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要人の護衛。敵対組織の無力化。危険因子の抹殺。
博士の命令の内容は多岐に渡った。
俺はそれを何の疑問も抱かず、ただ淡々とこなしていった。
上層部の懐刀として、同組織の人物から謂われのない嫉妬や恨みを買う事も少なくなかった。
俺は心のどこかで潤いを求めていたのかもしれない。
最後に別れた日から約一ヶ月後のある日、
カイリュー便が俺の元に手紙を届けにきたとき、俺は肩の荷が下りたような、妙に軽い気持ちになった。
リザードンはそれを察したかのように、速力を上げてグレンを目指した。
屋敷に着くと、メイドは複雑な微笑を浮かべて俺を出迎えてくれた。
その真意を測りかねつつ裏手に出ると、全てに納得がいった。

「……………」

バトルフィールドの脇、申し分け程度に設えられたベンチの上で、
膝にヘルガーを乗せたまま、サヤがこっくり、こっくりと船を漕いでいた。
肩口まで伸びた赤髪の一部を、唇の端で食べているのにも気付いていない。

「サヤ」
「ん……」

サヤは半目で俺を認め、何度か瞬きした後で、
寝顔を見られた羞恥も忘れてこう言い放った。

「遅い!」
「これでも急いだ方なんだ」
「ずっと待ってたのよ。この私が! あなたのために!
 これってひどい裏切りだわ。私が呼んだらすぐに来るって約束したのに」
「だから俺は手紙を受け取ってからすぐに、」
「まあそんなことはどうでもいいの」

例によって会話が成り立たない。

「私、あなたの言う通りに頑張ってみたわ。
 これがその成果よ。ほらほらみてみて」

紙束を差し出してくる。何かと思えば、写真だった。
逆光上等、残像上等の被写体は、なんとかヘルガーだと判別できる。
とすると、この酷い出来の写真を撮ったのは……サヤか。

「それは食事風景。会心の一枚よ。
 私、あなたに言われて、ヘルガーに餌をあげる係をやってみて初めて分かったんだけど、
 この子が生肉を食べる時ってなんかこう、物凄いのよ。必死なの。私、見てて笑っちゃったもの」
「………」
「それは散歩の時の写真ね。
 いつもは付き添いが何人かいるんだけど、この時はヘルガーとだけにしてもらったの。
 グレン島は何もないけど、海沿いの道は綺麗で好き」
写真の中には、屋敷の人間に撮ってもらったのだろう、
サヤとヘルガーが一緒に写っているものもあった。サヤの笑顔は無垢そのものだった。
こんな顔もできるのか。そう思って現実のサヤを見ると、まさに写真の中のそれと同じ表情が浮かんでいた。
しかし俺と目が会うと、それはすぐに消えて、元の挑戦的な表情に戻ってしまった。

「サヤはこの一ヶ月の間で、何か新しく発見したことはあったか?」

模範的な反応は期待していなかった。

「発見したことっていうか、再確認できたことがあるわよ」
「再確認?」
「ヘルガーが私に、本当の意味で心を許してくれることは、ずっと有り得ないだろうってこと。
 どんなに私が上辺だけの愛情を注いだところで、ヘルガーは最初からそんなものを必要としていないのよ。
 私が定期的に撫でてあげなければ、ヘルガーを抑えている見えない鎖は簡単に解けてしまう」
「…………」
「でも、ヘルガーが本当の意味で私を主と認めてくれなくても、
 私のヘルガーに対する気持ちは………、少し、変わったかも。
 この子も生きてるんんだなあって、そんな当たり前のことに、最近、気付いたの。
 今まで、あたしにとってポケモンは、ただの消耗品だった」
サヤはポケモントレーナーとして、不幸な子供時代を過ごした。
無条件でポケモンを隷従させる。
そんな能力を持って生まれてしまったために、ポケモンと対等に接しようという思考が生まれなかった。
次第にその扱いが、道具に指示を出すように変わり、
愛撫が機械的、義務的なものに変わるのに、そう時間はかからなかっただろう。
ポケモンに対する生殺与奪の意識が希薄になっていったのも、仕方のないことのように思える。
だが――。

「サヤの境遇は、ポケモンを道具扱いしていたことの免罪符にはならない」
「ん……」
「これまでサヤが心なく接してきたポケモンに、償えとは言わない。
 ただ、これからは"一匹"のポケモンとして扱ってやるんだ。
 そうすればヘルガーもいつかは、サヤを能力関係なしに、主と認めてくれるかもしれない。
 保証はできないが、やってみないことには何も始まらない」
「…………」

膝元のヘルガーに視線を落とすサヤ。
きつく言い過ぎたか?

