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「ジュデンの熱血」(2006/10/12 (木) 15:16:49) の最新版変更点
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子供の頃なんてつまらないことではしゃぎまわっているもんだ。
「ちんげ――――――――――――――――――!」
とりわけ、カシンの男の子たちの最近のフェイバリット単語は「ちんげ」だった。
ちんげと絶叫しながら駆け回っていく男の子たちの姿を、9歳のJTや他の女の子たちは、「ばっかみたい」と冷笑視していた。あの集団の中に自分の兄が居ないことがひとつの救いではあったが。
さあ、あと何年すれば彼らはこの愚行を思い出してその心を恥辱にまみえさせるのだろうか。そして、兄がこの馬鹿騒ぎに付き合えなかったことを後悔する日はいつだろうか。2つ年上の兄チャンスは女々しい男ではないが、どこか気分屋で(その点については自分も人のことが言えないとJT自身も自覚している。なにせ兄妹だ、似ていておかしいことはない)、男の子たちのああいうノリにはどうしても一拍遅れてしまうのだ。いつも一緒に居るのは妹の自分か、さもなくばもう一人、別の女の子と一緒に居ることが多い。
ただ、その女の子は、どちらかというと男の子みたいなものなのだが。
チャンスの日課は、起きている時間の3分の1に費やされる剣の稽古だ。母や他の家の手伝い、食事、それと私塾で文字の読み書きを教わる時間以外のほとんどは剣の稽古に費やされる。
そして、その時間の半分をチャンスと共有する少女がいる。
「ほら!またつまんないこと考えてる!」
少女の木剣がチャンスの左脇に飛んでくる。チャンスはそれをかろうじて木剣で受けようとするが、少女のその一撃はフェイント。木剣は交錯することなく、少女の剣は軌道を転じてチャンスの右足を撃った。
「いでっ!」
足を払われる形になったチャンスは、背中から大地に倒れる。
そのたんすを見下げるように、少女が話しかける。
「ったくさ。なんなのかな、その集中力の無さは」
「いや、ちょっと、……なんだろ」
ひっくり返ったまま、チャンスは膝を曲げ、手を伸ばしして撃たれた右足をさする。
その様子を、少女はただ黙って見ている。
チャンスは時折、こういう風に集中力を喪失してしまうことがある。まるで、今の手合わせに興味を失ってしまったかのように――
「チャンス~、ごはん――ってありゃ~、まぁったやられてる~」
森のむこうから小柄な少女が走りよって来た。チャンスの妹、JTである。
「相変わらず弱いなぁ~。ロミナも手加減してあげてね」
「あはは……」
ロミナ、というのは先ほどまでチャンスと手合わせしていたこの少女の名前である。肩まであるブラウンの髪と、頭に巻いたバンダナがトレードマーク。バンダナを巻くなら邪魔な髪をまとめればいいのに、とチャンスは思っているが、彼女は髪を垂らしたまま頭にバンダナを巻く。飾り気の無い彼女の唯一のこだわりらしい。
このロミナという少女、チャンスと共に12歳でありながら、彼と並んで辺境でも評判の高い少女剣士である。総合的な実力を見れば肩を並べるであろうふたりだが、純粋に剣の扱いだけを見れば、チャンスは彼女に及ぶべくも無い。細身の腕ながら、大人が使うものと同じ広刃の剣をしなるムチのように振るう。
彼女に剣を教えたのは自警団の頭を務める彼女の伯父ロイヤーだが、姪が10歳を迎える頃にはすでに敵わなくなっていた。
12歳にしてこの実力。天才――そんな言葉すら似つかわしい彼女だが、村の中で彼女にその言葉をかけるものはいない。いろいろなことに無邪気な、彼女と歳近い子供たちでさえ。
ある時、チャンスやロミナたちが読み書きを教わっているガンズじいさんの家で子供たちがたむろしていた。
そのとき、会話の流れで、
「将来、俺たち何になるのかな」
といった話になった。
村の子供たちはみんな、自分の親の仕事を次いで家畜を育てたり畑を耕したり……そんな将来を語った。チャンスは天井を仰いで「どうなんだろ」とはにかみながら呟くのみで、明確な回答を口にしなかった。
そんな中、ロミナだけが彼らとは違う“夢”を高らかに語った。
「あたしは、ジュデンに行って闘技場の剣士になる!」
そういった時の、他の子供たちの反応は、暖かいものでも冷ややかなものでもなかった。どういう答えを返せばいいのかという戸惑いがその場を支配していたようだった。チャンスも他の子供たち
だがやがて、一人の少年が口を開いた。ロミナよりひとつだけ年上のアレン。
「そんなもん、女がなれるわけねーじゃん!」
何事にも口を挟まなければしょうがないたちのアレンがそういうと、他の消極的な子供たちもそれに歩調を合わせた。
「そーだそーだ!」
「女のクセに!」
そうした連中はロミナがキッときつい視線を送ってやるだけですぐに黙った。
ロミナは一人だけ黙っていたチャンスに視線をやる。
「……チャンスも、そう思ってる?」
このとき、チャンスの頭の中には柄にも無く無難に場をしのいで起きたいという気持ちがあった。だからチャンスは――
「……わかんねえ」
とあいまいに言葉を濁した。濁してしまった。
それを聞いたロミナは、表情をなくした顔で、
「そうか……」
とだけつぶやいてガンズじいさんの家を出て行った。
それ以来、ロミナがチャンスと剣の稽古をすることは無くなった。
チャンスがそんな昔のことを思い出したのは、1年ぶりに舞い戻ってきたジュデン都で剣を腰に下げた女性を何人か見かけたからだ。チャンスがロミナと剣の稽古をしていた日々は、もう4年も前になる。
締まってはいるが大柄な体と、腰にさした剣。大仰な鎧こそ身に着けていないが、このあたりでよく見かける戦士姿のチャンスは、世界中の武芸者が集うこの街に良く馴染む。
そして、世界中の戦士が集うこのジュデン都では帯剣した女性は珍しくも無かったが(しかしそれは、比率で見ると決して多くはない)、チャンスがそれを知ったのは初めてジュデンを訪れた時のことだ。ロミナと親しかったチャンスですら、ロミナが剣士の道を選んで成功するとは信じていなかったが、1年前に初めてこの街を訪れた時、その考えを改めた。ロミナのことが頭の片隅にあったので、闘技場で何人かの女戦士の戦いぶりを見たが、正直、ロミナのほうがずっと上手に剣を使えると思った。たとえ、ロミナが12歳のままだったとしても、だ。
あの幼なじみはまだ剣士を目指しているだろうか。もしやという想いがチャンスの目を其処彼処に走らせるが、それらしき姿は見かけることは無かった。当たり前と言えば当たり前だ。ジュデン都は東の大陸でも有数の大都市であり、その広さも人の数も尋常ではない。いや、それ以前にロミナがジュデン都にいるという確証すらない。単にチャンスの「もしや」という思いがそうさせているだけに過ぎないのだから、徒労もいいところだ。
宿に仲間のふたりを置いてきた後も、チャンスはふらふらと一人で街を歩いた。ロミナのことがあってそうしていたわけではない。ただ、この街の中に身を投げたかっただけだ。この街では何かが起こりそうな気がしていたから。
そしてそれはまもなくやってきた。しかし、それはチャンスの望む形のものではなかった。
わざわざ薄暗い路地裏の中に入ってやると、案の定数人の人影が小走りに近づいてきた。暗闇の中では顔が良く見えないが、総じてだらしなく背筋が曲がった、チャンスと同じくらいの年若い連中だ。数歩離れて後を付いてきていたらしいことは、さして勘の鋭くないチャンスにもわかっていた。
彼らを前にして、チャンスの選択肢はふたつ。逃げるか、制圧するか。
チャンスはより簡単な方法を選んだ。
左右に人ふたり分の間隔をあけてそびえる小高い塀。奥は袋小路。そして、店の明かりを逆光にして立つ数人の人影。狭い路地にふたり並び、その後ろに、確認し難いがおそらく3、4人ほど。
チャンスはその全員に聞こえるように、大声で、
「俺一人に割く労働力が、この人数なわけ?」
そう言い放った。
「ンだと、てめえ!!」
その言葉に、前衛の一人が憤慨する。もう一人のほうは特に意に介していないようだった。
彼らはチャンスの言葉を「たった一人相手にこんな大人数でなければ強盗も働けないのか?」という侮蔑の意味で受け取った。多勢無勢の自覚があったからだ。しかし、チャンスの意図はそうではなかった。
チャンスは腰の赤い剣を引き抜き、円を描くようにすばやく一振りする。大きく弧を描いた刀身が路面に接すると、火花どころではない、まばゆい炎があがった。
路地が一瞬、明るさに包まれる。チャンスの使う剣は火の神の加護を受けた炎の魔剣なのである。
その光景に、強盗たちは一瞬あっけに取られる。その一瞬の隙を突くように、チャンスがすばやく前衛のふたりに斬りかかる。
「人手が足りないんじゃねーの!?」
下薙から跳ね上がった剣が、一度にふたりの腹を裂く。左側の敵を左手で前に押し倒し、できたスペースへ飛びこんで後衛の一人の肩に刃を突き立てる。
チャンスは左方の塀の上に強盗の一人が立っていることに気づいた。だが塀の上の男は魔剣が発する炎とチャンスの豪腕に驚き、次にとるべき行動を判断しかねていた。男はその一瞬の隙を突かれ、魔剣の炎を浴びて塀の裏へ落下した。
チャンスはそれを確認もせず、前方へ目をやった。残りは3人。
だが、そのうちのふたりは2、3小さく呻くと、さっさと逃げていった。所詮金目的の連中だが、金と命を天秤にかけることまではしなかったようだ。
残ったのは一人。その男は額に冷や汗こそ浮かべているものの、チャンスの強さを見せ付けられてなお、しっかりと構えていた。
気息を整え、正眼の形で構える。自信があるか、さもなくば強者との対戦に喜びを見出す性質の相手――
「へんっ……ジュデンの剣士ってのはいちいち構えて仕切りなおさねえと戦えねえ人種らしいな。乱戦の隙を縫う戦いかたを知らねえのか?」
とはいえ、そのしっかりとした構えこそが、目の前に立つ剣士の実力を裏付けていたのは確かだった。鍛えられた剣士の構えである。
チャンスの軽口も実は強がりで、こういうまともな相手には苦手意識がある。
「…………」
相手はチャンスの軽口に応じるそぶりも見せず、遠い間合いで黙って構えるのみ。
「ちぇ……」
それを見て、チャンスは同じように正眼で構えてみる。
「…………ん~?」
しかし、それがどうもしっくりこず、あれ、おかしいな、という顔をする。
そして2,3いろいろと構えをかえてみせる。その不敵な行動にも、男は動じるそぶりを見せない。
やがてチャンスは、「あ!」という顔をして、
「おい!後ろ、後ろッ!」
と、男の背後を指差して叫んだ。男はそれを、子供しかやらないような幼稚なフェイクだと判断し、構えを崩すことをしなかった。しかし――
ガツッ――!
