慌しかった一日目も終わりを迎える。気を張って疲れたのか、学生たちは皆、早々に床へついた。
だが、ウェイは先に就寝した二人の寝息に誘われることもなく起き続け、すっかり夜も更けた今の時間になっても眠りにつくことが出来なかった。
(海の上ってことに、思いのほか緊張してるんやろか)
とにかく、このままではどうにも眠ることが出来ない。そう思ったウェイは、剣を持って甲板へ出た。
甲板に吹く春の夜風は少し肌寒く、潮の混じった湿り気のある風が肌に張り付く。思ったより気温が低い。
汗処理用の大き目のタオルケットを樽の上に置き、風に飛ばされないように剣の鞘をその上に置く。
剣を握り、型を確認して、構えを作る。疲れるまで素振りを行えば少しは疲れるだろう。
ウェイが素振りを始めた、その時――
「誰?」
後ろのほうから、声が聞こえた。
ウェイが戦闘時のような流れる動作で振り返る。後ろにいた人影はそれに驚いたのか、顔を強ばらせた。
「……亞紗姫」
ウェイの背後から現れたのは、亞紗だった。
「どないしはったんですか、こないな夜更けに」
ウェイは剣を降ろし、亞紗に向かい合う。姫に剣を向けた無礼を詫びなければならないところなのだが、彼にはそれが思いつかなかった。
「寝付けなくて……だから、夜風にでもあたろうかと思って」
彼女は少し、体を身震いさせる。肩を出した夜間着だけの姿は、見るからに寒々しい。
「そこに、タオルケットを置いてはるんで。肩にかけたってください」
亞紗は辰の上をちらりと見て、
「いいの?」
と、聞き返す。
「小奇麗やあらへんけど、ご無礼でなければ」
「そういうこと、言わないで」
悲しげに苦笑する亞紗。彼女は何を躊躇することもなく、タオルケットをまるで仕立ての良いショールのように優雅に肩にかけた。それだけの動作がとても絵になっていて、さすがお姫様とウェイは大げさに感嘆した。
「部屋に戻るときも、もって行ってかめへんですから」
ウェイはそういうと、また振り向いて素振りを始める。黙々と、ただ、疲れることだけが目的の素振り。
ぶん。ぶん。ぶん。
こういった鍛錬は、バスタード・ファクトリーに入って以来のウェイの日課のようなものであった。数も数えず、ただ黙々と剣を振る。ただ、自分に義務付けて課したものでもないから、剣を握らない日だってある。
体の感覚で200の素振りを数えたかというところで、彼の気は後ろのほうへ逸れた。
そこには、樽に座ってじっとウェイの姿を見ている亞紗がいた。
「あ、気にしないで。続けて」
「はあ」
一度そちらに気が逸れてしまった後では、気にしないでといわれてもそうできるものではない。
(横におるんがホンリェやったら、別に気にせえへんねんけど)
結局、身が入らないままウェイは素振りを続けた。
「ふう」
「お疲れ様」
と言って、亞紗が肩にかかっていたタオルケットをウェイに差し出す。
「ええですよ。汗かくほどやってへんですし」
「でも、汗の始末はしておかないと、風邪を……」
「あんまり汗はかかへん体質なんですわ。タオルケットは単なる備えみたいなもんで」
そういって、ウェイはシャツを捲り上げてみせる。
「え、ええと……」
「あ、ああ、ご無礼を。すんまへん……」
「いえ……。ああ、掛けたらどうですか」
といって、亞紗は自分の横のもうひとつの樽を示す。
「すんまへん」
ウェイは言われるままに腰掛ける。
さて、座ったものの、ウェイには気の利いた言葉も見つからない。いつも横にいるホンリェはほとんど黙っていることがないので、こういうときは戸惑ってしまう。
「あの、今朝のことなんですけど」
「はい?」
「あの、俺が亞紗姫とイエっちゅう娘を間違った時の……。きちんと謝罪せなと思いまして」
「ああ……」
「ほんま、すんまへん」
ウェイはがば、と頭を下げ、精一杯の謝罪の意を示す。
亞紗はウェイに顔を上げるように言う。
