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「サヤ」
「なに? まさか何も教えてくれないで帰っちゃうとか言いだすんじゃないでしょうね」
「俺のことを呼ぶときは……」
「ああ、そのことについては心配しなくていいわよ。
 どうせ私はここに籠もりっきりだし、仮に他の誰かにあなたのことを聞かれても、ちゃんとレッドという名前で呼ぶわ」

そういう意味じゃない。
『サヤが俺を呼ぶとき』に、本名を使うのをやめて欲しいんだ――俺はそう言いたかったが、
その次に「どうして?」と尋ね返されたとき、サヤを納得させるだけの答えを持ち合わせていなかった。

「なあに。まだ不満なの?
 あ、分かった。サトシは呼び捨てにされるのが嫌なんでしょう?
 そうね、二つ選択肢を上げるわ。ポケモンバトルを教えてくれるってことで、『サトシ先生』がいいか、
 私よりも二つも年下ってことで、『サトシくん』がいいか、どっちか選びなさい」

冗談じゃない。
俺は自棄になって言った。

「……呼び捨てでいいさ」

しかし、どうしてサヤはこうも嬉しそうなんだ。

「だって、あなたを組織の名前で呼んでいたら、
 いつか本当の名前が分かった時に、いちいち覚え直さなくちゃならないじゃない?
 私が今までサトシのことをレッドって呼ばなかったのは、そういう理由だったの。
 でも今日からは、それもお終い」 
口を噤んだ。
思ったことをそのまま喋っていた、己の気の緩みを恥じた。

「出番だ、フシギバナ。サヤ、ポケモンバトルの準備はできてるか」
「い、いきなり始めるのね……もちろんできてるわ。ヘルガー、行くわよ」

サヤは会話を打ち切られてほんの少し物足りなそうな顔をしたが、すぐに臨戦態勢を取った。
余程この時を待ち望んでいたのだろうか。初日の敬遠具合を思い出すと目を瞠るべき変化だが――。
結局のところ、俺がサヤという女に対して優位に立てるのは、ポケモンバトルを教えている間だけなのだ。

それからも俺はサヤとの約束通り、十日に一度、グレン島に通い続けた。
もちろん優先度は博士の命令は上で、任務の予定があったり、任務が長引いたりしたときは、その二週間毎の期日が前後することになった。
十日よりも短い間隔でグレン島に到着すれば、サヤは無垢な笑みを見せ、そして童顔に似合わぬ艶やかな声で、「そんなに早く私に会いたかったの?」と言った。
十日よりも長い間隔でグレン島に到着すれば、サヤは片頬を膨らませ、そして年齢にそぐわぬ子供っぽい声で「どうしてもっと早く来てくれなかったの?」と言った。
ポケモンバトルを教えて、すぐに辞去するというパターンも変化していった。
切欠は、サヤの何気ない一言だったように思う。

「サトシは紅茶、好き?」

俺は馬鹿正直に頷き、屋敷の談話室に案内された。
それがサヤの、俺の過去を聞き出す口実だと分かっていたら、俺は最初の質問に、嫌いだと答えていただろう。

「どうしてポケモンリーグを目指そうと思ったの?」
「あなたは何匹のポケモンを持ってるの?」
「今まで一番強かったトレーナーは誰?」
「初めてポケモンを捕まえたのはいつ?」

それらの質問に、俺は慎重に、言葉を選んで答えていった。
俺は紅茶を飲み干すことに汲々とし、サヤは俺のカップが空になる度、赤銅色の液体をたっぷりと満たして質問の続きをした。
やがて諦めの境地に到ると、サヤは今度は自分の過去を話し始めた。
ほとんど覚えていないお母さんのこと、過保護で鬱陶しいお父さんのこと、家を出て何年も経つが、たまに手紙をくれるお姉さんのこと。
相槌を打つばかりの会話というものもつまらないもので、
俺は当り障りのない過去の記憶を、中でもサヤの興味を惹きそうな記憶を語って聞かせた。
それはいつしか習慣となり、ポケモンバトルを教えた後は、サヤの気が済むまで、談話室で紅茶を飲みながらお喋りするのが当たり前になった。


サヤとの関係に変化の兆しが見えたのは、屋敷の裏手にある広葉樹林が色めき始めた、中秋のある日のことだ。
ポケモンバトルを終えた俺とサヤは、例によって談話室で、カップを片手に他愛もない話をしていた。

