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「なんというか、やっぱりレッドくんは、こう、主人公気質みたいなモンをもっとるんやなあ。
 君があの事件の下手人を始末したて聞いたときは、笑ってもうたわ」
「俺が関わったのは、偶然ではありませんでした」
「ワイは君の運に驚いてるわけやないで。
 必然的に事件に巻き込まれて、きちっと解決する。
 そういうところを評価しとるんや。
 犯人は極書つきの元同僚、人質はカツラ博士の御息女。
 絶体絶命のピンチから颯爽と巻き返す……くぅう~っ、ワイもそういうおいしい経験味わってみたいわあ」

六の島の一件から二日後。
君に尋ねたいことがあるんやけど、との連絡を受けた俺は、
中途に終わった休暇の残りを利用して、マサキ博士の私室に訪れていた。
博士はそれからも部屋をぐるぐると歩き回り、
羨ましいだの、引きこもりのワイにそんな機会は無いだの呻いていたが、

「なあ、レッドくん」

ソファの背もたれの縁に腰を下ろし、

「正直言ってワイは君のことを、心のどっかで、まだ小さい少年のまんまやと思ってた。
 勘違いせんといてや。実力云々の話やない。
 脱走されるリスクを排除するために、生け捕りにせんと、その場で処分する。
 ワイは君が、そういうことのでけへん人間やと思ってたんや。
 昨日までの知り合いに命乞いされたら、何もできんくなる人間やってな」
「今更、ですよ。組織を動かす小さな歯車である俺にとって、命令は絶対です。
 博士も以前、そう仰っていたじゃないですか」
「そうか。……せやったな」

マサキ博士は下唇をわずかに噛んで、

「ひとつだけ、腑に落ちん点がある。
 バシャーモ、ウィンディ、ブースターは外傷性ショック死、
 カブトプス及びストライク、並びにカクレオン及びメタモンは焼死。
 ハイレベルのポケモン同士の戦いで、相手を原型留めんほど損傷させることは少なくない。
 でも、君ほどのトレーナーが……どうして抵抗のしようが無くなったあの子に、"火炎放射"使ったんや?」
「……………」
「本人確認のために、見た目は出来る限り綺麗に残しておくべきや。
 それがあの子の死体は、歯形の鑑定してやっと本人やって分かるほど、損壊してた。
 加えて焼死は、死に方の中でもかなり苦しい死に方や。
 ワイは君の真意が知りたい。……君はなんで、もっと綺麗な処理方法を選ばんかったんや?」

「激情に駆られて、と言ったら、博士は俺を見損ないますか?」
「いいや。そんなありきたりな理由で、ワイは満足せえへん。
 君が焼死さしたからには、焼死やないといかん、何らかの理由があったはずや」

苦笑する。
博士の洞察力の前では、やはり、俺の小細工など砂上の楼閣に等しい。

「俺はサヤに――」

時と場所は変わり、エンジュシティの、錫の塔に通じる並木道にて。

「――サヤの手を、汚したくなかったのだろう?」

カレンはいつかのときと同じように、しかし今回は柔和な態度で、俺の返事を待っている。
金髪を始末した後、俺はすぐに組織の支部を通じて、監禁されていたカレンを救出した。
その後、サヤのたっての希望により二人は再会を果たし、
現在カレンはカツラの屋敷から少し離れた、寂れた町に滞在している。

「サヤが、話したのか?」

カレンの首肯を見て、ため息が出そうになるのを堪える。
あの一件、サヤは終始俺の背後でじっとしていたことにすると、約束したはずだが……。
姉妹に隠し事はないようだ。

「ヘルガーの炎は猛毒・浸食性を持つ。お前が直接手を下さずとも、
 ヘルガーの火傷を応急処置をせずに一定時間放置した時点で、奴の死は確定していたんだ。
 お前はその火傷を隠すために、サヤに人殺しの汚名を着せぬために、
 あえて火炎ポケモンで、奴を、殺した」
「持ち上げてもらったところを悪いが、
 結果的にそうなっただけで、俺はただ、組織の命を実行しただけだ」
「それでも、私がお前に礼を言えない理由にはならない。
 私は私の代わりに、サヤを、妹を、二つの意味で守ってもらったのだからな」

