較し、俺の性格を鑑みた上で警告を発していた。
分かりやすく言い換えるなら、「情を移しすぎるな」と言っていた。
もちろんそんなことをヒナタに教えられるはずもなく、
「君がすごく可愛い女の子だと思っている」
「ほ、ほんとうっ?」
リザードンはそっぽを向く。
まったく、アドリブの利かない奴だ。
「恥ずかしがり屋なんだ」
ヒナタははにかみながら微笑み、
しかしすぐに目線の高さにあった俺のベルトを見て、
「ボールがたくさん……!」
目を輝かせる。
俺も昔はこうだったのだろうか。
ポケモンの所持が許されない子供にとって、フル装備のベルトはある意味一人前のトレーナーの証であり、羨望の的だった。
「もしかしたらおじさんはねぇ、えっと、えっと……ぱーふぇくとふぉるだーなのぉ?」
「そうだよ」
正しくは、パーフェクトホルダー。
ある地方のジムすべてを制覇した者がそう呼ばれている。
「それにしても、難しい言葉を知っているんだね」
「えへへ……ママにおしえてもらったの!」
「君は、将来はポケモントレーナーになりたいのかい」
「うんっ!」
元気な即答に、俺はこの子の本質を見たような気がした。
自分で設けていた境界を乗り越え、俺は訊いていた。
「どうしてポケモントレーナーになりたいと思ったんだい?」
「ヒナタはねえ、ママのポケモンといっしょに住んでてねえ、
ピカチュウとか、スターミーとか、かわいくてねえ、それで、いっしょにぼうけんしたいなぁって……」
「ポケモンが好きなんだね」
「うんっ。ヒナタ、ポケモンのことが、だいすきだよぉ」
「でも、ただポケモンが好きなだけなら、ブリーダーでもいいんじゃないかな。
ジムを巡る旅はとても大変で、特に女の子の一人旅は危険だよ」
「………」
ヒナタは表情を硬くする。
俺は我に返り、それまでの言動を恥ずかしく思った。
馬鹿か俺は。夢見る五歳の子供に、現実を話してどうする。
ヒナタは顔を伏せて呟いた。
「ヒナタは、ポケモンがすきだから、ポケモントレーナーになりたいわけじゃないもん……」
「え……」
「ヒナタは……ヒナタはパパをさがすために、たびにでるんだもん……!」
「パパを、探すために?」
反射的に、オウム返しに問いかけていた。
ヒナタは両手の指を胸の前で絡ませながら、
「ヒナタねぇ、おうちにパパがいないの。
ヒナタがうまれるよりもまえに、どこかにいっちゃったって、ママがいってたの。
だからねぇ、ヒナタがパパをみつけたら、
ママ、よろこぶかなぁって……ヒナタもうれしいなぁって……そうおもったの」
視界の縁が、霞む。
「きみのママは、パパのことを怒っていないのかい?」
「どうしてママがおこるのぉ?
ママはねぇ、パパのことをはなすときは、いっつもわらってるよぉ!
でもねぇ、ヒナタがもっとおしえてっていっても、あんまりパパのこと、おしえてくれないの……」
「きみは、きみのパパに会って、どうするつもりなんだい」
「どうっていわれても……ただあって、おはなししたいだけだよぉ。
ヒナタのパパはねぇ、とってもやさしくて、とってもつよいポケモントレーナーなんだぁ。
だからねぇ、もしもヒナタがパパにあえたら、ポケモンバトルのこと、いっぱいいっぱいおしえてもらうの!
それでねぇ、ママのところにパパをつれていってねぇ、またいっしょにねぇ、……おじさん?」
「…………」
「ねえ、おじさん、どうしてないてるのぉ?」
言葉が出なかった。熱い塊が喉を塞いでた。
こんな境遇にヒナタをおいたのは誰だ。
こんな夢をヒナタに持たせたのは誰だ。
こんな悲しい告白をヒナタにさせているのは誰だ。
――全部、俺じゃないか。
「もしかして、どこかいいたいの?ヒナタがみてあげよっか?
