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外伝14 - (2010/09/16 (木) 20:42:26) のソース

「おとーたま!」

舌足らずな声が響く。
覚束ない足取りで、とてとてと歩いてくるアヤを、
掬い上げるように抱きしめる。

「また重くなったんじゃないか?」

頬を擦りつけると、アヤはきゃっきゃっと無邪気に笑った。
『髭が痛いからやめて』と嫌な顔をされるのは、まだまだ当分先のようだ。
くりくりした大きな瞳と、ふっくらした唇、和毛のような赤い髪は、
アヤを天使と形容するに十分な条件を満たしていて……。

「お帰りなさい。サトシ」
「ただいま」

アヤを渡しながら、サヤに口付ける。
ゆったりとした服に身を包んだサヤは、言葉少なく、しかし顔を綻ばせて、俺を迎え入れてくれる。
俺がサヤと結ばれて以来、屋敷に帰るとき、最初に見る顔はサヤと決まっていた。
奥で休んでいればいいと言っても、サヤは頑として聞かなかった。

「おとーたま、は直らなかったか」
「あー?」

サヤに抱かれたアヤは、意味も分からずに、サヤの服を握りしめる。

「普通に、パパでいいと思うんだが……『お父様』は固すぎるだろう?」
「いいじゃない。アヤも気に入ってるみたいだし。
 きっと、わたしがお父様って言ったのを聞いてたのね」
他愛もない会話を交わしながら、談話室へ。
ささやかなサヤの手料理と、上質のワイン。
使用人は姿を消し、俺と、サヤと、アヤの三人だけの空間が生まれる。
空白期間を埋めるように、お互いのことを話す。

「体は、大事ないか?」
「もう、サトシは心配性なんだから。
 大丈夫よ。アヤは手のかからない子だし、みんな助けてくれるから」

微笑するサヤは、しかし、初めて会ったときに比べ痩せていた。
アヤの出産を切っ掛けに、サヤは体調を崩しやすくなった。
安静にしていて欲しい、という俺の気遣いも虚しく、本人は気丈に振る舞っているが……。

「アヤの様子は?」
「元気そのものよ。わたしと違って、丈夫な女の子に育ちそう」

サヤは慈しみに満ちた目で、緋色のカーペットの上で、エーフィと戯れるアヤを眺める。
頬をむちゃくちゃに引っ張られながらも、エーフィは寡黙な玩具役に徹していた。

「お仕事はどうだったの?」
「何も問題は無かったよ。エーフィにも活躍してもらった」
「本当?」
「ああ。なあ、エーフィ?」

きゅうん、とエーフィは高い鳴き声を上げる。
二年前のあの日、半身を断たれたケーシィは死んだ。
ポケモンの死に慣れた俺にとって、その後にすべきことは、墓を作り、弔いの言葉をかけることくらいだ。
しかしサヤには、ケーシィの代わりが必要だった。
そこで俺は同じエスパータイプのエーフィの幼子を、組織の研究部署から引き取ったのだ。
率直に言ってしまえば、このエーフィは失敗作だった。
PK能力に秀でてはいるが、繊細なPKを編むことができない。
それは同時に"サイコキネシス"の習得が不可能であることを示唆している。
廃棄、即ち自然に逃がされる予定だったエーフィは、
二年の歳月を経て、単純かつ強力無比な"念力"の使い手に進化した。
「こらこら、あんまりエーフィを虐めてやるなよ」

屈み込み、アヤからそっとエーフィを取り上げる。

「ぁ……」

泣き出しそうになるアヤの両脇を抱え、高く高く持ち上げると、
アヤはすぐに擬似的な無重力の虜になって、笑顔を咲かせた。

「おとーたま、これ、すき!」

早熟な子、と決めてかかるには、まだ時間が不足しているように思う。
俺が世間一般の父親の例に漏れず、バイアスがかかった見方をしている可能性も否めない。
しかし事実として、アヤは生後八ヶ月の時点で二、三文語を話した。
髪の色からも明らかなように、アヤは遺伝子の多くをサヤから受け継いでいる。
頭の良い子に育つのは間違いないだろう。
唯一、懸念すべきは――。

衣擦れの音が、俺の意識を現実に戻した。
サヤが立ち上がり、提案した。

「アザレアを見に行きましょう?
 まだ綺麗に咲いているわ」

――――――
――――
――

五月雨の晴れ間、庭を歩いて行くと、
朱と、ピンクと、白の入り乱れた植え込みが目に飛び込んでくる。
温暖な気候が開花時期を本土のそれより遅らせていて、
美しい八重咲きが花びらの内側に透明な雨粒を浮かべている。
アザレアは、アヤの誕生花だ。
一年前、庭師が「お祝いに」と丹精込めて庭植えしてくれた。
「眠ったみたいだな」
「ええ……」

