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第二十二章 上」(2010/11/21 (日) 20:47:02) の最新版変更点

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シルフカンパニー内で管理者を捕獲すると聞いた時、僕は初めそれは不可能だと思った。 管理者には最高の護衛がついているだろうし、その護衛は最高のポケモンを連れているだろう。 対するサカキは身分を騙りレセプションに参加することはできても、ポケモンを連れ込むことはできない。 その差はあまりに大きすぎる。 しかし現実にサカキは、捕物は可能だと断言した。 僕は彼が得意の知略を巡らせて、秘密裏にポケモンを持ち込むつもりなのだろうと想像した。 それが蓋を開けてみればどうだ。 サカキは特別な手法をとったわけではなかった。 自分が公にポケモンを持ち込めないのなら、公にポケモンを持ち込める人間に協力を仰げばいい。 そんな単純な考えを、実行に移しただけだった。 「静粛に」 元より、場内は静寂と暗闇に包まれていた。 パニックに陥った女の泣き声も、正義感に駆られた男の怒鳴り声も、随分前に失われていた。 夜目を利かせれば、それらが失われた理由が分かる。 会場に円形の空間が生まれている。 その中心にいるのは杖を突いたサカキと恰幅の良い二人の紳士。 三人の間に漂うものが穏やかな雰囲気ではないことは一目瞭然だった。 サカキのスピアーが両手の針を二人の喉元に突き付けているからだ。 そして、その空間を守るように立ち塞がっているのが、二人のジムリーダーと一人の四天王だった。 アヤメ。 マチス。 キョウ。 その三人の実力者を前に、警備員は余りに無力だった。 増援が来る気配はない。アヤメのパルシェンが張ったのだろう、扉を覆う厚い氷は、部外者の侵入を堅く閉ざしていた。 ハギノを含むシステムの人間も、事態の収拾に乗り出すのを躊躇っているようだった。 何故か? 僕は自問自答する。 あの恰幅の良い二人の紳士のうち一人が、システムの最高責任者だからだ。 「まあまあ、落ち着きたまえ」 喉元に凶器を突き付けられたまま、左の紳士が諭すように言った。 歳は四十代半ば、黒く艶のある髪を整え、豊富に顎髭を蓄えた、精悍な顔つきの男だ。 「あー、君たちは、自分が何をしているのか理解しているのかね?」 「犯罪行為だ」 サカキがにべもなく答える。 「その通り、これは立派なポケモン犯罪だ。  シルフカンパニーに停電を引き起こし、レセプションを台無しにし、  罪のない参加者を混乱に陥れ、現在進行形で私と彼を脅迫している」 「冷静な状況把握ですな」 「君たちが働いた罪を挙げれば枚挙に暇がないが、  最も嘆かわしいのは首謀者であるらしい君に、ポケモントレーナーの象徴たるジムリーダーと四天王が幇助しているという事実だ。  ……いったいこれはどういうことなのかね?」 アヤメ、マチス、キョウの三人は沈黙を貫いた。 僕はその男の言葉に同意だった。 この事件は世間に大きく報道されることになるだろう。 そうなれば、マチス、アヤメ、キョウが築き上げてきた地位と名誉は、永遠に喪われてしまう。 彼らはそれを覚悟でこの場にやってきているというのか。 全てを擲つ覚悟でサカキに従っているというのか。 そもそも、サカキはどうやってこの三人を説得したというんだ。 サカキは言った。 「建設的な話がしたい」 「犯罪者と話すことなど無いよ」 左の紳士が薄く笑う。 死と隣り合わせの状況下で、この余裕は異常だ。 やはりこの男が管理者なのか? 「拒否権は無い。喉に風穴を空けたくなくば、質問に答えることだ」 サカキは短く尋ねた。 「お前は誰だ? お前の付き添い人であるこの男は何者だ?」 「私はこのレセプションに招待された成金の一人だよ。彼は私の旧くからの友人だ」 それからその紳士は自分と右の男の経歴を簡単に述べ、 「なぜ私や彼が君たちに狙われなければならないのか、理解に苦しむ」 わざとらしい痛切な面持ちで締めくくった。右の男は一言も口を開かなかった。 サカキは静かに言った。 「誰が与太話を披露しろと言った」 「私は真実を話した。今の話の、どこが不満だと言うのかね?」 「全てだ。貴様らの"偽"の経歴など、聞かされるまでもなく調べ上げてある。  貴様らだけではない。この会場にいる人間全ての経歴は、私の掌中にある。  誰がシステムの人間で、誰がそうでないのかも分かっている」 サカキはマサキが先端科学技術研究所副所長であると同時に、システムの研究員であることを見抜いていた。 接触は諦めていたようだが、サカキは誰が表と裏の顔を使い分けているのか、知り尽くしていたのだろう。 裏の顔を持つ人物が、システムでどれ程の地位に就いているのかも。 「――だが、唯一貴様らの経歴には実体がなかった。  貴様らはデータ上では、表社会にも裏社会にも、存在していないのだ」 「それで? それがどうかしたのかね?」 紳士は開き直ったように言った。 「私と彼が架空の存在だとして、それが何の証明になるというのだ?」 