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外伝7」(2010/06/25 (金) 02:33:56) の最新版変更点

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食堂で少し早めの昼食を終えた後、俺たちはタマムシ大学を後にした。 食事の後は動きたくない、という俺の希望を、散歩で腹ごなしするの、と却下したサヤは、 どうやら間近に控えたジム戦に、ようやく緊張感を覚え始めたようだ。 「さっきから歩くスピードが遅くなっているが、どうかしたのか」 「どうもしないわよ。  ねえ、サトシがレインボーバッジを手に入れたのって、いつくらい?」 「ん……四、五年くらい前になる」 「てことは、そのときはまだ、サトシは十五歳くらいだったのよね」 「まあ、そうだ」 「緊張した?」 訪ねてから、その質問が自分の心理状態を告白していることに気づいたのか、 即席の余裕の笑みを浮かべるサヤ。俺はあえてそれには触れず、 「そりゃあ、緊張したさ。  特に当時は、リザードンが言うことを聞いてくれなくて、  相性のいいポケモンがいないまま、挑戦しなくちゃならなかった」 主従関係が逆転していたあの頃が、今となっては懐かしい。 それだけの時間が流れたのか、と思う。 「一回で勝てたの?」 「ぎりぎりだったが、なんとか勝てた」 「ふ、ふぅーん」 俺はからかうような含みは持たせずに言った。 「そう不安がるなよ」 「べ、別に不安がってなんか、」 「サヤにとっては初めてのジム戦だ。  もしサヤが負けても、俺はサヤを馬鹿にしたりしない」 ヘルガーとタマムシジムの規定ポケモンのレベルには、埋めようのない懸隔がある。 どう転んだところで、サヤは負けないだろうが……。 水堀をまたぐ猿橋にさしかかったところで、サヤはぽつりと言った。 「サトシは、わたしの先生なのよ」 「……?」 「先生が、わたしが負けたときのことなんて、考えないで。  わたしは絶対に勝つわ。それも、相性の良さに頼った勝ち方じゃない、正々堂々とした戦い方で」 「俺はサヤを信じてる。練習通りにやれば、難なくレインボーバッジをゲットできるさ」 「ねえ、サトシ、もしわたしが勝ったら、そのときはご褒美をくれる?」 「ご褒美?何が欲しいんだ?」 このお嬢様に手に入らないものは存在しないはずだが……。 「それはこれから考えるわ。それで、返事は?」 「わかった。ただし、無茶な頼み事は聞けないからな」 「無茶な頼みって、タマムシデパートを丸ごと買収する、とか?」 よくわかっているじゃないか。 「そういうのはサヤの父親に頼めばいい」 「冗談よ。それじゃあ、わたし、行ってくるから」 サヤは嬉しそうに微笑み、たたた、と猿橋を駆けていく。 欄干にもたれかかり、水堀を泳ぎ回るコイキングを眺める。 サヤの試合開始時刻まで、まだ20分程度の時間がある。 俺はポケットからタマムシ大学の食堂で買った袋包みのパンを取り出し、小さくちぎっては放るを繰り返した。 やがて俺の真下にコイキングの群れができあがったところで、 残りの大きなパンのかけらを一息に放り込み、ボールを一つ展開する。 ピジョットは欄干に捕まり、開放感を噛みしめるように首をぐりぐりと回した。 「サヤの様子を見てきてくれ。  できるなら、声が聞こえる程度まで近寄れ」 「ピジョッ」 静かな羽音を残して、孤影は塀の向こう側に飛び去った。 俺は水堀外縁の遊歩道に設置された公用ベンチに腰掛け、楽な姿勢になって目を瞑った。 傍目からは、転た寝しているように見えることを祈る。 意識は空に。 視界は鳥瞰図に。 脳裏に描いた抽象的な風景は、極めて写実的な、現実の光景に成り代わる。 視界を借りた状態で、俺はピジョットの目が目標物を捉える時を待った。 待つこと数分。 ぐるぐると屋敷を見下ろしていた視界が、地面に近づき、固定される。 旋回していたピジョットがどこかの木の梢に留まったのだろう。 俺はささやかな高所から見える景色に満足した。 下座には黒犬を従えて佇む赤髪の女――サヤが。 上座には嫋やかな身熟しの和装の女――エリカが。 二人の唇が動く。ピジョットの耳は、空気を伝わる震えを敏感に拾い上げた。 「登録番号TA671-4098、桂小夜。レインボーバッジをもらいに来たわ」 「目的は存じておりますわ。  さりとて威勢の善し悪しで譲り渡せるほど、虹色の名を冠したバッジは軽くありませんのよ。  特にあなたの経歴は綺麗な白紙、所持ポケモンのレベル鑑定履歴もありません。  飛び級を狙う気持ちはわからないでもありませんが、行き過ぎた向上心は身を滅す、と忠告しておきますわ」 エリカの言葉は、辛辣なようで正しかった。 