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「考え事かい?」

金髪――孤島の再調査の護衛をしていた時に知り合った同業者――が言った。

「別に」
「そうか。ならいいんだ。
 いや、君はいつも物憂げな顔をしているが、どうも前よりも酷くなっているように見えてね」

気遣うような笑顔を向けてくる。俺は元から逸らし気味だった目をさらに逸らした。
初めてこの男と会って以来、ツーマンセルを組むことが多くなった。
俺一人で十二分にこなせる任務でも、何故かこの男が着いて来た。
実際に足手まといになることはなかったし、精密さや隠密さが重視される任務では、この男に任せる部分もあった。
だが――。

「ロケット団の再興を信じてやまない狂信者どもには困ったものだ。
 僕たちが定期的に気勢を削いでやらなくちゃ、あっという間に第二、第三のロケット団ができあがりそうだよ。
 小物なら潰すのも楽だが、百人近い大所帯が相手だと苦労する。今回みたいにね」

半時間前の光景がフラッシュバックする。
鮮血に塗れた鎌を振りかざすストライク。骸と化した数多のポケモン。
戦意を喪失した抵抗勢力。そのトップが、慈悲を請う言葉を口にし――次の瞬間には胸を刺し貫かれていた。

「殺す必要があったのか」
「見せしめだよ。彼らは悲劇的に頭が悪い。
 ルールを犯した者の末路を眼窩に刻みつけて、初めて自分の愚かしさを思い知るのさ」

今回の任務は旧ロケット団と類似した新興勢力の制圧で、
秘密裏に行われる集会に潜入、可能であればその場にいる全員を、最低でも最高指導者を拘束することだった。
確かに――金髪の言葉は理に適っている。
あの場で人間の無残な死体をこしらえることで、逃走のタイミングを計っていた者や、戦意を失っていなかった者の動きを完全に止めることができた。
だが、他にも方法はあったはずだ。その方法を選択することで、任務達成にリスクが生じる可能性があったとしても。

「気に病むことなんてないよ、レッド君。どうせ奴は人間のクズだ」
「………………」

人間のクズはお前だ、と思った。
この男は残忍すぎる。任務を建前に、ポケモンや人を殺めることを楽しんでいる。
ここ何回かの任務を一緒にこなすうちに、俺はこの男の本質を理解していた。

同業者とはいえ、警戒を解くのは危険だ。
次の任務からは、この男とのツーマンセルを外してもらえるよう、博士に進言してみよう。
受け入れられるかどうかはあの人次第だが――と、そんなことを考えていたとき、タイミングよく情報端末が振るえ始めた。
博士からだった。

「ん? でないのかい?」

金髪がこの状況に最も相応しい、当たり前の台詞を投げかけてくる。
だが、金髪の涼やかな流し目には、好奇の色が含み隠れていた。
俺は若干の距離をとって端末を耳に当てた。

「任務は上々だったようじゃのう」
「はい。ただ……」
「ただ、なんじゃ?」
「方法次第では、もっと綺麗に始末をつけられたのではないかと」
「レッドよ。何度も言っているじゃろうが、後処理のことは考えずともよい。
 お前に自由裁量の権を与えているのは、お前の類い希な能力を殺さぬためじゃ」
「……………」

博士の言葉で、自尊心が満たされることはなかった。
俺は黙っていた。

「今のところ、お前に適当な任務はない。
 何ならカントー地方に戻らず、しばらくジョウトで静養するといいじゃろう」

通信が途絶える。
すかさず金髪が言った。

「君の上司からかい?」

金髪の言っている上司とは、クライアントからの依頼を管理する仲介人のことを指す。
組織は一枚岩のようで、その内部は複雑に入り組んでおり、
組織に帰属するとある財界人が、私用で組織の実働部隊の一人に任務を与えることも珍しくない。
難度の高い任務をこなせば、より難度と報酬の高い依頼を扱う仲介人がそいつの上司になるという仕組みだ。
もちろん組織全体の任務では、そういった枠組みは取り外され、同じ組織の人間として共に作戦行動に当たる。
これまでこの金髪と俺が、ツーマンセルを組んできたように。

金髪の質問に、俺は「そうだ」と頷いておいた。

博士が俺の上司であることに間違いはない。
たとえ博士がこの組織を束ねる最高権力者であったとしてもだ。
金髪と別れた後、俺は結局博士の言葉に甘え、休養を取ることにした。
喧噪の街、コガネシティを離れ、すぐ傍にあるエンジュシティに宿を取った。
この街は初めて訪れた時から気にいっていた。
歴史を帯びた建物はどれも赤く色褪せていて、
東西南北に碁盤の目状に伸びた道には、一般人の中に舞妓さんが自然に混じって歩いている。
街全体に静謐な空気が流れていて、それでいてシオンタウンのような息苦しさ、重苦しさがない。
朝日と夕日を浴びるとき、エンジュシティは本当に美しい朱色の都になる。

