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第十六章 下」(2009/01/18 (日) 20:48:10) の最新版変更点

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キュウコンの闇に映える白い身体が消え、一瞬にしてスターミーの傍に現れる。 ――速い。 「迎撃して!」 咄嗟の命令が間に合わなかった。 突進をもろに食らったスターミーが、壊れたスプリンクラーのように水を撒き散らしながら転がっていく。 くぅん、と喉を鳴らして指示を仰ぐ余裕たっぷりのキュウコンに、アヤは楽しそうに言った。 「どうしたの?  再起不能になるまで攻撃を続けなさい。  自己再生を使われたら面倒です」 「お願い、スターミー、起き上がって!」 頭の隅では分かっている。 キュウコンの身体性能はスターミーのそれを遙かに上回っている。 体勢を立て直す前に追撃を食らえば、後はその繰り返しで、 連鎖的にスターミーはダメージを受け、いずれ起き上がることさえ出来なくなる。 そうなれば終わりだ。 主力のスターミーを失って、アヤに勝てる確率は万に一つもない。 せめてもう一度、体勢を立て直すことが出来れば―― 「"火炎放射"」 アヤの声が、あたしを現実に引き戻す。 スターミーはまだやっと起き上がったところだ。ふらつきが残っている。 キュウコンが長く首を伸ばす。 避けて! そうあたしが叫ぶよりもずっとずっと迅く火炎放射が野原を駆け――。 スターミーのいるところとは全然別の場所を焼き払っていた。 「な……」 キュウコンは炎を吐いた姿勢のまま硬直していた。 横顔の毛並みは不自然に乱れている。 まるで誰かに思い切り『叩かれた』みたいに。 「ぴぃっぴぃ~」 ご機嫌な鳴き声が茂みを渡る。 あたしは俄に信じられなかった。 炎と煙に巻かれて咽せていたピッピが、 自分でそこを抜けだし、スターミーを助けるためにキュウコンの顔を叩いたなんて。 「……油断しました」 アヤはあたしにというよりは、自分を戒めるようにそう言った。 口ぶりは冷静でも、太股のあたりではぎゅっと拳が握りしめられていて、 あたしはピッピの攻撃が、アヤに予想以上の屈辱を与えていたことを知る。 硬直が解けたキュウコンは、落ち着き無く尻尾を揺らしてアヤの指示を仰いだ。 反撃しようにも、サファリパークの自然と暗闇が、小さくなったピッピを完全に視認できなくしていた。 「スターミー、"保護色"で身を隠して"自己再生"で回復して」 ピッピと同様に、スターミーの身体も背景に溶け込んでいく。 キュウコンが帯びている神秘的な光は、今は存在を誇示する余計な装身具でしかない。 「"火の粉"を撒き散らしなさい」 とアヤは言った。広範囲攻撃で炙り出すつもりなのだろうか。 しかしスターミーに対して火の粉はあまりに効果が薄すぎるし、 炎の渦を通り抜けた(水鉄砲で火力は弱められていたけど)ピッピがそれに動じるとは思えない。 キュウコンが九尾を波打たせる。 大量の火の粉が舞い上がる。 あたしは一瞬、夜空の星の数が倍になったように錯覚する。 「ポケモンよりも、自分の身を案じた方がいいですよ。  火の粉の攻撃範囲はあなたにまで及びます」 目は降り注ぐ火の粉に注がれたまま、 耳はアヤの自信に満ちたソプラノを聴いている。 花火の真下にいるようなものだ。 避けようがない。 「……っ」 恐怖に目を瞑る。 でも、いつまで経っても火の粉は降り注がなかった。 代わりにあたしは頭の上に若干の重みを感じて、 傘が雨粒を弾くようなパラパラという音を聞いた。 目を開ける。 溜息が出た。 「ピッピ、スターミー……。  もう、どうして隠れていないのよ。奇襲作戦が台無しじゃない」 頭の上には、あたしを守るようにピッピが乗っかっていて、 さらにその上で、スターミーが発動したのだろうか、 "光の壁"がゆっくりと舞い落ちてきた火の粉を受け止めている。 姿をさらしたピッピは当たり前のこと、 コアを発光させたスターミーの居場所は、 完全にアヤとキュウコンにばれてしまった。 折角立て直せたと思ったのになあ。 これで溜息を吐くなというほうが無理な話よ。 「トレーナー想いのポケモンですね」 アヤの皮肉を黙って受け止める。 アヤはピッピとスターミーの優先順位を読んでいた。 戦況が不利になると知った上であたしを助ける、という確信があった。 でも、あたしにはこの二匹のポケモンを責めることが出来ない。 余計なことしてくれちゃって、と思う一方で、その優しさに感謝しているから。 「どちらから仕留めましょうか。  キュウコン、好きな方を選びなさい」 朱い瞳がピッピを鋭く見据える。 先程の"叩く"はキュウコンのプライドをアヤと同じかそれ以上に傷つけていたのかもしれない。 咆吼が空気を震わせる。 暗闇の向こうで、身体の輪郭をぼんやりと光らせたキュウコンが低く身を屈めるのが分かる。 あたしは腹を括ることにした。 アヤとキュウコンから慢心は消えている。 もう奇襲の体勢を取ることは叶わない。 スターミーとピッピの二匹で、真正面からぶつかるしかない。 そしてそこには、今まで封印してきた運に頼るという選択肢も含まれている。 「"指を振って"、ピッピ」 ピッピは頷き、あたしから離れていく。 思考の縁には今も、キクコお婆さんの言葉が引っかかっている。 ――ヒナタちゃんが危機に陥ったときも、そのピッピは見当違いの技を発動させていたのかえ?―― お婆さんはあの時、とりもなおさずピッピが"指を振る"の乱数的な特性を制御できると言いたかったのではないだろうか。 その仮定に一縷の望みを掛ける。 「ピッピを援護して、スターミー」 あたしがそう言い終わるよりも先に、キュウコンは"電光石火"を発動していた。 疾走。 跳躍。 踏みつぶされれば小さなピッピは一溜まりもない。 指の振りが止まる。 欲はなかった。 その瞬間、あたしが望んだのはピッピがキュウコンの速攻を切り抜けられること、ただそれだけだった。 「キャウンッ!」 短い鳴き声が上がり、 キュウコンの体躯が不自然な方向に転がっていく。 果たしてピッピが発動したのは"リフレクター"だった。 物理攻撃を防ぐためじゃない、キュウコンの移動を制限するための防護壁。 「……ぐ、偶然ですっ」 「かもね。でも、凌いだことに変わりはないわ」 間髪入れずにスターミーが水鉄砲を発射する。 キュウコンのブレスが水の塊を水蒸気に変え、 辛うじて届いた水飛沫でさえ体表熱で尽く気化されていく。 でも、それは発電所で戦ったときに一度見た光景だった。 「スターミー、移動しながら角度を変えて、小刻みに"水鉄砲"を撃って」 一発一発の威力は低くて構わない。 元よりこのレベル差だもの、水鉄砲をいっぱい浴びせたところで決定打になるとは思っていない。 動きを封じることができればそれでいい。 あたしの命令は上手く機能した。 キュウコンはピッピに接近しようとしているものの、 変則的な間隔で変則的な角度から放射される変則的な水量の水鉄砲の相殺に追われて身動きが取れない。 「……なんて鬱陶しい……。  ピッピは後回しで構いません。スターミーから潰すのです」 「ピッピ、もう一度"指を振る"のよ。  スターミーは"光の壁"を前面に張って、できるだけキュウコンを寄せ付けないで」 キュウコンが駆ける。 水鉄砲を相殺することをやめて、素早い身のこなしで水鉄砲の全てを躱しながら、 スターミーの"光の壁"の領域内に侵入する。 迎撃はまったくの無駄に終わった。 鈍い音が響き渡り、五芒星の身体がくるくると宙を舞った。 「くっ……」 スターミーが地面に落ちる頃には、既にキュウコンは"電光石火"で移動を済ませていた。 弱々しく点滅するコアに容赦なく前脚をかける。 ミシミシという音が聞こえてきそうなほどに。 アヤは余裕に満ちた声で言った。 「降服してください。  わたしは余分にポケモンを殺して快感を覚えたりはしません。  できるならこのスターミーのコアを砕きたくない」 「…………」 「早く答えて下さい。  キュウコンが加減を間違えないうちに。  それともまだピッピの"指を振る"が奇跡を起こすと信じているんですか」 急かすアヤ。 でもあたしは知っている。 半ば勝ちを確信して気を緩めているアヤと違って、 キュウコンはピッピの"指が振る"に焦りを感じている。 恐らくは今まで他のポケモンに触れられたことがなかっただろう頬を思いっきり叩かれ、 予想外の"リフレクター"で足下をすくわれたキュウコンは、 予測不可のピッピの攻撃を少なからずとも怖れている。 「いけるわね、ピッピ?」 「ぴぃ」 スターミーを踏みつけたキュウコンとピッピの距離は、今や数メートルしか離れていない。 ピッピの小さな指が静かに止まる。 それと同時に、キュウコンは首を横に逸らして"火炎放射"を吐きかけた。 ポケモンの独断専行を、しかしアヤは咎めなかった。 ――どうせ結果は変わらない。 そう思っているに違いない。 劫火が迫る。 キュウコンの"火炎放射"を凌げる技があるとしたら何だろう。 それが"指を振る"によって選び取られる確率は何パーセントくらいだろう。 そしてもし仮に凌げたところで、その次の攻撃を凌げる確率は何パーセントくらいなんだろう。 絶望的に低い数字であることは分かる。 でもあたしは信じていた。 ピッピも信じていた。 ピッピが大きく口を開く。 「ぴぃ~~~!!!!」 