「気にしないで。別に怒ってなんかいないから。……むしろ、面白かった。あなたの慌てぶりとか」
亞紗は今朝のことを思い出し、くすくすと笑う。ウェイは彼女の顔を見て苦笑する。
「ふふっ。ところで、何でイエを私だと思ったの?」
「それは……」
笑顔で聞かれても。
ウェイは困った。さすがに“イエの方が美人だと思ったから”とは口が裂けても言えない。仮に彼女が姫でなかったとしてもだ。だけど、ウェイが彼女を姫だと思ったのは、それ以外の理由もあった。
「……こういったらなんやけど、亞紗姫は……なんやろ、なんか普通の女の子っぽかった、ていうんやろか。王族みたいな気取った感じがなかったちゅうか……」
亞紗はウェイの言葉を、どこかぽかんとして聴いていたかと思えば今度はウェイに対して詰め寄ってきた。
「本当に?私、そう見えた?」
「ああ、悪い意味やなくて、親しみやすいとか、そんな類の……」
ウェイの次の言葉を聞いてか聞かずか、嬉しそうな顔をする亞紗。ウェイの発言は全く持って無礼なもので、王族相手としては非常識極まるものであったが、この場合、相手のお姫様も相当非常識であったようで、さして問題にならなかった。
風が、強くなってきた。亞紗はその風に身を震わせる。
「いよいよ本当に寒くなってきよったな。亞紗姫も早よ戻らんと」
ウェイは促すが、亞紗は少し膨れて、
「姫はよしてくださいって言ったはずだわ」
とだけ言った。
「……わかりました」
「敬語も」
と言って、ウェイの敬語だかなんだかわからない言葉遣いも注意した。
「あ……」
「あ?」
「あいあいさー」
「何それ」
亞紗が吹き出す。つられてウェイも笑う。
ウェイはその後、亞紗を部屋に送り届けた。部屋に戻ったウェイは、夢も見ずにぐっすりと寝た。
船上の朝はそれほど急いだものではなかったが、怠惰に眠りこけることまでは許されなかった。
朝は全員甲板へ集合し、この航路の海神へ航海の無事を祈り、予想される今日の天候、一日の流れを伝え、船長の短いスピーチを聞いて解散。その後、朝食となり(もちろん、厨房担当の第一校メンバーはスピーチ前に朝食の用意をしているので、それなりの早起きを強いられる)、食事を終えたら各持ち場で作業となる。
「さて」
今日も今日とて(まだ2日目だが)甲板を磨くバスタードファクトリーの面々。
「こう、毎日毎日甲板磨いてどうするんだろうねぇ」
「ほんまにな」
昨日一通り磨いただけで、甲板はかなり綺麗になった。代わりに、デッキブラシが真っ黒になった。この船の船員が常日頃磨いていたとしたら、昨日みたいな汚れはありえないはずだ。
「ここの船員って絶対、常日頃から甲板磨きなんてやってないよな」
「せやな」
せっかく便利にこき使える連中が船に乗ってきたのだから、この機会に普段やらない大掃除をやらせてしまおう、とかそんなところだろう。
というわけで、今日も彼らは先人たちの怠惰までデッキブラシでゴシゴシやるのであった。
「ところで、ホンリェはまだか?」
「俺に聞かれてもやな」
ホンリェだけ、まだデッキに来ていない。
「飯食った後で、また寝てんじゃねえか?」
「あんたねぇ……」
「うわ」
好き放題言うジャレンの背後から、ホンリェがのそっと現れる。
「あたしはなあ、船長やシミズ教授らと打ち合わせしてたんや。あんたら軽く忘れとるみたいやけど、一応あたし、隊長やねんで?」
男二人は重々察していますとばかりに彼女におどけて敬礼してみせた。
「うん、よろしい。それでな、今日の予定なんやけど~。船長に許可をもらったんで、午後はここで訓練をします」
それを聞いたジャレンは「ええええ~」と渋い顔をした。
「そんなのここでやったらさらし者じゃん!」
「あんたなぁ。ナナ校魔法戦士学科科訓!いついかなるときでも鍛錬を怠るべからず!まあ、あたしもそんなにせかせかやるつもりはないわ。でもやっぱり体が鈍らへん程度にやっとかんと。一応あたしら護衛やしな」
