そこは川だった。
強く弱く、瞬き揺らめく蛍火が流れてゆく。彼らの足下を、傍らを、頭上をすり抜けてゆく。夜もなく、昼もないこの場所で、途切れることもなく光は流れつづけている。
「ヒマっ、ヒマだよう」
蛙がひっくり返って前肢と後肢をばたつかせた。
「気を抜かないでちょうだい」
薔薇が蔓を延ばして蛙をぴしりと打つ。
「花房、ひどいや。ボクを殺しておいても飽きたらずに、まだいたぶるつもりなんだ」
嗚呼、なんてボクは不幸なんだ、と蛙が大袈裟に身悶えた。再び鋭い針が蛙を襲い、大げさに蛙が悲鳴を上げる。
「花房、蛙井、そのあたりで止めておけ」
蛇が釘を刺す。
「スイマせーん、センセイ。なんだか時々やらないと人生にハリと潤いが欠乏するみたいで」
蛙が、こいつはいっつも正座していて面白くないし、と微動だにしない鷲を後肢でつついた。
蛇の声も姿は遠くにも近くにも感じられる。そもそもここは物理法則よりも心理的な距離感の方がものを言う世界だと彼らは気がついていた。
彼ら同士は人間の姿にも“見える”こともあるし、本体の方にも“見える”こともある。ただの蛍火にしか“見え”ないこともある。それでも、どういう条理が働いてか、互いを明らかに認知できている。おそらく生前の縁の強弱に由来するのだろうと誰もがおぼろげに感じ、今では「こういうものだ」と気にとめなくなっていた。
彼らが留まっているこの光の流れも、実は全然別の何かなのかもしれない。それもまた、彼らにとっては重要なことではない。
重要なことはただ一つだった。
発見した。
短く言って鷲の気配が動く。
「『上』か」
蛇も薔薇も蛙も猿たちも、飛翔する鷲の後を追いかける。本来ここには上も下もないが、彼らが上と、或いは前方と感じている方角へ向かう。
何処なの? 解らない。薔薇が焦りの色を見せる。
「狼狽えるな、花房。どうだオマエら? 創造主を見つけたか?」
ボス猿に応えて、まだです猿渡さん、と手下がひとり報告する。
「いや‥‥いらっしゃった」
鮮やかな漆黒の輝きが視界に飛び込む。否、それは他の弱々しい光とは明らかに異質の、黒という色彩でさえない、あらゆる光を吸収する深みだった。時折、瞼の裏の残像のように色が飛び散っている。
その輝きにとって後戻りのきかない地点までは、ほんの僅かな距離しかないことを、彼らは黒い輝きを取り囲んでようやく知った。彼らに感じられる流れはごくゆっくりしたものだったにもかかわらず、その漆黒の存在をまるで急流であるかのような力で押し流し、抗おうとする動きを圧倒しつつあった。
「猿渡サンっ、ちょっとヤバくないですか?」
思った以上の深刻な状態に、手長猿が慌てふためいて叫んだ。
「あぁ、今回はちっとばかし手こずりそうだな」
周囲で淡く輝く蝶たちが一斉に飛び立った。視界一杯に舞う蝶に猿たちが動揺する。巳田、おめぇの視界は紛らわしくていかん、と視界を共有してしまったボス猿が怒鳴る。
「そうか、済まない」
かつて巳田と呼ばれていた人間の知識が蛇の視界を変容させている。
ギリシャ神話のプシュケという少女は、人として初めて、生きながらにして冥府へと赴き、試練を乗り越えた後、神性を得て蝶の羽を手に入れた。そう、だから“psyche”は“魂”であり、“精神”であり、“蝶”のイメージをも兼ね備える。
ここは、ある生者が忘却の河レテと呼び、ある生者が三途の川と、あるいは三瀬の川と呼ぶ場所だった。様々な色合いに淡く輝く蝶達が死へと向かう流れだった。生と死のせめぎ合う、この世ならぬ光景を、蛇は、薔薇は蛙は猿たちは、鷲は、美しいと思っていた。
自分たちには魂がないのかも、と薔薇が言ったことがある。自分たちは創造主によって造られた存在、だから、あの果ての深淵にのみこまれることなく、ここに留まっていられるのかも、と。造られたことを恨んでいるのか、と蛇が問うと、まさか、ここで創造主をお待ちできて嬉しいのよ、と一笑に付された。それは、この流れに棹さして存在し続ける、彼ら眷属全ての思いだった。
そうして彼らが待ち続けた、あまたの魂の中でもひときわ輝く蝶が、死から逃れるようにゆっくり羽ばたく。しかし、その意志に反して着実に終焉へと引き寄せられてゆく。
彼らは黒い蝶を取り囲み、流れの中で押し戻そうとした。が、流れは予想以上の圧力で、蝶を押し流そうとする。彼らが止めようと力を尽くすと、今度は黒く輝く蝶を奪い去ろうと彼らの手元で流れが渦を巻く。
こいつは難儀だ、とボス猿が舌打ちした。死は本当に近い。
しかし、己が力を信じ、力を尽くし、生を求めた彼らの創造主の魂は流れに逆らい、生の世界へと羽ばたき続けていた。
創造主、生きたいのですか? 鷲が問いかける。
返事は早かった。
ああ、生きたいね。まだ、更なる高みへ翔んでいない。あいつとの決着もついていない。
その声は不屈の意志をもって、傲慢に、力強く彼らの心に谺した。
薔薇は蔓をざわつかせ、蛇が鎌首をもたげ、猿たちの瞳に光が戻り、さっすが、創造主ぃ、と蛙がべろりと舌を出して唇をなめる。
鷲は嬉しそうに微笑む。
「わかりました。お手伝い致します」
そして、空に君臨した王者は翼を広げ、高らかに声を上げた。
我等が忠節を尽くすに足る魂を支えよ。生きるのみならず、生きる目的へと弛まず進み続ける、その意志ある限り!