今までに聞いたことがないくらいの高い鳴き声とともに放射されたのは、 キュウコンの"火炎放射"と同等かそれ以上の劫火だった。 "物真似"――相手が最後に使用した技をコピーする特殊技。 「凄い……」 炎が混じり合う。 熱気が遠く離れたあたしにまで伝わってくる。 炎の直中から、パリンという涼しい音が聞こえてくる。 幸運の女神様はピッピに味方してくれていた。 スターミーが展開した"光の壁"はキュウコンの"火炎放射"を減衰させていた。 もしそれがなかったら、ピッピは特殊能力値の差から撃ち負けていたかもしれない。 ピッピの"火炎放射"がキュウコンを包み込む。 炎タイプの技を吸収するキュウコンの特性『貰い火』で、ダメージを与えることはできない。 でも、あたしの狙いはそこじゃない。 「キャウンッ!」 キュウコンが反射的に怯み、スターミーを踏みつけていた脚が持ち上がる。 スターミーはあたしが言わずとも理解していた。 あたしがピッピを信じていたように、スターミーもピッピを信じていた。 渾身の"水鉄砲"が零距離で放たれる。 大量の水がキュウコンの全身を打つ。 あたしは勝利を確信した。 その時だった。 「避けてはダメ。耐えなさい」 命令するアヤの表情に色は無かった。 あたしはようやく感覚的に、自分とアヤの違いが分かった気がした。 アヤは言った。ポケモンは人間の道具に過ぎない、愛でるも殺すも人間の思惑次第だ、と。 アヤは勝利のためなら自分のポケモンが瀕死になることを厭わない。 例えそのポケモンを常日頃愛する"素振り"を見せていたとしても、瀬戸際に立てば少しの逡巡もなく酷薄な指示を出す。 あたしにはそんなこと、絶対に真似できない。 水鉄砲が止まる。 キュウコンは辛うじて持ちこたえているように見えた。 呼吸は遠目に見ても荒く、全身が幽かに震えている。 アヤは淡々と言った。 「割って」 ピシ、と耳障りな音が鳴る。 コアに亀裂が入ったスターミーから無声の悲鳴が上がる。 「嘘……嘘よ、こんなの」 「嘘ではありません。現実です。  キュウコン、"炎の渦"でピッピを捕らえなさい」 迫力を失った、それでも十分すぎる火力の炎がピッピを囲う。 「ぴぃっ……、ぴぃ……、ぴぃっ……」 激しく咳込みながら炎の壁を突き抜けてきたピッピは、そのまま草むらに倒れこんだ。 身体のいたるところに火傷を負っているようだった。 キュウコンが退く。 入れ替わりにアヤが前に進み出る。 「勝敗は決しました」 戦闘途中の感情の起伏があたしの幻覚だったみたいに、声音は冷たいものに戻っていた。 アヤは事務的に言葉を連ねていく。 「もう一度言います。直ちにこの場から立ち去って下さい。  サファリパーク内で見たことを全て忘れると誓って下さればこのまま園外に返してあげます。  不法侵入についても咎めません」 「……………」 あたしは酷く傷ついた二匹のポケモンを眺めた。 瀕死だ。一目見れば分かる。特にコアを割られたスターミーは危険な状態のようだった。 でも今すぐにポケモンセンターに連れて帰れば大丈夫のように思えた。 また、仲介しようとして火炎放射を浴びせかけられたラッキーも、 今すぐポケモンセンターに連れて行けば回復するかもしれなかった。 冷静に考えるのよ。 ここで一番に優先しなければならないことは何? ポケモンの命に決まってるじゃない。 この子たちはあたしを守ることを第一に考えてくれた。 なら、トレーナーもそれに報いるのが道理というものでしょう。 理性はアヤに従うことを受け入れていた。 でも感情はその選択肢を頑なに拒んでいた。 このチャンスを逃せば終わりかもしれないのよ? ピカチュウに繋がる手がかりを永遠に失ってしまうかもしれない。 本当にそれでいいの? 諦めていいの? スターミーもピッピはあたしが折れることを望んでいるかしら。 ううん、きっと望んでいない。 あと一歩のところまで来ているのよ。 あの子たちが受けた傷を無意味にしてはダメ。 あたしはアヤに勝たなければならない。 絶対に。 「まだ……じゃない」 「え?」 「まだ、終わりじゃない」 「感情的になるのは見苦しいですよ。  あなたの使えるポケモンは全て戦闘不能になったはず――」 あたしは首を振る。 スターミーとピッピをボールの中に戻す。 そして長い間閉じたままにしてあったアタッチメントを解放する。 迷いはなかった。心は都合の良い麻酔によって感覚を失っていた。 ボールを落とす。無明の闇にHの文字だけが浮かび上がる。 あたしは言った。 「出て、ゲンガー」 閃光に照らされた輪郭はすぐに失われ、 あたしはまるでゲンガーのいる場所の暗闇が、質量を持ったように錯覚する。 戦いが始まったときからずっと、ゲンガーはボールをカタカタと震わせていた。 場に出されるまでもなく、ゲンガーは我を失っていた。 「ゲンガー……?  主力はスターミーではなかったということですか」 アヤの精緻な顔が驚きに歪む。 あたしはそれにささやかな優越感を感じる。 ゲンガーの強さが裏打ちする趨勢の転換に安心感を抱く。 言うまでもなく、あたしの頭の中から冷静な判断力は失われていた。 「何故初めからそのポケモンを使わなかったのか疑問です」 「色々と事情があるのよ」 「そうですか。しかし、あなたは後出ししたこと後悔することになります。  二対一でしかも不確定要素が存在した先程の戦闘に比べて、  一対一の純粋な力比べでわたしのキュウコンが負けることはありえないのです」 あたしは思った。 アヤは生まれてから一度もポケモンバトルで負けたことがないのかもしれない。 そうでもない限り、最終進化形態のポケモンを相手にして自信満々でいられるわけがない。 「後悔するのはアヤ、あなたの方だと思うわ」 「時間の無駄ですね」 アヤはキュウコンの首を抱いて、 「キュウコン、手早く済ませなさい。  水を浴びせかけられた所為で寒いでしょう。  帰ったら暖めてあげます」 甘いソプラノでそう言った。 それはポケモンに愛情を惜しみなく注ぐトレーナーの模範的な図で、 至近距離からの水鉄砲を受け止めろと命令したその時のアヤの声を、表情を、あたしはもう思い出すことが出来ない。 ――くぅん。 キュウコンは九尾を大きく広げながらアヤの元を離れた。 スターミーの攻撃でダメージを負っていることは確かだけど、 それを感じさせない力強い足取りであたしの方に向かってくる。 目の前の濃密な闇がぬらりと動いたのはその時だった。 風が止まる。 波打っていた草原が項垂れる。 虫の音がフェードアウトする。 星が、月が、どこからともなく沸きだした雲に覆い隠されていく。 完全といっても良いほどの闇の中で、 キュウコンだけがまるで蛍光塗料を塗られているかのようにぼんやりと光っている。 首を忙しなく動かしてゲンガーの気配を察知しようとしている。 「警戒を怠ってはダメ。そのまま四方に気を配りなさい」 とアヤはあくまで冷静に言った。 でもキュウコンと同じく、ゲンガーがスターミーやピッピとは違う特別なポケモンであることを薄々勘付いているはずだった。 あたしはただ目だけを動かして状況を見守る。 命令したところでゲンガーが従ってくれることはあり得ない。 それはエリカさんとの戦いで嫌と言うほど思い知っている。 そうして、あたしの意志がどこにも存在しないポケモンバトルが始まった。 時間帯は夜。 月明かり星明かりは封じられて、人工的な明かりは遙か遠い。 ゴーストタイプにとっては最高のフィールドと言える。 ゲンガーの移動は音も無ければ視界を掠めもしなかった。 「ウゥ」 唸り声が静謐を破る。 「……いつの間に?」 胸に蓄えられた見事な毛並みが、鮮血で濡れていた。 恐らく攻撃を受けたキュウコン自身でさえ、 いつ攻撃されたのか分かっていないのだと思う。 キュウコンの動きが乱れ始める。一時たりともじっとしていない。 あたしにはその気持ちがよく分かった。 ポケモンタワーでゲンガーに襲われたとき、 あたしは自分を包む暗闇が怖くて怖くて仕方なかった。 「"火の粉"を明かりの代わりにするのです。  消費のことは気にしなくて結構。発動限界までに仕留めればいいことです」 ボッと火の粉が舞い散り、キュウコンの付近一帯を明るく照らし出す。 よくよく見てみれば、キュウコンは左足の付け根や背中にも浅い切り傷を受けていた。 胸の傷も明かりの下で見直すとそう深くないようだった。 あたしはその痕跡から、ゲンガーの意志を読み取ることが出来た。 傷が浅いのはキュウコンの回避能力が高かったからじゃない。 ゲンガーは多分、戦いを長引かせて愉しんでいる。 ――エリカさんのラフレシアを嬲った時と同じように。 視界を得て同事に恐怖も消えたのだろう。 「オォ―――ン」 キュウコンは控えめに吠え、"火の粉"を纏いながら野原を駆け巡る。 ゲンガーは呆気なくその姿を晒した。 寸胴の身体。 尖った耳。 ルビーの原石のような暗い赤の瞳。 短い腕と脚のうち、 左腕だけが漆黒の氷刃と化している。 それがラフレシアに振り上げられた時の記憶を、あたしは何故かよく思い出すことができない。 まるで誰かに蓋をされたみたいに。 「"火炎放射"」 キュウコンが数メートルの距離を挟んで身を屈める。 "火の粉"が消え、僅かなタイムラグの後、凄まじい劫火がゲンガーを焼き尽くした――かに思えた。 いいえ、それは嘘。 あたしは最初からゲンガーがやられるなんて思っていなかった。 「ァ……アァ……、…アぁ……、ァ……」 ゲンガーの悶絶らしき響きが聞こえてくる。 