あのね、ヒナタねぇ、いたいのがなくなる、ひみつのおまじないしってるんだよぉ」
「いいんだ。おじさんはだいじょうぶだから。おじさんは……」
そのとき、待機していたピジョットが、あの少年が家に到着したことを教えてくれた。
折り返しここにやってくるまで、時間はほとんどないだろう。
シゲルはウィンディを連れているのだ。
頬を伝う涙を拭い、俺は精一杯の笑顔をつくって、ラプラスを召喚した。
「これはなんていうポケモンなのぉ?」
無邪気な質問に、嘘で答える。
「ラプラスというポケモンだよ。この子はね、目をみた相手の未来を見ることができるんだ」
「すごぉい。じゃあね、じゃあねえ、ヒナタのみらいもみえるの?」
「ああ、見えるさ。ヒナタがパパに会えるかどうかも、きっと分かるよ」
ラプラスの黒く艶のある瞳が、ヒナタを一瞥し、俺を睥睨する。
『本当にいいのか?』
非難を含んだ問いかけに、俺は頷いた。
PK能力における最高技能のひとつに『記憶操作』がある。
資質に恵まれたトレーナーは、同じく優秀なポケモンのPKを通じて、
他者の記憶を閲覧、改竄、消去、入手することができる。
特に一定期間の記憶を抽出し、他の媒体に出力する『転写』は至難を極め、長い時間、術者やポケモンに負担を強いるそうだ。
そして、資質に乏しい俺と、PKが専門でないラプラスが短時間でできることなど、精々、『記憶消去』くらいのものだった。
ヒナタに出会ってから今まで、というように細かく期間を指定することもできない。
よければ一日、悪ければ二、三日の記憶をヒナタは失うことになる。
「それじゃあ、しっかりとラプラスの目を見てね」
「うんっ!」
ラプラスは首を伸ばし、ヒナタと真正面から見つめ合う。
『ごめんなさい』と彼女は謝り、期待に輝くヒナタの双眸を経て記憶を司る脳の一部に侵入、そして――。
「…………」
力の抜けたヒナタの体を、そっと抱えて、少し離れたところにあった、倒木の影に下ろす。
フシギバナを召喚し、リザードンが荒らした森の補修を任せた。
"寄生木の種"は灰を土の下に隠し、その上に新しい命を芽吹かせる。
すべてが終わったことを見届けて、ラプラスとフシギバナを格納した。
ヒナタは深い寝息を立てている。
発見されてからも、しばらく目を覚まさないだろう。
傍にいたリザードンが姿勢を低くし、『早く乗れ』と言いたげに鼻を鳴らす。
「分かってる」
カスミやヒナタと一緒に暮すことはできない。
俺はあまりに多くの大切なものを失い、あまりに多くの大切なものを得てしまった。
見守ること……それだけが俺に許された贖罪の形だった。
ヒナタが組織上層の目にとまり、カスミの元から引き離されることだけは絶対に避けなければならない。
しかし母さん、カスミ、ヒナタ、そしてピカチュウが平穏に暮らせるようにするには、組織の力を借りなければならない。
世間の目を欺いているのは、組織の途方も無い組織力による徹底された情報封鎖だ。
そして組織の力を借りる以上、俺はすべてを犠牲にして、組織に尽くさなければならない。
願わくば、この子が元気で真っ直ぐな女の子に育ちますように。
俺はヒナタの目にかかった髪を指でわけ、可愛らしい寝顔を目に焼き付けて、翼竜の背に跨った。
次に目を覚ましたとき、ヒナタは俺のことを忘れているだろう。
そしてこれまでと同じ様に、優しい母と祖母、ピカチュウを含めたポケモンたちと、幸福な毎日を過ごす。
小学校に入学したら、新しい友達をつくるのに苦労するかもしれない。
でもきっと大丈夫だろう。大人しそうに見えて、実は芯のある強い子だ。
トレーナー免許は俺と同じ様に、取れるようになったらすぐに取りに行くだろうか。
ポケモントレーナーとして旅に出発するだろうか。
大人になるにつれて、父親への執着心は希薄になっていくはずだ。
