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 長く旅をしていればおかしなところにたどり着くこともあるものだ。世界の壁もそのひとつだ。

世界を取り囲む、色のない不可視の巨大な壁――20年近くも旅をしていて、これまでそれを目の当たりにしたことが無かった、というのも、おかしな話だが。おかしな、といえば、「見えない壁を目の当たりに」というのもまた、話としてはおかしい。

彼がこれまで世界の壁に訪れることが無かったのは、彼の用事がこんなところにはなかったからだ。腰に差した剣を振るう相手を、彼は探している。

そんな彼がこんなところを訪れたのは、心にほんの少しの余裕ができたからかもしれない。思えば、いつも張り詰めすぎていた。

 一面の荒野をぐいぐいと進み、そこへやって来てみたら、そこが壁だというのはすぐにわかった。不可視の壁が見えたわけではないが、測りがたい圧迫感が、というか、何かの力が通ったものがそこにあるという、その存在感が、彼に壁の存在を伝えた。

 これが世に言う世界の壁で、この世界が始まる以前から存在しているといわれるこの世界で最大の謎のひとつだ。

(世界が始まる以前から……なんて、馬鹿みたいな話だ。在る無い、なんてのは人が認識というものを始めた時が始点なんだ。それを『世界が始まる以前からある』なんてな……)

 可視で、ぼろぼろの年季が入った壁ならわかるが、見えない壁がいつから在るかなんて測りようが無い。そもそも、世界が始まった時点だって、誰も知りやしない。だいたい、世界が始まる以前の、何も無いところに、見えない壁があったってのか?全くおかしな話だ。それなら、壁が生まれた時点を「世界の始まり」と呼ぶべきなのだ。

 結局、一番おかしなのは学者連中か。彼は遙か天空まで続いているであろう壁を見上げ(といってもその遙か続く天空、しか見えないが)、そう結論付けた。

「そこのお若いの」

 彼はびくり、と体を強張らせ、声のほう、背後へ振り向いた。

そこには、粗末な服を身に着けた、人間であれば20そこそこの若い男がいた。

人間であればそれくらいなのだが、彼は耳が尖っているので、実際の年齢はわからない。エデューテかエルフかも判別しがたかったが、どちらにしろ人とは違う亜人種であるのは確かだろう。人間の血が濃く、その外見年齢も40を過ぎた彼を“若いの”と呼んだのだ。(いつの間に背後に……)

 この広く平らな(前方の半円の視界は不可視の壁であったが)無人の荒野、どこにも隠れるところは無かったはずだ。

「壁を見なすったか」

 男は壁を指差した。だが目に見えるのは、何も無い空間、荒野の広がりが見えるだけだ。

「空は高く、鳥の翼も届かぬ遥かな高み、そして地は遥かな地底、あらゆる生き物の営みの無い暗い闇の底まで伸びておる。何者も、この壁の先へ立ち入ることはできぬ」

 ひどく渋みを帯びた声をしていた。外見には全くそぐわぬ、そう――老人のような。彼思わず、素直にそれを口にした。

「ずいぶんと、古風な口の聞き方をするのですね」

 精神の熟達は、一説では肉体の老いと共に進むといわれている。100を超えたエルフが、人間の20かそれくらいの年齢の者と同じような気ままな素振りを見せるのはそのためだと言われている。50歳の人間と150歳のエルフを並べると、やはり50歳の人間のほうがずっと言葉に重みを持つ。老いた顔は、言葉に重みを持たせるのだ。

 だから、この男のような例はとても珍しかった。肉体が老いず、精神だけが老いているのだ。

 彼の問いに、男がゆっくりと口を開く。

「わしは、ここに永く、本当に永くここにいた……」

 男――老人――は見えない壁に手を突いてボソリボソリと話し始めた。

「壁の向うに何があるのか。神の居城があるのか、邪神の神殿があるのか、巨大な魔獣が巣食うのか、ここと変わらぬ双子の世界があるのか、鏡写しの別世界があるのか。いやもしかしたら山のような巨人が住む土地かも知れぬし、楽園かも知れぬ。この壁は、魔法使いたちがわしらを閉じ込め監視するための檻かも知れぬ。西の果ては東だというトンマもおる。あるいは、何もないやも知れぬ……」