「さっきから黙って聞いてたら偉そうに! 
 なによ。もっと私の心の成長を誉めてくれてもいいんじゃないの?」

見当違いだったか。

「返して!」

箱入り娘の例に漏れず腕力は微々たるものだったが、
反抗しても余計にややこしくなりそうだったので、素直にひったくられた。

「捨てるのか?」
「そんなわけないでしょ。バカ」

そう言いながらサヤは、写真を大切そうに仕舞う。

「……悪かった」
「…………」
「サヤはサヤなりに俺の言ったことをしっかり実行してくれたのに、
 すぐにサヤにそれ以上の負担を強いるのは、確かにバカだった。謝る」
「殊勝で結構。許してあげるわ」

満面の笑みが浮かぶ。サヤの機嫌が戻るなら、これくらいの台詞、安いものだ。
「でも……」

サヤはその翠眉をかすかに傾けて、

「これで本当に強くなれるの?
 ヘルガーと本当の主従関係を築く努力をすることが、強さと結びつくようには思えないんだけど」
「なら、バトルしよう。
 前の時からどれほどサヤが変わったか、見定める」
「……いいわよ」

意外にもサヤはあっさり首肯した。
前回のあれがトラウマになっていなければいいと思っていたのだが……。

「あ、今私があなたとのバトルを怖がってるとか思ったんじゃないでしょうね?」
「思ってない」

即答だった。


結果は、前の時とそう変わらなかった。
しかし、得たものは大きかった。


「理不尽よ。あなた、強すぎるわ」

サヤは立腹した様子でベンチに横になっている。
ミディアムドレスの裾からすらりと伸びた足に目が行きそうになり、

「お嬢様がそんなだらしなくていいのか」

と言うと、サヤは反抗的に足をパタパタと動かしはじめた。
俺は紳士的に目を閉じた。

「私、なんだか前よりも弱くなってる気がするわ」
「そんなことはないさ」
「じゃあ、強くなった?」
「そんなこともない」
「ねえ、あなた私のことからかってる? もしそうだったら酷いわよ」
「具体的に、どう酷いんだ?」
「お父様に、あなたに陵辱されたって言う」

社会的抹殺か。確かに酷い。

「サヤは成長してる。それは確かだ」
「なら、何がどう成長したのか言いなさい」
「秘密だ。今教えたら、多分、意味がなくなる。それはサヤの望むところじゃないはずだ」
「うー……」

聞きたい。でも聞いてしまえば強くなれない。
ジレンマに苦しむサヤは見ていて面白かった。

実際のところ、サヤは確実に成長していた。
その最たるものはヘルガーへの命令に、ヘルガー自身の被ダメージが考慮されていたことで、
例えば前回、俺がフシギバナに"葉っぱカッター"を指示したとき、
サヤは迷わず焼き払いながらの正面突破を指示したが、今回は完全に凌ぎきった後で、反撃に転じさせていた。
その躊躇をサヤは「弱さ」と考えているようだが、それは違う。
本当の強さは、自分のポケモンを大切にする戦い方の先にあるのだと、いつかサヤが気付いてくれればいいのだが。

「………ねえ」

身を起こしたサヤは、不機嫌な眼差しを俺に注ぎながら言った。

「あなたも適格者なのよね?」

どうせサヤが父親に尋ねても分かることだ。俺は正直に頷いた。

「あなたのはどんな能力なの?」
「自分のポケモンの感覚や思考を読み取ることができる能力だ」

限定的な嘘は見抜けない。特にサヤのような、純粋な思考の持ち主には。

「はあ? もっと分かりやすく説明して」
「つまり、離れたところにいるポケモンが見たものや、考えていることを知ることができるんだ」
「あまりぱっとしない能力ね。それ、実戦で役に立つの?」
「ああ、大いに立つ」
「ふうん………」