「貴様かその男のどちらかが、管理者であるという証明だ。  消去法によるものだが、こうして貴様等が浮上したのだ、賭ける価値はあった」 「システムだの、管理者だの、さっきから君が何を言っているのか、私には皆目見当がつかないよ。  君は何か性質の悪い妄想にとりつかれているようだ」 不敵な笑み。 右の男が身じろぎする。 その次の瞬間、壇上にいた黒服が叫んだ。 「動くなッ!」 スピア―の真横に3体のスリーパーが出現する。 だが、そこまでだった。 一体は氷の塊と化し、一体は白い繭となり、一体は雷に打たれたように煙を上げて倒れた。 奇襲は完全な失敗に終わった。レベルが違いすぎたのだ。 「惨いことを」 左の紳士が呟く。 「貴様の人望がそうさせたのだろう?  親切心で忠告しておくが、"テレポート"で離脱しようなどとは考えないことだ。  地下の脱出用通路にも二ビシティのジムリーダーを待機させてある。貴様らに逃げ場はない」 サカキは瀕死のスリーパーを一瞥して言った。 「着いてきてもらおう」 閃光。サイドンが現れる。 鋼の皮膚。屈強な肉体。 額から生えた一角は、荒々しく研磨された鉄鋼のように鈍く光っている。 サイドンは重い足音を響かせながら閉ざされた扉に近づき、角の一突きで厚い氷を粉砕した。 サカキが歩き出す。管理者と思しき紳士と隣の男がそれに続く。 包囲網は保たれたまま、二人の喉にはスピアーの針が突き付けられたままだ。 僕は彼らを追うためにダクトを進みながら、さっき感じた違和感を反芻した。 スリーパーが"テレポート"で奇襲をかけた際、右の無口な男は、スリーパーが"現れるより"早く反応を見せた。 あれは偶然だったのだろうか? それとも――。 廊下の天井を通るダクトに進む。 格子から下の様子を窺うと、サカキ一行はエレベーターに向かっていた。 電力供給が絶たれたシルフカンパニーで、唯一そのエレベーターの電力だけが生きていた。 デプログラムはシルフカンパニーを停電させることが目的ではない。シルフカンパニーのオートメーションシステムを掌握することが目的である。 数多の警備員が隙あらば襲いかかろうとしていたが、アヤメ、マチス、キョウの布陣に隙は無かった。 スピアーを除くポケモンを外に待機させたままエレベーターに乗り込み、扉が閉まる瞬間にボールに格納する。 2Fでの制圧を諦めた警備員が隣のエレベーターを呼ぶが、誰が使っているのだろう、そのエレベーターは上昇し始めていた。 「エレベーターを止めろ」 「電気系統がイカれてるんだ」 「復旧の目処は?」 「まだ経っていない」 「他のエレベーターは?」 「全て停止している」 「階段を使うしかないのか……」 「防火壁が降りて階段も使えなくなっている。  これからポケモンを使って破砕作業に取りかかるらしい」 「上階の奴らに連絡は?」 「したが、やはり防火壁に阻まれて身動きがとれないらしい」 「警備をこの階に集中させたばかりに……」 警備員の話からするに、サカキの作戦は概ね順調に進行していると考えていいだろう。 エレベーターの現在位置を示す光が一番上で止まる。 防火壁の破砕は意外に早く終わった。階段に警備員が雪崩れ込む。 2Fに残ったシルフカンパニーの人間は、会場の反対側の扉から逃げようとする参加者の整理に躍起になっている。 僕はそっと格子を外し、薄闇の中に降り立った。 破砕口に歩を進めかけ、 「止まれ」 振り返る。懐かしい人物がそこにいた。 やあハギノ。久しぶりだね。どうしたのかな、こんなところで。 てっきり君も管理者を救い出すために、この先の階段を駆けずり回っている頃かと思っていたんだが。 「何故君がここにいるのかは問わない。  あのサカキという先の無い老人の手駒となったか、  或いは自らここに赴いたのか、私には興味がない。  正直なところ、私はただ純粋に、驚いているんだよ。  なぜならピカチュウ、君はとっくに死んでいるものだと思っていたのでね」 勝手に殺されては困る。 「こうして再会できたことにも何かの縁を感じる。  だが、死に損ないの君を逃がしてやりたい気持ちも山々だが、  見つけてしまった以上は、私は責任を全うしなければならないのだよ。  君が大人しく掴まるようなポケモンでないことは熟知しているつもりだ」 君が僕の何を知っているというんだ。 「ここで私と出会ったのが、君の運の尽きだったな」 ハギノは贅沢にも三つのボールを展開した。 薄闇が晴れるとそこには、イーブイから派生する三体のポケモンが並んでいた。 ブースター。サンダース。エーフィ。 シャワーズがいないのは相性が悪いからだろうか。 僕は強さを見定め、やはりハイパーボールに仕舞われていたブースターが厄介だろうな、と結論を出した。 「行け」 ハギノの言葉を待たず三体が飛び出す。 電気技を使うことの躊躇いは消えていた。 頬が痛む。――だから何だ。 絶縁体の生成が追いつかない。――だから何だ。 僕の体が自壊する。――だからどうしたというんだ? ハギノ、僕は君なんかに構っている暇はないんだよ。 自分の感覚に嘘はつけない。会場であの男を見た時に感じた懐かしさを、誤魔化すことはできない。 僕は彼のところへ行かなければならない。 