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俺は瞬きして、ゆっくりと身を起こした。
自分に纏わる昔話を盗み聞きするのは、好奇心をそそられこそすれ、誉められた行為ではない。


夕暮れ時。
暮れなずむ西日を左手に、リザードンは緩やかな迂回路をとりつつ、グレン島に飛んでいた。
タマムシ大学、タマムシジムを遊覧したところで、サヤは突然、疲労を訴えた。
馬鹿みたいにはしゃいでいたツケが回ってきたのだろう。
そう軽く考えていた俺は、今現在、背後に頭を押しつけてこんこんと眠るサヤに、謝りたい気持ちでいっぱいだ。
組織保護下――監視下ともいう――妙絶の先天性適格者にして、遺伝子工学最高権威カツラの才媛の一。
何も知らない少女が守らされた約束は、屋敷の外に出ないこと。常に誰かの目がとどくところにいること。
健気な少女に、反感は無かった。頑なに約束を守った少女は、やがて外の世界を怖がるようになった。
少女の世界は、グレン島を縁取る海岸線で終わっていた。
そんな、人いきれとは無縁の滅菌された世界で過ごしてきたサヤが、初めて世界の輪を広げたのだ。
タマムシシティで体験したことは、サヤの身体に、心に、大きな負荷をかけたに違いない……。
不意に、背中でもぞもぞとサヤが動いた。

「ねえ」

それきり言葉が続かない。寝言だろうか?

「家に着いたら起こしてやるから、眠ってていいぞ」
「わたし、寝ぼけてないわ。もう十分眠ったもの」
「そうか」

サヤは出し抜けに言った。

「きっとあの人、サトシのことが好きだったんだと思うわ」
「……なんの話をしているんだ?」

やっぱりまだ寝ぼけているんじゃないか、と思う。

「エリカさんのことよ。わたしがエリカさんから、サトシがジムに挑戦したときの話を聞いたことは、言ったでしょう?」
「ああ」

俺がピジョットの聴覚を借りて盗み聞きするまでもなく、
ジム戦を終えたサヤは、嬉々としてエリカから聞いた話を、俺に話してくれた。
話は微に入り細を穿つものだった。
当時の俺とエリカが選んだポケモンから試合運びまで、エリカが記憶していたというから驚きだ。

「サトシのことを話してるエリカさんの顔、とても嬉しそうで……寂しそうだった……。
 それにね、もう何年も経つのに、サトシのことを忘れられないって……」
「俺とエリカは、一度ジムで戦って、その後リーグ関連の催事で話した程度の関係だ」

サヤは考えすぎだ、と思う。

「幼いエリカさんは、手加減を知らない、悪いお手本のようなジムリーダーだったらしいの」
「それはもう聞いたよ」
「確認のために言ってるのよ!ちょっと黙ってて!」

寝起きのサヤは機嫌が悪い。

「………続けてくれ」
「地の利もあって、選りすぐりのポケモンをジム登録して……。
 相性が悪い炎ポケモンを相手にしたとき以外は負けなしだった、そんなときに、サトシが挑戦してきた。
 しかもそのときサトシは草ポケモンと互角か、相性の悪いポケモンしか持ってなかった。
 そんな相手に負けたら、嫌でも意識しちゃうに決まってるじゃない」

負けて悔しさを感じることはあっても、自分を負かした相手に好意を抱くことなどあり得るのだろうか。
サヤは言う。

「わたしね、その話を聞いてすごく共感できたの。
 悔しさとか、憎しみとか……そういう感情って、ひょんなことで裏返っちゃうのよ。
 わたしが初めてサトシとポケモンバトルして、負けたときのこと、覚えてる?
 サトシが帰ってから、わたし、しばらく自分の部屋に引きこもってたの。
 悔しくて悔しくて、仕方なかった。
 草タイプのフシギバナに、炎タイプのヘルガーが負けるわけないのに、
 どうして負けたんだろうって、わたしとサトシの、何が違うんだろうって、ずっと考えてたの。
 そうしたら………ぁ」

