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時間軸はサトシがシステムに入ってから少し経った頃
本編と比べると十四年前、マサラタウンにいるヒナタはこのときまだ二歳



白銀山を下りると、世界が変わって見えた。
価値観の変化は逆行しない。
この二ヶ月で俺が『得る』ために『失った』ものは、もう二度と俺のもとに戻ってこない。
お前はまだまだ甘い、と博士は言った。
大義名分が無ければポケモンを殺めることができないのか、と俺に尋ねた。
あのとき、俺は首肯に一拍の間を置いた。
だが今なら即答できる。今の俺にとって、『逡巡』は無価値だった。

「なあ、リザードン」

傍らに佇む翼竜の首筋を撫でてやる。
リザードンは黒い血に塗れた牙を覗かせて、淡雪の舞う天に向かって吠えた。
こちらの様子を窺っていたギャロップが、気配を殺すのも忘れて逃げていった。

「…………」

胸ポケットから、一枚の写真を取り出して眺めた。
保存状態が悪いせいでセピア調に変色したそれは、しかしその中に誰が映っているか確認するには十分だった。
俺の大切だった仲間たち。タケシ、カスミ、そして――。

「――ピカチュウ」

みんな笑ってる。無邪気に、幸福そうに笑っている。
俺は写真に両手の人差し指と親指を添えて、ゆっくりと力を込めた。
今度こそできるかと思ったができなかった。
何度もそんなことを繰り返したせいで、写真の上辺の中央は僅かに裂けていた。
いつか過去と決別しなければならない。
この写真を破いて、あるいは焼いてしまわなければならない。

それは分かっていた。
痛いほどによく分かっていた。

『ワシは今グレン島におる。一度顔を見せに来るのじゃ』

下山したことを伝えると、博士は俺にあまり興味が無さそうな声音でそう告げた。
何か他のことに気をとらわれているような、そんな印象を受けた。
一路グレン島に向かい、カツラの研究所を訪問した。
十重二十重のセキュリティを通過した先、最奥の個室に博士とカツラがいた。
二人が腰掛けたソファーセットのさらに奥では、赤髪の女が黒い犬型ポケモンを愛でていた。
顔は見えないが、恐らく初見だ。
俺の知り合いにあそこまで見事な赤髪を湛えた女はいない。

「酷い身なりじゃのう、レッドよ」

博士は公的な場では俺を組織の通名で呼ぶ。
本当の名で呼ぶのは二人きりのときだけだ。

「よくウチの人間が入所を許可したものだな。
 ポケモンリーグの英雄もこれでは形無しだ。はっはっは」

豪快に笑ったあとで、カツラは口髭を撫でつけながらこう付け加えた。

「いい経験になったろう?」
「ええ、それはもう」

石英高原のポケモンが赤子に思えるくらい、白銀山のポケモンは強力だった。
白銀山も聖蹟のひとつなのだろうか、という想像は幾度となく脳裡を過ぎったが、博士たちに尋ねたところで答えてくれるわけもない。
俺は無難に相槌を打ち、博士直属の部下として、静かに新しい命令が下されるときを待った。

「そう堅くなるな」

カツラは軽い口調で言った。が、サングラスの奥の瞳がどんな感情を宿しているのが分からない以上、迂闊に相好を崩すことはできない。
「今日はお前に、ワシの娘を紹介してやろうと思ってな。サヤ、こちらに来なさい」

部屋に入ったとき目に止まった女が反応する。
新雪を均したような白い肌、燃えるような赤髪、奥まった瞳、幼さの残る桜色の唇。
サヤと呼ばれたその女は、見惚れるほどの美人で、しかし童顔だった。

「誰?」

と清涼感のある声でサヤは父親に尋ねた。

「オーキド博士の部下の……レッドくんだ。前に話していただろう」

サヤはそこで初めて俺を直視し、その円らな双眸を嫌悪感に歪ませ、

「わたし、こんな人はいや。穢らわしい。二度とわたしの前に姿を見せないで」

そう吐き捨てるや否や俺の脇を抜けて、部屋から出て行ってしまった。
お世辞にも今の俺の容貌が清潔と言い難いのは理解できるが、穢らわしいとは辛辣な一言だ。
初対面の相手にそうそう使える言葉ではない。

