―――
――

「コーヒー、君も飲むやろ?」
「戴きます」

白衣の裾を翻し、蓬髪の研究者はコーヒーメーカーに取りかかった。
こんなに楽しそうに、そして美味しいコーヒーを煎れる人間を俺は一人しか知らない。
ブラインドを指でこじ開け、激しく仰け反ってから博士は言った。

「徹夜明けに朝日はキツいわ。ズバットになった気分や」

やがて完成したコーヒーがテーブルに運ばれてくる。

「任務の方は順調みたいやな。
 君の活躍はこっちにまで響いてきてるで。
 それはもう、とんでもない尾鰭ついてな」

マサキ博士はからからと笑う。

「あまり聞きたくないですね」
「知らぬが仏とはよく言ったもんやな。世の中には知らん方がええこともある。
 しっかし、これまで鬱積してた不良案件が、君の手で次々に片付けられてることも確かや。
 そのうち君とはこうして会えんくなるかもしれんなあ」
「そんなことはないですよ。
 博士がいないと何かと困りますからね」
「おいおいレッドくん、ワイをポケモンのメンテナンス技師扱いしとるんちゃうやろな?」
「…………」

顔を見合わせ、同時に破顔する。
マサキ博士にポケモンの調子を見て貰いに行くのは、単に彼が研究者として優秀だからではない。
俺の過去を知ってなお、優しく気さくに接してくれる人物だからだ。
こうして博士と向かいあい、コーヒーを啜っていると、任務のことを少し忘れることができた。

「研究は順調ですか?」

マサキ博士はきょとんとした顔になって、

「研究?何の研究のことや?」
「とぼけないでください。あのボールの研究です」

孤島の発掘作業中に発見された、ミュウツーの遺物。
人が未だ到達し得ない、オーバーテクノロジーの結晶。
博士はこめかみを描きながら言った。

「ああー……あれか。
 結局あれな、ワイの研究部署とは別のとこに持って行かれてもうたんや。
 最初からそういう風に決められてたんかもしれんけど……詳しいところは分からへんねん。
 でもな、ひとつだけ分かってることがあるで」
「……?」
「あれが実用化されるまでには、少なくとも十年はかかるっちゅうことや」

――十年。
俺はこの目で実用化されたボールを見ることができるのだろうか。

「人智が及ばん、っていうのはああいう代物に対して使う言葉なんやろうなあ。
 損壊部分の修復はわりと上手くいったみたいやねんけど、
 どうやってリバースエンジニアリング――中に詰まった技術を抽出――するかが問題でなあ」
「ミュウツーに直接聞ければ早いんでしょうがね」
「ほんまや。ちょっとレッドくん、ミュウツー探して連れてきてくれるか?」

なんとも無茶なことを言う。
マサキ博士はからからと笑い、ふいに真面目な顔に戻って言った。

「君に言っとかんなあかんことあったん思い出したわ」

コーヒーカップの中身を飲み干し、パソコンデスクに向かったかと思うと、プリントアウトされたA4紙を手に戻ってくる。

「レッドくんはこの男のこと、覚えてるか?」

写真とパーソナルデータ。
博士は常日頃から自分を組織の末端だと過小評価するが、
こうした情報への参照権限を持っていることから、実際にはかなりの高位にいることが伺える。
俺は写真を見た。
短い黒髪。撮影者を威嚇するような攻撃的な目。引き締まった長駆。腰に並んだ6つのハイパーボール。

「………孤島探索で同行した、護衛隊の一人ですか」
「ご名答」
「この男がなにか?」
「捜索命令が出てる。なんでも二週間ほど前から消息が掴めんらしくてなあ」

任務で不始末を犯した。機密を漏洩した。
反システム組織に寝返った。或いはもともと諜報員だった。
考えられる動機には枚挙に暇が無いが……。

「俺には捜索命令は来ていません」
「そら、レッドくんには他にやるべき仕事があるからなあ。
 でもワイとしては、一応この男が失踪した事実を、レッドくんに知っておいて欲しかったんや」
「はあ」
「もしかしたらレッドくんは、この男が自分の意思で姿くらました思てるんちゃうん?」