途中で言葉が、風に乗って消えていく。背中が熱い。
自分で特大の墓穴を掘ったサヤに、しかし、逃げ場は無かった。
高度は十分、身投げされてもすぐに拾える。
「……わたしがジム戦に勝ったら、そのときは何でも一つお願いを聞いてくれるって、約束してたわよね」
「ああ、確かに約束した」

サヤは消え入りそうな声で言った。

「じゃあ、さっきの、忘れて」
「できることと、できないことがある。簡単に記憶を消すことはできない」
「忘れてって、言ってるじゃない」
「……………」
「じゃあ、お願いを変えるわ。
 今からほんの少しの時間だけでいいから、組織のことや、お互いの立場を忘れて」

それはある意味で、俺とサヤが、互いにもっとも触れてはならない領域だった。
脈々と続いてきた、あるいは続かせてきた、微妙な駆け引きが終わる。
その瞬間が今なのか。

「禁句だろう、それは」
「そうよ。わたしは禁句を言ったの」
「開き直るのか」
「開き直るしかないじゃない」
「……………」
「……………」

沈黙で埋めるのに、グレン島までの道のりはあまりにも長く。
俺はサヤの我が儘を、発言を許してしまう。サヤは言った。

「もしも……もしもわたしが……サトシのことを、その……好きだって言ったら、サトシはどうするのかしら?」

肩書きを捨てた一人の女として。
俺は言った。

「逆に聞くが、もしも俺が、サヤのことを好きだと言ったら、サヤはどうするつもりなんだ」

肩書きを捨てた一人の男として。
思春期の少年少女を彷彿とさせる、あどけない腹の探り合い。
どちらからともなく、笑い出す。
この応酬に込められた意味が分かるのは、きっと、世界中で俺とサヤくらいのものだろう。
踊らされていたつもりが、嫌々踊っていたつもりが――自ら踊り出していた。
その馬鹿馬鹿しさに、自分の単純さに、笑ってしまう。サヤもきっと同じ気持ちなのだろう。
……ああ、本当に馬鹿みたいだ。箍が外れる音が聞こえた気がした。
先に折れたのは俺のほうだった。
上半身だけで振り返ると、すぐ目の前にサヤがいた。
黄昏色に染まった頬に触れる。
びっくりするくらい熱い。
サヤは肉食動物に捕らえられた草食動物のように、そっと眼を瞑った。


その日、俺はカスミ以外の異性と、初めて口づけを交わした。


――――――
――――
――


サヤを屋敷に送り届けたその足で、俺はカツラの研究施設に向かった。
サヤを連れ出しての本土遊覧について報告するためで、無論、その中に帰路上のエピソードは挿入されていない。

「ほう。炎タイプの技を使わずにレインボーバッジをゲットしたか。
 当代のエリカくんはかなりの使い手と聞いていたが……流石はワシの娘。
 ハッハッハ、祝いだ、レッドくん。今日は飲むぞ!」

おもむろに文机の引き出しからスコッチとロック・グラスを二つ取り出すカツラ博士。
俺は「お祝いは親子水入らずでどうぞ」と丁重に断りつつ、

「報告とは別に、お聞きしたいことがあるのですが」

カツラはリラックスした姿勢をそのままに、無言で先を促す。

「最近、組織の構成員――とりわけ実働部隊の人間が失踪していることについて、博士はご存じでしょうか?」
「……ああ、この前オーキドに愚痴られたよ。
 失踪、というよりは消されたというニュアンスだったが」

なら、話は早い。

「仮に構成員が消された、言い方を変えましょう、暗殺されたとすれば、その下手人はどのような人物だと考えますか?」
「オーキドの話ではツーマンセルで行動していた構成員が失踪した例もあるそうだ。只者で無いことは確かじゃな」

一対多の勢力図は、一が多に対し、圧倒的な力を有している時のみ拮抗する。
単純にツーマンセルだから、一人に対して二倍の戦力を持つというわけではないのだ。
連携のとれたツーマンセルは、個々の戦力の二乗と計算するのが正しい。
しかも消されたツーマンセルの構成員は実働部隊の上位層、暗殺者の実力は、想像するに余りある。
カツラ博士は続けた。

