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「もーダメ……死ぬ……」
「情けないなあ父さん」

俺は、『情けないのはお前の体だ!』、と言い返す事さえできず、ただゼイゼイ息を
切らしながら川原の土手でぶっ倒れていた。
その周りを、俺の体で「シュシュシュ!」といんちきシャドーボクシングをしながら
軽快に跳ね回る健太がムカツく。

あのエロい旅から戻り、明けてきょうは日曜。
もともと出不精の健太が、俺の体に無断で贅肉をつけ始めていたため、朝っぱらから
無理やりジョギングに引きずり出したのだ。
だが、元我が息子のこの体はあまりにヒンジャクで、10分も持たずにダウン。
ヤツには、けっこう先にある水門まで走ってこいと遺言を残し、寝転がったままの
俺は、さわやかな風に吹かれながら、いつしかウトウトしていた……

……顔のごく近くで、何かがフンフン言う気配に、俺はゆっくり目を開く。
「ヨシツネ、拾い食いはダメよ」
という柔らかなソプラノの声に、思わず俺はバッと身を起こした。
白いワンピに身を包んだ御厨さんが、すました顔で立っていた。
俺を起こした鼻息は、彼女が連れてる、まだ成犬ちょい手前の、凛々しい顔立ちを
した柴犬のものだった。
「あ!御厨さん、おはよう」
「おはよ」
朝の光の中、なめらかな頬をわずかに赤くして俺を見下ろす彼女は、10歳にして
すでに、「可愛い」から「美人」の領域に足を踏み入れつつあった。

彼女は、見惚れる俺の視線をツンと無視しつつ隣に座った。
ヨシツネとやらは、寝転がってる俺を今や前足で遠慮なく踏んづけながら、盛大に
俺の全身を嗅ぎ回っている。
とにかく犬には目が無い俺が、首の下やら脇腹を撫でてやると、ヤツはぐんぐん
テンションが上がってくる。
それに釣られて、「ここか!ここがええのんか!ウヒヒヒ」とこっちもハイになって
しまい、彼女に「ヘンタイ!」と頭をペチッと叩かれてしまう。

不意に、「あのさあ……健太きょう午後ヒマ?」と彼女が言った。
残念ながら、全然ヒマじゃない。ジョギングから戻れば、山のように溜まった仕事が
待っている。最初から答えは決まっていた。
「うんヒマ!超ヒマ!なになに何なの?!」
「うるさいなあ……今、県立美術館で『桃山文化の至宝展』ってやってるの知ってる?」
知ってるも何も、もう2回行きました。
「あれ、父の会社が協賛しててさ、うちにタダ券が山のようにあって、まあ捨てるの
もアレだし、私今日午後たまたま時間が空いちゃったしさ……」
俺がヨシツネなら、シッポをちぎれんばかりに振ってるところだ。


彼女が、素直かつ的確かつユニークな審美眼を持ってるのは既に分かっていた。
そんな彼女と、あの宝の山を見て回れるなんて……
俺は思わずボーっとしながら腕の中のヨシツネをこねくり回し、ガブリと噛まれる。
「ヨシツネ、拾い食いはダメって言ったでしょ。じゃ、駅前に1時。いい?」
と、彼女はお尻についた草を払いながら立ち上がり、手を軽く振って去っていった。
俺が、ヨシツネと戯れながら遠ざかるそのほっそりした後姿に見とれていると、土手
の反対側から何かすごくドンヨリしたオーラに包まれたオッサンが現れた。
うーん、ヤツの存在を完全に忘れてた。

そのオッサンこと健太が、まさに血相を変えて迫ってきて、俺の襟元をグッとつかむ。
「な、な、何で御厨さんとあんな仲いいんだよっ!」
答えようにも、首が苦しくて声が出ない。
そうか、イジリだろうがイジメだろうが、あんな可愛い子に構ってもらえるなら、
それはそれで嬉しいってのは、同じ男としてよく分かる。
それを止めるとは、余計な事したのか俺。っていうか、完全にし過ぎだけれども。

……なんて言ってるうちに耳がゴウゴウ鳴ってきて、命の危険を感じた俺は、襟首を
つかませたまま、ヒザをグッと曲げて体を沈ませる。
健太が、逃すまいとして俺を引っ張り上げる。
その力を利用して、ジャンピングヘッドバット!
『ごぎーん!』という壮絶な音とともに、頭クラクラで二人は土手を転げ落ちた。
一番下まで転がり落ちた俺は、目をグルグル回しながら健太に「お、おい大丈夫かっ!」
と声を掛けたが……誰このガキ……って健太じゃん?!うおおっ、戻ったあぁぁ!!