遊び疲れたのだろう。
サヤの腕の中で、アヤはすやすやと寝息を立てている。
自然と、頬が緩む。この屋敷にいる時だけは、本当の自分でいられる気がした。

「次のお仕事は、いつになるの?」

視線は花に注いだまま、サヤは平坦な調子で言った。

「明後日の夜には、ここを発つよ」
「そう。じゃあ、三日もサトシと一緒にいられるのね……」

寄り添い、目を瞑るサヤに、堪えようのない愛しさと罪の意識が募った。
『――日しか一緒にいられないの?』という問いかけが、
『――日も一緒にいられるのね』という受容に変わったのはいつからだ。
俺はあまりにサヤと、アヤを蔑ろにしすぎた。
でも、それも、今度で終わりだ。

「次で、最後だから」
「えっ」
「博士に、せめてアヤが物心つくまでは、サヤと一緒に育てたいと伝えたんだ。
 次の任務の完了したら、長い休みがもらえることになっている」

サヤは目を瞬かせ、やがて、小さく洟をすすった。
睫からこぼれ落ちた涙が、アヤの頬に当たった。
幸せな夢でも見ているのだろうか。
静かに泣く母親の腕の中で、アヤは無垢な笑顔を浮かべていた。

――――
―――
――

朝凪の海を渡る。
海面を跳ねるテッポウウオの群れに併走するように、リザードンは北上する。
目指すは、故郷・マサラタウン。
朝焼けの光の強さに、思わず目を閉じる。

ヤマブキシティでの任務が無事終了した俺は、
グレンの屋敷に帰るより前に、セキエイに飛んだ。
面会の希望はあっさりと通り、
俺は組織最高責任者であり、オーキド博士の分身でもある『管理者』の前に立った。
博士は俺に見向きもせず、機械によって出力されたホログラフを見据えていた。
もしも俺が分子生物学や遺伝子工学に通暁していれば、
それがDNAやRNA、またはタンパク質のシーケンサーであることが分かっただろう。

『結果は口頭報告で十分じゃ。
 何のために通信端末を持たせておると思っておる』
『報告事項は、書式ファイルにして転送を済ませています。
 俺は……俺は博士に、お願いがあってここに来ました』
『ふむ』

博士はそこで初めて俺に興味を移したかのように、
白衣を翻し、鋭い眼光をこちらに投げかけた。
俺は臆さずに、ずっと胸の内で温めていた言葉を口にした。
サヤを一人にはできないこと。アヤの傍にいてやりたいこと。
率直な告白は、今から思い返すと、あまりに幼稚で自己中心的だった。
やがて博士は言った。

『お前は、自身の戦略的重要性を自覚しておらんようじゃのう、サトシよ。
 クライアントは山積しておる。お前は最早、この巨大な組織の機関部に位置する存在なのじゃ。
 お前の後釜はおらん。そして、お前が欠けることによって、生まれる損失は甚大じゃ。
 勝手な引退は認められん』

目の前が暗くなる。俺は喘ぐように主張した。
これまで俺は寝食を削って、内縁の妻と娘との時間を削って、組織に貢献してきた。
俺が未然に潰した反乱分子の数を、抹殺した謀反人の数を、
一から教導した新人の数を、住処から放逐した野生ポケモンの数を、挙げてみろ。
博士は微動だにしなかった。
まるで強化ガラスを隔てて投薬されたポケモンを見守る科学者のように、
黙って俺を観察していた。
やがて、俺が語るべき言葉を失った頃。

『……いいじゃろう』

耳を疑った。狼狽する俺に、博士は続ける。

『しばらく見ぬ間に、立派な"父親"になっていたようじゃのう、サトシよ。
 お前の要求を、全て呑むことはできん。
 繰り返すが、お前は組織にとって、代替不可能な存在なのじゃよ。
 じゃが、お前の娘――確か一歳だったか――が物心つくまでなら、お前の申し出を認めることは吝かではない』
『本当、ですか……?』
『ただし、今からお前に授ける任務を完遂することが、条件じゃ。
 サトシよ、お前には、マサラタウン近郊のポケモン分布図を作成してもらいたい』
『フィールドワーク、ですか』

瞬間、俺の脳裏を過ぎったのは、
そんなことでいいのか、という安堵と、
長く避けていた故郷に戻ることへの、恐怖だった。

『期間は七日間とする。
 満足いく調査結果が得られても、七日間はマサラに滞在するのじゃ。よいな』
『ありがとうございます……本当に、ありがとうございます』

博士は薄い笑みを浮かべて呟いた。

『早急にお前の穴埋めができる"人材"を探し出さなければならんのう』

別れ際、俺は博士が、俺が想像していたよりもずっと物わかりのいい人物であったことに感謝していた。
長い休暇が終われば、これまでにも増して、組織に貢献すると心の中で誓った……。


