書きかけで放り投げたあの物語の原稿を、僕はどうしただろうか。
彼が書いた、異能の力が支配する世界で能力者たちが活躍するはずであったあの伝奇物語は、どういう理由があってか知らないけど、続きが書かれることなく、もう何年も捨て置かれていた。
続きが読みたくって、同じ物語好きの仲間達は自分たちでその続きを書いて回し読みなんかしていたけど、結局それで、彼らにとってあの物語は単なる暇つぶしのツールにしか過ぎないと知って、彼らと僕との間には僕しか知らないちょっとした溝が出来た。そんなにあの物語が好きだったかって言われたら困るけど、「好き」とか「面白い」とかと「特別」が違うなら、うん、あの物語は僕にとって特別だった。
誰かにとって特別なものが書きたくて、ペンをとったのはそんな感情からだった。
絵を描くために使う画板に紙を載せ、それを抱えて芝生に寝転がる。彼のような書生には珍しく、彼は外で文章を書くのが好きで、天気がよい日はもっぱら外へ出て物語を書いていた。
公園で散歩をしている人たちはみちみち「?」といった顔で彼を見ていく。フィールドワークをしているようには見えない。
そうやっていると、一人の女の子が近づいてきた。
「何描いてんの?」
といって覗きこんだ。
彼が顔を上げると、そこには小柄で快活そうな少女の姿があった。
彼の手元にあるのはキャンバスではなく原稿用紙で、少女はそれに気付くと、いかにもヘンなヤツを観るような目で彼のことを見た。
「で、何書いてんの?」
「歌姫の少女と少年剣士の恋物語」
「感じ悪っ」
「あ?」
「……じゃなくって、だめ、だめ。ありがち。ベタすぎ。少年剣士と歌姫ぇ?工夫しろ工夫を!剣士と歌姫なんてオモんないっつーの」
「じゃあなにがいいのさ」
「それは自分で考えろ!つかそれ以外なら何でもいいし」
言い捨てて、少女はつかつかとこの場を立ち去った。
「何、書いてるんですか?」
先ほどの話を切り上げて、また別の物語を書いていると、先ほどと同じように話しかけられた。整った顔の、顔に笑みを湛えた青年だった。
「小説?」
「まあね」
「どんな話を書くんですか」
「これはね、邪教の村で信仰の違いから両親を殺された娘が、結局は異教徒達の中で憎しみを湛えながら生き延びて剣をとり、戦いに身を投じる物語さ」
「…………へえ」
青年の瞳が、口元に笑みを湛えたまま、にわかに細められた。
「え、何?」
「いやあ、どこかで聞いたような話だなって思いまして」
「なに、これも2番煎じか……」
「2番煎じ、というか。でも、愉快なお話になるだろうと思いますよ。きっと」
それだけ言って、青年は歩き去っていった。
自信作のつもりだったが、とはいえ、他所の誰かが書いたと聞かされては、続きを書くような気にもなれない。彼は、原稿用紙を丸めて投げ捨て、新しい紙を手に取った。
「調子はどうですか」
と、まるで釣り人に聞くような調子で聞いてくる者があった。今日はずいぶんと声を欠けられる日だなあ。
術師の服を着た、10台後半くらいの娘だった。どこか清楚な、お嬢様風の雰囲気を漂わせた女だった。
「ぼちぼちといったとこですね」
「それは良かったですね。で、どのようなお話を書かれるのですか?」
まってましたとばかりに、彼はあらすじを話す。
「とある国の王宮にもらわれてきてお姫様になった少女が、実は自分がその昔に滅んだ伝説の翼人族の姫だと知り、彼女を守る騎士たちとともに国を捨てて旅に出る話さ。どうだい?」
「…………」
「あ、あれ?」
「……あ、い、いえ。とても面白いお話だと思うのですが……、あの、どこかで似たようなことも、実際にはあったりするのではないかと……」
「いや、そんなんないでしょ。翼人の姫なんて」
「そ、そうでしょうね。私、これで失礼しますね」
術士の娘はそそくさとその場を後にした。
…………。
彼は、今書いている話をくしゃくしゃに丸めて捨てた。
「どう、調子は」
「のわっ」
ベンチの裏からひょっこりと、一番最初に彼に声を書けた少女が出てきた。
「驚きすぎ。で、今度はどんな話書いてんの?」
「ああ……なんというかね」
真っ白な原稿用紙を目の前でひらひらさせる。
「世の中には思った以上に物語があふれてるみたいなんだな。誰も読んだことの無い新しい物語なんてもう、ぼくには書けないんじゃないかって」
「ふーん、よくわかんないけどさ」
彼女はベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせながら言った。
「あたしにしてみれば、完全に新しいものなんてほとんどないんじゃないの、って思うけどなあ」
「え」
「テーマが違っても筋は同じだったり、逆に同じテーマで筋が違ったり。結局、選べることの中から選んで、積み重ねて、でしか、できないんじゃないの?」
この女の子の世界はきっと、ずいぶん広いのだろうと不意に思った。
「ま、開き直って好きなもの書いちゃうのが一番なんじゃないの?うるさいやつはいるだろーけどさ」
「うん」
ていうか、そもそも一番はじめに「ありがち」とかいちゃもんをつけたのはこの娘じゃなかったかと思ったがまあいいやと忘れることにした。
「ああ、じゃあ、公園で出会った書生と少女の話なんてどう?」
そのアイディアに彼女は、
「ありがちなので、パスの方向で」
と笑顔で答えた。