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 手狭で、若干薄暗さが気になる薄暗い店内。

テーブルの数はそう多くはないが、割と上品な雰囲気の酒場だ。それなりに賑わっているように見える。寂れた裏通りにある店としては上等だろう。

その誰も彼もが、たった一人の少女を目当てにこの店にやってくる。

 この界隈でジュデンの歌姫と誉れ高い少女、キリエがステージに立つと、店の中はしんと静まり返る。黒い薄地のドレスと、飾りといえば右耳の青い石のピアスだけ。肩まである薄桃色がかった栗色の髪は、薄闇の中でも観客に暗い印象を与えない。

静まり返った店内で彼女を下品に囃し立てる余所者がいようものなら、屈強なジュデン男たちに囲まれ、黙りこくることになるだろう。

 キリエはピアノの伴奏が流れると、それにあわせて歌いだした。

誰かが作ったバラード。作曲した者は、この曲が天使の調べとなることなど思いも至らなかったであろう。

 キリエの歌声は観客全てを例外なく魅了した。

 3曲歌い終わると、キリエは舞台袖に引き返す。

 その途中で、キリエは一人の少年に目を止めた。茶色く日焼けした黒髪を獅子のように逆立たせた、背の高い少年だ。顔つきから、彼女より1つか2つ年長と知れる。

 彼くらいの年齢の男がこの店に来るのは珍しい。見た覚えのない顔なので、おそらく旅の人間で、知らずにこの店に迷い込んだのだろう。

 そんなことを考えながら、キリエは舞台袖に引き返した。

 その後、キリエは2回ステージに立った。

少年は、最後までその席にいた。曲の合間にそちらのほうを見ると、ずいぶん熱心に聴いてくれていたのがわかった。目を合わせると顔を真っ赤にして目を反らした。辺境のほうの出だろうか、どこか垢抜けなく、初心な印象だった。

 全てのステージを終え、楽屋で(と言っても店の者全員の控え室なのだが)キリエはステージ衣装の黒いドレスを脱ぎ、花の香りが立ち込めるクローゼットに架ける。ラフな格好に着替えると、急いでキッチンの手伝いに走る。

「あと、お仕事残ってますか?」

 キリエが厨房内に声をかけると、料理長が皿を拭きながら顔を出した。他の人間は忙しそうに立ち回っている。

「キリエ、こっちももうおしまいだから、手伝いはいいよ」

「でも……」

「キリエ、君はステージの上でちゃんと仕事をこなしてるんだから。無理してあっちこっち手伝うことないよ」

「はい。じゃあ、お先に失礼します」

「ああ、待った」

 キリエを引き止めると、料理長は調理済みの肉とパスタ、それにスープを盛り、籠に入れてキリエに渡した。

「いつもすみません」

 キリエは料理長に礼を言って、楽屋に戻っていった。

 キリエが楽屋に荷物をとりに行くと、ピアノ奏者のアニーがいた。

「アニー、今帰り?」

「ええ。途中まで、一緒に帰ろうか」

「うん。ちょっと待ってて」

 キリエは肩掛けのバッグを取ってくると、アニーと並んで歩き出した。

 アニーは女性ながらそこいらの男並みに背が高い。戦士ばかりがあふれているこの街で「そこいらの男」の基準は軒並み高いにもかかわらず、である。お母さんが炎の民ということが関係しているかもしれないと言っていた。

 店を出て間もなく、通りの端と端で反対方向に部屋があるキリエたちは、とっくに閉まっているパン屋の前で別れた。

 アニーはキリエの姉のような存在だ。3つ年上の彼女とキリエは、似たような境遇ということもあってすぐに意気投合し、しばらく同じ部屋で暮らしていたこともある。

 店とキリエのアパルトマンの間はそれなりに距離がある。暗くなると、この辺はならず者が多いので怖いが、あの店を仕切っているのはこの一帯を牛耳るカモッラとよばれるやくざたちで、店の者に危害を加えようものなら、あくる日にはジュデン都の中央を走るジュダの河に浮かぶことになるだろう。

ましてやジュデンの歌姫と名高いキリエのこと。間違っても彼女にだけは手を出してはいけない。そういったならず者の中には、今では彼女の顔を見るとこそこそと逃げていってしまう者もいる。