俺達は、二度と一緒に転ばないよう数メートル離れて家に向かいつつ、あと2時間後
に迫った、彼女との約束をどうするかでもめていた。
ひとまず延期してもらおうと言う俺に、健太は目の色を変えながら、「せっかくのチャ
ンスなんだから、絶対行く!」の一点張り。
俺も説得を続けるうち、『もしや、彼女が健太とデートするのがイヤなだけなんじゃ
ないのかオレ』って気もしてきて、結局は折れてしまう。
基礎的な知識位つけてやろうかとも思ったが、彼女に付け焼刃は通用しないだろう。
まあ、当たって砕けてみろ!と背中を叩いて送り出してやった彼は、2時間後、青い
顔をして帰ってきた。粉々に砕けたらしい。

彼によると、彼女は最初かなりテンションが高かったらしいが、話しているうちに段々
口数が少なくなってきて、後半の展示品はほとんど見ずに出てきてしまったそうだ。
何かホッとしてる自分の器の小ささにガックリしながら、俺はしょんぼりする彼の肩
をポンポン叩いた。
考えてみれば、俺と彼女の縁は、これで完全に切れてしまった訳だ。
胸に隙間風がビュービュー吹きぬけるような気がする反面、彼女のためには、このま
ま終わるのが一番いいのかもなあ、とも思った。



などとおセンチ気分に浸っていたら、玄関のチャイムが軽やかに鳴った。
浮かない顔のまま、健太が玄関に向かうが、ガチャリとドアが開く音と同時に、
「うわっ!」と彼が叫ぶ声が聞こえてきた。
「どうしたっ!」と俺も廊下に飛び出して、やっぱり「うおっ!」と叫んでしまう。
カーディガンにブラウス、膝丈のスカートいう、大変可憐な出で立ちの彼女が、険し
い顔をしながらそこに立っていたのだ。

俺は、彼女と実際の俺が初対面だったか必死で思い出しつつ、こわごわ口を開いた。
「け、健太、この子は?」
「あ、えーっと、その、クラスメートの御厨さん」
「初めまして、御厨レンと言います。健太君にはいつもお世話になってます」
と、ニッコリ笑って行き届いた挨拶をするのはさすが。
「あ、あぁ、こちらこそ。えーっと、上がる?」
と言われるがいなや、彼女は「おじゃまします」と靴を脱いでスタスタ奥に入って
いってしまう。

テーブルに向かい合って座る健太と彼女にお茶を出し、「で、ではごゆっくりー」と
フェードアウトしようとする俺に、彼女がいきなり、
「実は、健太君のお父さまに聞きたいことがあるんです」
と切り出した。
ぎくりとした俺が、横目で健太を睨むと、彼はプルプル首を振った。
これは、『入れ替わりの事は誰にも言うなって言ったろうが!』『言ってない言って
ない!』という、親子ならではのツーカーコミュニケーションである。
うーん、だとすると、彼女が俺に聞きたい事って何なんだ?

彼女は健太に、「携帯持ってないんだっけ?」と聞き、その問いに彼が頷くと、自分の
携帯をポンと渡した。
「終わったら呼ぶから。ゴメンね」
と、文字通り有無を言わさず、微笑み一つで彼を家から追い出してしまった。

「うーんと、それで、話って何かな」
と俺が水を向けると、俺の入れた紅茶を啜りつつ、珍しく彼女は口ごもっていたが、
やがて思い切ったように口を開いた。
「あ、あの!……あの、お気を悪くされたら申し訳ないんですけど……」
「うんうん、何?」
「健太君って、何か例えば、急に性格が変ったりとかって事、今までありましたか?」

ああ、なるほど、そういう解釈か。というか、それが普通の考え方だよな。
少しホッとはしたものの、これはこれであんまり下手な事も言えない。
『少しその傾向がある』と言うのが自然なのか、それとも、もう体の入れ替わりが
無いとすれば、『別にそんな事は無い、気のせいじゃないかな』で押し通してしまう
方がいいのか。



言葉に詰まってしまった俺を前に、壁の本棚をなにげに見渡していた彼女の目が、
ふとある一角で止まった。
その本棚には、様々な美術書、画集、資料が、ほとんど未整理のまま詰め込まれて
いるのだが、そこだけ異様にジャンルが偏っていた。それは、日本美術だった。
彼女はスッと立ち上がって本棚に歩み寄ると、一冊を抜き出し、パラパラとめくった。
「この画集、私も持ってます。お父様の趣味ですか?」
「あ、うーんと……まあね」
「そうですか……」
彼女の目が、心持ち細まる。

彼女はその本を戻すと、今度は俺の仕事のパソコンに近づいていく。
そのパソコンの周りには、小さな犬のマスコットがいくつか置いてあった。
「和犬がお好きなんですね……」
確かにそこにあるのは、秋田犬や柴犬の姿を模したものばっかりだった。
「あ、うーんと……まあね」
何となくヤバイ雰囲気に、俺のワキがじっとりしてきた。
彼女が柴犬の人形を撫でるのを止め、また眼の前に大人しく座った時、俺は密かに
安堵の溜息をついていた。

彼女がふと口を開いた。
「そうそう、今朝彼女すごくよろこんでました。また遊んであげてくださいね」
ああ、ヨシツネの事か。可愛かったなあ……って、あれ?“彼女”って……
「え、何?ヨシツネって女の子だったの?!」
彼女の目がギラリと光り、俺は瞬時に自分の失言を悟った。

ここまで。もうすぐ終わります。