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サトシは変わった。
マサラタウンを出た頃の彼には夢があった。
各地のジムを回り、バッジを集めて、憧れのポケモンマスターになること。
どんなに辛いことがあっても、どんなに不安に押しつぶされそうになっても、
彼は諦めたりしなかった。苦境を笑い飛ばし、旅で得た仲間と共に幾多もの壁を乗り越えていった。

――そして彼は、夢を叶えた。

僕はそれを心から祝福した。
何故なら僕は、彼の努力を誰よりも間近で見ていたから。
僕は彼の初めてのポケモンだった。
ポケモン図鑑には、ピカチュウ、とカテゴライズされている。
相対レベルは97。
彼の持つポケモンの中で、単純戦闘能力においては、僕の右に出る者はない。
僕は彼のパートナーにして、最も強いポケモンだった。

前チャンピオンの最後のポケモンに、とどめを刺したのもこの僕だ。
サトシは僕に「かみなり」を指示した。その時既に、相手ポケモンが瀕死状態であったにも関わらず、だ。
しかし僕は、彼の指示を疑わなかった。これまでもそうだったから。
僕は頬の電気袋に、ありったけのエネルギーを集中させた。
そして雷雲を別つほどのかみなりを落とした……。

今から思えば、サトシはあのとき既に、ポケモントレーナーとしての道を踏み外していたのかもしれない。
僕がかみなりを落としたポケモン――レベル91のギャラドス――は死んだ。

あそこまでする必要があったのか。

そう問いかけることができないまま、時が過ぎた。
彼は零落れていった。夢を叶え、原動力を失った彼から、純粋な笑みは消えてしまった。
そして、僕は彼に捨てられた。ある時、僕が彼の指示に従わなかったことが原因だと思う――。


「おい。俺の言うことが聞けねぇのかよ。
 ピカチュウ、10万ボルトだ、あいつに10万ボルトを浴びせろって言ってるんだ」
「チュウ………」
「どうしてためらう?
 お前は俺のポケモンだろ? 反抗するんじゃねえよ!」
「チュウ、チュチュウ」

僕は首を横に振った。彼はベルトからボールを取り外した。
褪せた、瑕だらけのモンスターボール。

「言うことが聞けないんなら、お前に用はない」

僕はボールに戻された。
内側から様子を窺う。サトシは、僕の知らないポケモンを繰り出していた。
四足歩行の、頭に葉をつけた可愛らしいポケモンだ。
既視感に襲われる。フシギダネ? いや違う、あれはフシギダネなんかじゃない。

その後、その僕の知らないポケモンは一瞬で相手ポケモンを切り刻んだ。
鋭い葉っぱカッターだった。小回りの効かないギャラドスに、全てを躱すことはできない。

「………チュウ」

僕が攻撃をためらったのは、ポケモンリーグ決勝戦で殺してしまった、ギャラドスのことを思い出したからだ。
もちろんサトシはあの時のことなんて、少しも憶えていないだろう。だからさっきも、惨い指示を出した。
でも、僕はあの時のことを憶えている。だからさっきは、その指示を受け入れられなかった。


サトシは圧倒的な試合を望んだ。
完膚無きまでに相手ポケモンを叩き潰し、戦意を喪失させる勝利を望んだ。
それは僕から見れば、ただの娯楽だった。
若い芽を摘み、ずっとポケモンマスターの座に君臨していたいが故の、傲慢だった。

僕はだんだん、ポケモンバトルに使われなくなっていった。
久しぶりに出されたと思えば、僕以外のポケモンが全滅している状態であったり、
他のポケモンが太刀打ちできない状態であったりと、
できれば僕の力を借りたくないというのが、ありありと伺える扱いだった。

「やれよ。頼む、ここで負けたら終わりなんだ。力を貸してくれ」
「………チュウ」

僕は、ただ勝利のための道具として扱われていると知りながらも、サトシに力を貸した。
どんなポケモンも僕には追いつけない。
相性はすでに関係なかった。
僕の10ボルトで気絶しないポケモンはいないし、僕のかみなりは岩ポケモンさえ貫いた。
何故僕が彼に力を貸したのか?
その理由は解らない。
否、もしかしたら僕は、信じていたのかもしれない。
サトシが考えを改め、また、少年の頃の純真無垢な心を取り戻してくれることを。


別れは突然だった。



サトシと心が通じ合わなくなって、三ヶ月ほどした、ある夜のことだ。
僕は前触れもなくモンスターボールから出された。
僕は眠っていたが、すぐに感覚を研ぎ澄まし、戦闘に備えた。

「そう警戒するでない。お前を呼び出したのは、ワシじゃ」

そこにいたのは、屈強なポケモンでも、疎ましそうに僕を見るサトシでもなく、オーキド博士だった。
実に5年ぶりの再会となる彼は、当然のことだが老いていた。

「チュウ……?」
「どうしてサトシくんがいないのか、不思議と見えるな。
 サトシくんはのう、旅立ってしまったのじゃ。こんなことを言うのは辛いが……解ってくれるかの。
 ピカチュウ、君は置いていかれたんじゃよ」