中堅トレーナーの登竜門であるセキチク・タマムシジムに、 バッジ取得経験ゼロ、所持ポケモン一体のトレーナーが挑むのは無茶を過ぎて無謀だ。 常識的に考えれば、誰でもその結論に至る。 だが不世出の適格者たるサヤと、薬によって限界まで潜在能力を引き出されたヘルガーの前では、常識は非常識と化す。 「ご託はいいわ。さっさと始めましょう?」 さして気にした風もなく、サヤは言う。エリカは着物の袂に右手を差し入れながら、 「せっかちですのね。申し遅れましたが、わたくしはこのタマムシジムのジムリーダー、エリカ。  全力で以て、あなたの実力を見極めさせてもらいます。  出なさい、ヒマナッツ」 現れたポケモンは、黄色の種子を連想させる姿形をしていた。 まだ子供で、育成中なのだろう。挑戦者に対する先鋒としては妥当な選択だ。 サヤは唇を真一文字に結び、エリカの出方を伺っている。 その緊張が伝播したのか、手に汗を握っている自分がいて…… 「――さん。――おにいさん」 誰かに体を揺すられている。 俺はうっすらと右目を開けた。左目はピジョットの視界を維持している。 俺の瞑想を邪魔したのは、年端も行かない小さな子供だった。 「こんなところで寝ていたら、置き引きに遭うよ。  ロケット団がなくなって、タマムシシティの治安は少し良くなったけど、それでも危ない人はたくさんいるよ」 「忠告ありがとう」 「おにいさんはこんなところで何をしているの?」 「散歩していたら眠くなって、少し眠ろうと思ったんだ。こんなに良い天気だから。  さあ、俺のことは気にしないで、君もどこかに遊びに行くといい」 「ボク、友達いないんだ。おにいさんが遊び相手になってよ」 「俺は忙しいから、他の人を探しておいで」 「でもおにいさん、全然忙しそうに見えないよ。お昼寝してたんでしょう?」 子供相手に論破されるとは……。 試合の様子は気になるが、今はここから立ち去ることが先決だ。小さな邪魔者がいない、静かな場所を目指して。 俺はため息をつき、両目を開けた。視界に奥行きが生まれる。 ベンチから腰を上げ、往来に歩き出すと、子供は当然のように着いてきた。 3分後。俺は振り返り、 「あのな……」 「どこに連れて行ってくれるの、おにいさん?」 出鼻をジャブで挫かれる。俺は歩みを再開した。若干歩幅を広くして。 「おにいさん、歩くのはやいよー。待ってよー」 距離が開いては走り、距離が開いては走りを繰り返しているのだろう。 子供の声に荒い吐息が混じり始める。同情を引く作戦か。 大人(厳密には未成年だが)をなめてもらっては困る。ここは毅然とした態度で突き放さなければ。 俺は再び振り返り、 「ねえ、どうしたの?」 純朴な笑顔を前に、何も言えなくなってしまった。 目頭を押さえる。厄介なことになった。 出し抜けに子供が言った。 「ね、おにいさんの腰についてるそれって、モンスターボール?」 頷く。 すると子供は見る間に目を輝かせて、 「わあっ、すごいや。それじゃあおにいさんは、ポケモントレーナーなんだね」 「そういうことになる」 「今までにどれくらいのポケモンを捕まえたの?」 「わからない」 「数え切れないくらい捕まえたんだねー」 わざと素っ気ない反応をしているというのに、会話は弾む。 ――自分に対する無関心を恐れない。 事なかれ主義の大人にはできず、無垢な子供にはできること。 目の前の子供は、つぶらな瞳を俺に向けて、 「おにいさん、ボクと一緒に、ポケモンを捕まえに行ってくれない?」 「一人で行けばいい」 「ボクね、トレーナー免許は持ってるんだけど、自分のポケモンは持ってないんだ」 俺は反射的に尋ねた。 「お母さんかお父さんからもらえなかったのか?」 子供は口を噤んだ。 「二人ともポケモントレーナーじゃないなら、  ポケモン協会支部に申請すれば、ポケモンを借りることができる。  保護者の許可はいるが、今時子供がポケモンを持つのに反対する親はいないだろう」 「無理だよ」 なぜ、と問う前に、子供は言った。 「ボク、孤児院暮らしだから」 あくまで笑顔は崩さずに。 「院長先生は、ボクたちがポケモンを持つことを認めてくれないんだ。エサ代がかかっちゃうから」 「それは……悪いことを聞いたな」 「気にしないで。ボクは全然気にしてないんだ。  ただ、時々一人が寂しくて、それで、ポケモンが欲しかったんだ」 その話が同情を引き、ポケモンを手に入れるための欺瞞である可能性は否めない。 しかし俺は翠緑色の瞳の奥に、澄んだ光の輝きを見た。 「俺には、お前に構っている時間はない。  だからお前と一緒にポケモンを捕まえに行ってやることもできない」 子供の表情が翳り、すぐに作り笑顔を浮かべる。 