「奇襲に特化したポケモンでも、居場所を暴けば何のことはありません」 暗闇の向こう側、あたしは憫笑しているアヤの姿を想像することができた。 だから、その表情が凍り付くところを想像するのはそう難しくなかった。 ――くぅん。 弱々しい鳴き声が、倒れ伏したキュウコンの口から、 細い炎のブレスとともに吐き出される。 ゲンガーはその傍らで、血のように紅い舌を出して笑っている。 "舌で舐める"攻撃は相手を麻痺させる追加効果がある。 「"火炎放射"は命中したはずなのに……躱せるわけがないのに……  キュウコンが接近を許すわけがないのに……どうしてっ………」 「ゲンガーは影を移動できるのよ」 「でも、"火の粉"でキュウコンの周りから影はなくなっていたはずですっ」 「"火炎放射"を発動する直前はどうだったかしら」 キュウコンは全力を持って焼き尽くすために、"火の粉"を纏うのをやめて"火炎放射"に力を集中させた。 その一瞬のうちにゲンガーは移動を終えていた。 ただそれだけの話よ。 アヤが叫ぶ。 そこにはあたしが初めて耳にする焦燥の色があった。 「今すぐ立ちなさい!」 キュウコンが前脚を地面に立てようとする。 体重をかけた途端に頽れる。 その繰り返しを、ゲンガーは長い舌を出したまま面白そうに眺めていた。 「立って! "電光石火"で一旦退くのです!」 胸のすくような気持ちだった。 罪のないサファリパークのポケモンを傷つけ、 スターミーとピッピを戦闘不能にしたキュウコンが無様に倒れ、 驕っていたアヤも今では見る影もなく、必死になってキュウコンに呼びかけている。 ……当然の報いよ。 あたしが罪悪感を感じたりする必要はどこにもないわ。 あたしは無意識のうちに目を瞑った。 そうするのを待っていたかのように、 ゲンガーがキュウコンを嬲る音が、キュウコンの擦り切れた悲鳴が、アヤの懇願が響き始めた。 「負けは許しません。立ちなさい!」 「たかが麻痺でしょう、どうして動けないんですか!」 「もう……もういいです。キュウコン、あなたには失望しました」 「この勝負はわたしの負けで構いません。ゲンガーを止めて下さい。  今の状況ではボールに戻すことができないのです」 「お、お願いですっ。このままではキュウコンが死んでしまう」 アヤの言葉は時間が経つごとに震えを増していった。 あたしは全て無視した。聞こえないフリをした。 ゲンガーを制御できないことを明かさなかった。 「ああっ、もう見ていられません。不本意ですが――」 不自然に声が途絶える。 ゲンガーの暴行は何事もなかったかのように続けられている。 あたしはアヤが黙りこくった理由を知りたくて目を開けた。 厚い雲の切れ間から覗いた月の光が、 ガーターベルトに取り付けられたボールに手を触れたまま停止したアヤを淡く照らしていた。 瞳には赤い光。 あたしは否応なく、同じように硬直させられたエリカさんを思い出す。 心の麻酔が解けていく。 そして視線をゲンガーとキュウコンに向けたとき、 どれだけ自分が最低なことをしたかを思い知った。 「あ……ああ……」 ポケモンは道具じゃないなんて、どの口が言えたんだろう。 ゲンガーを「アヤを倒す道具」として使ったのは誰? 暴走は免れない。 それを止める術もない。 全て分かっていた上で、同じ轍を踏んだのは誰? 「やめ、て……」 ゲンガーがキュウコンを一蹴する。 既に抵抗力を失ったキュウコンは、受け身を取ることもできずに転がっていく。 あたしはゲンガーを裏切った。 危険だから、何が起こるか分からないからと言ってボールの中に閉じ込めてきたゲンガーを、 その場の感情を満たすためだけに、暴走を利用する形で解き放ってしまった。 スターミーやピッピの仇なんて、その裏切りを正当化するための言い訳だった。 「もう……やめて……お願い……」 届かない。 どんなに声を張り上げても、あたしの思いは届かない。 ゲンガーは散歩中に脚を引っかけたような軽さで、 キュウコンの脇腹を蹴り上げる。もうキュウコンの喉は掠れた声さえ上げなかった。 やがて嬲るのにも飽きたらしいゲンガーが、左腕を天高く掲げにんまりと笑う。 あたしは戦慄した。 状況はタマムシでのジム戦を擬えている。 ただ一つ違っていることは、エリカさんのお父さんのような強いポケモントレーナーが近くにいないということ。 あの氷刃がキュウコンを貫くところを黙って見過ごすしかないということ。 「いや……こんなの、いや………」 悔しくてたまらない。情けなくてたまらない。 あたしが強ければ、ゲンガーを使わないでアヤに勝てるくらいに強ければ、こんなことにはならなかった。 涙でぼやけた視界の先で、月光に薄められた暗闇の中、 ゲンガーがゆっくりとキュウコンに歩み寄るのが見えた。 まるで風前の灯火のように、キュウコンの瞳が"妖しい光"を放つ。 しかし瞳術の扱いはゲンガーの方が上だった。朱い光はすぐにかき消えた。 「もうやめて……おねがい……」 ゲンガーは刃と化した腕を天高く振り上げた。 一点で静止。 そのまま、ずっと振り下ろさないで。 振り下ろされたとしても、どうか、外れて――。 何かを突き立てるような鈍い音のすぐ後に、耳を塞ぎたくなるような苦悶の呻き聞こえてくる。 キュウコンは今や血塗れになっている。 咄嗟の祈りはやっぱり神様に届かなかった。 『……元に戻って、ゲンガー』 でも、無意識に呟いたその一言は、あの不器用で心優しいゲンガーに届いていた。 「……うー……」 影の刃はキュウコンに向かうことなく、ゲンガーの胸を深々と貫いていた。 暴走状態なのかそうでないのかは確認するまでもなかった。 前世の記憶に乗っ取られたゲンガーは、あのヘンテコな鳴き声を出さない。 でも、尋ねずにはいられない。 「……ゲンガー? ゲンガーなの?」 「うー、うー」 大きな口を三日月の形に歪む。 ポケモンタワーで出会ってからというもの、ずっと不気味にしか思えなかったその表情も、今見直すと、ゲンガーの精一杯の笑顔であることが自然に理解できた。 『心配しなくていい』 穏やかな赤色の瞳が語っていた。 『もう二度と暴走したりはしないから』 痛くてたまらないくせに、 苦しくてたまらないくせに、 間延びしたチェロの音のような、昔聞いた子守歌のような鳴き声で、 涙が止まらないあたしを宥めようとしてくれている。 「あたしが憎くないの?  あたし、あなたのことを利用したわ。  その所為で傷つけたくないポケモンを傷つけて、  あともう少しのところで殺しそうになって、  それで、それで――」 「うーう」 ゲンガーはゆるゆると首を振った。 刃が引き抜かれる。 黒々とした血がどっと噴き出し、足許のキュウコンの身を濡らす。 「うぅ……」 それを境にして、ゲンガーは輪郭を失っていった。 ゆっくりと闇に溶け出していく。 まるで水に浮いた氷が溶けて、見分けがつかなくなるみたいに。 「待って! 消えないで!」 咄嗟にハイパーボールを投げる。 閃光がゲンガーを周りの暗闇ごとボールの中に取り込む。 それでもあたしは安心できなかった。 跳ね返ってきたボールを拾い上げ、僅かに増えた重みを確かめてみても、中にゲンガーが入っていると実感できなかった。 全てが悪い夢の中の出来事だったような気がした。 「キュウコンっ」 瞳術が解けたのだろう、 たたた、とアヤがキュウコンの元に駆け寄ってくる。 雪のように白い手が血濡れた毛を撫でる。 アヤは言った。 「よく頑張りました……ええ、あなたはわたしの誇りです……」 「…………」 キュウコンは応えなかった。 閃光。 ポケモンのいなくなった血溜まりの真ん中で、アヤは静かに顔を上げた。 小さな瞳から流れる大粒の涙が、 キュウコンがゲンガーに嬲られる間に感じた怒りや悲しみの度合いを示していた。 殺意の籠もった視線に、今度はあたしが身動きがとれなくなる番だった。 「わたしは二つ、間違いを犯していました」 キュウコンのボールがガーターリングに装着され、 別のボールのアタッチメントが解放される。 「一つは、キュウコンはわたしが思っていた以上に大切なポケモンだったことです。  あなたのゲンガーがキュウコンを瀕死にした時、  わたしは心の底からキュウコンを救いたいと感じました。  今し方のポケモンバトルは、わたしの固定概念を変えてくれました。  それには感謝しなければなりません。  この切欠がなければ、わたしはきっとこれからも、  キュウコンに上辺だけの愛情を注いでいたに違いありませんから」 ボールが掌の上で膨らむ。 Hを模した黄色のラインがあたしの目にはっきりと映る。 「そしてもう一つは、わたしがあなたのことを過小評価していたことです。  今までの言動、情動、行動から、  あなたは冷徹にはなれないタイプの人間だと思い込んでいた。  しかし、それは大きな間違いでした。  あなたはわたしよりもずっと冷酷なポケモントレーナーです。  そしてあなたに忠実だったあのゲンガーは、  わたしのキュウコンよりもずっと残虐なポケモンです。  もし最後の"妖しい光"でゲンガーが錯乱し自傷しなければ、  確実にキュウコンは死んでいたでしょう」 違うわ、ゲンガーは"妖しい光"によって錯乱したんじゃない。 暴走を止めるために自分を傷つけたのよ……。 誤解を解くための言葉は、所詮、アヤにとっては言い訳の羅列でしかない。 それに、一時でもポケモンを道具扱いしたあたしに反論する資格なんてないように思えた。 「あなたには……報いを受けてもらいます」 一瞬の逆光が、暗闇を背景に大きな獣の姿を浮彫にする。 