「ねえ、サトシ。今の私の強さって、どれくらい? 四天王の一人くらいなら倒せるかしら?」
「それは無理だ」
「そこは嘘でも「倒せるかもしれない」とか言いなさいよ、馬鹿」

しかし実際、サヤの実力は、初めて会ったあの日に比べれば、格段に強くなっていた。
サヤは生意気な返事をしながらも、俺の教えたことはよく聞き、飲み込む努力を怠らず、実践できるようになるまで何度も練習を重ねた。
そしてヘルガーも、それに応える形で経験値を積んでいった。
最近では、相性の悪いフシギバナと戦わせるのが躊躇われるほどに。
さっき俺は「四天王は倒せない」と言ったが、
それは四天王が複数のポケモンを状況に合わせて使い分けてくるからであって、
もし限定されたポケモンで一対一という条件なら、サヤは下位の四天王を打倒しうるだろう。

「それで、今日はどんなお話をしてくれるの?」

ヘルガーの顎をくすぐりながら、サヤは言った。
年上だと分かっていても、サヤの童顔と甘い声は、父親に絵本の朗読をせがむ少女を連想させた。

「そうだな、今日は……」

――――――
――――
――

タマムシシティでエリカと戦った時のことを話し、いよいよ佳境を迎えると言ったところで、
俺の携帯情報端末が着信を告げた。オーキド博士からだった。

「サヤ、少し待っていてくれ」
「え、今が一番盛り上がってるところじゃない!
 そんなの無視しなさいよ。これは命令よ。め、い、れ、い」
「だめだ」

博士からの連絡は、サヤの命令の優先順位を僅差で上回る。
俺は談話室を出て、端末を耳に当てた。

「カツラの娘とお楽しみだったようじゃのう、サトシよ」
「笑えない冗談は仰らないでください、博士。
 俺はただ、」
「そうムキになって否定せんでもいい。
 ワシがお前に連絡したのは、次の任務を伝えるためじゃ」
「はい」

自然と、背筋が伸びる。博士は言った。

「明日、タマムシに飛べ。孤島の再調査で偶然発掘されたボールの復元作業が完了したという情報が入ってのう。
 ミュウツーが造ったと思われるそれは、ワシら人類の科学力を上回る、所謂オーバーテクノロジーによるものじゃ。
 アプローチの仕方を間違えれば、その解析には長い歳月の空費を強いるじゃろう。
 サトシよ、お前はミュウツーに孤島への招待を受けた、トレーナーの一人じゃ。
 何かあの漆黒に白の紋様を施されたボールに覚えはないのか?」
「…………ありません」
「そうか、じゃが現物を見れば、何か思い出すものもあるかもしれん。
 先端科学技術研究助副所長、マサキに会うのじゃ」

通信は唐突に切れた。
俺は薄暗い廊下で、しばらくぼうっとしていた。
マサキの名刺はまだ持っている。だが、俺は一度としてそこに連絡したことはなかった。
あの黒いボールについて、話したことは一度もなかった。
オーキド博士は、俺が何か知っていることに感付いているのだろうか。
俺が嘘をついていることを見越して、現物を見にタマムシに飛べと言ったのだろうか。

分からない。

あのボールが解析された暁には、システムに利用されていることは目に見えている。
俺がそれに貢献することは、果たして正しいことなのだろうか。
あれはミュウツーのいた証として、孤島の瓦礫の下に、ひっそりと眠り続けるべき代物だったのではないか。

俺は薄ら寒さを覚えて、談話室に戻った。

「あっ」

悪戯しているところを見つかった――まさにそんな風な顔をして、
さっと手に持っていたものを後ろに隠したサヤと目があった。

椅子のひとつにかけておいた俺のジャケットには、僅かな乱れが見て取れる。これは俺の落ち度だ。
サヤの好奇心の旺盛さを知りながら、財布等の私物を納めたジャケットを、サヤ一人の部屋に放置してしまった。

「何を隠したんだ?」

嫌な予感がした。サヤはおずおずと手に持っていたものを差し出した。
往々にして、嫌な予感というものは的中する。それは俺の過去を象徴する、一枚の写真だった。

「ごめんなさい」

サヤは素直に謝った。しかしそれは、次の台詞を口にするための、前準備に過ぎなかった。

「ねえ、聞いてもいいかしら。
 ここに映っている人たちは、誰?
 サトシが胸に抱いてるピカチュウは、どうして今は一緒にいないの?」

そうだ。俺はこの質問を何よりも怖れていた。
サヤに昔の旅を語って聞かせる際、俺は巧妙にタケシやカスミ、そしてピカチュウの存在を省略してきたつもりだった。
辛うじて整合性を保った俺の話に、サヤは満足しているように見えた。
しかしサヤは、本当は前々から、俺の過去の核に触れたがっていて、それを我慢していたのかもしれない。