サヤは興味を無くしたようにわざとらしい溜息をつき、
数秒の間をおいてから、こう尋ねてきた。

「あなたは前のバトルや、さっきのバトルで、その能力を使ってたの?」
「使ってない」
「……………」

サヤのプライドが焼け付く音が聞こえた気がしたので、俺がそろそろ屋敷を去ろうとした時、

「待って。ねえ、あなたって……」

言いよどむサヤ。デジャヴが俺を襲う。
コードネーム・レッド。サヤにはそれしか知らされていないはずだが、しかし、サヤが俺の素性を想像できないとは考え難い。
恐らくサヤは気付いている。そして俺に、言質を取りたがっている。
だが、それはできない相談だった。

「近々長期の任務がある。だからサヤの予定に合わせることはできない。次は、俺の方から来る」

俺はそう言い残して、屋敷を去った。



グレン島からさらに南下したところに位置する、名も無き孤島。
誰もその精確な位置を知らない、地図から失われた島。
そこでかつて、地上最強のポケモンを創造する研究が行われていた。研究は成功した。
そのポケモンの名は、ベースとなったポケモンの名をとって、ミュウツーと名付けられた。
しかし研究に携わった研究者のほとんどは、自我に目覚めたミュウツーの餌食となって、吹き飛んだ。
一時、その孤島はミュウツーの支配下に置かれ、ミュウツーが去った今では、研究施設の残骸が散乱しているのみである。

俺を含む実働部隊の数人に、その孤島を再調査する研究者の護衛任務が与えられたのは、サヤを二度目に訪れた日の数日前のことだった。

ブリーフィングで聞かされたのは、極めて第三者的かつ当時の事件の上辺をなぞっただけの情報に過ぎなかった。
そして当然のように、当時の事件に直接関わりを持たない人間は、「地上最強のポケモン」とうい響きに勝手な想像を巡らせていた。

「最強のポケモンってえのは、俺様が飼ってるポケモンのことを言うんだ。
 嘘だと思うならここにつれてこい。一撃でぶちのめしてやる」
「ナンセンスだね、君は。まったくもってナンセンスだ。
 どうしてパワータイプのポケモン使いには無粋な思考の持ち主が多いのかな。
 僕なら最強のポケモンを見つけたら、無傷で捕まえて服従させてみせる」

血気盛んな黒色の短髪と、気取った喋り方をする金色の長髪。
その二人の同業者の語りに、俺は辟易していた。
今回の任務は秘中の秘で、護衛には相当の実力者が宛がわれると博士は言っていたが……。
この聖域に足跡を残すには、二人とも余りに思慮が欠けている。
俺は黙々と機材を使って現地調査に勤しむ研究者たちを眺めた。
皆一様に作業着に身を包んで、顔には幅広のマスクを着用している。
そのせいで誰が誰なのか、よほど目を凝らさない限り見分けが付かなかった。

「それにしてもそのポケモンは恩知らずもいいところだな。
 生みの親を殺してどっかに行っちまうとは」
「確かに。知性の感じられない行動だね。
 僕たち人間がいなければ、ミュウツーは世界でただ一匹の孤独を味わうことになるというのにね。実に愚かだよ。
 いやはや、こんなことで君のような荒くれ者と意見が合うとは」
「…………」

何気なく流し目を送ったつもりが、若干の軽蔑を含んでしまっていたようだ。

「おい、お前」

反応したのは黒髪の短髪だった。

「さっきから黙ったまんまチラチラこっち見やがって。
 レッド、とかいったな。なんか文句あるのか?」
「いや。ただ、浅はかだと思っただけだ」
「聞き捨てならないな。こっちの醜男は構わないが、この僕が浅はかだって?」