「う~」
それでもまだ不服という顔をしているジャレンに、ウェイは横からこっそりと声をかけた。
「ジャレン、お姫様が見にくるかもわからんで?気張らななあ」
その一言で、ジャレンはやる気を充填した。
「そうだ!俺らはお姫様護衛隊!みっともねえ姿なんぞ見せられねえぞ!てめえら!」
デッキブラシを剣に見立てて天にかざし、気をアピールするジャレン。ウェイはその横で苦笑していた。
(さすが、お姫様目当てで勝ち残った男どもの筆頭やな)
やる気が余って甲板掃除にまで力が入るジャレンをよそに、ホンリェがウェイの前に歩み寄り、何かを差し出した。
「これ……」
「ああ」
彼女が持っていたのは、昨夜ウェイが亞紗に貸したタオルケットだった。
「今朝、亞紗に渡されて、『ウェイに返しておいてください。ありがとう』って伝えてください。やって……」
「そっか。悪いな」
密かに、亞紗が直接渡してくれるのではないかと期待していたウェイは少しだけ残念に思った。
ホンリェはタオルケットをウェイに手渡し、その手でウェイの耳を掴む。
「いだ、いだだだ!」
彼女の右手には、かなりの力が込められていた。目は、笑っていない。
「裂ける!裂ける!裂けますよ!?」
「あんた、あたしの知らんとこで、亞紗と何してたん?」
「何て、別になんもないわ。夜中に甲板で素振りしてたら、たまたま鉢合わせただけや」
しかしホンリェは信じず、「ほんまに~?」とかいって激しく詰め寄る。猜疑心の強い女であった。
その後、1時間ほどしつこく詰め寄られたウェイは、休憩の頃にはもう疲れきっていた。
船員全員分の昼食の片づけを終え、厨房の忙しさもひと段落していた。
「おお、ご苦労。学生たちは上がっていいぞ」
海賊と見紛う凶悪なヒゲ面の料理長(船長の兄らしい)が亞紗たちに告げた。
「はい。それじゃ、4時まで休憩に入ります」
亞紗たち第一校の3人はエプロンを着替えた後、男子の部屋の前で落ち合った。
「なんか、甲板で第七校のみんながなんかやってるらしいよ」
「なんか、ですか?」
イエが問い返す。
「船員の人に聞いたんだけどね。見に行ってみない?」
特にすることもないので、亞紗とイエはそれに同意した。
3人が甲板に出ると、暇をもてあましている船員たちが10人ほど、甲板のあちこちに寝そべったり積荷に腰掛けたりしているのが見えた。その全員が、中央の3人に注目していた。
第七校バスタード・ファクトリーの3人が、一糸乱れぬ揃った動作で剣を振るっている。どうやら、彼らの訓練らしい。
彼らは、決まった型で10本素振りをすると、ホンリェの気合の入った掛け声を合図に型を変え、また十本振るう。単独の型を一通り終えると、今度はそれらの型を組み合わせた動きに、ステップが加わる。
「ジャレン!型が崩れとる!」
時折、ホンリェが厳しい檄を飛ばす。凛々しいホンリェの姿に船員が口笛と共に歓声を送る。しかし、彼女はそんな声に浮かれることもなく、黙々と剣を撃ち続ける。
(意外としっかりしてるんだ)
部屋で一緒にいるときの彼女は、天真爛漫で人懐っこくて、厳しさを感じさせないやわらかさを持っていた。亞紗は彼女に対して、どちらかというと子供のような印象を持っていたで、このように男たちの先頭に立って剣を振るう姿はとても想像できなかった。しかし、この光景を目のあたりにしてみると、男子と同じくらい長身のホンリェが剣を振るう姿は、とても様になっていた。いや、様になっているというか、絵になっているといえた。彼女のことを知らずに見れば、美形の男性剣士と見紛うことだろう。
「ホンリェさん、素敵ですね」
イエも目を輝かせて彼ら、いや、彼女らの訓練を見つめている。
剣を振るうホンリェの姿は、昔も今も、戦の華は強い女であるということを強烈に印象付けた。
(なあ、ウェイ)
(なんや、ジャレン)
(今日のホンリェ、いつにも増して厳しくないか?)