会ってどうするかなんて考えていない。でも、僕は行かなくちゃならないんだ。 ---- 「な、なんなのよコレ! いったいどうなってんの!?」 カエデが悲鳴にも似た声を出した。 エレベーターで屋上から数階下のフロアに辿り着いたあたしたちが見たもの、 それは抵抗する時間も与えられずに戦闘不能に追い込まれたポケモンと、気絶した警邏の数々だった。 屋上に向かうには、このフロアの階段を上る必要がある。 そしてそこを阻むように降りていたらしい防火壁は、今では木っ端微塵に砕かれて瓦礫と化していた。 「すげえな……並の壊れ方じゃねえ。一撃で破壊されてる。  誰かが俺たちよりも先に屋上に行ってると考えて、まず間違いねえだろうな」 「ね、ヒナタ。本当に行くの?」 「ここまで来て、引き返してどうするのよ」 「屋上にいるのは、あの分厚い防火壁を一撃で壊しちゃうようなポケモンの持ち主なのよ?」 あたしはカエデの答えを知りながら言ってみた。 「カエデはここで待っててもいいわよ?」 「や、やだ。あたしも行く」 防火壁を乗り越えて階段に進むと、緩い風が吹いていた。 下を覗き込む。底がみえない。まるで奈落のようだった。 「やっぱり、先客は屋上にいるみたいだ」 階段の踊り場に倒れた警邏を見て、タイチが言った。 階段を上る。緊張が増していく。果たして屋上に通じる扉は、半開きになっていた。 「いいわね?」 カエデとタイチが頷く。あたしは深呼吸してから、扉を完全に押し開いた。 目は屋内にいた時から暗闇に慣れていた。 この近くにシルフカンパニーを超える高さのビルはなく、 下界のビルが放つ光が屋上の縁から溢れて、まるで光の海に浮かんだ孤島に立っているような錯覚がした。 見渡す限り、人影は無い。ただ、目の前の階段を上った先のヘリポートには、複数の人の気配がした。 姿勢を低くしながら、そろりと階段に足をかける。 ヘリポートの様子を窺えるギリギリのところまで、顔を出す。 そこに広がる光景に、あたしは呼吸をすることを忘れてしまった。 「そんな……どうしてママが……」 掠れた声でカエデが呟く。 あたしたちの視線の先には、アヤメ叔母さんがいた。 その隣にはクチバシティジムリーダーのマチス、現四天王の一角であるキョウがいて、 三人とも円を描くようにそれぞれのポケモンを配置させている。 そしてその中心にいるのが、杖を突いた年老いた男と、その男のポケモンらしいスピアーに針を突き付けられた、二人の紳士だった。 片方は不気味な笑顔をあたりに振りまき、もう片方は顔を伏せていて、表情が伺えない。 ふいに、鼓動が早くなる。 言葉では説明できない熱い何かが、胸の奥から込み上げてくる。 屋上に、ピカチュウはいなかった。 あたしが目にしたのは不可解極まりない光景だった。 なのに、どうしてあたしはこんなに、胸がどきどきしているんだろう? 杖突の老人が腕時計を見ながら言った。 「間もなくだ」 不気味な笑顔の紳士が言った。 「何が予定されているかね?」 「ちょっとした小旅行だ。  カイリューの背に乗って空を飛んだことは?」 「ある。最悪な乗り心地だったがね。  彼らはまるで搭乗者のことなど考えていない。  初めて乗ったときは二度と乗るものかと決心したほどだ」 「ほう。ならば私の采配は失敗だったな」 ごうっ、と大気を唸らせて、大きな影がヘリポートに着陸する。 「ウォフー」 大きな影――カイリューは――穏やかな鳴き声と共に姿勢を低くした。 「乗れ」 「どこへ連れて行こうというのかね?」 「それは貴様らが与り知るところではない」 「やれやれ」 「仲間の追跡には期待しないことだ。  このカイリューは指折りのドラゴンポケモンでね、単純な飛行速度で右に出る者はいないのだよ」 紳士は少し考える素振りを見せてから言った。 「素敵な小旅行を企画してくれた君には悪いが、辞退させてもらうとしよう」 言葉はその紳士が口にするには、あまりに不相応だった。 最強格のトレーナーと、最強格のポケモンに囲まれて、 しかもその喉元には、鋭い針が食い込んでいる。 絶体絶命を絵に描いたような状況。 一陣の風が吹き抜ける。 老人は言った。 「同じことを何度も言わせるな。貴様に拒否権はない」 紳士は高らかに言った。 「同じことを何度も言わせるな。私は二度とカイリューに乗る気はないのだよ。  さて、もういいだろう。――カーテンコールだ」 戦慄が走る。次の瞬間、様々なことが同時に起こった。 青い電流が暗闇を払う。誰かが倒れ、呻き声が上がる。 少し離れたところで、吹き飛んだ何かが地面に叩きつけられる音がする。 状況が膠着したとき、趨勢は二人の紳士の圧倒的不利から、五分五分にまで覆っていた。 「マチス……貴様……ッ!」 右膝から下を失った老人が、エレブーに顔を地面に押しつけられながら、怨嗟の籠もった声で言った。 血は出ていなかった。さっきどこかに転がったのは、義足だったのかもしれない。 「よもや、貴様が裏切るとは……いつからシステムに寝返っていた………?」 パルシェンの鋭利な殻を喉に突き付けられ、口を開くこともままならないマチスの代わりに、 不気味な笑顔をより一層深くした紳士が答えた。 「初めからだ。