キリエはアパルトマンの部屋に着くと、明かりをつけて荷物をその辺に置く。

小さな炉に火をくべて、貰ったスープを温める。その間に、彼女は寝巻きに着替えてしまう。壁掛け時計を見ると、すでに日が変わっていた。

温まったスープと肉で食事を取り、皿を流し台に置く。片付けは朝に回してしまう。

 眠気に任せて、キリエはベッドの中で目を瞑った。夢の中にいざなわれたのは、すぐだった。

 キリエは少し昔の夢を見た。

 10歳の頃、小さな家が焼けて両親が亡くなったこと。今の酒場のオーナーに拾われたこと。アニーと一緒に住んでいた時こと。12歳からステージに立って歌うようになったこと。家族のように接してきた酒場のみんなのこと……。

 

 王立ジュデン闘技場。国中の戦士が集まり腕を競う場所だ。16人参加のトーナメントがほぼ毎日組まれている。試合に勝つとポイントが与えられ、獲得ポイント年間上位16名は決勝トーナメントに選出され、優勝者にはジュデン国王から直々に年間主席の栄誉を与えられる。また、その日ごとのチャンピオンも選出され、その日のチャンピオンになったものは来年のカレンダーに日付と共に名前を掲載される。ジュデン騎士の中には、闘技場出身の者も多く、貴族への登竜門として参加する者も多い。

 闘技場はジュデン国民の一番の娯楽で、平日でも闘技場は大勢の人で賑わう。

 キリエも多くのジュデン国民の例に漏れず、頻繁に闘技場に足を運ぶ。

 彼女は週に2回、読み書きと数を学ぶため私塾に通っているが、それ以外は街で商店街を冷やかすか、店に顔を出す午後の6時まで、闘技場で観戦をしている。

 キリエは剣闘を見るのは好きだったが、大騒ぎをするのはあまり好きではなかった。ジュデン国民の多くが祭り好きの気質で、戦士には誰隔てなく割れんばかりの歓声を送るが、キリエはどちらかというと、ひっそりとお気に入りの選手を応援しているほうが性にあっていた。

 試合は消化されていき、今日の3試合目。外国人枠の選手が組まれていた。

 外国人枠は2枠あるが、その2枠を巡って、外国人戦士達の予選が行われる。戦士の国として名高いジュデン国には、諸外国からも多くの戦士が集まってくる。そのたった2枠を巡る争いは、ジュデントーナメント本戦にも劣らず苛烈を極めるという。そして、見事参加枠を手にした選手には、2回の出場権が与えられる。

 その外国人枠に入った戦士というのは、よほどの屈強の戦士なのだろう。多くの死地を潜り抜けてきた壮年の戦士を思い浮かべた彼女だったが、入場ゲートから現れたのは年若い、顔をよく見れば少年といってもいいほど若い戦士だった。

(あれ?)

 彼女はその少年に見覚えがあった。

(昨日、酒場にいた男の子……?間違いない)

 今まで店で見かけたことがなかった顔だし、なるほど、外国から流れてきた戦士というところからも符合する。キリエはそう思った。

 強者どもを後ろに回し、外国人枠のひとつに入ってきた少年に、観客達は興奮を隠せないようだった。年の近い息子のある者はいつもよりも一際大きな声援をあげ、またある者は最大級の大きな声で罵声を浴びせる。

キリエは年の近いその少年に親近感を覚え、今日はまず彼を応援することに決めた。まあ、早々と消えてしまうことは目に見えているが。

少年の相手は昨年の年間40位にランクした、少年ほどではないが若い剣士だ。40位とはいえ、外国勢を含めると年間で2000人を越える参加者のうちの上位40位なのだ。決して弱くは無いし、今日の面子を見渡すと間違って優勝しなくは無い。

しかし試合が始まると、少年は予想外の強さを見せた。始めは馴れない異国の剣技に戸惑っているようだったが、しばらくすると優勢に転じ、圧せ圧せの試合運びで、最後には相手を地べたに転がしていた。

勝負が決まると、会場中からやんやの喝采が起きた。

キリエも少年の予想外の健闘に、思わず手を敲いて喜んでいた。2つしかない外国人枠に食い込んだのは伊達ではないようだ。

よく声の通る司会者が、少年の健闘を讃え、大仰に彼の名前を呼び上げる。1回戦で敗れた者には、ここで名前を呼び上げられる資格はない。闘技場では強さだけが絶対であるからだ。