長髪がそれに便乗する。俺は波濤が岸壁にぶつかって砕けるのを眺めながら言った。

「ミュウツーの孤独は、同類がいないことじゃなかった。
 ただこの世に生まれてきたことそのものが、ミュウツーの孤独だったんだ」

「はあ? 意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ」
「君は少し黙っていろ。
 この世に生まれてきたことそのものが孤独、だって?
 ミュウツーは最強のポケモンとして生まれた。彼の誕生には多くの人間が喜んだはずだよ」
「あんたは根本的に勘違いしてる。
 ミュウツーは生まれたその時から知性を持っていた。
 ミュウツーは自分が創られた目的を知っていた。
 だが、他人が自分に求める目的と、自分が生きる意味は別物だ。
 そしてミュウツーは、自分が何故生きているのか、まずそれを確かめることから始めなければならなかったんだ」

潮風の吹く音が、静寂を満たした。
やや間を置いて、長髪が言った。

「レッドくん。君は何かミュウツーのことについて知っているような口ぶりだね。
 実際のところ、君には謎が多い。部隊の人間の誰も君について詳しく知らないし、
 組織要人の懐刀という噂もあれば、管理者と直接繋がりがあるという噂もある。
 流石に後者は嘘だろうが、君が僕たちと違う種類の人間であることは確かだ。
 君はいったい、」

何者なんだ?と続く前に、俺は言った。

「忘れたのか。組織では同業者に対して、その台詞はタブーだろう」
「……っと、そうだったね。失敬」

長髪が苛立ちを隠した微笑を顔に貼り付ける。
しかし短髪は収まりがつかないようで、

「いいじゃねえか。どうせ護衛つったって、何もねえ。退屈を持て余すだけだ。
 ……お前、出来るんだろ?」
「出来るって?」
「これに決まってんだろうが」

短髪がベルトからボールを取り外す。

「俺が勝てば素性を明かせ」
「いいね、面白そうだ。僕は観戦しているよ。この醜男が負ければ僕が代わろう」
「待て。もしお前が負けたら、その時はどうするつもりなんだ?」
「そうだね。この任務中、僕たちは君に一切干渉しないと誓おう。どうだい?」
「………………」

いたずらに手の内を明かすような真似はしたくない。
だが、二人の関心が自然に俺から反れるとも考え難い。
研究員の一人が間に入ってきたのは、俺が安直な結論を出しかけたその時だった。

「若者は血の気が多くてあかんなあ。
 何があったか知らんけど、ワイらの護衛の任務サボって仲間割れするんは誉められたことやない。
 さっさと配置に戻った方がええで」

振り返る。固く抑えつけていた記憶の蓋が、僅かに開く。
幅広のマスクは顔を隠せても、独特の関西弁までは隠せない。
もう何年ぶりの再会になるのだろう。マサキ博士がそこにいた。

「さ、主任来る前に散った散った。
 そんなに暇やねんやったら、ワイらの調査作業手伝ってもらおか?」

長髪は前髪を指で弄りながら、

「ふっ、僕としたことが熱くなってしまっていたようだ。
 それでは配置に戻るとするよ。レッドくん、またいずれ」

あっさりと持ち場に消えていった。

「ふん」

短髪も鼻を鳴らして、その後に続いた。
残された俺とマサキ博士は、しばし視線を平行させた後、同時に話しかけた。

「マサキ博士」
「サトシくん」
「……………」
「……………」

沈黙は肯定と同義だった。

「やはりあなたでしたか」
「やっぱり君やったか」

マサキはマスクを外しながら、複雑な笑顔を浮かべた。
きっと俺の表情にも、同じものが浮かんでいるに違いない。
「どうしてここに?」――そう尋ねることは禁忌だと、お互いに分かっている。
だからお互いに、何の足しにもならない感想を言いあった。

「君は大人になったなあ」
「博士も老けましたね」
「ワイらは歳を取った。いい意味でも、悪い意味でも……な。
 サトシくん……いや、レッドくんは、この調査についてどれだけ知ってるんや?」
「ミュウツーが創られた島で、当時の研究資材の収集、及び発掘作業をすると説明を受けました」
「その遺物を使って何をするかは知ってるんか?」
「知りません。しかし、大方、ミュウツーをベースに新しいポケモンを創る研究をするのでは?」
「正解や。まあ、ここまでは誰でも想像できる話やな」