―――――
―――
――

入り江が見えたあたりから、リザードンは高度を落としていく。
沖と同じように水面は穏やかで、波止場には何人かが、釣り竿を手に朝釣りを楽しんでいる。
浜辺には打ち上げられたシェルダーの群れ。再び波に攫われるのはいつになることやら。

「ここでいい。ご苦労様、リザードン」

無性に歩きたい気分だった。
なのに、なかなか最初の一歩が踏み出せなかった。
南から吹く潮風に、背中を押してもらう。

「おはようございます。いい天気になりそうですねぇ」

すれ違う町の人々は、見知らぬ俺にも、気兼ねなく挨拶してくれた。

「これでオレもポケモントレーナーだぜ!」
「免許とったんだ……うわぁーいいなぁー……」
「ボクにも見せてよ!」

小学生の一団が、元気に坂道を駆け上がっていく。
囀りの聞こえた方に顔を上げれば、ポッポのつがいが、仲良く追いかけっこしながら、西の空へ飛んでいくのが見えた。
しばらく進むと、舗装された道は終わり、畦道と田園風景が視界いっぱいに開ける。
水田の面に朝日が反射し、きらきらと輝いている。
カイリキーが農夫に混じり、人より多い腕を活用して、ものすごいスピードで稲の苗を植えていた。
横に広い田んぼも、縦に突っ切ってしまえばあっという間で、そこから先はマサラタウン北側居住区だ。
この超がつく田舎町の辛うじて文明と呼べるものは、ほとんどがここに集約されていると言ってよく、
俺の実家があるのも、オーキド博士の私立研究所があるのも、ここだった。
歩調を上げる。嫌でも目に入る風景が、匂いが、音が、記憶を呼び覚ます。
オーキド博士の研究所に遊びに通った。
ポケモンを持たずに何度も草むらに入った。
泥だらけで帰ってくる俺を、彼女は優しく抱きしめてくれた。

『オレはポケモンマスターになる!』
『サトシならきっとなれるわ。ママが応援してる』

この町の本質は何一つ変わっていない。
ここは旅立ちの町。見送りの町。そして、夢破れた者を迎える町。
故郷に帰ってきたのだと実感する。
どんなに忘れた気になっていても、初めて訪れる風を装っても、自分自身は騙せない。

喉の奥からこみ上げる熱い塊を飲み込み、目を伏せながら、ポケモンセンターを目指した。

「それではごゆっくり」

一人になる。ソファに腰掛けて深呼吸する。
真新しい調度やモノマーの臭いは、このポケモンセンターが改装されて間もないことを示していた。
偽装IDは俺をレッドという他人たらしめる。
しかし幼年期をともに過ごした友人の一人である彼女なら、
俺の面影に気づくかもしれない……そんな、恐れとも期待とも知れない奇妙な感情があった。
結果として、彼女――案内係の若いジョーイ――は俺の正体に気がつかなかった。
有数の、しかしさして驚くほどでもないパーフェクトホルダーの一人として認知されただけだった。
仕方ないことだ、と思う。
直情的で活発で、皆の先頭に立ちたがった少年はもう、どこにもいない。

太陽が昇るにつれて、ひんやりとした朝の空気が暖められていく。
睡魔がするすると忍び寄ってくる。昨夜から今朝にかけて海を渡ったのだ。
カーテンを閉めるのも面倒で、右手を瞼の上にかざした。
不完全な闇は、しかし睡魔には十分な温床だったようだ。

そうして俺は、長い、夢を見た。
ポケモンマスターになりたい、と本気で思い始めたのはいつからだろう。
ポケモントレーナーになりたい、という考えは物心ついた頃からあったように思う。
ポケモンを自在に操れれば尊敬され職に困らないというような打算的な動機ではなく、
ただ純粋に、ポケモンが好きで、俺はポケモントレーナーになりたかった。

