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 森の奥に住む秘部族とて立ち入らぬあろう禍々しい洞窟。悪竜が口を開いたかのようなその入り口は、たまたま訪れた冒険者の好奇心を誘い、竜の腹へと導く。

 竜穴の中に住まうのは、洞穴の入り口を模したかのような凶相の竜。2階建ての家くらいならすっぽりと収まりそうな洞穴の中で、頭が天井につかえるか位の大きさの竜。

その竜に、長剣一本で対峙する女が一人――

竜は鼻から火炎を噴出し、女を焼こうとする。灼熱は両者の間をちょろちょろと飛び回る小さな虫を焼いた。しかし女は前進することでそれをやり過ごし、気合のままに竜に斬りかかった。

女の剣が鉄の硬さを持つといわれる竜の鱗に突き立つ。驚くべき力であった。

竜が小さく呻く。

竜は尾で女を払いのけようとしたが、竜の脚の間を潜ってかわす。狭い洞窟では、竜はすばやく動くことができない。女は尾の付け根から竜の背中に渡り、鱗に覆われた背中をずたずたに斬り裂く。

その背中に、竜の尾が鞭のように撓ってとんでくる。それより先に女は人並み外れた、軽業師も真っ青な身軽さで竜の尾が届かない首の位置まで移動していた。その動きたるや、人間の身体能力を凌駕していた。

竜は首に異物がいるのを認識していないようだった。女はそのまま竜頭まで到達し、後ろ手に持った剣の柄尻を左手で支え、脇に抱えるようにする。刃を竜の後頭部に向け、そのまま全体重をかける。刃が竜の頭蓋を貫き、脳に到達する。それを合図に、竜が暴れだした。

女は背を伝い尾の方向へ走る。竜は暴れるだけで、人間の行方を追おうとしない。そうやってひとしきり暴れた後、糸を切られたマリオネットのように崩れ落ちた。

女が竜の血で真っ赤に染まった剣をだらりと下げる。竜の鱗すら易々と切り裂いたその鋭さは、彼女の持つ剣が特別な剣、魔剣であったことがわかる。

魔剣の使い手は、並の男より一回り小柄な人間の女性。まだ少女と言っても差し支えない、その彼女が、豪腕振るい竜屠った。

体から湯気が立っている。暖かい竜の血と、火照った彼女の体。彼女は、深い呼吸で気を落ち着かせようとしていた。その彼女の背後から、何者かの気配が感じられた。

背後から現れたのは、犬を少し大きくしたくらいの3匹の幼竜。竜は人間と親竜の姿を黒い目でまじまじと見たが、親の死も、目の前の人間が自分たちの親を殺したことも認識できないようだった。

そして彼女は――

「ご苦労様」

 洞穴の入り口に立っていたのは一人の、少年と言ってもいいくらいの外見の男。イリーナより一つか二つ下くらいに見える。もっとも、イリーナの年齢もまだ十代の半ばを迎えたくらいなのだが。

その男に、女は鞘収めた長剣を放ってやった。彼女はそのまま洞穴を離れる。

「おっと」

 男はそれを右手で受け取る。

「持っていってよかったでしょ?」

 彼女の背中について歩きながら、その背中に話しかける。 

「自分の剣でも刃は通ったわ」

「普通の剣じゃ無理さ。この剣は特別。神殺しの魔剣のレプリカ――使い手の魔力や身体能力を引き上げる……そういうものだってルー先生が」

「あんた、いつもルー先生ルー先生って、うるさいのよ」

 女は少年の言葉を不機嫌そうに遮った。

「まあいいさ。これで君の卒業試験も終わり。さあ、帰ろう」

 

 ジュダの街にある新生カデス復活派の隠れ家のひとつ。この街にあるカデス教会の地下に、彼等は潜伏していた。この街の人間はカデス教会の地下に怪しげな破壊神の巨像くらいはあるのではと思っていたが、さすがに破壊神復活のために暗躍する組織が潜伏しているとは想像もしていない。

 少年は黒い装束の邪神官に挨拶をすると、女と共に地下への階段を下りていった。ひんやりとした、長い下り階段には蝋燭の火ひとつ無い。階段を下りきると、目の前には石の壁。しかし、取手も何も無いがこれは地下の扉で、特別な呪文をもって開く魔法の扉だ。 男がなにやらぼそぼそと呟くと、扉は轟という音をたてて横にスライドして開いた。

 中は魔法の光が灯る明るい空間で、広さは地上に立つカデス教会よりは少し狭いくらいだ。しかしこの場所はホールみたいなもので、部屋は他にいくつかある。

「若葉くんにイリーナ。ご苦労様でした。イリーナ、その様子では無事に試練を超えたようですね。怪我もしなかったようで何よりです」

 椅子に腰掛けていた巨漢の男が二人に近寄り、べらべらと喋り始める。間断なく話すので相槌を打つ暇も無い。

女――イリーナ――はこのおしゃべりな男を常々鬱陶しいと思っていた。もうひとりの少年のほう――若葉――は愛想笑いと苦笑いの中間のような顔でその話を聞いていた。どういう経緯か、巨漢の話はいつの間にか今日の夕食についての話題に移っていた。