 老人がまた、空を見上げる。

「わしはこの壁が不思議で不思議でたまらんかった。幼少の頃に壁の話を聞き、何の面白みもない荒野に立つ壁の話になぜか心躍らされた。15を過ぎ、森の集落を出てからは、ずっとここにおった。来る日も来る日も、壁と、壁の向うに想いを馳せた。様々なことを夢想した。ずっと壁の前におった。一日も欠かさずここにおった。退屈をしたこともない。一日たりとも壁とその向うを考えんことはなかった。そう、まるで恋でもしたようにの……」

 彼は、老人の風体をじっと見た。森の住人が、ずっとここにいたのか。

 彼らは妖精族は――エデューテにしても、エルフにしても――、森の木々を好み、森と共に生きる。それなのに、この老人はいつからこの荒野にいたのだ?彼は、世界中で語りつくされているこの見えない壁なんかよりも、この老人のほうに興味を喚起された。

「色々なことを考えた。そして毎夜、『明日になったら壁がなくなっているかも知れぬ』などと子供のようなことを考えて眠った……そして」

 彼は、老人の声に耳を傾ける。

「昨日の朝、わしはとうとう目覚めなかったようじゃ……」

「…………」

「とうとう、わしの生きている間に壁が口を開けることは無かった……しかし悔いはない。壁のことだけを考え、壁のそばで朽ちることができたのじゃ。わしは幸せじゃったかも知れぬ」

「それは、良かったかもしれませんね……」

 老人は、一拍の間を置いてまた、彼に話しかけた。

「わしは朽ちたが、そなたは、この壁の行く末に興味はないか?」

 彼はその問いに、間をおかずに答えた。

「生憎ながら、私はある男を捜す旅の途中ゆえ。それに、私はあなたほどの長寿は持ち合わせておりません。私たち短命の種は、あなた方より駆け足で生きていかねば何事も成すことができませんので。もっとも……」

 彼は、踵を返し、老人に背を向けたままで、言う。

「私は自身に与えられこの寿命、足りぬとは思ったことなどありませんが……」

「…………」

 あたりを冷たい空気が包む。その冷気は、明らかに老人が発していた。そして――

 老人はこの世のあらゆる既知の生物とはその形態を異にする紫色の異形に身を変え、彼の背中に襲いかかった。

「があああああああああ!」

 彼は、腰に刺していた無骨な剣をすばやく抜き去り、異形を縦一文字に両断した。

異形は、二つに分かれたあと、霧散して消えた。

彼は、紫の霧が消え去るのを見計らって、剣を腰の鞘に収めた。

(……その妄執が彼を『世界の壁の魔』に変質させたのか……いや、幼少の頃から、壁の魔に憑かれていたのかもしれないな……)

 そして、この地にわずかに訪れる旅人を喰らっていたのだろう……。

老人の亡骸は、このあたりには骨の欠片すら見当たらない。老人の言った昨日がいつの事であるかは、もはや知りえないだろう。

 彼が再び壁に背を向けると、意識の中に声が入ってきた。

『お若いの……』

 穏やかな、老人の声が彼の耳に入ってきた。

『ようやっと、これでとうとうわしの終わりも壁と共になった……この上ない喜びじゃ……ありがとう』

 それだけを言って、老人の声も気配も、完全に消え去った。

 彼は、壁に執着した老人の姿を心の中で『クソみたいな人生』と吐き捨ててやりたかったが、それもできなかった。

ただ、

「そこまでやりゃあ、立派だよ」

 そう呟いて、世界の壁を後にした。