「……ど、どうしてですか? あの、あたし、他の人たちと同じように、ちゃんとポケモンバトルします!」 「まあまあ、落ち着いて。 なにもあなたがわたしの姪だから、優遇しているわけじゃないのよ。 例えわたしがジムリーダーとしてあなたが勝負しても、結果は見えてるわ。 ――ヒナちゃんが勝って、わたしは負ける。 それなら最初から、ジム戦をする意味なんてないでしょう?」 と言って、ウインクするアヤメ。 ヒナタは到底納得出来ないようで、 「そんなの……戦ってみないとわかんないです。 アヤメ叔母さまが強力な水ポケモンの使い手であることは、 お母さんがいつも話してくれていました。 だからあたし、叔母さまとポケモンバトルできると思って楽しみにしてたのに……」 カップに視線を落とす。 ヒナタの代わりに、僕はアヤメを見据えた。 彼女も僕を見ていた。柔らかい笑みが浮かぶ。彼女は悪戯っぽく言った。 「ヒナちゃん、それなら心配しないで。 わたしはジム戦なしでバッジを上げると言ったけど、 タダで上げる、とも言っていないわ」 「えっ……?」 「ジムリーダーはポケモンリーグを目指す者に試練を課す存在よ。 その実力は常に一定でなければならない。 同様に使うポケモンも上から指定されているわ。 わたしは客観的に、今のヒナちゃんには、 ジムで使うポケモンなんて相手にならないだろうなあって考えたの。 だから、その代わりに、といってはなんなんだけど――」 僕には彼女の口が紡ぐ次の言葉が分かった。 娘のコーチ――カスミがアヤメに頼みそうなことだ。 「ねぇ、ヒナちゃん。今日からしばらく叔母さんと一緒に、ポケモンバトルの修行をしてみない? 勿論わたしが使うのはジムで使っているものとは別のポケモンで、 挑戦者を締め切ったジムを使うから、一対一の練習ということに、」 「ほんとですか!? 是非是非、よろしくお願いします!」 アヤメが言い終わる前にヒナタは乗り出していた身をさらに前に傾けて握手した。 アヤメは姪のあまりの喜びっぷりに、目を白黒させている。 「こんなに喜んでもらえるなら、もっと早くに話していたら良かったわ。 ヒナちゃんが旅を優先したいと言った時のことが心配で、おばさん、どきどきしてたの」 「とんでもない! アヤメおばさまにポケモンバトル教えてもらえるなんて、夢のまた夢だと思っていたんです。 でも、本当にあたし一人のために時間を割いてもらってもいいんですか? ジムの仕事や、家のことやらで大変なんじゃ……」 「大丈夫。ヒナちゃんはそんなこと心配しないで、 自由にこの家を使って、修行に打ち込んでくれればいいのよ。 それがカスミとの約束でもあるし、わたしがヒナちゃんにしてあげたいことなんだから」 「アヤメおばさま……」 手を握ったまま、感激するヒナタ。 僕は最後に残った紅茶をゆっくり味わいながら、この修行について考えてみる。 ヒナタにはポケモンバトルに関する基礎的な知識が備わっている。 幼い頃から、ポケモントレーナーになるために努力してきたからだ。 ただ、即興的判断力、応用力については、僕はまだまだ、彼女に初心者の烙印を押さざるを得ない。 地形の利用。 相手ポケモンの状態分析。 相手トレーナーを欺き騙す戦略構成……etc。 彼女に足りないものはいくらでもある。 サトシから受け継いだ直感的な判断力と、 時折発揮される冷静な状況分析能力は評価に値するが、 それだけでは到底ポケモンリーグにたどり着けないだろう。 これから先、どんどん強くなっていく野生ポケモンや道々で出会うトレーナーに対抗し、勝利するには、 相対的な強さではなく、絶対的な強さの底上げが必要不可欠になる。 そしてその近道は、己よりも強い相手との戦闘経験を積むことだ。 その点においてアヤメは、ヒナタが弱点を補強し成長するのに、最適の師匠といえた。 