 その様子を後ろで眺めていた、フード付きの黒いローブをすっぽり被ったダークエルフが、おしゃべりな巨漢に絡まれている二人を見かねて間に入ってきた。

「ふたりとも、まずルー先生のもと報告行かなければならないのでは?グレン、おしゃべりが過ぎる」

「ああ、ヴェイ・サー。これは失礼でしたね。と言うわけでふたりとも、奥でルー先生がお待ちです。別の用件もあるみたいでしてね。さあさ、急いで」

 引き止めたのは誰だというのか。イリーナは口に出さず、半眼でグレンというおしゃべり男を一瞥してその場を後にした。

 地下アジトの最奥にある一室(最奥といっても先ほどのホールから扉ふたつ分を隔てるだけなのだが)、そこが彼等の直属の上官であるルーが私室として使用している部屋だ。若葉はドアをノックして「失礼します」と断った後で入室する。

 中には、洗い立てのような真っ白い衣を纏った男の姿があった。頭髪も同じく白で、肌の色素も薄い。丸いメガネをかけていて、それが見るものに知的な印象を与える。耳が尖っているが、エルフではない。4度のミレニアムを超える者、千年種といわれるエデューテというその存在自体が稀な種族。

 イリーナはこの男が、というか、この部隊に属する連中のほとんどが好きになれなかった。一人一人が主張の強い食材のようなもので、それらを全て同じ鍋に入れて煮込んだようなものが、この部隊だった。彼女自身はその食材のひとつであることを、未だ良しとしていない。

 若葉が左の肘で、彼女の腕をつつく。はっと思い立ち、イリーナは口を開く。

「……竜殺しの儀を終えてまいりました」

 イリーナが無表情でルーという男に報告する。

 竜殺しの儀――破壊と殺戮を教義とするカデス神の信徒が行っていた古風な儀式である。洞窟の奥に潜むカデス派の象徴獣、闇の同胞(はらから)たる暗竜を殺すことで、彼らカデス信徒は真の強さを得ることが出来るといわれている。しかし、この儀式は現在いくつかに分かれているカデス教の中でもカデス原理主義の伝える原典にしか伝わっていない太古の儀式で、現在この儀式を実践している者は他にいないだろう。いや、イリーナたちが属する新生カデス復活派の中でも、ルー配下の“キマイラ”と呼ばれる特務部隊以外には竜殺しの儀をを行っていない。

つまり、竜殺しの儀はイリーナたちにとって特務部隊の一員として認められるための儀式なのだ。

「ご苦労様でした。これであなたも正式に我が“キマイラ”の一員です」

 ルーの言葉に、イリーナは小さく頭を垂れる。横では、相変わらず若葉が緊張感の無い顔で微笑している。

(こいつ……こんな顔していたかしら)

 イリーナは横目で若葉の顔を盗み見て、そんな感想を持った。自分がここに来たときは、もっとこう、氷みたいというか、そんな表情をしていたような気がする。彼女は頭を上げ、報告を終えた旨をルーに伝えて退室しようとした。

しかし、彼女たちはルーに背中を向ける前にルーに呼び止められた。

待ちなさいイリーナ。これからあなたに初の任務を伝えます」

 それを聞いてイリーナたちはまた居住まいを正す。

 ルーが続ける。

「1年ほど前に滅ぼした村……」

 イリーナはその話を聞いて、心臓がドクンと大きく跳ねた。口元が、薄く開く。髪の中に、汗で湿った感覚を覚える。

「何といいましたっけね。あの村の名前は」

「……イルヤの村です」

 イリーナは苦々しく、その村の名前をルーに告げる。

「ああそれそれ、それです。それでですね。その村に封印されていた神代の宝物、その封印の4つ目を解呪することに成功したようでしてね。しかし、残りのひとつが派遣した魔術師たちにはどうにも荷が勝ちすぎているようでして」

 くい、ルーは右手の中指でメガネを押し上げる。これは彼の癖のようなものだ。

「ですから、こちらから魔術師ヴェイ・サーを派遣して封印を解かせます。君たちは彼の道中の無事を確保するため護衛にあたってください。詳細はヴェイ・サーに伝えてありますので聞いておくように」

「……了解しました」

 イリーナはそれだけをやっと喉から搾り出し、若葉と共に部屋を後にした。

部屋から出たところで、若葉がイリーナに声をかけた。

「どうするのイリーナ。今回はお休み?」

「――そういう気遣いは、要らない」

「そう……」

 若葉の表情が、少しだけ影を帯びた。

扉をふたつ抜け、魔法の光差すホールへ。

さきほどと同じように、巨漢の男グレイと、ダークエルフのヴェイ・サーの二人がいた。

「お帰りなさい。ふたりとも、ルー先生に失礼はありませんでしたか?」

 グレイが長椅子に腰掛けながらイリーナたちに話しかける。若葉は「まさか」といった顔で微笑み、グレイへの返答とかえる。そして、壁に腰掛けているダークエルフのヴェイ・サーに話しかけた。