顔を伏せる。素直に言葉を受け取るべきなのか。

――『あの子を、サヤを守ってあげてほしい』――

屋敷の裏での一コマを思い出し、俺は言った。

「元はといえば、カレン、お前が自分の身をもっと心配していれば、
 こんなことにはならなかったんじゃないのか?
 身の危険は感じ取っていたんだろう?」
「そ、それは言うな。私だって、自分の身くらい、自分で守れると思っていたんだっ」
「どうして助けを求めなかった?」
「それは……」

プライドが邪魔したのか。
俺の視線から、考えていたことを読み取ったのか、カレンの笑顔に怒気が帯びる。
その表情は、サヤのそれと、本当にそっくりで……。

「まあ、無事で良かったよ」
「扱いは、初めて会ったときのお前よりも丁重だったぞ」

カレンはくすくすと笑い、ふと遠い目になって、

「あの子に、本当のことを話すつもりはないのか?」
「話しても、サヤが背負う必要のない罪悪感を背負うことになるだけだ。
 それなら俺が背負っている方がいいし、何より、その方が自然だ。
 いったん道を外れた人間が、どれほど道を外れようが、同じだから」

金髪を始末したあの日。
ケーシィの亡骸をボールに格納し、
「屋敷に帰ろう」と差し伸べた手に、怯えたサヤ。
零れる涙と、悲痛な嗚咽。
記憶は、持ち主の意志に無関係に蘇る。
幻滅されるのは、当然だ。
目の前で人殺しを見せられれば、百年の思慕も冷めるというものだろう。
しかも俺は、その他にも、数え切れないほどの殺しをしていることを認めたのだ。
野生ポケモンを、新興勢力を、制圧に特化したポケモンで蹂躙する行為は、
まさに金髪の「屠殺」という比喩どおりに、血生臭く、惨たらしい。
たとえそれが、この共生社会を上手く維持するための、必要な行為だったとしても。

「……だそうだが。サヤはお前に、言いたいことがあるそうだ」
「な」

草を踏み分ける音が聞こえる。
おずおずと歩み出たサヤと目が合い、同時に逸らした。
ピジョットは何をしていた?
わざとサヤの存在を俺に教えなかったのか?

「髪型、変えたんだな」

こんなくだらない質問しかできない自分を殴りたくなる。
俺は何に怯えているんだ?

「も、燃えちゃったから、いっそのこと、短くしようと思って」

視線をあげると、もじもじと両手を前ですりあわせる、
ミディアムボブのサヤがいて、

「これ、似合ってるかしら?
 サトシはこの前、髪は長い方が好きだと言っていたけれど……」
「よく、似合ってる。こっちの方がいい」
「そう……。ありがとう」

途切れる会話。カレンはひっそりと姿を眩ましていた。
行き場を失った視線が、辺りを彷徨い、やがてサヤに戻る。
奇しくも俺の行動はサヤの鏡写しになっていたようで、

「あ、歩きましょう?
 わたし、鈴の塔を見るのは、今日が初めてなのよ。
 案内してくれる?」
「あ、ああ」

ぎこちない会話を交わし、俺が先に、サヤが後に続く形で、歩き出す。
体三つ分の間隔は、そのまま心の距離を現しているようだった。
階段の軋む音は、静寂を満たしてはくれなかった。
俺たちは一言も交わさないまま屋上にたどり着き、そして、

「サトシはよく、ここに来るの?」

西日の朱の中で、サヤは言った。
燃えるような赤毛が、さらにその赤みを増して、サヤの美貌を縁取る。

「近くに寄ったときは、必ず来るようにしている」
「どうして?」
「この塔に所縁のあるポケモンに、もう一度会えないかと思って」
「会えたことは?」
「いや……マサラタウンを旅立ったときを最後に、会えていない」
「なんていうポケモンなの?」
「ホウオウ。七色の翼を持つ、伝承の中に生きるポケモンだ」