マサキ博士はそこで不意に声を潜め、

「けど、作業に直接関わってるやつらの話やと、想定外の遺物が発見されたっちゅう話や。
 ミュウツーの件に偶然とはいえ関わってた君なら、知ってるかもしれん。白い模様が入った真っ黒のボールに、見覚えないか?」
「…………」

目を瞑ると、フラッシュバックに襲われた。
ポケモンを強制的に格納する、自律型ボール。
孤島に呼ばれた他のトレーナーのポケモンが次々に捕まる中、
俺のピカチュウもそれに襲われて、俺は連れて行かれそうになるピカチュウを必死で追いかけて――。

「レッドくん?」

追憶をやめて、首を横に振った。

「そうか。まあ、何か思い出したらその時教えてくれたらええわ」

これ渡しとくから、とマサキは俺に個人用の名刺を握らせた。

「ワイは皆のとこ戻るわ。君も油売ってたらあかんで」

踵を返そうとする博士に、俺は言った。

「ミュウツーをもう一度創ることについて、博士はどう思っているんですか」

博士は振り返らずに、突き放すような口調で言った。

「レッド。そういう君はどう思てるんや?」
「俺は――」

答に詰まる。結局俺は、オーキド博士の言葉通りに動いているだけだ。
ミュウツーの再研究が、博士の目的、延いては俺の夢に繋がるというなら、
胸の内で警笛を鳴らしているちっぽけな倫理観など、無視してかまわない。
そんな文句を、俺は心の中で何度も唱えてきた。

「ワイはな、何も考えてへんねん。ワイは蓄えた知識と才能を買われて、組織に飼われてる。
 研究対象が何であれ、研究しろ、言われたら研究するしかないんや。
 先輩風ふかすようやけど、君がもしまだ迷ってるんやったら、
 自分は組織を動かすひとつの歯車やと思い込むんが、一番賢い道やで」



孤島の調査が終わり、本州に戻ると、俺は約束通り自分からサヤに会いにいった。

「急いでくれ」

飛行中、ふとした拍子に口から零れた命令に、リザードンは非難するような唸り声で答えた。
俺はサヤと会うことで、心の奥で鳴り続ける警鐘から意識を逸らそうとしていたのかもしれない。
組織の繋がりで出会ったにも拘らず、サヤと会っている時は組織のことを考えずにすんだ。
遂行した任務の数々を、その中で殺めたポケモンたちを思い出さずにすんだ。
組織のヒエラルヒーをのし上がる達成感とは裏腹に、胸の内を蝕む虚無感から目を逸らすことができた。

屋敷に着くと、例によって例の如く召使いが現れた。
三度目の訪問となると流石に顔を覚えられる。

「レッド様。ようこそおいでくださいました」
「サヤは?」
「裏庭でポケモンバトルを嗜んでおいでです」
「ありがとう」

裏庭に抜けると、確かにサヤは若い女の使用人を相手にポケモンバトルをしていた。
しかしそれはポケモンバトルというよりは、予定調和の演劇に近かった。

「いい? ここでチコリータが、こう、しゅばーっと"葉っぱカッター"を飛ばすの!
 そしたら私のヘルガーがそれをしゅんって躱して、一気に近づくの。
 チコリータは近づかれたら負けちゃうの分かってるから、"地震"と"ソーラービーム"でヘルガーを撃退しようとするの。
 でもヘルガーは地震に怯まないで、ソーラービームを撃たれる前に、チコリータをぼかーんって吹き飛ばすのっ!
 分かった?」
「サヤ様、わたくしめのチコリータはレベルが低く、進化もしていないため、"地震"や"ソーラービーム"を習得しておりません」
「あーもー。使えない子ね。じゃあ最後の二つは無しでいいわよ」

面白そうなので隠れて見ていようかと思ったが、
使用人が助けを求めるような視線を向けてきたせいで、サヤに気付かれてしまった。

「…………」

俺の姿を認めたサヤがフリーズする。

「あー……今のは、最初のポケモンバトルの焼き直しか?」

ただし脚本の結末だけは、ヘルガーの勝利に書き換えられていたような気がするが。
「……見てたの?」
「ああ」
「どこから?」
「シナリオを説明するあたりからだ。
 サヤの向上心は認めるが、そういう練習方法はあまり効果的とは言えないな」
「で、ですよね」