「で、出発はいつになるのかな?」

「面倒はさっさと済ませたいからね。明日の朝には発ちたいと思っている。君たちには竜殺しの儀から帰ってきたばかりで申し訳ないが……」

「構いません」

 イリーナが返答する。

「頼もしい限りだね」

 ヴェイ・サーは深く被っているフードからこぼれた長い銀髪をこれもまた細く長い綺麗な指で弄ぶ。

 ヴェイ・サーは素性の知れない者たちが多いこの部隊の中でも、最も謎の多い人物だ。

まず、彼なのか彼女なのかがわからない。ダークエルフの例に漏れず整った容姿をしているが、顔は男性とも女性ともどちらでも言えるような造型であった。声も男性にしては高いし、女性にしては低いような感じだ。常に真っ黒なフード付きのローブをすっぽり被っているため体の線はわからないし、歩き方からも判別し難い。身長は人間の男性くらいに高いが、仕草はときおり女性のようでもある。女性と男性の間の存在があるとすれば、きっとヴェイ・サーの様であろう。

どうやら高位の魔術師らしいが、変わり者が多い魔術師の中でもさらに異彩を放っている。

「明日は早い。今日は早めに休みなさい」

 そういわれたところでまだ太陽が頂点から西へ傾きはじめたばかり。

しかしイリーナは少しでも体を休めようと思い、さっさとあてがわれた部屋へ戻って横になった。旅の疲れなどたいしたものではなかったものの、このアジトへ戻ってからのほんの僅かの時間が彼女を疲弊させた。1年の時を経た今でも、まだこの空間は彼女にとって異質の空間だった。

 イリーナが育ったイルヤの村はカデス信徒の集う集落であった。村には800人ほどのカデス信徒が暮らしていた。

この村にはあるならわしがあった。カデス神の御許へ遣わす神官の選別。神託を授かり、選ばれた人間を神の御許へ捧げる。カデス神を信仰していない者から見れば、それはカデス神への贄とみるだろう。しかし、カデスによって与えられる不条理な選択と死は、カデス神を信仰する村の人間にとってはこの上の無い栄誉であった。

 しかし、イリーナは幼少の頃からその風習を忌み嫌っていた。彼女はカデス教の教えに染まっていなかったからだ。

 イリーナの両親はカデス神を信仰していなかった。表面ではカデス信仰を装っていたが、それはこの村に留まるための偽りの姿でしかなかった。彼女の両親は何らかの事情があって、このイルヤの村に留まらざるを得ず、そこでイリーナに水の女神の教えを説いて暮らしていた。いかなる理由があって異教徒の村に居を構えていたのかは、イリーナにはもう知り得ない。

両親と同様にイリーナもまた、幼少の頃から水の信徒であることを隠して生きてきたのだ。

しかし、ある日の出来事をきっかけに彼女の運命は針路を変える。

「イリーナ?」

 親友の呼ぶ声にはっとして、イリーナは自分が夢の中に落ちかけていたことを察した。

「どうしたの?ぼんやりして。寝不足?」

「あ、うん。昨日ずっと本を読んでたから

 イリーナは話しながら手元の覗くと、針が彼女のスカートに半ば進入しているのを見て冷やりとした。

「ふうん。あたしだめ。本なんか読んでたら2ページで落ちる自信があるわ」

「あはは」

 イリーナは粗野な小屋の一室で針仕事をしていた。針などを使っていれば自然、神経が張り詰められるものだが、イリーナの緊張感の無さときたら。彼女の向かいに座っている少女は呆れて苦笑いをする。

イリーナと一緒にいる少女はメルキュール。イリーナのただ一人の友人にして親友であった。

カデス信徒を装ってイルナの村に生きるイリーナは、全面的にカデスの教義を受け入れることが出来ないため、同世代の少女たちの中にいてもどこか浮きがちで、幼少の頃からいつも一人だった。

 メルキュールは自身も少女たちの輪から離れがちで、イリーナと似た存在であった。イリーナに他のカデス信徒とは違う空気を感じていたメルキュールは、機会をみて彼女と話をしてみたいと思っていたのだそうだ。それがきっかけで彼女たちの交流は始まり、イリーナとメルキュールの付き合いはもうずいぶん長くなる。

 だけど、彼女の心はカデスのものだった。

「イリーナ、また別の神様のおかしな教義を書いた本とか読んでたんでしょ。だいたい、別の信仰の本が家にあるなんて危ないわよ?ただでさえあんた、カデス教会の教主たちに睨まれてるんだからね

わかってるわよ、メル。ただ、他の神教について勉強しておくのだって必要だと思うの。他ならぬ、す……――」

イリーナは己の本意ではない言葉を己の口から発するのを、頭の中で躊躇した。

「――崇高なる、我等がカデス神……の、ために」 

 メルキュールはにっこりと笑う。そしてイリーナの言葉を復唱する。

「崇高なる我等がカデス神のために」

 メルキュールは美しい。眉の力が強く、目じりの少し上がった気丈な顔は、彼女に特別な存在感を与えていた。それこそが、彼女が少女たちの環から浮きあがった理由でもあった。