キュウコンと対極に位置するような黒い肢体のそのポケモンは、 写真を含めて、あたしが初めて目にするポケモンだった。 呼吸に合わせて漏れる炎が鋭い牙を照らし、 反り上がった角は月光を静かに弾いていた。 アヤは言った。 「予告します。  今からわたしはあなたを一度だけ攻撃します。  ポケモンを盾にするか、そうしないかはあなたが選択することです」 「そんなの、考えるまでもないわ」 ベルトから全部のボールを取り外していく。 アヤは失望を深めた白い視線をあたしに向け、 「あなたがポケモンを盾にする選択をすることは分かって――」 困惑したように下唇を噛んでいた。 取り外したボールは、今では遠く離れた草むらのどこかに転がっている。 「さあ、あたしを攻撃して」 それであなたの気が済むのなら。 あたしが犯した罪が償われるのなら。 「手加減はしませんよ。考え直すなら今の内です」 「これでいいの」 ――怖くなんかない。 そう強がってみたところで震えはちっとも止まらなくて、 あたしは両腕で自分を抱き締めた。 膝が笑う。へたり込む。 恐怖で身体の自由が利かない。 それでも視線だけは真っ直ぐにしていようと努力した。 「ヘルガー……」 アヤは傍らのポケモンにそう呼びかけてから、長い間沈黙を保っていた。 でも、キュウコンの無残な姿が脳裡を過ぎったのかもしれない、 太股のあたりの視線に落とし、次の瞬間には毅然と命令を下していた。 「"火炎放射"」 キュウコンの"火炎放射"と比べものにならないほどの劫火が、視界を埋め尽くす。 庇ってくれるポケモンはいない。 あたしにあの炎が避けられるはずもない。 不意に、カントー発電所の中枢であたしをキュウコンの"炎の渦"から守ってくれた男の子のことを思い出す。 ねえタイチ。 自分の身体を盾にしてあたしを助けてくれた時、あんたはどんな気持ちだったの? あたし、怖いの。 迫り来る炎が怖い。 熱いのが怖い。 火で肌を炙られるのが怖い。 いつかタイチがあたしに追いついた時、あんたはあたしの醜い火傷の痕を見てなんて言うのかしら。 折角あのとき俺が庇ってやったのに……とか言って怒るのかな。 ううん、それ以前に、あたしがあたしだと分からないかもしれない。 それはとても寂しいことのように思える。 諦めが全身を支配する。 そうして次の瞬間には、あたしは空を飛んでいた。 「助けに来たぜ、お姫様」 固く捕まれた右腕から力が抜けていく。 飛びっ切りに気障な台詞を責める言葉が出てこない。 代わりに込み上げてきた熱い塊が、「タイチ……タイチ……」と何度も喉を震わせた。 「ほらよっと」 タイチが軽々とあたしを引き上げてくれる。 「落ちないように手はここ……ってわざわざ言うまでもなかったな」 あたしはタイチの腰に手を回して、背中に頭を預けていた。 タイチの心臓の音が聞こえる。温かい。安心する。 泣き顔を見られたくなくてこうしているのに、次から次へと涙があふれ出してくる。 「怪我はないか」 「……うん」 「遅れて悪かったな」 「……うん」 「あれから俺も色々あってさ」 「……うん」 「でも話せば長くなるから、それはまた落ち着いた時に話すよ」 「……うん」 「今はアヤをなんとかしなきゃな」 「……うん」 「ま、俺が来たからにはもう大丈夫だ」 タイチは力強く言った。 「だから泣くな、ヒナタ」 するとまるで魔法がかかったように、涙がすっと引いていった。 顔を上げる。丁度振り向いたタイチと視線がぶつかる。 「うわおっ」 と大袈裟に仰け反るタイチ。 あたしたちを乗せた鳥ポケモンがぐらぐら揺れる。 あたしは片手でタイチにしっかり掴まりながら、もう片方の手で急いで頬を拭った。 涙でべちゃべちゃだった。 顔が熱くなるのを感じる。 「なによ……あたしの顔、びっくりするくらい酷かったの?」 「いや、違えよ」 「じゃ、じゃあなんであんな声出したの?」 「そりゃあ、あの、近かったから」 「……はぁ?」 「予想外にお前との距離が近かったから」 バカじゃないの、と思う。 でも何故かその答えが嬉しくて、おかしくて、 あたしは涙の痕を頬に残したまま笑っていた。 一度は離れたサファリの草原に再び降下していく。 タイチの鳥ポケモンは暗闇の中でも、地上との距離を完全に把握しているようだった。 まだ震えが残っている膝の所為で上手く歩けないあたしに、タイチは無言で寄り添ってくれた。 ……本当、女性の扱いに不慣れなのか手馴れているのか分からない。 アヤはあたしたちを睨み付けて言った。 「離脱したのではなかったのですね。何をしに戻ってきたんですか。  ボールの回収なら放置しますが、これ以上わたしの邪魔をするというのなら、  本気でヘルガーに攻撃させます」 傍らのシルエットが唸り声とともに荒々しい炎のブレスを吐く。 早く攻撃したくてたまらない、主人、今すぐ命令を――。 ヘルガーはそう言っているようだった。 歪んだ菱形の目からは獰猛な性格が伺えた。 「ヘルガー? 聞いたことのない名だな」 「新種の炎ポケモンよ。キュウコンより強いわ」 例えあれからタイチが成長していたとしても、勝てる相手じゃない。 せめてあたしのポケモンが万全で、それとタイチのポケモンが連携して初めて勝機が見えるくらいにヘルガーは強い。 でもタイチはあたしの言葉を軽く流して言った。 「へえ、じゃあ戦って確かめてみるか」 「後悔しますよ。わたしは滅多にこのポケモンを使いません。  それはヘルガーが加減を知らず、ほとんどの場合において相手ポケモンを死に至らしめるからです」 「面倒くせー御託はナシにしようぜ」 タイチがベルトからボールを外す。 閃光。 「行け、バクフーン」 秋の涼気が一気に吹き飛ばされ、真夏の熱帯夜のような熱気が辺りを覆う。 マグマラシから進化を遂げたバクフーンは、 揺らめく陽炎の中で静かに主の命を待つ。 「一撃で葬ってあげます」 「やれるもんならやってみな」 「ヘルガー――」 「バクフーン――」 下された命令が同じなら、 「「"大文字"」」 放たれた爆炎も同等だった。 炎と炎が互いを飲み込み合い、食らい合い、 そこに存在していた物を遍く焼き尽くし、灰燼に帰す。 暴れ回っていた炎と風が収まって、あたしがやっと直視できるようになった時、 ついさっきまで草原だった空間は地面ごと灼かれて、荒涼たる大地に様変わりしていた。 しばらくはこの場所に新しい命が芽吹くことはないだろうと確信できる光景だった。 「互角……!?」 「どうやらその通りみたいだな」 アヤは狼狽していた。 「有り得ません。わたしのヘルガーは特別です。  お父様だって認めてくれました。  バクフーンのような普遍的なポケモンとは違うんです」 「知らねえよ、そんなこと」 タイチはアヤとは違う意味で項垂れていた。 「ショックなのはアヤ、お前だけじゃないんだぜ。  俺としちゃあここで軽く力比べに勝ってカッコつけるつもりだったんだが……。  これじゃあ発電所の時から進歩したってヒナタに胸張れねえじゃねえか」 そんなことない。 あんたがあたしを間一髪のところで助けてくれたとき、タイチは凄く格好良かったわ。 それに今、こうやって目の前で戦っているタイチは、あたしの知っている誰よりも頼もしく思えるもの。 ――なんて言葉は、今は胸に仕舞っておく。 タイチは聞こえよがしに言った。 「さあて、これからどうするかな。  あと数分かそこらで増援が来るから、  それまで時間稼ぎするだけでもいいんだが、それもつまんねえよな?」 「あ、あたしに聞かないでよ。それに増援ってどういうこと?」 「俺がヒナタの元にやってこれたのは、何も奇跡が起こったからじゃない。  一旦ポケモンセンターに行って、そこでカエデと派手な女の子二人から話を聞いて、  慌ててコイツで飛んできたんだよ」 タイチが指の関節で、鳥ポケモンが入ったスーパーボールをコンコンと叩く。 「だからあともう少ししたら、カエデとその子たちもやってくると思うぜ」
「"火の粉"を撒き散らしなさい」 とアヤは言った。広範囲攻撃で炙り出すつもりなのだろうか。 しかしスターミーに対して火の粉はあまりに効果が薄すぎるし、 炎の渦を通り抜けた(水鉄砲で火力は弱められていたけど)ピッピがそれに動じるとは思えない。 キュウコンが九尾を波打たせる。 大量の火の粉が舞い上がる。 あたしは一瞬、夜空の星の数が倍になったように錯覚する。 「ポケモンよりも、自分の身を案じた方がいいですよ。  火の粉の攻撃範囲はあなたにまで及びます」 目は降り注ぐ火の粉に注がれたまま、 耳はアヤの自信に満ちたソプラノを聴いている。 花火の真下にいるようなものだ。 避けようがない。 「……っ」 恐怖に目を瞑る。 でも、いつまで経っても火の粉は降り注がなかった。 代わりにあたしは頭の上に若干の重みを感じて、 傘が雨粒を弾くようなパラパラという音を聞いた。 目を開ける。 溜息が出た。 「ピッピ、スターミー……。  もう、どうして隠れていないのよ。奇襲作戦が台無しじゃない」 頭の上には、あたしを守るようにピッピが乗っかっていて、 さらにその上で、スターミーが発動したのだろうか、 "光の壁"がゆっくりと舞い落ちてきた火の粉を受け止めている。 姿をさらしたピッピは当たり前のこと、 コアを発光させたスターミーの居場所は、 完全にアヤとキュウコンにばれてしまった。 折角立て直せたと思ったのになあ。 これで溜息を吐くなというほうが無理な話よ。 「トレーナー想いのポケモンですね」 アヤの皮肉を黙って受け止める。 