※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。


目次

失敗したアメリカの中国政策~ビルマ戦線のスティルウェル将軍~

  • バーバラ・タックマン(Barbara Wertheim Tuchman)著
  • 原書:Stilwell and the American Experience in China: 1911-45. (1970)
  • タックマンにとって、二度目のピューリッツァー賞受賞作品。

  もしもスティルウェルが軍隊を改革し、戦闘力の充実した九十個師団を創設することができたなら、中国の運命は変わったものになっていただろうか。 大佐時代に戦略事務局(OSS)のゲリラ部隊長としてビルマで勤務していたことのあるウィリアム・R・ピアーズ将軍はこう書いている。

「わたし自身は確信しているが、 もしスティルウェルの、中国地上部隊を装備し、編成し、訓練する計画が完全に実施されていたら、日本の歩兵部隊が一九四四年に華南の空軍基地を蹂躙することはできなかっただろうし・・・対日戦終了後、中共部隊がその目的を達成することもできなかっただろう

  アジアが西欧の思いのままになるようなものだったら、この仮説通りになったかもしれない 。しかし、スティルウェルのであれ、だれのであれ、 「改新の構想」は外から押し付けることはできないものなのだ。 国民党の軍事構造は、それがよって立つシステムの改革なしには、改革しえないものであり、そのようなシステムを改革するには、スティルウェル自身が認めているように、「いったん粉々に壊されなければならない」のだ。

(中略)

中国には、アメリカ的解決方法で解ける問題などひとつもないのである。




満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られないのではないかと考え、中国国民政府を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、四九年以降の中国が共産化してしまった。

(中略)

この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らが望む体制をつくりあげなければならない、このような教訓が導き出されました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して間接的に北ベトナムを支配するのに止まるのではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです。

 以上が、ベトナム戦争にアメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。




1943年8月17日~24日のケベック会談にて、インド・ビルマ・中国戦域における連合軍の指揮系統を再編成し、東南アジア連合軍司令部(South East Asia Command)(最高司令官はマウントバッテン英国海軍中将)を新設することが決まった。

 スティルウェルはCBI米軍司令官、総統付参謀長はそのままにして、連合軍副司令官になることになった。 彼はこうして三つの指揮系統に同時に、また別々に、責任を負うことになった。 すなわちマウントバッテンを通じて連合軍合同参謀部、マーシャルを通じてアメリカの統合参謀本部、そして総統に責任を負うことになった。そのほかに彼はランガール部隊の運営責任も負っていた。これは軍事上の都合から北方戦闘地域司令部(NCAC)と改称され、混乱に輪をかけることになった。 一連の取り決めで引かれた管轄区域は地理的に、作戦的に、また民族的に入り乱れ、重なり合い、あまりにも複雑にもつれているので、当時もその後も、はっきりとした区画にまとめられるものは一人もいなかった。 マウントバッテン、それにマーシャルでさえちょっと面食らい、チャーチルはどこがどうなのか、さっぱりわからんと投げ出した。最大の犠牲者であるスティルウェルは、編制表をその内容の任務より重視するタチの人間でなかったので、わが身の運命を、「ウェーヴェル、オーク[オーキンレック]、マウントバッテン、ピーナツ、アレグザンダー(航空輸送司令官)、それにおれ、のみんなが一緒くたになって、見分けがつかなくなっている中国パズル」と、穏やかに受けとめた。


複雑な事情をかかえていたアジアで、スティルウェルが経験したおもしろくない事柄は、かならずしも彼自身がすべて作りだしたものではなかった。 マウントバッテンはこの事実を認識して、成功するには至らなかったけれども、スティルウェルとの間に、相互信頼と友好的強調を作りあげるため真剣に努力していた、と私は考えている。 だが、マウントバッテンの人となりは、彼が受けた訓練、経験、生いたちによって、スティルウェルとは正反対であった。 スティルウェルは、代表的な古い型のインディアンの戦士といってもよく、野戦軍のきびしい生活のなかで酒宴を催してばかさわぎする、といったタイプの人物 であった。

 マウントバッテンは戦闘機十六機に護られ、NCAC視察のため三月六日タイパに到着した。この護衛機隊の消費した航空ガソリンは、スティルウェルによれば「おれの戦いを一週間続けられる分に相当した・・・・わがほうは、四機が戦闘に参加していた」。きちんと折り目をつけた、塵ひとつない黄褐色の夏の制服、胸間には三列の従軍記章の略綬、それに星、王冠、礼杖、交差した剣、王家のイニシャルなどで飾りたてられた六インチの肩賞───フーコンにやってきた最高者は、まるでロンドン社交界にいるかのようないでたちだった。自称「老七面鳥の首」の スティルウェルのほうは勲章も階級章も付けず、GIズボンと野戦服のなり で彼を出迎えた。彼はよくあることだったが、身分を知られずに兵士たちと話をするのが好きで、戦闘地域では階級章などを外していた。