彼は私の腹心であり、君の行動を監視するスパイだったのだよ。  ジムリーダー同士には妙な仲間意識がある。  ロケット団の元首領であるサカキも、かつてはトキワシティのジムリーダーだ。  システムに対して行動を起こすとき、その繋がりを利用することは想像に難くなかった」 「カントー発電所占拠事件のときに疑いを持つべきだったか……。  思えばマチス、貴様がシステムの雑兵如きに遅れをとるわけがなかったのだ」 紳士は愉快げに笑った。 「聞いたかね、マチスくん。彼は君のことをかなり高く評価していたようだよ。  その分、裏切られたショックは相当なものだろうと察するがね」 思い返せば、不可解な点はいくつかあった。 例えばマチスは発電所を奪還できなかった理由を「油断したんだ」の一言で片付けた。 でも、シルフカンパニー専属の警備員をまったく寄せ付けないほどの実力の持ち主が、実戦で油断するわけがない。 「私の計画も最初から割れていたというわけか」 「無論だよ。そもそも、私がレセプションに参加するという情報自体が、恣意的に流されたものだった。  そして君がシステムに忍ばせた三匹の鼠は、その情報を嬉々として持ち帰った、というわけだ」 「なら、なぜ私の侵入を許した。なぜ自らを危険に晒した」 「君を犯罪者として確実に牢獄にぶちこむためさ。  リスクは仕方ない。  なに、一思いに君を殺してしまうことも考えたのだがね、  報殺の縁という言葉があるだろう、君は表社会から消えてなお、  それなりの人望がある、下手に殺せばシステムに怨みを持つ輩が増えてしまう」 「何故今になって私を罠にかけたのだ?」 「前々から君のことは目障りに思っていた。  が、こそこそと嗅ぎ回っているうちは可愛いものだと放置していたんだよ。  しかし君が利口にもスパイを私の組織に送り込んでいることが分かり、見て見ぬふりは出来なくなった。  君は知ってはならない情報を知ってしまった。  そこで私が君を表舞台に引き摺りだすために、少々知恵を絞ったという次第だ」 副次的にジムリーダーと四天王もそれぞれ交代が必要になってしまったが、と紳士は哀れむような口調で言った。 「ママ………」 あたしはふと隣を見て、カエデが精神的に危うい状態にあることに気付いた。 目の前で繰り広げられている現実と思えない光景を見て、あたしは平常心を保てていた。 あのお爺さんが元ロケット団の首領で、 ジムリーダーと深い繋がりを持っていて、 マチスが実はシステム側の人間で、 あの不気味な笑顔の紳士は、システムの中でもかなり偉い人物らしくて――。 次々と明らかになる真実に圧倒されて、あたしはきっとこの光景を、どこか非現実のように捉えている。 でも、カエデはそれを確かな現実だと認めざるを得ない。 アヤメ叔母さんが、カエデにとってのお母さんが、そこに立っているから。 片足を失った老人――サカキは苦々しげに言った。 「私はいつでも貴様らを殺すことが出来る」 不気味な笑顔の紳士は事も無げに答えた。 「私だっていつでも君を殺すことが出来るよ。そうだろう、マチス?」 マチスが無表情で頷く。 瞳からは意思というものが全然感じられなかった。 その冷たい無機質の瞳に、あたしは機械のレンズを連想した。 エレブーの腕はアリアドスの吐いた糸で雁字搦めにされているものの、 サカキの後頭部をしっかりと押さえつけている。 高圧電流を流せば、対象はあっという間に黒焦げになってしまうに違いない。 「君は私の目的が知りたい。だからこのスピアーの針が私を貫くことは有り得ない。  だが、逆は有り得る。私は君がこの国の警察に捕らえられることを願っているが、別に殺してしまっても問題は無いんだ。」 「貴様は……ひとつ勘違いしているな……」 地獄の底から響くような低い声に、 「なに?」 紳士の余裕が崩れる。 「私とて貴様と同じなのだよ。  逃げ果せれば、仕切り直すことができる。  そしてそのために……、私は手段を選ぶつもりはない」 ヒッ、と紳士が情けない悲鳴を上げたのと、ヒュ、とスピアーの針が紳士の喉笛を裂いたのは、同時だった。 スピアーの攻撃後の隙をエレブーが信じられない反射速度でとらえ、何かが潰れるような音と共に、スピア―が吹き飛ばされる。 エレブーは再びサカキを押さえつけようと試み、一刹那後にはアリアドスに"絡みつかれ"、"毒針"を首に突き立てられていた。 スローモーションになっていた景色が正常な速度で動き出す。 紳士の首から勢いよく噴き出す鮮血が、隣の無口な男を濡らす。 人が死にかけている。 ポケモンの攻撃を受けた人間が、死にかけている。 現実感がさらに希薄になる。 早く救急車を呼ばないと。 ああ、もうあんなに血が出てる。 止血したって間に合わない。 これは悪い夢? それなら、早く醒めなさい。 あたしはこんなの信じないんだから。 あたしは、あたしは、あたしは―――。 「ヒナタ!」 小さい、しかし力強い声があたしを呼ぶ。 現実感が戻ってくると同時に、吐き気が喉の奥から込み上げてくる。 「落ち着け。落ち着くんだ」 あたしの手を握ったタイチの手は、汗でじっとりと濡れていた。 それでも、吐き気は少し引いた。 