「そう………」

サヤはホウオウの姿を探し求めるように、遠くを見遣り、

「ごめんなさい」

前触れなく、謝ってきた。

「わたし、あの日はサトシのことを誤解して、たくさん酷いことを言ったわ。
 メタモンの変身が見破れなくて、サトシがお姉様を罠にかけたと思ったり、
 サトシがリザードンで、あの人を燃やしたときは、サトシのことが怖くなって、
 本当はサトシはわたしのしたことを隠すために、ああしたんだって知って、わたし、わたし――」

支離滅裂な独白を遮り、

「サヤはもともと、何も知らなかったんだ。
 俺がカレンを疑って罠にかけたと思われても、あのときは、仕方なかった。
 それに、サヤはまだ誤解している。
 カレンに何を吹き込まれたのか知らないが、
 あいつはヘルガーの火傷を負ったところで、しぶとく生き延びていたさ。
 それを俺が感情に任せて、リザードンに殺させたんだ。
 サヤが自分を責める必要は、どこにもないんだよ」

サヤはいやいやするように首を振る。

「そんな優しい嘘、いらないっ」
「俺は組織に、博士に見初められてから、数え切れないほどの命を奪った。
 あいつの命なんて、物の数にもならない」

俺はどこかで、期待していたのかもしれない。
サヤの瞳が、あの日、俺が金髪を殺したときのように、畏怖の色に染まることを。
もう一度あの目を見れば、諦められると思った。諦めなければならないと思った。

組織の権謀の上で操られる人生と、一介のお嬢様として生きる人生。
その最後の分水嶺はきっと、この場面だった。

「いいわ」

左手が、痛いほどに強く握られる。

「わたしにとってのサトシは、ポケモンを大切にすることを教えてくれた、先生だもの」
「怖くないのか、俺が……」
「サトシが仕事で何をしているかは、うすうす勘付いていたわ。
 ただ、わたしに、それを確かめる勇気が無かっただけ。
 それが本当だって分かったときに、笑顔で受け入れる覚悟が出来ていなかっただけなのよ」

「サヤ……」
「一人で背負うのは、もう、やめて。
 もしもサトシのポケモンが死んだら、一緒にお墓をつくるの。
 もしも仕事で辛いことがあったら、もし我慢できたとしても、わたしに話すの。
 わたしは、ずっとサトシの傍にいるから。
 わたしが、サトシの拠り所になってあげるから。
 だから、サトシも、わたしの拠り所になりなさい……。
 勝手に、離れようとしたら、許さないんだから」

その瞬間、心の片隅で燃えていた誰かの存在が、ひっそりと燃え尽きた。
手を、そっと握り返す。
サヤは俺に向き直り、

「わたしにポケモンバトルを教えてくれるあなたが、好き。
 わたしに新しい世界を見せてくれるあなたが、好き。
 わたしをいつでも守ってくれるあなたが、大好きよ。 
 ねえ、わたし、こんなことを誰かに言うのは初めてだけど、
 サトシのことを……愛してるわ」

真剣に、サヤを手放したくないと思った。
離れたくないと思った。
傍にいて欲しいと思った。

「俺も……、サヤのことを、愛している」

サヤは微笑み、小さく背伸びをして、目を瞑った。
西日の赤い光の中で、サヤの頬の色は分からなかった。
両の手で触れて、初めてその熱さを知った。
その日、夕陽が沈むまで、俺たちは長いキスを交わした。

―――――
――――
――


部屋に戻ると、当然のことながらサヤよりも早かったようで、
六畳二間の和室がいやに広く感じられた。

「グゥ…ウゥン……」

ヘルガーも俺と同じ心境のようで、濡れた子犬(実際は子犬なんてものじゃないが)のように、
切ない鳴き声を漏らし、俺たちが出払っているときに敷かれたのであろう、布団の片方に潜り込む。