「すまないな、レッドくん。サヤにはあとで叱っておくよ。今日は機嫌が悪いようだ。はっはっは」

成人した娘の礼儀知らずを言い訳するのに、機嫌の善し悪しに頼るのは無理がある。
それでだ、とカツラは強引に話題転換して言った。

「サヤにどんな印象を持ったかね」
「綺麗な人ですね。母親似のようですが」
「それはワシも大いに認めるところだ」

親馬鹿はどこにでもいる。
「サヤの容姿には、レッドくんも多々惹かれるところがあっただろう。
 あれは性格まで母親に似て少々妥協を許さない性格をしているが、慣れれば可愛いものだ」
「話の展開が見えないのですが」
「単刀直入に言おう。サヤにポケモンバトルの醍醐味を教えてやって欲しいのだ。
 時間が空いているときで構わんし、相応の報酬は用意する」

俺は数拍の間を置いて、用意した辞退の台詞を口にした。

「他のトレーナーに依頼してください。
 俺には俺の任務があります。それに何より、サヤさんの僕の心象は最悪のようですし」

実際、カツラの人脈があれば、ポケモンバトルの醍醐味を教えるのに相応しい人間はいくらでも発掘できるだろう。

「君以外ではダメなのさ。
 あの子はレッドくんと同じ適格者だ。ポケモンの扱いはランカートレーナーのそれに匹敵する。
 これは贔屓目に見てではなく、本当の話だよ」

適格者、か。親近感は生まれずとも、興味は沸く。

「彼女はどんな、」
「それはサヤの口から聞くがいい。では、お願いできるね?」
「博士……」

意見を仰ぐ。独断で決められることではない。
俺の目的は最速で組織のヒエラルヒーをのし上がること。
それが博士との約束でもあり、夢の実現に不可欠な通過点でもある。

「レッドよ、迷う必要はない。首を縦に振るのじゃ。
 この話は前々から温められてきたもので、ワシも重々承知しておる」

予定調和、か。俺は気乗りしない本心を微笑みで誤魔化しながら言った。

「了解しました」

カツラの依頼を受けてから半月が過ぎた。
その間に俺は三つの任務を達成し、その過程において十二匹のポケモンを正当防衛で殺処分した。


人は他人を評価するとき、第一印象に重きを置くと聞く。
その話が真実なら、俺が身嗜みを整えたところでサヤの好感を買うことは難しそうだが、
何もしないよりはいいだろうと思い、ヤマブキに寄り道し、適当な高級服飾店で服を見繕ってもらった。
結構な値だったが、この二年で無駄に貯まった大金の使い道としては、至極有意義なそれだと言える。
グレン島に到着すると、カツラの手配した案内人がいた。
無言で「着いてこい」とのジェスチャーを見せ、足早に歩き始める。
行き先は簡単に予想できた。そしてそれは的中した。
カツラの私邸はそれはそれは豪奢なものだった。
ジムリーダーとして、研究者として、多忙なカツラがここに滅多に帰らないことを考えると、
この家の主は実質的にカツラの娘であるサヤだということになる。ちなみにカツラの妻は既に他界している。
門扉を押し開く。既に案内人は消えていた。
気配が薄れる感じはあったが、呼び止めることもないと思い、放っておいた。

「………」

涼やかな鈴音がエントランスに響く。
現れた使用人は深々と一礼した後で、上目遣いに尋ねてきた。

「レッド様ですね?」

頷く。

「お待ちしておりました。サヤお嬢様はこちらです」

お嬢様、か。
その響きに、俺は一瞬、タマムシのエリカを思い出し、すぐに消し去った。
同じお嬢様でも、エリカとサヤは別種の人間だ。直感がそう訴えている。
館の裏手に出ると、そこはポケモンリーグの四分の三程度の広さのバトルフィールドになっていた。
そしてその中心に、腕組みをしている赤い女が佇んでいた。
初めの案内人と同じく、使用人は静かに姿を消していた。

「………………」

しばし無言で見つめ合う。
サヤは分かりやすく憤っていた。今現在の状況に。
それはまるで天敵を前にした小動物の威嚇のようで、

「この前はご挨拶でしたね」

俺は仕方なくこちらから口火を切った。

「帰って」

一蹴された。

「それはできません。依頼を受けた以上は仕事をしなければ」
「そんなの知らないわ。帰って」
「しかし、」
「帰ってって言ってるじゃない」

会話が成立しない。
人からここまで真っ直ぐに拒絶されたのは初めてで、
腹が立つよりも先に、何故サヤが面識の極浅い俺をここまで嫌っているのか、その理由が知りたくなった。