半身が血濡れた男が、足許に転がる紳士を一瞥する。 スピアーが消えたことで自由になった首を軽く動かし、男はその顔を露わにした。 銀髪。漆黒の瞳。高い鼻梁。 真っ赤な血に怪我された青白い頬。 「自責するなマチス。お前は最善を尽くした」 男の薄い唇が編み出した言葉に、マチスが頭を垂れる。 初めて耳にした男の声は、あたしが求めていたものにそっくりだった。 「この状況は想定の範囲内だ」 閃光。 「あとは私が始末を付ける」 現われたリザードンに、あたしは見覚えがあった。 バラバラになっていた記憶のピースが一枚の絵を作り上げる。 幼いあたしとタイチは大人の目を逃れて森に入った。 あたしたちはキャタピーを怒らせた。どうしようもできなかったあたしを炎の壁で救ってくれたのが、あのリザードンだった。 真夏の直射日光のような熱波が屋上を灼く。 それはずっと昔に資料で知った、炎熱系ポケモン最強の証。 仮説は憶測に、憶測は確信に。 「……おとう、さん」 「待つんだ、ヒナタ」 タイチの制止を乱暴に振り払って、階段を上る。 止められなかった。お父さんに会えた。生まれて初めてお父さんに会えた。 次は話したい。触って、その存在を確かめたい。 欲求が歩みを後押しする。 視界の果てで、それまでサカキの従者に徹していたアヤメ叔母さんとキョウが、初めて口を開いた。 「サトシくん、なのね」 お父さんは静かに首を振り、 「その名は捨てた」 「雰囲気が変わったでござるな。  お主とかような形で再び相見えることになるとは……、残念極まる」 閃光。暗闇が濃さを増す。 目を凝らして、あたしはそこにヘドロ状のポケモンがいることを知った。 ベトベトンだった。 アヤメ叔母さんも逡巡するように爪を噛んでから、ハイパーボールを展開した。 キングドラが現われる。 アヤメ叔母さんがキングドラを持っていることを、あたしは今の今まで知らなかった。 最後に、キョウに肩を貸されて立ち上がったサカキが、瀕死のスピアーと入れ替わりに、サイドンを召喚する。 サカキはお父さんに尋ねた。 「サトシよ。お前はいつからシステムの奴隷に成り下がった」 「………」 「お前はまだ若い。やり直すことは可能だ」 「………」 「目を醒ますのだ。それが出来ぬのなら私が目覚めさせてやろう。  かつてシステムに隷従していた私が、お前に目覚めさせられたように」 「……ご冗談を。私の居場所は、私が決める」 「管理者が死んだ今となっても、お前の居場所は変わらないのか」 お父さんは目を眇めて、サカキを見据えた。 そして足許の死体に視線を落とし、 「この男がいつ自らを管理者だと名乗った」 「…………」 サカキが言葉を失う。お父さんは淡々と続けた。 「管理者は、始めから不在だ」 「どこにいるのだ? 答えろ」 「答える義理はない」 「答えろ、と言っている」 「……諄い」 「ならば、力尽くで吐かせるまで」 サイドンが重い足音を響かせて、一歩、前に進み出る。 「老いとは恐ろしい。  かつて私が目掛けていたあなたの鋼の自制心は衰えてしまったようだ」 サイドンに呼応するかのように、アヤメ叔母さんとキョウのポケモンも進み出る。 アヤメ叔母さんは感情を露わにして言った。 「サトシくん、もう、やめましょう?  あの子はまだあなたを待ってるのよ。  あれからもう何年も経ってしまったけど、きっとあの子はあなたを許すわ。  それに、あの子とあなたの間には、」 「やめろ」 「サトシくん……」 「戯れ言を紡いでいる暇があるのか。  俺の――私の任務はあなた方をここに足止めし、治安当局に引き渡すことだ。  時間の経過とともに、趨勢は私に傾きつつある」 サカキは言った。 「最早、相容れぬようだな」 陣形が完成する。アリアドス、ベトベトン、キングドラ、パルシェン、サイドン。 最強クラスの五体を前にして、お父さんはたった一体のリザードンで立ち向かおうとしている。 あたしは前のめりになりながら、歩を進めた。 都合の悪い事実には目を瞑って、耳を塞いで。 「……お父さん」 掠れた声は、まだ届かない。 自然と歩みが早くなる。 サカキは言った。 「サトシ。お前は強い。かつて最強と謳われたその実力は認めよう。  だが、多勢に無勢という言葉を、お前が知らないわけではあるまい」 お父さんは言った。 「何事も試してみなければ分からない。ここに、八面六臂という言葉がある。  行け、リザードン。要人には手を出すな、障害は遍く灰燼と為せ」 リザードンが夜空に舞い上がる。 近づくにつれて、お父さんの横顔が露わになる。 あたしはたまらずに駆けだした。 今なら声だって届く。 「お父さん!」 お父さんがあたしを見る。目を瞠る。 あたしだよ、お父さん。分かるでしょ? ヒナタだよ。ずっと会いたかったんだよ、お父さん。ずっと――。 「ヒナちゃん!? 来ちゃだめっ!!」 アヤメ叔母さんが何か叫んでいるけど、その意味が分からない。 お父さんが空を仰ぐ。 どうしてあたしを見てくれないの? あたしを見て。あたしに駆け寄って。あたしを抱きしめてよ、お父さん。 「待て、リザードン!」 咆吼。 空が真昼のように明るくなる。 あたしは太陽を探して空を見上げた。