男は背後から何者かに棒のようなもので思い切り殴られ、前のめりに倒れた。チャンスの忠告はフェイクではなく、本物だったのだ。
「あ~あ、だから言ったのに……」
チャンスは剣を腰の鞘に収めつつそう言う。そして、男を打ち倒した(多分)善意の第3者の影を確認する。第3者は武器に用いた鞘に剣を収めていた。
(……あ)
チャンスは今まで機会が無くて言うことの無かったセリフをここぞとばかりに言い放った。
「『余計なことしやがって!俺の獲物だった……』――あ、あれ?」
第3者は、どうやら女のようだった。闇の中でもわかる、華奢な体躯に長い髪。
彼女の姿をはっきりと確認したチャンスは、少しだけ気後れした。チャンスは十分な余力を残していたから「助けられた」という意識もないし、戦闘で後れを取らない女2人とともに旅をしている彼が、女性を巻き込んだということに途惑うことは無い(それを感覚の麻痺という)。
彼女の姿に見覚えがあった気がしたのだ。街で見かけたとか、闘技場の試合を見たとか、そんなものではない。
頭に巻いたバンダナ、其処から垂れ落ちたブラウンの髪。そして、剣。
彼女のほうも、チャンスの姿に覚えがあるようだった。チャンスの顔と赤い剣の柄をしきりに見ている。
お互い、内心では実は確信していた。顔などは、1年か2年で大人びてもそう劇的に変わるものではない。
女が口を開く。
「カシンの、チャンス……?」
「…………ん」
チャンスは照れくさそうに頭を掻いて、彼女の名前を呼んだ。
「ロミナ……剣士になれたのか?」
チャンスは久しぶりに会った旧友とともに酒場へ繰り出した。打ち倒した強盗どもはその場にうち捨て、すばやく離脱した。自分達に非が無いとはいえ、憲兵に拘束されて取り調べに時間を浪費するのはごめんだったからだ。チャンスに罪があるとすれば、わざわざ路地裏へ入り込んで誘い込んだことだけだ。
ロミナに連れられて入った店は、大通りでも一際大きな、どこか洒落た雰囲気の店だった。店の中は外見どおりに広く、舞台劇の上演にも耐える広いステージがあり、酒場というよりは音楽ホールのようであった。音楽ホールの座席を取り払い、テーブルとカウンターを置いたような、大げさに言えばそんな感じのつくり。広い店内に、テーブルの数は大小含めて40をくだらないだろう。
チャンスとロミナはカウンターの近く、ステージから一番奥のテーブルに付いた。そこしか空いていなかったのだ。
テーブルについてまもなく、忙しなく動き回っていたウェイターの一人がやってきて注文をとった。ロミナは慣れた風にウェイターに注文を伝える。馴染みの店なのだろう。
広く小奇麗な店内に、少し居心地悪そうに店の中を見回すチャンス。着飾ってこなければ入れないというほどではないし、戦士姿の者も少なくは無いが、こういう場所に慣れていないチャンスにしてみれば、さしずめここは異空間だ。
「随分と洒落た店に来てんだな。カシンの田舎娘が随分と垢抜けたんじゃねーの」
「あんたがそれを言うのね。あたしと同じカシンの田舎者のクセに」
意地悪そうに笑うロミナ。
「まあ、何年も村の外に居たら変わるもんだわね、お互い」
言いながら優しげな笑みを作るロミナ。その顔を見たチャンスは、確かに変わった、と思った。それを素直な言葉で口にするチャンス。
「……綺麗になった、んじゃねーの?」
「うん、まあ。お金かかってるからね」
そういって顔を指差し、自嘲気味に笑うロミナ。
「そうじゃねえよ……ん?いや、それでいいのか」
「おいこら」
「まったく、化粧するだけでずいぶん変わるもんだな」
「そのへんにしときなよ~。昔みたいに痣だらけにしてやるから。いや、今度は実剣でなます斬りね」
冗談じみた口調で話しながらテーブルに立てかけた広刃の剣の柄に手をかけるロミナ。チャンスは彼女の冗談に同調して笑いながら、気になっていた事を彼女に聞いた。
「……ジュデン闘技場でやってんのか?」
「え……あ、そっか。あたしが村を出たのって、チャンス達の後だったから知らないんだね……まあ、カシンのほうとも連絡とって無いわけだから、そっちもだれも知らないだろうけど」
「で、だからどうなんだよっての」
わざわざ問うまでもないということは、彼女の顔を見れば良くわかった。それをあえて問うことをしたのは、ロミナがものすごく言いたそうにしていたからだ。『聞きたい?聞きたいの?』と顔が言っていた。だから『聞いてやる』ことにした。
「うん……チャンス達が村を出て半年くらい後かな。ジュデンに来たんだ。それから1年、もう2年近いのかな、ぼちぼちやってるよ。日代わりのトーナメントでもまだまだ勝ちあがれないけど――いつかてっぺんまで行くんだ」
時を経て、力強く宣言した幼なじみの姿に、チャンスは、今度は心から応援できそうだと思った。
「そっか――がんばれよな」
「うん。いつか、村に帰ることがあったら言いふらしといて。『ロミナがジュデンで剣士をやってる』って!剣士になんかなれっこない、っていったバカどもにさ!」
「わかった。帰ったら言っておくよ」
今のところ、チャンスはカシンに帰る予定は無いのだが、“いつか”でいい約束なら覚えておいてもいいと思った。子供の頃の親友のために。
子供の頃のわだかまりは、どうやら時が解決してくれたようだ。そんなことがあったことすら、ふたりは思い出さなかった。
やがて、ウェイターがたっぷり待たせてトレイにグラスを2つ乗せて持ってきた。それと同時に店の明かりが緩やかに落ち、客の視線がステージに注がれる。
ステージに明かりが灯る。
その場所に現れたのは、チャンス知っている顔……。
ロミナがチャンスに解説する。
「『ジュデンの歌姫』。今、ジュデンで1番か2番目に人気のある若い歌い手だよ」
「へえ……」
「ジュデンに寄ったこと無かったの?」
「んや。1年前に……」
「じゃあ知らないか。彼女が出てきたのって、ここ数ヶ月くらいだからね」
「そっか」
ジュデンの歌姫、キリエの歌が店内に響く。
ロミナが肩で小さくリズムをとる。一番奥の席に居るのでだれの迷惑にもならない。
楽しそうなロミナにチャンスが声をかける。
「ロミナは歌を歌ったりするのか?」
「ん~ん。上手くないもん。誰かの歌に合わせて口ずさむ程度かな」
ロミナは流れてくるキリエの歌に合わせて小さく唇を動かす。
「『――あなたの全然こだわらないとこ あたし意外と嫌いじゃないの』」
「ふうん」
ロミナの歌も悪くないと思った。だけど、だれかの歌に重ねて口ずさんでみれば案外上手に聞こえるものだ。だからきっと、ロミナの歌の実力に関しては彼女の申告どおりなのだろう。だけどそれを口には出さず、黙ってふたりの歌を聞いていた。
「あたしこの歌好きよ。『平穏な彼との時間 あたしの不用意な言葉で壊したくなるわ』」
チャンスは黙ってキリエとロミナの歌を聴いていた。
「『――言わなくてもいいその一言を 私の喉は押しとどめることができない』」
1年前。まだキリエが無名だった頃、既に多くの歌い手よりうまいと思った彼女の歌が、1年を経て改めて聞いてみると、また見違えるように上手に聞こえた。それは、彼女の成長の証。
彼女の歌は音楽的な知識のある者、知識を持たない者、すべての心を捉える。批評の波を泳ぎ相対的な評価を受ける多くの歌い手を、彼女は一蹴する存在だと言えた。
(まったくさ、みんな成長するもんだよな……)
キリエとロミナは夢をかなえた。
では、自分はどうだろう……?成長しただろうか。はっきりとしないぼやけた夢を目の前にぶら下げたままにしている自分は、果たして。
チャンスがそんなことをぼんやり考えていると、
轟音………!!
巨大な音とともに、振動がびりびりと酒場を揺らした。
「なんだ……!!」
店の女性客の多くが耳障りな悲鳴を上げる。キリエも歌うのを止め、状況がつかめずきょろきょろと辺りを見回した。店の中がにわかにざわついた。
さすがに気丈なロミナは少しだけ身を縮ませたが、みっともなく悲鳴を上げるような真似はしなかった。
「これは……なんかの魔法の爆発か」
チャンスは仲間の魔術師ユーネが大きな魔法を放ったときのことを思い出した。この大気の振動は、そのときのものと似通っていた。
チャンスはテーブルを立ち、店の外へ向かう。
「チャンス!きっと危ないことだわ!行かないほうが……」
その背中にロミナは声をかけたが、チャンスは聞かずに店を出た。
大通りへ出ると、店の中と同じようにあちらこちらから悲鳴が聞こえた。そのだれも彼も、一様に視線を西の空へ向けていた。そして、多くの人間がそちらのほうへ足を向けた。チャンスはその人の波について「爆心地」へ向かった。
西へ向かった人の波はやがて速度を緩め、やがてチャンスの前の壁が歩みを止めた。チャンスは人の間を潜り抜け、なるべく前へ前へ進んだが、それも限界が訪れる。だが、長身のチャンスが爪先立ちで遠くに目をやると、其処にあったものが見えた。
粉々に散った、石造りの建物の成れの果て。
チャンスは近くに居る男を捕まえて、この建物の事を聞いた。
「……ここはカデス教の教会だったとこだよ!わけがわからねえ爆発でふっとんじまったんだってよぉ!近くに居たらしいやつらもみんな死んじまった!」
「あんだよそれ!」
「知るかよ!」
男はめんどくさそうにチャンスを振り払った。
チャンスは、それはもういいとばかりに、首を伸ばして残骸を見る。人の手や足や腹の中身、どの部分なのかわからない人の部品がいくつも転がっていた。見えるだけの腕の数でそれが一人二人ではないことがわかった。野次馬の多くもあまりの光景に、ある一定の線から中へ入ることをしなかった。
不思議なことに、これだけの爆発があったにも関わらず、あたりに火の気は無かった。ここに来るまでも、煙が立ち上がった様子も見えなかったのだ。
「なんなんだ……」
つま先立ちで向こうを眺めていたチャンスが状況の確認を終え、かかとを路面に下ろす。がつ。右のかかとが石ころを踏んだ。それに目をやると、どうやら砕けた教会の壁の破片のようだった。チャンスはそれを手にとってみる。
白い石に、べったりと赤黒い血がこびりついていた。
――翌朝。宿のベッドでチャンスは目覚めた。
爆心地を目撃した後。あれからチャンスは、どんどん押し寄せる人ごみを抜け、ふらふらと宿に帰って来た。よく眠れたものだと思う。ジュデン都に到着したばかりだから、それまでの旅の疲れもあったのだろう。宿に帰ってそのままベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。
部屋のドアがとんとん、とノックされる。
「チャンス、起きてる~?」
チャンスが返事をするより早く、妹のJTが入ってきた。その後ろには魔術師のユーネ。
「あ~あ。寝起き悪いなあ。昨日遅かったんでしょ」
「あ~……ま~な」
JTとのいつもどおりのやり取りである。JTは夕方、宿に着くなりさっさと寝てしまった。宿の場所も、事件があったカデス教会とは程遠いところにあったので、疲れてぐっすりだった彼女は爆発に気づかなかった。そして、その情報もまだ彼女の耳に届いていないようだった。
だが、ユーネは何かしら察しているようだった。
「で、昨夜何があったの?」
「……いろいろ。だれかに聞いたのか?」
あれだけの事件だ。宿の人間との世間話で聞いていたっておかしくはない。
しかし、どうやら違ったようだ。
「いえ。ただ――多分ふつうの人間にはあまり感じ取れないだろうけど――お腹にズン、と来るみたいな、すごい魔力の余波が飛んできたからね」
「魔力……」
「難儀なものでね。結構そういうの拾っちゃう体質なのよ。我知らず、ってやつね」
ユーネは母親から魔の血を受け継いだことにより、その身に強大な魔力を有している。そのせいで、魔力に関する感覚も人間よりはるかに鋭敏である。
「……やっぱり、魔術か」
チャンスがつぶやく。
「ねえねえ、何の話よ」
ひとり、話に取り残されがちなJTが口を挟んでくる。
チャンスは昨夜のことをふたりに話した。酒場に居たら突然爆音が聞こえたこと。爆心地で見た、カデス教会の成れの果てと、散り散りになった幾多の死体。
「うっわ……」
「……物騒な話ね」
世界中を見回してももっとも物騒な女の一人であるユーネがそう呟く。
「それにしても、一度の爆発で大きな教会を倒壊させるほどの魔法なんてね。そんな魔術を扱える術者がこの大陸にいるなんて……」
ユーネは1年前にこの街に来た際、カデス教会を見かけたことがある。石造りの頑健な建物であったことを記憶している。それを瞬く間に崩壊させるほどの術者となれば相当な使い手だ。
この東の大陸は、魔法王国エリクシアがある西の大陸に比べれば“魔術不毛の地”と言っても差し支えないほど、魔術という分野で遅れをとっている。石造りの建物を一度の爆発で倒壊させてしまうようなことができる術者など、知られている限りでは存在しないだろう。そのようなことができる術者は、エリクシアには何人か居るだろうが、そのほとんどが顔も名も知られた高位の魔術師である。このような場所に、しかも忍びで出張ってくる連中ではない。