「サヤお嬢様は、私のどこがお気に召さないんでしょうか?
 教えていただければ、少しでもお嬢様の希望に添えるよう善処します」
「…………………」

途端に口をつぐむサヤ。
取り立てて嫌いなところは無いが嫌い、ということだろうか。
生理的嫌悪間を抱かれていては、俺に挽回の機会は永遠に訪れないだろう。
俺は停滞した会話を逸するべく言った。

「では、こうしましょう。
 サヤお嬢様が律儀にこのバトルフィールドで私を待っていたのも、一重にお父様の言い付けがあったから、とお察しします。
 このまま私がサヤ様の言う通りに帰ってしまえば、それはそれで困ったことになる。違いますか?」

無言の肯定。

「私もあなたのお父様から言い付かった以上は、何もせずに帰ることはできません。
 そこで、今から一度だけ、ポケモンバトルをしませんか。
 サヤ様が勝てば、私は役不足として潔くお暇します。
 私が勝てば、サヤ様には、私の教え子としての立場に立ってもらいます」

サヤは呆気にとられたように瞬きを繰り返し、
次の瞬間には、それまでの仏頂面が嘘のように、くすくすと笑い出した。

「同じことだわ」
「何が、でしょうか」
「あなたが私に勝つことなんて有り得ない。
 だから今あなたが帰るのも、ポケモンバトルに負けて帰るのも、同じ」
「私が勝つことは有り得ないことの根拠をお聞かせ願ってもよろしいでしょうか」

サヤの作り物のような唇が、見る者を小馬鹿にするような笑みを含む。

「私、今までにたくさんの上級トレーナーの相手をしてきたわ」

上級トレーナー……サヤの家庭教師を務めることを許された、栄えある俺の前任者たち、か。

「でもね、誰一人としてあたしに勝てなかった。だからあなたも例外じゃない」
ただの凡夫よ、と蔑むように吐き捨てる。
適格者は皆、自分の逸才に驕る傾向にある。
大抵はその慢心が才能を潰すことになるが、稀に慢心を抱いたまま、挫折を経験することなく成長する適格者が存在する。
一般のポケモントレーナーはおろか、元来稀少な適格者の中でも、群を抜いて優秀な能力を保持する適格者。
それがサヤだった。

「前任者と同様の凡夫か、初めての例外かどうかは、試してみなければ分かりません」
「いいわ、それじゃあ試してみる?」

閃光。ハイパーボールから解き放たれたポケモンは、
初めて俺がサヤを見たときに、傍に寄り添っていた犬型のポケモンだった。
カツラから与えられていた予備知識がここで生きる。
ダークポケモン、ヘルガー。属性は悪と炎。
特性は貰い火。敏捷性、特殊攻撃力が高く速攻型。反面、防御が薄い。
それら全てを考慮した上で、俺はボールを展開した。

「…………ふざけてるの?」

サヤはフシギバナと俺を数度見比べてから、そう言った。

「相性が悪いことは承知しています。
 しかし勝負が決するその時まで、私は一応、あなたを教える立場ですからね。
 必要なハンディキャップですよ」
「そう」

笑顔が消えた。

「わたし、こんな侮辱を受けたのは久しぶり。
 ………殺して、ヘルガー」
駆けるヘルガー。受けるフシギバナ。
距離を詰められれば勝ち目は無い。

「"葉っぱカッター"」

乱れ飛ぶ無数の刃。
あっさりと躱される。

「"蔓の鞭"」

横薙ぎに迫る鞭。
事も無げに焼き払われる。

「………」

ヘルガーの練度は相当なものと見た。レベルで言えば80は堅い。
そしてサヤはそのヘルガーを、まるで苦労している様子もなく使役している。
道理で並の上級トレーナーが太刀打ちできない訳だ。
フシギバナの目前にヘルガーが肉薄する。

「弱い。弱すぎるわ、あなた」

サヤが勝ち誇るように破顔する。

「チェックメイトよ。"火炎放射"」

この僅かな時間で、ヘルガーの強さの他に分かったことが一つある。
サヤはポケモンを殺すことに躊躇いを持っていない。
"やむを得ず殺す"のではなく、"殺したいから殺す"。
『殺して、ヘルガー』
最初の一言は誇張表現ではなかった。
サヤはポケモンを一生物として認めていない。
その事実に気がついたとき、俺はサヤが持つ能力が何なのか悟った。