「返すんだ」

サヤの手がこちらに伸びかけて、引っ込められる。

「返せといっているだろう」

凄みを利かせた声も、効果は無かった。
サヤの瞳は瞬きすることを忘れて、静かに俺を見据えていた。強い意志の現れだった。

「……………」

俺は実力行使にでた。もちろん、ポケモンは使わない。
狭い部屋だ。サヤを部屋の角、豪華な天蓋付のベッドの前に追い詰めるのに、造作はなかった。

「いい加減に返すんだ」
「嫌。サトシが話してくれるまで、絶対に返さないんだから」

大人げないことは分かっていた。だが、それを言うなら俺はぎりぎりのところで未成年で、サヤは大人だ。
サヤの手を掴む。

「いやっ」

振り払われる。微弱な抵抗だった。

「返せ」

掴みなおす。今度は離れない。サヤの自由な片手が俺の胸を突く。
体重の差は歴然だ。作用反作用の法則は正常に働き、サヤの重心が後ろに傾く。
俺は咄嗟に背中に手を回した。倒れ込んだ先が、怪我の心配のない、柔らかいベッドであることを忘れて。
「………………」

静寂の中に、壁時計が刻む時の音だけがやけに大きく響いていた。
すぐ近くに、サヤの顔があった。
きめ細やかな白い肌は、うっすらと上気している。
薄く開いた紅唇からは、新鮮な空気を求める息遣いが聞こえる。
シーツの上に広がった長い赤髪は、名画の額縁のように、サヤの綺麗な顔を際立たせていた。
何をしている。
いつものサヤなら。
傲岸不遜で、生意気で、虐げられることを誰よりも嫌いを嫌うサヤなら。
俺はこの数秒間に、頬が赤く晴れ上がるほどの平手打ちを食らっていて然るべきなのだ。
ふと、サヤの手から写真が落ちた。

「どうして」

サヤの声は震えていた。
頬を伝った涙を隠すように、サヤは顔を背けて言った。

「どうして……サトシは何も教えてくれないのよ。
 サトシは昔のことを話しても、肝心なところは暈かしたままで、何も教えてくれないじゃない。
 私、あなたのことを何も知らない。本当に何も知らないのよ。
 知っているのは、あなたの名前と、肩書きと、調べればすぐに分かるような、あなたの遍歴だけ。
 あなたと、あなたの昔の仲間しか知らないようなことは、何も知らないのよ」
「どうして、そんなに俺の過去を知りたがる?」

俺が永世チャンピオンだからか?
管理者と直接繋がりのある有数の人間だからか?

「それは…………」

サヤが何か言いかけたその時、談話室の外に気配がした。
俺は咄嗟に写真を手にとり、身を起こした。

「あ……」

素早くジャケットに袖を通し、写真を元あった場所に納める。
ノックの音が響く。使用人がサヤに入室の許可を取る前に、俺は扉を開けた。

「レッド様?」

会釈して、脇を通り過ぎた。
屋敷を出て、本州に戻り、高級ホテルの一室でシャワーを浴びても、動悸は収まらなかった。
俺の頭の中は、サヤへの憤激と、後悔と、形容できない感情で満ちていた。
「入ってええで」

副所長室の扉をノックすると、権威や驕慢とは縁遠い、親しみやすい関西弁が答えた。

「ご無沙汰しています、マサキ博士」

マサキ博士は奔放な前髪の隙間からこちらを認めて、

「ほんまにご無沙汰やなあ、レッドくん。
 あの時以来か。まあ、どこでもええから座って座って」

と言った。
応接用のソファに腰を下ろす。
しばらくして、マサキが俺の前に腰を下ろした。

「ちょうど今書類整理に追われててなあ。
 いくらコンピュータが発達して多方面での電子化が進んでも、人間は紙媒体を使い続ける。
 ワイに言わしたら資源の無駄、低作業効率の選択、紙なんかはよ無くなってまえと思うけど、
 そんな時代が来んのはまだまだ先やろなあ……」

コーヒーを啜り、

「閑話はこれくらいにして、本題に入ろか。
 あのボールの復元作業が完了したことは、もう聞いてるはずや。そうやろ?」
「はい」
「君が自主的にここに来たんやなくて、組織に命令されて来たことは分かってる。
 ワイも実際、上から君が来たら現物見せるよう言われてたからな」