世界中を見渡せば、それほど名の知れていない強い術者ももちろん居る。例えば――
「火の気が無い、爆発の呪文……あるとは思うけど、危なくて試したことのない魔法もたくさんあるからね」
この無尽蔵の魔力を誇る、半魔の女魔術師ならば、あれくらいの所業はたやすいのである。
「ああ、これはまたどうしたことでしょうね……」
封鎖され、立ち入りを禁止されたカデス教会の跡地で一人の男がつぶやく。新生カデス復活派特務部隊キマイラ分隊・イリーナ隊所属の戦士グレンである。いつもは饒舌な彼も、この状況を目の前にしていつもより気持ち口数少なめである。あくまで気持ち程度であるが。
「いやあ、凄惨な光景ですね。遺体はすでに片付けられているとはいえ、そこかしこ血まみれというのは気持ちのいいものではありませんね」
今は無き建物の残骸を見回してそう感想を述べる。
「まったく……一体何が起こったと言うのか」
誰にとも無くそうつぶやくのはこのカデス教会詰めの僧兵カサルである。教会は崩壊したので『だった』というべきか。彼は常時このカデス教会に詰めていたが、昨晩はこのジュデン都を訪れたキマイラの面々を歓待するためにグレンたちと一緒に酒場へ繰り出していた。 そのために難を逃れたのだ。
「まさかあんたらの策謀じゃないだろうな」
カサルはその切れ長の目でグレンをにらみつけた。
「それは一体、どういう意味ですかね」
「これほどの破壊を起こせる術士がそうそうその辺に転がっているとは考えにくい……聞けばキマイラは並々ならぬ力量を持つ術者を何人も飼っているというじゃないか!」
「ほう、私達を疑っていると。まあ確かに、私達の中にもこの程度のことができる術者は居ますがね」
グレンはただぼんやりと瓦礫の山を眺めている小柄な少女に目をやる。
新生カデス復活派特務部隊キマイラ分隊・イリーナ隊で一番若い少女あんな。世界中を見渡しても数少ない符術の使い手であり、魔剣使いルー配下のキマイラの中でも、ゴーレム使いヴェイ・サーに次ぐ高位の術者である。建物を倒壊させるくらいのことならやってのけるだろう。
「確かに、カデス教会に何らかの仕掛けを施して爆発を起こすというのなら彼女の符術ほどうってつけのものはありませんね」
弁解どころか積極的に不利な証言をするグレン。
「ですが、それは“できる”というだけのことであって、それをする理由にはなりません。教会がなくなるというのは私達にとっても都合のよいことではないですからね。なにせそのおかげで、昨夜は寝る場所を失ってしまったんですからね」
彼らは数日間のジュデン滞在中、カデス教会の世話になるつもりでいたのだが、教会が崩壊した所為で、昨夜は夜遅くになってから自分達で泊まる宿を探す羽目になった。
「ふざけたことを……!どうやらキマイラがカデス神に不忠な連中の集まりだという話は本当のようだな!教会の崩壊よりも自分達の寝床の心配とは……!その発言は中央のほうに通させてもらうぞ」
「その辺にしておいたらどうかな」
ぬっ、と彼らに気配をとらせず、まるで幽鬼のように現れたのは、顔に人のよさそうな、或いは酷薄な笑みを浮かべる一人の少年。その左手は、腰に差した剣の柄にかかっている。水の魔剣使い、若葉である。
「教会がこんなことになってしまってイライラする気持ちはわかるから、多少礼を欠いた言動は気にせずにおいてあげるけど」
「ふざけるな!」
「仮にですよ?」
グレンが口を開く。
「私達がこの教会を爆破した犯人だとしたら、その面子4人に囲まれたあなたは一体どうなるのでしょうね?」
「……なっ!?」
「水の魔剣に貫かれるか、バトルアックスでひき肉にされるか、剣の美技を目の当たりにしながら切り刻まれてやっぱりひき肉になるか、符術で犬も食わないような消し炭になるか、それともその全部か。仮に私たちが犯人だとしたら、私たちの正体を探ろうとするあなたのたどる運命はいかに?」
カサルの背中にぞくりと悪寒が走る。
振り返ると其処には、この戦士たちの隊長が居た。
新生カデス復活派ルー配下の特務部隊キマイラ分隊・イリーナ隊隊長イリーナ。所属年数は先日入隊したばかりのあんなに次いで浅いが、新生カデス復活派に所属した数年間で急激に剣の実力を伸ばし、多くの戦士相手にその類稀な剣才を見せ付けた。キマイラ総司令ルーの信望厚い女戦士である。
その眼力は、目を合わせなくとも相手を射竦ませる強い力を持つ。
「――あたしたちはルー先生が“やれ”といえばやる。そして、先生の邪魔になるようなことはしない。それだけ」
カサルは思わず2、3歩後ずさる。すると、背中が後ろにいたグレンに当たる。
グレンは言葉の足りないイリーナの補足をするように話し出した。
「あなたも、新生カデス復活派におけるルー先生の現在の立場を知らないわけではないでしょう。それを考えれば、私達がこの破壊を行ったかどうかはわかりそうなものですが」
「わ、悪かったよ……アンタの言った通り、イライラしてあんたらにあたっただけだよ……」
「わかっていただけてうれしいです……それにしても」
ここでやっと話が正常に戻った。
「本当に、だれがこんなマネを……」
「覚えがありすぎて、ってところかしら。カデス教の別の宗派なんかは特に」
20数年前のカデス教崩壊以来、それ以前からあった内部派閥がはっきりとした形となり、おのおのが主権を主張しあって、事実上分裂した。だが、カデス教崩壊と一般に認知されている事実も実は間違いで、当時、カデス教内で主流派であった“正カデス神教派”が崩壊したというだけの話で、カデス教という入れ物自体は存続している。そして現在に至るが、今だに主流といえる宗派が現れていない。カデス教はその内部で、いくつかある宗派同士で陣取りを繰り返している状態だ。グレンや若葉たちが所属する新生カデス復活派もその一派のひとつである。
そして、今回崩壊したカデス教会は新生カデス復活派の教会なのである。
「ああ、なるほど。いわゆる内部抗争ってやつですか」
「“内部”といっていい話かどうかは、判断に迷うのだけど」
自分達も一応“カデス教内部”の人間であるが、イリーナ達にその意識や自覚はない。
「う~ん。普段ぼくらのやってることはそういうのとあまり関係がないからね。思い至らなかったよ」
能天気に話すのは若葉。
「ただ、カデス原理主義色が強い我ら新生カデス復活派以外にこれほどの破壊を起こせる術者がいるというのも考えにくいですね。それに、他の宗派の連中が宗内きっての武闘派である新生カデス復活派に突っかかってくる度胸も力量もないでしょう」
「事を構える準備ができた、と考えるべきかしらね……」
「あ」
若葉は腕を組んだまま、何かを思いついたように顔を上げて言う。
「いるんじゃない?度胸があって、力量があって、さらに動機もある。ついでにぼくらの管轄」
「ああ」
いた。
しかも、目下の彼らの標的の中に。
彼ら全員の頭の中に一人の女の姿が浮かんだ。
「何バカなこと考えてんのさ!」
他方、こちらはチャンスとJTの兄妹。ふたりは宿で朝食をとると、そろって宿を出た。ユーネは少しやることがあるというので宿に残った。
「言うに事欠いてユーネがカデス教会爆破の犯人だなんて!」
「バカ!声がでかいんだよ!」
今、街中でカデス教会爆破の犯人がどうだという話題はあまり好ましくない。下手をすれば検挙されかねない。
「決めつけたわけじゃねーだろ。ただよ、それをできて、それをやる理由があって……って考えていったら、疑わしいうちの一人だろ?ついでに言えば、俺もJTも昨晩あいつが何をしていたか知らない……」
「…………」
「忘れてたけどさ……あいつは半分がとんでもない魔力を持った魔人で、悪意の塊をぎりぎりのところで封印してるだけなんだよな」
はじめは本当に冗談のつもりだった。だけどひとつひとつの要素を口にすればするほど、だんだんそれが真実のように思えてきた。JTに対して意固地になっていたのかもしれない。冗談とは言いながら、ユーネへの疑いの念は拭いきれていない。
押し黙るJT。
(あ……やば)
「JT……」
チャンスが声をかけようとしたところで、JTは握りこんだ右の拳を思い切りチャンスの鳩尾に叩き込んだ。
「のおぉっ!!」
体重の乗った良いパンチだった。狙いたがわず鳩尾にめり込んだ一撃に、チャンスは思わず膝を付いた。
「い、いきが、でき、ね……」
「…………」
JTはうずくまるチャンスの様子を少しだけ見下ろすと、チャンスを置いて人通りをかわしながらどこかへ走り去っていった。
チャンスはよろよろと立ち上がり、その辺の建物に寄りかかった。
「……あいつ、本気で怒ると無口になるんだった……」
そして、JTをあそこまで怒らせたのはいつ以来だろうかと鈍く痛む腹を抱えながらそんなことを考えていた。
むかむかした物を胸に抱えたまま、JTは街をねり歩いた。
「――あ~あ……」
あんなに怒る必要なんて無かった。チャンスの話なんて自分が笑い飛ばしていればそれで終わっていたはずなのだ。それができなかったのは、きっと自分でも知らずチャンスと同じようなことを考えていたところがあったからなのだ。ユーネの出自のことなどなんでもないことだ、と自分では思っていたつもりだが、実はそうではないということを思い知ったような気がした。
軽い自己嫌悪に襲われる。
が、それからうじうじと悩むような性格ではない。
「――ふん!」
顔を両手のひらでぱん、ぱんと打つ。
「おし」
そうやって気持ちを切り替える。
当然、それだけで気分が晴れるわけではない。
(ストレス溜めやすい性質だな~……)
人がいないところだったら、腹のそこから思い切り大声を出して頭の中の暑気払いみたいな真似ができただろうが、ここは天下の往来、そういうわけにもいかない。
それに今、そんな馬鹿な真似をして、不審人物として検挙されたらいつ解放されるかわからない。官憲が目を光らせている。いや、カデス教徒に拉致されてしまうという線も、現状では突飛な話ではない。
「ああ、物騒物騒。街というのはかくも面倒なものなのね」
仕方ないからその辺をふらふら歩いて少しずつストレスを削っていこう。JTがそういう結論に思い至り、再び顔を上げて歩き出したところで、彼女の目に見覚えのある姿が飛び込んできた。
「あれ、って……」
JTのずっと前を歩く一人の女。その女が、なにかの店を覗き込んだのだろう、ちらりと左を向いたその横顔にとても見覚えがあった。
動きやすそうな服装に、腰には帯剣していることから、女剣士と知れた。
いや、女剣士自体はこの街では珍しくはない。街で帯剣者とすれ違って、そのうち10人に一人か二人くらいは女なのだ。
(あの顔……それに)
その女剣士は、頭にバンダナ、そのバンダナから長いブラウンの髪がのびていた。確かに見覚えがあった。JT自信も頭にバンダナを巻いているが、これはその娘の真似をしたのだ。
(試しに声をかけてみようかな)
とは思ったが、他人だったらどうしようとも考え、躊躇した。
JTが少し迷っているその間に、女剣士は角をひとつ曲がっていった。
「うわ、うわ」
JTは確証がもてぬままに、あわてて彼女を追っていった。
彼女を追い、一定の距離を保ったままついていくJT……。
(……うわあ!これってもしかして尾行!?すげ~!尾行するなんて初めてだよ!)
なぜかちょっとわくわくしているJT。
それにしても、前を歩く女剣士はなぜかしきりに周囲を気にして歩いていた。角を曲がるときなど、しきりに後ろを確認したりしていた。JTが彼女に気づかれた様子はない。
(あたし案外才能あり?だけど、人通りが少なくなってきたからそろそろやばいかな?)
すっかり本来の目的を忘れているJT。
そもそも人通りが少なくなったところで声をかけようと思っていたら、すっかり機を逃してしまったのだ。いまや女剣士はJTの暇つぶしでしかなかった。
しかし、ゲームは唐突に終わった。
女剣士が建物に入ったのである。
「ちぇっ……つまんないの」
失礼娘であった。
とりあえず近寄っていってその建物を確認する。一般の住宅やアパルトマンでは
石壁の塀に囲まれた門には扉が無く、看板には、
(……剣術道場?)
そう書かれていた。
看板に書かれてあるとおり、ここはそのような施設なのだろう。
剣術が盛んなジュデンにはこのような剣術道場がいくつかある。日に5回、ジュデン各地の小規模な剣術場で行われているジュデントーナメントの予選には道場推薦枠というものがある。有力な剣術道場の門下生が道場主の推薦を得ると、この推薦枠で参加することができるのだ。
(ふうん……剣術道場に通っているんだ)
結局、彼女の正体は確かめ終いになった。ここに通っていることがわかったから後日にでも確かめることはできるだろうが、積極的に確かめる気にはならないかもしれない。
「さて、帰ろっかな」
いい気晴らしにはなった、そう思いつつ、踵を返してきたときと逆の方向へ歩き出すJT。
「…………」
(?)