アヤはピッピとスターミーの優先順位を読んでいた。 戦況が不利になると知った上であたしを助ける、という確信があった。 でも、あたしにはこの二匹のポケモンを責めることが出来ない。 余計なことしてくれちゃって、と思う一方で、その優しさに感謝しているから。 「どちらから仕留めましょうか。  キュウコン、好きな方を選びなさい」 朱い瞳がピッピを鋭く見据える。 先程の"叩く"はキュウコンのプライドをアヤと同じかそれ以上に傷つけていたのかもしれない。 咆吼が空気を震わせる。 暗闇の向こうで、身体の輪郭をぼんやりと光らせたキュウコンが低く身を屈めるのが分かる。 あたしは腹を括ることにした。 アヤとキュウコンから慢心は消えている。 もう奇襲の体勢を取ることは叶わない。 スターミーとピッピの二匹で、真正面からぶつかるしかない。 そしてそこには、今まで封印してきた運に頼るという選択肢も含まれている。 「"指を振って"、ピッピ」 ピッピは頷き、あたしから離れていく。 思考の縁には今も、キクコお婆さんの言葉が引っかかっている。 ――ヒナタちゃんが危機に陥ったときも、そのピッピは見当違いの技を発動させていたのかえ?―― お婆さんはあの時、とりもなおさずピッピが"指を振る"の乱数的な特性を制御できると言いたかったのではないだろうか。 その仮定に一縷の望みを掛ける。 「ピッピを援護して、スターミー」 あたしがそう言い終わるよりも先に、キュウコンは"電光石火"を発動していた。 疾走。 跳躍。 踏みつぶされれば小さなピッピは一溜まりもない。 指の振りが止まる。 欲はなかった。 その瞬間、あたしが望んだのはピッピがキュウコンの速攻を切り抜けられること、ただそれだけだった。 「キャウンッ!」 短い鳴き声が上がり、 キュウコンの体躯が不自然な方向に転がっていく。 果たしてピッピが発動したのは"リフレクター"だった。 物理攻撃を防ぐためじゃない、キュウコンの移動を制限するための防護壁。 「……ぐ、偶然ですっ」 「かもね。でも、凌いだことに変わりはないわ」 間髪入れずにスターミーが水鉄砲を発射する。 キュウコンのブレスが水の塊を水蒸気に変え、 辛うじて届いた水飛沫でさえ体表熱で尽く気化されていく。 でも、それは発電所で戦ったときに一度見た光景だった。 「スターミー、移動しながら角度を変えて、小刻みに"水鉄砲"を撃って」 一発一発の威力は低くて構わない。 元よりこのレベル差だもの、水鉄砲をいっぱい浴びせたところで決定打になるとは思っていない。 動きを封じることができればそれでいい。 あたしの命令は上手く機能した。 キュウコンはピッピに接近しようとしているものの、 変則的な間隔で変則的な角度から放射される変則的な水量の水鉄砲の相殺に追われて身動きが取れない。 「……なんて鬱陶しい……。  ピッピは後回しで構いません。スターミーから潰すのです」 「ピッピ、もう一度"指を振る"のよ。  スターミーは"光の壁"を前面に張って、できるだけキュウコンを寄せ付けないで」 キュウコンが駆ける。 水鉄砲を相殺することをやめて、素早い身のこなしで水鉄砲の全てを躱しながら、 スターミーの"光の壁"の領域内に侵入する。 迎撃はまったくの無駄に終わった。 鈍い音が響き渡り、五芒星の身体がくるくると宙を舞った。 「くっ……」 スターミーが地面に落ちる頃には、既にキュウコンは"電光石火"で移動を済ませていた。 弱々しく点滅するコアに容赦なく前脚をかける。 ミシミシという音が聞こえてきそうなほどに。 アヤは余裕に満ちた声で言った。 「降服してください。  わたしは余分にポケモンを殺して快感を覚えたりはしません。  できるならこのスターミーのコアを砕きたくない」 「…………」 「早く答えて下さい。  キュウコンが加減を間違えないうちに。  それともまだピッピの"指を振る"が奇跡を起こすと信じているんですか」 急かすアヤ。 でもあたしは知っている。 半ば勝ちを確信して気を緩めているアヤと違って、 キュウコンはピッピの"指が振る"に焦りを感じている。 恐らくは今まで他のポケモンに触れられたことがなかっただろう頬を思いっきり叩かれ、 予想外の"リフレクター"で足下をすくわれたキュウコンは、 予測不可のピッピの攻撃を少なからずとも怖れている。 「いけるわね、ピッピ?」 「ぴぃ」 スターミーを踏みつけたキュウコンとピッピの距離は、今や数メートルしか離れていない。 ピッピの小さな指が静かに止まる。 それと同時に、キュウコンは首を横に逸らして"火炎放射"を吐きかけた。 ポケモンの独断専行を、しかしアヤは咎めなかった。 ――どうせ結果は変わらない。 そう思っているに違いない。 劫火が迫る。 キュウコンの"火炎放射"を凌げる技があるとしたら何だろう。 それが"指を振る"によって選び取られる確率は何パーセントくらいだろう。 そしてもし仮に凌げたところで、その次の攻撃を凌げる確率は何パーセントくらいなんだろう。 絶望的に低い数字であることは分かる。 でもあたしは信じていた。 ピッピも信じていた。 ピッピが大きく口を開く。 「ぴぃ~~~!!!!」 今までに聞いたことがないくらいの高い鳴き声とともに放射されたのは、 キュウコンの"火炎放射"と同等かそれ以上の劫火だった。 "物真似"――相手が最後に使用した技をコピーする特殊技。 「凄い……」 炎が混じり合う。 熱気が遠く離れたあたしにまで伝わってくる。 炎の直中から、パリンという涼しい音が聞こえてくる。 幸運の女神様はピッピに味方してくれていた。 スターミーが展開した"光の壁"はキュウコンの"火炎放射"を減衰させていた。 もしそれがなかったら、ピッピは特殊能力値の差から撃ち負けていたかもしれない。 ピッピの"火炎放射"がキュウコンを包み込む。 炎タイプの技を吸収するキュウコンの特性『貰い火』で、ダメージを与えることはできない。 でも、あたしの狙いはそこじゃない。 「キャウンッ!」 キュウコンが反射的に怯み、スターミーを踏みつけていた脚が持ち上がる。 スターミーはあたしが言わずとも理解していた。 あたしがピッピを信じていたように、スターミーもピッピを信じていた。 渾身の"水鉄砲"が零距離で放たれる。 大量の水がキュウコンの全身を打つ。 あたしは勝利を確信した。 その時だった。 「避けてはダメ。耐えなさい」 命令するアヤの表情に色は無かった。 あたしはようやく感覚的に、自分とアヤの違いが分かった気がした。 アヤは言った。ポケモンは人間の道具に過ぎない、愛でるも殺すも人間の思惑次第だ、と。 アヤは勝利のためなら自分のポケモンが瀕死になることを厭わない。 例えそのポケモンを常日頃愛する"素振り"を見せていたとしても、瀬戸際に立てば少しの逡巡もなく酷薄な指示を出す。 あたしにはそんなこと、絶対に真似できない。 水鉄砲が止まる。 キュウコンは辛うじて持ちこたえているように見えた。 呼吸は遠目に見ても荒く、全身が幽かに震えている。 アヤは淡々と言った。 「割って」 ピシ、と耳障りな音が鳴る。 コアに亀裂が入ったスターミーから無声の悲鳴が上がる。 「嘘……嘘よ、こんなの」 「嘘ではありません。現実です。  キュウコン、"炎の渦"でピッピを捕らえなさい」 迫力を失った、それでも十分すぎる火力の炎がピッピを囲う。 「ぴぃっ……、ぴぃ……、ぴぃっ……」 激しく咳込みながら炎の壁を突き抜けてきたピッピは、そのまま草むらに倒れこんだ。 身体のいたるところに火傷を負っているようだった。 キュウコンが退く。 入れ替わりにアヤが前に進み出る。 「勝敗は決しました」 戦闘途中の感情の起伏があたしの幻覚だったみたいに、声音は冷たいものに戻っていた。 アヤは事務的に言葉を連ねていく。 「もう一度言います。直ちにこの場から立ち去って下さい。  サファリパーク内で見たことを全て忘れると誓って下さればこのまま園外に返してあげます。  不法侵入についても咎めません」 「……………」 あたしは酷く傷ついた二匹のポケモンを眺めた。 瀕死だ。一目見れば分かる。特にコアを割られたスターミーは危険な状態のようだった。 でも今すぐにポケモンセンターに連れて帰れば大丈夫のように思えた。 また、仲介しようとして火炎放射を浴びせかけられたラッキーも、 今すぐポケモンセンターに連れて行けば回復するかもしれなかった。 冷静に考えるのよ。 ここで一番に優先しなければならないことは何? ポケモンの命に決まってるじゃない。 この子たちはあたしを守ることを第一に考えてくれた。 なら、トレーナーもそれに報いるのが道理というものでしょう。 理性はアヤに従うことを受け入れていた。 でも感情はその選択肢を頑なに拒んでいた。 このチャンスを逃せば終わりかもしれないのよ? ピカチュウに繋がる手がかりを永遠に失ってしまうかもしれない。 本当にそれでいいの? 諦めていいの? スターミーもピッピはあたしが折れることを望んでいるかしら。 ううん、きっと望んでいない。 あと一歩のところまで来ているのよ。 あの子たちが受けた傷を無意味にしてはダメ。 あたしはアヤに勝たなければならない。 絶対に。 「まだ……じゃない」 「え?」 「まだ、終わりじゃない」 「感情的になるのは見苦しいですよ。  あなたの使えるポケモンは全て戦闘不能になったはず――」 あたしは首を振る。 スターミーとピッピをボールの中に戻す。 