以下は十珠伝における来歴である。史実に関しては
Wikipediaの該当項目などを参照されたし。
父と三人の兄は、物語最初に語られた永享の乱と結城合戦によって他界。時の永寿王は乳母によりひそかに信濃へ逃れ、乳母の兄が住職である安養寺にて匿われ、大井扶光(おおいすけみつ・史実では持光)により養育された。このことが鎌倉に聞こえると、長尾昌賢をはじめとする諸将の計らいにより鎌倉府再興が許されることになった。永寿王は元服し、左兵衛督(さひょうえのかみ)成氏と名を改め、五代目の鎌倉公方に就任した。この時、結城合戦をはじめとする戦で恩顧のある者達を取り立てることがなされ、蟇六はこれに乗じて大塚の村長に就任した。
しかし管領と公方の怨恨は深く、享徳三年(1455年)に成氏は時の管領・
上杉憲忠を御所で暗殺(
享徳の乱の勃発)。これが関東における戦国時代の遠因となった。しかしこの戦は公方方の不利に動き、成氏は鎌倉を放棄せざるを得なくなる。こうして成氏は古河へ移り、そこを本拠として「古河公方」を名乗るようになった。
文明十年(1478年)正月に幕府・関東管領と古河公方の間で和睦が成立。享徳の乱は終結したが、緊張はまだ続いたままとなっている。なお史実におけるこの年の和睦は、あくまで管領との間で取り交わされたものであり、幕府との最終的な和睦までにはさらに四年を要した。八犬伝における永享の乱もほぼ史実と同様に推移している。