とても器用に、繕いがわからないほど巧みに。 「……おにいさんにはおにいさんの用事があるもんね。  迷惑かけてごめんね」 きびすを返し、駆け出しかけた子供の肩をつかむ。 「待て。ちょっと着いてこい」 「な、なに?」 「いいから」 「時間、いいの?」 「すぐに終わる」 こっちが無視していたときは嬉々として着いてきていたくせに、 いざこっちが先導しだすと不安げな態度をとるとは、天の邪鬼か、この子供は? ジム近くのポケモンセンターに到着すると、 俺は子供をロビーの椅子に残して受付カウンターに赴き、一匹のポケモンが入ったボールを返却してもらった。 あれは確か二ヶ月ほど前、タマムシシティで暗躍するシステム傘下外組織の解体任務を、金髪とこなしていた時のことだ。 首尾良く組織の首脳部を捕縛し、護衛も無力化したところで、俺と金髪は荒れた現場を掃除屋に引き継ぐ予定だった。 だがストライクの一太刀で絶命した護衛員の一人と、主を守ろうとして斬撃に巻き込まれた二体のポケモンの遺骸を見たとき、 俺は違和感に気づいた。護衛員のベルトに収まっているボールは三つ。事切れているポケモンは二体。 果たして残りの一体は、場に出されることなく、ボールに収納されていた。 金髪の「僕が預かろうか」という含みのある提案は却下した。 また掃除屋の手に渡れば最後、研究部署の治験にぼろ切れになるまで利用されることは目に見えている。 そして俺は、一時的に、そのポケモンを預かることにしたのだった。 引き取り手もなければ、野生に返して生きていけるほど成長してもいない。 おそらくは死んだ護衛員の一人も、最初から戦力として数えていなかったに違いない。 俺はそのポケモン――幼いドーブル――を持てあましていた。 「受け取れ」 ボールを手渡すと、子供は目をぱちくりさせて、上目遣いに俺を見た。 「もらっても、いいの?」 「こいつは元々俺のポケモンじゃない。昔の主は、今はいない。  大切に育てること……それさえ守れるなら、このドーブルは、お前のものだ」 俺の目は、未だ慧眼にはほど遠い。未来の適格者を物定められるほどの域には達していない。 だがこの子供の澄んだ瞳には、俺に賭けさせる力があった。 将来システムの目に留まるか、一介のポケモントレーナーとして終わるか、あるいは――システムの敵となるか。 「………」 心の内で自嘲する。ばかばかしい空想だ、と思う。 この子供と一緒に、持てあましていたドーブルを厄介払いできる。理由はそれで十分だ。 子供は両手でボールを包み込み、目の高さに持ち上げる。 透明の半球面から外界を覗いていたドーブルと、視線が交わる。 「君も独りぼっちだったんだね。ボクたちは、似たもの同士だ」 子供はくすりと笑った。初めて見る、純粋な感情の発露だった。 「友達になろう?そうすればもう、独りじゃないよ」 ボールの中で、ドーブルはこくりと頷いた。通じ合うものがあったようだ。 子供は丁寧にボールをポケットに仕舞った。 今更ながら、子供の服装が、だぶだぶのサイズであることに気づく。 「ありがとう、おにいさん」 「礼は言わなくていい。  お前の望みを叶えてやったんだ、俺に着いてくるのはここまでにしろ」 「うん。あのね、最後におにいさんの名前、聞いてもいいかな」 「レッドだ」 「ふふっ、偽名らしくない偽名だね」 俺は子供の揶揄を聞き流し、気になっていたことを口にした。 「あのとき、どうして俺に声をかけたんだ。  俺ならポケモンを譲ってもらえると勘ぐったのか」 「違うよ。ボクは本当に遊び相手を探していただけだよ。  おにいさんに声をかけたのは、偶然。ポケモンをもらえるなんて、考えてもなかった」 「………そうか」 「ねえ、ボク、またおにいさんに会いたいな。  次に会ったら、そのときはポケモンバトルしよう?」 「守れない約束は――」 初めからしない主義だ。そう言い終える前に、 子供は「約束だよーっ」と捨て台詞を残し、トコトコと走り去ってしまった。 所詮は小さな子供の駆け足だ、追いつこうと思えば追いつけたが、俺はその場から動かなかった。 「結局、名前は聞かずじまいだったな」 あの子供も俺の名が偽物であることに確信を持ちつつも、しつこく尋ねてはこなかった。 一期一会、という言葉が浮かぶ。 ポケモントレーナーに子供が声をかけ、ポケモンを譲ってもらった。 どこにでもある話だ。それ以上物語は続かない。 俺はポケモンセンターの受付に行き、バッジホルダーを見せて静かな個室を一つ用意してもらった。 移動を面倒くさがらずに、初めからこうしていれば良かったのだ。 柔らかい椅子に腰を下ろし、目を瞑る。 想定外の出来事に時間を費やしたせいで、とっくに試合の決着がついていると考えていた俺は、 視神経を介さずに再生される映像に、小さく息を吐いた。 