そして長い間閉じたままにしてあったアタッチメントを解放する。 迷いはなかった。心は都合の良い麻酔によって感覚を失っていた。 ボールを落とす。無明の闇にHの文字だけが浮かび上がる。 あたしは言った。 「出て、ゲンガー」 閃光に照らされた輪郭はすぐに失われ、 あたしはまるでゲンガーのいる場所の暗闇が、質量を持ったように錯覚する。 戦いが始まったときからずっと、ゲンガーはボールをカタカタと震わせていた。 場に出されるまでもなく、ゲンガーは我を失っていた。 「ゲンガー……?  主力はスターミーではなかったということですか」 アヤの精緻な顔が驚きに歪む。 あたしはそれにささやかな優越感を感じる。 ゲンガーの強さが裏打ちする趨勢の転換に安心感を抱く。 言うまでもなく、あたしの頭の中から冷静な判断力は失われていた。 「何故初めからそのポケモンを使わなかったのか疑問です」 「色々と事情があるのよ」 「そうですか。しかし、あなたは後出ししたこと後悔することになります。  二対一でしかも不確定要素が存在した先程の戦闘に比べて、  一対一の純粋な力比べでわたしのキュウコンが負けることはありえないのです」 あたしは思った。 アヤは生まれてから一度もポケモンバトルで負けたことがないのかもしれない。 そうでもない限り、最終進化形態のポケモンを相手にして自信満々でいられるわけがない。 「後悔するのはアヤ、あなたの方だと思うわ」 「時間の無駄ですね」 アヤはキュウコンの首を抱いて、 「キュウコン、手早く済ませなさい。  水を浴びせかけられた所為で寒いでしょう。  帰ったら暖めてあげます」 甘いソプラノでそう言った。 それはポケモンに愛情を惜しみなく注ぐトレーナーの模範的な図で、 至近距離からの水鉄砲を受け止めろと命令したその時のアヤの声を、表情を、あたしはもう思い出すことが出来ない。 ――くぅん。 キュウコンは九尾を大きく広げながらアヤの元を離れた。 スターミーの攻撃でダメージを負っていることは確かだけど、 それを感じさせない力強い足取りであたしの方に向かってくる。 目の前の濃密な闇がぬらりと動いたのはその時だった。 風が止まる。 波打っていた草原が項垂れる。 虫の音がフェードアウトする。 星が、月が、どこからともなく沸きだした雲に覆い隠されていく。 完全といっても良いほどの闇の中で、 キュウコンだけがまるで蛍光塗料を塗られているかのようにぼんやりと光っている。 首を忙しなく動かしてゲンガーの気配を察知しようとしている。 「警戒を怠ってはダメ。そのまま四方に気を配りなさい」 とアヤはあくまで冷静に言った。 でもキュウコンと同じく、ゲンガーがスターミーやピッピとは違う特別なポケモンであることを薄々勘付いているはずだった。 あたしはただ目だけを動かして状況を見守る。 命令したところでゲンガーが従ってくれることはあり得ない。 それはエリカさんとの戦いで嫌と言うほど思い知っている。 そうして、あたしの意志がどこにも存在しないポケモンバトルが始まった。 時間帯は夜。 月明かり星明かりは封じられて、人工的な明かりは遙か遠い。 ゴーストタイプにとっては最高のフィールドと言える。 ゲンガーの移動は音も無ければ視界を掠めもしなかった。 「ウゥ」 唸り声が静謐を破る。 「……いつの間に?」 胸に蓄えられた見事な毛並みが、鮮血で濡れていた。 恐らく攻撃を受けたキュウコン自身でさえ、 いつ攻撃されたのか分かっていないのだと思う。 キュウコンの動きが乱れ始める。一時たりともじっとしていない。 あたしにはその気持ちがよく分かった。 ポケモンタワーでゲンガーに襲われたとき、 あたしは自分を包む暗闇が怖くて怖くて仕方なかった。 「"火の粉"を明かりの代わりにするのです。  消費のことは気にしなくて結構。発動限界までに仕留めればいいことです」 ボッと火の粉が舞い散り、キュウコンの付近一帯を明るく照らし出す。 よくよく見てみれば、キュウコンは左足の付け根や背中にも浅い切り傷を受けていた。 胸の傷も明かりの下で見直すとそう深くないようだった。 あたしはその痕跡から、ゲンガーの意志を読み取ることが出来た。 傷が浅いのはキュウコンの回避能力が高かったからじゃない。 ゲンガーは多分、戦いを長引かせて愉しんでいる。 ――エリカさんのラフレシアを嬲った時と同じように。 視界を得て同事に恐怖も消えたのだろう。 「オォ―――ン」 キュウコンは控えめに吠え、"火の粉"を纏いながら野原を駆け巡る。 ゲンガーは呆気なくその姿を晒した。 寸胴の身体。 尖った耳。 ルビーの原石のような暗い赤の瞳。 短い腕と脚のうち、 左腕だけが漆黒の氷刃と化している。 それがラフレシアに振り上げられた時の記憶を、あたしは何故かよく思い出すことができない。 まるで誰かに蓋をされたみたいに。 「"火炎放射"」 キュウコンが数メートルの距離を挟んで身を屈める。 "火の粉"が消え、僅かなタイムラグの後、凄まじい劫火がゲンガーを焼き尽くした――かに思えた。 いいえ、それは嘘。 あたしは最初からゲンガーがやられるなんて思っていなかった。 「ァ……アァ……、…アぁ……、ァ……」 ゲンガーの悶絶らしき響きが聞こえてくる。 「奇襲に特化したポケモンでも、居場所を暴けば何のことはありません」 暗闇の向こう側、あたしは憫笑しているアヤの姿を想像することができた。 だから、その表情が凍り付くところを想像するのはそう難しくなかった。 ――くぅん。 弱々しい鳴き声が、倒れ伏したキュウコンの口から、 細い炎のブレスとともに吐き出される。 ゲンガーはその傍らで、血のように紅い舌を出して笑っている。 "舌で舐める"攻撃は相手を麻痺させる追加効果がある。 「"火炎放射"は命中したはずなのに……躱せるわけがないのに……  キュウコンが接近を許すわけがないのに……どうしてっ………」 「ゲンガーは影を移動できるのよ」 「でも、"火の粉"でキュウコンの周りから影はなくなっていたはずですっ」 「"火炎放射"を発動する直前はどうだったかしら」 キュウコンは全力を持って焼き尽くすために、"火の粉"を纏うのをやめて"火炎放射"に力を集中させた。 その一瞬のうちにゲンガーは移動を終えていた。 ただそれだけの話よ。 アヤが叫ぶ。 そこにはあたしが初めて耳にする焦燥の色があった。 「今すぐ立ちなさい!」 キュウコンが前脚を地面に立てようとする。 体重をかけた途端に頽れる。 その繰り返しを、ゲンガーは長い舌を出したまま面白そうに眺めていた。 「立って! "電光石火"で一旦退くのです!」 胸のすくような気持ちだった。 罪のないサファリパークのポケモンを傷つけ、 スターミーとピッピを戦闘不能にしたキュウコンが無様に倒れ、 驕っていたアヤも今では見る影もなく、必死になってキュウコンに呼びかけている。 ……当然の報いよ。 あたしが罪悪感を感じたりする必要はどこにもないわ。 あたしは無意識のうちに目を瞑った。 そうするのを待っていたかのように、 ゲンガーがキュウコンを嬲る音が、キュウコンの擦り切れた悲鳴が、アヤの懇願が響き始めた。 「負けは許しません。立ちなさい!」 「たかが麻痺でしょう、どうして動けないんですか!」 「もう……もういいです。キュウコン、あなたには失望しました」 「この勝負はわたしの負けで構いません。ゲンガーを止めて下さい。  今の状況ではボールに戻すことができないのです」 「お、お願いですっ。このままではキュウコンが死んでしまう」 アヤの言葉は時間が経つごとに震えを増していった。 あたしは全て無視した。聞こえないフリをした。 ゲンガーを制御できないことを明かさなかった。 「ああっ、もう見ていられません。不本意ですが――」 不自然に声が途絶える。 ゲンガーの暴行は何事もなかったかのように続けられている。 あたしはアヤが黙りこくった理由を知りたくて目を開けた。 厚い雲の切れ間から覗いた月の光が、 ガーターベルトに取り付けられたボールに手を触れたまま停止したアヤを淡く照らしていた。 瞳には赤い光。 あたしは否応なく、同じように硬直させられたエリカさんを思い出す。 心の麻酔が解けていく。 そして視線をゲンガーとキュウコンに向けたとき、 どれだけ自分が最低なことをしたかを思い知った。 「あ……ああ……」 ポケモンは道具じゃないなんて、どの口が言えたんだろう。 ゲンガーを「アヤを倒す道具」として使ったのは誰? 暴走は免れない。 それを止める術もない。 全て分かっていた上で、同じ轍を踏んだのは誰? 「やめ、て……」 ゲンガーがキュウコンを一蹴する。 既に抵抗力を失ったキュウコンは、受け身を取ることもできずに転がっていく。 あたしはゲンガーを裏切った。 危険だから、何が起こるか分からないからと言ってボールの中に閉じ込めてきたゲンガーを、 その場の感情を満たすためだけに、暴走を利用する形で解き放ってしまった。 スターミーやピッピの仇なんて、その裏切りを正当化するための言い訳だった。 「もう……やめて……お願い……」 届かない。 どんなに声を張り上げても、あたしの思いは届かない。 ゲンガーは散歩中に脚を引っかけたような軽さで、 キュウコンの脇腹を蹴り上げる。もうキュウコンの喉は掠れた声さえ上げなかった。 やがて嬲るのにも飽きたらしいゲンガーが、左腕を天高く掲げにんまりと笑う。 あたしは戦慄した。 状況はタマムシでのジム戦を擬えている。 ただ一つ違っていることは、エリカさんのお父さんのような強いポケモントレーナーが近くにいないということ。 