サトシと旅をするうちに、いつしか僕は人語を解していた。
どうして――?
僕の心が通じたのか、オーキド博士は僕から目を反らして、語った。

「どうしてかは解らん。詳しいことはワシも知らんのじゃ。
 しかしサトシくんは、何か新しい目標を見つけたようじゃった。
 こことは違う地方に向かう、ということだけ教えてくれたが、それ以外のことは……」

博士の言葉はもう、僕の耳に届いていなかった。
僕は耳を両手で押さえ、今にも駆け出そうとしている自分を、この場に押し留めなければならなかった。




サトシと僕は一心同体だった。
たとえ考え方が違ってしまったとしても、いつか元通りになると信じていた。
なのに――

「チュウ!」
「ワシも悲しいんじゃよ。あまりにも突然のことだったんじゃ。
 この研究所を訪れ、君のモンスターボールを置いて、サトシくんは行ってしまった。
 カスミくんに、きちんとした別れも告げずにのう。
 結局、彼女はサトシくんに言えなかったじゃろうなあ」

僕は博士を見上げた。カスミが、サトシに言えなかったこと?
博士は僕を見下ろして、

「カスミくんは身ごもっていたんじゃよ。サトシくんとの子じゃ」

喉の奥で転がすように、ゆっくりと語り始めた。



「サトシくんとカスミくんが婚約を交わしたのは、
 確か旅の途中、それもかなり終盤の方だったと聞いておる」

オーキド博士は手持ち無沙汰そうに、書架から一冊の文献を取り出し眺める。
しかし彼の瞳の焦点がどこにも合っていないことは、明らかだった。

「おそらく、サトシくんがポケモンマスターになった祝福も兼ねて、式が挙げられる予定だったのじゃろう。
 しかし、式は先送りにされたのじゃ。
 婚約を継続したまま、籍を入れずに、カスミくんを待たせたのじゃ。
 そして今日、彼は、カスミくんをこの町に残したまま行ってしまった。
 サトシくんが子供のことを知っていたのなら、結果は変わっていたかもしれんのう」

全身が戦慄くのを感じた。サトシとカスミが交際していたことは、旅の途中に察していた。
だから、途中でカスミが旅から抜ける、と言ったときも、僕は心中で、

『ハナダシティかマサラタウンで、サトシの帰りを待つのだろう』

と思っていたのだ。それが、婚約した上に、身籠もらせていただなんて。

「チュウ、チュチュウ!」

僕は博士を見た。睨み付けた、といった方が正しいかもしれない。博士は察してくれた。

「カスミくんはマサラタウンの、サトシくんの実家におるよ。
 しかし、今はそっとしておいた方がよいじゃろう。彼女もついさっき、サトシくんの失踪を告げられたばかりなのじゃ。
 彼女にはこの先、苦境が待ち受けているじゃろう。まったく、不憫でならんのう」

僕は電光石火の如く、駆け出した。

「どうしたんじゃ、ピカチュウ!」


サトシの家の場所は憶えていた。
僕は遠目に窺うのももどかしく、庭に飛び込んでいった。
庭に面した窓にはカーテンが敷かれていたが、その隙間から、僕は机に伏しているカスミの姿を認めた。

「チュウ!」

どうか気づいて。窓を叩く。

「チュウ、チュウー!」

お願い、カスミ。僕に気づいて――。

「ピカ……チュウ……?」

のろのろと窓に歩み寄り、カーテンを引いた彼女は、
まるで幻を視るみたいに、僕を眺めていた。目は腫れているし、声だってかすれている。
僕は泣きそうになった。それよりも先に、彼女に抱き竦められた。

「ピカチュウ、うっ、うう、ピカ、チュウ、あたしね、あたし、サトシに捨てられちゃったの……!!」

知ってるよ。僕も捨てられたんだ。

「……チュウ……」

このときほど、人語を話せないことを悔やんだことはない。
僕は彼女の心を理解していた。彼女の腕の中で、そのぬくもりを感じながら、
僕の体は、もう一つのぬくもりも感じていた。彼女のおなかの中では、確かにもう一つの生命が息づいているのだ。

サトシ、僕はあなたが解らない。
どうしてカスミを捨てたりしたんだ。彼女はおなかの子供と一緒に、あなたとの幸せな生活を夢見ていたのに。




オーキド博士の言葉が、耳許でリフレインする。

――彼女にはこの先、苦境が待ち受けているじゃろう――

僕は、次第にある感情が膨れていくのを感じていた。
同情でも哀れみでも慈しみでもない。それは、カスミを、この先訪れる苦難から守ってあげたい、という気持ちだった。
所詮僕はポケモンで、サトシの代わりにはなれないけど、
カスミの傷ついた心を癒すことは、僕にだってできるはず。