JTの耳に、壁の向こうから話し声が聞こえてきた。足を止めたのは、少々気になる話題だったからだ。
壁と、それほど背の高くない塀の上から漏れてくる声。野太い男の声と、先ほどの女剣士だろうか、女の声も聞こえる。
JTの耳に最初に入った単語は、『カデス教会』。昨日の今日ということもあり、この手の話題には敏感になっている。いや、おそらくそれだけではない。カデス教会崩壊に絡む話なら現在ジュデン都のそこかしこで話されている話題である。JTが気になったのは、ここに来るまでの女剣士の不審な態度と併せて、だ。
本当に、うまく尾行したものだと思う。
塀の中の会話が続く。
『昨夜は現場を見ていないだろ?』
と、男の声。それに、女の声で返答がある。
『言われたとおり、自重しました。昨夜は懐かしい友人に会ったもので、そのおかげで気がまぎれましたね』
それに対する男の返答はJTには聞こえなかった。おそらく差して興味も無い話で、小さく返事をしただけなのだろう。
『で、どう思う?あの“魔法の宝物”ってやつの威力は。古代エリクシアの秘法を用いた野蛮な宝物、ってな』
『――あの惨状を見ましたが……エリクシア人の神経を疑いますね。あんなもの、不必要な代物です』
『そういうな。昔の人間のモラルってのは総じて今ほど高くないんだ』
『それは、そうですけど……』
『まあ、な。そんなクソみたいな道具でも、クソみたいなカデス教徒と真っ黒で趣味の悪い建物を吹っ飛ばすのに役に立ったでしょうが。人にも道具にも天命ってやつがあるんだよ。まあ、珠も教会も全部いっしょに始末できて万々歳ってとこだな……』
『そうですね』
塀の中の会話を熱心に聞いていたJTは、その会話の内容にある確信を持った。
(教会爆破の犯人……!?)
この話だけでは中にいる二人が犯人だと断定するには根拠が薄いかもしれない。しかし、何らかの関与を持っていることは確かだ。
魔法の宝物。これが教会爆破にかかわったのかもしれない。
話を聞きながらさまざまな推測を浮かべるJT。
「うわっ!?」
JTの視線が突然、塀の頂上にまで持ち上がった。
禿頭の大男が、JTの襟首をつかんで持ち上げたのだ。中の会話に集中していたJTは、大男の接近にまるで気づかなかった。
「なんだてめえは!?」
JTは手足を投げ出して暴れる。しかし、大男の太い腕は微動だにしない。
「さわんな金とるぞこのっは~な~せぇ~!むぐぐ……」
男はもう片方の手でJTの口を押さえ、JTを担いで道場の門をくぐる。
「おい!てめえら!」
大男は塀の内側にいた二人に声をかけた。一人は少々小柄で、固太りの中年男。もう一人は、やはり先ほどの女剣士だった。
先ほどの会話はこのふたりのものだろう。
ふたりは大男の登場に、表情をこわばらせる。
「おめえら、なんの話をしてた?」
大男に質問に、固太りの男が答えた。
「何って、例のカデス教会の件で……」
「馬鹿野郎ッ!」
大男は固太りの男を思い切り怒鳴りつける。
「このガキが聞いてやがったぞ!」
ふたりは脇に抱えられたJTに目をやる。固太りの男はあからさまに「しまった」という顔をしていた。女のほうはJTの顔を見て、それ以上に別のことに驚いているようだった。
JTは押さえられている口を、頭や体を何とかよじって何とか開放させる。
「ロミナっ!なん……ふぐ」
しかし抵抗むなしく、再び口を封じられてしまう。
「ロミナ、オメエの知り合いか?」
「……いえ、知りません」
「こいつ、オメエの名前呼んだろが」
「ジュデントーナメントの客じゃないですか?一応あたしも、本選の優勝経験がありますから」
「ファンってことか、なるほどな。女の剣士は人気あるからな」
「そうですね……」
「おい、サダモフ、縄もってこい」
固太りの男――サダモフ――は言われたとおり、道場の中へ入っていって縄を持ってきた。大男はそれを使い、手早くJTを縛り上げ、さらに口にはさるぐつわをかませる。身動きできないJTは、そのまま地べたに転がされた。
「うー!うー!」
「うっせ、ガキが。おい、ロミナ」
「はい」
「このガキがオメーのファンだっつーことはだ、こいつの担当が誰かわかるよな」
「は……?」
大男はにやりといやらしく笑い、言う。
「バラしたら、きちんと後始末しとけよ。――おい、サダモフ」
「あ、あい」
「カデス教会見に行くぞ。付き合え」
「はあ……」
それから男ふたりは道場への行きがけに見てくりゃあよかったじゃないっすかばきゃーろおれんち反対方向なんだよなどと話しながら道場を後にした。
「……」
ロミナはしばらく、JTの体を眺めていた。しかし、顔にだけは目をやらなかった。後ろめたさが顔ににじんでいた。
うーうーとうなり続けるJT。
やがて、ロミナがJTの顔に手を伸ばし、JTの口をふさいでいたさるぐつわを解いた。
(ロミナっ!)
口を開放されたJTは、思い切り息を吸って吐いた。さらに、いなくなったのをいいことに先ほどの大男のことを毒づく。
「くっそーあのハゲ!エロい縛り方しやがって!何で縄が股の間通ってんだよ!」
しかし、そんなことは彼女にとって重要な問題ではない。
「ロミナ!」
ロミナは、腰に挿した広刃の剣で、JTを拘束する縄を切っていく。やがて、JTは開放された。
ロミナに、JTを殺す意思は無いようだった。
「ロミナ……?やっぱり、ほんとに、カシンのロミナだよね……」
「……カシンのロミナ、ね。屁理屈を言うなら、アタシはもうカシンのロミナじゃないし、あんたもカシンのロミナじゃないわ。アタシにはジュデン都での生活があるし、あんただってそうでしょ」
明らかに本筋から話を逸らしたいだけの意味の無い話だ。だが、この件はそんなことで無視ないがしろにできるような軽い話ではない。
「ロミナ!まじめに話してよ!どうしてあんな連中と付き合ってんのさ!」
「言ったでしょ?あたしにはジュデンの生活があるって」
「ジュデンの生活とカデス教会崩壊が関係があっていいはず無いじゃない!」
沈黙。
激昂するJTに対し、ロミナの顔に表情は無い。
「JT……」
ぼそりと、ロミナが口を開く。
「速くここを離れたほうがいい。今日は道場休みだからあんまりこないけど……わりと熱心な連中はくるから」
「あんたたち……道場ぐるみなの?」
「ごめん……あんまりいろいろ聞いてほしくない……」
「ロミナ……」
「あと……人に言わないでいてもらうと、助かる。あんたが逃げたらあたしは殴られるだろうけど、慣れてるからいい。……幼なじみを手にかけるより、よっぽどましだもんね」
それっきり、ロミナはもう言うことはないというように口をつぐんだ。だからJTは、彼女の前から走り去った。
言わないでいることができるはずが無い。
彼女はJTにとってもチャンスにとっても、同郷の、大切な友人なのだ。
チャンスはしばらくJTを探すために街中をさまよったが、夕方になってもJTを見つけることはできなかった。日が傾き、オレンジの色彩が街を包み始めていた。
仕方なく宿へ戻る。部屋の中には其処には今朝と変わらず調べものに熱心なユーネの姿があった。
「お帰り。JTは?」
「知んね。街ん中ぶらついてるよ」
ぶっきらぼうに言って、ベッドに腰掛けるチャンス。
「……そう。――ああ、昨夜のカデス教会の事件、犯行に使われたと思しきものの資料を見つけたわ」
いうやユーネは一冊の本を取り出し、その中の1ページを広げ、読み上げた。
「今から百数十年前、ジュデンとエリクシアが今よりずっと交易の盛んだった頃ね。その頃の……ねえ、聞いてる?」
饒舌に話し始めるユーネとは裏腹に、チャンスのほうはうわのそらでその話を聞いていた。ユーネは怪訝な顔をしつつ、話を進める。
「――それで、その頃に互いの国の親交の証として……」
しかしチャンスの頭にはその話の内容は届かず、チャンスは憮然とした表情で別のことばかりを考えていた。ユーネもそのことに気づき、手にしていた本を置いて半ばで話をやめる。彼女が本を置いたことにすら、チャンスは気づいていないようだった。
ユーネはふう、とひとつため息をつき、口を開いた。
「またアンタは……いつもいつも、自分ひとりばかりが不幸みたいな顔をするの、やめてよね」
「……あ?」
チャンスも、ユーネのその物言いには反応する。
「……どーいう意味だよ」
「そのままの意味でしかないけどね」
チャンスの頭が熱で沸騰し、彼の腰を勢いよく浮かせた。
昼間の、JTとの話を思い出す。
ユーネのいないところで話した、彼女に対する疑念。ほんの冗談のつもりの話。その根幹にある、彼女の出自の問題。
立ち上がったまま微動だにせず、彼女の目をじっと見る。
手をぐうに握り締め、無理やりに心を落ち着かせる。元来、女に対して強くものを言える性質ではない。母親が原因だろう、そういうふうに育ってきた。
女を前にした時点で、チャンスはすでに負けているのだ。
(あ~あ……)
チャンスは腰に下げたままの剣と鞘に左手をかけ、留め具を外して床にがちゃりと落とした。自身も、ベッドに体を投げ出す。そして、天井を眺めたままで言う。
「しけたツラして悪りかったよ……不幸自慢しておめーに勝てる自信もねーしな」
そのチャンスの腹に、ユーネはぽ~んと机に置いたハードカバーの本を放る。無防備なチャンスの腹に中ダメージ。
「その言い方も、どうも癪に障るわね。厭味に聞こえるわ。まるで、私が不幸の一番星みたいじゃないの。――魔の血を継いで生まれた私だけど、父さんと母さんの間に生まれたことを否定したいわけじゃない……」
両親への想いと魔の血との狭間で、彼女は葛藤する。魔の血を否定することは、彼女の両親を否定することに他ならない。母に魔の血が無ければ……そんな仮定の話は、結局母を否定することに他ならない。
「……悪りい」
真剣な告白であったから、チャンスも今度は神妙な面持ちで謝罪した。
「別に、謝らなくたっていいわよ。きっと他の人にしてみればたいしたことの無いようなことだって、当人にしてみればそれはこの上ない不幸かもしれない。悲しみってそんなものでしょ?」
理屈っぽいユーネにしては言葉が足りないな、とチャンスは思ったが、構わず、
「うん……」
とだけ言って、頷いた。
しんみりした場の空気を洗い流すように、ユーネが口を開いた。
「まあ、客観的に見たらわたしよりチャンスのほうが遥かに不幸だと思うけどね。実の両親の顔すら知らないわけだし、事実上、父親に育児放棄されたわけだし」
「ぶっ殺すぞテメー!!」
体を起こして叫ぶ。
「い~んだよ!俺には育ててくれたカシンの母さんと実の母さんがいるんだから。なんと、母親が二人もいるんだぞ!?」
「はいはい。――それじゃあお互い、案外幸せだったのかもね」
「――ま、そーかもな……。きっと人より余計に幸せだったろうよ、俺達は」
「そうね。その人にしかわからない不幸があるのなら、その人にしかわからない幸福だってある。他の人にはなんでもないことが、自分のことになるととても幸福だったり不幸だったり。結局、心の持ちようかしらね」
そういいながら笑いあう。この二人の間でもこのくらいの冗談や会話が交わせるようになったのだ。
だけど、間に彼女がいなかったら――JTがいなかったら、二人は今でももう少しぎこちなかったかもしれない。もともと肌の合わない二人だったの。
「あの子がいないだけでわたしたちっててんでばらばらだわ……わたしたち、一番年下のあの子に依存しすぎてたかもね……」
「ちぇ……」
チャンスは立ち上がってぱん、ぱんと尻を払い、床に落とした剣の鞘を腰に収める。
「も一回、JTのやつを捜してくる」
「そうしてあげたほうがいいわね。しっかりした子だから心配はないと思うけど」
「……あ、でも、あのさ、さっきの話の続きは……」
先ほどのやり取りを思い出してバツの悪そうな顔を作るチャンス。
「いいわよ、別に。もともと、あたし達とはかかわりのない話だしね」
「そりゃあ、ま、そうだ」
「ええ。とにかく、早くしないと日が隠れる……」
そう言い、窓の外を見たとき、ユーネは戸惑った。窓の外は、まるで深い夜のように真っ暗であった。チャンスが部屋に戻ってきた頃には日が傾きかけていたが、それからいくらも時間はたっていない。せいぜいオレンジの空に紫の色が塗される程度の時間だ。
窓の外へ歩み寄るユーネ。
おかしな闇だった。夜というにはどこか不自然な闇。まるで、窓の外の風景がなにかの影に覆われたかのような、そんな闇。