あの氷刃がキュウコンを貫くところを黙って見過ごすしかないということ。 「いや……こんなの、いや………」 悔しくてたまらない。情けなくてたまらない。 あたしが強ければ、ゲンガーを使わないでアヤに勝てるくらいに強ければ、こんなことにはならなかった。 涙でぼやけた視界の先で、月光に薄められた暗闇の中、 ゲンガーがゆっくりとキュウコンに歩み寄るのが見えた。 まるで風前の灯火のように、キュウコンの瞳が"妖しい光"を放つ。 しかし瞳術の扱いはゲンガーの方が上だった。朱い光はすぐにかき消えた。 「もうやめて……おねがい……」 ゲンガーは刃と化した腕を天高く振り上げた。 一点で静止。 そのまま、ずっと振り下ろさないで。 振り下ろされたとしても、どうか、外れて――。 何かを突き立てるような鈍い音のすぐ後に、耳を塞ぎたくなるような苦悶の呻き聞こえてくる。 キュウコンは今や血塗れになっている。 咄嗟の祈りはやっぱり神様に届かなかった。 『……元に戻って、ゲンガー』 でも、無意識に呟いたその一言は、あの不器用で心優しいゲンガーに届いていた。 「……うー……」 影の刃はキュウコンに向かうことなく、ゲンガーの胸を深々と貫いていた。 暴走状態なのかそうでないのかは確認するまでもなかった。 前世の記憶に乗っ取られたゲンガーは、あのヘンテコな鳴き声を出さない。 でも、尋ねずにはいられない。 「……ゲンガー? ゲンガーなの?」 「うー、うー」 大きな口を三日月の形に歪む。 ポケモンタワーで出会ってからというもの、ずっと不気味にしか思えなかったその表情も、今見直すと、ゲンガーの精一杯の笑顔であることが自然に理解できた。 『心配しなくていい』 穏やかな赤色の瞳が語っていた。 『もう二度と暴走したりはしないから』 痛くてたまらないくせに、 苦しくてたまらないくせに、 間延びしたチェロの音のような、昔聞いた子守歌のような鳴き声で、 涙が止まらないあたしを宥めようとしてくれている。 「あたしが憎くないの?  あたし、あなたのことを利用したわ。  その所為で傷つけたくないポケモンを傷つけて、  あともう少しのところで殺しそうになって、  それで、それで――」 「うーう」 ゲンガーはゆるゆると首を振った。 刃が引き抜かれる。 黒々とした血がどっと噴き出し、足許のキュウコンの身を濡らす。 「うぅ……」 それを境にして、ゲンガーは輪郭を失っていった。 ゆっくりと闇に溶け出していく。 まるで水に浮いた氷が溶けて、見分けがつかなくなるみたいに。 「待って! 消えないで!」 咄嗟にハイパーボールを投げる。 閃光がゲンガーを周りの暗闇ごとボールの中に取り込む。 それでもあたしは安心できなかった。 跳ね返ってきたボールを拾い上げ、僅かに増えた重みを確かめてみても、中にゲンガーが入っていると実感できなかった。 全てが悪い夢の中の出来事だったような気がした。 「キュウコンっ」 瞳術が解けたのだろう、 たたた、とアヤがキュウコンの元に駆け寄ってくる。 雪のように白い手が血濡れた毛を撫でる。 アヤは言った。 「よく頑張りました……ええ、あなたはわたしの誇りです……」 「…………」 キュウコンは応えなかった。 閃光。 ポケモンのいなくなった血溜まりの真ん中で、アヤは静かに顔を上げた。 小さな瞳から流れる大粒の涙が、 キュウコンがゲンガーに嬲られる間に感じた怒りや悲しみの度合いを示していた。 殺意の籠もった視線に、今度はあたしが身動きがとれなくなる番だった。 「わたしは二つ、間違いを犯していました」 キュウコンのボールがガーターリングに装着され、 別のボールのアタッチメントが解放される。 「一つは、キュウコンはわたしが思っていた以上に大切なポケモンだったことです。  あなたのゲンガーがキュウコンを瀕死にした時、  わたしは心の底からキュウコンを救いたいと感じました。  今し方のポケモンバトルは、わたしの固定概念を変えてくれました。  それには感謝しなければなりません。  この切欠がなければ、わたしはきっとこれからも、  キュウコンに上辺だけの愛情を注いでいたに違いありませんから」 ボールが掌の上で膨らむ。 Hを模した黄色のラインがあたしの目にはっきりと映る。 「そしてもう一つは、わたしがあなたのことを過小評価していたことです。  今までの言動、情動、行動から、  あなたは冷徹にはなれないタイプの人間だと思い込んでいた。  しかし、それは大きな間違いでした。  あなたはわたしよりもずっと冷酷なポケモントレーナーです。  そしてあなたに忠実だったあのゲンガーは、  わたしのキュウコンよりもずっと残虐なポケモンです。  もし最後の"妖しい光"でゲンガーが錯乱し自傷しなければ、  確実にキュウコンは死んでいたでしょう」 違うわ、ゲンガーは"妖しい光"によって錯乱したんじゃない。 暴走を止めるために自分を傷つけたのよ……。 誤解を解くための言葉は、所詮、アヤにとっては言い訳の羅列でしかない。 それに、一時でもポケモンを道具扱いしたあたしに反論する資格なんてないように思えた。 「あなたには……報いを受けてもらいます」 一瞬の逆光が、暗闇を背景に大きな獣の姿を浮彫にする。 キュウコンと対極に位置するような黒い肢体のそのポケモンは、 写真を含めて、あたしが初めて目にするポケモンだった。 呼吸に合わせて漏れる炎が鋭い牙を照らし、 反り上がった角は月光を静かに弾いていた。 アヤは言った。 「予告します。  今からわたしはあなたを一度だけ攻撃します。  ポケモンを盾にするか、そうしないかはあなたが選択することです」 「そんなの、考えるまでもないわ」 ベルトから全部のボールを取り外していく。 アヤは失望を深めた白い視線をあたしに向け、 「あなたがポケモンを盾にする選択をすることは分かって――」 困惑したように下唇を噛んでいた。 取り外したボールは、今では遠く離れた草むらのどこかに転がっている。 「さあ、あたしを攻撃して」 それであなたの気が済むのなら。 あたしが犯した罪が償われるのなら。 「手加減はしませんよ。考え直すなら今の内です」 「これでいいの」 ――怖くなんかない。 そう強がってみたところで震えはちっとも止まらなくて、 あたしは両腕で自分を抱き締めた。 膝が笑う。へたり込む。 恐怖で身体の自由が利かない。 それでも視線だけは真っ直ぐにしていようと努力した。 「ヘルガー……」 アヤは傍らのポケモンにそう呼びかけてから、長い間沈黙を保っていた。 でも、キュウコンの無残な姿が脳裡を過ぎったのかもしれない、 太股のあたりの視線に落とし、次の瞬間には毅然と命令を下していた。 「"火炎放射"」 キュウコンの"火炎放射"と比べものにならないほどの劫火が、視界を埋め尽くす。 庇ってくれるポケモンはいない。 あたしにあの炎が避けられるはずもない。 不意に、カントー発電所の中枢であたしをキュウコンの"炎の渦"から守ってくれた男の子のことを思い出す。 ねえタイチ。 自分の身体を盾にしてあたしを助けてくれた時、あんたはどんな気持ちだったの? あたし、怖いの。 迫り来る炎が怖い。 熱いのが怖い。 火で肌を炙られるのが怖い。 いつかタイチがあたしに追いついた時、あんたはあたしの醜い火傷の痕を見てなんて言うのかしら。 折角あのとき俺が庇ってやったのに……とか言って怒るのかな。 ううん、それ以前に、あたしがあたしだと分からないかもしれない。 それはとても寂しいことのように思える。 諦めが全身を支配する。 そうして次の瞬間には、あたしは空を飛んでいた。 「助けに来たぜ、お姫様」 固く捕まれた右腕から力が抜けていく。 飛びっ切りに気障な台詞を責める言葉が出てこない。 代わりに込み上げてきた熱い塊が、「タイチ……タイチ……」と何度も喉を震わせた。 「ほらよっと」 タイチが軽々とあたしを引き上げてくれる。 「落ちないように手はここ……ってわざわざ言うまでもなかったな」 あたしはタイチの腰に手を回して、背中に頭を預けていた。 タイチの心臓の音が聞こえる。温かい。安心する。 泣き顔を見られたくなくてこうしているのに、次から次へと涙があふれ出してくる。 「怪我はないか」 「……うん」 「遅れて悪かったな」 「……うん」 「あれから俺も色々あってさ」 「……うん」 「でも話せば長くなるから、それはまた落ち着いた時に話すよ」 「……うん」 「今はアヤをなんとかしなきゃな」 「……うん」 「ま、俺が来たからにはもう大丈夫だ」 タイチは力強く言った。 「だから泣くな、ヒナタ」 するとまるで魔法がかかったように、涙がすっと引いていった。 顔を上げる。丁度振り向いたタイチと視線がぶつかる。 「うわおっ」 と大袈裟に仰け反るタイチ。 あたしたちを乗せた鳥ポケモンがぐらぐら揺れる。 あたしは片手でタイチにしっかり掴まりながら、もう片方の手で急いで頬を拭った。 涙でべちゃべちゃだった。 顔が熱くなるのを感じる。 「なによ……あたしの顔、びっくりするくらい酷かったの?」 「いや、違えよ」 「じゃ、じゃあなんであんな声出したの?」 「そりゃあ、あの、近かったから」 「……はぁ?」 「予想外にお前との距離が近かったから」 バカじゃないの、と思う。 でも何故かその答えが嬉しくて、おかしくて、 あたしは涙の痕を頬に残したまま笑っていた。 一度は離れたサファリの草原に再び降下していく。 タイチの鳥ポケモンは暗闇の中でも、地上との距離を完全に把握しているようだった。 