そしてこの街には古くから、ある伝承があった。

街の北部に位置する、焼けた塔と錫の塔。
古来より、前者にはルギアという伝説のポケモンが、後者にはホウオウという伝説のポケモンが飛来していた。
だが前者の塔が半焼し、ルギアはエンジュシティを離れた。
塔が焼けたとき、そこには運悪く三匹のポケモンがいた。
息絶えたポケモンを哀れんだホウオウは、その三匹のポケモンを三聖獣として蘇らせた――。

ジョウト地方の人間なら、誰でもこの話を知っている。
だが、実際に伝説のポケモンを目にしたことある人間はほとんどいない。
そして俺は幸運にも、その伝説ポケモンの大半と邂逅できた人間だった。
特にホウオウは――それが俺の見間違えでなければだが――俺がマサラタウンを旅立って間もない時に、空を舞っているところを目にすることができた。

もう一度会えないだろうか。

エンジュシティを訪れる度、俺はそんな淡い期待を胸に、錫の塔を訪れる。
守衛の僧侶に会釈し、錫の塔に通じる道を歩いていく。
両脇に連なる広葉樹の、紅葉の旬は過ぎていた。木枯らしが時折吹き抜け、枝に残った葉をむしり、落ち葉を攫っていく。
だが、錫の塔まで道半ばといったところで、平穏な空気は壊されてしまった。

「ラプラス、守れ」

背後から迫ってきた疾風のような一撃を、ラプラスの甲羅が受け止める。
振り向かずとも、状況は手に取るように分かる。
相手のポケモンはギャロップで、疾走の早さと躊躇いのなさ、一撃の威力から、良く訓練されていることが伺える。
凌いでいなければ、確実に俺は死んでいた。目的は考えるまでもなく俺の殺害だ。
動機。そんなものは母数が大きすぎて絞れない。ギャロップの使い手は姿を現さない。
となれば、第二、第三の攻撃が用意されていると考えるのが妥当だ。

仕手にどこまでも有利なのが奇襲。
序盤が防戦一方なのは致し方ない。

「カメックス」

防御力に秀でた相棒を召喚する。
同時に、あたりに散っていた落ち葉が、木枯らしとは違う揚力に持ち上げられていく。
ぼうっ、とその一枚が燃え上がったのを皮切りに、局地的な"炎の渦"が発生する。
ラプラスと拮抗していたギャロップが、炎の壁の向こう側に退避する。
攻撃と退避の連動――相手は一筋縄ではいかないトレーナーのようだ。

「"ハイドロポンプ"だ。吹き飛ばせ」

"炎の渦"の半径が零になるよりも先に、炎自体を消滅させる。
水蒸気の靄が視界を覆い、次の瞬間にはブーバーが靄を突き抜けてきた。
両の拳には炎。だが恐るるに足らない攻撃だ。
カメックスの分厚い手がそれを阻む。ブーバーがさっきの炎の渦を仕掛けてきたのなら、これで奇襲は失敗だと言えるだろう。
だが俺の直感は第三のポケモンの存在を知らせていた。

「ケーシィ、力を貸してくれ」

相手のトレーナーを確実に捕らえるために、予防線を張っておく。
俺の目の高さに浮かんだケーシィは、元々細い眼をさらに細めて、首を傾げた。

「ラプラス、上にリフレクターを展開しろ」

そう指示して間もなく、俺の直感が正しかったことが証明された。
恐らくは両脇の木に潜んでいたのだろう。
上空から迫ってきたリザードの爪は、リフレクターを僅かに傷つけただけで弾かれた。
ポケモンの姿は出揃った。
姿を現さないのは、相手のトレーナーだけだ。

「退け!」

女? 中性的な声だったが、辛うじて性別だけは判断できた。そして声の出所から、おおよその場所も特定できた。
カメックスと組み合っていたブーバーが離脱し、リザードも順次離脱する。ギャロップは既に消えている。
相手トレーナーは、安全圏から一方的に攻撃し、少しでも不利な形勢になれば撤退できる境界線を見極めている。
でも――逃がさない。

「行け、ケーシィ。お前の出番だ」

捕物は瞬く間に終わった。
ケーシィの姿が消え、錫の塔に通じる道の塀の向こう側で女の声が上がった。
相手が人間で、なおかつ一人で、おおよその位置が特定できている場合、俺のケーシィから逃げ果せる可能性はゼロに等しい。
"テレポート"の正確性、連続使用間隔の短さが、俺のケーシィを特別たらしめている。

ケーシィの鳴き声を頼りに歩いていくと、やがて俺を狙ったトレーナーの姿が見えた。
俯せに倒れたそいつの背中にケーシィが座っていて、俺を認めるとケーシィはコロコロと笑った。
能力は秀でていても、このケーシィはまだ幼子だ。この捕物もゲームの一環として考えているのかもしれない。

「よくやったな。戻れ、ケーシィ」

ケーシィの頭を撫でてから、ボールに格納する。
さて、いよいよお待ちかねの御対面だ。

「立て、妙な真似はするな。後悔することになる」
「…………」

そいつはのろのろと立ち上がり、俺を真正面から見据えた。
そこで俺は、有り得ない、想像するだけでも恐ろしい予感を覚えた。
そいつは若い女で、客観的に見ても美しい容貌をしていて――ああ、こんな髪の色はありふれていると信じたい――燃えるような赤髪を湛えていた。
俺に向けられた視線には、強烈な憎悪が込められていた。