花畑の中心で優雅に根を張るクサイハナ。 対する葉満身創痍のヘルガー。 おそらくは大将戦。 サヤは初めてのジム戦に緊張していたが……、圧倒的なレベル差と属性の優位性は、サヤの快勝を保証していたはずだった。 苦戦する要素などどこにもなかったはずだ。 何がどうなっている? 俺の疑問を解消したのは、微かに畏怖を含んだ、エリカの問いかけだった。 「なぜ……炎タイプの技を使わないんですの……?」 「私にポケモンバトルを教えてくれた人に、約束したの」 ジム戦前の記憶が蘇る。 『わたしは絶対に勝つわ。それも、相性の良さに頼った勝ち方じゃない、正々堂々とした戦い方で』 その言葉の意味を、俺はようやく理解した。 サヤの真意を知り、エリカは目を眇める。 「いいでしょう。あなたのその覚悟、逆手にとらせてもらいますわ。  クサイハナ、"眠り粉"と"痺れ粉"を撒いて差し上げて」 黄色と白の胞子が入り乱れ、粉塵の防護膜を作り上げる。 炎という飛び道具を奪われたヘルガーのダメージ源は、必然的に"かみつく"や"だましうち"等の物理攻撃に限定される。 トラップとしては申し分ない。 そしてまた、天候までもがエリカに味方していた。 快晴の空から注ぐ日差しは、ソーラービームに必要不可欠かつ最高のエネルギーだ。 ポケモンのコンディションが良好なら、一度の充填につき二発くらいは撃てるのではないだろうか。 クサイハナから放射状に広がる数多の破壊の爪痕が、その可能性を物語っている。
食堂で少し早めの昼食を終えた後、俺たちはタマムシ大学を後にした。 食事の後は動きたくない、という俺の希望を、散歩で腹ごなしするの、と却下したサヤは、 どうやら間近に控えたジム戦に、ようやく緊張感を覚え始めたようだ。 「さっきから歩くスピードが遅くなっているが、どうかしたのか」 「どうもしないわよ。  ねえ、サトシがレインボーバッジを手に入れたのって、いつくらい?」 「ん……四、五年くらい前になる」 「てことは、そのときはまだ、サトシは十五歳くらいだったのよね」 「まあ、そうだ」 「緊張した?」 訪ねてから、その質問が自分の心理状態を告白していることに気づいたのか、 即席の余裕の笑みを浮かべるサヤ。俺はあえてそれには触れず、 「そりゃあ、緊張したさ。  特に当時は、リザードンが言うことを聞いてくれなくて、  相性のいいポケモンがいないまま、挑戦しなくちゃならなかった」 主従関係が逆転していたあの頃が、今となっては懐かしい。 それだけの時間が流れたのか、と思う。 「一回で勝てたの?」 「ぎりぎりだったが、なんとか勝てた」 「ふ、ふぅーん」 俺はからかうような含みは持たせずに言った。 「そう不安がるなよ」 「べ、別に不安がってなんか、」 「サヤにとっては初めてのジム戦だ。  もしサヤが負けても、俺はサヤを馬鹿にしたりしない」 ヘルガーとタマムシジムの規定ポケモンのレベルには、埋めようのない懸隔がある。 どう転んだところで、サヤは負けないだろうが……。 水堀をまたぐ猿橋にさしかかったところで、サヤはぽつりと言った。 「サトシは、わたしの先生なのよ」 「……?」 「先生が、わたしが負けたときのことなんて、考えないで。  わたしは絶対に勝つわ。それも、相性の良さに頼った勝ち方じゃない、正々堂々とした戦い方で」 「俺はサヤを信じてる。練習通りにやれば、難なくレインボーバッジをゲットできるさ」 「ねえ、サトシ、もしわたしが勝ったら、そのときはご褒美をくれる?」 「ご褒美?何が欲しいんだ?」 このお嬢様に手に入らないものは存在しないはずだが……。 「それはこれから考えるわ。それで、返事は?」 「わかった。ただし、無茶な頼み事は聞けないからな」 「無茶な頼みって、タマムシデパートを丸ごと買収する、とか?」 よくわかっているじゃないか。 「そういうのはサヤの父親に頼めばいい」 「冗談よ。それじゃあ、わたし、行ってくるから」 サヤは嬉しそうに微笑み、たたた、と猿橋を駆けていく。 欄干にもたれかかり、水堀を泳ぎ回るコイキングを眺める。 サヤの試合開始時刻まで、まだ20分程度の時間がある。 俺はポケットからタマムシ大学の食堂で買った袋包みのパンを取り出し、小さくちぎっては放るを繰り返した。 やがて俺の真下にコイキングの群れができあがったところで、 残りの大きなパンのかけらを一息に放り込み、ボールを一つ展開する。 ピジョットは欄干に捕まり、開放感を噛みしめるように首をぐりぐりと回した。 「サヤの様子を見てきてくれ。  できるなら、声が聞こえる程度まで近寄れ」 「ピジョッ」 静かな羽音を残して、孤影は塀の向こう側に飛び去った。 俺は水堀外縁の遊歩道に設置された公用ベンチに腰掛け、楽な姿勢になって目を瞑った。 