もし旅に出るとしても、純粋にポケモンマスターになるためだろう……。
キャンバスの余白は限りなく、想像の絵筆は乾くことを知らない。
「飛べ」
リザードンは躊躇いなく森を飛び立った。
マサラタウンはぐんぐん小さくなり、やがて水平線の彼方に消えた。
やがて待機していたピジョットが、シゲルたちの到着を告げる。
ヒナタは無事に発見されたようだ。
「さよなら、ヒナタ」
清涼感にも似た寂寥感が、空っぽの胸を吹きすぎていった。
グレン島のそばを飛ぶときは、風上を選ばなければならない。
もしも風上を選ばずに、最悪、風下を通ることになれば、希釈化された火山ガスを浴びることになる。
死ぬことはないが、体調を崩すおそれがあるし、なにより臭いが酷い。
元気よく噴気活動を続けるグレン島の象徴を眺めながら、
火山の麓から少し離れた町の、それなりに賑わいのあるオープンカフェで、俺は義姉にあたる人物を待っていた。
「…………!」
微かなどよめき。人波を割って現れたその人――カレン――を見て俺は納得する。
ざっくりと胸元が開いた桜色のニットチュニックに、黒のスキニージーンズ。
装飾品は細身の腕時計のみだが、逆にそれが素材の良さを強調している。
グレン島、いや、本土をくまなく探しても、カレンほどモデルに見合った体型の女はなかなか見当たらないだろう。
「待たせたようだな」
「いや……ついさっき来たところだ」
「そうか」
社交辞令を済ませたところで、カレンは深く椅子に腰掛け、コーヒーを一杯注文する。
自分から呼び出しておいて、何も語らない義姉の態度を非難してはいけない。
今日は完全な休暇で、時間はたっぷりある。
俺が気長に緘黙と付き合う覚悟を決めたころ、脇の雑踏で声が上がった。
耳を澄ませると、どうやらポケモンバトルが始まったらしい。
カフェの客が次々と席を立ち、見物しに行く。
数分前の半分以下ほどに人口密度が下がった頃、カレンは口を開いた。
「なぜ、できもしない絵空事をサヤに言ったんだ」
「本当に長い休みがとれるはずだった。
それが、急に入った半継続的な長期任務のせいで、無理になったんだ。
俺にはどうしようもできなかった」
無念の共感を誘ったところで、所詮は苦しい彌縫の嘘、
無垢な妹に通じた言葉も、世慣れた姉には形無しで、
「クライアントには優先順位があるはずだ。
組織の懐刀たるお前に、急な長期の任務などありえん」
「何がお前の決心を鈍らせた?」
「…………」
返す言葉がない。
「心変わりか?」
それはまるで、回答に窮した教え子を追い詰める教師のように、
「他に女ができたか?」
甘く、冷えた声音だった。
真実を明かすわけにはいかない。
サヤと出会う前に愛し合っていた女が、実は子を産み、育てていた。
彼女らの平穏を守るためには、身を粉にして組織に貢献するしかない。
そんなことを言えば、俺は今すぐカレンに絞殺されてもおかしくない。
「違う」
と言うのが精一杯だった。
俺がそれきり黙っていると、カレンはコーヒを啜り、足を組み替えながら、
「お前の不貞を疑ったのは、冗談だ」
能面で笑えない冗談を言うのはやめてくれ。
「だが、お前がサヤの夫として、アヤの父親として、不出来な男であることは確かだ」
「自覚はしてるさ」
「自覚しているなら、なおのこと、良き夫、父親になれるよう努力しろ。
サヤは笑ってお前が傍にいない生活を受け入れているが、
あれが本当はどう思っているのか、分からないお前ではないだろう」
カレンに諭されるまでもなく、そんなことは痛いほどに分かっている。
でも、俺にはどうすることもできない。これまでどおり、組織の便利な駒の一つとして生きていくしかない。
カレンに指摘されたように、カスミに心変わりした、ということはない。
ポケモンマスターを目指していたあの頃の記憶は薄れ、カスミに募らせていた情熱は失われてしまった。