「な、なんなのよコレ! いったいどうなってんの!?」 カエデが悲鳴にも似た声を出した。 エレベーターで屋上から数階下のフロアに辿り着いたあたしたちが見たもの、 それは抵抗する時間も与えられずに戦闘不能に追い込まれたポケモンと、気絶した警邏の数々だった。 屋上に向かうには、このフロアの階段を上る必要がある。 そしてそこを阻むように降りていたらしい防火壁は、今では木っ端微塵に砕かれて瓦礫と化していた。 「すげえな……並の壊れ方じゃねえ。一撃で破壊されてる。  誰かが俺たちよりも先に屋上に行ってると考えて、まず間違いねえだろうな」 「ね、ヒナタ。本当に行くの?」 「ここまで来て、引き返してどうするのよ」 「屋上にいるのは、あの分厚い防火壁を一撃で壊しちゃうようなポケモンの持ち主なのよ?」 あたしはカエデの答えを知りながら言ってみた。 「カエデはここで待っててもいいわよ?」 「や、やだ。あたしも行く」 防火壁を乗り越えて階段に進むと、緩い風が吹いていた。 下を覗き込む。底がみえない。まるで奈落のようだった。 「やっぱり、先客は屋上にいるみたいだ」 階段の踊り場に倒れた警邏を見て、タイチが言った。 階段を上る。緊張が増していく。果たして屋上に通じる扉は、半開きになっていた。 「いいわね?」 カエデとタイチが頷く。あたしは深呼吸してから、扉を完全に押し開いた。 目は屋内にいた時から暗闇に慣れていた。 この近くにシルフカンパニーを超える高さのビルはなく、 下界のビルが放つ光が屋上の縁から溢れて、まるで光の海に浮かんだ孤島に立っているような錯覚がした。 見渡す限り、人影は無い。ただ、目の前の階段を上った先のヘリポートには、複数の人の気配がした。 姿勢を低くしながら、そろりと階段に足をかける。 ヘリポートの様子を窺えるギリギリのところまで、顔を出す。 そこに広がる光景に、あたしは呼吸をすることを忘れてしまった。 「そんな……どうしてママが……」 掠れた声でカエデが呟く。 あたしたちの視線の先には、アヤメ叔母さんがいた。 その隣にはクチバシティジムリーダーのマチス、現四天王の一角であるキョウがいて、 三人とも円を描くようにそれぞれのポケモンを配置させている。 そしてその中心にいるのが、杖を突いた年老いた男と、その男のポケモンらしいスピアーに針を突き付けられた、二人の紳士だった。 片方は不気味な笑顔をあたりに振りまき、もう片方は顔を伏せていて、表情が伺えない。 ふいに、鼓動が早くなる。 言葉では説明できない熱い何かが、胸の奥から込み上げてくる。 屋上に、ピカチュウはいなかった。 あたしが目にしたのは不可解極まりない光景だった。 なのに、どうしてあたしはこんなに、胸がどきどきしているんだろう? 杖突の老人が腕時計を見ながら言った。 「間もなくだ」 不気味な笑顔の紳士が言った。 「何が予定されているかね?」 「ちょっとした小旅行だ。  カイリューの背に乗って空を飛んだことは?」 「ある。最悪な乗り心地だったがね。  彼らはまるで搭乗者のことなど考えていない。  初めて乗ったときは二度と乗るものかと決心したほどだ」 「ほう。ならば私の采配は失敗だったな」 ごうっ、と大気を唸らせて、大きな影がヘリポートに着陸する。 「ウォフー」 大きな影――カイリューは――穏やかな鳴き声と共に姿勢を低くした。 「乗れ」 「どこへ連れて行こうというのかね?」 「それは貴様らが与り知るところではない」 「やれやれ」 「仲間の追跡には期待しないことだ。  このカイリューは指折りのドラゴンポケモンでね、単純な飛行速度で右に出る者はいないのだよ」 紳士は少し考える素振りを見せてから言った。 「素敵な小旅行を企画してくれた君には悪いが、辞退させてもらうとしよう」 言葉はその紳士が口にするには、あまりに不相応だった。 最強格のトレーナーと、最強格のポケモンに囲まれて、 しかもその喉元には、鋭い針が食い込んでいる。 絶体絶命を絵に描いたような状況。 一陣の風が吹き抜ける。 老人は言った。 「同じことを何度も言わせるな。貴様に拒否権はない」 紳士は高らかに言った。 「同じことを何度も言わせるな。私は二度とカイリューに乗る気はないのだよ。  さて、もういいだろう。――カーテンコールだ」 戦慄が走る。次の瞬間、様々なことが同時に起こった。 青い電流が暗闇を払う。誰かが倒れ、呻き声が上がる。 少し離れたところで、吹き飛んだ何かが地面に叩きつけられる音がする。 状況が膠着したとき、趨勢は二人の紳士の圧倒的不利から、五分五分にまで覆っていた。 「マチス……貴様……ッ!」 右膝から下を失った老人が、エレブーに顔を地面に押しつけられながら、怨嗟の籠もった声で言った。 血は出ていなかった。さっきどこかに転がったのは、義足だったのかもしれない。 「よもや、貴様が裏切るとは……いつからシステムに寝返っていた………?」 パルシェンの鋭利な殻を喉に突き付けられ、口を開くこともままならないマチスの代わりに、 不気味な笑顔をより一層深くした紳士が答えた。 「初めからだ。彼は私の腹心であり、君の行動を監視するスパイだったのだよ。  ジムリーダー同士には妙な仲間意識がある。  