「痕跡が無いことからも、下手人がその筋の者である可能性は濃厚だ。
 業を煮やした上層部の癇性持ちが、追跡専門の子飼い部隊を放ったそうだが、良い報告は聞かん。
 返り討ちにされて、組織の狩人もこんなものかと笑われるのがオチじゃろう」

ハッハッハ、と乾いた声が響く。カツラ博士はグラスを一つ直し、残った方にスコッチを注ぎながら、

「対策を講じるために、もっとも必要な情報は、相手方の規模と、動機。この二つに尽きる。
 してレッドくん、君の意見を聞かせてもらおうか」
「規模は単体、動機は私憤……ではないでしょうか」
「根拠は?」
「失踪した構成員に共通点が無く、つまりあまりに無作為抽出的で、痕跡を残さない点以外での計画性が無いからです」

暗殺者はバックボーンの無い純粋な個人で、私情によって組織の人間を狙っている。
決して楽観視しているわけではなく、一番現実的なストーリーだ。
もしも仮に、組織に反抗意志を持つ新興勢力が、組織の戦力を削りにかかっているのだとしたら、
必ずどこかから情報が漏れ、三日と待たずに解体させられることになるだろう。
組織の腕は広く、力強い。
「同感だ。相手が単独なら、なおさら尻尾を掴むのは難しいだろう」

カツラはスコッチのストレートを舐めつつ、

「が、しかし……実際のところ、ワシはあまり心配しておらんのだよ。
 噂のおかげで実働部隊全体の緊張感が高まっているようだし、その下手人も一人の人間だ、必ずどこかでミスを犯す。
 数人の構成員を食い物にして、そのまま大人しく身を引くような奴だとも思えんし………いずれ捕まるだろうさ」

俺は訊いた。

「カツラ博士に、暗殺者の心当たりはありませんか?」
「微妙な言い方をするじゃないか。
 ワシにとっては、二通りの受け取り方が出来る質問だな。
 レッドくんが上層部の誰かから、個人的に暗殺者の捕縛を命じられていて、
 その手がかりを探しているなら、ワシに出来るアドバイスは何もない。
 もしもワシが暗殺者を人物像でなく、個人レベルで推測できると勘ぐっているなら、
 やはり期待に添えることはできないな。要するにワシは何も知らん、ということだ」

カツラ博士は笑みを浮かべて、レッドくんも欲しくなってきただろう、とグラスを持ち上げてみせる。
俺はやはり首を振って、

「俺は直接的に、構成員失踪の原因を探れと言われたわけではありません。
 しかし、もしも偶然、その暗殺者と出会うようなことがあれば、迷わず殺せと言われました」
「なら、そうすればいい。ワシに改まってお伺いを立てるようなことでもないさ」

俺は深く息を吸って、

「その暗殺者があなたの娘である可能性を、考慮されたことは?
 その可能性が現実になったときも、カツラ博士は組織の意向を尊重するのですか?」
「ハッハッハ。まさかサヤを疑っているのか?」
「サヤに歳の近い姉がいることは、知っています。
 彼女が父親のあなたや、組織をとても憎んでいることも」
「あの子はね、とても優しいんだ。ポケモンを殺せない人間に、人は殺せんよ」
「これはオーキド博士を含めた、誰にも話していないことですが、
 俺はサヤの姉に……カレンに一度、襲われたことがあります。
 応戦した結果、事なきを得ましたが、反応できなければ確実に俺は死んでいました。
 カレンは強かった。ポケモンの練度も、扱い方も、実働部隊のそれに匹敵していた。
 不意打ちされれば、十人に七、八人はまともに反撃できずにやられるでしょう。
 彼女は単独で、明確な動機もある……。
 俺が一度襲われて以降、再度襲われていないのは、
 俺が彼女にとっては大切な妹であるサヤと、親交を築くようになったからでしょう。
 もしもサヤと何の関わりもない、ただの組織の構成員が相手なら、カレンは――」
「レッドくん。君は少し落ち着く必要があると思うんだが」