「"地震"」

フシギバナが地面を踏み鳴らす。
"火炎放射"の準備動作に入っていたヘルガーが体勢を崩し、たまらず跳躍する。
予定調和の回避行動。

「"ソーラービーム"」
「躱して!」

ほぼ零距離からの量子砲を、空中で身を捩り躱すヘルガー。
その反応速度には目を瞠るものがあるが――、フシギバナの大輪は二度咲く。

「そんな――」

二発目のソーラービームがヘルガーの脇腹を直撃する。
吹き飛んだ先には、初撃の葉っぱカッターと同時に蒔いていた"寄生木の種"が芽を出していた。
蔦がヘルガーに絡みつく。がむしゃらにもがいて千切れるほど、寄生木の蔦は柔ではない。

「燃やして!」

サヤの声は悲鳴にも似ていた。

「火気厳禁ですよ、サヤ様」

ヘルガーを取り巻く"眠り粉"は、火の粉程度の熱で簡単に粉塵爆発を起こす。
結果、サヤは黙してヘルガーが深い眠りにつく様を見届けるしかない。
勝敗が決してからも、サヤは放心状態に陥ったかのように硬直を保っていた。
が、ヘルガーが荒々しい寝息を立て始めるのを聞くや否や、
それを他の誰かに聞かれるのは最上の恥とでもいうかのように猛然と駆け寄り、
揺さぶるというよりは叩くようにしてヘルガーの目を醒まさせた。
その様子を見守りながら俺は言った。

「どうやら私は例外のようですね」
「……認めない」

往生際の悪いお嬢様だ。

「私が負けるなんて、何かの間違いよ。
 そう、きっとそう。私のヘルガーは特別製。
 どんなポケモンにも負けない。負けるはずがないのよ」

終盤はほとんど独り言に近かった。

「もう一度よ」

一方的な戦闘再開は、不意打ちと言い換えても差し支えない。
最早主旨が分からなくなったこのポケモンバトルの収拾は、
サヤに俺との実力差を、自覚させることでしかつけられそうになかった。

もしもその時、俺が柔軟な思考を持ってサヤを観察していたら、「手加減」という選択肢が生まれていただろう。
サヤは想像していた以上に子供だった。俺は世間知らずのお嬢様という存在をナメていた。

五度目の勝負が決した頃、サヤの強がりは崩壊した。
具体的に言えば、両の手で顔を覆って泣き出した。

後日。初日の顛末を聞かせろとのお達しが俺に来て、俺はその通りにカツラの許に馳せ参じた。
遺伝子工学の世界的権威にして組織の最上層に位置するカツラ。
その娘を泣かせるという大失態をやらかした俺には相応の処分が下されると覚悟していたが、

「ぶわっはっはっはっは」

報告し終えた途端にカツラは腹を抱えて笑い出した。
話の内容のどこに娘を泣かされた父親が笑えるつぼがあったのか、話した俺が理解できない。
サヤ号泣後、どこからともなく現れた複数の使用人は、
割れ物を扱うようにサヤを屋内に運び、丁重な物腰で俺に「今日のところはお帰りくださいませ」と言い、消えた。
俺が報告するまでもなく、初日の顛末は使用人なりサヤ本人なりからカツラの耳に伝わっているのかと思っていたのだが。

「初耳だよ。サヤは何も話してくれなかったからな。
 聞いても無視。手紙を書いても無視。
 ワシを睨む時の目がますます母親に似てきて、ワシ、ぞくぞくしちゃったよ。
 家の者にも口止めしたみたいで、誰に聞いても教えてくれんかったし。
 レッドくんに惨敗したのがよっぽど恥ずかしかったんだな」

前から思っていたがカツラは相当の変人だ。

「それにしてもレッドくん。
 やはり君はワシの期待どおりの男だよ。
 サヤを泣かせるとは大したものだ。
 ワシなんかサヤが十歳を超えた頃から泣かされる立場さ」
「しかし、サヤ様はもう二度と私にお会いにならないでしょう」

サヤは父親の命令(お願い)に渋々従う形で、俺と対峙した。
それがあんな結果を生んだのだ。サヤは頑なに俺との再会を拒むだろう。
初日、サヤの屋敷を去るとき既に、御役御免の覚悟は出来ていた。

「まあ、慌てずにあと一、二週間ほど待ってやってくれ。
 ワシはサヤのことを誰よりもよく分かっているつもりだ。
 あの子は良くも悪くも子供なのさ。そしてあの子は元々、飛び切りの負けず嫌いなんだ」

十日後。
驚くべきことにカツラの予言は現実のものになった。
ノモセシティで任務を終えた俺を待っていたのは、配達員の格好をしたカイリューだった。
メッセンジャーを任される飛行ポケモンの中でも、カイリューは特別に確実性と迅速性を重視する場合にのみ用いられる。
俺は若干焦りつつ、グレン島を目指した。差出人の名は無かったが、誰のものかはなんとなく察しがついた。