 イリーナは思った。こんなに美しい女も、破壊の神カデスに忠実なのだ、と。

「ただいま」

 夜遅くなって家に戻ると、どうやらイリーナに入れ替わりに母が出かける支度をしていた。

「ああ、イリーナ。夕飯、あとはあなただけだから、食べたら片付けておいて」

 母親がイリーナに声をかける。

「あ、うん。今日も?」

「ええ。そんなに遅くならないと思うから」

 母は書物の入った鞄を肩にかけると、「じゃあ」とイリーナに一声かけて家を出た。

 イリーナため息ひとつ付いてテーブルに着く。

 彼女の両親は夜毎、重い書物を持って村のある場所へ足を運ぶ。その場所は多くの村の者にも知られずひっそりとたたずむ洞穴で、たとえその存在を知られようと、両親のほかに誰にも解呪出来ない魔法の結界が侵入を阻む。イリーナも一度だけその場所に足を運んだことがあるが、中に入ったことは無かった。

 両親がその場所で何をしているのかはイリーナには知り得なかった。

そして、とうとう教わることは無かった。

イリーナは小さいランプに火を灯し、それを机の、今読んでいる本の脇に置いた。目の前の分厚い本は、世界の神話物語。

この神話というのが、つい最近書かれた娯楽書のようなもので、子供向けの脚色が多数見える。中には生命の女神と闇の神、破壊の神、そして水の女神までもが祖を同じくする神、もしくは同一の存在なのではというおかしな学説まがいの逸話も載っていたが、水の神の信徒であるイリーナにはその記述が不快でたまらなかった。

 本を閉じ、机の上に放り出したままベッドに入る。目を瞑ると、あっさり眠りに落ちそうだった。

 イリーナがそうやってまどろんでいると、急に闇が濃くなった感じがした。灯したままだったランプが消えたのだろうか。イリーナはそう思ったが確認することはせず、そのままベッドにもたれていた。

その数瞬のち――

 カッ!

 まばゆい光が窓から射し込んだのが、閉じたまぶたの下にも感じられた。光はすぐに収束したが、その強烈な光はイリーナの目を醒ますのに十分だった。

「この光――」

 イルヤの村の者であれば、この光の誰でも知っていた。

カデス神による贄の選別――カデス神は一年に一度、イルヤのカデス信徒の中から贄を選び、己の許で仕える神官とする。そのために、選ばれた信徒は毒酒を飲み、現世の肉体を捨てる。

イリーナはベッドから跳ね起き、上着を羽織って外へ駆け出る。いつもであれば、カデスの奇跡に興味を示すことは無いイリーナだったが、今回は気がかりがあった。

(東の窓から差した光……)

 その方向は、彼女の親友が一人で住む――

メルッ!」

 その家には、メルキュールが一人で住んでいた。そしてその家の主は、家の入り口の前にはだしで立っていた。あたりはすでに闇の帳が降りているのに、彼女の周囲だけぼんやりと明るい。それは彼女の足元に刻まれている刻印が発する光のためだった。

 その刻印には、“メルキュール”と彼女の名前が刻まれていた。

「メル……」

 イリーナはメルキュールに駆け寄ろうとしたが、大分手前で足を止めた。刻印に照らされる彼女の妖しさを備えた神々しさに、一瞬躊躇したのだ。

 そんなイリーナに、メルキュールの方から歩み寄った。

「イリーナ、あたし――」

 メルキュールは顔に歓喜を湛えながらイリーナの手を握った。

「――あたし、カデス神に仕える神官に選ばれたの……あたし」

 喜びに咽、彼女は涙をぽろぽろと零した。

「メルキュール……!」

 イリーナが悲痛な顔でメルキュールを抱きしめる。メルキュールはおそらくイリーナの意思を受け取っていないだろう。

 だんだんと、人が集ってきた。カデス神の託宣を受けた人間の姿を確かめようと集った村人たちが、やがてメルキュールの家の周りを取り囲むように集った。

 だから、イリーナは彼女に言うことなどとても出来なかった。

(メル、そんなの単なる死刑宣告だよ……)

神託を受けたものが毒酒を飲むのは3日後。その間、彼女はこれまでの生活を反芻するように、変わらぬ生活を送った。違うことといえば、周囲の視線くらいのものだ。だから彼女は、今日もイリーナと一緒に繕い物などをしている。

明日にはもう、メルキュールは現世にはいない。

「イリーナ……」

 メルキュールがイリーナに声をかける。イリーナの顔色は目に見えて悪く、真っ青な顔をしている。

「イリーナ……あたし、カデス神に仕えるのよ。幸福だわ。心配しないで」

「メル。だって、もう逢えないだよ」

「そんなこと無いわ」

「生きていればどこか出会えるかもしれない。だけど、死んだら……」

「違うよ、イリーナ」

 メルキュールは立ち上がって、縫っていた白いシートを纏い、踊るように話す。

「あたしは、カデス神の許に旅立つだけ。イリーナだって、この村でずっと待っていればいつか神託を受けるかもしれない。いえ、たとえ何十年たって神託を受けることがなくても、いつかはカデス様の許で会えるわ。あたしたち」

「メル……あたし」

 カデスの許で会えるわけが無い。イリーナは水の神の信徒で、そして水の神は、人が死ぬと魂は暗くほの暗い深遠の水の底で一人ぼっちで眠ると教えているのだ。カデスの許に囚われるなどとは教えてくれない。