「お前は誰だ?」
「………………」
「何故俺を狙った?」
「……………………」
「誰かに依頼されたのか?」
「…………………………」

黙秘か。
俺が女に後ろを向かせ、手を伸ばすと、そこで初めて微動だにしなかった女の肩が震えた。

「じっとしていろ、乱暴したりはしない」

体の線が浮き出た黒のボディースーツをまさぐるのは抵抗があったが、
ここで女の羞恥心を尊重するほど俺はフェミニストではない。
結局、女の素性を探れるような代物は見つからなかった。空のボールが三つ、見つかっただけだ。
俺は事務的に言った。

「お前のしたことは立派な殺人未遂だ。ポケモンを利用したぶん、更に罪は重くなるだろう。
 俺はこのままお前を官憲に突き出すこともできる。
 だが、俺を狙った理由を話して、以後俺に二度と関わらないと言うのなら、見逃してやってもいい」

暗殺をしかけてきた相手にとっては、破格の提案のはずだ。
俺はこいつに牢獄の中で黙秘権を行使され続けるよりも、
今ここで暗殺に到る経緯を話してもらったほうが、俺にとって有益だと考えていた。
女は俺を睨め付けたまま、重々しく口を開いた。

「………サヤに、近づくな」

ああ。俺は頭を抱えたくなった。
ここまで予想通りにことが進むと溜息をつきたくもなる。

「お前の名はカレン。そうだな」
「なぜその名を知っている?」
「数年前に家を出た、実の姉が一人いるとサヤが話していた。お前のことなんじゃないのか」
「…………」

外見的特徴は、サヤとこの女に同じ血が流れていることを如実に表わしている。

「それで、真偽のほどはどうなんだ」

カレンは観念したように目を逸らし、乱れていた髪を後ろに流した。

「そのとおりだ。私がカレン。サヤは私の妹だ」

繊細さから距離をおいた言葉遣いや仕草から、男勝りでプライドの高い性格が伺える。
だがサヤの名前を口にする度、そのきつい眼差しが僅かに緩んだ。

「お前が誰かはっきりしたところで、話を元に戻そう。
 なぜ俺を殺そうとしたんだ?
 サヤに近づいて欲しくないなら、もっと穏便にその意図を伝えられたはずだろう」
「獣は人の言葉を解さん」

俺が獣? 辛辣な物言いは姉妹共通のようだ。
今は無きカツラの妻――カレンとサヤの母親――とはいったいどんな人物だったのだろう。

「話をするつもりが初めからなかったことは分かった。
 でも根本的なことが分からないままだ。
 ……なぜお前は、俺がサヤに近づくことが我慢ならないんだ?」

得体の知れない男が妹に近づいたからといって、そいつを殺そうとするのは過保護を通り越して異常だ。
カレンは吐き捨てるように言った。

「お前が、よりによってあの組織の人間だからだ。
 私があの忌まわしい家を去った理由は、サヤから聞かなかったようだな。
 私の父親、カツラは最低の研究者だ。あいつはポケモンの命を弄ぶのに飽きたらず、自分の娘、サヤまで組織に売ろうとしていた。
 サヤの能力については、お前も知っているだろう。
 その事実を知ったとき、私はあいつを殺してやろうかと思った。
 だが出来なかった。どんなクズでも、あいつが私を育ててくれたのは事実だからな。
 私は家を出て、少し離れたところからサヤを見守ることにした。
 あれは繊細で、優しい子だ。自分の能力を利用しようとしていると知りながら、父親の傍にいることを選んだ。
 子供がいなければ一人になってしまうあいつに同情したんだろう」

俺は相槌も打たずに、黙ってカレンの話を聞いていた。
「だが、サヤが父親のしていることを認めているからと言って、私の考えは変わらない。
 サヤには、お前や私の父親が属している組織と関わらせない。そんなことは私が許さない。
 私はこの目で、お前たちがしていることを見てきた。
 建前は立派だが、していることは野蛮人、獣のそれと同じだ。
 ここ数日、お前の後をつけたが、その間にお前とお前と一緒にいた仲間は、何匹のポケモンを殺した?
 どうせ殺した数も覚えていないんだろう。
 ポケモンと人間の共生社会の安寧と秩序を守る――そんなふざけた思想のために、今までどれだけの犠牲が払われてきたんだ。
 百歩譲って、組織のことを知って知らぬふりをするとしよう。だが、それでもサヤに近づくことは、絶対に許さない」