ヘルガーの前に立たされてぶるぶる震えていたチコリータを抱き上げて、使用人は安堵の笑みを浮かべた。
俺も笑った。
サヤは激怒した。

「忘れて! 今すぐ忘れて! あーあーあーあー。
 今のはアレよ。アレ。復習?そう、復習よ。
 どうしてあのとき負けたのかなーって、ほら、あの時の状況を再現して敗因を確かめるみたいな?
 あーもーやだやだやだやだ。どうしてよりによってこんな時にあなたが来るのよ!」

今のサヤには支離滅裂という表現がぴったりだな。

「落ち着け」
「落ち着けるわけないじゃない!
 そもそもわたしがこんな醜態をさらした責任は全部あなたにあるのよ。
 ハッキリ言って、私はあなたに負けたのが悔しいの。夢に見るくらい悔しいの!
 それで屈辱にたえてあなたにポケモンバトルを教えてもらうことにしたのに、
 あなたったらあやふやなことばっかりで、ちっとも具体的なこと教えてくれないじゃない。
 しかも私が呼んだ時には遅刻するし、長期の任務とかでなかなか来てくれないし」

確かに、サヤの言うことにも一理ある。
俺はサヤが成長することを望んでいながら、
サヤに満足感や達成感を与えてやることを忘れていた。

「じゃあ、約束する。俺はこれから二週間おきに、ここに来る」
「だめ。一週間おきがいい」
「間をとって十日でどうだ」
「しかたないわね。妥協してあげる」
「約束成立ね」

はい、と小指を差し出すアヤ。

「……………」
「わたしにいつまでこうさせているつもり?
 まさかあなた、指切り知らないの?」

最後に誰かと指切りしたのはいつだろう。
そんな風に自分を誤魔化しても、あの時の記憶は鮮明に脳裡に刻み込まれている。
チャンピオンロードを目前に控えた、仲間との別れの日。
カスミは目に浮かぶ涙はそのままに、小指を差し出して言った。

――『指切りして、サトシ』――
記憶の中の優しい声は、それでいて俺を苛むようで……。

『絶対にポケモンマスターになって帰ってくるのよ。
 負けたら承知しないんだからね』
『ああ、分かってる。行ってくるよ、カスミ』
『サトシ……待ってるから』

絡めた小指と、交わした口吻の感触を、俺は今でも忘れることができない。

「じれったいわね、もう」

サヤの手が、俺を追憶から現実に引き戻す。
ふと気付けば、俺の右手の小指は、サヤのそれに絡まっていて、

「やめろ!」
「きゃっ!?」

無意識で突き飛ばしていた。それも、かなり強い力で。

「大丈夫ですか、サヤ様!?」

使用人が駆け寄る。
しかしサヤは、俺に対する怯えよりも怒りが勝ったようだ。

「なんなのよ急に!」
「………悪かった」
「悪かったで済むことじゃないでしょ!
 どうして指切りくらいで突き飛ばされなくちゃならないのよ。説明して!」
「それは……できない」
「だから、どうして?」
「俺自身、うまく説明できないんだ」
「……そんなの、理由にならないわ」
「本当に謝る。許して貰えるなら、サヤのいうことを一つ、何でも聞いていい」

謝意は本物だった。
だが最後の一言は、余計だった。俺はサヤの願いが即物的なものであると思い込んでいた。

「じゃあ、今からする質問に、イエスかノーで答えて」
「いいだろう」

サヤは自分の身体を気遣う使用人を下がらせ、妙に真剣な面持ちでこう言った。

「あなたは、ポケモンリーグ永世チャンピオンのサトシなの?」

何でも聞くと大見得を切ったんだ。
黙り込んだり、ふざけたりで誤魔化せる状況じゃない。

「……ああ」

頷くと、使用人とサヤ、二人分の息を呑む音がした。

「お父様が言ってたこと、やっぱり本当だったんだ……。
 あなたはお父様が知る中で、一番強いポケモントレーナーだって……ポケモンリーグの英雄だって……」

直接名前は明かさずとも、十分なヒントは与えられていたということか。
時間差はあるにせよ、正体がばれるのは時間の問題だったということだ。

「薄々あなたの正体には気付いてたつもりだったけど、でも、まさか本当の本当にあなたがあのサトシだったなんて……」

そこでサヤは思いっきり深く息を吸い込み、

「そんなの、最初からあたしが勝てるわけないじゃないのよーっ!!」

突然、ヘルガーもびっくりの声量で吠えた。
怯む俺に詰め寄って、「よくも騙してくれたわね」と訳の分からない言いがかりをつけてくる。
助け船は予想外の方向から現れた。

