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目次

ハンプ越え空路

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そもそも、この方面では、個人的怨恨や相反する目的のために、 英・米・中国の間に協力関係がまったくできていなかった 。その一例を示すと、私がニューデリーに赴任してまもなく、9月中にヒマラヤ山脈を越えて中国に空輸された援助物資の量は、わずかに四千四百トンにすぎなかった、とマウントバッテンが私に語った。
 しかし、実際には六千七百トン以上もの援助物資が中国に空輸されている事実を、だれもマウントバッテンに報告しようとはしなかったのである。 だれかがイギリス軍側にまちがったデータを伝え、その誤りを訂正する者はだれもいない、という状況 であった。
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  • A・C・ウェデマイヤー『第二次大戦に勝者なし〈下〉ウェデマイヤー回想録』 (講談社学術文庫)、p61

英語wikipediaの翻訳

概要

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  • 「駝峰」空輸(1942.5-45.9)
 ところで、アメリカの対中支援で看過できないものとして、一九四二年五月から四五年九月までの間、インド・ビルマ・中国にまたがる地区を飛んだ「駝峰」(Hump Course)空輸があった。これはアメリカ陸軍航空兵空運隊(American Ferry Command)と米中合弁の中国航空公司(China National Aviation Corporation)が、ヒマラヤ・ホントワン両山脈(いわゆる横断山脈)を越えるという新たな空中補給線を開拓するという野心的な試みであった。 複雑な地形、暴風雨、低気圧という悪天候、その上、妨害目的の日本軍機の出没 など、 軍事空輸史上、最も厳しい空輸路線 とされる。
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  • 菊池 一隆『中国抗日軍事史 1937-1945』p201

計画


空輸のボトルネック

アッサム・ベンガル狭軌鉄道(海~インド側空港間の陸上輸送)

 元々はアッサム茶の輸送のために建設されたこの鉄道が大きなネックとなって人々を絶望に陥れた。カルカッタとレドの間で三回も異なる路床に切り替えられ、鉄橋がないのでブラマプトラ川は艀で渡らなければならなかった。英国の管理部が、もっとのんびりしていた時代の習慣とテンポで鉄道を動かしていた。インドの労働事情は、一九四二年夏に国民会議派が呼びかけたストと「非協力」の民族主義運動のため阻害された。アッサム・ベンガル線の輸送量はつねに関係者合意の見積もりを下まわり、同戦域のアメリカ補給業務部(SOS)司令官「小粒の(スペック)」・ホイーラー将軍の特別措置と権限をもってしても、管理者側の頑固な態度を崩すことはできなかった。このため輸送が閉塞し、一九四四年にやっと同線を軍事化し、アメリカ鉄道大隊で運営する協定が成立するまで二年近く続いた。


輸送量の拡大

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関連リンク








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 一九四四年四月、この最新型爆撃機を主力兵器とする第二〇航空軍を編成し、これを陸軍航空軍総司令官アーノルドの直接指揮下に置いた。その任務は、「日本軍、日本の工業ならびに経済機能の撹乱の拡大をできるだけ早期に達成し、──(中略)──日本人の戦争遂行の能力ならびに意志が決定的に弱体化するまでその士気を砕くこと」とされた。そのための最初の作戦、「マッターホルン作戦」を遂行するために第二〇爆撃軍が第二〇航空軍の傘下に組織された。

【中略】

  「マッターホルン作戦」の名称の由来は、この危険なヒマラヤ山脈を越える飛行にあった 。しかも、燃料その他の必要な物資をカルカッタから成都まで輸送するために、B-29は何度も往復しなければならなかった。 八トンの燃料・物資を成都まで往復飛行のために、二八トンの燃料を消費するという効率の悪さ であった。
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 対日爆撃作戦の初期段階で中国の成都に展開したB-29の出撃を可能にするために、B-24改造のタンカー型=C-109が危険を究めた「ハンプ越え」(ヒマラヤ山脈上空往復飛行)を繰り返した。

  • 飯山 幸伸「第2章 爆撃機以外のB-17の仕事」『あっと驚く飛行機の話―新しい視点で眺めるWW2』 (光人社NF文庫)、p51

第5章 ヒマラヤを越えて飛んだカーチス・コマンド



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