マサラタウンの周りにいる野生ポケモンは、基本的には穏和で争いを嫌う性格で、
群れでもしない限り、人間の脅威と呼ぶにはほど遠い存在だった。
マサラタウンでは多くの人がポケモンと一緒に暮らしていた。
生活に必要不可欠な意味で一緒に暮らしている者もいれば、ただ単純に同棲の楽しさを求めて一緒に暮らしている者もいた。
ママ――母がポケモンと一緒に暮らしていた理由は、
正確には寂しさを埋めるため、だったのではないかと今になって思う。
俺には父親がいない。マサラタウンで俺の母親を見初め、見知らぬ土地に去っていったという。
放浪癖のある、しかし優秀なポケモントレーナーで、その行方は現在も杳として知れずまま。
母はしばらく父親の消息を掴もうと努力し、しばらくした後で、俺を育てることに専念しようと思ったそうだ。
家には父親が写った褪せた写真が、一枚だけ残されていた。
それが俺の知る父親の全てだった。
組織の情報ネットワークを利用して父親を捜し当てることも考えたが、結局しなかった。
もう二十年近くも行方不明なのだ。この広い世界のどこかで、恐らく、否、確実に彼は死んでいる。
そういう可能性を思うと、一抹の侘びしさが去来するが、
子供の俺にとって父親の不在は、誕生日とクリスマスが同じ日である程度の不幸事でしかなかった。
友達が、母が、町の人々が、いつでも俺の傍にいてくれた。
俺は鬱屈することも斜に構えることもなく、ポケモンが好きな部分は変わらないまま、真っ直ぐに育っていった。
十歳の誕生日を迎えた次の日。
俺はポケモン協会支部に赴き、トレーナー免許を取得した。
母親は俺の知る限り誰よりも優しかったが、免許を取得するまで、俺が自分のポケモンを持つことは許さなかった。
中途半端にポケモンを育てる責任を負わせたくなかったからか、
それとも、俺がポケモンをゲットした勢いで町を出るのが怖かったからか。
理由は本人に聞いてみなければ分からない。

俺は免許をもらったその足で、オーキド博士の研究所に向かった。
マサラタウンには慣例があった。
トレーナー免許を取得し、町を出てポケモントレーナーを目指すと決めた少年少女には、
博士からそれぞれにぴったりの幼生ポケモンが与えられるという慣例が……。

研究所に到着すると、シゲルと鉢合わせした。
オーキド博士の孫で、家族ぐるみの付き合いをしていたシゲルは、友達の中でも特別だった。
何をやっても敵わなかった。何をやっても追いつけなかった。
ただポケモンが好きなだけの俺と違って、シゲルは早くから自分のポケモンを持ち、育成の才を認められていた。
勝手にライバル視する俺を、シゲルは鼻で笑っていたように思う。
その日もシゲルは俺より一歩先にポケモン――ゼニガメ――を選び、
応援団の女の子たちを引き連れて、意気揚々と町を発っていった。

残された俺に、ポケモンの選択権は無かった。
偶然にも博士の用意していたポケモンが捌けてしまったのだ。
博士は逡巡したあと、誰かに譲る予定ではなかった幼いピカチュウを譲ってくれた。

ピカチュウ――出会ってすぐの頃、お前はちっとも懐いてくれなかったな。
子供の俺は自分が正しいと信じて疑わなくて、
お前に本気で嫌われる可能性なんてこれっぽっちも考えずに、真正面から、お前と友達になろうとしてた。
あのとき、お前は怖かったんだよな。
どこまでも身勝手な『人間』が、恐ろしかったんだよな。
でも、一緒に危険を乗り越えて、お前は少しだけ心を許してくれた。
俺の肩に乗ってくれた。
きっと、それが切っ掛けだったんだ。
お前がいたから、お前に出会えたから、俺は本気でポケモンマスターを夢見ることができた。

――――――
――――
――


分布調査は三日で終わった。
俺の能力は、気配察知だけに限定すれば、影響範囲を格段に拡大できる。
そもそも、マサラタウン近郊の野生ポケモンなど、数も種族も知れている。
予測された近似値が真の値とほぼ同じであることを確かめるだけの作業、と言っても過言ではない。
実測で得られた数字を変数に代入し、
プログラムを走らせると、分布図が自動生成される。
オーキド博士に転送を済ませ、任務完了……といきたいところだが、
たとえ満足いく成果が得られても、七日間はマサラタウンに滞在しなければならないという決まりがある。

オーキド博士が何を意図しているのか、俺には理解できなかった。
ポケモンの分布調査は、それこそポケモン協会支部に根回しすれば半月足らずで、
人海戦術による正確なデータを得ることができる。
とすれば、これは組織から一旦離れる俺への、あの人なりの手向けなのだろうか。
避け続けてきた過去を直視する機会を与えてくれたのだろうか。
目頭を押さえる。
遠く離れた土地で、望郷する自分を宥めてきた言葉の数々が、
いざ故郷の地を踏みしめた今では、なんと虚しいことだろう?
博士の命令に背いて、マサラタウンを離れることはできない。居場所は常に監視されている。
気を紛らわす仕事もなく、娯楽もなく、最大の関心から目を逸らし続ける時間は、俺にとってはまさしく地獄だった。