「わあ、わあわあわあっ……」

チコリータが宙を舞う。
愛する自分のポケモンを放り投げ、代わりにサイン色紙を胸に抱いた使用人が、サヤを押しのけて言った。

「僭越ながら、サインをお願いします。私、あなたの大ファンなんです。ほんとうです」
「出過ぎた真似はよしなさい!」憤るサヤ。
「ここは譲れません。ほら、サヤ様も遠慮をなさらずに」一歩も引かない使用人。
「私は何も遠慮してないわよ! いい加減にしなさい」

実力行使に出たサヤに、使用人は渋々といった様子で俺から離れ、屋敷に歩いていった。
俺はその後ろ姿に向かって言った。

「できれば屋敷の人間にも、俺の正体は秘密にしておいて欲しい」

振り返った使用人の表情は、清々しい晴れやかな笑顔だった。それを見て確信した。
今日中には屋敷の人間は誰一人余すことなく俺の正体を知ることになるだろう。
外部の人間に組織の情報を漏らせば、自ら死を望むほどの制裁が待っている。
流石に噂話も身内止まりだろうが……。

「ねえ、あなた今何歳なの?」
「19だ」
「やっぱり……あのサトシがあなたなら、それくらいよね」
「女性に年齢を尋ねるのは失礼なのを承知で聞くが、サヤは?」
「21よ」
「嘘だろう」
「それはこっちの台詞よ」

サヤの見た目や行動は、21という年齢にしては幼すぎた。
そして、

「あなた、私より2つも年下のくせに、大人びすぎてるのよ。
 初めて会った時は、絶対に年上だと思っていたもの」

俺は年相応の風貌を失ってしまっていた。
そのせいで街を歩いても、俺の過去の姿に気付く人間は誰一人としtいなかった。
名声を得た人間は否応なしに記号化される。
キャップを被り、黒の肌着の上に半袖のシャツを着て、擦り切れたジーンズとよれよれのスニーカーを履いた少年。
それが大衆が想像する『サトシ』であり、喪服のような正装をした無表情の男には見向きもしない。
博士はことあるごとに言う。『お前は表情を無くしたのう』と。
感情を抑え込む訓練をしているうちに、
いつしか俺は腹の底から笑ったり、涙するほどに悲しむということができなくなっていた。

「あ……えと……」

サヤは不自然にもごもごと口を動かしては、視線を上げたり降ろしたりを繰り返した。

「どうしたんだ?」
「ね、どうしてあなたみたいな人が、組織にいるのか聞いてもいい?」
「………」

俺の正体が分かれば、次に組織に入った経緯を知りたがるのは必然だった。

「詳しいことは言えない」
「うん」

問い詰めたい気持ちもあるだろうに、サヤは素直に頷いた。

「俺には、夢がある」
「夢?」
「ああ。そしてその夢を叶えるには、組織に所属するのが、一番の近道なんだ。
 それに、俺は組織の任務で、表に出てこないトレーナーと戦って、
 ポケモンリーグの頂でさえ、井の中の蛙と変わらないことを思い知った。
 俺は夢を叶えるために、誰よりも強くなるために、ここにいる」
「ふうん……その夢が何なのか、いつか、私に教えてくれる?」

俺は何も言わなかった。
サヤは期待を込めた上目遣いを脇に逸らし、不平をぶつけてくるかと思いきや、

「お話終わり。そろそろ私にポケモンバトルを教えなさい、サトシ」

まるで初めて会った時から使っていたかのような自然さで、俺の名――コードネームではない本名――を呼んだ。