こつッ。
窓が小さな音を立てた。
それが、もう2度。
外から誰かが、2階にあるこの部屋の窓に小石か何かをぶつけているのだ。
ユーネは物言わず、その窓を開けた。
眼下にいたのは、若葉たち新生カデス復活派キマイラの連中だった。若葉以下、イリーナ、グレン。ただ、符術士のあんなだけは見当たらなかった。
窓に小石を投げつけてきたのは若葉のようで、まるで家まで来て呼び出しをかける気易い友人のようだった。
「……なんだこりゃ」
チャンスが窓の外の異変に気づく。そして、窓の下にいる若葉たちの存在にも。
「おい、この真っ暗はてめえらの仕業か!?」
眼下にいる若葉たちに叫ぶや、チャンスは窓の枠を乗り越え、2階から地上へ跳んだ。
「ばっ……」
思わず身を乗り出すユーネ。しかしチャンスは膝の屈伸を上手に使い、無事に通りの舗装路へ着地した。
「膝を壊すよ」
「うるせー!たかが2階だ!」
「されど2階よ、バカ」
若葉の忠告を怒声で返したチャンスの背後に、浮揚の魔術で体を浮かしたユーネがゆっくりと降りてきた。
「ぐあ……おめーはいちいちやることがスマートすぎてムカつく!」
「アンタが雑すぎるのよ」
「テメー!後で白黒つけてやる!」
わめくチャンスを無視し、若葉たちに向き直るユーネ。
「ケンカは済んだかな」
若葉のそのから口も無視し、敵の動きに気を配る。
不可解な闇に被われた通りに、3つの影。
「――!?」
不意に、このあたりを覆うもうひとつの異変に気づいた。
彼女達がいるこの通りはジュデン都のメインストリートでこそないものの、1日を通じて常にそれなりの人出で賑わう通りである。
それなのに、今は5人の姿しかない。
ユーネの戸惑う様子に気づき、グレンが口を開く。
「この通りは今、あんなのちょっとした魔法で人払いをさせてもらっているんですよ」
「人払い?」
「あんな曰く、無意識にこの場所から足を遠ざけるようにした、いわゆる呪詛のようなものだそうです。例えば、歩きにくいでこぼこ道と均された歩きやすい道を並べたら、均された道を歩くでしょう?そういった原理だそうです。つまり、ここは歩きにくい道として認識されるわけです。面白そうな魔法だったのであんなに聞いてみたんですがね」
「目的地がこの通りにあるなら、でこぼこ道だって入ってくるでしょう?」
「だから『たとえば』、ですよ。また例えですが、この通りに家のある人なら、今日は少しばかり街の中を歩きたい気分だったり、酒でも飲んで帰りたいと思っているでしょうね。要するに、心の志向をそういう風に操作したといいますか」
まるで自分が施した魔法であるかのように朗々と説明を続けるグレン。
「少々大掛かりな魔法でして、あんなは配置した術符に魔力をめぐらせなければいけないので今回は隠れています」
「グレン。アンタ、いらないことまで喋りすぎ」
彼の後ろで眺めていたイリーナが紅蓮の前まで出て諭す。
「つまり、この闇は符術士の娘の魔法で、そしてそこまでして騒ぎに気を配る理由は……例の教会爆破事件?」
この件に関してはユーネもそう難しい推察を必要としなかった。もともとおおっぴらに暴れるような連中ではないが、昨夜のカデス教会爆破の件で件ジュデン都の住民達がこの手の騒乱に神経質になっていることは想像に易い。そんな時に魔術師を一人欠いてまで仕掛けてきた理由がユーネにはわかりかねた。奇をてらうという意図意外には考えられず、必ずしも好機といえないはずだ。ユーネが一人でいた時に仕掛けなかったところから、人数をそぐ作戦であったとも考えにくい。
しかしユーネのその疑問には、イリーナが明瞭な形で回答を示した。
「あなたたち3人……というより、魔術師のユーネ。あたしたちは新生カデス復活派の教会爆破の容疑者としてあなたの名前を挙げているわ」
「!?」
ユーネにしてみれば寝耳に水の話であった。
「何を言い出すかと思えば……」
「カデス教会の堅牢な建物を瞬く間に崩壊させる魔法を持つ者……覚えがあるところであなたに的をかけたというところね」
「そんな乱暴な……」
しかし、この判断は的を射ていないということはない。頑健なカデス教会を崩壊させるだけの魔力を持ち、間接的にではあるが新生カデス復活派とは敵対関係にある。むしろ、ユーネに疑いがかかるのはごく自然な成り行きであると言えた。
だからといって反論をしないわけにはいかない。彼女にとっては事実無根の話なのだ。
「私の目的はルー小父様から魔剣を取り戻すことであって、新生カデス復活派の壊滅じゃないわ!」
「……別に、どっちでもいいのよ」
「は?」
「どの道、あんた達の始末はルー先生に命ぜられていたことだから、教会がどうとかは正直どうでもいいわ。ただね、こういうふうに積極的に動機付けでもしないと、ウチの気まぐれどもはちっとも仕事をしない……」
そう言い、後ろの男二人を恨めしそうに睨む。
「心外だね」
「全くです。今回の件でも随分と骨折りしたというのに。まあ、それを言うならこの面倒くさい結界を維持しているあんなのほうが……」
グレンが言い終わる前に、まばゆい炎の明かりがそれを遮った。
「ああ、うるせえ!」
チャンスの魔剣が上げた炎であった。
「よーするに、ここの通りは魔法で人が入ってこなくて、その中でオメーらと俺らとでいつもの果し合い、それだけの話だろーが!」
話が込んでくると途端に存在感を失してしまうのが彼の最大の弱みである。
「話が早くて助かるわ……」
すらりと剣を抜き放ち、チャンスの前に構えるイリーナ。
「あ?俺の係はそっちだろ?」
チャンスは魔剣で若葉のほうを指してやる。
その無防備な魔剣を、イリーナの剣が強打する。
「ぬあっ!」
バランスを崩し、後方へ跳ぶ。しかしイリーナはすばやくその間合いを詰めてくる。そして、腰に挿した3本のナイフのうち1本を左手で抜き放つ。
チャンスはもうひとつ奥へ跳んで体を持ち直し、魔剣を円弧状に振り回した。
地を擦った魔剣が火を生み、チャンスの前に炎の壁として立ち上がった。
炎自体にはさして殺傷能力もない。しかし、理性でそれをわかっていても炎を前にして本能が怯まぬわけはない。間合いを取るには非常に効果的な技である。
しかし――
「!?」
炎の壁を勢いよく突き破ったナイフがチャンスをめがけて飛んできた。
そのナイフはとっさに身動きできなかったチャンスの魔剣の刀身に当たって弾かれた。軌道が炎で反れていなければ、動けなかったチャンスの腹に命中していただろう。
冷やりとした怖気に身震いをする余裕もチャンスには与えられず、今度は炎の壁を突き破って――イリーナが斬り込んできた。
「フッ!」
心に準備を施し、少しだけ気を張れば大した炎ではない。その炎の壁に体全体で突進し、逆に自分の隠れ蓑として使った。
渾身の力の込もった一撃がチャンスを襲う。
しかし、今度は何とか反応した。上段からの動作の大きなその振り下ろしを正面で受け止める。魔剣が小さい火花を生んだ。
イリーナは左の手で腰の探検の一本を逆手に抜き、空いたチャンスのわき腹を突く。チャンスはそれを身を捻ってかわそうとするが、避けきれず、腹の皮を裂いた。
鋭い痛みが走り、服の布地が黒っぽい赤で染まる。
「ちっ……!」
チャンスがイリーナと剣を合わせ始めて、直後。もう一方の局面、ユーネ対若葉・グレンが始まっていた。
「はっ」
グレンの、まるで槍でも扱っているようなバトルアックスの攻撃を、ユーネは魔力を用いて巧みにかわし続ける。
自分の身の回りに小さな魔力のエネルギー体をいくつも具現化させ、それを盾に用いたり、少しの操作でバトルアックスの軌道を変化させたりしていた。
「なかなかやりますね」
攻め手を休めないグレン。
しかし、ひとつ不可解なことがあった。若葉が少し間をおいて離れ、攻める様子を見せていないのである。
ユーネはイリーナ隊に3人の戦士がいることを考え、自身が戦士と相対することを想定して、魔力と体術を用いたこの防御術の訓練に相当の時間を割いた。恐らく、グレンと若葉が一斉にかかってきても凌ぎきれただろう。
逆に、こうして間を置かれていることにユーネは不気味さを覚えた。
とはいえ、二人相手を想定していたこともあり、相手が単体だと攻めにも手が回る。
「ふッ!」
呪文無しの魔法。炎でも氷でもない、単純な魔力の塊をグレンにぶつける。
「うおおっ!?」
指で弾かれた小さなガラス玉のように、グレンの巨体が吹き飛ぶ。
魔力を放ち、片手をかかげたままの姿勢で息を荒くつく。
実際、この防御術は魔力の消費量が尋常ではない。魔術というのは呪文という手続きを踏んで得られる魔力のエフェクトであるが、ユーネの使うものは違う。呪文を用いた魔術などではなく、魔力を無理やり彼女の意のままに形にした、手続きを踏まないエフェクト。いわば、神話の時代の原初の魔法。呪文を用いた場合より遥かに消耗が激しく、膨大な魔力を有した魔の血族であるユーネならではの技である。例えその魔力のほとんどを封印されているとはいえ、彼女の魔力は他のだれよりも強大である。
彼女が魔力の過度の消耗を覚悟してまでこうした防御策をとるのは、長い呪文を詠唱する余裕が全く無いからである。魔術師の本来の立ち位置である後方であれば呪文を唱える猶予もあったであろうが、前線で、それも腕利きの戦士とやり合っていたのでは、悠長に構えて入られない。
とはいえ、いくら常人よりはるかに優れた魔力を持っているユーネにも、限界はある。
(……調子に乗りすぎて無駄な魔法を使った。あくまで護りに徹するべきだったか)
少し、空気が冷えてきた。長いスカートの裾から伸びた足首が冷気を伝える。
「!?」
グレンとの手合わせに気をとられている間に、辺りに薄ぼんやりとした靄がかかっていた。それは、だんだんと濃度を増し、霧がかかった状態になる。
若葉の水の魔剣によるエフェクトであるとわかった。霧を使った目隠しは水の魔剣士若葉の常套手段であったからだ。
靄は霧になり、じわじわとユーネの視界を奪った。
ユーネは呪文を炎の呪文を唱え、それを払おうとした。
が、それより早く、大きな影がユーネに躍りかかった。
ユーネはとっさに、防御に用いたエネルギー体を影にぶつけた。
すると、その影はあっさりと形を崩し、霧散した。
「え!?」
殺傷力のある魔法ではない。ましてや、人の体を粉々にするほどのものでは。
粉々になった影は、若葉の魔剣が作った密度の濃い霧の塊であった。
(やられた!)
定石どおり、撃った霧の反対方向に人の気配。
神速の剣が閃く。ユーネは反応できない。
キィン、と甲高い音が鳴り、ユーネの左腕に填められていた銀細工の腕輪が弾けとんだ。霧は魔剣の使い手である若葉の視界をも同様に奪う。若葉は鋭敏な感覚をもって霧中の獲物を捕らえることに長けているが、今回は目測を誤った。
2撃目を加えようとするが、先ほどの一撃で転んだのか、接近したにもかかわらずユーネの姿を捉えることができない。
「失敗したな……」
霧の中で若葉が呟いた。
そのとき。
辺りを覆っていた霧が、あっという間に吹き飛ばされた。
「!?」
強い風のような圧力が若葉の体を撫でた。
その風の中心には、毅然として立ち、静かに若葉を睨みつけるユーネの姿があった。
(傷はたぶんそう深くねーな。ひどく刺されたときはそんなに痛くねーもんな……)
チャンスとイリーナは相当の時間、撃ち合った。
攻め、攻めの戦い方。とにかく、そんな戦いをする2人だから、息つく暇も無かった。
こんな美学の無い戦い方をする奴を、チャンスは他に知らなかった。自分も含めて、という無自覚さ。
「こいつ……」
細身の片刃剣に、左手で短剣を使う。左手の短剣の扱いも、まるで両手利きのように巧みだ。実際、そうなのかもしれない。間合いを上手に計り、的確に片刃の剣と短剣を使い分ける。
イリーナのその戦闘方法は非常に独特なものだった。だが、技術的なこととは別の何かが、彼女の強さの根幹にあるような気がした。
(なんつーか、がっついた動物みてーな……)
片刃剣の突きがチャンスの髪を掠める。
しかし、それは『見せ』で、本命は間合いの詰まった左手の短剣。腰の溜めが短剣の動作のためのものだった。
「ヤアっ!」
完全に腹を捉えた――とイリーナが思ったその刃を、チャンスは紙一重でかわした。
(無理でしょ、今のは!)
ロミナの背筋に寒さが走り、彼女は後ろへ数歩跳び退る。
(なに、こいつ……動物?)