少年の名は、チャンスというらしい。年齢は15歳。キリエの思った通りの年齢だ。14歳であるキリエの1つ上だ。

チャンス少年は2回戦を勝ち進み、3回戦に進出したが、過去に年間5位にランクされたこともある熟練の剣士アストールにあえなく敗れ、会場を後にした。

奮闘した少年に、会場は多くの声援を贈った。彼ほどの若さで3回戦まで勝ち上がった例は過去に何件もないからだ。

キリエは少年の闘いぶりに清々しい心地よさを感じていた。

キリエは楽屋でステージ用の衣装に着替えながら、闘技場の少年が今晩も来ることを期待していた。機会があったら、話をしてみたいとも思っていた。

ステージに立ってひととおり客席を見回してみる。

チャンス少年は、居た。

アニーがピアノの鍵盤を叩いた。歌姫の時間だ。

アニーの合図でキリエは歌い出す。いつもより熱っぽく、情熱的に、キリエは歌う。キリエは自分の思うとおりに、表現したい通りにどんな歌でも歌い、人を魅了する。彼女がこの界隈においてジュデンの歌姫と呼ばれる由縁だ。

 キリエはちらり、とチャンスの方を見る。彼はキリエの歌に酔いしれているようだった。

 昼間、キリエは彼の闘いを見て、今度は彼がキリエの歌を聞いている。そう考えると、キリエは何とも不思議な気分になった。

 歌い終えると、どこか高揚とした気分のまま、キリエは舞台袖の方に引き下がっていく。

「お疲れ、キリエ」

 キリエが次のステージの準備をしていると、普段はほとんど店にいない初老のオーナーが、珍しく来ていた。

「キリエ、少しいいかい?」

「あ……次のステージがありますので」

「ああ、ステージが終わってからでいい。大事な話だ」

「……分かりました」 

キリエは今日の最後のステージに向かう。チャンスは、まだ居た。

最後のステージを終え、キリエは約束していたオーナーの部屋へと向かった。

オーナーはキリエを部屋に招き入れると、向かいのテーブルへ座るように促した。

「オーナー。お話って、何でしょうか」

 オーナーは吸っていたたばこを灰皿に押しつけ、キリエの正面を見据えてこういった。

「キリエ。お前に引き抜きの話が来ている」

 キリエはその話を聞いても、さほど驚かなかった。近頃、彼女の耳にも頻繁に入ってきていた噂だったからだ。

「移籍、ですか」

「中央通りにある大きい酒場があるだろう?そこから誘いが来ているのだが……」

 噂は耳にしていたものの、いざ告げられて話が現実味を帯びると、キリエの心持ちはかわってくる。

「無理にという話じゃあない。相手の契約にキリエが首を縦に振らなければ移籍の話はなくなる」

 そういってオーナーは、契約内容などを記した紙をキリエに手渡した。

 待遇などは今とそうかわらないが、俸給は倍近い。

「悪い話じゃない。中央通りで人目に触れれば、酒場などではなく大きなホールで歌えるようになるかもしれない」

 キリエは現在の暮らしにあまり不満はない。夜に少しだけ歌って、それなりに十分な俸給をもらって、昼は文字を習ったり、街に出たり……。

 大きな舞台で歌いたいという気持ちもあったが、世話をしてくれた酒場のみんなへの親愛の情を上回るものではなかった。酒場のみんなは家族にも等しいとキリエは思っていた。

「ありがたいお話だとは思いますけど……私は、ここにいたいです」

 オーナーは「そうか」とだけ言い、また煙草をくわえた。

 キリエが部屋から出て行こうとすると、オーナーが呼び止めた。

「キリエ、大通りの店は別のカモッラの所轄だ。ここらを仕切っているカモッラとは力も拮抗しているから、あからさまな真似はしてこないだろうが、もしかしたら少しだけ嫌な思いをするかもしれん。誰かに送り迎えしてもらいなさい」

 キリエは頭を下げ、部屋を出た。

 厨房で少しだけ手伝った後、いつものように賄いをもらい、家路についた。オーナーの話もあったので、いつもより気をつけて帰ることにした。言われたとおり誰かについてきてもらおうかと思ったが、自分以外の誰かが自分の為に嫌な思いをするのが、キリエは一番嫌だったので、一人で帰ることにした。