「イリーナ、あんたがカデス神を心から信じていないのは、なんとなくわかってたわ

「…………」

 メルキュールは誰よりも、両親よりもイリーナに近いところにいた。彼女は自信があった。イリーナのことをわかっている自信が。

「あなたが別の神様を信じていたって、別にいい。――ぞれでも、ずっと親友でいてくれたら、あたしはそれでいい。だけどあたしは、やっぱり破壊の神の信者なんだ……せめて、明日受け入れる死があたしにとって幸福だと信じなければ、あたしはやりきれないだ……」

 そのとき、イリーナは始めて彼女に死への躊躇をみた。そして、イリーナは自分の罪を自覚した。自分が彼女の傍にいなければ、彼女はカデスの教えを、死は惑うことなき幸福であるという教えを信じたままでよかったのではないか。カデスを信じていれば、死さえも幸福だったのではないか。

 自分は、彼女を惑わしただけではないか。そう思い始めると、イリーナは彼女の顔を見ることも出来なかった。

 惜別の日。夕焼け射す午後。村のはずれの祭祀場

メルキュールは祭壇へ登る。祭壇の周りを、イルヤの村人が取り囲む。恐らく、村の人間の半数以上がこの広場にいただろう。誰もが沈黙し、彼女の動向を見守った。彼女は実に堂々と石段を一歩一歩踏みしめ、祭司の横に立つと村人たちに向かって微笑んで見せた。

「メル……」

 イリーナも、村人たちの輪の、一番後ろにいた。毎年、メルキュールに誘われない限り関心をよせない儀式だが、今回イリーナは自分の意思でここへ足を運んだ。彼女の最期の姿を目に焼き付けるためであった。彼女との個人的な別れは、すでに済ませた。

 祭壇の上の祭司は、テーブルの上のグラスに、闇色の、ラベルの無いボトルから赤黒い液体を注ぐ。カデスの血と呼ばれる、毒酒。

メルキュールは優雅な動作でテーブルの上からグラスを取る。そしてゆっくりと――

メルーッ!」

 イリーナはあらんばかりの精一杯の声で、彼女に呼びかけた。静寂に包まれたその場所に、イリーナの声は良く通った。

「メル!メルキュール!そんなものを飲んだって、カデスの許になんていけっこないだよ!こんな儀式なんて、馬鹿みたい……」

 場が、騒然とする。

 メルキュールは、イリーナの顔を見てにこりと笑い、

 カデスの血を、喉の奥に流し込んだ。

「メルキュールッ!」

 祭壇の上の彼女は手に持ったグラスを祭司に渡す。そして、目の光が失われたかと思うと、ゆっくりくずおれた。彼女の口元からは、毒酒ではない赤い筋がつと零れた。

「…………!」

 イリーナは動かないメルキュールの姿を見ながら、呆然とその場に立ち尽くした。

 そして最初に誰が言ったのか、「異教徒だ」という言葉が何処からか聞こえた。

「異教徒だ」

「カデスにあらがう者……」

「処刑だ!」

 それらの声はあっという間に広場を包んだ。

 誰かが、イリーナの腕を後ろ手に押さえつける。人垣が自然に割れ、祭壇への道が開く。

 イリーナが叫ぶ。

「破壊の神の許へなんて、行けるわけないじゃない!カデス信徒なんて、頭おかしいよ……」

 彼女の発した言葉に逆上した何人かの村人が、彼女に石を投げつける。それを、彼女を捕らえた男が腕を掴んで制する。

「おとなしくして」

「放して!」

 激しく抗う彼女の耳元にそりと、男が呟く。

「……どうせ、みんな死ぬ」

 男の目が怜悧に光った気がした。その途端イリーナをつかむ腕に、強く力が込められた。彼女は抗うことが出来ず、祭壇の上まで押し上げられていった。

 イリーナは祭壇の上に乱暴に投げ出される。そして、彼女の目の前にはメルキュールの亡骸……。

「メル!」

 イリーナが伸ばした手は、祭司の槍によって阻まれた。槍が、イリーナの手の甲に小さく傷をつける。

「痛っ!」

 伸ばした手を引っ込める。

 村人たちからは、絶え間ない怒声が上がっている。

 祭司が、今度はイリーナの胸に槍の穂先を向ける。

 イリーナは水の神に祈った。

(女神セレナよ……!)

 槍は、いつまでたっても彼女を貫かなかった。

 イリーナが顔を上げると、司祭の肘から先は無くなっていて、綺麗な切断面が覗いていた。

「あ……」

 司祭の腕は彼の足元に、槍と共に転がっていた。

 その横には、さきほどイリーナを祭壇に上げた男が、血の付いた剣を握って立っていた。

 沈黙が村人を支配し、やがて、誰かの小さな悲鳴が呼び水となり、騒乱へと変わる。村人はすぐにその場から逃げようと、祭壇に背を向けて走り出した。

 逃げ惑う人の波の先に、一人の大柄な男が立っていた。手には、巨大なバトルアックス。

「お帰りは、カデス神のお膝の許へ、ですか?お送りしましょう」

 その男が巨大なバトルアックスを振り上げ、そして振り回した。

男がバトルアックスを一振りするたびに、3人死んだ。二振り、三振り。ひとりも生かしておくつもりは無いようだ。

 村人たちの流れの中からも殺戮が興った。土くれがむくむくと起き上がり、人の形を成した。そのゴーレムは人よりもはるかに大きく、それが3体具現化した。一体のゴーレムは踏み潰し、別のものは蹴上げて殺し、もう一体はごつごつした手で村人を捕まえて一人一人握りつぶした。