「早速明日から修行開始よ。 終わりは、わたしがヒナちゃんに教えることがなくなって、もう十分に強くなったと認めるまで。 わたしのコーチは厳しいわ。頑張れるかしら、ヒナちゃん?」 「もちろんです! あたし、絶対に途中で泣き言吐いたりしませんから。ビシバシ鍛えてください」 「ふふっ、教え甲斐があるわ。 あーもー、ジムの仕事休んで、一日中ヒナちゃんに付き合ってあげようかしら」 それはアヤメ、君がサボりたいだけだろう、と僕は心の中で呟いた。 ――そろそろ彼女の限界も間近か。 左耳を立てて、カエデの様子を窺う。 彼女はバスタオルを体に巻き付けたまま、 ドアの影から会話の一部始終を聞いていた。 この件が、彼女とヒナタの関係悪化の火種にならなければ良いのだが。 ……まあ、それも無理な話だろうな。 現にカエデの頭の中が、ヒナタへの嫉妬と母親への苛立ちでぶくぶく煮えくりかえっていることは想像に難くない。 しかし、流石の彼女もこの場に出てきてとやかく言おうとは思わなかったらしい。 「お風呂、空いてるから」 尖った声が廊下から届き、気配は階上へと消えていった。 ヒナタが言った。 「おばさま、お先にどうぞ」 「いいのよ、ヒナちゃんが先に入って。 わたしはピカチュウと一緒に、もう少し紅茶を飲んでるわ」 その後もヒナタは遠慮する素振りを見せていたが、 アヤメが本当に最後でいいの、と言うと、折れて浴室に向かった。 部屋の中には、僕とアヤメだけになる。 彼女は、まずは黙って自分のカップに紅茶を注ぎ、続いて、 僕専用の小さなカップにもなみなみと紅茶を注いでくれた。 「さて……お久しぶり、ピカチュウ。あなたは相変わらず紳士ねぇ。 これまでジムリーダーとして色んなポケモンと戦ったり、触れあったりしてきたけれど、 紅茶の違いの分かるポケモンなんて、あなたくらいだわ。アールグレイ、気に入ってくれたかしら」 「ピカ!」 気に入ったよ。 君は結婚してから、色々なことに器用になったね。 「ありがとう――」 同時にカップを持ち上げる。 流動。停止。経過。再び流動。 紅茶を飲むという一連の動作には、この世界の理が凝縮されているような気がする。 「あなたのことはカスミから聞いていたわ。 あの子、一応は旅の頃の知り合いに、連絡をとって、ヒナタとあなたのことを教えているみたい」 「チュウ?」 「ヒナタにあなたの真の素性を知って欲しくないから、出来ることはなんでもしておきたいんでしょうね。 少しでもあなたのことを知っている人なら、あなただと分かった瞬間にヒナタに尋ねるに決まっているわ。 どうして君みたいな若いトレーナーが、ポケモンリーグの英雄――サトシのピカチュウを持っているんだ、って」 「チュウ……」 ここまではなんとか上手く立ち回って来ることができたが、いずれはヒナタも、全てを知ってしまうだろう。 その時までに、ヒナタには僕の力がなくともベテラントレーナーと渡り合えるくらいに、強くなってもらわなければならない。 「ところで――あなた、しばらく暇になるわよ。 ヒナタの修行をつけるのはいいけど、あなたが相手じゃ意味がないし、 何よりわたしのポケモンが萎縮しちゃうから、バトルの間はプールサイドから観戦しててちょうだいね」 僕は電気タイプ。アヤメのポケモンのほとんどは水タイプ。 一筋縄で相容れる相性同士ではないし、 僕がサトシと旅をしていた時に、彼女のポケモンたちは僕の電撃を何度も目にしている。 僕が低レベルのピカチュウのフリをしたところで、白々しいだけだろう。 それから僕は、アヤメから無尽蔵に沸いてでてくるんじゃないかと思えるくらいたくさん愚痴を聞かされた。 僕だけが相手だと、若干、若い頃の性格に戻るようだ。 