 月と星の灯の他には何もなく、真っ暗な道。家までの道のりは、いつもより長く感じられた。

 キリエがおどおどと歩いていると、不意に後ろから彼女の手を引っ張るものがあった。

 強い力で引っ張られたキリエは、瞬く間に路地裏に引き込まれ、3人の男に囲まれる。

 突然のことにキリエは動転した。

(……引き抜きの件だ!きっと店には相手の店の関係者が来ていて、私が移籍に同意しなかったことに腹を立てているんだ!)
 キリエは大声で助けを呼ぼうとしたが、口をふさがれてしまってそれもかなわなかった。

 キリエが体をよじって抵抗を試みていると、通りの方からまた一人、男が現れた。こいつらの仲間だろうか……。

 彼女がそう考えていると、男達の一人が新たに現れた男に向かって、なんだかわめき立てている。どうやら、彼らの仲間ではないらしい。

 するとその男は、腰に差した剣を抜き、ならず者達に刃を向けた。

「このガキ……!」

 彼らは少しひるみながらも短刀を抜いて、対峙した。

 さすがに戦士の国ジュデンの男達だけあって、チンピラながら彼らの構えは堂に入ったものだった。

 しばしにらみあったが、やがて剣を構えた男の方が動き出した。

 剣を構えた男は、唐突に剣を円弧状に回転させた。すると、剣は炎を纏い、地面を焼いた。彼の使っている剣は炎の魔剣だったのだ。

 男達はそれを見て、情けない悲鳴を上げて逃げまどった。

 ならず者達がいなくなるのを確認して、男は剣を鞘に収めた。

 キリエはその魔剣使いをしばらく呆然と眺めていた。やがて、月を覆っていた黒雲が去り、男の顔に灯を差す。

 キリエはその顔をみて、驚いたように彼の名を呼んだ。

「……チャンス?」

 男の方も、不意に名前を呼ばれて驚いていた。

 