心境の変化は、五日目の朝に訪れた。
四度の夜を経て、見た夢は型にはめたように同じだった。
ボールの一つを取り上げ、開閉スイッチに指をかけながら、思う。

『故郷に帰り、母親の姿を一目見る。それの何がいけない。
 博士はそのために俺をマサラに派遣した。好意に甘えろ』

一方で、心の片隅で自制を訴える警鐘の音は、限りなく小さくなっていた。

『直視して、お前はこれまでのお前でいられるのか。
 後悔に焼かれる覚悟はできているのか……』

俺は言った。

「行ってくれるか、ピジョット?」

ピジョットは俺の指を甘噛みし、窓から飛び立っていった。
ソファに腰かけて目を瞑る。開放感が身体中に満ちていた。
小さな町だ。鳥瞰で見て、改めてその事実を実感する。
ピジョットの視点を借りて数分が経ち……。

眼下を過ぎる風景の中に、俺は実家の褪せた屋根を見た。
姿を見れない可能性はいくらでもあった。
しかし俺は僥倖に恵まれた。
ピジョットが旋回を始めてからややあって、小さな中庭に人影が現れた。
物干し竿の近くにかごを下ろし、その人影は、彼女は、俺の母親は、
天気を確認するように、手を翳しながら空を仰いだ。
高い空を舞うピジョットの視線を通して、俺が見ていることなど知る由もない。
それはまさしく僥倖だった。

「…………」

鼻の奥が、熱くなる。
彼女はてきぱきと洗濯物を干し始める。
少し遅れて別のかごを手にしたバリヤードがやってきて、彼女を手伝う。
平和な光景だった。
俺がいなくても母親は元気で暮らしている。
その事実が、こんなにも嬉しく、こんなにもいとおしい。





ああ。本当に。
そこで、やめておけばよかった。





繋がりを絶ち、過去を忘却し、現在の幸福を享受する。
自分と交わした約束を、俺は一時の感情に流され反故にした。
感覚共有解除の数瞬の遅れが、ひとりの少女と、ひとりの女を俺の眼窩に映しだした。
女が先に庭に降り立ち、手を差し伸べる。少女はバランスをとりながら、
靴につま先を通し、庭に降り立った。少女は胸に黄色い何かを抱いていた。
ピジョットは自らの判断で、高度を落としていく。
改めて見直すまでもなく、理屈を弄するまでもなく、
一目見た瞬間から、俺にはすべてが飲み込めていた。
栗色の長い髪が、白いワンピースが、風に靡く。
姿勢を崩しそうになった少女を、女――カスミ――が優しく受け止める。
少女の腕の中から顔を出した黄色い何か――ピカチュウ――は、耳をぱたぱたと動かして少女のあご先をくすぐった。
名前も知らない少女の笑顔は、カスミのそれに、よく似ていた。

体の内で、熾火が燃えている。
青白い後悔の炎が、心臓を中心に血管を通り全身の隅々まで寒気を運んでいた。
感覚共有を解く。
瞬く。瞬く。何度も瞬く。
最後に見たあの光景が、瞼の裏に焼き付いている。
ぜえぜえという獣のような喘ぎは、どうやら自分の喉から発せられているらしかった。
バスルームに行き、鏡を見た。
蒼白な顔をした男がいた。醜く顔を歪ませ、必死に現実を否定したがっている、最低の人間がいた。
問があった。

なぜカスミが俺の実家にいる。
あの少女は誰だ。
ピカチュウは野生に帰ったのではなかったか。

俺は都合の良い答を求めていた。

カスミは偶然俺の実家を訪ねていた。
あの少女はカスミの姪である。
少女が抱いていたピカチュウは、俺のピカチュウとは別の個体である。

だがそれ以上に、真実の答を求めていた。
確信に近い憶測があった。
俺は壁に背中を預け、携帯端末を操作した。
まるで待ち構えていたかのように、博士はすぐに応答した。

「どういうことか、説明してください」
「挨拶もなしにどうしたのじゃ、サトシよ」

博士の声はどことなく愉しげな響きを含んでいた。


「俺の実家に……カスミがいた。
 小さな女の子もいた。ピカチュウもいた。
 博士、あなたならすべて知っているはずです。
 俺に隠していることを、教えてください」

長い沈黙があった。
やがて博士は言った。

「カスミは、お前の子を身篭っておった」
「………」

俺は感情を殺そうとした。
冷静さを取り戻そうとした。
それでも戦慄きは収まらなかった。
壁に拳を打ち付ける。それでも手の震えが止まらない。

「どうして今まで、黙っていたんですか……?」
「ワシがお前を組織に勧誘して、しばらくしてから発覚したことじゃ。
 その時すでに、ワシはお前が組織に必要不可欠な存在になるであろうことを見ぬいておった。
 もしもお前がカスミとの間に設けた子を認めれば、お前は組織から身を引いておったじゃろうて」
「……そんな……そんな、理由で……」
「お前が表の世界から失踪したあと、カスミは一人で子供を産み、育てることを決心した。
 それをお前の母親が援助した。お前のピカチュウは森に帰ることよりも、
 カスミの傍で生きる道を選んだ。やがて女の子が生まれた。お前が見たその少女は、まさしくお前の娘じゃ。
 名をヒナタという」