こぶしをを文机に力いっぱい叩きつけるより、
まだスコッチが半分ほど残ったロック・グラスを壁に投げつけるよりも雄弁に、カツラの静かな物腰は語っていた。

黙れ、と。

「初めに断っておこう。肉親の情は組織の保全意識に劣る。
 もしもワシが娘を庇う一心で、君の疑惑にネガティブな態度を示していると思われているなら、
 誤解を招くような発言をしたことを謝ろう。所詮、ワシも世間体を気にする一人のしがない爺だ。
 君がワシに重ねている、君からみたカツラ博士という人物像をそのままにしておきたかったのさ。
 自己欺瞞の気があったことも否定はしないがね」

軽快なカミングアウト。俺は何も言えなかった。

「はっきりいって、君はカレンを過大評価しすぎている。
 あれが人を傷つけ、ましてや人を殺すことは、そうだね、喩えるなら、
 サイクリングロードの暴走族がチャリティー活動を始めること以上にあり得ないことだ。
 レッド君が襲われたのは事実。そのとき明確な殺意を感じたことも事実だろう。
 それは認めようじゃないか。しかし、もし奇襲が功を奏し、
 君の息の根を止めうるところまでいったとしても、あれは土壇場で失敗する。
 この話は、全ての状況に当てはまる。なぜ断言できるのか、という顔をしているね。では答えよう。
 なぜって、ワシはあれに一度、殺されかけたことがあるのだよ。
 動機は……、一言で定義できるものではないな。
 カレンは物心ついたときからサヤを憐れみ、ワシを恨み、組織を恨んでおった。
 それがあのときに爆発した、というべきなのだろう。
 カレンはサヤについてある推測をし、ワシに尋ねた。ワシはそれに正直に答えた」

カツラ博士は「今から思えばもう少し隠しておくべきだったかもしれんな」と付け加え、笑った。
カレンの質問とカツラ博士の返事がどういったものなのか容易に推し量れる俺には、まったく笑えなかった。

「ポケモン殺人では、本来人が直接人を殺す際にストッパーとなる道徳観念の著しい欠如が散見される。
 衝動的にポケモンに攻撃を命令してしまう。
 するとポケモンはポケモンバトルの最中が如く、命令に忠実に従い、攻撃の末に、相手を死に至らしめる」

依頼傷害致死――ポケモン犯罪で最も議論の焦点となっている罪状だろう。

「ポケモンの責任はトレーナーの責任でもある。
 トレーナー免許を取り立ての子供からポケモン犯罪心理学の権威まで、誰でも知っているこの世界のルールだ。
 なのに、人はポケモンを媒介にすることで、罪悪感や背徳感から逃れようとする。
 一時的に逃れた気になって、ポケモンに攻撃しろと、暗に殺せと命じてしまう……。
 話を元に戻そう。カレンの性質は、さっきワシが言ったとおりだ。
 あれは特別に怒りっぽく、そして、優しいのだ。
 たとえ衝動的な殺意に襲われ、手元にワシを殺せるだけのポケモンがいたとしても、最後の最後で正気に返る」

カツラ博士は右手でトントンと左鎖骨の周辺を叩き、

「あれのポニータにのしかかられ、鎖骨を蹄で砕かれたとき、ワシは死を覚悟した。
 あとひとつの命令で終わる。ポケモン犯罪の一般的モデルなら、ためらいなく最後までやる。
 そんな状況であれは逃げ出したのだ。
 あれから数年たった今でも、あれにポケモンを、人を淡々と殺せる胆力が備わったとは到底考えられん」
「それは、カツラ博士が実の父親だったから、では?」
「ワシを殺し損ねた理由として、あれがそう言ったのかね?
 違う違う。実の父親だからこそ、だ。自慢げに言うことじゃないが、ワシはこの世で誰よりも、カレンに憎まれている自信がある。
 あれがワシを殺せなかったということはとりもなおさず、あれには誰も殺せん、ということさ。
 それどころかポケモン一匹殺めるのにも、眼をつむり、耳を塞ぎながらやるような、優しくて甘い子なんだよ、あの子は。
 ワシはそう信じている」
父親としてではなく、一度命を狙われ、殺されかけた組織の人間として、
カツラはカレンが暗殺者たりえないと言っている。