 キリエはチャンスをアパルトマンに招いた。恩を受けたら手厚く恩返しをするのがこの辺のコミュニティの流儀だ。キリエの体にもそれは染みついている。

 それに、このチャンスという少年とは一度話をしてみたいと思っていたから。

偶然の邂逅は、まるで神が織りなしてくれた奇跡のようにキリエには思えた。だけどこういうとき、大勢いるどの神様に祈ればよいのか、キリエには分からなかった。

 キリエは店でもらってきた鶏肉を温め、テーブルの真ん中に置いた。

「たいしたおもてなしは、できないんだけど……」

 チャンスは落ち着きな下げに部屋の中を見回している。見られて都合の悪いものなどはないが、男を部屋に招きいれたのは初めての事だから、やはり少し気恥ずかしい。

 キリエのその視線に気づいたのか、チャンスは部屋を見回すのをやめる。

「改めて、どうもありがとう。私はキリエ。知ってると思うけど、あそこの酒場で歌を歌ってるんだ」

「あ、ああ。見てたよ。綺麗な歌だった。」

 キリエはチャンスの言葉に素直に喜んだ。こんな風に面と向かって褒められたのは久しぶりだったから。

「うん、ありがと。チャンス、あなた昨日と今日、いたでしょ。店に。若い子が来るのは珍しいから憶えてるんだ」

 キリエは鶏肉の山を二皿に分けて盛ると、自分とチャンスの前に置く。

「それに、昼間に闘技場で戦ってたでしょ。私、闘技場にはよく行くんだ。だから名前も知ってたの」

「ああ、それでか……」

 しかしそこで、チャンスの顔が少し曇った。昼間の敗戦を思い出したのかもしれない。確かにチャンスの3回戦は、お世辞にもみっとも良いものとはいえなかった。

 キリエはチャンスに助け船を出す。

「でもさ、チャンスくらいの若さで4強まで勝ち抜いたなんて、たいしたものだよ。ここ何年も、そんな有望な若手戦士って出なかったから」

「うん。だけどさ、故郷にいた頃には大人が相手でも負けなかったから……」

「へえ……」

 キリエは棚からワインの瓶とグラスをふたつ取り出した。

「でも、ここはローワ・ゾーラに名高い剣の都ジュデンよ。余所からやってきた戦士にすぐさま優勝をさらわれるようじゃ、誉れ高き大国ジュデンの隆盛もこれまでだわ」

「それでも!」

 チャンスはテーブルを叩いて立ち上がる。

「それでも、俺は誰にも負けたくなかったんだ……」

 チャンスはムキになって言う。

キリエは、大声で捲したてるこの少年を、この上なく可愛いと思った。大人顔負けの戦士の力量と、その子供っぽさのギャップが、なんとも可笑しい。

ああ、男の子って言うのは、なんて愛おしいんだろう。柔らかい腹をくすぐられると、すぐにムキになって怒るんだ。

ひたむきに夢を追う姿は何物にも代え難く貴重なもので……。キリエにはないモノが彼女の胸をちくりと突いた。

キリエは促してチャンスを絨毯敷きの床に座らせると、今夜は朝までチャンスと話し明かすことに決めた。

ふたりはいろんな事を話した。

両親が亡くなったこと。両親の顔を知らないこと。今働いている酒場のオーナーに拾われたこと。使命を帯びて旅をしていること。優しい酒場のみんなのこと。連れがふたりあること。歌姫と呼ばれていること。ジュデンのトーナメントで優勝を誓ったこと。

ふたりは一晩で、本当にいろんな事を話した。

日が昇る頃に、ふたりは一緒になって床の上に転がり、眠りについた。

目が覚めた頃には、太陽は真上に昇っていた。

キリエが目を覚まし、のろのろと起きあがると、程なくしてチャンスも目を覚ました。

「おはよう、チャンス」

チャンスは長い欠伸をして、キリエに挨拶を返した。

「おはようキリエ」

「チャンス、今日はどうするの?」

チャンスは少し考え、

「連れに連絡を入れてなかったからな。心配してるといけないし、顔をださなきゃな」

と言った。

「そう。お昼はどうする?準備、時間かかるけど」

「……外で食べることにするよ。世話になりっぱなしも良くないし」

そんなに遠慮しなくてもいいのに、キリエはそういったが、チャンスは首を縦に振らなかった。

チャンスはもそもそと身支度を始めた。といっても、上着を着て、魔剣を腰に差すだけだから、支度はすぐに済んだ。

支度を終えたチャンスに、キリエはパタパタと駆け寄り、チャンスに抱きつき、彼の顔を見上げて、言った。

「チャンス!チャンス!今夜も歌うから、見に来てよ」

「うん。きっと行くよ。俺も明日は試合があるから、応援してくれると嬉しい」

「もちろん、応援しに行く」

 キリエはそれだけ言うと、チャンスの頬にキスをして別れた。

 

チャンスが帰った後、滅多にないことだが、キリエは無性に人恋しくなり、アニーを誘って街に出ようと思った。

 身支度を整えて、部屋を出る。

通りの反対側に住むアニーの部屋まで誘いに行かなければいけないが、中心街はそちらの方向なので、都合は良かった。2年前までは、アニーとキリエが一緒に住んでいた部屋だ。

アニーのアパルトマンを尋ねると、どうもアニーは男を連れ込んでいるらしく、街に出ないかというキリエの提案はやんわりと断られた。

このまま部屋に戻るのも癪なので、キリエはそのまま街まで出ることにした。

ジュデン都は活気にあふれている。剣の都に住む剣聖ジュデン王に謁見を求めてくる戦士、世界に名高いジュデントーナメントに参加して名をあげんとする各地の戦士達が退去して集ってくる。2枠しかない外国人枠に食い込めず、定住して籍を取り、国民枠で参加しようという考えの者も多い。

そんなわけだから、ジュデンは1年を通して結構にぎわっている。

キリエは目的もなくふらふらと歩いていると、真っ白で大きな建物が目に入った。

2年前に完成したばかりの、ジュデン音楽堂。

ジュデンで歌う者ならば、誰もが夢見る音楽の聖堂だ。

(相変わらず、大きいなあ)

 これほど大きな音楽ホールは、余所のどの国へ行ってお目にかかれないのではないだろうか。キリエは余所の国のことなど知らないが、お城の他にこれより大きな建物が存在するなど想像も出来なかった。闘技場はもっと大きいが、屋根がないのでいまいち建物という気がしない。

 キリエは今まで、この大きな建物をまじまじと眺めたことはなかった。ここで歌うことは夢ではあったが、それはあくまで夢であり、現実には踏み込めない場所だと思っていたからだ。