錫の塔を降りた後、『休暇の続きをしましょ?』というサヤの提案により、
夜のエンジュシティを練り歩いた俺たちは、
夜間飛行は危険が伴う、疲れを癒してから帰るべき、などなどの点で合意に達し、
この町で古くから宿屋を営んでいる比較的グレードの高い旅館の框を踏んだ。
時間が遅かったこともあり、先に料理を堪能してから名湯『虹の湯』を浴びることにしたのだが、
この旅館にも他の一般宿泊施設の例に違わず、
規定体積以内のポケモンの同伴可、ただしポケモンと持ち主の性別が異なる場合はその限りではない、
というルールがあり、雄のヘルガーは俺と男湯の暖簾をくぐることになった。
ちなみに俺のポケモンはカビゴンをはじめ、全て規定体積をオーバーしていた。
閑話休題。
座椅子に腰掛け、夜の帳に包まれた街の景色を窓越しに眺める。
たまにはこういう時間もいいかもしれない、と思った矢先、
ぱたぱたという足音と、行儀のなっていない襖を開け閉めする音が、静謐を壊した。

「サトシ!見て驚きなさい、ほら、浴衣よ。本物の浴衣!」

現れた和装の麗人は、その物言いと、
布団から飛び出して駆け寄っていくヘルガーの態度からサヤであることは間違いなさそうなのだが、

「その浴衣は誰のものなんだ?」
「女中さんが貸してくれたの。着付けも全部してもらったのよ」
「まさか強引に、」
「どうしてそうなるのよ!わたしは好意に甘えただけ。
 そんなことより、ねえ、これ、すっごく可愛いでしょ?」

くるりと一回転するサヤ。石けんの香りが鼻孔をくすぐる。
見るからに上質な白の生地には、青紫の朝顔がいくつも、瑞々しく描かれていた。
サヤの女性的な曲線を密やかに表す浴衣姿は、想像以上に艶やかで、

「綺麗だ」

誉め言葉を探すのを待たず、直感が口をついて出てしまう。
するとサヤは唇を尖らせて、

「前から思ってたけど、サトシは誉め言葉のボキャブラリーが足りないわ」

「誉め慣れていないんだ」
「なら、慣れることね。
 わたしを誉める機会なんて、これから数え切れないくらいあるわよ……。
 あ、サトシのそれも、浴衣?」
「そんな上等なものじゃないさ。
 浴衣の着付けの手間を省いた、部屋着みたいなものさ」
「それでも、羽織のおかげで少しは様になってるじゃない。
 わたしと並んでも遜色がないくらい」

そう言ってサヤは、俺の隣に座り、上品に足を崩す。
風呂上がりのせいだろうか、密着した腕と肩から、徐々に熱が伝わってくる。
結わえられた髪と襟の隙間から露わになったうなじは、仄かに紅を差していた。

「…………」
「…………」
「何かお話して」

張り詰めた沈黙を、あどけないサヤの言葉が弛緩させる。

「話?」
「じゃあね……わたしの質問に答えてくれる?
 どうしてサトシは、ピカチュウと別れることになったの」

屋敷の談話室では、ピカチュウを野生に返したといい、
金髪との掛け合いでは、ピカチュウは死んだことを暗に肯定した。
今、真実を伝えるのに、抵抗はなかった。
サヤがそれを黙って聞いてくれるという、確信にも似た安堵があったからだと思う。

「俺のピカチュウは、人の手によって創られたんだ」
「それは、わたしのヘルガーと同じように、薬で強化されたポケモンだってこと?」
「そうじゃない。……遺伝子操作を受けて、培養された。
 あのストライクやカブトプスは、個体が本来持つ特性――鎌の大きさや骨格筋の形――を、
 組織傘下の研究部署で調整された結果、生まれた戦闘特化型のポケモンだ。
 でも俺のピカチュウは、ピカチュウという種族をベースに書かれた設計図がら創り出された、まったく新しいポケモンなんだ」
「まったく新しいポケモンって、どういうことなの?
 サトシのピカチュウは、どこからどう見ても、他のピカチュウと同じようにしか見えなかったけど」
「外見は変わらない。内側の機能が、とりわけ電気を司る器官が、他のピカチュウとは全然違っている。
 俺のピカチュウは、普通の個体よりもたくさん発電できたし、生み出した電気を普通の個体よりたくさん溜めることもできた。
 でも、発電によって自壊する絶縁組織の修復機能は、そのままだった。
 設計に不備があったわけじゃなくて、そればかりは、どうしようも無かったんだと思う」
「ごめんなさい、サトシ、最後のほうが難しくて……」
「要するに、ピカチュウは命を削ることで、他の電気ポケモンよりも強い電撃を使うことができていたんだ。
 俺がそれに気づいたのは、というよりも、教えられたのは、
 ポケモンマスターを目指す旅の途中、故郷近くの、トキワシティに寄ったあたりでのことだった」
トキワジムを制覇した次の日の夜。
晴れてパーフェクトホルダーになった俺を祝うため、
カスミとタケシ、そしてわざわざマサラタウンから出向いてくれた母親とオーキド博士を交えた食事会が開かれた。
宴も酣を過ぎた頃、俺はオーキド博士に耳打ちされて、夜風に当たると皆に言って、座敷を出た。
そして、そこで俺は――。