図星だった。
博士は二杯目のコーヒーを注ぎながら言う。

「ワイはな、この男は誰かに消されたんちゃうかと思ってるねん」
「それはどうでしょうか」

確かに己の腕を過信し、自惚れている典型例ではあった。しかし、

「この男はかなりの実力者です。そう簡単に消されたりはしないと思いますが」
「孤島の護衛隊に選抜されたことからもそれは明らかや。
 けどいくら強いポケモントレーナーでも、不意打ちされたらただの一般人と同じやで」
「博士はこの男が消されたと決めつけてかかっているようですが、その根拠は何なんですか?」
「ここ最近、といっても二年くらい前からやけど、
 組織の荒事専門の人間が、ぽつぽつ行方不明になってるねん。
 構成員が行方不明になんのは今に始まったことやないねんけど、
 大抵は敵隊組織に寝返ってたり、どっかの僻地で息潜めてたりして、結局、居場所が特定されてんねん。
 でも、ここ最近失踪した人間は、杳として行方が知れぬままや。
 こういう場合、一番可能性高いんは、本人が既に殺されて処理されていることや」

死体を処理する方法は無数にある。
今すぐに死体を隠蔽したいなら、"穴を掘る"で土葬すればいい。
完全に死体を消滅させたければ、”火炎放射"で火葬すればいい。
手っ取り早く確実性が高いのは、ポケモンの住処の奥地に、死体を放置することだ。
その住処にいるのが肉食性のポケモンなら、より短い時間で死体は自然に還る。

「実際にシステムの人間を暗殺している人間がいるとしたら、そいつは相当の命知らずですね」

システムの戦闘員は道徳性に欠けていることが多く性格にもムラがあるが、反面、実力は等しく折り紙つきだ。
高い練度とポケモンや人間を傷つける思い切りの良さの前に、
純粋なポケモンバトルに慣れきっている一般トレーナーは為す術もないだろう。
となれば、必然的にその下手人は、こちらの世界のトレーナーということになる。

「まあ、あくまで憶測や。それに君についてはなーんも心配してへん。
 もし襲われたら、遠慮無く返り討ちにしたってな」

博士には俺の能力について打ち明けてある。

「生け捕りにすべきでは?」

生け捕りにすれば、拷問にかけて暗殺の依頼主を吐かせることができる。
仮に拷問に耐えきったとしても、エスパータイプの熟練者なら、記憶を読み取ることが可能だ。
それができるほどの熟練者が少なく、また負担が大きいために滅多に行われないそうだが、
システムの構成員が計画的に殺されている可能性があるのだ、上層部も貴重な人材を惜しまないだろう。

「そら、殺すよりはそっちの方がええに決まってるけど」

博士は真顔で言った。

「無理だけはせんといてな。手加減してやられてたら、本末転倒やで」


――――
―――
――

屋敷の正門前に見える白い何か。
それが巨大な日傘だと気付くのに、しばらく時間がかかった。
風で煽らないよう、少し離れたところにリザードンを降下させる。

「サトシ!」

サヤが駆け寄ってくる。日傘を携えた使用人も、カツラの子女を紫外線から守ろうと慌ててサヤの背中を追う。

「絶好の遠足日和ね?」
「ああ。今日は全国的に晴れるそうだ」

抜けるような蒼穹。海から吹き渡る爽籟。
こんなに気持ちのよい天候には、滅多に恵まれないだろう。

「それじゃあ、行こうか」
「お嬢様を宜しくお願いします」

使用人の一礼に会釈を返し、日傘の影に佇むサヤに、手を差し伸べる。
しかし何が気に障ったのだろう、サヤはいやいやするように、微かに首を横に振った。

「どうしたんだ」

土壇場になって行くのが嫌になったのか?
サヤは俯き、視線を自分の身体に這わせながら言った。

「……わたしを見て、何か一言、言うことがあるんじゃない?」
「よく似合ってる。ドレスに見慣れていた分、新鮮だ」
「それでいいのよ」

簡潔に表現すれば、今日のサヤは活動的な装いをしていた。
淡いピンクのミニコットンワンピースに、ライトブルーのコンパクトデニムジャケットを羽織り、
キャメルのウエスタンブーツを履いている。ついでに言うなら、普段は下ろしている髪もツーサイドアップに仕立てられていた。