 ジュデンの歌姫と呼ばれるキリエだったが、それはあの界隈での評判であって、例えば昨日誘われたような大きな酒場で認められるかどうか、キリエには自信がない。

 キリエには、チャンスが目もくらむほどに眩しかった。チャンスはキリエにトーナメント優勝を誓った。彼にはその資格がある。ジュデンでは強い者が認められる。肉体も心も、一番強い者が。

 試してみようか。自分に出来ることを。キリエはふと、そう思った。

 チャンスに並ぶにはどうすればいいか。答えは簡単であった。

彼と等しく、太陽のように輝けばよいのだ。

 

 その日初めのステージが終わると、彼女はオーナーを捜した。今日は月の決算報告のため、オーナーが来ているはずだった。

「オーナー!」

 ノックもせずにオーナーの部屋を開けると、そこに唖然とした顔でキリエを見るオーナーの顔があった。

「どうしたんだい、キリエ」

 キリエは息を整えると、

「もしかしたらもう遅いかもしれないけれど、私、移籍の件、受けようと思います!」

 そう、オーナーに告げた。

「キリエ」

「我が儘かもしれないけれど、お店のみんなに恩知らずだって言われるかもしれないけれど……私」

 堪えきれなくなった涙が、堰をきってキリエの頬を伝う。

「キリエ、大丈夫だよ。話はもう通っているから」

 オーナーはそういい、キリエの頬を撫でる。

「どういう事?」

「儂らははじめから、大通りの酒場にキリエを預けようと思っていたんだ。キリエの為にはそうした方が良いと思っていたからね。キリエの了承を得られぬまま話を進めてしまったことだけが心苦しかったが、これで問題はなくなった」

「オーナー……」

「キリエ、憶えておいで。私たちは決してお前を捨てたわけじゃあない。ここの連中はみんなお前の家族だ。淋しくなったらいつでも帰って来るんだよ」

 オーナーはキリエを抱きかかえ、高く持ち上げた。

「キリエ、残りのあいだ、店にいるあいだ、おじいちゃんと呼んでおくれ」

「ああ……おじいちゃん、おじいちゃん!」

 この後、店はキリエの送迎パーティの会場となり、キリエも別れの歌を3曲披露した。

 熱狂に包まれた店の中で、キリエの目はチャンスを探していた。ステージのあいだには居たはずだが、もう帰ったのだろうか……。

 少し外まで出てみると、グラスを手にしたチャンスが夜風に当たっていた。

「チャンス」

 呼びかけると、チャンスはそっと顔を向けてくれた。

「チャンス。私、ジュデン音楽堂で歌うわ。絶対、あの大きなホールで歌うの。私だってジュデンの女だもの。大きな夢を持ったっていいよね」

 キリエはチャンスに走り寄り、チャンスのがっしりとした体に抱きついた。

「チャンス……一番上に行くまで、見守っててよね、私のこと……」

 キリエは息がかかるくらいにまで顔を寄せる。チャンスは頭を下げ、彼女の額に己の額をくっつけた。汗の感触が、額に感じられた。

「キリエ。俺、ジュデンのトーナメントに優勝するから……」

 チャンスはキリエの頭を抱いて、そういった。

 それだけでチャンスはキリエを解放し、背中を見せた。

 彼が去るままをキリエは見守ったが、彼女は彼の背中には、まだ追いつけていないことを知った。

 トーナメントの初戦。チャンスの出だしは順調だった。先日の評判を聞きつけて、大勢の観客が彼の味方をした。当のチャンスは、ジュデンの技にもだいぶ馴れたのか、出だしに躓くことなく、彼は相手を打ち倒した。

 キリエは約束通り、彼の試合を観戦に来ていた。今や誰よりも肩入れしている少年戦士を、背中に冷や冷やするものを感じながら見つめていた。

 2試合目も容易に勝ち抜き、3試合目。奇遇なことに、対戦相手は前回チャンスを破ったアストールだった。

 しかし、彼にとって鬼門かと思われたこの試合も、危なげない試合運びでチャンスは勝ち抜いた。

 会場は興奮の坩堝と化した。かつて、15歳の若さでトーナメント決勝まで進んだ者は、最強と名高く、次代の十賢者に最も近いとされる現ジュデン国王フォルガの他にはないからである。