傍目からは、転た寝しているように見えることを祈る。 意識は空に。 視界は鳥瞰図に。 脳裏に描いた抽象的な風景は、極めて写実的な、現実の光景に成り代わる。 視界を借りた状態で、俺はピジョットの目が目標物を捉える時を待った。 待つこと数分。 ぐるぐると屋敷を見下ろしていた視界が、地面に近づき、固定される。 旋回していたピジョットがどこかの木の梢に留まったのだろう。 俺はささやかな高所から見える景色に満足した。 下座には黒犬を従えて佇む赤髪の女――サヤが。 上座には嫋やかな身熟しの和装の女――エリカが。 二人の唇が動く。ピジョットの耳は、空気を伝わる震えを敏感に拾い上げた。 「登録番号TA671-4098、桂小夜。レインボーバッジをもらいに来たわ」 「目的は存じておりますわ。  さりとて威勢の善し悪しで譲り渡せるほど、虹色の名を冠したバッジは軽くありませんのよ。  特にあなたの経歴は綺麗な白紙、所持ポケモンのレベル鑑定履歴もありません。  飛び級を狙う気持ちはわからないでもありませんが、行き過ぎた向上心は身を滅す、と忠告しておきますわ」 エリカの言葉は、辛辣なようで正しかった。 中堅トレーナーの登竜門であるセキチク・タマムシジムに、 バッジ取得経験ゼロ、所持ポケモン一体のトレーナーが挑むのは無茶を過ぎて無謀だ。 常識的に考えれば、誰でもその結論に至る。 だが不世出の適格者たるサヤと、薬によって限界まで潜在能力を引き出されたヘルガーの前では、常識は非常識と化す。 「ご託はいいわ。さっさと始めましょう?」 さして気にした風もなく、サヤは言う。エリカは着物の袂に右手を差し入れながら、 「せっかちですのね。申し遅れましたが、わたくしはこのタマムシジムのジムリーダー、エリカ。  全力で以て、あなたの実力を見極めさせてもらいます。  出なさい、ヒマナッツ」 現れたポケモンは、黄色の種子を連想させる姿形をしていた。 まだ子供で、育成中なのだろう。挑戦者に対する先鋒としては妥当な選択だ。 サヤは唇を真一文字に結び、エリカの出方を伺っている。 その緊張が伝播したのか、手に汗を握っている自分がいて…… 「――さん。――おにいさん」 誰かに体を揺すられている。 俺はうっすらと右目を開けた。左目はピジョットの視界を維持している。 俺の瞑想を邪魔したのは、年端も行かない小さな子供だった。 「こんなところで寝ていたら、置き引きに遭うよ。  ロケット団がなくなって、タマムシシティの治安は少し良くなったけど、それでも危ない人はたくさんいるよ」 「忠告ありがとう」 「おにいさんはこんなところで何をしているの?」 「散歩していたら眠くなって、少し眠ろうと思ったんだ。こんなに良い天気だから。  さあ、俺のことは気にしないで、君もどこかに遊びに行くといい」 「ボク、友達いないんだ。おにいさんが遊び相手になってよ」 「俺は忙しいから、他の人を探しておいで」 「でもおにいさん、全然忙しそうに見えないよ。お昼寝してたんでしょう?」 子供相手に論破されるとは……。 試合の様子は気になるが、今はここから立ち去ることが先決だ。小さな邪魔者がいない、静かな場所を目指して。 俺はため息をつき、両目を開けた。視界に奥行きが生まれる。 ベンチから腰を上げ、往来に歩き出すと、子供は当然のように着いてきた。 3分後。俺は振り返り、 「あのな……」 「どこに連れて行ってくれるの、おにいさん?」 出鼻をジャブで挫かれる。俺は歩みを再開した。若干歩幅を広くして。 「おにいさん、歩くのはやいよー。待ってよー」 距離が開いては走り、距離が開いては走りを繰り返しているのだろう。 子供の声に荒い吐息が混じり始める。同情を引く作戦か。 大人(厳密には未成年だが)をなめてもらっては困る。ここは毅然とした態度で突き放さなければ。 俺は再び振り返り、 「ねえ、どうしたの?」 純朴な笑顔を前に、何も言えなくなってしまった。 目頭を押さえる。厄介なことになった。 出し抜けに子供が言った。 「ね、おにいさんの腰についてるそれって、モンスターボール?」 頷く。 すると子供は見る間に目を輝かせて、 「わあっ、すごいや。それじゃあおにいさんは、ポケモントレーナーなんだね」 「そういうことになる」 「今までにどれくらいのポケモンを捕まえたの?」 「わからない」 「数え切れないくらい捕まえたんだねー」 わざと素っ気ない反応をしているというのに、会話は弾む。 ――自分に対する無関心を恐れない。 事なかれ主義の大人にはできず、無垢な子供にはできること。 目の前の子供は、つぶらな瞳を俺に向けて、 「おにいさん、ボクと一緒に、ポケモンを捕まえに行ってくれない?」 