サヤは、お前なんかに汚されていい存在ではない。
そう言ったカレンの表情に、冷酷な暗殺者の面影は無かった。
俺は言葉を選んで言った。

「お前がサヤのことを大切に思っていることは分かった」
「そんなことは、当たり前だ」
「確かに俺は汚れた人間だ。お前の言う通り、数え切れないほどのポケモンを殺してきた。
 だがそれは必要なことであって、好き好んでやっているわけじゃない」
「犯罪者の言い訳にしか聞こえないな」
「言い訳をするつもりはない。俺は自分のしてきたことに責任を持っている。
 俺のことを犯罪者と呼びたいなら、呼ぶといい。ただ、謂われのない責任まで負うつもりはない。
 ――カレン、例え話をしよう。
 お前はポケモンを乱獲し、違法に売買し、娯楽目的に殺害する組織が存在すると知りながら、それを放置できるか?」
「…………」
「できるわけがない。誰だってそう思う。
 無力な人間は、そこで国家権力、つまり警察に頼る。
 だが知恵のある犯罪者は、法律を盾に警察の介入を許さない。
 摘発から逮捕に到るまで、長い時間を必要とする。時間を浪費した挙げ句、逃げられることもある。
 犯罪の――とりわけポケモン犯罪の温床は時代とともに広がりつつある。
 道徳観念は立派なくせに無力な警察ではとても対処しきれない。
 俺はそういった事案を速やかに解決するために、組織に所属している」

たとえそれが、強硬的かつ暴力的な方法でも。

「近い未来の甚大な被害か、目先の最小限の被害か。俺は後者を選んだ。
 お前の父親、カツラを弁護するつもりはないが、あの人の研究だってそれと同じだろう。
 遺伝子工学の発達は先端医療を著しく発達させたと聞いている。とりわけカツラ博士はその分野の権威だ。
 研究過程で犠牲になったポケモンは数知れない。
 だが、その研究が難病の治療や先天的な遺伝子欠陥の予防に役立つなら、それらの死は報われるはずだ」
「説教をして、うまく言いくるめたつもりか。
 それと同じことを、私の父親も言っていた。
 お前たちの言い分は、身勝手甚だしい。聞いていて虫酸が走る。
 未来の多くの命のために、今生きる命を犠牲にする?
 そんな理論が通用するのは、お前たちの中だけだ」
「なら、お前は代替案を用意できるのか? 人もポケモンも痛みを伴わずに成長できる方法があるのか?
 お前は父親と、組織を忌み嫌って家を出たといったが、それで何が変わったんだ。
 お前のしているそれこそ、ただの現実逃避じゃないか」
「貴様!」

カレンが俺の胸ぐらを掴みあげる。
初めて会ったばかりだというのに、この女とは昔から啀み合っていたような、不思議な感覚があった。

カレンはしばらく俺を睨み付けていたが、ある時、不意に手を離して言った。

「お前に……私の何が分かる……」
「お前のことなんか、何も分からない。俺がさっき言ったことは一般論だ。
 不平を垂れているだけじゃ何も変わらない。
 カレン、俺はお前の言ったことを一から十まで訂正する気はない。
 組織は肥大しすぎた。本来の機能に余分なものがつきすぎてしまった。
 私利私欲のために組織のトレーナーを私兵化するスポンサーが現れたり、
 従来型の純粋な保守派と、機能拡張を目指す改革派に分裂したりと、様々な問題を抱えている。
 だが、それを補って余るほど、組織が果たす社会的貢献は大きい。
 ポケモンと人間が深く交わりすぎたこの世の中にとって、組織はなくてはならない存在だ」
「………っ」
「俺は、そうした組織の肥大化が招いた弊害を無くそうと思っている。
 そしていつか、ポケモンや人が適度な距離をたもち、安全な生活ができる世の中を作りたいと思っている」

それは俺の夢であり、同時にオーキド博士の大望でもあった。

「夢語りだと笑ってもいい。口から出任せだと疑ってもいい。でも、これが俺の本心だ。
 あとはカレン、お前が判断することだ」
「判断するも何も、私は最初からお前を認める気など――」
「お前が頑なに組織と、組織に属する人間を一つの概念でくくるというなら、それでいい。
 行け。お前が俺を狙ったことは、誰にも話さない。だからお前も忘れるんだ」

カレンに背を向ける。
柄にもなく、感情的に喋ってしまったことを後悔した。
カレンの言葉に刺激されたのは、悪を裁く側の自分が、悪と同列に見なされたからじゃない。
俺はまだ組織の任務を遂行することに、疑問を感じているのだろうか?

「ま、待て!」

ああ、大事なことを言い忘れていた。

「サヤには近づかない。これで満足だろう」

今度こそ宿に戻ろうとしたとき、カレンは威勢を失った声で言った。

「……サヤは最近の手紙の中で、お前がもうずっと会いにこないと書いていた。
 私はお前が組織の人間だということを、その手紙で初めて知った。
 お前はなぜ、急にサヤから離れたんだ?」
「煩わしくなったからだ。特別な理由はない」
「なら、もう二度とサヤの前には姿を見せないと誓えるか?」
「…………」

誓える。その一言が、口に出来なかった。
「私は、お前が分からない。
 サヤは私や、父親や、一部の使用人以外には、誰にも心を開かなかった。
 長く屋敷という小さな世界に引きこもり続けたせいで、広い世界を知るのが怖くなっていたんだろう」