「おばさま、お風呂空きましたよー」 ヒナタがほくほくしながら部屋に戻ってくると、 アヤメは僕を抱きかかえ、髪をかき上げて言った。 「さ、わたしたちもお風呂にしましょうか。 そうそう、実はこの前、ポケモン用の高級トリートメントを買ったのよ。それで艶々にしてあげる」 嫌な予感がした。がしかし、往々にして、嫌な予感がするときというのは"時既に遅し"な状況なのだ。 僕はろくな抵抗もできぬまま浴室に連れて行かれた。 次の日の黄昏時、ヒナタと僕は約束通りジムに向かった。 カエデはこの時間は学校にいる。 彼女は派手な外見とは対照的にポケモンの旧史に関心があり、 将来はポケモン考古学者になりたいと夢見ているらしいのだが、 哀しいかな、彼女の通う公立高ではポケモン関連の授業が少なく、 その所為で一昨日のように学校をサボって買い物に行ったりすることも少なくないのだという。 まったく、誰に似たのかしら――と嘆くアヤメに、僕は無言で返すしかなかった。 Closedの表示がされている正面から裏に回ると、アヤメが待っていた。 「あの、よろしくお願いします。 修行中は、姪であることを忘れて、厳しくしてくださって全然構いません」 「緊張しなくていいのよ。ほら、肩の力を抜きなさい。 ヒナちゃんはジムの中に入るのは初めてだったかしら――?」 アヤメの先導で、僕たちはジムの中に通された。 「こんなに大きなプール、初めて見た……まるで小さな池みたい」 「初めて来た人はみんなそう言うわ。 実際、世界中にあるプールの中でも、五指に入る大きさなのよ?」 プールの上の足場の一つから、全体像を把握する。 ついつい癖で、鳥瞰図の想定。 サトシと最後に訪れた時に比べて、随分挑戦者に甘い構造になっていた。 水中を高速移動できる水ポケモンに対し、 地上での戦闘経験しかないポケモンでも追いつけるように足場の改装がなされている。 「さあ、それじゃあヒトデマンを出して。 ピカチュウは電気タイプだし、ピッピはまだ泳げないから――。 それに、フィールドを生かした戦い方をヒトデマンに教える、いい機会にもなると思うわ」 「はいっ。ヒトデマン、お願い!」 閃光が走り――。 ヒトデマンが、ヒナタの足許に出現する。ついでにヒナタはピッピもボールから出して、ひょいと僕の頭に乗せた。 「しばらくの間、ピカチュウとプールの端の方で遊んでてね」 「ぴぃ」 すぐさま、小さな手が僕の耳を掴む。 ふぅ、なんだか本当に父親になった気分だよ。 僕はヒナタに言われたとおり、ピッピと一緒にプールサイドで待機することにした。 アヤメの高い声はドーム状の空間によく響いた。 「まずは普通のポケモンバトルをしましょう。 具体的なコーチをする前に、今のヒナちゃんの実力を計っておきたいの。 ルールはジム戦と同じよ。 わたしのポケモンとヒナちゃんのポケモンを戦わせて、戦闘不能になった方が負け」 「いきなり全力で戦うんですか? それって、どちらかのポケモンが怪我をしちゃうんじゃ……」 「だいじょーぶ。わたしだって伊達に何年もハナダシティジムリーダーをやっていないわ。 調整や加減はおばさんに任せて。 ヒナちゃんはただ、本気でわたしを倒すつもりで戦えばいいの」 ベルトからボールを外し、 まるで重力に任せるようにプールに落とす。 ちゃぽん、と音がして、水面が透明な赤に輝き――アズマオウが現れた。 朱色の鱗に黒色の斑点を落とした体は引き締まっており、 目と目の間から生えた瑕だらけの一角は、ジムの照明を受けて鈍く光っている。 数値上のステータスは低そうだが、 戦闘経験は豊富である、というような印象を受けた。 「ヒトデマン、潜って!」 ヒナタの指示を受けて、ヒトデマンも入水する。 両ポケモンの間隔は10m程度。アヤメは僕の方を見て行った。 「ピカチュウ、合図を頼めるかしら?」 