「サトシはそれまで、ピカチュウがずっと、ただのピカチュウだと思っていたのね?」
「特別だと思うことは、何度となくあったよ。でも、それはあくまで常識の範囲内での特別だと、思っていた。
 ピカチュウが創られたポケモンだなんて、考えたこともなかったんだ」
「最初は、とても信じられなかったでしょうね……」

人目を憚らず喚き立てる俺に、オーキド博士は順を追って、冷静に話してくれた。
自分がポケモンと人間の共栄を目的とした秘密結社の首魁であること。
十数年前、倫理協定から大きく逸脱したとある研究機関から、実験に使われていたポケモンを徴発、
辛うじて息のあったポケモン――ピカチュウ――を博士が引き取ったこと。
その出来事からややあって、俺がマサラタウンから旅立つ日が訪れたこと。
偶然が重なり、旅立ちのトレーナーに渡すはずの幼生ポケモンが不足していたこと。
悩んだ末、実験台にされていた不幸なピカチュウを、俺に託したこと。
色々な街で俺やピカチュウと再会する中で、ピカチュウについての懸念が、確信に変わっていったこと。

「俺は、ひとつの岐路に立たされた。
 このままピカチュウと一緒にポケモンマスターを目指すか、
 それともこの場で、ピカチュウが最も長く生きられる環境に手放すか」

結局、俺は前者を選んだ。
マサラタウンの研究所で、いったんピカチュウの検査してみないかというオーキド博士の提案を断り、
翌日、逃げるようにトキワシティを発った。
動揺していることを悟られたくなくて、
最後は自分一人の力で行きたいと嘘を吐き、カスミやタケシと別れた。
このままピカチュウと一緒に冒険を続ければ、ピカチュウの命は加速度的にすり減っていく。
その事実を認めたくなくて、わざとピカチュウに電気技を使わせた。
無茶な指示に応えてくれるピカチュウの健気な姿に、俺は愚かにも安心していた。
だが――。

「チャンピオンロードを抜けた頃から、ピカチュウを失う夢を見るようになった」

それからというものの、俺はなるべくピカチュウに負担のかからないポケモンバトルをするようになった。
格下の相手でも、なるべく一撃で倒すように心がけた。
ピカチュウはきっと、俺の様子がおかしいことに気づきはじめていた。
俺はそれが嫌で、ピカチュウと心を通わせるのを避けるようになった。

「サトシは、ピカチュウが少しでも傷つくのが怖かったのね?」
「俺は、中途半端だった。ピカチュウのことを一番に考えるなら、
 ポケモンバトルと無縁な、ピカチュウの住処に、もしくはマサラタウンの母親のところに置いていくのが一番だ。
 でも、できなかった。相変わらず俺のベルトの六番目のホルダーには、
 ピカチュウの入ったボールがあって……リーグの強敵を相手に、切り札としてピカチュウを出す度に、
 もう二度とピカチュウを出さないと誓って……なのに、」

結局俺は前チャンピオンを前にして、ピカチュウの力を借りずにはいられなかった。
チャンピオンになった俺に、博士は何も言ってこなかった。
労いと祝いの言葉だけで、ピカチュウのことには、触れようともしなかった。
それが逆に、見限られているようで辛かった。
ピカチュウをポケモンバトルで使わなければいい、そう自分に言い聞かせたこともあった。
だが、初めての防衛戦で、俺は最後のポケモン――ピカチュウ――を使わざるを得ない状況に追い込まれた。
それで、悟ったんだ。今の俺では、絶対にピカチュウに頼ってしまう。
二度目の防衛戦を切り抜けて、やっとピカチュウと離れる決心がついた。