ヒナタ。ヒナタ。ヒナタ――。
陽の光のように温かく、幸せそうな笑顔を思い出す。
この五年間、カスミは俺の母親やピカチュウと共に、ヒナタを育てていた。
ずっと俺の帰りを待っていた。
その間、俺は何をしていた?
命がけの任務に充足感を得て、ポケモンや人の死に慣れて、サヤと子を成して、家庭を成して……。
俺は、何もしてやれなかった。一度もカスミの傍にいてやれなかった。あまつさえその存在を忘れていた。
激情が堰を切ったとき、刹那の平静が訪れることを俺は知る。

「俺をマサラタウンに派遣したのは、これを直接見せたかったからですか」
「ワシが単なる分布調査などという平易な任務をお前にあたえるわけがなかろう」
「もうひとつ、聞かせてください。想像はついていますが……。
 これまで、カスミの妊娠・出産が公にならなかったのは、組織が、あなたが、意図的に情報封鎖していたからですか」

新リーグチャンピオンのスキャンダル――マスメディアにとっては格好のネタだったはずだ。

「そうじゃ。ありとあらゆるメディアにおいて報道規制を敷いた。
 事実を喧伝しようとする者が仮に現れれば、直ちに口が封じられる。そういう仕組が出来上がっておるのじゃ。
 一時はマサラの界隈で噂が流れたようじゃが、人の噂も七十五日、今では誰もその話をせん。
 お前が見た"もの"の平穏は、組織の巨大な腕によって守られておるのじゃよ」
「理由は」
「理由?」
「あなたが情に絆されて、そうするように取り計らったとは考えられない。何か、理由があるはずだ。そうでしょう?」

博士は俺の無礼を咎めなかった。

「保険じゃよ」

嗄れた笑い声を喉の奥から響かせた。

「動機は何にせよ、お前が組織から離れたがる――反抗期のようなものが訪れることは前もってわかっておった。
 諄いようじゃが、お前はシステムにとって必要不可欠な存在なのじゃ。
 お前の代わりになるトレーナーは、"今のところ"は誰もおらん」

それは、言い換えるとつまり、こういうことだ。
クライアントの依頼を無視し、私情に感けるようならば、組織の巨大な腕の力を"緩める"。
カスミやヒナタは白い衆目に晒され、静かな生活は終焉を迎える。
強調された最後の台詞は、あまつさえ平穏を奪われたヒナタが、
そう遠くない未来、組織子飼いのトレーナーにされることを意味している。
カスミと俺との間に生まれたヒナタは、俺の能力を受け継いでいる可能性があった。
この瞬間ほど、自分の適格者の誇りが馬鹿馬鹿しく感じられたことはない。
すべて、俺が悪いのに。俺は今、またしてもカスミとカスミが産んだ娘を不幸に陥れようとしている。
ふと、俺が仕事を休むと言った直後のサヤの泣き顔が、天使のようなアヤの寝顔が脳裏に浮かんだ。
天秤にかけるまでもなかった。
これ以上の罪悪感を背負えば、確実に押し潰されると思った。耐えられないと思った。
俺は言った。

「俺に、次の任務をください」
「そう慌てるでない、サトシよ。
 最初に言ったとおり、お前は少なくとも七日間はマサラタウンに留まるのじゃ。故郷でしばし静養するがよい。
 ワシもお前の決心を汲み、他の人間で遂行可能な依頼はできるだけそちらに回すようにしよう。
 それで、以前よりは屋敷に戻る機会も増えることじゃろう」
「ありがとう、ございます」

知らず、端末越しに頭を下げていた。屈した、と言い換えてもいい。
それどころか、非礼を咎めず、長期休暇は認めずとも、任務の頻度を減らすと約束してくれたことに感謝すらしていた。
俺は放心状態で通信を切った。
その日は一日、カスミとヒナタが過ごした長い時間のことを想像して過ごした。
いつしか、夜が明けていた。
「おばあちゃん、見てぇ。お花がきれいにさいたよぉ!」
「ヒナタちゃんが毎日頑張ってお水をあげたからよ。
 もしもこの花がお話できたら、きっとヒナタちゃんにお礼が言いたいと思うわ」