まだ震えが残っている膝の所為で上手く歩けないあたしに、タイチは無言で寄り添ってくれた。 ……本当、女性の扱いに不慣れなのか手馴れているのか分からない。 アヤはあたしたちを睨み付けて言った。 「離脱したのではなかったのですね。何をしに戻ってきたんですか。  ボールの回収なら放置しますが、これ以上わたしの邪魔をするというのなら、  本気でヘルガーに攻撃させます」 傍らのシルエットが唸り声とともに荒々しい炎のブレスを吐く。 早く攻撃したくてたまらない、主人、今すぐ命令を――。 ヘルガーはそう言っているようだった。 歪んだ菱形の目からは獰猛な性格が伺えた。 「ヘルガー? 聞いたことのない名だな」 「新種の炎ポケモンよ。キュウコンより強いわ」 例えあれからタイチが成長していたとしても、勝てる相手じゃない。 せめてあたしのポケモンが万全で、それとタイチのポケモンが連携して初めて勝機が見えるくらいにヘルガーは強い。 でもタイチはあたしの言葉を軽く流して言った。 「へえ、じゃあ戦って確かめてみるか」 「後悔しますよ。わたしは滅多にこのポケモンを使いません。  それはヘルガーが加減を知らず、ほとんどの場合において相手ポケモンを死に至らしめるからです」 「面倒くせー御託はナシにしようぜ」 タイチがベルトからボールを外す。 閃光。 「行け、バクフーン」 秋の涼気が一気に吹き飛ばされ、真夏の熱帯夜のような熱気が辺りを覆う。 マグマラシから進化を遂げたバクフーンは、 揺らめく陽炎の中で静かに主の命を待つ。 「一撃で葬ってあげます」 「やれるもんならやってみな」 「ヘルガー――」 「バクフーン――」 下された命令が同じなら、 「「"大文字"」」 放たれた爆炎も同等だった。 炎と炎が互いを飲み込み合い、食らい合い、 そこに存在していた物を遍く焼き尽くし、灰燼に帰す。 暴れ回っていた炎と風が収まって、あたしがやっと直視できるようになった時、 ついさっきまで草原だった空間は地面ごと灼かれて、荒涼たる大地に様変わりしていた。 しばらくはこの場所に新しい命が芽吹くことはないだろうと確信できる光景だった。 「互角……!?」 「どうやらその通りみたいだな」 アヤは狼狽していた。 「有り得ません。わたしのヘルガーは特別です。  お父様だって認めてくれました。  バクフーンのような普遍的なポケモンとは違うんです」 「知らねえよ、そんなこと」 タイチはアヤとは違う意味で項垂れていた。 「ショックなのはアヤ、お前だけじゃないんだぜ。  俺としちゃあここで軽く力比べに勝ってカッコつけるつもりだったんだが……。  これじゃあ発電所の時から進歩したってヒナタに胸張れねえじゃねえか」 そんなことない。 あんたがあたしを間一髪のところで助けてくれたとき、タイチは凄く格好良かったわ。 それに今、こうやって目の前で戦っているタイチは、あたしの知っている誰よりも頼もしく思えるもの。 ――なんて言葉は、今は胸に仕舞っておく。 タイチは聞こえよがしに言った。 「さあて、これからどうするかな。  あと数分かそこらで増援が来るから、  それまで時間稼ぎするだけでもいいんだが、それもつまんねえよな?」 「あ、あたしに聞かないでよ。それに増援ってどういうこと?」 「俺がヒナタの元にやってこれたのは、何も奇跡が起こったからじゃない。  一旦ポケモンセンターに行って、そこでカエデと派手な女の子二人から話を聞いて、  慌ててコイツで飛んできたんだよ」 タイチが指の関節で、鳥ポケモンが入ったスーパーボールをコンコンと叩く。 「だからあともう少ししたら、カエデとその子たちもやってくると思うぜ」 タイチはアヤに向き直って言った。 「かかってこいよ、アヤ。  せめて多勢に無勢になるまでの間は純粋なポケモンバトルを楽しもうぜ」 あたしは溜息を吐く。 まったく、すぐに調子に乗るんだから……。 アヤはタイチの挑発を無視して、指で輪を作り、それをそっと口に入れた。 ピィ―――――ッ。 甲高い指笛の音が夜空に響動む。 一時の静寂を経て、大きな羽音が聞こえてくる。 オニドリルだった。 「逃げるのか」 「計算に基づいた合理的な策です。  わたしは負け戦はしない主義なのです」 ヘルガーをボールに戻し、オニドリルの大きな背に跨るアヤ。 それまでタイチに向けられていた視線が、冷ややかにあたしを一瞥する。 喉は震わせずに、唇だけが動く。 ――卑怯者―― そう読み取れた。 「…………ッ」 返す言葉が見つからなかった。元より、無かった。 「行きなさい」 オニドリルは不気味な嗄れ声でそれに応えた。 アヤが、ピカチュウの端緒が、あたしの手の届く範囲から離れていく。 やがて羽音が聞こえなくなり、 アヤとオニドリルの姿が夜空の闇に紛れた頃、 タイチはベルトからボールを外して言った。 「追え、エアームド」 ついさっきあたしを背に乗せてくれた鳥ポケモンの名はエアームドと言うらしい。 無駄な突起のない流線的な身体は、あたしにジェット機を連想させた。 鈍色の表皮は僅かな光を反射していて、まるで鋼の鎧のようだった。 「隠密飛行だ。追跡はアヤが着陸するまで続けてくれ」 頷き、一陣の風を残してエアームドは羽ばたいていった。 あたしが空を見上げた時、その姿は既に見えなくなっていた。 「ふうっ、これで一仕事終わったな」 タイチがどっかと草原に座り込む。 「あとはカエデたちが来るのを今か今かと待つだけだ」 「今か今かって、すぐにやってくるんでしょ……?」 「あれはブラフだ」 「え、じゃあカエデたちは、」 「まあ落ち着けよ」 タイチはあたしを遮って、仰向けになりながら言った。 「来るのは確かだ。けど空からヒナタを捜せた俺と違って、  この夜中に地上から俺たちを見つけ出すのは結構時間がかかると思う。  俺たちだけでサファリを脱出する手もあるが、  ヒナタのポケモンはみんな瀕死の状態にあるみたいだし、  バクフーン一体じゃ前から襲ってくる野生ポケモンを蹴散らせても、  背後から奇襲されたときにヒナタを守り通す自信がないからな」 「タイチ……」 「いやー、それにしてもアヤがすんなり撤退してくれて助かったぜ。  まさか自信満々で繰り出したバクフーンの必殺技が、  あっさり相殺されるとは思ってなかったからな――」 話すタイチを余所に、あたしはタイチが調子に乗っていると思い込んでいた自分を恥じた。 タイチはあたしよりもずっと深く考えていた。 あのまま真正面からヘルガーと戦ったとして、 もしもタイチのバクフーンが負けていたら、状況は最悪へと逆戻りしていただろう。 また、もし仮にタイチが勝利したからといって、 アヤがピカチュウの居場所を教えてくれるとは限らない。 アヤが固く口を噤んでしまえば、それで終わりだ。 タイチはそれを考慮してアヤに嘘をついた。 わざと泳がせ、アヤの拠り所の位置を探ろうとした。 「ありがとう、タイチ」 あたしはタイチに近づいて言った。 「あたし、どうしてこんな使い古された言葉しか言えないのかな。  もっと色々言いたいことがあるはずなのに、上手く言えないの」 「別に語彙ひねることねえよ。ありがとうの一言で充分だぜ」 「本当に?」 「本当に」 温かい沈黙が流れる。 あたしが心の中に渦巻く感情を頑張って言葉にしようとしたその時、 不意に近くの木立がざわめき、カエデが飛び出してきた。 「変な空気禁止ッ!!」 「カエデ!?」 「ず、随分早かったな?」 驚くあたしとタイチを見据え、 「このあたしに不可能はないの。  視覚なんて必要ない。匂いで分かるもの」 ふぁさっと髪を掻き上げる。引っ付いてた葉っぱが舞い落ちる。 格好いいのか格好悪いのか分からない。 「あーあ、イイトコだったのに」 「もったいなーい……」 遅れて出てきた二人組を、カエデは恐ろしい形相で睨み付けた。 「今なんて言ったか聞こえなかったんだけど? もう一度言ってもらえる?」 「な、なんでもありません」 その反応で満足したのか、再びあたしたちに視線を移し、 「タイチくんのエアームドは?」 「"空を飛ぶ"での離脱なら諦めてくれ。エアームドにはアヤを追わせてる」 「じゃあ、本当にアヤがここに居たのね?」 厳しい口調に、あたしはおずおずと頷きを返す。 「どうして、どうしてあたしに一言、声をかけてくれなかったのよ」 「それは……急がないと見失うと思って……」 二の句が継げない。 カエデは感情を抑えるように一息吐いて言った。 「とにかくここを抜けましょう」 「ここまで来たカエデなら承知してると思うが、  サファリのポケモンは今、普通の野生ポケモンと比べてずっと警戒的になってる。  無難なのはそいつらを刺激しないよう迂回路をとる方法だが、」 「ダメよ、それじゃあ傷ついたポケモンの体力が持たない。  四方をあたしたちのポケモンで固めて、追い払いながら突っ切るの」 出来るわね、という確認に、茶髪ショートと金髪ロングがぎこちなく首肯する。 ただ漠然と、あたしは無力だな、と思った。 コアに罅が入ったスターミー。 自ら刃を胸に突き立てたゲンガー。 全身のいたるところに火傷を負ったピッピ。 そして、そのピッピよりも酷い火傷を被ったラッキー。 今あたしできるのは、この子たちが命を繋ぎ止めること、ただそれだけ。 強くなりたかった。 他の誰にもポケモンを傷つけさせないくらいに、強くなりたいと願った。

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