(そ~かもな)
(そ~かもなじゃない!お前が怒らせたからだ!お前がしっかりとあいつの手綱握ってないからだろうが!あーいう時は黙ってがばっと抱き寄せてちゅーでもしとけ)
(でけるかそんなん。ホンリェが勝手に勘違いして勝手に怒ってるだけや)
(お前のそういう態度があいつに油を注いでるんだろうが!)
(黙ってやっとけや。お姫様が見てるで)
(え、どこどこ)
「無駄話せんと!集中!」
ホンリェの檄が飛ぶ
「応!」
型の確認が終わり、彼らは次の訓練に移行するようだった。
メニューは進み、
「次、模擬戦!」
周りの船員たちから歓声が上がる。多くの船員の目当てはこれのようだ。
「まずはウェイとジャレン、次にジャレンとあたし。そして最後はあたしとウェイ。わかった?」
「いえっさ~」
ウェイとジャレンの二人が5メートルほど空けて向き合う。
「みなさ~ん、危ないんで出来る限り離れてた方がいいっすよ~」
ジャレンが周りの船員たちに対して通告する。
「危ないって言たってよ、剣の打ち合いだろうが」
若い船員が発言する。
「一応もう一回いっときますけど、模擬戦ですから」
そう言ったあとで、ジャレンは小さく何かを呟く。
ジャレンの左手に、炎の玉が具現化する。周囲がどよめく。
ここにいる誰もが忘れていたが、彼らはただの剣士ではなく“魔法戦士”なのだ。彼らの戦闘が剣の打ち合いのみのはずはなかった。
「くらえ!」
ジャレンは炎の玉をウェイに投げつける。ウェイは斜め前方に転がってそれを回避し、同時にジャレンとの間合いを詰める。
「どわあ!」
流れ弾となった火は、ウェイの背後にいた船員たちに向かって飛ぶ。あわやぶつかる、と言ったところで、火は弾けて消えた。
「ふう」
飛んできた火の玉は、咄嗟の判断で割り込んだマクレーンが展開した結界によって防がれた。
「危ないな~。さすがバスタードファクトリーの人たちは過激だね」
彼の視線の先では、ウェイとジャレンが何事もなかったように戦い続けている。
「アホか!甲板での戦闘で火ぃ使うアホがおるか!周囲の状況も把握せえや!」
戦闘の環の外でホンリェが怒鳴る。その声も、ジャレンに聞こえているかは怪しい。
「危険なようなので、私も結界を張ります」
そう言ってイエは大回りに移動してマクレーンの対角位置に座し、結界を展開する。結界の張られていない位置にいた船員は全員マクレーンとイエの背後に移動し、全員が結界に守られる形になった。
「これで心置きなくやれるな」
「それでも俺らの足元は燃えるんやで。火は使うなや」
「わかってんよ」
またジャレンが呪文を唱え始める。間合いが遠いため、詠唱中に仕掛けて魔法を受けることになったら危険だと考えたウェイは、その場で次の攻撃に備えた。
「これはかわせねえだろ!」
ジャレンは剣を持ったまま両手を突き出し、呪文のラストピースを唱えた。
発動の早い、気弾の呪文。呪文が唱え終わった時にはすでに気弾はウェイに届き、彼の甲冑を通して胸を撃った。
「げほ、う」
あまりの衝撃にウェイはむせ返ったが、脚を踏みしめて転倒するのだけは避けた。
その間にジャレンが間合いを詰める。
「らっ!」
剣戟の音が周囲に響く。一つ受け、二つ受け、体勢の良くないままに受け続けたウェイは後方へ下がらざるをえなくなった。