「例外として考えられるのは、あれが組織を憎むあまり、精神を病んでしまった場合だが、
 これもまずあり得ないと考えていいだろう。あれは外見こそ気丈夫だが、内面は発泡スチロールのように脆いんだ。
 レッド君はいちおう、あれとまともに会話できたんだろう?なら、あれはまだまだ正常な臆病者のままだということだ。
 ……知性ある生き物を殺害するという行為には、多大なストレスを伴う。
 繊細かつ善良な人間が精神的に無傷でそういった行為に及ぶには、その行為に対して普遍性を獲得しなければならない。
 殺害を日常化して初めて、本当の意味で罪悪感や背徳感を捨てることができるのだ。
 理性なき殺しは身のみならず心をも滅ぼす。誰の言葉だったかな。
 忘れたが、言うまでもなく、ここでの理性とは、知能犯が編み出す犯罪の芸術的計画性のことを指していない。
 罪を罪と思わない、道徳を常識として意識しない、そういった心構えのことを指している。
 白銀山という極限の環境で、日夜凶悪な野生ポケモンを屠った君なら、
 この言葉の意味がよくわかるだろう?」

『組織のために』――お前はポケモンを殺めるとき、何を考えておるのじゃ、とオーキド博士に訊かれたとき、俺はそう答えた。
その三日後、俺は白銀山行きを命じられた。
あの山で、あの地獄が顕現したような山で、いくらのポケモンを殺したのか、俺は覚えていない。
最初に墓を作るのをやめ、次に弔うのをやめ、やがて何も感じなくなった。慣れてしまった。
それは人に対しても、同じ事なのだろうか。どうか違って欲しい、と思う。それを自分で証明したくない、とも。

「理性なき殺しと健全な精神は両立しない。稀に両立する人間がいても、長くは持たない。
 レッド君にとって見れば、同業者にはそういった輩が多いように感じるかもしれないがね、
 彼らをそうたらしめているのは、事前カウンセリングによる予防と、ほんの少しの見栄だ」

馬鹿げた話かもしれないが、組織には実働部隊専属のカウンセラーが複数存在する。
交戦可能性の高い任務に当たる人間は、カウンセラーとの対話によって、
ポケモンや人を殺めることは当たり前であるという素晴らしい暗示をかけてもらう。
そして任務を終えた後で、作り物の残虐性に酔うのだ。
敵性のポケモンを、人間を、多数殺害した、たくさん組織に貢献した。そんな風に。
カウンセリングの効果が見られない人間は、
精神を病むか、サポートに回るか、記憶を消されて組織から放逐される。
俺が命じられたのは、白銀山に行くことだった。
そして荒療治には、それなりの効果があった。
相変わらず悪夢は見るが、突発的な嘔吐感に見舞われたり、
まるでゴーストポケモンに乗り移られたかのような、正体不明の脱力感、倦怠感に襲われることは無くなった。

「ハッハッハ、話がわき道にそれてばかりだな」

カツラ博士は赤ら顔で言った。

「とりあえず、こう結論付けてみようじゃないか。現時点でカレンを暗殺者と決めるのは時期尚早だ。
 が、もしも本当に、万が一にあれが組織を憎むあまり壊れ、
 構成員を無差別に殺してまわっているのだとしたら、そのときはレッドくん、容赦なく処分してもらってかまわん」

それだけカレンが暗殺者ではないという自信があるのだろうか。
否、カツラは本当に万が一の可能性を考え、現実にそうだった場合は、迷わず殺せと言っているのだ。
組織の保全意識は肉親の情に勝る。結局は、カツラ博士が最初にそう断ったとおりだったわけだ。
決して、娘を、カレンを愛していないわけではないのだろう、と思う。
ただ、組織とカレンを天秤にかけたとき、カツラにとって重いのは、組織の方なのだ。
俺は首肯し、カツラの私室を後にした。
残念ながら、あなたの長女は精神を病まれている可能性が非常に高い、という台詞を飲み込んだまま。