「一人で行けばいい」 「ボクね、トレーナー免許は持ってるんだけど、自分のポケモンは持ってないんだ」 俺は反射的に尋ねた。 「お母さんかお父さんからもらえなかったのか?」 子供は口を噤んだ。 「二人ともポケモントレーナーじゃないなら、  ポケモン協会支部に申請すれば、ポケモンを借りることができる。  保護者の許可はいるが、今時子供がポケモンを持つのに反対する親はいないだろう」 「無理だよ」 なぜ、と問う前に、子供は言った。 「ボク、孤児院暮らしだから」 あくまで笑顔は崩さずに。 「院長先生は、ボクたちがポケモンを持つことを認めてくれないんだ。エサ代がかかっちゃうから」 「それは……悪いことを聞いたな」 「気にしないで。ボクは全然気にしてないんだ。  ただ、時々一人が寂しくて、それで、ポケモンが欲しかったんだ」 その話が同情を引き、ポケモンを手に入れるための欺瞞である可能性は否めない。 しかし俺は翠緑色の瞳の奥に、澄んだ光の輝きを見た。 「俺には、お前に構っている時間はない。  だからお前と一緒にポケモンを捕まえに行ってやることもできない」 子供の表情が翳り、すぐに作り笑顔を浮かべる。 とても器用に、繕いがわからないほど巧みに。 「……おにいさんにはおにいさんの用事があるもんね。  迷惑かけてごめんね」 きびすを返し、駆け出しかけた子供の肩をつかむ。 「待て。ちょっと着いてこい」 「な、なに?」 「いいから」 「時間、いいの?」 「すぐに終わる」 こっちが無視していたときは嬉々として着いてきていたくせに、 いざこっちが先導しだすと不安げな態度をとるとは、天の邪鬼か、この子供は? ジム近くのポケモンセンターに到着すると、 俺は子供をロビーの椅子に残して受付カウンターに赴き、一匹のポケモンが入ったボールを返却してもらった。 あれは確か二ヶ月ほど前、タマムシシティで暗躍するシステム傘下外組織の解体任務を、金髪とこなしていた時のことだ。 首尾良く組織の首脳部を捕縛し、護衛も無力化したところで、俺と金髪は荒れた現場を掃除屋に引き継ぐ予定だった。 だがストライクの一太刀で絶命した護衛員の一人と、主を守ろうとして斬撃に巻き込まれた二体のポケモンの遺骸を見たとき、 俺は違和感に気づいた。護衛員のベルトに収まっているボールは三つ。事切れているポケモンは二体。 果たして残りの一体は、場に出されることなく、ボールに収納されていた。 金髪の「僕が預かろうか」という含みのある提案は却下した。 また掃除屋の手に渡れば最後、研究部署の治験にぼろ切れになるまで利用されることは目に見えている。 そして俺は、一時的に、そのポケモンを預かることにしたのだった。 引き取り手もなければ、野生に返して生きていけるほど成長してもいない。 おそらくは死んだ護衛員の一人も、最初から戦力として数えていなかったに違いない。 俺はそのポケモン――幼いドーブル――を持てあましていた。 「受け取れ」 ボールを手渡すと、子供は目をぱちくりさせて、上目遣いに俺を見た。 「もらっても、いいの?」 「こいつは元々俺のポケモンじゃない。昔の主は、今はいない。  大切に育てること……それさえ守れるなら、このドーブルは、お前のものだ」 俺の目は、未だ慧眼にはほど遠い。未来の適格者を物定められるほどの域には達していない。 だがこの子供の澄んだ瞳には、俺に賭けさせる力があった。 将来システムの目に留まるか、一介のポケモントレーナーとして終わるか、あるいは――システムの敵となるか。 「………」 心の内で自嘲する。ばかばかしい空想だ、と思う。 この子供と一緒に、持てあましていたドーブルを厄介払いできる。理由はそれで十分だ。 子供は両手でボールを包み込み、目の高さに持ち上げる。 透明の半球面から外界を覗いていたドーブルと、視線が交わる。 「君も独りぼっちだったんだね。ボクたちは、似たもの同士だ」 子供はくすりと笑った。初めて見る、純粋な感情の発露だった。 「友達になろう?そうすればもう、独りじゃないよ」 ボールの中で、ドーブルはこくりと頷いた。通じ合うものがあったようだ。 子供は丁寧にボールをポケットに仕舞った。 今更ながら、子供の服装が、だぶだぶのサイズであることに気づく。 「ありがとう、おにいさん」 「礼は言わなくていい。  お前の望みを叶えてやったんだ、俺に着いてくるのはここまでにしろ」 「うん。あのね、最後におにいさんの名前、聞いてもいいかな」 「レッドだ」 「ふふっ、偽名らしくない偽名だね」 俺は子供の揶揄を聞き流し、気になっていたことを口にした。 「あのとき、どうして俺に声をかけたんだ。  俺ならポケモンを譲ってもらえると勘ぐったのか」 「違うよ。ボクは本当に遊び相手を探していただけだよ。  