僕は頷く。こちらを見たヒナタと目が合った。 高揚と不安が入り交じった視線に、僕はただ、見つめ返すことしかできない。 時間の感覚を忘れてしまいそうなほどの静寂。 頭上のピッピまでもが緊張に息を止めていた。 そして――僕は短く叫ぶ。 二人の行動は同時に見えて、しかし意外にも、ヒナタの方が早かった。 「ヒトデマン、まずは離れて! 接近戦は避けるのよ。アズマオウの角は危険だわ」 少し遅れてアヤメが指示し、 「アズマオウ、角で突きなさい。 水中を泳ぐ速度はあなたの方が早い。ヒトデマンを追い詰めることは難しくないわ」 ポケモンが行動を開始する。 ヒトデマンの移動を滑空、と例えるなら、 アズマオウの移動はさながら力強い飛翔だった。 鮮やかな白の背びれと尖った角が、ヒトデマンの作る波紋を乱す。 そしてその距離はあっという間に埋まり、 「ヒトデマン! 水の中から飛び出して、 真後ろに思いっきり"みずでっぽう"を撃って!」 ヒトデマンが飛び出して、その勢いを生かして反転した瞬間、 追いついたアズマオウが水面から躍り出る。 そしてその鋭利な角が、ベクトルを定める間際に―― 大量の水がアズマオウの顔面を打った。 その所為で角の狙いが逸れ、アズマオウとヒトデマンは、空中で交差する。 「うまく躱したわね、ヒナちゃん」 アヤメは離れた足場のヒナタを褒めるが、 彼女の両目は、間断なくプールを見つめていた。 勝つ方法を探るのに必死なのだろう。 「逃げても追いつかれるし、 さっきみたいな回避方法は、もう通用しない……どうしたらいいの」 「来ないのならわたしの方からいかせてもらおうかしら。 アズマオウ、もう一度、角で突いてちょうだい。今度はみずでっぽうに注意してね」 旋回していたアズマオウが、描いていた円の中心――即ちヒトデマンへと向かう。 角がヒトデマンを貫くのが先か。 ヒナタが打開策を見つけ出すのが先か。 距離が詰まる。3――2――1―― 「………そうだわっ! ヒトデマン、"みずでっぽう"を推進力にして逃げて!」 「正解よ。水タイプの技は、水中なら攻撃以外の戦法に転用できるの」 瞬間的に発生した水圧で、水面が揺らぐ。 体積の小さいヒトデマンの体は抵抗を受けにくい。 水を割くようにして水中を高速で移動し、一気にアズマオウを引き離した。 「ヒット・アンド・アウェイでアズマオウを翻弄するのよっ! 今のヒトデマンなら、もう、あの角は怖くないわ!」 ヒナタが束の間の慢心に浸る。 みずでっぽうを利用した高速移動は小回りが効く。 しかしアズマオウはその引き締まりながらも太めな体のせいで、死角からの攻撃に反応し辛い。 一方的な試合運びが可能になる。 ただ、それをアヤメが許すだろうか。 答えは――"No"だ。 浮き足立つヒナタを余所に、アヤメは平坦な声で三つの指示を出した。 「アズマオウ、もういいわ。 超音波、滝登り、乱れ突きで終わらせなさい。 ただし急所は外してね。このヒトデマンはこれからしばらくこのジムで修行するんだから」 キイィ――――ン。 人間の可聴周波を超えた音波が水を伝わる。 ヒナタは当然気づかない。 一旦は逃れたヒトデマンは、みずでっぽうによる高速移動を続けたまま、 今度はアズマオウの死角から、たいあたりを仕掛けようとしていた。 だが、あと数メートルの距離のところで、アズマオウがゆらりと姿勢を変えた。 ヒトデマンがそれに気づき、逆側に推進力を与え、バックしようとする。 その刹那、プールの足場にまで届きそうな高さの水飛沫が舞った。 僕は霧のように広がった水の粒を透かして、 まるで拳銃から発射された弾丸のように、猛然と突進するアズマオウを見た。 距離は今までにないほど縮まっている。 たまらずヒトデマンが水中から飛び出し、みずでっぽうを撃ち出す。 