外界の脅威とは無縁の研究者は、研究に無関係な情報を、大抵の場合、熱を失った状態で味わうことになる。
それはカツラ博士とて例外ではない。
――数日前、失踪扱いにされていた構成員の一人が、半死半生の状態で見つかった。
場所はコガネシティ郊外、旅をするトレーナーがたまに通る道に、横たわっていたらしい。
彼と行動を共にしていた三名は、全員が少し離れた草むらで死亡しているのが確認された。
『我々を襲った相手は、燃えるような赤髪だった』
事切れる直前に、彼はそう言い残した。
反組織勢力集結地点における強襲任務の帰還途中、一瞬の気の緩みを狙われたのだ、と。
前回の失踪から数えて二ヶ月ぶりの構成員失踪改め死亡事件。
初めて得られた目撃証言に、憶測は現実味を帯びた。

『他の構成員失踪との関連性は未だ分かっておらんが、同一犯である可能性は濃厚じゃ』

オーキド博士からそう警告されたとき、真っ先に脳裏をかすめたのは、カレンの顔だった。
妹を思いやる優しい姉であり、父親を、組織を憎む恐ろしい暗殺者であるという二面性。
個人では巨大な組織に対抗できないという無力感、絶望感が、
カレンから一時的に冷静さを奪い、究極的選択に駆り立てたのではないか。
今から思えば、『サヤを守ってあげて欲しい』という言葉は、
もし自分が組織に粛正されたときは、サヤを任せるという意味だったのではないだろうか。
俺は組織の人間だが、同時にサヤを守るだけの力を持ち、サヤに信頼されている数少ない人間の一人でもある。
空想の域は出ているように思える。

紺碧の海を眼下に本土を目指しながら、俺は二つのことを胸に誓った。
ひとつ。サヤには決して、姉が組織の人間に無差別な襲撃を行っている可能性を明かさないこと。
ひとつ。次にカレンと相見える機会があれば、もしも本当に暗殺行為をしているなら、即刻やめるように説得すること。
組織の意向に反するが、そんなことはどうでもいい。
見知った人間を殺めるのが恐ろしいからか?
サヤに姉を殺めたことを咎められるのが怖いからか?
哄笑が頭の中を反響する。現実で、俺は小さく笑った。

結局、俺はカツラ博士に期待していたのだ。
『たとえ娘が犯人でも、命だけは助けてやって欲しい』
――そんな、まともな父親じみた答えを。

―――――
―――
――

「……いよいよ尻尾を現したそうだね」
「何の話だ?」
「僕らの生命を脅かす恐ろしい暗殺者の話さ。
 任務を終えて疲弊していたとはいえ、四人を相手にしての大立ち回りだ。
 ふふ、組織も本腰を入れざるを得ないだろうね」

金髪は何がおもしろいのか、微笑する。
無視をするつもりが、口を滑らせてしまう。

「その実力には感服するが、ヤツは今回、致命的なミスを犯した。
 一人を殺し損ねて、身体的特徴を知られてしまった。
 処分されるのは時間の問題だろう」
「赤毛、それも混じりけのない見事な赤毛だったそうだね。
 得意とするポケモンのタイプは何なんだろう……。
 レッド、君はその暗殺者と相見えてみたいとは思わないのかい?」
「指令はない。
 遭遇すれば交戦しろと言われているだけだ」

金髪はわざとらしくため息を吐いて、

「つまらないトレーナーだな、君は。
 純粋な力比べをしてみたいという気は起こらないのかい?
 それともその暗殺者のことを、怖がっているのかな?」

俺が反応しないでいると、金髪は続けた。

「僕は、その暗殺者と戦いたい。
 そいつに殺された可能性が高い失踪者の中には、僕の知り合いがいる。
 君も覚えているだろう?短い黒髪の、短気な男のことを」

孤島で共に調査隊の護衛にあたっていた、あの男のことを言っているのだろう。

「君とチームを組む前は、彼と一緒に任務に就くことが多くてね。
 そりが合わないことなんてしょっちゅうだったが、それでも彼は、僕の友人だった。
 なに、復讐なんて愚かしい動機で、その暗殺者を処分したいと考えているわけじゃないよ。
 ただ、もしも彼がその暗殺者と戦って、結果、殺されたというのなら、
 僕がその暗殺者を倒したとき、僕が彼よりも強かったという証明になるだろう?」