 ゴーレムの一体の肩の上に、闇色のローブを纏ったダークエルフが座っていた。

「欺瞞に満ちたイルヤの民。本物の不条理な死すら知らず、原典に記されている絶望の教えから目を叛ける背徳者たち。罰に値する。せめて死後は安らかであるよう……」

 

 イリーナはその殺戮の様子をずっと見ていた。村のほうからも、黒い煙が上がっていた。イリーナの心は急速に冷めていき、事の次第を客観的に見ることが出来た。

(ああ、みんな死ぬ。誰も助からない。だれも……きっと、父さんも、母さんも)

 男は物言わず、剣を振り上げる。そして、身動きしないイリーナの首に狙いを定め振り下ろそうとした、が――

「!?」

 イリーナが突然弾けるように動き、槍を拾ってすかさず男を狙って突いた。

男は間髪で槍をかわし、槍の腹を寸断する。イリーナは斬られた柄の突端でさらに突きを繰り出す。尖った切り口は男のわき腹をかすめたが、ほんのかすり傷に過ぎなかった。

深く踏み込んだイリーナの背を、男が剣の柄で痛烈に打つ。イリーナの呼吸が止まり、床に転がって激しく咽ぶ。男は間合いを取り、今度こそ彼女の首に狙いをつけた。しかし、彼の剣が振り下ろされることはなかった。

イリーナが、男を睨みつけていた。そして、彼に向かって悪態とも付かない言葉を吐いた。

「手を止めないで……ここ」イリーナは人差し指で、自分のうなじをなぞった。「ここに、間違いなく振り下ろして。殺しそこなったら、死ぬまで抵抗するから……」

 男は彼女の目を見た。己に無い強い光を見た。

 男にはもう、イリーナは殺せなかった。それは、屈服だったかもしれない。

「死にたがりは殺さない」

 このセリフは強がりだったかもしれない。男は剣を降ろす。この広場での殺戮も全て収拾がついた。イリーナに背を向け、男は歩き出した。

「待って」

 男が足を止め、振り返る。

「私を生かすなら、ちゃんと生かして。あんたのトコに、連れてって……」

 男は、彼女の目に何か特別なものを見ていた。そして、彼女に手を差し伸べて、言った。

「……いいよ」

 祭壇の上で行われたその一連のやり取りは、まるで演劇のようだった。観客はバトルアックスの男とダークエルフ、あとはゴーレムと、無数に散らばる死体だけだったが。

 

 あれから1年を経て、彼女は故郷であった村を訪れることになる。

 ジュダの街を発って3日。何事も無く村に着いた。朽ちた村には死体の影も無く、無数の墓と思しきオブジェクトが並ぶだけだった。

「重労働でしたねえ」

 グレンが感慨深げ、といった顔で一年前を思い出す。それをイリーナに睨まれると、グレンはあわてて弁解する。

「違いますよ。墓作りです」

「一番働いたのは私のゴーレムだが」

 グレンより少し大きいくらいのゴーレムの肩に腰掛けているヴェイ・サーが我が創造物の働き振りを強調する。なんの嫌がらせか、ヴェイ・サーの腰掛けるゴーレムの顔にはグレンのものと思しき面が彫ってある。

「どっちでもいいわ。そんなの」

 イリーナはそう言うと、彼等を置き去りにして先へすたすたと歩いていった。若葉だけが彼女についていく。

「どっちでもって、どっちのことでしょうね」

「どっちも、じゃないのか?」

 グレンとヴェイ・サーも彼女についていく。

 行き先は、イリーナには案の定、といった場所だった。

村のはずれにある、小さな洞穴。子供の頃に行ったきりだったが、その景観は彼女の記憶の中となんら変わっていなかった。ただひとつ、魔法の結界が解呪されていることを覗けば。

 ここからはヴェイ・サーが先頭に立ち、奥へ進んでいく。洞穴の中はなかなかに広く、パーティが横に広がって進むことが出来た。天井の高さもグレンの身長くらいなら許容した。しかし、ヴェイ・サーのゴーレムは入り口で留守番となった。

 中は、言質に駐屯する魔術師たちが灯したらしい魔法の光で奥まで照らされていた。

4人が最奥まで進むと、そこには4人の魔術師がいた。そして魔術師たちの中央には、おそらく水の女神セレナであろう石像が鎮座していた。魔術師たちは、女神像の周りを取り囲み、なにやら呪文を唱えている。