ジャレンがまた、短い呪文を唱える。すると、彼の右手から水の飛沫が勢いよく飛び、ウェイの顔を濡らす。
それでひるんだウェイにジャレンが一撃を放つが、ウェイはそれもかろうじて受ける。
(やるな)
体格は並、魔力も特に優れているわけではないジャレンだが、彼は魔術と剣術を非常に巧く融合した戦い方で、バスタード・ファクトリー内でも他と一線を画している。魔法戦士というものは、たいてい魔術か剣術に傾むく傾向がある。ウェイやホンリェなどは剣術拠りの筆頭である。魔術だけならジャレンに勝てる学生は多いし、剣術だけをみてもそうだ。しかし両方を用いた場合、彼ほどの完成度を誇る者はいない。
その技で、彼はバスタード・ファクトリーの学生を全員叩き伏せたのだ。
「くっそ。船が揺れるせいであたらねえ!」
「船が揺れへんかったら俺かてもう少し巧くかわしてるけどな。どのみち当たらへんねや」
ウェイのその負け惜しみにしか聞こえない単純な挑発に、ジャレンが動いた。
「やかましい!」
ジャレンは上段、大降りに構えた。剣が振り降ろされ――
「うわっ!」
――たかと思われた、その瞬間、大きな波に船が傾き、ジャレンがよろけて尻餅をついて転んだ。
その隙を見逃さず、ウェイが剣をジャレンの額に突きつける。勝負が決した。
「……ちっ。運が良かったな」
「ちゃうちゃう。そこ、お前の足場。潮でつるっつるやろ?そこ、俺が掃除サボっててん。んで、自分はまんまとそこに誘導された。俺の狙い通りっちゅーやつや」
「うわ、ほんとかよ」
ジャレンがウェイの手を借りて立ち上がると、周囲からやんやの歓声で迎えられる。ジャレンは度も土本ばかりに手を振って歓声に応える。そのまま引っ込もうとしたところでウェイに「次の試合も自分やろ」と止められる。
「ホンリェ。準備はええか」
ホンリェと入れ替わりに、ウェイが引っ込む。
亞紗はその彼のところへ近寄り、声をかける。
「お疲れ様」
「あ、ああ。おおきに」
ウェイは樽に腰掛ける。
「辛勝なのかな?」
ウェイはよくもそのようなことを、という顔で苦笑する。
「ちゃうちゃう。ほんまはあいつに華もたせて適当なところで負けたろ思ててんけど、あんな単純な攻めばっかされてたら、うわ、これやと嘘っこでも負けられへんて思て。そんで、かわいそうやけど負かしたった。余裕や」
彼は昨夜と違いずいぶんと饒舌だった。模擬戦の後で気分が高揚しているのだろう。
中央では、ジャレンとホンリェの試合が始まっている。
キン!キン!剣戟の音が響く。ホンリェがジャレンの魔術を封じんと、果敢に打って出ているようだ。
「ホンリェと彼とでは、どっちが強いの?」
「勝ったほうや」
「なるほどね……」
眉根を寄せ、半眼でウェイを睨む。
「……まあ、ジャレンのほうが強いんとちゃうかなぁ。ホンリェのやり方は綺麗過ぎるよってな。ジャレンのタフさには敵わへんやろ」
しかし、彼の言とは裏腹の番狂わせが起きた。それから間もなく、ジャレンがホンリェの強烈な一撃を食らい、のちのウェイいわく「みっともなく」倒れた。海の男たちがその見事な一撃にどよめく。
「ウェイ!さっさと準備しいや!」
ホンリェが大声でウェイを呼ぶその横で、というか下で、ジャレンが舌をぺろりと覗かせながら、目だけでいたずらっ子のように笑っていた。