ロケット団の元首領であるサカキも、かつてはトキワシティのジムリーダーだ。  システムに対して行動を起こすとき、その繋がりを利用することは想像に難くなかった」 「カントー発電所占拠事件のときに疑いを持つべきだったか……。  思えばマチス、貴様がシステムの雑兵如きに遅れをとるわけがなかったのだ」 紳士は愉快げに笑った。 「聞いたかね、マチスくん。彼は君のことをかなり高く評価していたようだよ。  その分、裏切られたショックは相当なものだろうと察するがね」 思い返せば、不可解な点はいくつかあった。 例えばマチスは発電所を奪還できなかった理由を「油断したんだ」の一言で片付けた。 でも、シルフカンパニー専属の警備員をまったく寄せ付けないほどの実力の持ち主が、実戦で油断するわけがない。 「私の計画も最初から割れていたというわけか」 「無論だよ。そもそも、私がレセプションに参加するという情報自体が、恣意的に流されたものだった。  そして君がシステムに忍ばせた三匹の鼠は、その情報を嬉々として持ち帰った、というわけだ」 「なら、なぜ私の侵入を許した。なぜ自らを危険に晒した」 「君を犯罪者として確実に牢獄にぶちこむためさ。  リスクは仕方ない。  なに、一思いに君を殺してしまうことも考えたのだがね、  報殺の縁という言葉があるだろう、君は表社会から消えてなお、  それなりの人望がある、下手に殺せばシステムに怨みを持つ輩が増えてしまう」 「何故今になって私を罠にかけたのだ?」 「前々から君のことは目障りに思っていた。  が、こそこそと嗅ぎ回っているうちは可愛いものだと放置していたんだよ。  しかし君が利口にもスパイを私の組織に送り込んでいることが分かり、見て見ぬふりは出来なくなった。  君は知ってはならない情報を知ってしまった。  そこで私が君を表舞台に引き摺りだすために、少々知恵を絞ったという次第だ」 副次的にジムリーダーと四天王もそれぞれ交代が必要になってしまったが、と紳士は哀れむような口調で言った。 「ママ………」 あたしはふと隣を見て、カエデが精神的に危うい状態にあることに気付いた。 目の前で繰り広げられている現実と思えない光景を見て、あたしは平常心を保てていた。 あのお爺さんが元ロケット団の首領で、 ジムリーダーと深い繋がりを持っていて、 マチスが実はシステム側の人間で、 あの不気味な笑顔の紳士は、システムの中でもかなり偉い人物らしくて――。 次々と明らかになる真実に圧倒されて、あたしはきっとこの光景を、どこか非現実のように捉えている。 でも、カエデはそれを確かな現実だと認めざるを得ない。 アヤメ叔母さんが、カエデにとってのお母さんが、そこに立っているから。 片足を失った老人――サカキは苦々しげに言った。 「私はいつでも貴様らを殺すことが出来る」 不気味な笑顔の紳士は事も無げに答えた。 「私だっていつでも君を殺すことが出来るよ。そうだろう、マチス?」 マチスが無表情で頷く。 瞳からは意思というものが全然感じられなかった。 その冷たい無機質の瞳に、あたしは機械のレンズを連想した。 エレブーの腕はアリアドスの吐いた糸で雁字搦めにされているものの、 サカキの後頭部をしっかりと押さえつけている。 高圧電流を流せば、対象はあっという間に黒焦げになってしまうに違いない。 「君は私の目的が知りたい。だからこのスピアーの針が私を貫くことは有り得ない。  だが、逆は有り得る。私は君がこの国の警察に捕らえられることを願っているが、別に殺してしまっても問題は無いんだ。」 「貴様は……ひとつ勘違いしているな……」 地獄の底から響くような低い声に、 「なに?」 紳士の余裕が崩れる。 「私とて貴様と同じなのだよ。  逃げ果せれば、仕切り直すことができる。  そしてそのために……、私は手段を選ぶつもりはない」 ヒッ、と紳士が情けない悲鳴を上げたのと、ヒュ、とスピアーの針が紳士の喉笛を裂いたのは、同時だった。 スピアーの攻撃後の隙をエレブーが信じられない反射速度でとらえ、何かが潰れるような音と共に、スピア―が吹き飛ばされる。 エレブーは再びサカキを押さえつけようと試み、一刹那後にはアリアドスに"絡みつかれ"、"毒針"を首に突き立てられていた。 スローモーションになっていた景色が正常な速度で動き出す。 紳士の首から勢いよく噴き出す鮮血が、隣の無口な男を濡らす。 人が死にかけている。 ポケモンの攻撃を受けた人間が、死にかけている。 現実感がさらに希薄になる。 早く救急車を呼ばないと。 ああ、もうあんなに血が出てる。 止血したって間に合わない。 これは悪い夢? それなら、早く醒めなさい。 あたしはこんなの信じないんだから。 あたしは、あたしは、あたしは―――。 「ヒナタ!」 小さい、しかし力強い声があたしを呼ぶ。 現実感が戻ってくると同時に、吐き気が喉の奥から込み上げてくる。 「落ち着け。落ち着くんだ」 あたしの手を握ったタイチの手は、汗でじっとりと濡れていた。 それでも、吐き気は少し引いた。 半身が血濡れた男が、足許に転がる紳士を一瞥する。 スピアーが消えたことで自由になった首を軽く動かし、男はその顔を露わにした。 