「サトシも今日はスーツじゃないのね?」

俺をまじまじと見つめるサヤ。
ベージュのチノパンツに白のシャツ、黒のベストという、サヤに比べて色彩に欠ける格好だが……。

「わたしも、なんだか新鮮に感じるわ。
 地味だけど、そこはわたしと足して2で割れば丁度いいんじゃないかしら」

なんとかサヤの目に留まったようだ。
改めて手を差し伸べる。
日傘の外に歩みでたサヤに、俺は日差し以上の目映さを感じていた。
事の発端は十日前に遡る。
カツラの研究所に呼び出しを受けた俺は、
尋常ならざる雰囲気をカツラから感じ取り、身を引き締めた。

「レッドくん」
「はい」
「君にとても大切な話がある」

漆黒のサングラスを外し、現れたのは鋭い光を湛えた三白眼。
眉間に刻まれた幾筋もの皺は、口火を切ることへの躊躇いとそれ以上の覚悟を物語っている。
長い沈黙を引き詰み、やがてカツラは言った。

「サヤを本土に連れてってやって欲しいんだよね」
「………………は?」
「いや、だから、本土。
 場所はどこでもいいよ。タマムシあたり喜ぶんじゃないだろうか。
 ワシは流行に疎いが、あそこは今でも娯楽の最先端をいっとるじゃないのかね?」
「博士の意図が分かりかねます。
 サヤを外出させることは、色々と問題があるのでは……?」
「システムの許可はとってある。ま、許可を出すのは実質ワシなんだが」

がっはっは、と豪快に笑うカツラ博士。

「ですが……サヤ自身は、それを望んでいるのですか?」
「それは分からん!」

一番大切なファクターが不明だと、自信満々に言われても困る。
俺が溜息を吐くと、博士はシリアスな顔つきになって言った。

「いやあ、ワシも色々と考えておるんだ。
 あの子が屋敷に引きこもるようになった責任は、ワシにある。
 それで昔から、外部の人間と会わせようとしたり、何かと用事を作って外出させようとしたんだが、どれも失敗続きでなあ。
 しかぁーし、」

カツラ博士はびしっと人差し指を俺に突き付けて、

「君の誘いなら、サヤも快く屋敷を飛び出していくことじゃろう!
 朗報を待っておるよ、レッドくん」

疑いは確信に変わる。この人はやはり、変人だ。
クリムゾンバッジを賭けて初めて戦ったときに気付いておくべきだった。
「……………」

本土に入ったあたりで、背後のサヤに語りかける。

「大丈夫か?」
「え?」
「さっきから黙ったままじゃないか」
「ううん、何でもないのよ。ただ………」

サヤは風に靡く髪を押さえながら、呟く。

「……わたし、もっと早くにこの景色を見ておけばよかったなあと思って」

空から見渡す世界は、地上からのそれとまったく別の物だ。
背後には地平線の彼方で溶け合った海と空。
右手には森と平原が広がり、それを貫く河に寄り添うようにして、いくつかの集落が見て取れる。
左手には――俺がここ数年、避け続けた故郷がある。
オーキド博士もそれを配慮してか、マサラタウンに関係する任務を俺に与えなかった。

「ねえ、聞いてなかったけど……どうして本土に行こうなんて言い出したのよ?
 びっくりしたんだから」
「引きこもりは身体によくない」

後頭部に衝撃。

「真面目に答えて。それとも本当の本当に、それだけの理由でわたしを屋敷の外に連れ出したんじゃないでしょうね」

君の父親に頼まれて、と言えばさらにサヤの機嫌を損ねるだけだろう。俺は無難に言葉を選んだ。

「たまには息抜きも必要だと思ったんだ」
「それはサトシにとって、でしょう。わたしには息抜きなんて必要ないわ」

サヤは毎日が休日のようなものだ。かといって堕落しているわけでもなく、
幼少から専属の家庭教師がいたおかげで、高い教養を身に付け、音楽や手芸に秀でているところが小憎らしい。