微笑からは、複雑な感情が見て取れた。
組織の戦力消耗を避けるために、構成員同士による本気のポケモンバトルは固く禁じられている。
許可されているのは一般的なポケモンバトルだけだ。
そして無論、相手のポケモンを死に至らしめないよう、手加減しながらする戦いで、真の優劣は決まらない。
金髪はあの男と、どちらが強いかはっきりさせる機会を逸したままなのが許せないのだろう。
「……意外だ」
「何がだい?」
「格好の獲物……そういった意味で、暗殺者と遭遇したいと言っているのかと思っていた」

殺害許可は下りている。
ポケモンや人を殺傷することに精神的な安寧を得ている金髪にとって、
この暗殺者ほど適した相手もいない。

「心外だよ」

金髪は肩をすくめた。

「僕をサイコキラーと一緒にしないでくれ」

――――――
――――
――

タマムシシティへの遠征から、一週間後。
薄膜のような雲が強い日光を和らげ、ぽかぽか陽気の屋敷の裏庭で、
俺はサヤと静かな時間を過ごしていた。

「サトシは、長い髪が好き?それとも短い髪が好き?」
「特に好みは……」
「どっちでもいい、はダメなんだから」

俺は言った。

「……長い方が好きだ」
「そ」

素っ気ない反応とは裏腹に、表情はニコニコと嬉しそうだ。

「わたしね、小さい頃からずっと、お父様に言われてきたの。
 女の子は、髪を伸ばした方が可愛いって。
 わたしは邪魔だから切ってしまいたかったんだけど、お父様は許してくれなくて、
 いつの間にか髪を伸ばしているのが当たり前になって……。
 でも、お父様の言いつけを守っていて本当に良かったわ」

首筋に柔らかな髪の束が触れる。次いで、微かな重み。
肩にサヤが頭を乗せているのだと気づくと同時に、甘い香りが鼻孔を満たした。

「サヤの髪は、良い匂いがする」
「毎日たっぷり時間をかけて手入れしてるんだから、当然よ」

言いつつ、さらに体重を預けてくるサヤ。
その身体の柔らかさに、温かさに、胸の内の凝りが溶けていくような感覚を覚えた。
堕落している、危険な兆候だと知りつつも、今このときだけは、と甘えてしまう自分がいた。
「……カレンとの手紙の遣り取りは、今も続いているのか」
「何よ、いきなり」
「どうなんだ?」
「もちろん、ちゃんと続いてるわよ」
「手紙には、だいたいどんなことを書く?」
「身の回りで起こったこととか、お姉様からの質問への返事とか……色々よ。
 サトシのことを書いたこともあるわ。……どんな風に書いたか知りたい?」

サヤは悪戯っぽい笑みを浮かべ、上目遣いに俺の反応を伺おうとする。

「それはまた今度でいい……。
 最近、カレンからの手紙に、変わったことは書いていなかったか」
「変わったことって?」

無垢な驚きの表情から、手紙の内容に主だった変化が無かったことを見抜く。

「いや……、何も無いなら、それでいいんだ」
「ふふっ、おかしなサトシ。
 お姉様のことが気になるの?」
「…………」
「ねえサトシ、本当にどうしたの?
 もしかしてお姉様になにか……」

黙って髪を撫でる。
サヤは猫のように喉を鳴らし、不安に揺れていた目を閉じた。

「休暇をとったんだ」
「本当?」
「ああ、本当だ。博士には無理を言って、とらせてもらった」

実際、博士の反応は意外なほどにあっさりしていた。
『任務の連続はお前と、お前のポケモンの身体にこたえるじゃろう』
二つ返事で二日の休暇を許可してくれたのだった。

「どうして休暇をとったの?」
「サヤのために」
「嬉しい……!」

サヤの眩しい笑顔から目をそらして、俺は言った。

「六の島に行こう」
「ろくのしま……?」
「あたたかくて、散歩道がたくさんある静養地だ。
 ポケモンを自由に放して、くつろぐことができる」
「わたし、どこでもいいわ。サトシが一緒なら」

ささやかな罪悪感が、胸の奥を刺した。