「ごくろうさま」

 ヴェイ・サーが4人のうち、一番年かさの老魔術師の男に声をかける。

「ヴェイ・サー様。お早いお着きですな」

 どうやらその老魔術師が魔術師たちのリーダー格のようだ。

「早くに出たからね。そうそう、入り口に誰か置いておかないと、知らない間にうめられちゃうよ」

「……そちらの方にまで人手をまわす余裕がありませんで」

 ヴェイ・サーの軽口にまじめに返答する老魔術師。その間も、他の魔術師たちは呪文を唱え続けている。

「それでは報告を聞こう。簡潔に、明朗快活に。解呪はそれから」

 はい、と返事をして、老魔術師が話し始めた。

「先にご報告した通り、この遺跡は神代の水の女神の遺跡です。遺跡のあちらこちらに封印やら結界やら原始的な物理的トラップやらが張り巡らされておりまして大変苦労いたしました。この遺跡の傍にカデスの集落が興った因縁についてはのちほど考察が必要ですが……」

 イリーナは、十年以上前に読んだ神話の、生命の女神と闇の神、破壊の神、そして水の女神が祖を同じくする、という記述を思い出していた。

「もしもし?私は簡潔にといったのだが」

「……もうこの上なく簡潔ですが?」

 ヴェイ・サーの異論に反論する老魔術師。

「私は普段からやかましくてしょうがない男と部隊を組んでいるのだから、無駄に長い話には心底嫌気が差しているだ」

 ヴェイ・サーは本当に嫌そうな顔をする。ここに至ってやっと、おしゃべり男が口を開いた。

「ヴェイ・サー?今回、極力口を開くまいと努力をしている私に向かってその言い草はいささか礼を欠いているといわざるを得ないのではないのですか?全く失礼しちゃいますね。だいたい、おしゃべり男などといわずはっきり名前をおっしゃったらどうですか?そういうものの言い方は他人に悪印象を与えると思いますが?」

「ほら見ろ。私の気持ちがわかっただろう」

「なるほど」

 と老魔術師。

「それでは改めて。……水が属の宝物に施された多層封印の最後の一層がこの女神像です。残りの封印は何とか解除しましたが、あとはヴェイ・サー様のお力無しではとてもとても」

「よろしい」

 ヴェイ・サーはやっと満足したようだ。

まったく、この連中ときたら万事が万事この調子だ。イリーナはそばにあった石に腰掛け、その様子を退屈そうに眺めていた。若葉はその傍に立っている。

魔術師たちの呪文に別の呪文で割って入る。ヴェイ・サーの呪文が聞こえた魔術師たちは、謹んで自分たちの職場を空け渡した。

「さて」

 ヴェイ・サーは真っ黒のローブの中から黒表紙の本を取り出すと適当な(と、イリーナには見えた)ページを開き、そこに書いてあるらしい呪文を読み上げた。その発音は、イリーナの属する世界には無いものだった。

 呪文が詠みあげられると、何かの気配が遺跡の中に充満した。そして遺跡内に展開していた魔法の灯火が立ち消え、真っ暗になる。

「……来るぞ。若葉、イリーナ、グレン」

 暗闇の中のヴェイ・サーの声に、緊張感が伝わる。魔術師たちはヴェイ・サーの指示で洞穴の外へ避難した。

 そして、女神像がまばゆい光に包まれると、そこからふたつの発光体が飛び出した。

「ゴースト!」

 それは、ものすごい速さでイリーナたちの間を飛び交い、やがて女神像の周囲に浮遊した。青白い光が人の顔を構成し、同じ色の光の尾が引いている。男と女の、まるでつがいのようなゴースト――

「……!?」

 イリーナはゴーストの顔を見て驚愕し、その場に立ち竦んだ。

 ゴーストが光の尾を引いてイリーナたちに襲い掛かる。イリーナは、一歩も動けない。

「イリーナ!?」

 若葉はゴーストの攻撃に全く反応しないイリーナの腕を引っ張る。男のゴーストは一瞬前までイリーナの頭があった場所を通り過ぎる。

 グレンがゴーストの軌道を捉え、バトルアックスで打つ、が、全く効果をもたらさない。

「グレン、普通の武器では無理だ。エンチャントを……」

 そのヴェイ・サーに、今度は女のゴーストが突進し、黒いローブの右肩を裂く。

「イリーナ?どうした」

 見ると、イリーナの唇は真っ白で、顔に血の気も無い。

「イリーナ!」

「……父さん」

「え?」

 イリーナがやっと呟いた言葉は、若葉にはよく聞き取れなかった。

「父さん、母さん……あんな姿になってまで、この遺跡を……」

「あのゴーストは、君の両親……?」

 思いもかけないことに、若葉も動揺した。

「若葉、そっちだ!」

 ヴェイ・サーの声に若葉は反応し、イリーナを突き飛ばして、自分もその反動で反対に飛んだ。着地すると同時に自分の目の前を横切った男のゴーストの尾を魔剣で捉える。魔剣は功を奏し、金切り声の様な叫び声を上げる。ダメージを与えたが、そこまでだった。