「まあ、その通りだな。これは俺にとっての息抜きだ」
「じゃあ、どうしてその息抜きに、わたしを誘ったの?」

予定調和の会話に辟易する。なぜ俺がこんな歯の浮くような台詞を……。

「サヤと一緒のほうが楽しいからだ、と言えば満足か」
「大満足よ」

腰に回されていた腕の力が強くなる。
リザードンは馬鹿にするように鼻を鳴らした。
しかしサヤの一撫であっさり屈服したお前に、俺を非難する資格はない。
タマムシのポケモンセンター前に降り立つと、サヤは俺の予想通りの反応を見せてくれた。
俺も初めてタマムシを訪れたときはこんな風だっただろうか、と思いを馳せてみるが、ここまで興奮していた記憶はない。

「人がたくさん……建物もいっぱい……!」

子供のようにはしゃぐサヤは、際立つ容姿も相まって人目を引く。

「落ち着け、みんな見てるぞ」
「いいじゃない、そんなの」
「俺が恥ずかしい」
「わたしは恥ずかしくないもの」

溜息を吐く俺の手をとり、サヤは歩き出す。
立錐の余地もないほどにビルで埋め尽くされたヤマブキやコガネと違い、
タマムシは世に名高いタマムシ大学やタマムシデパートを擁する文化的発展にも注力している。
興味を引くものには困らないこの街で、俺はサヤの手綱を取ることができるのだろうか。

「ちょっと待ってくれ、サヤ、まずは行き先を決めよう」
「それもそうね」

広げた詳細マップの上に、サヤが指を滑らせる。

「ここがいいわ!」

果たして指が止まったのは、タマムシジムだった。

「ここを選んだ理由は?」
「サトシ、頭大丈夫?
 タマムシジムにいく理由なんて、バッジをもらいにいくために決まってるじゃない」

最早「頭大丈夫?」程度の暴言では怒りの片鱗さえ覚えなくなっている俺である。

「タマムシシティに来た記念よ。記念。腕試しも兼ねてね。
 それにレインボーバッジって綺麗じゃない?
 前にサトシのを見せてもらったときから、欲しかったのよ」

記念でジムに挑戦したり、カントー地方序列五位のバッジをアクセサリー感覚で扱ったりと、
日々ポケモンバトルの修練を積み重ねている苦労人が聞いたら発狂するようなことを口にするサヤ。

「サヤとヘルガーなら、タマムシジムを制覇するのは簡単だと思うが。
 どうせならもっと上のジムを……」
「あのねえ、わたしたちは今タマムシシティにいるのよ?」
「また今度ヤマブキやセキチクに行けばいいじゃないか」

口に出してから、失言だったと気付く。
サヤは双眸を輝かせて、

「じゃあ、今度のお出かけの時の行き先は決まったわね。約束よ」

小指を差し出してくる。それがいつかの焼き直しであることを、サヤは自覚しているだろうか。
いや、きっと無意識に違いない。視界にカスミの姿が揺曳する。
俺は瞬きしてそれを掻き消し、自分の意思で、小指をサヤのそれに絡めた。

「ふふっ。楽しみが増えるのはいいことよね?」
「ああ……そうだな。それで、結局俺たちはどこに、」
「タマムシジム」

頭痛がした。

「だ、だから、今のサヤにとってタマムシジムは不相応だと、」
「わたしが一度行くって言ったら絶対行くの。いいこと?
 今日のサトシは先生じゃなくて、保護者なのよ。ううん、やっぱり従者ね。
 サトシの役目は、わたしの行動に口を挟むことじゃなくて、わたしが迷子になったりしないように見てることなのよ」