そして、つい20秒前の攻防が再現されたかのように見え―― 水圧を切り裂く"乱れ突き"が、ヒトデマンの体にいくつもの切り傷を負わせていた。 「ヒトデマンっ!」 ヒナタが気づいた時には、既に勝負は決していた。 アヤメの流れるような指示は、ヒナタに反撃の隙を与えなかった。 それは彼女が、この試合が始まったときから決めていた、勝負の"終わらせ方"だったのだろう。 僕は頭上でぷるぷる震えているピッピを撫でてやった。 初めて見るポケモンバトルが怖いのは、当然だ。 視線をプールに戻すと、足場から下りたヒナタが水の中に入って、 ヒトデマンが無事がどうか確かめているところだった。 その自身が濡れることをちっとも厭わない姿に――僕は否応なく、サトシの姿を重ねてしまう。 人は服を着替えるだけで、印象がガラリと変わる。 それは素質が良ければより顕著となり、 僕はその好例を、ソファに座りながら見つめていた。 カエデが――否、ヒナタが言った。 「服、ありがとね」 「お礼を言われる筋合いなんてないわ。その服、もうあたしが要らないやつだもん」 カエデはつっけんどんに答える。 ヒナタの亜麻色の髪はまだしっとりと濡れていた。 あのポケモンバトルの後、うっかりヒナタが風邪を引いてはいけないということで その日の修行は終わりになり、ヒナタはジム備え付けのシャワーを浴びた。 が、全身を濡らした後で着替えの服がないことを思い出し、 カエデに、カエデの服を持ってきてもらったのだ。 ちなみにショッピングモールで購入した新しい服が、まさに今日、ヒナタが着ていた服で、 余りの服は全てアヤメに洗濯してもらって乾かしている最中であったという、実に見事な不運の重なり方だった。 ヒナタは自分の衣服をしげしげと眺める。 ラインストーンの鏤められた、ミントグリーンのフレンチスリーブカットソーに、 所々穴の空いた、ダークブルーのヴィンテージジーンズ。 清楚な衣服が主のヒナタとは、対極的に近い趣味の衣服である。 カエデは躊躇うように口をもごもごさせてから言った。 「……サイズ、大丈夫?」 ヒナタは服の胸の部分を指で摘んで、 「うん、一応はね。でも、上のカットソーはちょっとキツめかなぁ」 「うるさい」 僕は頭を抱えた。 ヒナタ――君は"無垢とは無知という名の罪悪である"という言葉を知っているかい? 知らないなら今すぐ覚えた方がいい。 「ちょ、いきなり何なのよ?」 「うるさい」 カエデは耳をふさいでソファに横になった。 そこにアヤメが現れる。彼女はソファの一つを占領してしまった娘を見て、 「あらあら、この子ったらどうしちゃったの?」 と言い、ヒナタの隣に腰を下ろした。ヒナタが訊いた。 「あの、ヒトデマンの傷は治りそうですか?」 「心配しないで。わたしのアズマオウの乱れ突きは、当たったものを含めても、 ヒトデマンに掠り傷を負わせただけだったわ。 あの子は元々自然治癒能力が高いみたいだから、"自己再生"を使わずとも、 明日には綺麗に傷跡も消えているでしょうね」 「良かったぁ……。でもよく考えたら、それもアヤメおばさまが手加減してくださったおかげですよね。 あたし、おばさまと戦って分かったんです。 自分がヒトデマンの――ポケモンの力を、全然引き出せていなかったことが」 それは自虐でも内罰でもない、冷静な省察。 アヤメは微笑んで言った。 「そうね。確かにヒナちゃんは、あのヒトデマンの能力を100%引き出せていなかったわ。 でも、今日ヒナちゃんと戦って、わたしはとってもビックリしたの」 「何に、ですか?」 「ヒナちゃんの直感的な判断力、決断力に、よ」 ヒナタは俯く。彼女の表情はほんの少し緩んでいた。 僕は彼女が、アヤメに褒められて照れていることが分かった。 