「オーキド博士は快く、ピカチュウの入ったボールを預かってくれた。
 そして同時に、俺の実力を買って、組織の一員にならないかと誘ってくれた」
「サトシは、ポケモンリーグチャンピオンの顔を無くすのが、もったいないとは思わなかったの?」

当時のことを思い出し、溜息をつく。

「思ったよ。でも、ポケモンの寿命を代償に能力を高めるような研究をしている機関を、野放しにしたくなかった」
「わたしのお父様も、ポケモンを実験台にした遺伝子の研究をしているわ」
「それは、未来に生きる研究だろう。
 俺のピカチュウを創り出した機関は、ただ単純に、研究者のエゴによってポケモンを研究していたんだ」

サヤはどこか悲しそうな目で、ちら、とこちらを見上げた。
疑問を呈するような視線だった。『矛盾しているわ』――そんな声が聞こえた気がした。

「サトシが組織に入った理由は、それで全部?」
「最初の理由は、そうだったが、今は違う。
 俺が組織にいるのは、オーキド博士の夢を受け継いで、いつの日か、それを実現するためだ。
 独立型インフラの拡充、ポケモンと人間の癒着社会の分化……やらなければならないことは、山積している」
「本当にそうなの?」
「何が言いたいんだ?」
「サトシは、ピカチュウと別れる寂しさを、紛らわしたかったんじゃないの?
 ピカチュウの体のことを知らないで、無理をさせてきたことの、罪滅ぼしがしたかったんじゃないの?」
「…………」
「サトシは、もうひとつ、大事なことを言い忘れているわ。
 カスミのことをマサラタウンに置いてきたのは、どうして?
 サトシとカスミは、その……あ、愛し合っていたんでしょう?」
「一緒に暮らせば、自由がなくなる。
 博士に、組織に、貢献できなくなる。
 組織にとって、カスミはあくまで部外者だ」
「そのときのサトシにとっては、カスミよりも、組織のほうが大事だったってこと?」
「俺には力があって、博士の組織には、それを最大限に生かす情報があった。
 俺は、必要とされていたんだ」

博士に言われた。
カスミはまだ若いから、幸せになるチャンスは、この先いくらでもある。
だがお前が組織に協力しないことで、失われるポケモンの命は、取り返しがつかないのじゃ、と。

「俺はたくさんのポケモンや人を殺して、それ以上のポケモンや人を救った。
 でも、俺とカスミが愛し合った証拠は、何もない。記憶に残っても、記録には残らない」
「それでわたしは、組織のことを知りつつ、サトシのことを束縛しない、都合のいい女というわけ?」
「サヤ、俺は、」
「今の話を総括したら、そういうことになるわ。
 ねえ、わたしは確かにサトシのことを愛してると言ったけれど、
 カスミと同じように捨てられるのは嫌よ。絶対、嫌なんだから……!」

薄明かりのなか、サヤの瞳が、微かに潤んでいることを知る。
俺はサヤの小さな肩を抱き寄せて、

「馬鹿なことを言うな。
 俺はサヤに、感謝してもしきれないくらい感謝しているんだぞ。
 サヤのおかげで、俺は過去の罪悪感を忘れることができたし、
 ……もう一度、誰かを好きになれたんだ」
「なら、わたしのことを一番に考えるって、約束しなさい。
 わたしへの愛が本物だって、今ここで、証明して」

暗喩の意味を理解し、肩を抱く手に汗が滲む。
サヤは弱い握力で、俺の胸元を掴んで言った。

「不思議ね……。
 わたし、あれほどお父様の言っていたことに反発していたのに、
 今は、自分からお父様に従おうとしているわ」
「サヤ、今のうちに言っておきたいことがある」
「わたしも、今のうちに言っておきたいことがあるの」
「俺がここでこうしているのは、」
「わたしがここでこうしているのは、」
「俺の意志だ。それだけは間違いない」
「わたしの意志よ。それだけは間違いないわ」