排他的な姿勢は対象への恐怖の裏返し、か。

「昔のサヤは自閉的な傾向があった。対外的な接触を避けていた。
 あの父親は何かと苦心して、外部の人間と接触する機会を設けていたようだが、サヤは頑なにそれをはね除け続けた。
 だが、唯一心を開いたのがお前だ。
 サヤはお前を通して、少しずつ変わっていった。そしてその変化を、サヤは喜んでいるようだった」
「……………」
「サヤの変化を、私もきっと喜ぶべきなんだろう。
 お前がサヤにしたことは、サヤに近すぎる私にはどうしてもできないことだった。
 私は今でも、組織の人間であるお前を認めることができない。
 だが同時に、サヤからお前を取り上げることが、あれを深く傷つける結果になることを怖れている。
 お前も自覚しているだろうが、あれはお前を慕っている。
 ……いずれ、お前はサヤから連絡を受けることになるだろう。
 そのとき、お前がまだ生半可な気持ちでいるのなら、サヤとの関わりを今後一切絶て。
 しかし、もし再び関わると決めたなら――もう二度とあれの前から逃げるな。サヤを傷つけるな」

カレンの命令口調には、どこか懇願にも似た響きがあった。

「分かった」

と俺は言い、宿への道を歩き出した。
しばらくするとカレンの気配が消え、静寂が戻ってきた。
サヤにもう一度関わること。それは、俺がサヤに対して心を開くこと。
上辺だけの関係でない、密接な関係を持つこと。自分にだけ都合がいい欺瞞は許されない。
その時、俺は完全に警戒を解いていた。
カレンの襲撃をやり過ごし安心していた。
サヤのことを考えるあまり注意散漫になっていた。
もしもその時、俺に周囲の気配を探る余裕があったなら――。
見えざる第三者の存在を、簡単に感知できていたはずだ。


屋敷を訪れると、使用人はいったん奥に引き下がり、困り顔で戻ってきた。

「その、大変申し分けないのですが……サヤ様は現在外出中で……」

使用人の瞳は不自然に揺れていた。まるで微風にさらされた蝋燭の火のように。
基本的に引きこもりのサヤが、俺の来訪に会わせて都合良く外出しているとは考えにくい。
まだ「病に伏せっている」と言った信憑性がある。
無言の圧力をかけると、少し時間はかかったものの、使用人は折れてくれた。

「実は……サヤ様は、その、面会を拒んでおいでで……レッド様にはそう伝えるようにと……」

そんなことだろうと思ったよ。

「正直に話してくれてありがとう」

俺は彼女の脇を通り抜け、サヤの私室に向かった。
ドアをノックする。乾いた音が二度響いた。

「レッドはもう帰った?」

小さく尖った声が返ってくる。
相手がさっきの使用人だと思いこんでいるみたいだ。
懐かしさと、安らぎが心に去来する。
なぜだろう、俺はベッドの上で膝を抱えているサヤの姿を簡単に想像することができた。
「………」
「ねえ、返事しなさいよ。わたしはレッドがちゃんと帰ったかどうか聞いてるのよ」

ドアノブに手をかける。
――がちゃがちゃ。
鍵がかかっていた。思春期の子供か、と思う。

「俺だ」
「……………っ!」

扉の奥で、何かが跳ねる音がした。

「ドアを開けてくれないか? 鍵が閉まってる」
「………やだ」
「どうして?」
「い、いやなものは、いやなの!」
「使用人に嘘をつかせたのは俺に会いたくなかったからか?」
「それ以外にどんな理由があるっていうのよ……」

俺は膠着状態を打破すべく言った。

「分かった」
「え、帰っちゃうの!?」
「帰らないさ。強硬手段に出るだけだ」
「ちょ、ちょっと待って!
 このドアには超一流の彫刻師が五年かけて仕上げた逸品で……。
 ああもう、とにかく、もし壊したらサトシが一生かかっても弁償できないくらい高価なドアなのよ!?」

どう見ても普遍的なチーク製のドアだ。
そしてそれ以前に、サヤは「強行突破」の意味を履き違えていた。
俺はケーシィを召喚して胸に抱き、その愛らしい姿の裏に隠れた悪戯心を刺激しないよう、一言一句丁寧にお願いした。

「俺を、お前と一緒に、一メートル前方に、"テレポート"してくれ」

ケーシィは目を細めて笑った。
まるで主の無能さを嘲笑うかのように。
一瞬にして景色が様変わりし、目と鼻の先十センチにも満たない距離にサヤがいて、
ケーシィは俺とサヤの胸の間に押しつぶされて、苦しそうに、しかしおかしそうに身をよじらせていた。

「な、なな………」

俺とケーシィの出現に、声にならない悲鳴を上げ、目を白黒させて後ずさっていくサヤ。
ケーシィは圧力から解放され、ぽてんと床に落下した。
やがて言葉を取り戻したサヤはヒステリックに言った。