「来たわね」

果たして門扉の前は、この前の泣き面が嘘のように、敵意を童顔に貼り付けたサヤの姿があった。
俺は業務用の当り障りのない笑顔を浮かべ、

「サヤ様、」
「敬語はやめて」
「しかし」
「やめてって言ってるじゃない。耳、聞こえないの?」

睨みつけられる。
俺の防御力ががくっと下がった。精神的に。

「分かりました。……サヤ」
「う、うぐ」

両手で自分を抱きしめ、歯ぎしりするサヤ。

「家族以外に呼び捨てにされるなんて……屈辱」
「なら元に戻そうか?」
「それもだめ」

矛盾を孕んだお嬢様だな。

「いったい俺はどうすればいい」
「あなたは敬語を使っちゃダメなの」
「どうしてだ?」
「それは、その、」

サヤは顔を右に90度そらして思い切りどもりながら言った。

「私の、せ、先生、だから」
「はあ」

ポケモンバトルを教えに来た時は開口一番に「帰れ」と言われ、
御役御免を言い渡されるのを覚悟して来れば「先生」と呼ばれ。
「意味が分からない」
「そのままの意味よ。あなたが先生、私があなたの教え子」

物凄い心変わりだな。
俺が表情に出さずに仰天していると、サヤは大真面目な瞳をこちらに向けてこう言い放った。

「あなたが例外だってこと、認めてあげる。
 だから、―――あなたに勝つ方法を教えて」


五分後。屋敷裏のバトルフィールドにて。

「それで、今から何するの?」

知的好奇心と敵愾心をごちゃまぜにしたサヤの視線が、俺の発言を促してくる。
俺は改めてカツラの言った「サヤの負けず嫌い」を思い知った。
人間、歳を重ねるにつれて、下らないプライドが正しい選択を妨げるようになる。
その点、サヤは純粋だった。カツラの娘、稀代の適格者という肩書きを捨てて、
自分を負かした相手に、その相手に勝つ方法を教えてと正面から伝える勇気を持っている。
そしてその勇気は、ポケモンバトルに負けた悔しさだけででできている。
打算なんてどこにもない。
俺は活動中の火山から立ち上る煤煙を見上げながら言った。

「今日は話だけにしよう」
「?」

ハイパーボールのスイッチを押し掛けていたサヤの指が止まる。

「お話だけ? 初めに言っておくけど、退屈なのはイヤよ」
「お前な、」
「今、私に向かってお前って言ったわね。私にはお母様から名付けられたサヤという名前が――」

くそ、話が前に進まない。

「サヤ。これはサヤが俺に勝つために必要な話なんだ」
「ふうん、ならさっさと始めて」

俺はサヤが殊勝な教え子になることはこの先も有り得ないだろうな、と諦観しつつ言った。

「これは俺の想像だが、多分、サヤはポケモンを無条件で手懐けることができるんじゃないか」
「ど、どうしてそれが分かったの?」
「サヤのヘルガーは強力すぎた」

ヘルガーを幼年期、つまりデルビルの頃から厳しい環境で育てていたなら別だが、
サヤのようなお嬢様にそんな忍耐力を要することができるとは思えない。
つまりあのヘルガーは、誰かから――恐らくは組織の研究機関から――譲渡されたもので、
成体の獰猛なポケモンを子犬のように服従させる、それこそがサヤの能力なのではないか、と俺は推測したのだ。
「そうよ。その通りよ。
 私はどんなに凶暴なポケモンでも、服従させることができるの。
 厳密に言えば、身体を撫でる必要があるけれど」

サヤはハイパーボールを眺めながら言う。

「このヘルガーだって、薬のせいで暴走して、誰にも手がつけられなくて、
 殺処分されそうになっていたところを私が引き取ってあげたのよ」
「危なくないのか」
「ポケモンが危ない? あなた、頭大丈夫?
 私がポケモンに危害を加えられることなんて、天地がひっくり返ってもありえないわ」
「……大した自信だな」
「事実ですもの。ポケモンは絶対にあたしを裏切らないわ」
「だから、ポケモンに愛情も生まれないんだ」