老いた母と、娘が仲睦まじく話している。
会話が聞こえる近さまでピジョットを近づけることに、今度は迷わなかった。
ヒナタが両手で水の入った如雨露を傾けながら言った。

「今日はママのおともだちが来るんでしょ?
 おばあちゃんはどんなひとか知ってるの?」
「ええ。昔はこの町に住んでいた子で、よく知ってるわ……」
「ねぇねぇ、昔って、ヒナタが生まれるよりもずっと前?」
「そうね。ずっと昔の話。ポケモントレーナーになるために、この町を出て行ったのよ」

母は目を、遠くを見るように細めた。

「なんていうひとなの?」
「シゲル。ポケモンを研究している、とってもえらい人よ。
 たしかヒナタちゃんとおなじくらいの子供がいたはずよ。
 今日一緒に連れてくるかもしれないわねえ」
「えっ」

ぽとり、とヒナタの手から如雨露が落ちる。
顔がほのかに紅潮し、ワンピースの裾をつかみ、もじもじとしはじめる。

「ヒナタのこと、いじめたりしない……?」
「ふふ、ヒナタちゃんは心配性ね。
 きっとヒナタちゃんのおともだちになってくれるわ」
「ほんとう?」
「ほんとうよ。おばあちゃんは嘘をつかないわ……あら、カスミたちが帰ってきたみたい。
 ヒナタちゃん、一緒にお迎えにいきましょ?」
「う、うんっ!」
庭から二人の姿が消える。
ピジョットは場所を変えた。通りに面した玄関前が映る。
ちょうどカスミとピカチュウが家に入っていくところで、
そのあとに精悍な顔つきの男と、見るからに悪戯好きそうな少年が続く。
シゲルと、シゲルの息子に違いなかった。

シゲル――お前も父親になっていたんだな。

俺がもしもカスミと一緒に暮らしていたら、
あの談笑の輪の中で、お前と育児の苦労でも愚痴りあっていたのだろうか。
玄関の戸がしまる。ピジョットは動かなかった。
だから俺も感覚共有を解かずに、ぼんやりと実家を眺めていた。

これで見納めだと思った。
カスミとヒナタはマサラタウンでの平穏な生活を、
母親は二人を援助する形で寂しさとは無縁の生活を、
ピカチュウも外見の若々しさはそのままに『普通』のポケモンとしての生活を送っている。

血に塗れ、別の家庭を築いた俺に、みんなに合わせる顔はない。
できるのはせめてこの平和が壊されないように、組織に献身することだけだ。
これまでどうりに。俺が死ぬまで、ずっと。
長い休暇が取れなくなったことを、サヤは悲しむだろう。
だが、会えないわけではないのだ。
サヤとアヤへの裏切りは、五年間放置し続けたカスミやヒナタへの罪悪感の前では、小事だった。
どれくらいの時間が経っただろう。
玄関の戸が開く。
二つの小さな人影が、通りを忍び足で歩き出す。
ヒナタと、シゲルの息子だった。
ピジョットは空高く舞い上がり、二人の足取りを追う。
久闊を叙す大人たちに辟易して、子供は子供で遊ぼうと考えたに違いない。
家から離れたあたりで二人は駆け足になった。
普段家にこもりがちらしいヒナタと、マサラの地に明るくないあの少年が、
大人の随伴なく出かけることは、世間一般の常識で考えるほど危険ではない。
なんといっても、ここはマサラタウンなのだ。
家の近くには、俺が昔よく遊んだ公園が今も残っている。
二人は適当に遊び場を見つけて、そこで疲れるまで遊んだあと、家に帰るだろう。
カスミたちが探しにきて、叱られるのが先かもしれないが……。

しかし俺の予想に反し、二人は公園や河川敷には目もくれず、街路をかけていく。
足取りを追って数分、俺はようやく二人がどこを目指していたのか分かった。
フレンドリーショップだ。
少年の顔は大人びている。加えて店員の年齢確認もいい加減だったのだろう。
店から出てきた二人の手には、一つずつ真新しいモンスターボールが握られていた。
モンスターボールの感触に、ヒナタは興味津々の様子で、少年は興奮し浮き足立っていた。

――モンスターボールを得た子供が次に起こす行動とは何か。

児童心理学に頼るまでもない。
二人は道もわからずに、ただ森の方角を目指す。
街路は隘路に変わり、やがて居住区と草むらの境が見え始める。
二人は俺の嫌な予感を見事に準え、森に足を踏み入れた。
五月。樹々は芽吹かせた新緑を陽光にさらそうと枝を高く広く伸ばし、自然の天蓋を作っていた。
ピジョットの大きな体は、森の中で飛ぶには支障が大きすぎる。
障害物を蹴散らしながら進めば、確実に正体を知らしめてしまう。