「こんなの、反則よ!」

「使用人に嘘を吐かせた時点で、フェアじゃない」
「うぐ………」

ケーシィをボールに戻し、手近にあった椅子に腰掛ける。

「ちょっと、なに勝手に座ってるの! 出て行きなさいよ!」

と間髪入れずサヤは叫んだ。

「俺とサヤが初めて会ったときも、そう言われた。懐かしいと思わないか」
「全然懐かしくなんかないわ!」
「でも、あの時と違うことがひとつある」
「何が違うっていうの?」
「今のサヤは天の邪鬼だってことさ」

サヤは顔を赤くして怒鳴った。

「わたしは本気よ! 本気でサトシと会いたくなんかなかったもん!」

俺は丸テーブルの上にあった便箋をつまみあげながら、

「じゃあこれはなんだ。宛先には俺の偽名が書かれているが……」

とひらひら振ってみせた。

「そ、そそ、それは、あの、えーとっ、うんと、えっと、そう!
 サトシに『もう後任が決まったから解雇よ』って書いた手紙よ。
 明日にでも出そうと思っていたの。本当に本当よ」
「じゃあ今ここで開けて呼んでも問題ないな」
「ないわ………って、大ありよ! ダメ、ダメダメダメダメ絶対ダメ!!」

ひったくろうと伸びてくる手を躱す。
短時間の運動はお嬢様の体にいたく負担をかけたようで、頬は上気し、よく見れば目の端にはうっすらと涙を浮かべていた。
少々虐めすぎたかもしれない。
俺は言った。

「この手紙は返す。ただしその代わりに、十分、サヤと話をする時間が欲しい」
「………わかった」

俺は胸ポケットからあの写真を取りだし、テーブルの上を滑らせた。
明後日の方向を向いていたサヤの目が、吸い込まれる。

「ここに映っているのは、俺がポケモンリーグを目指して旅をしていた頃の仲間だ。
 タケシにカスミ、当時は二人ともジムリーダーだったが、俺に着いて来てくれた。
 タケシはアウトドアの達人で、料理がプロ並に上手いんだ。
 ポケモンとの接し方や、ポケモンバトルの初歩を手解きしてくれたのもタケシだ。
 タケシがいなかったら、俺は旅を続けられていなかっただろうな」
「…………」
「カスミは……」

俺は一時、カスミを説明する言葉を探した。
彼女は俺にとってどのような存在だったのか。
考えれば考えるほど、切なさと可笑しさが混じり合った感情が込み上げてくるばかりで――。

「サトシ?」
「カスミは、俺の支えだった」

最初の一言を吐き出すと、あとは堰を切ったように言葉が溢れ出してきた。

「ポケモンバトルで誰かに負けたときは容赦なくダメだししてきて、
 勝ったら勝ったで調子に乗るなとか言う奴だった。自分にも他人にも厳しくて……要は負けず嫌いだったんだ。
 俺とカスミは旅のあいだ、ほとんど喧嘩ばかりしていたと思う。
 本当に些細なことが理由で、何日も口を利かなかったこともあった。
 でも、あいつは俺が本当に落ち込んでいるとき、慰めてくれた。まるで本当の姉みたいに。
 あいつは、カスミは俺にとって、気の置けない友達で、家族で――」
「このピカチュウは?」

俺を遮り、写真を指さすサヤ。

「サトシと一緒にポケモンリーグを制覇した、あのピカチュウ?」
「ああ。このピカチュウは、俺が捕まえた最初で最後のピカチュウだ。
 駆けだしの頃は、ちっとも言うことを聞いてくれなかった。
 でも、あるときを切欠に友達になって、それからは俺のことを信頼してくれるようになった。
 自慢じゃないが、俺とピカチュウの息はいつもぴったりだった。
 俺はポケモンバトルを研究して、ピカチュウは技を磨いて……俺たちは一緒に強くなっていったんだ。
 ピカチュウがいなければ、きっと、ポケモンリーグの表彰台に立っていた俺はいなかった」
「そんなに大切なポケモンなら、どうして今は一緒にいないのよ?」
「それは……」

俺は薄く笑みを浮かべる。

「ピカチュウが俺の元を離れたがったからさ。
 喧嘩したわけじゃない。ただ単に野生に帰りたくなったんだろう。
 自分と同じ種族の雌と番になり、子供をつくり、家族を守る。
 そうしたい気持ちは分からなくもなかった。
 ピカチュウは俺と一緒にいる限り、本当の意味で自由にはなれなかったんだ」

サヤは訝しげにこちらを見つめる。
俺は言った。

「あるとき、集団生活を営むピカチュウたちと出会ったことがあった。
 俺のピカチュウは羨ましそうにそれを眺めていたよ。
 結局その時、ピカチュウは俺について行く選択をしたが……。
 その時に分かったんだ。ピカチュウの本当の居場所は、いや、ポケモンの本当の居場所は野生なんだ。
 だからポケモンリーグを制覇したとき、俺はピカチュウを、逃がした」
「ねえ、サトシ」
「うん?」
「あなた、とっても辛そうな顔してる」