僕は彼女の嗚咽が止まるまで、彼女の傍にいた。
マサラタウンの夜は、静かに更けていった。



――それから、十数年の月日が流れた。




その日も僕は庭で、日向ぼっこをしていた。
マサラタウンの四季豊かな気候の影響を素直に受けて、庭は鮮やかな緑で満ちている。
彼女が旅立とうとしている今日この日でさえ、マサラタウンは変わらず穏やかだった。

「ピカチュウ」

優しい声に振り返る。

「あの子を呼んできてくれないかしら。
 支度にやけに時間がかかっているみたいだから」


僕が階段に向かうと、彼女はちょうど二階から下りかけているところだった。

「チュウッ!」
「ごめんね、ピカチュウ。
 出発前に荷物の確認してたら、増やしたり削ったりして時間かかっちゃった」

亜麻色の髪に、目鼻の整った顔立ち、
元気溌剌な、しかしほんの少し緊張を滲ませた声の持ち主は、

「ヒナタ、いつまで手間取ってるのよ」
「ごめんなさい。だって忘れ物ないか気になっちゃったんだもん」

今は良き母親であるカスミの一人娘、ヒナタである。
今日はヒナタの旅立ちの日だ。
かつてサトシが、ポケモンマスターを目指したように、彼女もこの町を巣立っていく。



玄関先で、僕とカスミは、ヒナタと向かい合った。

「元気でね、辛いときはいつでも電話するのよ」
「大丈夫だよ、ママ。だってわたしにはピカチュウがいるもの」
「そうね……」

カスミの瞳が、一瞬翳ったのを、僕は見逃さなかった。
彼女にとってこの儀式は、娘との別れでもあると同時に、サトシを強く思い出す行為でもある。
カスミは褪せて瑕だらけのモンスターボールを、ヒナタに手渡した。

「これがピカチュウのモンスターボールよ。
 ヒナタに見せるのは、これが初めてかしら」

カスミはこの十数年、いつだって僕をボールに入れたりしなかった。

「ボロボロだぁ……。でも、これがお父さんの使っていたモンスターボールなんだよね」
「そうよ。ピカチュウは、あなたのお父さんが初めて仲間にしたポケモンなの」

サトシとの思い出がいくつも浮かび上がってくるのを、再び、記憶の底に沈める。
僕のマスターは、たった今から、ヒナタに変わるのだ。


ヒナタは僕が、以前ポケモンリーグを制覇し、殿堂入りしたポケモンである事実を知らされていない。
ただ、昔に両親と旅を共にしていたポケモン、という認識だ。
僕は初め、ヒナタの旅に同行するつもりはなかった。

僕はイレギュラーだ。
バッジがないと抑制できないレベルでありながら、ヒナタの命令に従う。
彼女のポケモン図鑑(ポケモン図鑑は今や世界中に普及している)で計測した僕の経験値、相対レベルは、
博士の改造によって、大幅に弱体化したものが表示されるようになっている。
つまり僕は、実力を隠してヒナタに同行するのだ。

カスミは、旅立ちの前日の夜、僕に語りかけた。

「あの子がいくら今まで普通の暮らしをしてきたとしても、
 ポケモントレーナーとして世に出たからには、あの子の出生の秘密を知る者が現れると思うわ。
 そいつがあの子に協力的か、非協力的かは、わたしには知る術がない。
 だから、ピカチュウ、あなたがヒナタを守ってあげて欲しいの」

僕は少しだけ悩んでから、

「チュ!」

カスミの胸元に飛びついた。

「ありがとう、ピカチュウ」

これまで僕は、カスミを守るために生きてきた。
今度は、守る対象が彼女の娘になっただけの話だ。




それは、些末な差でしかない。

「それじゃ、ママ、おばあちゃん、行ってくるね」

サトシの母――つまりヒナタのおばあちゃん――は、四年前に他界している。
悲しみに暮れるカスミを支え、ヒナタを愛した、本当に優しい人だった。

「行ってらっしゃい。夢を叶えるまで……帰ってきちゃだめだからね」
「うんっ」

僕はカスミの足下から、ヒナタのもとへ駆け寄った。
玄関の前で、僕はカスミと視線を交わした。
カスミとの別れに、大袈裟な抱擁などは必要なかった。すべて、通じ合っていたから。

ヒナタは歩き出す。一度だって振り返ったりしなかった。
そしてさっき手渡された僕のモンスターボールをベルトに戻し、僕を抱き上げてこう言った。

「お父さんは、ピカチュウをモンスターボールに入れずに、一緒に歩いて旅をしていたのよね。
 だからあたしも真似するわ。それになんだか、ボールの中って窮屈そうだし」

ふふ、と彼女は微笑んで、僕を再び地面に降ろす。
僕はこれまでにないほど強く、ヒナタと、サトシと、カスミの血の繋がりを実感した。
それは嬉しいことでもあり。
同時に、哀しいことでもあった。そんな僕の気持ちも知らず、ヒナタは無邪気に、まるで謳うように言った。

「ねぇピカチュウ、知ってる?
 お父さんのいるジョウト地方にはね、あたしが見たことも聞いたこともないようなポケモンがいるんだって―――」

第一章 終わり