もしもマサラタウンで見たのが母親の姿だけなら、俺はきっと、穏やかな気持ちで"最後の"任務を終えていた。
だが、あの町にはカスミと、もう一人の娘――ヒナタ――がいた。幸せそうに暮らしていた。
その平穏を壊すことなんて、俺にはできない。
たとえその罪滅しが、組織への献身が、サヤとアヤを等閑にする原因になるとしても。
「すまない」
しおらしい声がした。
「……カレン?」
「わたしの悪い癖だ。
どうもお前を目の前にしていると、責め立てたくなるのだ。
お前にもお前の苦労があるだろうにな」
よほど俺が落ち込んでいるように見えたのだろうか。
カレンは励ますような微笑を浮かべて、
「わたしはね、サトシ、お前に嫉妬しているんだ。
サヤは今では、わたしよりもお前に心を開いている。
この前も心なしかサヤの元気がないように見えて、悩みでもあるのかと尋ねてみたが、冗談ではぐらかされてしまった。
昔はね、あんな風に自分の気持を誤魔化す子ではなかったんだ。
お前が訊けば、サヤは思いの丈をそのまま話すだろう。
なのにお前はサヤから距離を置き、あれの機微に触れるのを、面倒がっている……。
まったく、そんな風に考えてしまう自分が嫌になる」
「らしくないことを言わないでくれ」
「ショボくれた顔をしているお前が悪い。
お前は何事にも絶対の自信を持っているように見えていたんだがな……?」
カレンの慧眼が俺を射止める。
俺は持てる演技力を総動員して言った。
「疲れているだけさ。
それよりも、サヤの元気がないというのは?」
「それはお前が、自分で確かめればいいだろう。
サヤはお前の前では、極力弱みを見せないようにしているようだが、
どちらかがどちらかに我慢を強いる関係が、正しいとは到底思えん。
勘違いするなよ。わたしははお前があまりサヤの傍にいないことについて、責めているのではない。
お前がサヤの傍にいる限られた時間の中で、どれだけサヤの機微に気づいてやれているのか、という話だ」
「肝に銘じておくよ」
有言実行という言葉を知っているな、お前の口約束は信用ならん、
などの追い打ちをかけてくるかに思えたカレンは、
しかしコーヒーの最後の一口を飲み干すと、ふむう、と満足気に息をつき、立ち上がった。
それとときを同じくして、脇の群集が割れ、鋭い悲鳴が複数箇所から上がった。
野良ポケモンバトルの決着がつき、しかし敗北したポケモンの、苦し紛れの反撃が観客側に飛んだ。
「と、いうことらしい」
カレンのこめかみにあと数センチのところで静止した鋭利な石礫をつまみ、放る。
足元に擦り寄ってくるエーフィの頭を撫でると、カレンは下手人に怒りをあらわにすることも忘れ、
「優秀なエーフィなのだな。
サヤやアヤと一緒に育てているというから、愛玩用だとばかり思っていた」
ベルトのボールに手をかける。
「どうだ、ここはひとつ手合わせを――」
「遠慮するよ。もうこんな時間だ。俺がサヤとアヤを待たせるのは、カレンにとっても望むところではないだろう?」
「まあ、それはそうだが……」
好戦的な義姉は、こうして対話の場を設けるたびに俺にポケモンバトルを持ちかけてくる。
が、閉塞的なバトルフィールドとカレンの炎ポケモンの相性は最悪で、
前回、どうしてもと迫られたときに近隣家屋の壁面を半焼させたことは未だ記憶に新しい。
ここはカレンが勝負に拘る前に、話題を変えるのが吉だ。
「カレンは一緒にこないのか」
「所用があってな。サヤとアヤ……によろしく伝えてくれ」
不自然な言葉の空白に、埋まる言葉は一つしかない。
「博士にも伝えておくよ」
「余計な気を使うな、馬鹿」
俺がサヤと結ばれたことで和解したカレンと博士は、
それでも互いに優しい気持ちを表現するのが未だ苦手らしく、