俺は手で顔を触った。
微笑を浮かべていたつもりの表情は、硬く強張っていた。
サヤはピカチュウのことには触れずに、

「どうして今になって、あなたの旅の仲間のことを教えてくれるの?」
「システムに入ってからずっと、昔のことを思い出さないようにしてきた。
 誰も俺を本当の名前で呼ばなかったし、システムでの生活に、過去との接点は無かった。
 こんなに俺の過去に興味を持ったのは、サヤが初めてだったんだ。
 俺はこの前、写真を見られたくらいで過剰に反応して、過去と向き合わないで逃げた。
 今はその続きだ。それに何より、俺はサヤの誤解をといておきたかったんだ。
 俺が昔のことを喋りたくなかったのは、俺に問題があったからで、決してサヤに問題があったからじゃない」
サヤは吊り目を和らげ、はにかんで言った。

「いいの。わたしも悪かったの。
 わたし、サトシが昔を思い出したいとか、思い出したくないとか、そういうことを全然考えてなかったの。
 みんながみんな、気軽に話せる楽しい思い出ばかり持ってるわけじゃないのに……」

意外だった。
「わたしに問題?あるわけないじゃない」「謝意が感じられないわ。土下座」などの台詞を想定していた自分が恥ずかしい。

「ねえ、もっと色々質問してもいいかしら?
 サトシが過去を振り返りたくないのは分かってるわ。
 でも、それでもわたしは知りたいの。
 しつこく尋ねたら嫌われると分かっていても、わたしね、サトシのことがもっと知りたいのよ」
「………」
「ダメ、かしら?」
「構わない。俺はサヤの好奇心を満足させるために、ここに来たんだ」

サヤは口を噤み、右手の指と左手の指を絡み合わせて、
決心と躊躇を何度か繰り返す素振りを見せてから、俺を見据えた。

「わたしが誰にでも、喋りたくない過去を根掘り葉掘り聞き出すような、失礼なことをすると思ってる?」
「……いいや」
「分かってくれてるなら、いいの」

淡く頬を染めるサヤ。

それから俺はたっぷり二時間、サヤの質問に答え続けた。
喋るうちに、これまで頑なに秘匿主義を貫いてきた自制心が溶けていくのを感じた。
俺の語る言葉に整合性の取れた嘘や欺瞞は無かった。
サヤは感情を露わに俺の話に聞き入り、それでいて適当に相槌を打った。
ピカチュウと袂を分かった本当の理由。
将来を誓い合ったカスミを裏切り、故郷を離れてシステムに属した理由。
過去の夢。現在の夢。目的。希望。
まるで懺悔室で神父に告解する罪人のように洗いざらい話してしまったのは、相手が純粋で表裏の無いサヤだったからだろう。
彼女はこの話を誰にも漏らさない。そんな確信があったのだ。
話が一段落ついた頃、サヤはヘルガーの喉を執拗にくすぐりつつ、
あくまで話の延長線上にある他愛もない好奇心のうちのひとつであるとでもいいたげなぶっきらぼうな口調で言った。

「……サトシは今でもその、カスミって人のことを思ってるの?」
「カスミのことは、もう忘れたよ」
「嘘つき。わたし、もうサトシの作り笑顔は見たくないの。次嘘吐いたらヘルガーけしかけるから」
「……なるべく思い出さないようにしているんだ。
 それに、カスミのほうは俺のことなんてとっくに忘れているさ」
「そんなの分からないじゃない。
 むしろサトシのピカチュウを見る度に、サトシのこと思い出してるんじゃないかしら」
「そういう考え方はしたくない」
「したくない、じゃなくて、あえてしないようにしてきたんでしょ?」
「……………」

俺が反論できないでいると、サヤは責めるでもなく、訥々と言った。

「無理にその人のこと、忘れようとしなくたっていいじゃない。
 時間がたって、心のなかで整理がついたら、自然に忘れるものなのよ。きっと」

ハナダシティで暮らしているであろうカスミのことを、その傍らにいるであろうピカチュウのことを想像する。
脳裡に浮かぶ姿は数年の時を経てくっきりとした輪郭を保っている。
自然に忘れることなんて、有り得るのだろうか。そう思った。

「……ごめんなさい」

出し抜けにサヤが謝る。

「わたし、たいした人生経験もないくせに、生意気ね」
「そんなことないさ。俺よりも長く生きてるんだ。年下に説教する資格はそれで充分だ」

実際に、サヤの言っていることは正しい。
その正しさを理解できても、過去から解放された自分の未来像を信じることができないだけで……。
サヤは言った。

「あのね、サトシ。わたし、いいことを思いついたんだけど」
「いいこと?」
「新しい電気タイプのポケモンを育ててみるというのはどうかしら。その、ピカチュウの代わりに、ね?」

俺はかぶりを振った。

「何度か試したことはある。でも、ダメだった。
 ピカチュウの代わりになるようなポケモンはいないし、
 この先も現れないことを再認識させられただけだったよ」
「そうなの……」