これがそれや、とマサキ博士は玩具でも扱うように、ぞんざいな所作でボールをガラステーブルの上に置いた。

「これは実物を3Dプリンタでダイレクトモデリングしたもんや。着色や光沢感は本物そっくりやで。
 恥ずかしい話やけど、完全に復元できたんは外郭部分だけで、中身の方はまだまだ不完全やねん。
 研究室に君を案内することもできんことはないけど、
 煩雑な手続き踏まんなあかんし、実際、君にはこの模造品で十分やと思ってな」

マサキ博士は煙草に火を灯しながら、

「レッド君は、これが何なのか知ってるはずや。
 このボールと同型の遺物は、あの孤島で大量に発見された。
 保存状態が良好やったんは今研究所にあるやつだけで、他のは修繕不可能なレベルに損壊してたけどな。
 ともかく、あの孤島にミュウツーがいた当時、あそこには完全な状態のボールが大量にあったっていうことや。
 君がそれを見てない道理はない。あくまで記憶を失ったって言い張るんやったら、言及はせえへんけどな」
否定を続けることは、道化を演じ続けることに等しい。
組織の人間が、組織の利益、延いては俺自身の利益になることに協力しなくてどうする?
俺は自己暗示をかけるように、自分に言い聞かせた。
その決意が昨日の出来事と、全くの無関係と言えば嘘になる。

「そのボールは――」

俺はあの日、あの孤島で見た、ボールに関する全ての情報を喋っていた。
博士はメモもとらずに、時折相槌を打ちながら俺の話を聞いていた。
一言一句記憶しているのだろう。

「完全自律型の捕獲ボールか。
 しかも捕獲率は100%近いと来てる。
 感覚装置、捕獲機構、動力源、集積度、何もかもがオーバーテクノロジーやな」

話が終わった後、マサキ博士は嘆息しながらそう言った。
あの孤島のささやかな遺物だけで、先端科学技術副所長をここまで唸らせることができるのだ。
俺が孤島の深部で見た、DNAスキャンからクローン生成までをシームレスに行う装置を見たら、現代の科学者は軒並み卒倒するかもしれない。
マサキ博士は言った。

「でもまあ、これで解析の方向性には目処がついたわけや。
 何年かかるかわからんし、その時にワイがプロジェクトに残留してる可能性も低いけど、ボールは完全な形で蘇るやろ。
 話してくれたことには、ほんまに感謝してる」
「そうですか。では………これにて失礼します」
「ちょっと待ってや」
「何ですか?」
「組織に属するもんは、同じ組織に属するもんとの個人的な接触を禁じられてる。
 それはよう分かってるつもりや。けど、折角こんな風にやけど、再会できたんや。
 君さえ嫌やなかったら、連絡とりあわへんか。
 ワイやったら、主にポケモンのことで、君に色々と協力できることも多いと思うしな」
「マサキ博士………」

俺は快く、マサキ博士に答えた。
組織お抱えの研究者という肩書きを外せば、マサキ博士は陽気でポケモンが好きな一人の科学者だ。

マサキ博士に秘密を打ち明けてから、一ヶ月と半月が過ぎた。
その間、俺は一度もグレン島に足を運ばなかった。サヤからの手紙も来なかった。
俺は実に六回もの訪問をサボったことになる。
その代わりにと言ってはなんだが、俺は精力的に博士の任務をこなしていった。
博士は俺とサヤの関係が微妙に拗れたことに気付いていたのかもしれなかったが、特に何も言わなかった。
このまま、忘れてしまえばいい。
ベッドに押し倒したサヤの泣き顔が脳裡に浮かぶ度、その言葉を唱えた。
過去を思い起こさせる女なんて、面倒なだけだ。
懐かせたのが間違いだった。俺は要領よく相手をしていただけなのに、サヤに心を許させてしまった。
俺にも心を開いて欲しいと、サヤに願わせてしまった。これ以上の接触は危険だ、と本能が警鐘を鳴らしていた。
もしこのまま何も音沙汰が無ければ、それでいい。
もし直接サヤから、或いは間接的にサヤから連絡があったとしても、放っておこう。
カツラに会うことを強要されたら「教えることはもう何もない」と言えばいい。あるいは「適当な代役を捜せ」と言ってもいい。
いや、いくらなんでも自分を過大評価しすぎか。
半年――所詮半年だ。その程度の人間関係が壊れるのに、大した理由はいらない。