2戦目のどよめきが尾を引いたまま、ウェイとホンリェの二人が相対する。声援の数は、ホンリェが圧倒的。10対0というところか。無理もない。かたや鮮やかな一撃でジャレンを叩き伏せた女剣士。かたや防戦一方でほとんど何もしていないへたれ剣士。しかも男。
(へたれちゃうぞ。未知数や)
ともかく、ウェイにしてみれば完全なアウェー試合。まったく居心地の悪い場所である。そのくせ、
(隊長の顔でも立てたるか……)
とか、また余計なことを考えている。
互いの剣と剣を合わせ、ひとつ、ふたつ、みっつ下がる。ここから、どちらかが仕掛けたらその時点で戦闘開始、という両者間の了解。
「やああああ!」
気合と共に、ホンリェが仕掛けてきた。ウェイは大振りの一撃目をフェイントと読み、こちらから打って出ることはしなかった。しかし、彼女のそれはあきらかな打撃攻撃だったようで、ウェイがそれに気づいた頃にはもう次の攻撃が来た。
2、3……5発撃つが、ウェイは全てを難なく受け流す。らしくない、と感じた。
「?」
彼女のいつもの攻め方は、多様なフェイントを混じえて一手一手丁寧に、それこそチェスを打つように攻め立て、最後の詰めで華麗に決めるという戦い方だ。自分にも他人にもイレギュラーを認めない、綺麗過ぎる戦い方。
その彼女が、闇雲に剣を振るっている。
「ホンリェ、自分なんか怒ってへんか?」
「怒ってへん!」
明らかに怒っていた。
ホンリェは攻撃の手を休めない。ウェイは2、3牽制の手を打ってみるが、ひるむ様子は全くない。
(うへ~、危な。怪我するで、こら)
模擬戦でいくら本気で撃ち合っても、彼らの頭の中にはいつも最後の一手、死線を越えない冷静さを残しておく。要するに、模擬戦で相手の頭に血が上ったりした場合、もう片方が自分と相手、両方の死線の面倒を見てやらなければいけない。そのもう片方は、その時点で早めに試合に決着をつけることを考えはじめなければいけない。つまり、冷静なほうの負け。子供の喧嘩なら「泣いたほうの勝ち」といったところだ。恐らく、さっきのジャレンの負けもそれだろう。
普通ならそうなるが、彼女に対して明らかに力量の勝るウェイには、まだ彼女をあしらい続ける余裕があった。
「往ね!往んでまえ!」
彼女の剣が空を切る。
「なあ、何を怒ってんねん」
「なんも怒ってへんゆうてるやろ!」
ぶんぶんぶん。
「そんなんふくれて、怒ってへんことないがな。ちゃんと言うたり」
「怒ってへん!あたしが怒ってるとしたら、あたしが怒っとる理由がわからへんあんたに怒っとるんやっ!」
わけのわからないことをのたまいはじめたかと思ったら、
泣いた。
「アホか~!泣くなや!」
ウェイの声がとどめになり、ホンリェは剣を投げ出した格好のまま堰を切ったように涙を流し始めた。
「お、おい……?」
その光景を見て、そこにいた全員が状況を察した。
「痴話げんかだな」
「痴話げんかだね」
「痴話げんかですね」
「痴話げんかかよ」
「…………」
ジャレンもマクレーンもイエも海の男たちも察した。少しだけ場が白けたが、しかしこれはこれで面白いとか考えた男たちは(なにせ退屈しのぎに彼らの訓練を眺めていたのだ)今度はさきほどとは別の声色で歓声を送り始める。ひゅーひゅーぴーぴーとかそんな類の。
下品な歓声と怒声の中、ウェイは次にとるべき行動を瞬時に決定した。
(こっちは、これ以上のサービスをする気はないで!)