決定的な場面で、信じられない反応をする。なにより――
(死線を本能で感じ取っている、そんな感じ……気色悪い奴)
表現は違うものの、お互いに似たようなものを相手に感じ取っていた。
「ひゅー……おっかねー……」
チャンスは腹の前を鋭い刃が横切ったことに身を震わせた。
「おめえ、若葉より強ええんじゃねえの?」
「さあね……」
「ちっ。すかしやがって、この動物女が」
「あ゛?」
思わぬ一言に、イリーナのこめかみがひくりと蠢く。
「動物はアンタでしょ」
「んだと~?ん~、まあよ、俺の身体能力はさながら獣のよう……」
「脳みそがよ……」
「んだとてめー!そっちこそドーブツの本能だけで動いてんだろーが!この肉食獣が!」
「言わせておけば……!」
すっかり頭に血が上ったイリーナは、まるで本物の獣であるかのように、はじけるようにチャンスに躍りかかる。チャンスの挑発に乗った形になったが、チャンスの方にそんな意図は無かった。単なる罵り合いなのだ。
飛び掛るイリーナの、その行く手に、
「!!」
炎の壁が立ち上がった。
「学習能力のない!」
先ほどと同じように、炎の壁に短剣を投げつけようとするイリーナ。
しかし、
「何!?」
それより速く、炎の壁を突き破ったチャンスの姿がイリーナの視界に飛び込んできた。
「うおおおお!」
炎を纏ったその姿は、まるで炎の神に仕える軍神のようであった。
チャンスの渾身の力が込もった振り下ろしがイリーナを捉える。
イリーナはその一撃を、左手の短剣で受けてしまった。炎の壁に投げつけようとしたので、とっさにそちらの手が出てしまったのである。実際のところ、彼女は本当に両手利きであり、左手が出たのはそのせいでもあった。いや、左手が出ていなかったら、彼女は確実に斬り伏せられていたが。
「くっ!」
短剣に加えられた重さに、イリーナは左の手首が軋むのを感じた。短剣を取り落とす。
(馬っ鹿!左手壊れんぞ!)
チャンスの刃が止まっただけで驚異的なことだった。片手で、それも短剣でチャンスの一撃を止めることなど、2階の窓から投げ下ろした家具を地上で受け止めるようなものだ。全身のバネでうまく力を逃がしてやったのか、それにしても並の筋力ではない。
だが、イリーナの左手が壊れたことは明白だった。
(くそ、今の一撃で、腕一本じゃ安いぜ!)
すかさず、連撃を加えようとする。しかし、会心の一撃を止められたチャンスが動揺から立ち直るより速く、激痛に耐えたイリーナの右腕――片刃の剣が飛んだ。チャンスの手元に飛んできたその一撃に、チャンスが魔剣を取り落とし、弾かれる。
さらにもう一撃、とは簡単にいかなかった。あまりに接近しすぎ、イリーナの剣はとっさに行き場を失った。そのイリーナの右腕をチャンスが掴み、思い切り握力を込め、握り締める。
「ぐあぅっ!」
イリーナの顔が苦痛にゆがむ。右手の指が開き、片刃の剣が手から零れ落ちる。さらに、イリーナに足を掛けて転ばし、地に組み伏せる。
倒れた拍子に、イリーナを掴んだ手が離れる。
解放されたイリーナの右手が、すばやく腰に伸びる。3本の短刀の、最後の1本に。
「もう一本残ってたってか!」
短刀を握った腕が、チャンスの首に伸びる。
これもチャンスは紙一重で見切った。いや、見切ったというよりは、見てから反応した。短刀はチャンスのあごの皮を一枚裂くに留まった。
死線を巧みにかわす、人の及ばない反応速度。それをこれ以上無い間近で見せ付けられたイリーナは、ヒステリックに叫んだ。
「動物がッ!」
「しつけー、んだ……」
左の拳でイリーナの右手を打つ。チャンスに思い切り握られ、握力の弱った彼女の右手はあっさりと短剣を吐き出した。
そして、右の肘を、
「よッ!!」
彼女の腹に、体重を乗せて落とす。
呻く間もなく、イリーナは昏倒した。
「……ふぅ――――」
イリーナから離れ、その辺に座り込んで深く息をついた。
「女の戦い方じゃねーよ、こんな泥試合……この動物女が」
気が緩むと、腹とあごの傷が痛んできた。腹を中心に、着衣がどす黒くなっていた。あごから流れる血も襟口を汚す。火の壁を抜けたせいで火傷もいくつかある。
しかし、これで安心してはいられない。
ユーネのほうがまだ終わっていない。
「ああ、なんかいやだなあ~。めんどくさそーだなあ……」
熱い蒸気が、チャンスの傷を撫でた。チャンスは、その気配に気をとられ、イリーナの姿がいつの間にか消えていることには気づかなかった。
辺りの建物の壁や窓、舗装路が、奇妙な力で爆ぜる。災禍の中心は明白だった。
「…………」
封印の腕輪を破壊されたユーネは、魔性の力と魔力を解放しかけている。
「……あのユーネって娘、危ないとは聞いていたけど……」
周囲に起こる爆発――そのすべてが、若葉の周囲で起こっていた。
若葉を狙っていた。しかし、逸れているのか、逸らしているのか、その爆発が若葉にお起こることは無かった。
「命運、握られてるかな……あんまりいい気分じゃないな」
若葉はユーネの姿を見る。
一目で、尋常ではない様子だとわかる。さきほどまでの落ち着いた様子は影を潜め、目には狂気が宿りかけている。その視線は若葉を捉えていたが、若葉を見ているのかも定かではない。
ユーネの封環の下から出てきたのは、赤い目の3頭獣を模した意匠の刺青だった。その刺青は、そばを走る斬り傷から流れた血に、半ば汚れていた。
「あんまり趣味が良くないなあ……」
若葉は自分の命運をがっしりと握っている彼女の左腕を見て、そんな場違いな感想をつぶやいた。
「さあ、どうしようか……」
下手に動けば、もしかしたらその辺の石の壁と同じように砕け散ってしまうかもしれない。しかし、動かなくてもやがては砕け散るかもしれない。
選択肢はなさそうだった。やって散るか、やらずに散るか。後者を選ぶ者は愚か者でしかない。
剣を構え、前方へ走る。
「あ!?」
若葉の視界に、蚊帳の外にいた男の姿が飛びこんだ。グレンである。
グレンがバトルアックスを掲げ、今まさにユーネに振り下ろそうとしていた。
「うおおおお!」
そのグレンに、ユーネが振り向いた。ユーネが視線を向けると、そこに爆発が起こった。
「うお!?」
その爆発は、確実にグレンを飲み込んだと思われた。だが――
「!おおっ……!?」
グレンの前に、魔力の壁が展開していた。腰を抜かして尻を着いたグレンはその壁に護られていた。
そしてどこからとも無く、魔力の壁を紡いだ魔術師が姿を現し、グレンのそばに立った。
「あんな……」
あんなは肩にイリーナを抱えていた。その額には、以前使ったことのある軽量化の符が張られていた。
――今の壁で魔力のストックが限界。
現れるなり、あんなはそうぼそりとつぶやいた。
彼女の魔力が限界、ということは、彼女がこの通りに展開している結界を、もはや維持できないということだった。
――アレは危ない。逃げなきゃやばい。
彼女にしては口数多く、そう言った。そして、一枚の符を取り出して、魔術を展開させる。符は燃え上がり、その場を炎に包む。
ユーネが腕を一振りすると、その炎は消し飛んでしまった。炎が消えると、その場にはすでに3人ともいなかった。そしてまた振り向く。若葉の姿もすでに掻き消えていた。
引き際を間違わない連中であった。
「ユーネ!」
チャンスがユーネに呼びかけると、ユーネはチャンスと確認もせず、魔力を放つ。
チャンスの耳の横で空気が爆ぜる。
「てめっ……俺だっつの!」
大声でユーネに確認を促す。
ぼんやりとした様子でチャンスを確認するユーネ。
ドン!
「ぐあ!」
今度はチャンスの頭の上で爆発。
「くおら馬鹿魔術師!てんめ~、わかっててやったろ今!」
「……叫ばないでよ。本当に、……余裕、無いんだから」
そう言うユーネの姿には、本当に嘘が無いようだった。
今、ユーネを蝕んでいるのは彼女の身の内に封印されていた魔性である。ユーネは因業の種族である魔種の血を受け継いで生まれた半魔である。その魔力の量は、神に近い。ユーネが13歳の時、彼女の両親は魔性を封印するために、彼女の左腕に封印の腕輪をはめた。
「……腕輪は」
チャンスは道端に転がる、銀色の腕輪の成れの果てを一瞥した。
「ちっ……」
チャンスは頭に巻いている白地の鉢巻をほどき、おもむろにユーネに近づく。
「うぅ……!」
するとユーネは、まるで獣のように唸り、チャンスの肩に爪を立てる。
「黙ってろっての!この動物女2号!」
ユーネの腕を払い、手に持った鉢巻を、ユーネの左腕に巻き始めた。二の腕の、3頭獣の刺青が描かれた箇所を。
鉢巻はユーネの細い腕に3重にも巻かれた。
3頭獣の刺青が隠れると、ユーネは平静を取り戻した。しかし、まるで余力が残っていないといったように、その場にへたり込む。
「正気に戻ったか」
「……こんな汚い布巻かれたら、傷が悪くなるわ」
「それだけ減らず口が叩けりゃあ上等だこの野郎!」
穏やかな喋りの途中で切れるチャンス。
「大体、血はこびりついてたけどよ、傷なんか何にもなかったぜ」
「……そう」
おそらく、封印されていた魔力が一時的に体に満ちたため、肉体が活性化し、傷を塞いだのだろう。
「どうする?腕輪、壊れちまったけどよ」
「こっちの封印があれば十分よ……」
鉢巻が巻かれた左腕を撫でる。
これは、母とは別の魔術師に施してもらった新たな封印である。旅の途中で出会った、酒飲みの老魔術師。魔を象徴する3頭の獣を腕に彫り、その絵柄を隠すことで封印と成す。この術を施して以降、ユーネの中の魔を封印していたのは、腕輪ではなく老魔術師の術であった。刺青を隠しさえすれば、封印の腕輪ではなくても良かったのだ。
ただ、ずっとその腕輪を填め続けたのは、彼女なりに愛着があったからだ。
「ずっとつけてたからね」
ユーネは砕けた破片を拾い集める。あたりが暗くてよく見えず、大きな破片しか拾えなかった。
「さっさとしろよ、このあたりの魔法が解けたから人が来るぞ」
チャンスは空を見上げる。不可解な闇が晴れ、本物の夜の闇が辺りを包む。
「ちぇっ……連中、てめーらだけきれーに消えやがってよ」
「……アンタは私に優しくない」
「俺に何か期待してんのかよ」
「するか。この野生児」
「まあよ、俺の身体能力はさながら獣のよう……」
「うるさい」
「ぐあ」
チャンスはおもむろに、ユーネを背中に担ぎ上げる。
「ひゃっ……」
突然のことに声を上げる。
「なによ……」
「――重ッ!俺の生涯で背負った中で史上3位にランクする重さだ!こりゃあ獣の筋力を持つ俺で無けりゃあ担げなかったぜ!」
「それが言いたかっただけかっ!」
「ちなみに4位はカシン村の大きなおじぞうさんだ」
「何で私より下位よ!っていうかなんでそんなもの担いでんのよ!」
首を絞めにかかる。ユーネ。
「ぐげえええ……」
と呻きながらも構わず、とことことその辺の人通りのなさそうな路地へ入っていく。
だれにも見られていないとはいえ、路地のあちらこちらには戦闘によるいくつかの破壊痕(そのほとんどはユーネの仕業である)が残った。人が集まればいくらかの騒ぎになることは必至。さらに、血まみれの様で宿に戻ろうものなら、またあらぬ誤解を受けてしまうだろう。だからしばらく、この場を離れてやり過ごしたほうが都合が良いとチャンスは考えたのだ。
チャンスがユーネを背負って路地裏に入り込もうとしていると、
「チャンス!」
と、路地の向こうから呼びかける声がした。
「JT?」
背中に背負われたユーネが声を上げる。
チャンスたちを見つけたJTは、息を切らしながらチャンスたちの元へ走り寄る。チャンスが促し、一緒に路地裏へ進ませる。
「よかったわ、何事も無くて」
「うん、ごめん……」
見ると、JTは肩で息をしていた。随分疲労しているように見える。目も真っ赤だ。
「なんか、道に迷っちゃって……急いできたつもりなんだけど、この路地がどうしても見つけられなかったの」
JTの方向感覚や記憶力は決して劣ったものではない。彼女が迷った理由は、おそらくあんなが使った魔法のためだろう。