銀髪。漆黒の瞳。高い鼻梁。 真っ赤な血に怪我された青白い頬。 「自責するなマチス。お前は最善を尽くした」 男の薄い唇が編み出した言葉に、マチスが頭を垂れる。 初めて耳にした男の声は、あたしが求めていたものにそっくりだった。 「この状況は想定の範囲内だ」 閃光。 「あとは私が始末を付ける」 現われたリザードンに、あたしは見覚えがあった。 バラバラになっていた記憶のピースが一枚の絵を作り上げる。 幼いあたしとタイチは大人の目を逃れて森に入った。 あたしたちはキャタピーを怒らせた。どうしようもできなかったあたしを炎の壁で救ってくれたのが、あのリザードンだった。 真夏の直射日光のような熱波が屋上を灼く。 それはずっと昔に資料で知った、炎熱系ポケモン最強の証。 仮説は憶測に、憶測は確信に。 「……おとう、さん」 「待つんだ、ヒナタ」 タイチの制止を乱暴に振り払って、階段を上る。 止められなかった。お父さんに会えた。生まれて初めてお父さんに会えた。 次は話したい。触って、その存在を確かめたい。 欲求が歩みを後押しする。 視界の果てで、それまでサカキの従者に徹していたアヤメ叔母さんとキョウが、初めて口を開いた。 「サトシくん、なのね」 お父さんは静かに首を振り、 「その名は捨てた」 「雰囲気が変わったでござるな。  お主とかような形で再び相見えることになるとは……、残念極まる」 閃光。暗闇が濃さを増す。 目を凝らして、あたしはそこにヘドロ状のポケモンがいることを知った。 ベトベトンだった。 アヤメ叔母さんも逡巡するように爪を噛んでから、ハイパーボールを展開した。 キングドラが現われる。 アヤメ叔母さんがキングドラを持っていることを、あたしは今の今まで知らなかった。 最後に、キョウに肩を貸されて立ち上がったサカキが、瀕死のスピアーと入れ替わりに、サイドンを召喚する。 サカキはお父さんに尋ねた。 「サトシよ。お前はいつからシステムの奴隷に成り下がった」 「………」 「お前はまだ若い。やり直すことは可能だ」 「………」 「目を醒ますのだ。それが出来ぬのなら私が目覚めさせてやろう。  かつてシステムに隷従していた私が、お前に目覚めさせられたように」 「……ご冗談を。私の居場所は、私が決める」 「管理者が死んだ今となっても、お前の居場所は変わらないのか」 お父さんは目を眇めて、サカキを見据えた。 そして足許の死体に視線を落とし、 「この男がいつ自らを管理者だと名乗った」 「…………」 サカキが言葉を失う。お父さんは淡々と続けた。 「管理者は、始めから不在だ」 「どこにいるのだ? 答えろ」 「答える義理はない」 「答えろ、と言っている」 「……諄い」 「ならば、力尽くで吐かせるまで」 サイドンが重い足音を響かせて、一歩、前に進み出る。 「老いとは恐ろしい。  かつて私が目掛けていたあなたの鋼の自制心は衰えてしまったようだ」 サイドンに呼応するかのように、アヤメ叔母さんとキョウのポケモンも進み出る。 アヤメ叔母さんは感情を露わにして言った。 「サトシくん、もう、やめましょう?  あの子はまだあなたを待ってるのよ。  あれからもう何年も経ってしまったけど、きっとあの子はあなたを許すわ。  それに、あの子とあなたの間には、」 「やめろ」 「サトシくん……」 「戯れ言を紡いでいる暇があるのか。  俺の――私の任務はあなた方をここに足止めし、治安当局に引き渡すことだ。  時間の経過とともに、趨勢は私に傾きつつある」 サカキは言った。 「最早、相容れぬようだな」 陣形が完成する。アリアドス、ベトベトン、キングドラ、パルシェン、サイドン。 最強クラスの五体を前にして、お父さんはたった一体のリザードンで立ち向かおうとしている。 あたしは前のめりになりながら、歩を進めた。 都合の悪い事実には目を瞑って、耳を塞いで。 「……お父さん」 掠れた声は、まだ届かない。 自然と歩みが早くなる。 サカキは言った。 「サトシ。お前は強い。かつて最強と謳われたその実力は認めよう。  だが、多勢に無勢という言葉を、お前が知らないわけではあるまい」 お父さんは言った。 「何事も試してみなければ分からない。ここに、八面六臂という言葉がある。  行け、リザードン。要人には手を出すな、障害は遍く灰燼と為せ」 リザードンが夜空に舞い上がる。 近づくにつれて、お父さんの横顔が露わになる。 あたしはたまらずに駆けだした。 今なら声だって届く。 「お父さん!」 お父さんがあたしを見る。目を瞠る。 あたしだよ、お父さん。分かるでしょ? ヒナタだよ。ずっと会いたかったんだよ、お父さん。ずっと――。 「ヒナちゃん!? 来ちゃだめっ!!」 アヤメ叔母さんが何か叫んでいるけど、その意味が分からない。 お父さんが空を仰ぐ。 どうしてあたしを見てくれないの? あたしを見て。あたしに駆け寄って。あたしを抱きしめてよ、お父さん。 「待て、リザードン!」 咆吼。 空が真昼のように明るくなる。 あたしは太陽を探して空を見上げた。

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