ウェイは、ホンリェの手をとった。
「おおぉっ!」
と思ったら、船室の扉を空けて、逃走した。
「…………」
あまりの早業に、辺りが怒声に包まれた。
「ふん。甘いな、ウェイ。それじゃあただこいつらの想像力を煽るだけだぜ……」
ジャレンが状況を楽しむようにニヒルに笑う。
亞紗は、彼らが消えた扉をじっと見つめていた。
みんなが寝静まった夜。ウェイは昨日と同じ、剣一本と新しいタオルケットを持って甲板へ足を運んだ。素振りのため、それと――
「ウェイ?」
「ああ」
昨日と同じように、亞紗は甲板にいた。昨日のような薄着ではなく、寝間着の上に厚手のカーディガンを羽織っている。
――今夜もいるかなと思った、とはさすがに言えなかった。
「今夜も素振り?」
「せや」
鞘を傍に放り、素振りを始める。
横から、亞紗が話しかけてくる。
「結局、あなたが強いのかどうかはよくわからなかったけど」
「さよか」
確かに、昼間は何も証明していない。あの試合を見て二人の力量の差を判断できたのはジャレンくらいだろう。
「ホンリェと付き合ってるんだって?隠してたの?」
「……あ~」
別に隠していたわけではない。だがいちいち吹聴するようなことではない。そう伝えた。
「あのあと、二人でどうしたの?」
「下世話なお姫様やなあ」
「いいじゃない。それで?」
亞紗は(ウェイが剣の素振りをしていなければ)顔を寄せる勢いで聞いてきた。しかしウェイは、
「ええやん、別に」
といって押し黙り、剣を振るった。
沈黙。もう、亞紗は問い詰めなかった。しかしウェイのほうが沈黙に耐えかねて口を開く。
「部屋に連れてって……」
「連れてって?」
すぐに食いついてきた。
「……殴ったった」
「殴った?」
「頭殴ってケツ蹴り飛ばして怒って部屋に捨ててきた」
「嘘だわ」
「嘘なわけあるかい」
「だって、夕食の時、なにか嬉しそうだったし」
「好物でもあったんやろ」
それっきりウェイはまた黙る。亞紗も何もいわない。
ウェイは横目で彼女の顔を覗いた。普段降ろしている前髪はピンで留められ、白い額が主張している。こうしてみると彼女は結構大人っぽく見える。その理由を彼はすぐに察したが、口に出していうのは憚られた。仮にも、いや、仮も何も女性であり、姫様だ。
「結構気苦労が耐えないのよ」
言わないでおこうと誓ったそばから亞紗が話題を降ってくる。
「結構気にしてるんだから」
といって彼女は指で自分の眉間の皺を撫で付ける。気にしているのに気づいていたから何もいわないでいたものを、どうしてわざわざ自分で言うか。ウェイの胸に気まずい気持ちが湧き上がった。
それで、次に言った言葉がこれだからきっと混乱していたに違いない。
「お姫さまって、大変なんか?」
深読みされなければいい。まあね、で受け流してくれればいい。しかし彼女は――
彼女は「ふふ」と短く笑い、立ち上がって船室の扉に手をかけ、困ったような苦々しい笑みを眉間の深い皺と共に浮かべ、こう言い放った。
「私は、エリクシアの、あなたたちのお姫様なんかじゃあないんだよ」
彼女はそのまま、扉の向こうに消えていった。
次の日の夕方、船は無事ジュデン大陸に到着した。