言い訳めいた理由をつぶやき、俺はリザードンを召喚していた。
ポケモンセンターの屋上から飛び立つ。二人のだいたいの居所は把握できていた。
人目に留まらぬよう、一息に高度を上げる。
やがて見えてきた西の森に、俺はポケモンのざわめきを聞き取った。
縄張りを侵されたポケモンの――複数のポケモンの怒り。
奇しくも直前に行った分布調査から、居住区近くの森に生息しているのは、
キャタピーやビードル程度のポケモンであることが分かっている。
しかしポケモンを持たない、空のモンスターボールしか持たない少年少女にとって、
ポケモンの住処はそこに住まうポケモンの種族を問わず、恐ろしい場所となる。

野生ポケモンのざわめきが一層大きくなる。
能力の有効範囲内に入り、俺は一匹の野生ポケモンの五感を拾い上げる。
ヒナタとシゲルの息子は、キャタピーの群れに襲われていた。
視界に、大木を背にしゃがみ込むヒナタと、木の棒切れを手に白い糸の包囲網を突破しようとしている少年の姿が映る。
ヒナタの近くの地面には、口を開いたモンスターボールが転がっていた。
おそらくヒナタがキャタピーの注意を惹きつけようとして、投げつけたのだろう。
虚しい抵抗だった。自力で脱出できる見込みは、ない。
なのに俺はリザードンに滞空を命じたまま、動けずにいた。
リザードンが俺を振り返り、小さく炎のブレスを吐く。

――なぜ助けに行かない?

思考を共有せずとも、目がそう訴えていた。
少年が叫んだ。

「助けて下さい! 誰でもいいから、ヒナタを助けてください!」

ヒナタの前に姿を見せる資格が俺にあるのかどうか、とか、
カスミたちに何らかの方法でこの状況を伝えるべきなのではないか、とか。
そんな思考は、どこかに消えていた。
高度を落とす。

「"火の粉"」

一帯を囲っていた白い粘性の糸を、火の礫が断ち切っていく。
大木の前に着陸し、リザードンは延焼しない程度の炎を地面に吐き出した。
炎の壁が消えたとき、キャタピーの群れは散り散りになっていた。
リザードンの背を降りる。
少年が脇のリザードンに絶え間ない警戒を送りながら、こちらの様子を伺っていた。

「君はこの子の友達かな」

あくまで通りすがりのトレーナーを装い、言う。
少年は何も言わなかった。

「すぐに大人を呼んでくるといい。
 その間、私がこの子を見ているから」
「ヒナタは大丈夫なんですか!?」

恐怖で口が利けなくなっているわけではなかった。
ヒナタの安否を気にしていたのだ。

「気絶しているだけだ。余程怖い思いをしていたんだろうね」

少年はそれを聞くと、全速力でここまで来た道を引き返していった。
もしも少年の頭が冷静に回っていれば、俺がリザードンでみんなを居住区まで運ばなかった理由を不思議に思っただろう。
大木にもたれるようにして、ヒナタは気を失っていた。
無意識に、ヒナタの手を握っていた。伝わる温もりに安堵した。
俺の、娘。父親を知らない、もう一人の娘。
木漏れ日がヒナタの顔に明暗を作る。
そよ風にヒナタの髪がそよぐ。
葉擦れの音さえ静寂の一部だった。

「ん……」

ゆっくりと、蛹が孵るような速さで、ヒナタの目が開く。
円な瞳が俺を認める。小さな胸を上下させて、ヒナタはか細い声を出した。

「おじさんは、だれ?」
「ここを通りかかった、ポケモントレーナーだよ。
 君たちが襲われているのを知って、助けにきたんだ」

ヒナタは俺の背後にたつリザードンを認めて、はっと息を飲んだ。

「おじさんの、ポケモン?」

頷く。

「こわくない?」
「ちっとも怖くなんかないさ」

リザードンは繊細な動作で手を差し伸べる。
ヒナタは恐る恐る両手でリザードンの手をはさみ、立ち上がった。

「ヒナタをたすけてくれたの?」

鼻を鳴らすリザードン。ヒナタはそれをイエスと受け取ったらしい。

「あの……あのね……たすけてくれて、ありがとうっ」

勇気を振り絞って言ったに違いない言葉に、リザードンは頭をかいて応える。
年齢を重ねるごとに頑固になっていく俺の相棒は、
昔から面と向かってお礼を言われることに慣れていないのだ。苦手にすらなりつつある。
不意に、ヒナタの顔が、焦燥の色を帯びた。

「タイチくんは?タイチくんはどこにいるの?」
「大人を呼びに行っているだけだよ。しばらくしたら、戻ってくる」
「よかったぁ……」