愛情、と言葉の感触を確かめるように呟くサヤに、俺は言った。

「サヤ。そのヘルガーは、サヤの何匹目のポケモンなんだ?」
「忘れたわ。何度も何度も弱いポケモンと取り替えっこして、やっと手に入れたのがこの子だったから。
 でも、あなたに負けちゃったからこの子もダメね。新しいのに交換しなきゃ」

慄然とした。サヤの言葉の内容にではなく、それを語るサヤのあまりにも淡泊とした態度に。

「サヤはポケモンのことを何だと思ってるんだ?」
「道具よ。私の言う通りに動く便利な道具」
「………二度とそんなことを言うな」
「なっ、なによ。あなた、私に命令するつもり?」

語気を強める。

「分かったか」
「わ、分かったわよ」
「いいか、今からヘルガーは、サヤの唯一無二のパートナーだ。
 ヘルガーの身の回りの世話や、コミュニケーションは、サヤ一人だけで精一杯やるんだ。いきなり上手くできなくても、それは別に問題じゃない」
「そんなことで本当にあなたに勝てるようになるの?」
「さあな。でも、サヤがポケモンを都合のいい道具だと思っている限り、
 サヤが今以上ポケモンバトルで強くなれないのは確かだ」
「変なの。私とヘルガーの意思疎通は完璧よ。
 今更普通のペットのように扱ったところで、何も変わらないと思うわ」
「それでも意味はあるんだ」

擬似的な信頼関係でもいい。
今の使役する者と使役される者の関係よりは、ずっといい。

「……………」

サヤはしばらく無言でハイパーボールを見つめ、

「えい」

不意にヘルガーを召喚した。
地獄の底から響くような、という形容が良く似合う唸り声が響く。
その矛先は当然、俺だ。

「待って、ヘルガー」

屈強な男が数人がかりでも抑えつけられないような漆黒の巨体を、サヤは手の平で軽く撫でるだけで平服させる。

「この人は今日から私の先生なんだから、殺しちゃだめよ」
「何をするつもりだ?」

俺の問いかけを無視し、サヤは実に繊細な手つきでヘルガーの頭を撫でた。
それは一見、長い年月を共に過ごした、トレーナーとポケモンの触れ合いだった。

「………あなたにはこれがどう見える?
 普通のコミュニケーションのように見えない?」
「あ、ああ」

俺が初めてサヤを見た時も、サヤはヘルガーを愛でているように見えた。

「でもね、本当はこれ、全然そういうのじゃないの。
 こうして定期的に撫でてあげないと、この子、暴走しちゃうのよ。
 あなたはヘルガーとパートナーになれと言ったけど、あなたの理想どおりの関係になるのは難しそう」

そういうサヤの口元が、ほんの少し、寂しげに見えたのは気のせいだろうか。

「なんてね。あなたに言われたからには、やってやるわよ。
 ヘルガーの身の回りの世話をして、出来るだけ一緒に過ごすようにする。
 それだけであなたに勝てるようになるんでしょ?」
「いや、勝てるとは言ってないが……って、聞いてないな」

サヤは早速「うりうり」とヘルガーの首を撫で回し始めていた。
「くぅん?」と主の変貌ぶりに戸惑いを隠せないヘルガーは、対照的で見ていて面白かった。
「慣れないことをすると疲れるわ」
「一番疲れているのはヘルガーだと思うが」
「この子は大丈夫よ。タフだから」

サヤはそう言ったものの、無理矢理なスキンシップに付き合わされたヘルガーは、
ハァハァと舌を出して体温を下げることに汲々としていた。
俺は言った。

「そろそろ行くよ」
「え、もう終わりなの? 本当にお話だけ?」
「元々、グレン島に寄る予定は無かったんだ。
 多分今頃、オーキド博士が俺の報告を首を長くして待ってる」

リザードンを召喚する。背中に跨ってサヤを見下ろすと、サヤは唖然とした顔でこちらを見上げていた。

「ねえ、あなたって本当の本当に……」

続く言葉を呑込み、

「次も、また私から連絡するわ。その時は今日みたいにすぐに来ること。いい?」
「任務中でなければ、な」

俺はリザードンに方角を命令しかけて、ここに来てからずっと言いそびれていたことを口にした。

「この前は悪かった。あそこまで追い詰める必要はなかったのに、」
「何のこと?」
「だから、この前サヤとポケモンバトルをして、つい力が入ってしまって、結果的に、」
「……何のことを言っているの?」

射殺すような目で睨まれた。どうやらあの日の涙は「無かったこと」になっているらしい。
だから、こっちも忘れることにした。

「何でもない」

俺は改めてリザードンの首に掴まり、セキエイに飛んだ。