 それが通り過ぎると同時に、ヴェイ・サーはイリーナの元に走りより、彼女の剣に闇のエンチャントを付加してすかさず離脱する。そのイリーナに、男のゴーストが襲い掛かる。

 イリーナの頭を飲み込もうとした、イリーナの父の顔を持つゴーストは、若葉の剣に貫かれて壁に打ち付けられた。

 そのゴーストは霧散し、そしてゴーストを屠った若葉の魔剣も、刀身に無数の亀裂が走り、床に叩きつけたガラスのように砕け散った。

「イリーナ」

 イリーナは、自分の父の顔をしたゴーストが消えていくのを呆然と見ていた。若葉の声は、聞こえていないように見えた。

だから若葉は、砕けた魔剣の柄を放り捨て、イリーナの頬を拳で、張った。

イリーナの右の頬が、痛みと共に赤く染まる。

「残念だよ、イリーナ……。君が生きたいと言ったから、僕はキマイラに連れてきたのに」

 むこうでは、女のゴーストがグレンの周りを高速で飛び回り翻弄する。ヴェイ・サーは呪文を唱えるも、すばやい動きのゴーストを捉えきれずにいる。

「ここで母の手にかかり、親子で逝くのもいいかもしれないね」

 若葉の顔が、彼が彼女をキマイラに連れてきた頃の、何もかもに無関心な表情に変わっていた。

若葉が彼女に背を向けた、その直後。

「……冗談」

 イリーナが立ち上がり、右手で剣を構えて精一杯の気勢を見せる。

 立ち上がるイリーナを見て、若葉の目に光が戻る。

「1年前にあんたたちに殺されたと思ってた。それでもう区切りをつけてた。そのはずだっただけど、未練だったね」

 女のゴーストがグレンのバトルアックスを跳ね飛ばし、イリーナのほうへ向かってくる。

「もう一度逢えて、嬉しかったわ。母さん」

 イリーナは女の、母のゴーストを縦一文字に――

斬り裂いた。

ゴーストたちが消え去ると、水の女神像が白い砂粒の山となり、崩れ去った。

中から現れたのは、うっすらと露に濡れた不思議な刀身を持つ、見るからに力を帯びた魔剣だった。

 ヴェイ・サーとグレンは、その特別な剣に魅入られたように近づいていった。イリーナは、少し離れた場所でそれを見ていた。

(あれを、父さんと母さんが……)

 父と母を亡くし、その霊魂すら消失した今、両親がこの水の魔剣をどうしようとしていたのか――手に入れようとしていたのか、それとも守り続けていたのか――それを知る機会は永遠に失われた。水の信徒である彼等の魂は、今はほの暗い水の底である。

「さあ、これを破壊しろという命令だったな」

「出来るですか?まがりなりにも魔法の宝物……それも、相当に強い魔力を秘めた神代の魔剣を――」

「黙れ。きちんとした手順をたどって解体すれば、壊せないものなど無い」

「なるほど」

 ヴェイ・サーは魔剣を手に取る。

 イリーナが、その様子をじっと見ている。彼女の右肩から、若葉が声をかける。

「イリーナ」

「…………」

「あの魔剣、壊さないで欲しい?」

 ヴェイ・サーがなにやら術式を書いた魔道書を開く。グレンが、横でそれを興味深げに見ている。

「イリーナ?」

 彼女の目の端から、一筋涙がこぼれた。そして、ゆっくりと首を前に傾ける。

「うん……わかった」

 若葉はヴェイ・サーたちの環に踏み込み、魔剣を手に取った。

「ヴェイ・サー、この剣は僕が使うよ」

 と言って、若葉はその剣を掲げてみせる。

 若葉の言葉に、イリーナとグレンが目を丸くする。ヴェイ・サーは微笑み、

「若葉、その剣は君の敬愛するルー先生に壊せと申し付けられているだがね」

「僕の魔剣は壊れたから、代わりにこれを使いたいだ。ルー先生は剣になんか疎いから、堂々と使っていたってわからないよ」

「そうか……君がいいなら、それでいい」

 ヴェイ・サーは魔道書をローブの中に仕舞い、入り口へ脚を向けた。そして、【イリーナのそばを通りかかったとき、彼女に声をかけた。

「君が来てから、若葉は少しだけわがままを言うようになった。困ったものだ」

 ヴェイ・サーはどこか満足げな顔で出口へ向かう。外で待たせておいた老魔術師がヴェイ・サーに歩み寄る。

「あの、魔法の宝物は……」

ヴェイ・サーが答える。

「指令どおり、封印を解いた魔法の宝物は解体し、跡形も無く消し去った。因って、この遺跡での任務は終了した。君たちは残務処理があるだろうが、がんばっていただきたい」

「まったく、臆面もなくよく言いますね、ヴェイ・サーも。ああ全くあきれてものもいえませんとも。ええ」

 グレイはニコニコしながらバトルアックスを担ぎ上げ、若葉たちに先んじて洞穴を出る。

 若葉が、まだその場に立ち尽くしているイリーナに声をかける。

「イリーナ、帰ろうよ」

 若葉はマントに包んだ魔剣を左手で逆手に持ち、もう片方の手をイリーナに差しのべた。

「あ……」

 イリーナは礼を言おうと思って口を開いたが、上手く言葉は出てこなかった。

「うん、人質として預かっておくから。もうキマイラから抜けられないよ」

 若葉が冗談じみて言う。

「まったく……」

 この連中は、万事が万事この調子。だけどイリーナは、この連中と居るのもそう悪くないのかもしれないと、そう思い始めていた。