サヤは俺の返事も待たずに雑踏に踏み出した。
雑踏の中で一瞬でも距離を離せば、後を追うのは一苦労だ。

「待つんだ、サヤ」
「なに?」
「ジムに行くなら市営バスが便利だぞ。徒歩がいいなら付き合うが」
「なんでそれをもっと早くに言わないのよ。馬鹿」

理不尽ここに極まる。
ハードな一日になりそうだ――そんな予感が脳裡を掠めた。
「一人で申請できたか?」
「余裕だったわ」

腕組みし、薄い胸を張るサヤ。誇ることではないと思う。

「受付の人が言うには、どうも順番を待たなくちゃいけないみたい」
「それで、サヤは素直に引き下がったのか?」
「だって、仕方ないじゃない」

意外だ。待つのが嫌いなサヤのことだ、散々順番を繰り上げるようにゴネたのだとばかり思っていたのだが……。

「ここ数日は受験者が少なくて、お昼過ぎには挑戦できるって言ってから、それで許してあげたわ」

やはりどこまでも上から目線なサヤだった。

「それにしても大きなお屋敷……正面から見ただけじゃ分からないけど、
 ひょっとしたら、わたしの家よりも大きいんじゃないかしら?」
「単純な居住空間ではサヤの屋敷の方が広いだろうな。
 だがタマムシジム、というよりここの敷地内には、この国で五指に入る大きさの庭園があるんだ。
 それを見たいがためにジムに挑戦する人間も多い」
「ふぅーん」

サヤは俺の説明などどこ吹く風といった様子で、猿橋の欄干にもたれ、水堀を眺めている。
隣に並ぶと、コイキングが水面に顔を出し、口をパクパクとさせているのが見えた。
観光客が投げる餌に期待しているのだろう。

「ねえサトシ、パン屑持ってない?」

そんなものを都合よく持っているわけがない。
首を横に振ると、サヤは小声で「役立たず」と言い放ち、バスの中で俺から奪い取った詳細マップを広げた。

「順番待ちの間、どこか別のところを見に行きましょ?」

次にサヤの指が止まったのは、
「タマムシ大学か」

観光名所ではないが、一見する価値のある場所ではある。
無難な選択だ、と俺が感心していると、サヤは不安げに首を傾げた。

「でも大学に、学生でもない一般人のわたしたちが入れるのかしら」

そんなことを心配していたのか。

「大学は基本的に誰でも出入り自由だから、問題ない。
 ここからなら徒歩で15分ほどだが、どうする?またバスを使うか?」

サヤはととと、と猿橋を渡り切り、くるりと反転して笑顔を見せた。

「バスは楽だけど、つまらないわ。歩きましょ」

――――
―――
――

「美味しい……」
「ちょっと季節外れだがな」

出店で買い与えたソフトアイスクリームを舐め舐め、ご満悦の様子のサヤ。
俺が見ていることに気付いたのだろうか、

「何? サトシも欲しいの?」
「危なっかしくて目が離せないだけだ」

食べることに夢中になって、誰かと衝突、溶けたアイスが四散する――といったような。

「馬鹿。わたしがそんなドジするわけないじゃない。
 で、どうなの、食べるの、食べないの?」
「甘いものはあまり好きじゃない」
「……あっそ」

唇を尖らせる。俺はどこかで墓穴を掘ったようだ。
外の陽気に中てられたのか、腰のボールのうちひとつが、ひっきりなしに震え始める。
俺は仕方なしに開閉スイッチを押した。途端に周囲が騒然とする。
無差別"テレポート"を繰り返しているのだ。余程外に出られたことが嬉しかったのだろう。
やがて遊び疲れたケーシィが、俺の目の前に転移する。

「大人しくしていろ」

鼻に指を突き付けると、ケーシィは拳銃を突き付けられた容疑者のように両手を挙げ、一瞬で消えた。
どこに行った? 

「サトシ、この子、どうしたらいいの?」

振り返る。困り顔のサヤが、右手にアイス、左手にケーシィを抱きかかえていた。

5分後。

「きみ、アイス食べる?」

甘い鳴き声を返し、ぺろぺろとアイスを舐めるケーシィ。
俄に信じがたい光景だった。
問題児を一瞬で懐かせてしまうサヤの能力には、毎度のことながら目を瞠るものがある。

「可愛い……ねえサトシ、この子、わたしにちょうだい?」

そしてさらに驚くべきは、サヤがケーシィに惚れ込んでしまったことだった。

「ダメだ」
「どうしてよ。きっとこの子もわたしと一緒の方が幸せよ。
 わたしなら毎日アイスを食べさせてあげられるし、毎日遊んであげられるもの」
「だから、ダメだ。ケーシィが気にいったなら、自分で捕まえればいいだろう」
「わたしはこのケーシィがいいの!」
「……じゃあ、こうしよう。俺と会っているときは、そのケーシィはサヤのものだ。それで我慢してくれ」