サヤは残念そうに溜息を吐く。そして妙に声のトーンを下げて言った。

「人のほうも、試したの?」
「どういう意味だ?」
「だから、カスミの代わりになるような人と付き合ったりしたことはないのかどうか聞いてるの!」

カスミの代わり。考えたこともなかった。
俺だって一人の男だ。女が欲しくなったことはある。
だが実際問題として、システムに完全に身を捧げた人間が、まともな男女関係、延いては家庭を築くことは不可能だ。
表と裏の顔を使い分けられる、マサキやカツラのような要領の良い人間ならまだしも。
俺は視線を上げた。
放置されていたサヤが、あと数秒放っておけば首を絞めに来かねない形相でこちらを睨み付けていた。

「無かったよ」
「どうして?」
「考えたことも無かったんだ。本当だ。
 俺はシステムの人間で、この世の女の大半は日の光が当たるところにいる」
「ふぅーん」

意味深な響きだ。

「それって、言い訳じゃない?
 わたしはお父様の仕事場にたまに呼ばれるくらいで、内部の詳しい実情なんて知らないけれど、
 システムの人間が全員男なわけじゃないでしょ?違う?」
「まあ、確かに……」

男女比率は実働部隊は荒くれ者が集まる分、自然男に偏るが、その他の部署では五分五分だと聞く。

「仕事で方々を転々としてサトシがそんなこと言っても、冗談にしか聞こえないわ。
 わたし、いちどお父様の部下に聞いてみたことがあるのよ。
 本当に女の人と関わりが持てない可哀想な人って、ずうっと地下の研究施設に引きこもって研究してる人のことをいうのよ」

そういった閉鎖的な部署には、定期的に高級娼婦が宛がわれることは黙っておいた方がいいだろう。
サヤは自信満々な、それでいて不服げな複雑な表情でこう結んだ。

「サトシが新しい女の人を見つけなかったのは、
 考えもしなかったから、じゃなくて、カスミに罪悪感を抱いているからね」

「罪悪感、か………」

俺は小指を折り曲げた。カスミの小指と絡み合った感触は今もそこに残っている。
――待ってるから。
チャンピオンロードの入り口で、カスミは嗚咽混じりにそう言った。
俺はその約束を守り、そして、破った。
カスミの純粋な気持ちを裏切った。
ポケモンリーグ優勝者を輩出したことで沸き返る故郷に、カスミとピカチュウを置き去りにした。
目頭を押さえる。頭痛がした。
久々にあの夜のことを思い出したからか。

「俺はこの罪悪感と、もうしばらく付き合うことになりそうだ」

サヤはいつになく優しい声で言った。

「罪悪感と向き合うのはいいことだと思うわ。時間が経てば、自然と赦されるものよ」
「誰が、どうやって赦すんだ?」
「サトシが、自分で、もうカスミのことは忘れよう、って納得するのよ」
「その時がくる前に俺が老死してなきゃいいがな」
「時間がかかることは確かよ。でも、それを早めることはできると思うの。
 カスミへの罪悪感を、時々忘れちゃうくらい気になる女の人が現れたら……ね?」

はにかみ、僅かに顔を寄せてくる。
俺は僅かに身を引いて言った。

「俺はそんなに単純に出来てない」
「あら、そうかしら。お姉様はよく言ってたわ。男は馬鹿で、忘れっぽくて……それから……ケダモノだって」

やれやれ、あの女は妹にどんな教育をしていたのだろう。
引きこもりのサヤの中で醜い男性像は確固たるものとなり、俺とサヤが初めて会ったあの日の一言に繋がったのだ。
『わたし、こんな人はいや。穢らわしい。二度とわたしの前に姿を見せないで』
今となっては懐かしい。

「けど、サトシは私の想像していた男の人と違ったわ。だから、やっぱりサトシのいうとおり、そう簡単にはいかないのかも」

視線を下げ、胸元に落ちた赤毛の一房をつまむサヤ。俺は少し迷ってから言った。

「……努力はする」
「本当?」
「ああ」
「……そ、そう。まあ、精々頑張りなさい。努力は報われるのよ」

努力に縁遠そうなお嬢様がよく言ったものだ。
時計を見る。サヤに昔話をしているうちに、時間の経過を忘れていた。話のキリも良い頃だ。

「そろそろ行くよ」
「えっ……あ……そうね、随分長いことお喋りしてたみたい」
「ありがとう」
「な、なんでサトシにお礼言われなくちゃならないのよ?」
「システムに入る前のことを話して、全部とは言わないが、肩の荷がいくらか下りた気がするんだ」

あの日、サヤが俺の過去に興味を示していなければ。
俺の上着の内ポケットから、古い写真を取り出していなければ。
俺はありきたりな冒険譚をサヤに聞かせるだけで満足し、
サヤも欠けたピースに疑問を抱くことなくそれを聞いて満足していたのだろう。
ドアの鍵を外し、ノブに手をかけたその時、

「ねえ、サトシ……」

後ろ髪を引く、という表現が的確な声がした。俺は言った。

「また来る。サヤのお父さんとの契約は、まだ切れてない」
「い、いちいち当たり前のことを言わなくてもいいのよ」

俺は既に決まっていたという「後任」について尋ねようとして、思い直した。
サヤを困らせるネタには使いどころがある。
今はそのときではない。