 大声援の中、ふたりの戦士が闘場に姿を現す。一人は登り竜がごとく頂上まで駆け上がってきた少年剣士チャンス。もう一人は過去2年で2度、年間次席に名を連ねた屈強の戦士・ステフォン。

 ふたりが剣を交える前から既に勝負は決していた、少なくともキリエには思えた。

 ステフォンは純粋な強さでは年間主席をも凌ぐと言われた剣士であったが、プレッシャーに極端に弱く、それが年間主席を逃した最大の要因とも言われる。

 ましてや、この会場内の雰囲気。会場は9割方、フォルガ王の再来と言われる少年戦士の味方であった。

 案の定、勝負は一瞬で決した。

 手を震わせ、剣を握ることもおぼつかないステフォンの剣を、チャンスの剣が一瞬にして跳ね飛ばした。

「本年度7月5日のチャンピオンは、外国人枠から勝ちあがってきた少年剣士チャンス!」

 司会の勝ち名乗りが上がると、大勢の人間が闘場になだれ込んだ。司会は真っ先に逃げていった。

 もう一生ないだろうというくらいの大勢の人にもみくちゃにされながら、キリエはチャンスのもとにたどり着いた。

「チャンス!」

 チャンスを見つけると、彼女はそのままチャンスの胸に飛びついた。

チャンスは受け止めきれず、キリエと一緒に地面に倒れた。

「キリエ!踏まれる、踏まれる!」

 やがて、誰かに引っ張られて起こされると、今度はひょいと持ち上げられ、チャンスとキリエは身の丈7尺はあろうかという巨人の肩に鎮座していた。

こんならんちき騒ぎは、空が赤くなるまで続いた。

チャンスとキリエがやっとふたりきりになった頃には、もう夕日が沈みかけていた。

「チャンス……優勝おめでとう」

「ありがとう」

それだけ言って、しばらくふたりとも黙り込む。

やがて、チャンスが沈黙を破って、話し出す。

「あのさ、ごめんキリエ、俺、もう次の国へ旅立つんだ」

「え?」

キリエは自分の耳を疑った。

そうだ。チャンスは旅の戦士で、仲間と世界中を回っているんだ。

キリエの顔は蒼白となり、このままふたりで歩んでいけると思った自分を恥じた。

チャンスは何も言わず、その場を立ち去ろうとした。

「チャンス」

 呼び止められたチャンスが振り向くと、彼の唇は瞬く間にキリエの唇に塞がれていた。

 キリエは唇を離すと両手でチャンスの胸を押しやって、チャンスに向かって喚き立てた。

「チャンスの馬鹿たれ!さっさとソナスタでもガイアスでもいっちまえ!」

 キリエはひととおり喚くと、チャンスに背を向けて走り出した。

(馬鹿は私だ……一人で浮かれて!)

気がつくとキリエは、酒場まで走ってきていた。

息を切らして店の看板を見上げていると、店の中から誰かが顔を出した。

「キリエ?キリエかい?」

 アニーだった。

 キリエはアニーを見るや抱きついて、ぼろぼろと涙を流した。

「アニー……私、この酒場に戻りたい……。もうどうでもいいんだ、ジュデン音楽堂も」

「馬鹿」

 そういうと、アニーは右の拳でキリエの頭に拳骨を落とした。

「…………!!」

 キリエがうずくまって痛みに呻いていると、アニーがキリエの背中に声をかけた。

「甘ったれるんじゃないよ、少し嫌なことがあったくらいで!キリエ、あんたはねえ、あたし達家族みんなの夢なんだよ!あんたには、あのでっかいホールで歌う資格があるんだから!」

 一息でそういうと、今度はアニーがキリエを強く抱きしめた。

「キリエ、あの黒髪の坊やかい?よしよし、今度来たらぶん殴ってやるからね」

「し、知ってたの?」

「あたりまえさね。私はあんたのお姉ちゃんなんだから。かくいう私も、昨日男に振られたばかり何だけどね」

 どかん。

「それじゃあ今日はキリエとアニーの失恋パーティーだ!」

 ドアぶち破って、料理長を筆頭とした厨房の連中がなだれ込んできた。

 キリエはしばし呆然としていたが、やがて満面の笑顔となる。

キリエは、今日ほどこの家族の一員であること嬉しいと思ったことはなかった。