サヤはケーシィを両脇から抱え上げて、

「今日のきみのご主人様は、わたし。分かった?」

肩車させる。ケーシィは嬉しそうに鳴いて、サヤのサイドアップされた髪を操縦桿のように掴んだ。
問題児のケーシィと我儘令嬢のサヤ。案外、いいコンビなのかもしれない。

タマムシ大学正面広場の案内板に目を通していたサヤが言った。

「本当に大学の中に、研究所と、病院と、図書館が一緒に入ってるの?」
「食堂や寮もある」
「ねえ、コレ見て」

サヤは掲示板を指し示す。

「科展か。今のところ、科展を開いているのは、この研究室だけみたいだ。
 サヤは物質科学工学に興味があるのか?」
「全然」

サヤとケーシィは息ぴったりに首を振る。

「でも、展示物に興味はあるわ。
 一般公開されてるからには、専門外の人間にも、体感的に楽しめるものが展示されているんでしょう?」

葉桜を透かしてふりそそぐ淡緑の木漏れ日の下、
サヤと並んで歩きながら、俺は別の未来に思いを馳せた。
もしもポケモンマスターを目指していなければ。
もしもピカチュウと出会っていなければ。
――俺はシステムと縁故の無い、普遍的な人生を歩んでいたのだろうか。
ここの大学の学生として、月並みな青春を謳歌していたのだろうか。あくまで可能性のひとつとして。

「サトシ」
「なんだ?」
「むつかしい顔してる。どうかしたの?」
「なんでもないさ。そういえばサヤには、学校に通った経験はあるのか?」

サヤは顔を顰めた。
上機嫌のときと、不機嫌のとき、両方に違った美しさがあるのは、
それだけ顔の作りが精緻であることの証明かもしれない。

「小さい頃に、少しだけ。
 でも周りの子供も、担任も、勉強の内容も、退屈すぎてすぐに行かなくなったわ。
 お父様は怒ったけど、……お母様がね、家庭教師でいいって言ってくれたの」

サヤやカレンの性格から、それはそれは峻厳な母親を想定していたのだが、実際は真逆だったようだ。
妻としては厳しく、母親としては優しい人だったのだろう。
サヤは何か思うところがあるのか、すれ違う同年代の男女に目移りさせている。

「タマムシ大学に通っている人たちは、みんな将来の夢が決まっているのかしら」
「望み通りの職業につけるかどうかは別として、卒業後は、引く手数多だろうな」

タマムシ大卒業生はほとんどが各分野のトップ、即ち研究職に就く。
そしてその中でも選り抜きの人材がシステムの人事部の目に留まる。

「サヤは――」

将来どうしたいんだ、と尋ねかけて口を噤んだ。
続く言葉を察したのか、サヤは淋しげな微笑を零す。
そこに諦めの影があったことを、俺は見逃さなかった。
サヤの人生には、常に組織の影が付きまとう。

「わたしは、自分でもどうしたいのか分からない」

俺は柄にもなく明るい調子で言った。

「サヤはポケモントレーナーだ。
 バッジは、それだけでポケモンを使った仕事に従事する資格になる。
 パーフェクトホルダーになれば、毎日遊んで暮らせるほどの高給職に就ける」
「それじゃあ何も変わらないわ。わたしは今でも遊んで暮らしてるもの」
「それもそうか」

次に浮かべた微笑に、淋しげな色は見て取れなかった。
だが、もしサヤが俺に悟られまいと感情を押し殺しているのだとすれば――俺に真偽を確かめる術はない。
実験棟前に到着すると、科展はそれなりに盛況しているのか、頻繁に人が出入りしていた。
入り口の掲示には、「あなたのポケモンをフィジカルアップ!カイリキーと腕相撲」とある。
展示室に向かうと、案内係の学生が接客スマイルを浮かべて話しかけてきた。


「まずはこちらで、簡単な説明を受けてください」
「わたし、まどろっこしいのは嫌よ」
「5分程度で終わりますので……、どうかご了承ください」
「ほら、行くぞ」

サヤの背中を押す。
普段は研究室として使われているであろう展示室は、内装から備品に至るまですべてが真新しかった。
流石は天下のタマムシ大学というべきか。設備投資に金を惜しむという概念がないのだろう。
先ほどまで説明を受けていたらしい客が、興奮した様子で仕切りの向こう、二番目のブースに消えていく。
俺やサヤの他に4人の一般客が一番目のブースに収まったところでドアが閉めきられ、照明が暗転、プロジェクターが起動した。
それから五分後――二番目のブースにて。