おにいさんに声をかけたのは、偶然。ポケモンをもらえるなんて、考えてもなかった」 「………そうか」 「ねえ、ボク、またおにいさんに会いたいな。  次に会ったら、そのときはポケモンバトルしよう?」 「守れない約束は――」 初めからしない主義だ。そう言い終える前に、 子供は「約束だよーっ」と捨て台詞を残し、トコトコと走り去ってしまった。 所詮は小さな子供の駆け足だ、追いつこうと思えば追いつけたが、俺はその場から動かなかった。 「結局、名前は聞かずじまいだったな」 あの子供も俺の名が偽物であることに確信を持ちつつも、しつこく尋ねてはこなかった。 一期一会、という言葉が浮かぶ。 ポケモントレーナーに子供が声をかけ、ポケモンを譲ってもらった。 どこにでもある話だ。それ以上物語は続かない。 俺はポケモンセンターの受付に行き、バッジホルダーを見せて静かな個室を一つ用意してもらった。 移動を面倒くさがらずに、初めからこうしていれば良かったのだ。 柔らかい椅子に腰を下ろし、目を瞑る。 想定外の出来事に時間を費やしたせいで、とっくに試合の決着がついていると考えていた俺は、 視神経を介さずに再生される映像に、小さく息を吐いた。 花畑の中心で優雅に根を張るクサイハナ。 対するは満身創痍のヘルガー。 おそらくは大将戦。 サヤは初めてのジム戦に緊張していたが……、圧倒的なレベル差と属性の優位性は、サヤの快勝を保証していたはずだった。 苦戦する要素などどこにもなかったはずだ。 何がどうなっている? 俺の疑問を解消したのは、微かに畏怖を含んだ、エリカの問いかけだった。 「なぜ……炎タイプの技を使わないんですの……?」 「私にポケモンバトルを教えてくれた人に、約束したの」 ジム戦前の記憶が蘇る。 『わたしは絶対に勝つわ。それも、相性の良さに頼った勝ち方じゃない、正々堂々とした戦い方で』 その言葉の意味を、俺はようやく理解した。 サヤの真意を知り、エリカは目を眇める。 「いいでしょう。あなたのその覚悟、逆手にとらせてもらいますわ。  クサイハナ、"眠り粉"と"痺れ粉"を撒いて差し上げて」 黄色と白の胞子が入り乱れ、粉塵の防護膜を作り上げる。 炎という飛び道具を奪われたヘルガーのダメージ源は、必然的に"かみつく"や"だましうち"等の物理攻撃に限定される。 トラップとしては申し分ない。 そしてまた、天候までもがエリカに味方していた。 快晴の空から注ぐ日差しは、ソーラービームに必要不可欠かつ最高のエネルギーだ。 ポケモンのコンディションが良好なら、一度の充填につき二発くらいは撃てるのではないだろうか。 クサイハナから放射状に広がる数多の破壊の爪痕が、その可能性を物語っている。 ヘルガーは消耗し、地の利は相手に微笑んでいる。 期待しすぎたか――俺が慰めの文句を考え始めたそのとき、サヤは言った。 「スモッグよ!」 傷ついてなお、ヘルガーの敏捷性は損なわれていなかった。 まだ眠り粉と痺れ粉に侵されていない草原をかけ巡り、等間隔に濃密な黒色の煙霧をはき出していく。 「小細工など無駄ですわ。  クサイハナ、ソーラービームを充填なさい」 技の強さと出の早さ。 トレードオフの法則は、しかし、大地に根を張り強い直射日光を浴びたクサイハナには通用しない。 俺の予想は正しかった。 花弁の中心から放たれた収束砲が、ヘルガーに迫る。 「避けてっ!」 信じられない反応速度で"一発目"を躱す。 だが間断なく放たれた第二射が、ヘルガーの脇腹を掠めた。 空を裂き大地を抉る量子砲は、光の大剣を連想させる。 放射時間、威力、発射間隔ともに優秀。 いくらこの好条件であろうとも、大技であるソーラービームを自由自在に扱える草ポケモンは限定される。 エリカの育成教育が透けて見えるようだった。 「まだ立てる?」 サヤの呼びかけに、ヘルガーは空の果てまで届くような遠吠えを返した。 スモッグの展開が終わる。ピジョットの視界が揺らいだ。 梢から高い木の頂上に移動したようだ。俯瞰したフィールドは黄色と黒の危険色に塗り替えられていた。 「スモッグを移動して不意打ちを狙う。見え見えの作戦ですわね?」 嘲笑うエリカ。サヤはまるで今し方の言葉が聞こえなかったかのように、ヘルガーに回避を専念させた。 煙から煙へ。黒い尾を靡かせ、地を走る鳥の影のように移動するヘルガーを捉えることは難しい。 しかしヘルガーが二重の罠に飛び込み、至近距離からのソーラービームを躱しきる可能性もまた、無きに等しい。 時間とともにヘルガーの体力は削り取られていく。 炎タイプの技を封じるという制約はあまりに重い。 俺は考える。もしも俺がサヤの立場なら。同じ制約を自分に課していたとしたら――。 たどり着く答えは一つ。 一か八か。 