しかし、ただ帰るために迷ったにしては、JTの疲労の度合いは大きすぎるように見えた。まるで、彷徨う間もずっと走ってきたような、そんな疲れ具合だった。
「なんかあったのか?」
「……ロミナが」
「ロミナ?あいつに会ったのか?」
そういえば昨日のドサクサで、ロミナのことは話せなかったなと今になって思い至る。
「お前も見かけたのか?ジュデン都も案外狭いもんだな」
「そんなことはいいよ!ロミナが……」
「――ねえ、その娘、方向音痴だったっけ?」
かつ、かつと、ブーツが音を鳴らす。音の主は……
「――ロミナ?」
昨夜あったばかりの友人との連夜の再会。しかし、昨夜とはその意味が違えていることを、チャンスは感じ取っていた。
「JTったら、放してやったらあっちこっちうろうろして、ちっとも目的地にたどり着かないから、疲れちゃった」
「あたしをつけてたわけ……?」
不信の目でロミナを見るJT。
「ごめんね、そういうこと。次からは歩いてもらうと助かるな」
会話の流れに、ユーネどころか幼なじみのチャンスですら取り残されそうになる。
ユーネは、JTに基本的な質問をする。
「JT、この人は?」
「俺に聞きましょうよ!?」
自分を背負っているチャンスに聞かず、わざわざJTに聞こうとするユーネに突っ込む。
「じゃあ、誰よ」
しぶしぶチャンスに聞く。
「ああ。俺達と同じカシン村の奴さ。村にいる頃はよく一緒に剣の練習をしたんだ」
「ふうん……」
ユーネ自身もカシンの村に立ち寄ったことがあるが、ロミナの姿に見覚えは無い。
「……JT?」
JTはロミナが現れてからずっと、彼女を睨みつけていた。いや、そればかりではない。彼女に対して強い警戒心をも露わにしていた。
「どうしたの、JT」
「ロミナは――」
JTはロミナの目を見据えたままで言う。
「――ロミナはカデス教会崩壊に関わってる……」
「あ……?」
チャンスは背中に背負ったユーネを地面に下ろし、訝しげにJTの顔を見る。
「何言ってんの?お前」
「だって……」
「本当よ」
そう答えたのはロミナ本人。ロミナの発言に、3人の顔が驚きに染まる。JTとて、本人の口からはっきりとそうだと聞いたわけではないのだ。
ロミナのその口ぶりには、何をてらう様子もない。
「あたし達がやったのよ。エリクシアの趣味の悪い宝物を使ってね」
「……人間の魔力を吸収して破壊力に変換する魔法の球」
「…………!!」
腰を下ろしていたユーネがよろよろと立ち上がりながら言う。
「推測が当たっていたようね。エリクシアの宝物、って言ったところで確信を持ったわ。あれほどの威力を持った宝物も数少ないしね」
「何なの、それ。エリクシアの宝物なんでしょ?なんでジュデンに」
当然の疑問をJTがぶつける。
「百数十年前、エリクシアとジュデンは今よりもずっと交易が盛んだったのよ。その魔法の球というのは、今から百年ほど前、エリクシア王室がジュデンの王に贈った物だという記録があるわ」
「そんなものがどうして手に入ったの!?」
「昔からジュデンの宝物管理はずさんと評判だったらしいわ。宝物の管理者が年数回の一般展示にもお呼びがかからない宝物を着服して、自分の屋敷のオブジェにしたり市場に流したり。現王のフォルガ王に代替わりしてからましになったとは言うけど、どうだかね。よりによってエリクシア王室からの贈り物が横流しされているようじゃ……」
「フォルガ王が嫌ったんじゃないのかしらね。あんな残酷で、悪趣味な宝物を。そして、そんなものを作ったエリクシアをね」
ユーネの話にロミナが噛み付く。話の流れは、まるで愛国者同士の論争である。ユーネはエリクシア国出身だし、ロミナは生まれこそ領外ではあるが、れっきとしたジュデン都の市民だ。
次にロミナの口から飛び出したのは、エリクシア人に対する痛烈な批判。
「人間の腹の中で魔力を吸い尽くし、そのすべてを爆発の衝撃に転化する、最悪の道具……そんなものを作ったのよ、エリクシア人はね」
「!?」
JTの顔が驚きに染まる。
「お腹の中で、って」
ロミナが答える。
「そのままの意味よ。飴玉くらいの宝石で、それを飲み込むとすべての魔力を吸い取られ、飲んだ人間もろとも爆発する。威力のほどはご存知のとおり。最低最悪の拷問道具にして兵器」
「違う!開発意図はもともと罪人を処刑するための道具だった。あれほどの規模の破壊をもたらす代物じゃなかったはずなのに、人間の体から得られる魔力が予想をはるかに上回って大きかった、というだけ……」
ユーネが自国の名誉を護らんという気概で必死に反論する。
「威力がどうとかは関係ないでしょう。論点のすり替えはみっともないわ。問題はエリクシア人がそれを作り続けたという事実。結局、その後もその拷問道具の研究を続け、有事における兵器として手元に置いた。そしてそれを、当時の友好国であったジュデンに贈るという無神経さ……そもそも、罪人の処刑にあんな残酷な道具を作るなんて神経を疑うわ。エリクシア人というのは自分の手を汚すのがよっぽどお好きじゃないようね。剣が一本あれば処刑には十分でしょう。建国当初からやってるっていう排ミーム法も気に食わないわ」
「……我が母国のことをよく存じてらっしゃること」
「無関心なものは本当に知識がないけど、嫌いなものは時として好きなものと同じくらいに関心があるでしょう?」
「……なるほどね」
二人の会話が途切れたところで、沈黙を護っていたチャンスが口を開く。
「おう、ロミナ」
「…………」
ロミナは返事をせず、視線だけをチャンスに移した。
「そんでよ、おめーらは、そのくだらねえ道具を使ったんだろ」
「…………」
答えない。
「俺はよ、神様なんてのは自分の腹の中にいる神様しか信じてねえから、カデス教だなんだってのは言うつもりはねえし、エリクシアの昔のことまでどーだこーだ言いたくもねえ……ただよ」
強い目でロミナを睨み付ける。
「おめーがうだうだ言ってる連中と同じことをおめーがやったんなら、結局おめーもそいつらと同じだな!」
しばしの沈黙。
そして、ロミナが口を開く。
「今更言われなくたって、そんなことはわかっているのよ。あたし達がやったことが愚劣なことだって言うのは……だけど他人に改めて言われると、腹が立つ」
ロミナとチャンスは同時に、腰にさした剣を抜き放った。
一撃目。同時に放った攻撃は、お互いの剣を強かに打った。そのまま、お互いの剣の鍔を競り合う形になった。
「村を出てから、ろくでもねえ連中とつるんでたわけだ、てめーは!今度は素性を知った俺とJTの始末ってわけかよ」
「事情も知らないで知った風な口を聞くな!」
純粋な筋力では勝るチャンスだが、技が巧みなロミナはチャンス相手に一歩も引かない。
「他所から来て成り上がるには、腕1本剣1本じゃ間に合わないのよ!」
刃を滑らせ、チャンスの左腕を切りつける。浅く裂かれたチャンスの左腕から血が滴る。
「村にいた頃、チャンスと剣を打ち合ってた頃は気にならなかったけど、アタシは案外繊細な子だったのね。ジュデンに来て1年間、アタシはジュデントーナメントの予選すら勝ちあがれなかった。明らかにアタシよりへたくそな連中相手にね」
ロミナは怪我がチャンスの膂力を奪っているとみて、4年前よりも体格に差がついたチャンスを相手に真正面から挑んだ。
「自分の心臓の小ささに涙が出た。それからもずっと、自分の剣の技量だけは信じて予選に参加し続けた。そして、やっとの思いでたどり着いた本戦。1回戦負け。そしてまた予選の日々……」
真っ向から挑むと見せたロミナの先方は実はふりで、一撃の威力にこだわらず、チャンスの体の末端部を切りつけ流血を促す戦法だった。血を奪うことはただ動き回らせることよりもはるかに体力を奪う。
「アタシは焦ったわ。底辺で1年も足止めを食ったことにね。こんなところにはいられないと思った。そんなある日、考えたわ。上からスタートすれば何かが変わると思った。アタシにはそっちのほうが性に合ってると信じて。そこで思い立ったのが、剣術道場からの道場推薦枠。技量は確かだから、予選を勝ち抜くよりは個々で認められて推薦を得るほうが早道だと思った」
ロミナの剣の技は実に巧みだった。幼少の頃にはすでにどんな大人よりも卓越していた技が、さらに昇華されている、チャンスはそう感じた。一手一手が、確実にチャンスを追い詰める。
「道場主は確かに超一流の剣士だった。だけど、ろくでなしだった。殴られたし、いやなことも言われた。だけどそんなやつのために、おべっかもつかったし、化粧もした。建前でものを言った」
さすがに、体のあちこちに傷を負ったチャンスの動きは鈍い。このままじわじわと血と体力を奪われ、止めを受けるまでも無く血に倒れ付とも思われた。
「道場主がエリクシアの魔法の球を持ってきたのは4日前。まるで新しいおもちゃを手に入れたみたいに嬉々として言うのよ、“エリクシアの処刑道具を手に入れた”ってね。反カデス道場主は、それをつかってカデス教会を壊すといったわ。浮浪者にその玉を飲ませてカデス教会に放り込んだ……要するに、今騒がれているカデス教会爆破事件は、道場主の単なる悪趣味……」
傍で、チャンスとロミナの対決を眺めていたJTは、自嘲気味にものを言いながら剣を振るうロミナの姿を見てある思いを描いていた。
そもそも、道場でJTを捕まえた時点で彼女を殺せば、チャンスに事の真相が漏れることはないし、チャンスを始末する必要も無くなる。同郷のJTを殺すのをためらったというのなら、もちろんここへふたりを殺しには来たりはしない。
彼女は多分、チャンスに会いにきたのではないか……。
「ロミナ!」
JTは叫んだが、その声はロミナに届いていないようだった。
「チャンス……アンタと打ち合ってたときが一番気楽だったかもしれないね、って、今なら思うよ」
ロミナの剣が詰めに入る。
広刃の剣が天を始点に弧を描き、チャンスの足元を薙ぐ。刃はチャンスの足に傷を負わせることは無かったが、その攻撃でチャンスは大きく体勢を崩した。
「いつも必ず、あたしが勝ったからね!」
文字通り、必殺の一撃。その刃は、刀身の半ばで確実に、チャンスの咽喉を掻き斬るはずであった。しかし、ロミナの掌はその手ごたえを感じることができなかった。
何も無い空を斬った。
「ッ!」
チャンスは体を投げ出し、仰向けに地べたに転がっていた。
ロミナがすばやく反応して地べたのチャンスに剣を突き立てれば、それで彼女の勝ちだったが、それはできなかった。
仕留めたと確信を持って放った一撃だったのだ。次の動作の準備など無かった。
(なんで……?)
その隙に、のろのろと立ち上がるチャンス。そして深く息をつく。
(かわせるわけ無いじゃない……あんなの)
このようなチャンスの反応は戦闘において幾たびか見られた。
まるで、本当に危険なその一撃を知っているかのように、死出への刃を信じられない反応速度でかわす。
決定的な一撃をかわされた相手は自信を持ってはなった一撃をかわされたことに驚愕し、恐怖や不安、動揺、焦りが生まれ、剣の筋を乱す。先に対戦したイリーナもそうで、決定的な一撃をかわされたことへの動揺を拭えず、それが彼女の勝機を奪った。
チャンスが立ち上がると、それを待っていたわけではないだろうが、それにあわせたようにロミナが打って出る。
ひどく乱れた剣筋。チャンスは一つ一つ丁寧に捌いていく。対して、先ほどの会心の回避を境に、チャンスの動きは見違えるほど落ち着いていた。
そして、攻めに転じる。
まさに猛攻。左腕のダメージをものともせず、猛然と打ちにかかる。
腕に、足に、ロミナの切り傷が増える。精神的には、チャンスはロミナを圧倒していた。そして、その威容に屈していることをロミナは感じていた。
(くそ……)
しかし、技量ではまだロミナに分があった。ロミナは2、3のフェイントを混ぜ込む。元来深読みや駆け引きに疎いチャンスはロミナのフェイントに幻惑される。
(変わらないな!)
そして、右袈裟のフェイントから、地を這う横凪ぎ。
(今度こそ捉えた!)
しかし――
(!?)