「ねえ、サトシのポケモンをここに出すのは……」

哀願してくるサヤを、

「だめだ」

心を鬼にして突き放す。

「どうしても?どうしてもだめ?」
「…………」

十数枚に渡るスライドの解説を要約すると、こうだ。
近々施工されるポケモンの永続強化禁止法案に向けて、
全国の製薬会社では短時間の限定強化薬の開発に躍起になっている。
しかしタマムシ大学物質科学工学科では、予てから従来の時間限定強化薬の研究を行っており、
先日、効能はそのままに即効性を高める配合技術が国から正式に認可された。
この技術は製薬会社に有償で提供される予定である。
今回の科展では、某製薬会社の試作品「プラスパワー+」を無料で使用してもらい、
実際にカイリキーと腕相撲することで、その偉効を体感してもらうことが目的である。
ちなみに試作品の治験は完了済みであり、副作用の心配は無用とのこと。
そして今、サヤが俺に嘆願している理由は――。

「そりゃあわたしだって、自分のポケモンを使えるならそうするわ。
 でも、無理なの。サトシは犬型ポケモンのヘルガーに腕相撲ができると思う?」
「思わない。だが、俺がここで自分のポケモンを出せば、誰かが俺の正体に気づくかもしれない」
「自意識過剰よ」

小声で憤るサヤ。
俺は用心しすぎなのだろうか。よれよれのスニーカーにくたびれたジーンズを穿き、
皺のよったTシャツと上着を着て、ぼろぼろの帽子をかぶった少年。
大衆によって記号化された"サトシ"と、今の俺はの見た目は違う。
わずかな老いを加味すれば、別人といってもいい。
だがポケモンは変わらない。ポケモンに刻まれた傷は、癒えてなお、修羅場を潜った証として体に残り続ける。
「だめなものはだめだ」
「サトシの意地悪」

俺は早速ポケモンを出している他のトレーナーを見やりながら、

「見ているだけでも十分楽しめるじゃないか。
 ほら、あのブーバー、カイリキーと腕相撲を始めるみたいだぞ」
「他人のポケモンなんて、応援しがいがないじゃない」

ふくれっつらのサヤの目の前で、あっさりと敗北するブーバー。
カイリキーは厚ぼったい唇をゆがませて、敗者を嘲笑する。
すべて台本通りなのだろう。
白衣の学生が失意のブーバーへ歩み寄り、
トレーナーの許諾を得て、ブーバーの首に筒状の無針注射器を押し当てる。
その間にも、他のトレーナーのポケモンがカイリキーに挑戦し、あっさりと打ち負かされていく。

「流石に注射してすぐには効果は出ないみたいだな」
「…………」

サヤのふくれっつらは仏頂面に進化していた。
今連れているポケモンで、二足歩行型のポケモンはカメックスとリザ―ドンだ。
腰のボールに手を伸ばしかけ――思いとどまる。リスクが大きすぎる。
だが、サヤの機嫌を回復させるには、俺のポケモンを出すしかない。
主の葛藤を敏感に察知したのだろうか。
サヤの首に両手を回し、浅い眠りについていた幼いエスパーポケモンが目を覚ました。

「ごめんね、起こしちゃった?」

肩から下ろされ、胸に抱かれたケーシィは、小さなあくびをして笑う。
そして瞬く間に白衣の女学生の頭上に"テレポート"すると、お菓子を強請る子供のように、女学生のおさげを引っ張りはじめた。
涙目の女学生に俺は言った。

「その子にも薬をお願いします」
「え、いいのサトシ? あの子、まだ小さな子供なのよ。
 いくらプラスパワー+を使っても、カイリキーには勝てないわ」
「ケーシィを腕相撲に参加させる。これが最大の譲歩だ。それに……」
「それに?」
「俺のケーシィは負けない」
「何の根拠があって、そんなこと言ってるのよ」
「見てればわかるさ」