意志の疎通には第三者の介在が必要不可欠だ。
俺は積極的にその役を買ってでているのだが、悲しいかな、カレンには余計なお世話としか思われていない。
アヤの存在が、カレンを軟化させる材料になってくれればいいのだが……。
颯爽と立ち去る義姉の後ろ姿を見送り、俺はふたり分の代金を置いて席を立った。
――――
―――
――
「もう、いつまで眺めてるの」
「………」
「サトシ」
「……ん」
振り返ると、すぐ近くにまでやってきていたサヤと目があった。
視線は重なったまま、再びベビーベッドで眠るアヤに落ちる。
この世の穢れを知らない、天使の寝顔だった。
ベビーベッドを揺らせば、大きな声を出せば、
すぐにでも機嫌を損ね泣き出してしまう――そんな儚く無防備な寝顔が、愛しかった。
「わたしたちも、もう、寝ましょう?」
優しい声に、頷く。
ベッドに入り、ナイトランプを消すと、サヤは遠慮がちに身を寄せてきた。
「今日は、大丈夫だから。本当よ」
あご先をくすぐる髪や、お腹のあたりにあたる柔らかい胸の膨らみ。
それらに反応しそうになる本能を鎮めて、サヤの手を握った。
「こうしているだけでいい」
妊娠と出産を機に、疲れやすく、また些細な病に罹りやすくなったサヤを、性欲に任せて消耗させたくなかった。
「ごめんなさい」
「……何が?」
「わたし、サトシの妻として、失格だわ」
「サヤはアヤを健康に産んだじゃないか。どこが失格なんだ」
「だって、わたしの体が弱くなったせいで、その、サトシに遠慮させてるじゃない……?」
「俺は、サヤと体を寄せ合って、手をつないでいるだけで十分幸せだ」
サヤの額に、口付ける。
サヤはそれから逃げるように、俺の胸に顔を押し付けた。華奢な体を抱きしめる。
お互いの体温が融け合うような感覚が、眠気を誘う。
目を瞑ると、まるで画面の焼けつきのように、カスミとヒナタの姿が暗闇に浮かび上がった。
消したくても消せない肖像が、無言で俺を責めている。
『サトシが帰ってくるのを、わたしはずっとマサラタウンで待ってるから』
やめろ。
『ヒナタの夢はねえ、パパとママとおばあちゃんの四人でくらすことなの』
やめてくれ。
幻聴が俺を苛む。
「サトシ……?
どうしたのよ、手が痛いわ」
自分でも気がつかないうちに、俺は強くサヤの手を握り締めていたようだ。
うまく理由を説明できないでいると、
「怖い夢でもみたの」
と笑われた。
実はそうなんだ、と笑い返す俺の表情のどうしようもない強張りを、サヤはこの暗闇の中で見抜いただろうか。
サヤの目に宿る小さな光を頼りに視線を結ぶ。
お互いの息遣いと、アヤが寝返りを打つ音以外に、何も聞こえない静寂の時がしばらく続いた。
窓から差す月明かりが雲に遮られ、部屋が頻闇に満ちたそのとき、サヤは言った。
「サトシは……サトシはね、わたしたちが初めて会った日のことを、覚えてる?」
「ああ。忘れるわけがない」
二年前のあの日、俺はオーキド博士に会うため、白銀山からその足でカツラ博士の私室に赴いた。
カツラ博士は、俺にサヤを紹介し、サヤに俺を紹介した。
黒犬と戯れていた赤毛の美女は、俺を一瞥してこう言った。
「"こんな人はいや。穢らわしい。二度とわたしの前に姿を見せないで"――だったか」
「どうして一字一句きちんと憶えてるのよ」
「それだけ印象に残ったんだ。
確かにあのときの俺は、身なりがボロボロだった。
でも、あんなに酷い言葉を浴びせかけられるとは思っていなかった」
「あれは別に、サトシの外見は関係なかったのよ。
もしもサトシがもっと綺麗な服を着ていたとしても、きっと同じことを言っていたと思うわ。
ねえ……まだあのときのことを怒ってる?」
「いいんだ、分かってる。怒ってないよ」
あのときは憤りと戸惑いが心のほとんどを占めていた。
が、それからしばらくして、サヤの拒絶は至極当然のものだと受け入れることができた。