振った剣に、骨を断つ手応えは無かった。またしても、決定的な一撃は空を斬ったのだ。かわしたことすら確認できなかった。
今の一撃なら、どんなに身体能力の発達した野性の獣ですら、あきらめて斬られただろう。それをチャンスは、紙一重で跳んでかわした。まるでつま先とふくらはぎの筋肉がそれまでの経緯を無視し、脳や体と連携せず、一個の生き物のとして反応したかのように。
身体能力や運動能力というのは訓練によってある程度の向上が見込めるだろうが、それよりも個人の資質に因るところが大きい。反応速度もしかり。チャンスのあの反応速度はロミナと離れた数年間に得たものではなく、もともとチャンスに備わっていたものなのである。それが、チャンスの強心臓が与える無理な運動を助けた。
身体能力と、その使いどころを間違わないチャンスの中の無意識。これこそが、チャンスの強みであった。
そして、この一瞬の邂逅で、ロミナはチャンスと自分の力量を悟った。
「そうなのね……チャンス、アンタはこういう危ない場面じゃなきゃ力を発揮しない。きっと、無意識にそうしてる……村にいた頃は、所詮アタシ相手と思って、アンタは無意識に手を抜いてた……」
ぎゅ、っと剣の柄を握り締める。
「こんな、中途半端な剣の才能なんかより、アンタの心臓が欲しかった……!」
いきりたって剣を振るう。剣の型が体に染み付いた振り。だがそれはすでに剣術のレベルに到達していなかった。
「無いものねだりしてるんじゃねえ!」
チャンスが力任せに振った一撃はロミナの剣を跳ね飛ばし、どこかの家の屋根までとんだ。
そして、自分の剣をその辺に投げ捨て、ロミナの胸倉をつかみ、叫んだ。
「夢を追うのがつれーなら、やめっちまえ!!」
ロミナはしばし呆然とし、チャンスの顔を見ていた。やがて、その目から涙がこぼれ――
「うん……」
小さく呟いた。
この翌日、カデス教会爆破の犯人達は告発され、首謀者はじめ数人の犯人は新生カデス復活派に引き渡された。ジュデン国はこの件に関して、裁きをカデス教会に委ねる方針を定めていた。表沙汰にされたくない事情もいくつかあったのだろう(この後、ジュデンの宝物管理の方法が大きく見直された)。彼らは密告者とコンタクトを取り、首謀者の名簿をカデス教会に提出。犯人グループは首謀者はジュデン都のとある剣術道場の道場主と、その配下数名。密告者はその道場に所属していたジュデントーナメント参加の女剣士。彼女は自身とこの件に関与していない門下生全員の安全の保障と引き換えに(そして、ジュデンの過失を人質に)首謀者達の情報を提供した。ジュデン国が行ったのは情報の引渡しと、密告者の女の要求を遵守するようにとの指導のみだった。密告者の女は事件の全容を把握していた程度には事件に関係していたが、結局、首謀者、実行犯いずれでも無かったこともあり、恩赦を受けることができた。
「結局……」
ソファにかけたグレンが口を開く。
「あの3人組は関係なかったということですねえ。まあ、わかりきったことでしたけど」
やわらかいソファに身を預ける。
ここはジュデン都内のカデス教会新生カデス復活派の信者が持つ別宅である。この屋敷は、信者の厚意で使わせてもらっている。グレンたちは殉教したカデス教会の司教たちの補充が到着するまで、この屋敷で留守番をするように言いつけられていた。
それも、今日で5日。ほとんどこの屋敷に篭りっぱなしである。カデス教会崩壊後の内外の様々な問い合わせに対応していたからである。この屋敷はジュデンにおける新生カデス復活派の仮の窓口と化していた。受付にはグレンがたち(いかにも不似合いだった)、事務業務(これは“というほどのものでは”ない)は若葉、あんな、そして教会の生き残りのカサル。
朝から夕方まで。まるで事務職員である。困りものなのは、新生カデス復活派以外の要件まで持ち込まれることである。カデス教会内での分派があり、ここはそのひとつ“新生カデス復活派”の窓口である。その事実は、一般では驚くほど認知されていない。そんな利用者が尋ねるたび、グレンは懇切丁寧に説明をしてやり(一人当たり平均15分)、丁重に送り返した。
「いやあ、案外向いているかもしれませんね」
とは本人の自画自賛である。
「退屈だよ、机に座っているなんて」
と、若葉。
「ルー先生が速く命じてくれれば、すぐにでも引き揚げるのに」
「そんな勝手もできないでしょう。あの方にも派閥の中での立場というものがあるでしょうしね」
「そんなの気にするひとじゃないよ。新生カデス復活派に入ったのだってきっと『何?破壊の神の教団ですか!?それは面白そうですね。年に1度教団主催で大破壊祭りとかが行われるんでしょうかね~。楽しそうですね~』とか思ったからだよ、多分」
とんでもない言い草だった。
「そんな動機で入信したひとが面子なんて気にするわけないじゃない」
そんな動機で入信したかどうかは定かではないが。
「入信の動機はともかく、大破壊祭りは楽しそうですね。帰ったらルー先生に企画を提出してみましょう」
その様子を、カサルが怪訝そうな表情で眺める。
「あんたらの上司って、どーいうやつらなんだ……」
こうしてまた、教団内でキマイラに対する不信感が募っていく。
本日も業務が終わり、夕飯の時刻。元来まめな性質のグレンと若葉は料理ができるが、作るのは朝、昼食のみ。ここにいる間、夕食は基本的に外食となっていた。
その前に、彼らは寄るところがあった。
療養のため施療院に入院したイリーナの見舞いである。彼女は左の手首をぽっきり折り、筋も伸びきっていた。されに右腕にもひびが入っており、ついでにアバラも3本折れていた。しばらくは痛みに呻いていたという。
「入院して5日目ですからね。そろそろ飽きてでてくるんじゃないですか」
「あはは」
そのとき、部屋のドアがノックもなしに開く。
「あ」
そこにいたのは、胴体の嵩が若干増し、左腕が芋虫になったイリーナだった。
「イリーナ!?」
ドアのそばのイリーナに若葉が歩み寄る。
「腕は大丈夫?」
「右腕はね……」
「どうしたの?必要なものがあったなら持っていったのに」
「必要ないわよ。退院したんだから」
ソファまで歩み寄り、腰掛ける。
若葉はソファの背もたれに腕をかけ、イリーナに質問を続ける。
「もう平気なの?」
「命にかかわる怪我じゃない。平気よ」
「腕に触っていい?」
「あたしにアンタの生殺与奪の権限を与える気があるならね……」
「怪我人のクセに強がるし」
そばで聞いていたグレンも話に加わる。
「それにしてもどうしてでてきたんですか?まだしばらくは拘束されていてもおかしくないと思いますが……」
「食事がまずくてね」
「イリーナが作ったのより?」
「まあ、アタシのよりは……あん?」
グレンはそのやり取りに小さく笑う。
「仕方の無い人ですね。それでは今日はイリーナの快気祝い……には早いですね。退院祝いといきましょう。けが人を歩かせるわけにはいかないですね。あんな、馬車を手配してください」
こくりと頷くあんな。彼女は事務仕事をやっていると見せかけてじつはずっと術符を製作していた。その道具の後始末をし、部屋を出て行く。
イリーナは綿と組み木と包帯でぐるぐる巻きの左腕を見る。骨折は初めてではないが、戦闘でここまで手ひどくやられたのは初めてだった。左手を見ながら、イリーナは若葉にぽつりと話しかけた。
「あんた、炎のやつを相手にするときさ……」
「ん?」
「……なんでもない」
恐ろしい相手だった。追い込めば追い込むほどプレッシャーをはねのけ、対抗してくる。無意識に潜んだ危機を察する能力は非常に厄介なものだった。
若葉がチャンスを相手にするときは、いつものらりくらりといった戦い方をする。戦績こそ譲っているが、チャンスを相手に大怪我をしたことは無い。
若葉がそういった戦い方をするのは、彼がチャンスの厄介な部分を引き出さないようにしているのではないか、イリーナはそう思ったのだ。
じっと、若葉の顔を見る。
「何?」
「なんでもないわよ」
能天気な顔。
こいつもそんなに頭を使うほうじゃないな。そう思った。
ジュデン闘技場の東側の控え室。計8名の戦士が、出番を待って待機していた。
その中には、チャンスの姿も。
「はあ……」
ため息をつくチャンスに1人の中年戦士が声をかけてきた。
「兄ちゃん、外国人枠かい?」
「ん、まあね」
「へえ……今年は外国人枠厳しいらしいね?去年から1枠減って、たった1つを争うんだからな」
チャンスが不機嫌な理由のひとつはそのことだった。1年ぶりに来てみたら外国人枠が枠がひとつだけになっていた。おかげで、昨年の倍の苦労をして本線まで勝ち上がったのだ。
そして、彼にはもうひとつ不満があった。
チャンスがここにいる理由。それは、ロミナと最後にこの闘技場で打ち合うためだ。理想を言えば、ジュデントーナメントの決勝で、幼なじみのふたりが激突――
の、はずだったが、
「チャンスさん、1試合目が始まります。闘技場のほうへどうぞ!」
係員の若い男が控え室に入り、チャンスを呼び出す。
1回戦、1試合目であった。
「何で俺たちが1回戦で当たるんだ!」
「ひぃっ!知りませんよ!俺下っ端なんすから!」
「ちっ、さっさと偉くなれよ?」
「はあ……がんばります」
トーナメント出場は通算3度目なのだが、チャンスはなぜか妙な貫禄たっぷりだった。
「それじゃあ行くぞ」
「は、はいっ!」
長い廊下を進んでいくと、やがてその先に光が見えた。廊下の先で立ち止まり、ひとつ深呼吸をする。そして、闘技場内へ踏み出す。
闘技場に現れると、いつもと代わらぬ大きな歓声が聞こえた。野次もいくつか混じっていたが、それは彼らの礼儀のようなものだ。
ロミナはすでに闘技場の中央に立って待っていた。さすがに1年以上ジュデンでやってきただけに、堂々としていた。チャンスがつかつかと歩み寄る。
「場慣れしてるな」
「ここまで自分を持ってくるのに、1年以上もかかったのよ」
「自分のペースで感覚つかんでいけばいいんだよ」
「そうね」
初戦は観客が非常にエキサイトするため、主催側はその熱気が一段楽するのを待つ。だから、初戦の開始の合図はなかなかかからない。先ずはお披露目、という意味もある。
超満員の客席。その中央にたつのは、ふたりだけ。
「こんなにいい景色、きっとほかに無いわ」
「そうだな。今日で終わりなんてもったいなくねえか?」
「アンタがやめろって言ったんでしょ?」
「辛いならやめろ、とは言ったけどな。おめーの気心が変わるのまで知らねえよ」
呆れた表情をして、チャンスの顔を見る。
「アンタって、ほんとに無責任……」
「ふん……」
ふんぞり返る。
「オメエが今日で終わりかどうかは知らねえけど、俺はまた参加するぜ?」
「アンタはずるいね」
「そーだな。ずるいついでに言えば、また参加したときに、知った奴の顔があったらたぶん、すげー嬉しいと思う」
「……ほんと、呆れた男。アンタのためにあたしにトーナメントに出続けろって?」
「そうだな」
「そういうセリフはもう少しいい男に言われたいもんだわ……」
苦笑して肩をすくめるロミナ。
「やめないわよ……」
「……へ」
少々予想外の言葉だった。すっぱり割り切って意地でも戻らないと、正直チャンスはそう思っていたからだ。
「だから、やめないって」
「……な、なるほど、とうとう俺のこの野性味あふれる魅力に気づい……ってだれが野生児かっ!!」
「自分で言ったんじゃない……」
「……いいのか?」
「アンタにいわれたからじゃないけどね。わざわざ変な演出までして説得しようとしてくれたみたいだけど……きっとやめられなかったわ」
「…………」
「だからこないだのは、単にアンタに愚痴を聞いてもらっただけね」
「ちぇ……」
それにしても、まだ号令がかからない。会場の熱気が収まらないのだ。それどころか、先ほどより過熱しているようにも思えた。
それは間違いではなかった。観客のうちの何名かが、チャンスに気づいた。去年の今頃、ジュデントーナメントに参加して優勝をさらっていった外国人枠の少年。その勇姿を覚えていた観客が隣の客にそれを伝え、会場内に伝染していったのだ。歓声の中に“チャンス”コールが混じっていたことにチャンスは気づいた。
(去年のあれか……うわっ、みっともねー……)
だけど、悪い気分ではなかった。
ぐるりと、客席を見回す。準備もなしに立ち入ると、きっとものすごい熱気に気圧されたことだろう。
(JTとユーネはどこにいるかな。全然めっけれーねーや。あ、キリエ!あ、あ……ははっ、めちゃめちゃ驚いてるし!)
くすり、と小さく笑う。
「まあいいや。とりあえず今日も勝たせてもらうし」
「言ってなさい」
「さあ、観客が黙るのを待ってはいられねーな」
チャンスとロミナは剣を抜き、刀身を2、3度打ち合わせる。
試合開始の号令は、感覚の熱狂にかき消された。