「咄嗟にアズマオウの攻撃を逸らす方法を思いついたり、 みずでっぽうを移動に使えることに気づいたり。凄いの一言よ。 ……でもね、」 とここでアヤメは語調を変えて、 「それらの判断が、全て受動的に下されていたということに、気づいていたかしら?」 ヒナタははっと顔を上げる。 流石はアヤメだ。よくヒナタの弱点を見抜いている。 「気づいていませんでした」 「そうよね。それが普通。 直感がいつ働いているかなんて、本人はいちいち覚えていないもの。 でも、ヒナちゃんのその受け身の直感的判断は、おばさん、とっても勿体ないと思うの。 どうやって相手の攻撃を凌ぐか、ではなく、どうやって相手を倒すか、の方に、 ヒナちゃんの素敵な直感的判断が働けば、今までよりも、もっと有利に戦えると思わない?」 ヒナタは真剣にコクコク頷いた。 それだけアヤメの言葉が深く心に響いたのだろう。 サトシから受け継いだ、天性の直感。それをどのように生かすかはヒナタ次第だ。 「能動的に、ポケモンバトルで効果的な判断をするには、どうしたらいいんでしょうか?」 「戦略や地形の利用方法、技の組み合わせなどには定跡があるわ。 でも、その場に応じた最も効果的な判断ができるようになるには、ポケモンバトルに慣れる以外、方法はないの。 だから、明日からは特訓よ?」 「はいっ」 ヒナタはリュックサックからメモ帳とペンを取り出し、 早速、アヤメにポケモンバトルの定跡を訊き始める。 「どうしてアヤメおばさまのアズマオウは、素早く移動していたヒトデマンに対応できたんですか?」 「超音波を使ったアクティブソナーで、ヒトデマンの位置を把握していたからよ――」 晩春の夜は静かに更けていく。 仲良く語り合うヒナタとアヤメを、 カエデが薄く開いた瞼の奥――薄茶色の瞳に、複雑な感情を灯して眺めていた。 それからの修行の日々は、瞬く間に過ぎていった。 ヒナタは日中はジムの観戦席で、アヤメと挑戦者の試合を観てテクニックを盗み、 夕方から小夜までは一対一でのポケモンバトルで、実戦経験の獲得に務めた。 修行期間中のある日、僕は夜遅くに帰ってきたヒトデマンに語りかけた。 「ピカ、ピカ?」 調子はどうかな。 ヒナタと共にレベルアップしている実感はあるかい? 彼女はぐったりしていた体を起こして、コアを二回点滅させ、 なんとも形容しがたい鳴き声で、疲労を訴えかけてきた。意訳するとこうだ。 "ヒナタの頑張りはとても嬉しいのですけど、 張り切りすぎている感じもしますね。 見てください、この生傷。翌日には治っているからって、ちょっと乱暴すぎやしません? アズマオウの角とパルシェンの殻が夢に出てきそうです……。 でも最近は傷を受ける頻度も減ってきて、アヤメさんから褒められる回数も増えました" 僕は黙って、ヒトデマンの体の節々を揉んであげた。 "そんな、別にいいですよう・・…" とでも言いたげにピコピコ明滅を繰り返していたコアも、いつの間にか消えたままになり、 僕は彼女が眠ってしまったことを知った。よっぽど疲れていたんだろう。 彼女は死んでしまったように動かない。だがこんな床の上で寝かせるわけにはいかないので、 僕はヒトデマンを背負い、ベッドで熟睡しているヒナタの隣に潜り込ませてあげた。 「ピカ……」 おやすみ……。 窓際に近づいて、カーテンの隙間に浮かぶ下弦の月を眺める。 ヒトデマンを見ていると、サトシと一緒に傷だらけになってトレーニングに励んでいた頃のことを思い出す。 成長を実感した時の喜びは格別だった。 その感情は鍛錬の刻苦を消し去り、さらなる向上に繋がる原動力となる。 だからヒナタやヒトデマンにとって、この修行は大きな意味を持つことになるだろう。 そして、培われた向上心が、屈折しないように目を光らせるのが、僕の役目だ。 &bold(){第六章 中 終わり}