何も知らされていなかった俺とは違い、サヤは最初から、
顔合わせが持つ本当の意味を、カツラ博士から聞かされていたのだから。
「サトシに、その、ね……、命令があったのはいつ?」
「サヤに初めてポケモンバトルを教えた日の、前の日に博士に言われた」
ポケモンの能力を向上させる、ポケモンを容易に使役する、ポケモンの弱点を見抜く――。
多岐に渡る能力に共通する唯一の事項、それは、発現する能力に同一のものは存在しない、ということだ。
代替可能な能力、他の能力と類似性が高い能力なら、使い捨てにされる。
だが稀少性の高い能力は、組織にとって"管理"と"保存"の対象になる。
適格者の遺伝子は複製できない。
単なるクローンでは能力を継承できない。
そもそも、なぜ何千、何万人に一人という確率でポケモンを扱う能力に長けた人間が発生するのか、
その能力が何に起因するのか、何も分かっていないのだ。
組織の研究員の一人は、これが人の進化であると推測する。
人類は未だ進化の途上にあり、長いポケモンとの共生史のどこかで、
人がポケモンを使役する上で有用な能力を発現するのは何も不思議なことではない、と。
それは真実かもしれないし、的外れな仮定に過ぎないかもしれない。
とにもかくにも、俺とサヤは、天文学的確率で発生した一級適格者であり、
人がいつ死ぬとも限らないひ弱な生き物である以上、
組織上層がリスク回避、すなわち能力を受け継ぐ者を望むのは当然の帰結だった。
「最初は、はっきり断ったんだ。
俺は器用な人間じゃないし、どんな結末になるにせよ、サヤを傷つけることになると思った」
「でも、サトシはとてもうまくやったじゃない?」
「偶然の成り行きに任せていただけさ」
オーキド博士は理解を示すような優しい声で、形だけでもこの任を受けてほしいと言った。
組織の過激な思想を持つ幹部らの、気勢を削ぐために、どうか頼まれてくれないか、と。
俺がオーキド博士にサヤとの距離を狭めるよう言いつけられているように、
サヤもカツラ博士に俺との距離を縮めるよう言いつけられている。
それが確信に変わったのは、サヤが不自然に俺の過去を探るような素振りを見せてからだった。
くすり、とそれまで俺の独白に耳を傾けていたサヤが笑う。
「あなたは勘違いしているわ、サトシ。
好きな人の過去を知りたがるのは、そんなに不自然で、打算的なことかしら?」
わたしがサトシに会うことを義務と感じていたのは、
一番最初に、サトシにポケモンバトルでこてんぱんにされたあの時まで。
それからはずっと、サトシに会うのが本当に楽しみだったんだから」
「そうだったのか……」
談話室で、サヤが勝手に上着のポケットに入れていた写真を見たとき、
俺は過去の古傷を抉られたような気になって、有無を言わせず写真を取り戻し、サヤを泣かせた。
あのときサヤは、純粋な好奇心と興味で俺の過去を知りたがっていただけだった。
愚かな俺は、オーキド博士の『形だけの任務』という言葉に甘え、
サヤとの繋がりを断ち切るつもりで、主要な任務に没頭した。
そうして俺は、サヤの実姉、カレンと出会う。
カレンが俺を殺そうとした理由は、サヤに近づく男、すなわち俺が組織の人間だったからではない。
俺とサヤが結ばれるよう作為が働き、それがどんな結果をもたらすか、既に知っていたからだ。
カレンは組織の非合法的制裁及び研究について一定の理解を示していた。
だが自分の妹が、ポケモンを扱う能力を持ちつつも戦闘適正を持たず、
やがて他の稀有な適格者と性交渉を持たされ、組織のための子供を産まされると知ったとき、
彼女の怒りは爆発し、その矛先はすべてを知ってなおその決定に異を唱えなかった父親に向かった。
それがカレンの、父親殺害未遂の真実だった。