投薬前の腕相撲で、ケーシィは当然ながら敗北した。というより、最初から勝負になっていなかった。
小さなケーシィの手はカイリキーの巨大な掌に包みこまれてしまっていたのだ。
カイリキーはまるで芦を手折るがごとく、容易くケーシィの手の甲を地に伏せた。
「よろしいですね?」

最終確認を終えて、女学生が無針注射器をケーシィの首に押し当てる。
サヤはその様子を、心配げに見つめていた。
まるで予防注射を受ける幼い我が子を見守るように。

「どうだ、調子は?」

ケーシィは目を細め、腕を直角に折り曲げる。

「いくら薬に頼っても、力こぶは作れないぞ。トレーニングをサボってばかりいるからだ」

ケーシィは頭をかく。

「ねえサトシ、やっぱりケーシィにやめさせて。もともとエスパータイプは、格闘に向いてないのよ。
 こんな小さな子の筋肉に、下手に負担をかけたら、怪我しちゃうかもしれないわよ」
「いいじゃないか。こいつはやる気十分みたいだし、トレーナーの俺も認めてる」
「でも……」

不安げに唇をかむサヤ。

「どうされますか?」

との女学生の問いに、ケーシィは"テレポート"で答えた。
もはや残っている挑戦ポケモンは、ケーシィのみだった。
他の投薬されたポケモンは、その大半がカイリキーにリベンジを果たしたようだ。
その薬効は信頼に値する。が、カイリキーとケーシィの体格差は絶望的だ。
おそらくサヤや他のトレーナー、そして学生の全員が、ケーシィの敗北を想像していただろう。
しかし結果は観衆の想像を裏切った。
「レディー……ファイッ!」のかけ声の後、寸隙を置かずにカイリキーの豪腕が土台に伏したのだ。

「すっげぇもん見ちまったぜ……」と他のトレーナー。
「ほんとにサトシの言うとおりになっちゃった……」とサヤ。
「ここまで劇的な効果を発揮するなんて……」と研究室の学生。
「…………」言葉の出ないカイリキー。

そして自分の数倍の大きさの相手を一瞬で打ち負かしたケーシィは、
無垢な笑顔を浮かべて、サヤの胸に"テレポート"した。

響めき醒めやらぬ展示室を後にして、しばらくしてからサヤが言った。

「ねえ、どうしてサトシにはケーシィが勝てるってわかったのよ?
 もしかしてプラスパワー+を打たれる前の腕相撲では、わざと手を抜かせてたの?」
「違う。あれはこいつの全力だった」
「じゃあ本当の本当に、プラスパワー+のおかげでカイリキーに勝てるようになっちゃったわけ、この子は?」

サヤは頭の上のケーシィを見て、目をぱちぱちと瞬かせる。俺は笑いを堪えながら、

「それも違う」
「あれも違う、これも違うって……もう、教え惜しみしないで、タネを教えなさい!」
「こいつはズルをしたんだ」
「嘘。わたしにはケーシィがズルをしてるようには見えなかったし、
 あれだけ周りを取り囲まれてたのよ、そんなことしたらすぐにバレるわ」
「"念力"は目に見えない」
「あ」

はっと口を押さえるサヤ。しかしすぐに首をかしげ、

「やっぱり納得できない。
 いくらケーシィが念力でカイリキーの腕を押していたのだとしても、力比べで勝てるとは思えないもの」
「真正面から念力をぶつければ、確かにねじ伏せられていただろうな。
 でも、サヤが思っているより、このケーシィは器用なんだ。
 サヤは肘を浮かせた状態で、全力で腕相撲ができるか?」
「そんなの、無理に決まってるじゃない」
「ああ、誰でもそうだ。
 ケーシィはカイリキーの肘を、"念力"でほんのわずか浮かせて、同時に自分の腕をアシストしていたんだ。
 薬の効果も少しはあっただろうが、勝因の八割方は、ケーシィの悪知恵だ」

ケーシィの鼻をつつきながら、サヤは言った。

「ズルしたことをとやかく言うつもりはないけど、
 あの研究室の学生さん、ものすごく驚いてたわよ。
 実験データの取り直しが必要になるかもしれない、とか」

ケーシィはばつが悪そうに、しかし目に反省の色を浮かべることなく頭をかいた。

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最終更新:2010年05月26日 11:51