「一撃で決めるわ」 一撃で決めるしかない。奇しくもそのとき、サヤの呟きは俺の思考とぴったり重なっていた。 「準備はいい、ヘルガー?」 ヘルガーの軌道が変わる。前足が黄色と白の粉塵に触れる。ここまでは牽制にも見て取れる。 しかしその身体が完全にクサイハナのセーフティシールドを侵したとき、エリカの鋭い声が飛んだ。 「無謀としか言いようがありませんわ。  "成長"と"ソーラービーム"の真髄、とくと御覧になって」 眠り粉と痺れ粉、二重の状態異常技を一身に浴びながら、ヘルガーはクサイハナに肉薄する。 充填は元より完了していた。 真正面からの第一射を、ヘルガーは余裕を持って横跳びに躱した。 「走って、ヘルガー!」 サヤの激励が飛ぶ。ここに来て後退の選択肢は無い。 特攻の結末は中途半端を許さない。 続く第二射。横薙ぎに振るわれた光の大剣は、誤差を修正し高い精度を持ってヘルガーに襲いかかった。 回避する方法は二つ。跳躍するか、軸を真横にずらすか。 おそらく早計癖のあるエリカは、この時点で勝利を確信していたはずだ。 眼を伏せていても眩しいほどの陽光、機動力を犠牲にして大地のエネルギーを吸い上げる"成長"、 そしてエリカ直々に育成しているであろう才気溢れるクサイハナ。 これらの要素は第三発目の"ソーラービーム"さえ発射可能にしていたに違いない。 またヘルガーの圧倒的なレベルの高さ、炎タイプの技を使わないという、エリカからすれば見下されているとしか思えない状況で、 エリカの思考から手加減の三文字は完全に消え去っていると言ってよかった。 第二射を不安定な体勢からの回避、特に跳躍した場合は、すぐさま第三射で狙い撃ちにされて終わる――はずだった。 しかしサヤは俺の想像とエリカの思惑を超えて、 「サトシのフシギバナと戦ったときのことを思い出して!  攻撃を食らうのを怖がっちゃダメ!倒される前に倒すのよっ!」 被弾しながらの吶喊を命じた。 駆けるヘルガー。 迎撃に全てを賭けるクサイハナ。 第二射は一瞬ヘルガーの半身を飲み込み、しかしすぐに打ち止めになった。 ぶちぶちという根が千切れる嫌な音が鳴り、クサイハナが吹き飛んでいく。 しかしエリカは自分のポケモンを介抱するのも忘れて、瞠目し、言葉を失っていた。 「あなた………今………なんと…………」 俺は背筋を冷や汗が伝うのを感じた。余計なことを言ってくれる。 気づけば「誤魔化せ、ばれたら恨むぞ、サヤ」と独り言を口にしていた。 今やサヤが思い切りの良い作戦で、見事ジム戦を勝ち抜いたことを素直に喜べる状況ではない。 サヤは落ち着き払った態度で、 「わたしはただ、自分のポケモンを応援していただけだけど……。  それが、どうかしたのかしら?」 「サトシ……フシギバナ……あなたは確かにそう言いましたわね?」 「ええ。サトシはわたしの先生で、フシギバナは先生のポケモンよ」 俺は固唾をのむ。 一切を否定する気配の無いサヤに、エリカはさらなる言質をとろうとし、 「もしや……あなたの師はあの……」 「エリカさん、あなた何か勘違いしているんじゃないかしら」 「えっ……」 「わたしの先生が元リーグチャンピオン、サトシだっていう勘違い。図星でしょう?」 サヤは膝をつき、ヘルガーの頭を抱きながら、 「ありふれた名前よ。サトシなんて。奇しくもその人はフシギバナの使い手だけど、それも偶然。  先生もよく言っているわ。なまじ実力をつけてしまうと、名前が同じというだけで、本物に間違えられて困るって」 くすくすと笑う。 俺は深く安堵するとともに、サヤの演技力に舌を巻いていた。 あのかけ声が直情的な思慮の足らないものだったとして、 それを誤魔化す嘘をこんなにも自然に、よどみなく並べ立てられるとは。 エリカは傷ついたクサイハナをボールに戻しながら言った。 「そう、ですわね。わたくしとしたことが、あられもない期待に舞い上がってしまいました。  あの方がわたしの前に姿を見せることは、もう二度とない……。  そう分かっていながら、わたくしはあの方を忘れられずにいるのです」 「サトシ――わたしの先生じゃない、元リーグチャンピオンのほう――もレインボーバッジを求めてここにやって来たのよね」 「ええ。わたくしがジムリーダーの座に就いて二年と四ヶ月、  手加減を知らず、草ポケモン使い最強の自負に浸っていた幼いわたくしの前に、あの方は現れました」 「そのときのお話、詳しく聞いてもいいかしら?」 「それが勝者の望みとあらば、断る道理はありませんわ」 エリカは快諾し、審判に目配せする。 次の挑戦者は、幾ばくかの待機を強いられることになるだろう。

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