「カレンに、サヤが俺に会いたがっていると聞かされて、すごく安心したことを覚えている。
俺はそれまで不安だったんだ。サヤの笑顔のどこまでが本当で、どこからが演技なのか……」
「わたしだって、サトシがまた会いに来てくれるまで、ずっと不安だったんだから。
それまでのわたしは、すこし驕っていたの。
サトシは少なからずわたしに惹かれていて、待っていたらそのうちまた会いに来ると思ってた。
でも、サトシはなかなかやってこなくて、わたしの自信も萎んでいって、
我慢できなくなって、手紙を書いて、それで……。
ごめんなさい。あのときのことを考えたら、今でもすごく悲しくなるの。」
言葉が途切れる。サヤは小さく鼻をすすり、
「わたし、ずっと考えてたわ。
サトシがこれまでわたしに構ってくれていたのは、純粋に任務のためで、
サトシを怒らせたわたしは、本気で縁を切られちゃったんだって」
「でも、会いに来た。
オーキド博士に命令されたからでも、カツラ博士に頼まれたからでも、カレンに促されたからでもない。
俺がサヤに会いたくなったから」
殺伐とした任務の連続に、俺は癒しを求めていたのかもしれない。
サヤと過ごす一時は、それが予定調和の芝居であると自分に言い聞かせながら、
その実、何よりも得難い安息の時間になっていた。
自分が組織の人間であることを偽らなくてもいい。
一人の人間として、男として、俺はサヤとと同じ目線で話すことができた。
俺は急速にサヤに惹かれていった。
タマムシシティに遠出したとき、帰りの途上で、サヤは禁句を口にした。
『今からほんの少しの時間だけでいいから、組織のことや、お互いの立場を忘れて』
微妙な駆け引きなんかいらない。
俺はオーキド博士の命令を、サヤはカツラ博士からの言いつけを忘れて、正直に感情を吐き出す。
俺とサヤは同じことを望んでいた。
そうして、俺たちは初めての口づけを交わした。
「あれは、ちょっとした冒険だったわ……。
どうしてもサトシの気持ちが確かめたくて、気がついたら口に出てたの」
「俺がそこでも演技をするかもしれないとは考えなかったのか」
「サトシが不器用なことはよく分かっていたもの。
ねえ、気づいてた?
サトシはマイナスの表情を装うのは得意だけど、プラスの表情を作るのはすごく下手くそなのよ。
だからあなたが笑ったり、嬉しそうな顔をしたら、それは紛れもない本物なの」
以来、俺がサヤの傍にいる理由は、もはやオーキド博士の命令とは無関係になっていた。
博士の、延いては組織の思惑通りになっていることなど、どうでもよかった。
サヤとずっと一緒にいたいという気持ちが募る一方で、俺は二の足を進められずにいた。
もしもこのままサヤと結ばれれば、俺は結果的に、サヤに女としての機能を組織に捧げさせることになる。
生まれた子は高度な教育とポケモン使役に関する教導を受け、やがて組織の私兵となる。
俺の感覚共有能力と、サヤの絶対服従能力、両方の可能性を持つ最強の適格者として。
最後の一線を超えさせたのは、やはり、金髪の一件だろう。
あの事件を切欠に、俺は俺のすべてを、サヤに曝け出した。
ポケモンを、人を、数えきれないくらい殺めていること。
それを知ってなおサヤは、無条件で俺という存在を肯定してくれた。
「前にも言ったと思うけど、サトシがお仕事でどんなことをしているかは、薄々気がついていたのよ。
でも同時に、サトシがそれを苦痛に感じていることにも、気づいていたわ」
錫の塔の天辺で、サヤは言った。
『一人で背負うのは、もう、やめて。
もしもサトシのポケモンが死んだら、一緒にお墓をつくるの。
もしも仕事で辛いことがあったら、もし我慢できたとしても、わたしに話すの。
わたしは、ずっとサトシの傍にいるから。
わたしが、サトシの拠り所になってあげるから。