  マウントバッテンのみるところでは スティルウェルは「腹の中に火をかかえて」敵との対決を急いでいるが、計画者の茨の冠である世界戦略をまったく理解せず、行政面の問題にほとんど関心がなかった 。「彼は真に偉大な昔の武将」ではあるが、とマウントバッテンはディルに報告した、デリーと重慶とビルマに同時に存在しうるのは「三位一体のみ」であると。 マウントバッテンは円滑に作動する仲よしチームを作ろうと考えていたので、スティルウェルの辛辣な発言と歯に衣をきせない批判を連合軍のためにならないと判断した。彼はスティルウェルをSEACから出し、彼の指揮権を中国に限定、デリーの後任にはウェーデマイヤーかサルタンを望んだ。

 ワローバンの戦場視察に同行した彼はしたいの腐臭に驚いて、海の戦いはずっと清潔だと口にした。 二人の司令官は同じ連合軍として友好のふりをしてみせたものの、二人の間には国益におけるとともに、そのスタイル、方法、目的において根本的な対立のあることは、この戦域のだれもが痛切に感じていた。


 ルーズヴェルトは諦めなかった。「中国のスティルウェルの状況はどうなっているか。」彼は直接マーシャルに手紙を書いた。「彼と総統との関係がこんがらかっているようなので、ほかのところで使ったほうが役にたつのではないか。」マーシャルとスティムソンが彼以上の後任をみつけることは不可能と大統領を説得した。 ビルマ再開を実行する人物は、 重慶で仲よくやってゆくことだけに役にたつ交渉者や補給係などではなく、アメリカ人、それも部隊指揮官でなくてはならない 、とマーシャルは返書した。

 マーシャルの言葉は、スティルウェルが中国在任中と名声の時代を通じて追求するテーマをずばり指摘していた。

その後、スティルウェルはマーシャルの期待通りに部隊指揮官としての能力を発揮して連合軍のビルマ奪回に大きく貢献した。そして任務を達成したスティルウェルの後任は、重慶で仲よくやっていける男・ウェデマイヤーが務めることになる。こういう絶妙な継投策を実行できた陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルがスゴイ、と言えるのかも。


目次

  • まえがき
  • プロローグ ── 危機
  • 第Ⅰ部 中国を知りつくすアメリカ人将校
    • 第1章 ある将校の出自
    • 第2章 革命への訪問者 ── 一九一一年の中国
    • 第3章 世界大戦 ── サンミエルと山東半島
    • 第4章 北京勤務、軍閥の時代 ── 一九二〇~二三年
    • 第5章 「なせばなる」連隊と蒋介石の出現 ── 一九二六~二九年
    • 第6章 「ビネガー・ジョー」 ── 一九二九~三五年
    • 第7章 中国最後のチャンス ── 一九三五~三七年
    • 第8章 陸軍武官、日中戦争 ── 一九三七~三九年
  • 第Ⅱ部 ビルマの失陥と回復
    • 第9章 準備へ猛進 ── 一九三九~四一年
    • 第10章 「行けといわれれば、どこにでも」 ── 一九四一年十二月~四二年二月
    • 第11章 「どえらい敗北」 ── 一九四二年三月~五月
    • 第12章 アメリカの援助丸抱え ── 一九四二年六月~十月
    • 第13章 「一つ筏のおれとピーナッツ」 ── 一九四二年八月から四三年一月
    • 第14章 大統領の政策 ── 一九四三年一月~五月
    • 第15章 「スティルウェルは出てゆけ」 ── 一九四三年六月~十月
    • 第16章 カイロにおける中国の時 ── 一九四三年十一月~十二月
    • 第17章 戻り道 ── 一九四三年十二月から四四年七月
    • 第18章 「全アジアの将来が賭けられている」 ── 一九四四年六月~九月
    • 第19章 「なせばなる」の限界 ── 一九四四年九月~十一月
    • 第20章 「われわれは出てゆくべきだ、"いますぐ"」 ── 一九四五~四六年
  • 訳者あとがき
  • 参考文献・その他
  • 人名索引

年譜


関連ページ


関連リンク