その瞬間、この存在に造られた全ての存在が、不可逆とも思える流れに逆らった。
薔薇が黒い蝶を見送った後に言った。
「創造主はここでのことを憶えておられるのかしら」
「さあな、憶えているかもしれないし、憶えていないかもしれない。全く別の記憶として残っているかもしれない。我々にそれを知るすべはない」
蛇の言葉に蛙はやや不満気な様子だった。
「じゃ、ボク達のやったことは、創造主にとっては復讐と取られてるかもしれないってこと?」
「どうでもいいことだ。創造主があちらに戻られるのならば」
鷲は再び定位置について監視を始める。ボス猿はそれを眺めやり、蛙の左足をつかんで吊し上げる。なにすんだよと蛙が騒々しく喚く。
「おい、カエル。憶えていようがいまいが俺達には知ったこっちゃねえ。創造主はあちらに戻られ、俺達はそれで満足。結果が良けりゃいいんだよ」
「ソリャそうだけどね。ボクも創造主があっちに戻れば嬉しいけどさー」
なお未練がましく口をとがらせる蛙を、死してなお報酬が欲しいというの?と薔薇が冷笑する。棘のついた蔓が蛙を襲うが、ボス猿は蛙をつり下げたまま、それを軽くいなした。
「おいおい花房、俺までしばく気かよ?」
「ま、そのへんにしとけ。こいつの不満は口だけだ」
「知ってるわよ、そんなこと。でも、すごーく気に障るのよっ」
蛇が笑いを含んで言うと、薔薇はぷいとそっぽを向いた。
「ていうかさー、最近の創造主はこの川を渡りすぎ」
ボス猿からようやく解放された蛙井はぼやく。他のホムンクルスたちはその声に微妙に嬉しさが混じっていると気づいている。再会を望むのは誰しも同じだった。
「また‥‥危険な目に遭われたのかしら」
「ここに来た、ということは死にかけたということだからな」
案ずる薔薇に蛇が応じる。ややあって、うずくまった蛙がぽつりと言う。
「創造主、もう、来ないといいね」
ためらうような沈黙をおいて、そうだな、と鷲が相槌を打った。
思わぬ相手からの反応に絶句する一同をまったく気にかけることなく、鷲尾は彼方を見つめた。
そして、今日も全感覚を研ぎ澄まして、彼らはひときわ黒く輝く彼らの創造主の光を待っている。もう二度と、この生と死を分かつ深淵に還ってくることのないようにと願いながら、待ち続けている。
――― これ以上、再会せずにすむように、と。
魂が蝶の姿をとるというイメージは東西問わず存在するようです。歌舞伎の“けいせい倭荘子”や、中国の悲恋話“梁山伯と祝英台”も確か、現世で結ばれなかった恋人達の魂が蝶になったというラストだったよなぁ。しかし、蝶の羽をもつプシュケーの夫が愛の神エロスと知った時、空ろな笑いがこみ上げてしまいました。“精神と肉体がバランスよく両立するのが理想的な愛”という比喩なのは解っているけど‥‥よりにもよってエロスかよ!
それはさておき、これは書いておかなきゃなぁ、と焦っていたネタです。パッピーが臨死の恍惚を体験しているたびに、あの世とこの世との境目で蝶野ホムたちが頑張っている話。もともとはギャグでした。「もう二度と会いたくない」に肯定的な意味を持たせた時点で、しみじみ系に変更した次第。
それと彼岸で正座している鷲尾さんを書きたかったのです。なのに、蛙井が動かし易いのなんのって(笑)。
新サイトに移行しました。ピリオドで彼らが復活していて、そりゃーもうビックリしましたが、良い意味で再会できたので良かったね、と。