だから、サトシも、わたしの拠り所になりなさい……。
勝手に、離れようとしたら、許さないんだから』
その言葉に俺がどれだけ救われたか、どれだけ言葉にしたところで、すべてを伝えることはできない。
あのとき、俺は心の底から、サヤが欲しいと思った。
たとえ組織の掌の上で踊らされていようと、サヤに子を手放す苦しみを与えることになろうと、
サヤを自分のものにしたいと思った。
「それで、わたしはサトシの拠り所になれているのかしら?」
サヤは悪戯っぽく首を傾げて、俺を見た。
「当たり前じゃないか。
サヤとアヤがいるから、俺はいつでも自分を見失わずに生きていける」
俺は時折、自分が時化の大海に放り出された一隻の小舟になったような気分に陥る。
雷鳴が死者の断末魔の叫びなら、暴雨はこれまでに流した血。
永遠に晴れない暗雲の下、転覆し水底に沈んでしまいたい欲求に駆られたそのとき、
決まって澄んだ光明が、俺を陸地に導いてくれる。
いうなれば二人は、俺にとっての拠り所であり、灯台だった。
「サヤはこの生き方に、後悔したことはないのか?」
「ないわ。たくさん悩んで、その上で決めたことだもの。
わたしの場合は、悩むというより、自分を納得させる、と言ったほうが正しいけれど。
わたしがどんな風に能力に目覚めたか、サトシに言ったことがあったかしら?」
いつか、サヤが先天性・後天性どちらの適格者か尋ねたときに、
同時にサヤが能力を発現した経緯を訊いたことがあった。
あのとき、たしかサヤはそれを口にすることをあからさまに避けていた。
「わたしの能力が発現したのは……、たぶん、初潮が来た日。
気分が重くて、わたしは気晴らしに召使のポケモンと遊ぶことにしたの。
そのうちの一匹、誰にも懐かないと言われていたガーディが、わたしが触れた瞬間に、お腹を見せたわ。
わたしはそれをお父様に話して、それからいくつかの簡単な実験があって、わたしはたくさんの大人に誉められた。
自分が他の人にはない能力を授かったと知ったときは、とても嬉しかった。
わたしはいつもお姉さまに負けてばかりで、初めてお姉さまに勝てる、自分だけの長所が見つかったと思ったの」
「兄弟姉妹の間の劣等感は、サヤやカレンには無縁だと思っていた」
「そんなこと、ない。
ある日、お姉さまとお父様が大喧嘩して、お姉さまは家を出たわ。
そのとき、お姉さまにわたしも一緒に家を出るように言われたけれど、わたしはそれを拒んだ。
発現以来、お父様や、お父様の研究所の人たちからちやほやされて育ってきたわたしは、
いくらポケモンの扱いが優秀でも構ってもらえないお姉さまが、わたしに嫉妬していると勝手に想像していたの」
サヤは微かに両目を湿らせながら、
「わたしは子供だった。何も知らない子供だったの。
お姉さまのポケモンで怪我をしたお父様に、わたしは、どうしてお姉さまと喧嘩したのか尋ねたわ。
お父様は笑うばかりで、肝心なことは何も教えてくれなかった。
大人になったら分かると言って、最後に、なぜかわたしに謝った。
お姉さまが家を出たときのお姉さまの年齢に追いついた頃、
わたしは能力でポケモンを服従させることができても、
絶望的にポケモンの扱い方が下手な自分に、何が求められているのか理解したわ。
お父様を恨む気持ちはなかった。
ただ、逃げ出したかった。でも、どこに逃げればいいのかわからなかった。
そのときになってやっと、お姉さまがどんな思いでわたしを家出に誘ったのか理解できたの」
組織の手は大きく、広い。
カレンとサヤの逃避行は、いかなる紆余曲折を経ようとも、いずれは悲しい結末を迎えていただろう。
それを知りながら、それを推察するだけの洞察力を持ちながら、
幼いカレンはサヤを能力ゆえの呪縛から開放しようと、行動せずにはいられなかった。
最終更新:2010年11月01日 18:50